HOME
>
全文掲載
>
「iPS細胞が示したこと、覆したこと」
八代 嘉美 20140331
小門 穂
・
吉田 一史美
・
松原 洋子
編
『生殖をめぐる技術と倫理――日本・ヨーロッパの視座から』
,生存学研究センター報告22,pp.106-128.
last update: 20140517
1-2 iPS細胞が示したこと、覆したこと
八代嘉美
京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門の八代嘉美でございます。今回このような場所で発表させていただく機会をいただきまして、松原先生、それからいろいろご手配いただいた小門先生、ありがとうございます。今、柘植先生の発表で非常に風当たりの強かったiPS細胞の研究所に在籍しておりますが、今年の4月1日から立ち上がった上廣倫理研究部門という部門の所属です。臨床研究の開始を目前にして、先ほどお話にありましたような胚を壊すということ以外に倫理的な問題があるのか、ということが重要になるのではないか、ということで、そうした問題を先取りして検討、そして提言するために設立された部門です。先ほど松原先生からご紹介いただきましたように、私の元の出身は再生医療の基礎研究、中でも造血幹細胞という幹細胞の一種の1細胞を使った研究をやっていました。そういう出自から、技術的な側面からiPS細胞のあり方を考える、社会との接点を考えるというようなことを研究していますが、今回は技術的な面、科学的な面から、iPS細胞研究というのはどうなっているかというようなことからお話していこうと思います。
iPS細胞ってナニ?
iPS細胞という名前は皆さんご存じだと思いますけれども、これは英語でinduced pluripotent stem cells、人工多能性幹細胞というのがその名前です。平たくいうと大人の体の細胞、私たちの体を覆っている皮膚ですとか、毛髪ですとか、血液ですとかさまざまな細胞がありますが、そういった完全にキャラクターが定まってしまった細胞が、いわば振り出しに戻るような形で、私たちの体を形づくっているすべての細胞をつくれるようになる、そういう性質を与えられた細胞です。実際どういうものができるかというと、これは一番最初に山中先生がヒトの皮膚から樹立したiPS細胞の論文に付された動画ですが、皮膚の細胞だったものがiPS細胞を経て、このように定期的に収縮を繰り返す、いわゆる心筋細胞になりますよというものです。この細胞のかたまりでは、実際に心筋筋肉が行っているような電気信号の伝達がありますし、そもそもこのように自動的に収縮を繰り返すというのは心臓の筋肉が持っている性質そのものです。
「幹細胞」とはなにか?
このように、私たちの体には様々な細胞がありますが、そもそも細胞ってどのぐらいの数や種類があるのでしょうか。大体人間の体というのは60兆個から100兆個ぐらいの細胞があるというふうに言われていまして、さらにどんな種類の細胞があるかというと、具体的な名前はこう、がっと羅列してあるんですけれども、たとえば皮膚の細胞をとっても、表面の角質細胞もあれば、その下にある真皮の細胞とかがあります。血液、とひとことでいっても、赤血球や白血球、血小板に好中球好酸球、といろいろあるわけなんですけれども、こういうものをトータルすると大体250から260ぐらいの細胞が存在していて、こうした細胞がそれぞれの働きをするということで、私たちの1個の人間の体というものをずっと維持しているのです。最初に人工多能性幹細胞、と名前をお話しましたけれども、じゃあ多能性とか幹細胞という言葉はなんですかというお話になってきます。私たちの体の中にも幹細胞というのが存在をしています。体の中にある幹細胞のことは組織幹細胞、あるいは体性幹細胞というふうに言いますけれが、例えば私が大学院のときに研究していたのは血液の幹細胞、造血幹細胞というものです。それは骨の中にありまして、私たちも実は簡単にそのありかを見ることができます。フライドチキンを買ってくると、なかには骨つきのやつがありますね。その骨をぱきっとやると中に赤黒い塊が入っているんですけれども、それが大体ほとんど血液の塊なんです。その中にわずかほんのわずかに入っているのが造血幹細胞という存在です。つまり、血液は骨の中でつくられているんですね。そして、幹細胞というのは根本的には2つの性質をもって定義されます。
1つは自分とずっと同じ性質を持ち続けること。もう1つは自分がほかの細胞をつくり出すこと。例えば造血幹細胞であれば赤血球とか白血球、リンパ球の細胞のようなものをつくることができる。そして、その能力を維持したままの細胞へと分裂することができる。前者を自己複製能、後者を多分化能といいますが、この2つの能力を持っていることが条件です。体にそういう細胞があることで、例えば出血をしてしまっていても自己補充することができるし、脳の中にある神経幹細胞は、新しい記憶をつくるときに分化してネットワークをつくる。そういうことが体の中で起こっているわけです。
各種細胞の「能力」
こうした細胞の能力を図にして整理すると、一番上にある、つまり能力が高いのがいわゆる受精卵、胚です。胚というのは万能の幹細胞と考えることができます。それはどういうことかというと、私たちの体260種類100兆個の細胞を全部つくることができますよという意味で、万能と言われていて、これはtotipotencyという英語が当てられています。そして人間の場合、受精後5、6日ぐらいになると、胚盤胞という段階に進んでいます。シュークリームのようなものを想像していただくといいんですが、シュークリームの皮の部分とその中のクリームの部分にこの胚が分かれています。このクリームの部分が私たちの体をつくっていく細胞の塊で、皮の部分が外側の部分というのはお母さんの子宮にくっついて胎盤になっていく部分になります。クリームの部分、内部細胞塊という細胞のかたまりを取り出して、培養皿の上で培養したのがES細胞ということになります。この細胞もまだ受精卵と近い万能性というのを持っているんですけれども、若干胎盤の細胞へは分化しづらくなる。こういう状況をpluripotency、多能性といいます。
そして、さらに分化が進むと、組織幹細胞、先ほど触れた造血幹細胞とか、神経幹細胞、筋肉の幹細胞ということになって、それぞれの系譜の細胞しかつくれなくなります。そして最後に至るのが、一番下の階層である分化細胞です。神経、血液、筋肉というような最終的に分化した細胞へと変わっていくというような序列になっています。
ヒトES細胞の問題点とiPS細胞の樹立
ES細胞というのは、今お話したように胚を受精後5日ぐらいの胚を壊してその中の内部細胞塊を取り出してできたというもので、臨床応用に際しての倫理的な問題として取り上げられてきたのが、胚を壊すことです。胚は生命の萌芽というふうによく言いますけれども、これを壊して細胞をつくり出すことの問題点は、柘植先生のお話にもありました。もう、1つの問題点として何があるかというと、既に樹立されているES細胞というのは、今現在に存在している患者さんにとっては他人の細胞であるということになります。私たちヒトをはじめ、動物の体、生物の体の中には、自己と他者を見分ける仕組みがあります。細胞の表面に目印があって、それをみわけているのです。ES細胞の場合もそれは同様で、受精卵というのはどこかの女性の子宮に移植をすれば、子供として生まれる可能性があるわけです。当然今生きている人とは別の目印を持っている。つまりES細胞から肝臓の細胞をつくって、移植をしてやっても臓器移植と同じように拒絶反応の対象になってしまうのです。
こうしたES細胞が持つ問題点を解決したい、ということで山中伸弥先生が樹立したのがiPS細胞ということになります。人間の皮膚を取ってきて、そこに遺伝子の運び屋としてウィルスを使い、細胞の中に外側から4つの遺伝子を組み込んでやる。そうすることで、細胞内であらたにタンパク質が作られ、今まで何らかの細胞だったものが、ES細胞のような性質を獲得する、ということなんです。つまり、このiPS細胞の技術ができたことで1つは胚を壊さずに人間の皮膚から多能性幹細胞をつくることができる。もう1つ、例えば患者さん本人の細胞を利用するということをやれば、患者さん本人と同じ細胞の目印を持った多能性幹細胞ができることになるので、例えば肝臓なり神経なりをつくって移植をしても、拒絶されないわけです。この2つの点から、iPS細胞を中心として、再生医療研究が特に注目されるようになったのです。
iPS細胞による再生医療研究はどこまで進んでいるか
では、iPS細胞を用いた再生医療研究というのはどれぐらい進んでいるかというお話ですが、たとえば、慶應大の岡野栄之先生たちのチームによる、脊髄損傷を治療する研究があります。脊髄損傷というのは交通事故とか病気が原因で脊髄に損傷してしまう。脊髄というのは脳と手足を結ぶ糸電話の糸のようなものですので、糸電話の糸が切れてしまうと当然情報のやりとりはできなくなってしまう。その糸電話の糸をつなぎなおす、つまりiPS細胞から糸電話の糸である神経の細胞をつくり出して移植をしてやるということで、ネットワークを回復してやろうというのがこの研究になっています。これはマウスを使ったモデル動物になりますが、マウスの背中の脊髄の部分におもりを落として人工的に脊髄損傷をつくったもので、こちらは対象群で細胞の移植をしていません。このように四肢の連絡が不全となっています。一方iPS細胞由来の神経幹細胞を移植するとこのように上肢下肢の連携がきちんと回復して運動機能が向上するということが確認できます。これはマウスレベルだけではなくて、既に霊長類を使った実験というのも行われていまして、マーモセットを使った脊髄損傷モデル動物実験があります。ヒトiPS細胞由来の神経幹細胞を移植すると、運動性機能を評価した数値化したグラフで示しますと、赤い方が対象群、青い方が移植群ということになってきますけれども、このように有意に運動機能が回復するということが示されていて、霊長類を用いた動物実験レベルでも神経系の再生というのが可能ということが示されています。
一方こちらもニュースで報道されているので皆さんご存じかと思いますけれども、世界ではじめてヒトを対象とした臨床研究として、神戸理化学研究所高橋政代先生たちのグループによる眼科疾患治療、加齢黄斑変性症への適用が行われようとしています。人間の目というのはカメラに例えることができるんですけれども、人間のレンズに当たる部分というのが角膜と水晶体、その後ろにある網膜の部分、これがフィルムになります。その中でも一番重要とされるのが黄斑と呼ばれる部分で、映像を結ぶ一番重要な焦点の部分になります。ここの部分が、たとえば紫外線ですとか化学物質ですとか加齢などいろんな理由によって傷害をうけると、外縁部から血管だとか他の細胞が侵入してしまう。そうすると網膜の組織ががたがたになってしまって最終的には役に立たなくなる。最悪の場合失明に至ってしまうというのが加齢黄斑変性症なんですけれども、この傷害を受けた部分に、iPS細胞からシート状の網膜細胞をつくって移植をするというようなアプローチが高橋先生たちの手法です。これは2013年に厚生労働省の方から臨床研究をやってもいいですよというゴーサインが出て、今リクルーティングが開始されていて、早ければ来年の夏過ぎには1例目が実施されるのではないかというようなことが言われています。一番最初の研究ということでまず有効性よりも安全性を確認するという段階で、一般の患者さんのところにどのくらいの期間で下りてくるということははっきりは言えないのが現状です。ただ、まずこうした病気というのはすぐに新しい治療法だから飛びついてしまいがちなんですが、こうした治療が出てくるまで治療を繰り延べてしまうのが一番最悪で、やはり現在の治療をきちんと継続しながら新しい技術への構築移動していくというふうな対応をしなければなりません。自分は情報発信のような仕事もしているので常に思うのですが、さまざまなメディアはそういうフォローなんかもしてくれたらいいのになということは思ったりしています。
さて、現状を見てみると、iPS細胞を用いた研究はいいことばかり、問題点がない、みたいにも見えますが、実はやはり解決されるべき問題点はあります。技術的な問題点としては、細胞の安全性、例としてあげると「移植した細胞が腫瘍をつくらないか?」という問題があります。これは何をしている図かというと、iPS細胞から神経の細胞をつくってそれをマウスの脳に移植をするという実験をやっているものなんですけれども、同じようにつくったiPS細胞でも、上の細胞のほうは腫瘍をつくってしまう。脳の断面に青く染まっている部分があるのはご確認いただけると思いますし、真ん中のスライドでは赤くなっているところがありますけれども、これはいわゆる腫瘍化をしてしまった部分です。同じようにしてつくっていても下の方はりのようにほとんど何も染まっていないということで腫瘍化は起こってこないと。これは何に起因するかということなんですが、理由はいくつか考えられます。一つはiPS細胞を樹立するときに導入する遺伝子の1つが、がん細胞に関係する遺伝子だということがあって、本来iPS細胞から神経細胞へと分化したのち、外部から導入した遺伝子はロックされて機能しないようになるんですが、何らかの拍子にそのロックが外れてしまうことが確認されています。また、iPS細胞とES細胞は同じ性質を持っているんですが、ES細胞に何も手を加えない、つまり分化させないままで人間なり動物なりに移植するとがん化してしまうんです。また、iPS細胞から神経だとか血液だとかの細胞に分化させても、中にはそのような細胞になりきれずに残ってしまうものがいる。これは分化抵抗性の細胞というですけれども、こういうものが混ざりこんでくると、先ほど述べた性質のせいで、体内でがんになってしまうということが考えられます。ただ、これらの危険性についてはいろいろと研究が進められていて、がん遺伝子を使わないでiPSをつくるとか、先ほどの腫瘍化する分化抵抗性を示す細胞の目印を探して、その目印を持った細胞をよりわけるとかいった研究が進められてきていて、2007年当初のヒトiPS細胞に比べると格段に安全性は向上していています。そうでなければ臨床研究には使えません。
疾患特異的iPS細胞研究
iPS細胞の応用に関しては、今までお話した再生医療的な研究のほかに、疾患特異的なiPS細胞の研究というものがあります。これは何かといいますと、現在治療法が確立されていない、発症機構がまだ完全には解明されていないというような病気が多々あります。そうした難病の患者さんからiPS細胞をつくって、その疾患の原因を明らかにしようというものです。これによって細胞レベル、分子レベルで病気の発症過程を調べたり、どういう薬がその病気についてきくのかということが確かめられるようになります。
なぜこういうことができるかというと、疾患の要因というのが大体この3つの要因というふうに言われていまして、1つが遺伝的な要因、お父さんお母さんから引き継ぐ遺伝的な要因、1つはどこに住んでいて、どういう食べ物を食べてどういう空気を吸ってきたかというような環境要因、そして年を経ることによって細胞が体の中で分裂による遺伝子変異やさまざまなストレスを受けたり、というものが蓄積されることによって起こってくる加齢要因というのがあります。ただ、山中ファクター4つの遺伝子を組み込むと、この3つの要因のうち、遺伝要因以外が初期化をされるということが言われています。例えば山中ファクターを導入することでよく細胞分裂の回数券と言われているテロメアという部分があって、加齢の指標というふうに言われるんですけども、これが初期化をされる。つまり回数券が例えば10回券だったのが3回券まで減っていたのがまた10回券に戻るというようなことが確認されています。
この疾患研究では、例えば脳を対象にするような研究は非常に重要といえます。それはなぜかと言いますと例えばここに示しているパーキンソン病のように、高齢になってから発症する病気では、かなり若いうちから脳の変性ははじまるのに、自覚症状は現れてこない。つまり、病院にかかったときには既に病気が大きく進行してしまっている。そうなってくると、もともとの細胞がどういう状態であったか、どのような過程で変化していったかを理解することがなかなか難しいのです。また、脳というのは人間の体、人間の生命を支える中心的な器官、中枢器官でありますので、脳に直接アクセスするということは非常に難しい。脳腫瘍とかの理由によって、患者さんから細胞が取り出されることもまれにはあるわけですが、対象としては十分ではない。こうした理由によって研究の足かせになっていたわけです。しかし、パーキンソン病にかかった患者さんからドーパミンをつくる細胞を誘導することでどうしてこのドーパミン酸性細胞ができなくなってしまうのかというようなことを研究するというようなことを研究するということが行われています。実際にiPS細胞からニューロンですとか、グリア細胞のようなものを分化するということができるようになっていますし、こうした細胞に用いて実際の病態を再現するという研究が行われています。ある種のパーキンソン病患者において、αシヌクレインというタンパク質が蓄積してくるということが知られているんですけれども、一方でそうしたタンパク質が蓄積しないとされるパーキンソン病もあります。ただ、αシヌクレインが蓄積しないと言われているパーキンの患者さんからiPS細胞を樹立して解析したところ、それが蓄積されるということが確認されました。これだけですと普通に起こらないと言われていたことが起こっているのは、アーティファクトではないのか、何らかの実験的なエラーではないのかというような見方もできます。ただ、細胞提供していただいた患者さんが残念なことにその後亡くなったんですけれども、生前の患者さん、そしてご遺族の方の同意に基づいて脳の細胞の解析を行ったところ、実際にこのαシヌクレインが蓄積をされていることが観察されました。患者さんの脳の中の状態をきちんと再現しているということが明らかになったということ、そしてゲノム情報だけで得られないような病気の知識というものがiPS細胞を用いるということによって新しい知識も得られるようになったということで、iPS細胞は疾患研究にとっても非常に重要なツールになるということが確認されたのです。
「立体的な臓器」をつくること
ここまでは細胞レベルで何かをするというようなお話をしてみました。iPS細胞にしても再生医療という言葉にしても再生という言葉が非常にやはり強い言葉ですので、いろいろな誤解というか、ミスリードというか、そういうものがあります。典型的な例としては、例えば、遺伝子操作によって、この写真みたいにマウスに耳をはやしたりするんでしょう、みたいなお話をたまにお聞きすることがあります。この耳マウスは別に遺伝子改変によってできたものというわけでは全然なくて、発泡スチロールの親戚のようなものにヒト細胞を蒔いて培養し、形ができあがった時点でねずみの背中に縫いつけているんですね。ですから人間の耳をマウスから生やすような研究をしているわけではないんです。
また、iPS細胞を使えば試験管の中で自由自在に例えば心臓だったり、脳だったりすい臓だったりみたいな立体的な臓器をつくることができるんでしょうというような質問をされたりするんですけれども、これまでお話してきたように、現在の研究では例えばすい臓の中のベータ細胞という、インスリンをつくるような細胞、あるいは肝臓の細胞そのものをつくるということはできるようにはなっているんですけれども、立体的な臓器をつくるという研究はなかなか難しいのです。それはどういうことかというと、人間のあるいは動物の発生というのは、10カ月の間、母胎という限られた空間の中で細胞が分裂して増えているわけです。そういう空間的な制約が、立体を形作る要件にもなっているんです。それを平面的な培養皿の上だけで再現するということは、一筋縄ではいかないのです。
ただ、今の説明を逆手に取れば、人間の体や動物の体の中にiPS細胞を置けば臓器をつくれるよね、ということになります。そこに着目したのが東大医科学研究所の中内啓光先生です。そのアプローチとして今ここにお示ししてあるとおりなんですけれども、まず人間の体からiPS細胞をつくっておいて、動物の胚に移植を行います。臓器には、それを作り始めるスイッチ役となる遺伝子があります。それをマスター遺伝子というんですけれども、この遺伝子を破壊してやると、その臓器がつくれなくなるわけです。つまり、すい臓をつくるための遺伝子を壊してやると、そのすい臓の部分だけがぽっかりと空いた動物が生まれることになります。つまり、ヒトのiPS細胞を、マスター遺伝子を壊した動物の胚に移植をしてやれば、空隙となった部分にヒトiPS細胞が入り込んで臓器をつくってくれるのではないか、そういうアイディアです。
このように、外側から胚に細胞を注入して発生する動物をキメラといいます。もう少し細かく言うと、2つ以上の異なった遺伝子型の細胞、あるいは異なった主の細胞同士が一個体の中に混じり合って存在している状態のことを言います。ハイブリッド、雑種というのは、交配によってつくられたもので、黒いマウスと白いマウスをかけあわせれば灰色のマウスが生まれてくるわけなんですけれども、キメラの場合は、黒い碁石と白い碁石を混ぜるようなもので、その2つは混ざることなく、それぞれの細胞がわかれた状態で大人になって生まれてくるというものです。
このようなキメラ動物をつくるテクニックを用いた立体臓器をつくる実験では、マウスとラットを使った実験というのが既に行われています。PDX1という遺伝子を壊すとすい臓がつくれなくなるんですが、このように遺伝子を壊したマウス胚の中に健康なマウスのiPS細胞、あるいはES細胞をインジェクションしてやると、きちんと機能するすい臓ができてくるということは既に確認をされていて、血糖値を下げる効果というのもわかっています。このような方法を中内先生たちは胚盤胞補完法という日本語をつけています。
マウスとマウスというのは同じ種の動物同士なのでキメラができるということはこれまでの実験でよくわかっているお話であったんですけども、では異なる種の間で動物のマウス、キメラがつくれるか。つまり人と豚というのは種としては全然違うものなので、そうした形のキメラができるかということの予備実験として中内先生たちが行ったのがマウスとラットを使うということでした。マウスとラットというのは、どちらもねずみだから同じようなものだというふうに考えられるかもしれないんですけれども、実は染色体の本数が違っている、あるいはあったりなかったりする臓器があるということで、私たちが思うほどは近しい動物ではないと言えます。それで、さきほどのPDX1遺伝子を壊したマウスの胚を使って、ラットのiPS細胞を入れてちゃんとラットのiPS細胞からすい臓ができるかという実験が行われました。写真に示しているように、黒い部分がマウス由来の部分、白い部分がラット由来の部分ということで、もう見た目からしてわかるんですが、この内臓の写真を見ると、緑色に光っている部分というのは、ラットのiPS細胞に光る仕組みを組み込んであるものなので、光っているんですが、右側では全く黒くなって見えていないんです。つまり、ラットのiPS細胞がマウスの中ですい臓をつくりますよということが示せているわけです。またこの細胞を取り出してきて、糖尿病のモデルラットに移植をしてやると血糖を下げることができるということが確認されているので、少なくともマウスラットレベルでは移植のリソース、病気を治療するリソースとしては使えるかなということが示されています。
この次の段階で言えば豚と人のキメラの作出が可能かというようなお話になっていくわけなんですけれども、実は日本においては、動物の受精卵にヒト細胞を入れることはできても、その胚を動物の子宮、当然ヒトの子宮にも移植することはできない、ということが指針で定められています。一方で、アメリカやイギリスにおける人と動物の胚を混ぜる行為というのはどうかといえば、アメリカのナショナルアカデミーが人ES細胞に関するガイドラインを2010年につくっているんですけれども、ここの中で禁止されている研究としては、人のES細胞及び人多能性幹細胞を人以外の霊長類猿の霊長類の胚に移植をするということは禁じています。やはり人間と霊長類というのは同じではなくとも近いということで、こうした実験をするべきではないとしています。また、霊長類ではない動物にヒト細胞を移植をしてつくったキメラの動物でも、生殖系列に寄与する、つまり生殖細胞を形づくる可能性のある移植を行った場合は、その動物同士の交配を禁止しています。ただこの2つというのは禁止というふうに勧告はされているんですけれども、それ以外の研究に関しては申請をして審査をちゃんと受けてくださいねということを述べてはいても、禁止をしてはいません。つまり、キメラ胚を動物の子宮に移植すること自体は禁じられていないのです。またイギリスの方を見てみますと、人の胚をホストにして動物の細胞を移植してはいけないが、動物の胚の中に人間の細胞を入れること、そしてそれを動物の子宮に移植することは禁止をしてはいません。
日本の場合、先ほど言いましたように動物の受精卵の中に人のiPS、あるいはES細胞を入れるということは、認められているんですが、それは樹立してから14日間までというふうに規定がなされていて、人または動物の体内に移植することを禁止というふうになっています。ただこれも平成25年8月1日総合科学技術会議生命維持専門委員会がこの見解を発表しまして、文科省がこれをキメラ胚の移植を禁止しているという指針の見直しの指示を出すというような状況になっています。私はキメラ胚をつくることについては推進をする立場なんですけれども、ただこの総合科学技術会議がこのような見解を出し、指針の改正論議が始まっているにも関わらず、国民の間での議論が喚起されたという形跡が全くないという状況があって、先ほど柘植先生がなし崩し、お話になりましたけれども、そういう形で研究を推進していっていいのかということについては疑問を抱かざるをえません。
iPS細胞がくつがえしたこと
iPS細胞がくつがえしたこと、ということで、最後のセクションに入っていくわけですけれども、iPS細胞がくつがえしたことというのは、1つ大きく言えば、私たちのこういう既に終末分化をしてしまった皮膚の細胞みたいなものが、またES細胞のような性質の細胞に変化できる、ということができるということ自体が常識をくつがえしたことであったわけなんです。これは胚の発生の過程の図になんですが、受精後5日、これは先ほど示した胚盤胞という段階なんですけれども、これがさらに進んで受精後2週間ぐらいになっていくと、もう人間の胚というのはどこの細胞が何になっていくかというのは決まってしまうのです。例えば内胚葉の細胞であればもうすい臓だったり、肝臓だったり、内臓器官にしかなりませんし、外胚葉だったら皮膚や神経にしか変わらない。それは実は精子と卵子についてもこの段階で運命が決まっていて、もう人間の体の中にいる限りはずっと精子は精子のままですし、卵子は卵子のまま、というのがこれまでの常識であったわけなんです。ただこのiPS細胞が示したことというのは、たった4つの遺伝子で、終末分化までいっていた細胞が多能性幹細胞のようになる、というのはまったく常識にはなかったわけです。ただ、細胞の状態を初期化することができる細胞というのは今までなかったかというと、実はありました。それが何かといえば卵子というところになるわけなんですけれども、精子も卵子も、単に細胞に過ぎません。それなのに受精という現象を経ると、からだを形づくる全ての細胞を生み出し、個体をつくり出せるという、いわば特別な細胞だったわけです。これは山中伸弥先生と一緒にノーベル賞受賞されたガードン先生が示したことですけれども、卵子の中に核を移植をするということでその情報がリセットできる。それで個体からまた生まれてくることができるということで、卵子が持っている特別な能力というのが示されていました。生命の誕生というのは宗教においてかなり重要な地位を占める出来事であるんですが、生殖細胞というのも、ある意味分子生物学的、生化学的にも卵子というのは特権化された細胞だったわけなんです。しかし、山中ファクターが卵子が持つ一部の能力をミミックしているわけで、卵子の絶対的な地位というのは融解したということが言えるんじゃないかというふうに思っています。
iPS細胞を「生殖」にもちいること
さらに加えて言えば、iPS細胞から生殖細胞をつくるという研究ももう行われるようになっておりまして、京都大学の斎藤通紀先生のところの研究室ですけれども、ES細胞、あるいはiPS細胞から精子あるいは卵子両方つくり出すということができています。2011年には精子、2012年には卵子という形になっています。もちろんこれは全部を試験管の上でできるわけじゃなくて、前駆細胞という状態までは体外でできるけれども、その後の成熟に関してはまだマウスの体に戻さなければいけないんです。しかし、iPS細胞由来の細胞から生殖細胞ができて個体が生まれ、さらにその次の世代もつくれますよということが示されているわけです。ただ、iPS細胞を用いてこういう生殖細胞をつくるという話をすると、大体クローンのお話と引き合わせて倫理的に問題が、というふうな論調というのは非常に多いわけなんですけれども、そのクローンをつくっちゃいけないという問題に関しても、よく言われる理由としては人間個体の唯一性だとか、生の一回性、ということが論拠にされたりします。平たく言えば遺伝情報をそのまま持っている動物が生まれてくるのはまずいだろう、何度でも人生がやり直せるのはおかしいだろう、というお話なんですけれども、例えばiPS細胞から生殖細胞をつくれば、減数分裂を経ているので、遺伝子の相同組換え、いわば遺伝子のシャッフルが既に行われていて、細胞の提供者とは異なった遺伝子の配列をもつわけです。それができるということであれば、クローン作出を認めないというロジックを用いて、iPS細胞を用いた生殖を否定する言説は、ちょっと惰性にすぎないのではないかと考えています。
生物学的な知識を基盤として考えると、減数分裂を経ているので、ほとんど生体内で起こっているものと変わらないのではないか。また、京大の石川真帆さんがiPS細胞についての道徳的な地位を考察するにあたって引用していたように、道徳的な地位からヒト胚を特権的なものとして論拠として「子を育てる意思」、「子を生みたいという意思」があってはじめて地位が与えられる、というような指摘があったりする。そうした「意思」の観点からiPS細胞を捉えるならば、その前段階には「子をつくりたい」という意思が細胞の提供者、つまり親に当たるひとにあるわけですから、iPS細胞から生殖細胞を分化させることをタブー視する必要もないし、タブー視を大前提として論議をするのもやはり適当ではないのではないのかということを考えております。
先ほど柘植先生の方からiPS細胞を用いる生殖細胞、再生医療についてお話があったんですけれども、今まとめると大体こういうことが問題点としてはあげることができますねというようなお話にはなっております。その推進するにしろ推進反対するにしろ、iPS細胞やES細胞の持つ可能性に瀕する問題というのは、幾つかあって、それは先端の医科学応用に関してそれを実施する際に検討すべき問題と共通するものも当然あるわけなんですけれども、iPS細胞だけが持っている、ES細胞だけが持っているもので均一する問題というのもあります。そういうことを考えていくと、こうしたiPS細胞が持っているような倫理的、法的、社会的問題、いわゆるELSI問題というものについてきちんと配慮していく必要があるのではないかなというふうに思います。最後駆け足になりましたけれども、以上で終わらせていただきます。ありがとうございました。
*作成:
小川 浩史
UP: 20140517 REV:
◇
生命倫理 bioethics
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇