特例法3条1項の規定に基づき男性への性別の取扱いの変更の審判を受けた者は……夫として婚姻することができるのみならず、婚姻中にその妻が子を懐胎したときは、同法[民法;筆者注]772条の規定により、当該子は当該夫の子と推定されるというべきである1。2013年12月、最高裁判所は「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」により、法律上の性の変更が認められた元女性を夫とする夫婦と、提供精子を用いた人工授精(非配偶者間人工授精[Artificial Insemination by Donor; AID])により出生した子との間に嫡出親子関係を認めた。二宮周平は、嫡出親子関係が認められなかった第二審までの経緯を紹介した上で、民法は父子関係の決定に必ずしも血縁を絶対視していないこと、学説の多数説や判例が通常の夫婦がAIDを選択した際、夫の同意があれば子に嫡出推定が及ぶとしていること2を指摘し、平等を求める視点から下級審判決を批判する3。今回のケースは最終的に二宮の見解を支持する形になったが、水野紀子のように二宮と異なる見解を示す民法学者もおり4、最高裁判決の評価も割れることが予想される5。
「『これ[AID;筆者注]を日本でできないだろうか』と、戦後すぐに医局で勉強会を開いたんです。我々が学生のころです。しかも、医学部の連中だけじゃダメで、まず法律がどうなっているか調べましょうといって法学部の先生方も参加して勉強会を毎月開いたんです。それで『現行の戸籍法などでいける』というようなことで、2年ぐらいやって[安藤は:筆者注]ゴーサインをお出しになった。昭和24年8月に第一号ができた。そういうことなんです。その勉強会の結晶がこれですよ」。飯塚の示した『人工授精の諸問題』の構成は図1のとおりである。
飯塚氏が「勉強会の結晶」だと言って私たちに見せたのが、小池隆一・田中實・人見康子編『人工授精の諸問題』(慶應義塾大学法学研究会叢書4)7である。……編者の一人、小池隆一氏が「人工授精によって出生した子どもの身分を、如何に取り扱うべきかということは、私共の研究会において最も議論されたのである」と述べているように、AIDの実施に伴って、当時最も大きな課題とされたのが、民法上、生まれた子どもをどのように位置づけるかという問題であった。これについては、民法772条のいわゆる「嫡出推定」により、「婚姻中に生まれた子どもはその夫婦の子どもとみなす」という解釈が成り立つとされた8。
子供を欲する人間の本能は之を抑制することは、困難である。從つて假にA・I・Dを中心とする人工授精を違法な行為として之を禁止してみても、その効果は充分なものではないと思う。即ち若し法の禁止に違反して人工授精を行つて妊娠したとするならば、當事者を處罰しても大した意味はなく、寧ろ生まれて來た子供に對して適當な處置をする必要が起るのである。この點は、姦通罪を刑法に規定しても姦通を防止し得ないし又生れて來る子供を私生子としても姦通若くは婚姻外の男女の關係の發生を防止し得ないのと同様である。更にA・I・Dを違法とするならば、法の禁止を破る關係上、Donorの素質を吟味することは困難となるから、惡質な子供が生れる可能性が多くなる。又惡德な醫師若くは無資格者の介入によつて、脅迫その他の犯罪を生ぜしめる危険が出て來る。これ等の點を考えるならば、相當な條件を附して人工授精の合法性を認めると共に、之による出生兒の法的身分を適當に定めることが、寧ろ合理的な扱いではないかと思う。29このように小池は消極的な立場でAIDを容認していたかのようにみえる。しかし、論文の最後で「根本論として人工授精を肯定すべきや否やは相當の問題」30であることも認めており、実施の可否について小池の見解は実質的に定まっていなかった。
近代社會における婚姻の本質が「愛の共同體」というところに見いだせるにせよ、なお副次的なものとして生殖機能……を無視し得ない、ともいうべきであろう。……彼等は、相互の人格的「愛」を信じつつ、しかも、子という「愛」の證明をえられないことにおいて、あるいは致命的な「愛」の幻想を感ずることがないであろうか。そしてそこから當事者間に越え難いギャップが生まれ、やがて「愛」そのものの破滅に導かれることすら、必ずしも絶無ではないであろう。このギャップを埋めるための非常手段として求められたのが、「人工授精」という技術にほかならないのである。かくて、「人工授精」はそれが神秘のヴェールをぬいだ、あまりに技巧的な技術であるという、いわば感覺的な點からくる嫌惡感を免れないにせよ、親子關係を創出することにとつて婚姻の‐したがつてまた「愛」の‐基礎を確實にする目的に奉仕するためのものであるとされるかぎり近代的婚姻觀に必ずしも背反するものではない、ということができるのではあるまいか37。このように田中は、子を婚姻の基盤たる「愛」を担保するものと捉え、「感覺的な點からくる嫌惡感」を抱きながらも、「愛」を維持するための非常手段としてAIDを位置づけ、婚姻観に必ずしも反するものではないと主張した。
概念的解釋論からすれば「人工授精」兒は、形式上、夫婦間の出生子……という形をとるのだから、いちおう民法第772條の適用をうけるはずであり……そのまま嫡出子としての身分が確定する、という扱いになるであろう。このように田中は、表面的には子に嫡出推定が及ぶものの、父子の血縁の不在が明白であるため、実質的には嫡出推定を受けたといえず、親子関係不存在確認の訴えにより父子関係を覆すことができる、すなわち、利害関係人ならばいつでも訴えを提起できる、と解釈した。その上で田中は養子縁組を擬制する立場を「養子縁組による嫡出親子關係の發生が、民法上一種の要式行爲の効果として構成されるのにたいして、『人工授精』においては、さような構成が成り立たない、ということを見逃すことはできない。この意味で、『人工授精』は養親子としての成立要件を缺いているといわなければならない。たとえ『人工授精』についてあたえられた同意が、親たる地位の承諾と同一であるとみられるところから、そこに養子縁組意思を推定ないし擬制することが理論上不可能ではないにしても、すくなくとも民法上合法的な養子縁組と同一視することは、ゆるされないであろう」40と否定した。これを受けて、「嫡出親子關係の成立方法としては、『人工授精』に實親子の理論をあてはめるにせよ、また養親子の理論をあてはめるにせよ、民法の構成原理の上で、大きな背理があるといわなければならない。このことは、けつきよく、親子關係の創出方法として、『人工授精』が非合法である──したがつて嫡出親子關係としての法的保護を受けえない──という斷定を導くことになるのではあるまいか」41と主張した。
しかしながら、もし實質的に考えるならば……實親子關係は、當然に親子の血縁が存在しうるであろうという自然的かつ社會的な素材を基礎として成り立つているのである。すなわち、婚姻中の妻は夫の子を懐胎すべき相當の機會があるというそぼくな婚姻觀を前提として、民法第772條の嫡出推定が構成されているのである。したがつて、もし例えば長期間の夫婦の別居、または夫の生殖不能というような婚姻の基礎たるべき自然的かつ社會的事実を缺いている──つまり親子の血縁が絶對に存しえない──場合には、たとえ戸籍の形式上は婚姻の要件をそなえているにせよ、妻の出生子について嫡出推定のあたえられる素地が存在しない、と考えなければならない。かかる見地からすれば、「人工授精」兒は、いちおう形式的には夫婦間の嫡出子として扱われるにしても、實質的に第772條の嫡出推定をうけたものではなく……、その嫡出性は、夫の否認權行使による嫡出否認の訴でなく、一般の親子關係不存在確認の訴によつて爭いうることとなり、「人工授精」兒の嫡出子たる身分は、きわめて不安定のものとならざるをえない。39
この問題が、社會の一部における希少現象に止まつているかぎり、法はあえて積極的にこれに對決することはないであろう。しかし、もしこの問題が比較的普及し、その結果生れ出ずる罪無き子等が、法的秩序の保護の外に置かれる悲劇が増加する可能性に直面するに至れば、立法的解決は不可避となろう。しかし、その立法は、この問題を全體として肯定容認するためのものではあり得ない。46須藤は「希少現象」である限り新立法による規制を求めず、新立法が要請されたとしても、須藤の立場ではAIDの実施を抑制する法が求められた。現行法の下で子と母の夫との父子関係を認めることについては「解釋における客觀的限界を逸脱し、徒らに法の規定を事實に迎合せしめ、法を無秩序や盲目に堕せしめるということは、全く許されない」47と述べるが、他方で現に存在する子、今後出生する子の扱いに関して「問題とは無關係に正當に保護されなければならない子の權利の尊重という問題に對處して、法は如何にして統一的調和を見いだすかという」48課題に直面する。須藤は、この課題に取り組むにあたりまず、嫡出推定の適用可能性を検討する。
父性の推定は夫婦間の同棲……と妻の貞操……との信頼の上に立つてなされるものであるが、AIDについてみると、この第一の要件は形式上具備されている(たゞし、まず夫に授精能力がないのであるから、實質的にはこの要件も殆ど備えてないものといえよう)が、第二の要件については、事實上……全く缺いているので、父性推定の實質的基礎がないものといわなければならない(たゞしAIDの場合、夫の不妊症はあくまでもプロバビリティーの問題に屬するから所謂物理的不能とまでいえないかもしれない)。また嫡出子の意義如何についてみても、有効な婚姻關係にある妻が婚姻中に懐胎した夫の胤たる子、即ち、その夫婦の子であることが可能であることができるような條件下に生まれた子ということになるのであつて、人工授精兒……が、客觀的にみてこの條件に該當しないことは明白である。……AIDは、この點からみて、嫡出推定の實質的基礎をはじめから確定的に缺いているわけである。……結局、AID親子關係は、理論上、かつて嫡出推定を受けたことのない、單に表見的に存在する親子關係……に過ぎないものであるから、この親子關係は何時でも一般の確認訴訟によつて爭われうるものといえよう。……法は、夫に對しては、その子に對するあらゆる法上の義務を囘避せしめないために、できるだけ嫡出親子關係の表面的存續を許すと共に、他方、將來子の希求する利益において、この虚構の親子關係が爭われる餘地を認めなければならない。AIDを行つた夫婦は、合意に基いて違法な子を出生せしめたわけであるから、その子に對しては扶養・敎育に關する自然債務を負うものとみるべきであろう。49須藤は、父子に血縁のないことが明白であるため、本質的に嫡出推定は及ばないとする。さらにAIDを行った責任として夫は子を嫡出子として養育する必要があるものの、父子関係は一般の確認訴訟によって覆すことができると解釈した。つまり、多少アプローチは異なるものの、結果的に田中と同様の立場をとっているかのようにみえる。しかし、続いて「[AIDにより出生した子は;筆者注]民法772條にいう、又は準正による夫婦の子ではない。そこでは父子關係は事實上存在しないのであるから、母の夫が子との間に法的に嫡出親子關係を發生せしめようとすれば、結局養子縁組による他はないであろう」50と記述した。このように須藤は養子縁組を擬制する立場を支持していたとも解釈でき、判断の揺れをみて取れる。