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「イノベーション論の批判的検討にむけて──発明の社会学からイノベーション・プロセスの経済学へ──」

中倉 智徳 20140331 大谷 通高村上 慎司『生存をめぐる規範――オルタナティブな秩序と関係性の生成に向けて』 ,生存学研究センター報告21,pp.239-265.

last update: 20140517


イノベーション論の批判的検討にむけて──発明の社会学からイノベーション・プロセスの経済学へ──

中倉智徳


1 はじめに

 イノベーション概念は,現在の資本主義的発展の主要な構成要素として理論的・実践的に組み込まれているように思われるにもかかわらず,それがどのようにしてそうみなされるようになったのかをわれわれは十分に知らない1).イノベーション概念を「ブラックボックス」として検討なしに使用する現状から距離をとるために,それがどのようにして形成されたのかを知る必要があるのではないか.どのような著者,機関,制度によってイノベーション概念が「新たな資本主義の精神」の主要な構成要素として構築されていったのかを知ることは,現在の社会編成の批判的検討のために必要な予備的作業ではないだろうか.
 本稿では,その導きの糸として,ブノワ・ゴダンBenoit Godinによるイノベーション概念に関する系譜学的研究を参照する2).彼によれば,現在のイノベーション論の特徴は,○1経済成長にポジティブに貢献するという「規範性」,○2政策指向の研究であることからくる,社会経済的問題の〈解決〉としてイノベーションを提示しようとする「遂行性」,○3「技術/市場の中心性」という三つの前提にあるとされる(Godin 2008a).つまり,現在のイノベーション研究は,イノベーションを,経済成長を行なうために必要なもの,それによって何がしかの問題を解決することができるもの,その多くが技術的なものであり,商品というかたちで市場を通じて普及するものとみなしているという.このような規定そのものの妥当性も問われる必要があるだろうが,先ずはこのようなゴダンの規定によるイノベーション概念の特徴を受け入れつつ,それがどのように形成されたのかについて検討していきたい.
 イノベーション概念の端初は,ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターによるものとすることが一般的である.だが,ゴダン(Godin 2008)によって,発明・イノベーションに関する研究の起源は,シュンペーター以前にさかのぼって,ガブリエル・タルドであるとされている3).そして19世紀末から20世紀半ばにかけて,とくに1920〜30年代の「発明の社会学」を中心として発明およびイノベーションをめぐって,発明者中心の「偉人」モデルから,複数のシークエンスに分けられるさまざまなプロセスとしての認識が形成されたことが論じられている.
 本論では,この議論を踏襲しながら,19世紀末のガブリエル・タルドから,いわゆる「イノベーションのリニア・モデル」の確立がなされたとされる1950年代までにかけての,イノベーション概念をめぐる諸動向を検討する.そしてそれらの動向を,発明・イノベーションにおける個人からのアプローチと,プロセスからのアプローチが並行し対抗しながら形成されていく過程として描き出す.それらはいずれも単純に個人のみ,プロセスのみとして論じられるものではなかった.むしろ,社会学者たちによるシークエンスの帰結と,「リニア・モデル」の帰結とは,方向性が大きく異なるものであった,つまり,イノベーションについて,その社会的な適合について論じる方向と,それを経済成長に結びつけて論じていくものという二つの論脈として論じていきたい.

2 シュンペーターによる創始,という議論の相対化

 イノベーションは,18世紀においては新しいものの創造を指す概念ではなかった.ゴダンによれば,新しいものの創造を指す概念は,19世紀頃には「発明」が主として用いられており,イノベーションがそのような意味として理解され,その「真の重要性」を獲得するのは,19世紀末から20世紀の初頭からであるとしている (Godin 2008a: 5).そしてこの発明からイノベーションへの概念の移行が,社会学者によって担われていたという (Godin 2008: 28).例えばゴダンによれば,「最初のイノベーションの理論家」は,19世紀末から20世紀初頭にかけて研究活動をおこなっていたフランスの社会学者ガブリエル・タルドであった(Godin 2008: 26; Godin 2012: 29).また,ウィリアム・オグバーンを代表とするアメリカの社会学者たちが,1920年代から1930年代にかけて,経済学者よりもむしろ,イノベーション研究を包括的かつ系統的に取り組んでいた (Godin 2010: 5; McGee 1995; Kobayashi 2012).
 ゴダンがこのような概念の変化に注目するのは,以下の理由に基づく.たしかにイノベーション研究の「父」と呼ばれるのは,シュンペーターこそがふさわしい.しかし,現在のイノベーション研究にみられる特徴,すなわち,イノベーションを経済成長にポジティブに貢献し,社会経済的問題の〈解決〉として提示し,「技術/市場の中心性」を強調するという特徴は,シュンペーターによってのみ形成されたのではないと考えているからである.そうであるなら,それらのイノベーション研究の特徴の形成は,シュンペーター以外に求められなければならない.とはいえ,それを担ったのは,社会学者たちによるのであろうか.この点についてわれわれは改めて検討する必要があるのではないか.
 先ずシュンペーターのよく知られた議論を非常に簡単ではあるが確認しておこう.彼は1912年の『経済発展の理論』において,ワルラス的な体系の下で経済循環を検討する「静学」と,その循環を超えて経済発展を検討する「動学」という二つの領域を設定する.そして経済発展の駆動因として,企業者による「新結合new combination/neue kombinationの遂行」と,それによる信用創造を挙げた.この「新結合」が,1939年の『景気循環論』において「イノベーション innovation 」と呼ばれるようになった.その「イノベーション」の特徴は,過去のものの組み合わせとされている点,「発明」と峻別される点,そして,以下5つの内容を含んでいる点である(Schumpeter [1912]1926=1977: 100-101=182-3).

  ○1新しい財貨,すなわち消費者の間でまだ知られていない財貨,あるいは新しい品質の財貨の生産.
  ○2新しい生産方法,すなわち当該産業部門において実際上未知な生産方法の導入.これはけっして科学的
    に新しい発見に基づく必要はなく,また商品の商業的取扱いに関する新しい方法をも含んでいる.
  ○3新しい販路の開拓,すなわち当該国の当該産業部門が従来参加していなかった市場の開拓.ただしこの
    市場が既存のものであるかどうかは問わない.
  ○4原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得.この場合においても,この供給源が既存のものであるか
    ──単に見逃されていたのか,その獲得が不可能とみなされていたのかを問わず──あるいは始めてつ
    くり出されねばならないかは問わない.
  ○5新しい組織の実現,すなわち独占的地位(たとえばトラスト化による)の形成あるいは独占の打破.

 以上の点から,彼のイノベーション概念にはそもそも発明とはまったく関係のないものも含まれており,科学・技術との関係は必ずしも明確ではなく,技術中心的であるとはいえない.市場の中心性についても,『経済発展の理論』の時点から,「共産主義」を念頭においた「封鎖経済」においてもイノベーションは発生しうるし,企業者利潤が生れ,経済発展しうると論じていた点からも(とくに同書四章を参照),彼のイノベーション概念が,企業者をその担い手としているにもかかわらず,市場の中心性を仮定したものだと断定するのも早計であろう.さらにシュンペーターの議論において市場の中心性を仮定しうるかどうかにかかわる論点を挙げておこう.後藤邦夫(2002)が指摘するように,クリストファー・フリーマンによって,シュンペーターには二つの側面があり,その一方が市場にかかわり,もう一方は政策にかかわるとされている.企業者を駆動因とした彼の経済発展の理論は,私的なアクターによるものであり,その意味でミクロ理論として位置づけられるとされる(「シュンペーターI」).また一方で,1942年に刊行された『資本主義・社会主義・民主主義』において彼は,イノベーションの特徴として「創造的破壊」を挙げ,資本主義はその発展にともないイノベーションの実行主体を失い停滞していくと主張した.そしてそれを避けるために,国家や社会によるイノベーションの政策的な遂行を行なうことによる再活性化という展望を論じているとみなされている(「シュンペーターII」).ナショナル・イノベーション・システム論などのイノベーション政策でしられるフリーマンらが「ネオ・シュンペータリアン」と自称し、そのように言われる所以は,この国家のイノベーション政策を論じる「シュンペーターII」を継承するという点にあるとされている (後藤 2002: 83).ただしこのような政策論者たちが「継承」したといいうるものの,シュンペーター自身がイノベーション政策論を具体的に論じていたとするのも行き過ぎた仮定であるだろう.しかし,市場だけを念頭において論じていたとすることも,同様に退けられる必要があるだろう.
 また,シュンペーターにおいては,社会的諸問題の「解決」としてイノベーションが論じられていたわけでもなかった.結局,ゴダンの指摘する現在のイノベーション研究の三つの特徴のうち,シュンペーターが創始したといえるのは,一つ目の経済成長と結びつけてイノベーションを論じたという点に収斂されるように思われる.
 以上の点から,ゴダンの指摘した三つの特徴をもった現在のイノベーション研究がシュンペーターによって始まったとするのは,歴史的把握として不十分であることが理解される.そのために,シュンペーター前後のイノベーションをめぐる研究についての歴史的検討が必要なのである.またそのことによって,ゴダンのいう現在のイノベーション概念に連なる動向と,別の動向とを分化させて理解することができるという点に,本論の強調点はある.

3 タルドの発明と模倣の社会学

 すでにみたように,ゴダンは,19世紀末の社会学者ガブリエル・タルドこそが,「最初のイノベーションの理論家」であるとしている(Godin 2008a: 28)4).それはタルドが,発明を,発明‐模倣‐対立というシークエンスをもったプロセスとし,「イノベーションをプロセスとして理解」(Godin 2008: 28)していたからだとする.ここで簡単にタルドの議論を振り返っておこう.
 タルドは,エミール・デュルケムの論敵,「模倣説」や「公衆」概念の提唱者として社会学史上に知られる.「社会は模倣である」という著名なタルドの模倣説は,同時に発明論でもあった.彼にとって,社会現象は常に発明されたものであるか,模倣されたものであったからである.1890年に初版が刊行されたその主著『模倣の法則』において,「社会的にいえば,すべてのものは発明か模倣にほかならない.模倣は川であり,発明はその源流がある山である」と述べている(Tarde [1895]2001=2007: 63=30).タルドにとって模倣は発明と切り離して論じることはできない.ここでは発明されたものは模倣によって普及するということが確認されている.では,タルドのいう発明とはなんだろうか.彼は発明を次のように定義している.
この二つの言葉[発明と発見:引用者補足]が意味しているのは,言語,宗教,政治,法律,産業,芸術といったあらゆる種類の社会現象において,先行するイノベーション innovation にたいしてもたらされる任意のイノベーションや改良perfectionnementのことであり,それがどれほど取るに足らないものであっても,そう呼ばれることになるだろう. (Tarde [1890]2001=2007: 62=29)
 タルドにとって,先行するイノベーションつまり普及しているものにたいして,些細なことでも新たな何かが付け加えられれば,それは発明である.また上記の引用では,発明とイノベーションという両概念の関係が問題となりうるだろう.実際にはタルドは,発明,イノベーション,改良,発見,発意initiatifなどといった概念をほとんど区別なしに用い,とくに発明によって代表させて,それをもっとも多用している.『模倣の法則』第二版序文でも,このように発明概念を拡張させたことを自ら認めてもいる5).むしろ重要なことは,発明は模倣された過去のものの新たな組み合わせからなるという点にある.模倣されたものに発明と模倣について最初に定式化している論文「政治経済学における心理学」(Tarde 1881)においても,次のように述べている.

わたしは発明を,人間の脳内でのイメージまたは観念の新しい(そして効用のある)すべての交雑 croisement として理解している.非常に多くの場合において,他者を模倣している他者によって示唆された観念が問題である.結局のところ,模倣こそが発明の原材料であるからである.(Tarde 1881: 402)
 模倣によって普及された観念が組み合わさり,「交雑」を遂げたとき,また新たな発明となる.この意味で,モデルを提出したMcGee(1995)はそう論じていないものの,タルドの発明論は,かれのいう発明についての「結合/蓄積 combination/accumulation」モデルの端緒でもありうるだろう.シュンペーターの「新結合」も,まさに「結合/蓄積」モデルであるといえ,両者の類似点がみられるが,この点については後述する.
 タルドにおいては発明と模倣は対極にあるものではなく,模倣の新たな「結合」が発明であるというかたちで結び付けられている.このことは,発明する特定の個人(発明者)を超えて,発明と模倣とが独自のプロセスをもっていることを意味する.そしてタルドは,このプロセスを独自の複線的な進化論として把握しており,新たな発明は,受け入れられれば模倣によって広がっていくが,模倣されるもの同士が対立しあうなら淘汰され,うまく結びつけば新たな発明=適応となって再び模倣されはじめるとする.このような動態の局面を,それぞれ反復(模倣),対立(闘争),適応(発明)とよび,進化論的に理解していた.このような発明─対立─模倣という進化論的理解をもって,ゴダンは,タルドを「イノベーションをプロセスとして理解」(Godin 2008: 28)し理論化した最初の研究者であると呼んだのである.
 ただし一方でタルドは,発明は個人によってなされるということの重要性を何度も強調している.これは,論敵であったデュルケムから批判されてもいた.タルドを「科学的反動」(Durkheim 1900: 650)として批判した際に,デュルケムは,発明が個人的な天才,発明者の偶然を自分の社会学の基礎においたとして批判している6).タルドは,このような批判に対し次のように論じている.
ここでは天才の偶然は,観念が考案され,実行されるためには必須のものとなる.しかし,社会の歩みを,全員にとってほとんど変えがたい循環する旅行のようなものとしてみなしている社会学者たちにとって,それはまさに望んでいないものである.……彼らは,偉人たちのかく乱的な作用を無力化し,非人格的な要因によってすべてを説明したいと考えている.天才を抹殺すること,それが彼らの明らかな関心事であった.われわれは,もしここで問題とされているのが天才だけであるとしたら,問題をあまり深刻に考えずにすむかもしれない.しかし実際には,そこで問題とされているのは天才だけではない.そこでは,われわれを含むあらゆる個人のうちに独自性や才能が実在し,作動していることが問題とされているのだ.いかなる立場にいようと,あるいは有名であろうと無名であろうと,人々がなんらかの模倣をするとき,彼らは同時になんらかの発明や改良,改変もおこなっている.われわれの言語や宗教,科学,芸術のなかに,深く目に見えない襞をつくりあげているのは,われわれのなかの一人物だけではないのである.(Tarde 1898 [2005]: 56-57)
 タルドにおいては,発明─模倣のプロセスは,「非人格的な要因」による「社会の歩み」だけではなく,個人の「かく乱的な作用」によってもたらされていると認識されていた.しかしダルドの議論は,有名な発明家たちだけを強調する「発明における偉人理論」ではなかった.むしろ,発明がどんなものであれ,それを実行する有名・無名の「個人」の存在が必須であり,その偶然的な発意は不可欠であると主張されていたのである.そしてこの個人は,けして企業者に限定されるものではないし,経済領域に限定されるものでもなかった.(誰もが発明者であるとするこの仮定によって,イノベーション論や発明論は,科学技術政策にとどまらない,社会編成全体の問題にかかわるものとしてみなすことができるようになるという点において,現在の発明論をめぐる大きな論点になりうるだろう).

4 発明とイノベーション──タルドとシュンペーターの類似と差異

 ゴダンがタルドを「イノベーションの最初の理論家」と呼ぶ研究上の意義は,シュンペーターこそがイノベーションの最初の理論家であるとする通説的理解に対する異論を提出しているという点にある.実際,シュンペーターとタルドの対比は,──まさにイノベーション概念が上昇してくる時期から──幾度も行われてきた.ここでは,タルドとシュンペーターとの対比を,その類似性と差異に注目しながらみていこう.
 シュンペーターのイノベーション概念の起源をもとめてさまざまな研究がなされてきたが(Ruttan 1959),その起源の一つをタルドに求めるものとして,タルドとシュンペーターの類似性を指摘する研究がこれまでなされてきた.例えばアドリアン・タイマンズの古典的研究 (Taymans 1950),そして近年になってミカエリデスらの研究 (Michaelides & Theologou 2011)などがある.彼らは,もちろんその強調点や影響関係への慎重さはあるものの,いずれもシュンペーターにたいしタルドの先駆性があるのかどうかをみるために,シュンペーターからみたタルドの類似点を検討しているといってよい.しかし,彼らは主としてタルドの社会学理論ばかりに依拠し,発明と模倣のプロセスを前提としつつ独自の経済理論を構築した『経済心理学』を十分に検討していないために,不十分なものとなっている.両者の類似性や先駆性を評価するためには,経済理論のなかで検討しなければならないだろう7).ただし,その課題は別稿にゆずるとして,ここではタルドとシュンペーターの類似と相違を,本稿の関心に沿って発明とイノベーション概念の差異から概観しておこう.
 すでに述べたように,タルドにおいては,発明もイノベーションもとくに区別されることなしに,既存のイノベーションに対して,どのようなものであれ新しい何かを付け加えるものと論じられていた.しかし,周知のとおりシュンペーターは,イノベーションと発明とを峻別し,前者に独自の意味を与えている.シュンペーターは,1939年の『景気循環論』のなかで,次のように論じている.
イノベーションはわれわれが発明とみとめるものがなんらなくとも可能であるし,発明は必ずしもイノベーションをもたらさないが,……経済的に関係ある結果を独力では全然うみだしもしない.……発明の要素を強調したり,発明でもってイノベーションを定義したりすることは,経済分析にとって重要性のない要素を強調することになる…….(Schumpeter 1939=1958: 121-2)
 シュンペーターにとって,発明とイノベーションは切り離して考えられなければならない8).「発明をすることとそれに対応するイノベーションを遂行することは,経済学的にも社会学的にも,二つの全くちがったことがらである」(Schumpeter 1939=1958: 122)としている.要するに,シュンペーターにとっての発明は新たな発想をもたらすものであればなんでもよい.しかしイノベーションは,むしろ,新商品の導入,商品生産についての技術上の変化,新市場や新供給源の開拓など,「経済生活の領域での『ちがったやり方でことを運ぶこと』」(Schumpeter 1939=1958: 121)であり,企業者によって実現されるべきものなのである.それゆえ,イノベーションは,資本主義社会においては「純粋に事業活動上のことがら」であり,経済発展をもたらす主要因の一つなのであった.
 タイマンズも,タルドの発明概念と,シュンペーターのイノベーション概念とが大きく異なっていることは認めており,これらの二つの概念の直接的な影響関係を特定するといった「危険な仕事」をするつもりはないと述べている.しかしこのように述べつつも,タルドの「理論的発明」と「実践的発明」という区分 (Tarde 1902c)を,シュンペーターにおける発明とイノベーションという区分に重ね合わせることで,結局のところ両者の類似性を論じている(Taymans 1950).この点に絞っていえば,その後の先行研究においてもタイマンズの見解は十分に検討されていない.タルドの「理論的発明」とは,「神話学的な概念,哲学的体系,仮説,科学的発見」を指すものであり,「実践的発明」とは,「言語でのイノベーション(新語)」であり,儀式,産業,軍事,政治,司法,道徳,芸術,文学といった各分野でのイノベーションであるとされている(Tarde 1902c: 564).ここでのタルドの「理論的発明」と「実践的発明」という区分は,この論文以外ではほとんど用いられていない区分であるため,区分を分けている線が見えにくいが,シュンペーターの想定した発明と,それと区別されるイノベーションという区分とはことなっている.
 そして,タイマンズが類似を読み取ろうとしたもう一つの点がある.タルドは発明を「指導的で directrice ,決定的でdefinitive,説明的な explicatif 力」(Tarde 1902c: 561)であるとしている.それに対しシュンペーターは,企業者がイノベーションを実現するために必要なのは意志であるとしていた.これらのことからタイマンズは,タルドの発明概念とシュンペーターのイノベーション概念のあいだに,類似性を見出そうとしている.しかし,タルドのいう力は,社会変動にたいする発明の「力」として説明されているのであり,企業者による営為はその一部でしかない.結局のところ,先行研究が指摘する点においては,タルドの発明概念と,シュンペーターのイノベーション概念は異なっているといってよいだろう.
 さらなる両者の相違点として,小林大州介(Kobayashi 2012)も指摘しているように,シュンペーターは,経済学を心理学によって基礎付けるべきであるという立場を「最も鮮明に述べた者」としてタルドの名をあげ(Schumpeter 1908=1983: 下・371),次のように完全に否定している.
経済学と心理学との間には,認識論的にも実質的にも,われわれの成果に到達するために心理学の助けを借りねばならないような類の関連はまったく存在しない,と.(Schumpeter 1908=1983: 下・375)
 このようなシュンペーターのタルドへの評価は,「純粋経済学」を独立した科学とする彼の立場からは当然のものであった9).タルドは,発明と模倣のプロセスの分析を行う学を「間-心理学 inter-psychologie」と呼ぶようになった(Tarde 1902a).そしてこの「間-心理学」を基礎にして,自らの社会学を,道徳学,法律学,経済学,政治学を含む,「一般社会学」として構想していた.つまり,タルドにとっては経済学は「間-心理学」に基づく社会学の一部でしかない.さらに言えばタルドの一般社会学は,経済学を含んでいるというだけではなく,当時の経済学に対抗して構想されていたのであり,社会を競争的にではなく,協同的なものへと変容させていくことをその目的としていたのである(中倉 2011).このようなタルドの経済学の心理学による基礎づけは,シュンペーターにとっては,独立した科学として経済学を確立するという彼の意図に完全に対立しており,まったく許容できないものであったのである.
 このようにタルドとシュンペーターの議論は,発明またはイノベーションとして新たなものの創造を論じながらも,その目的や方向性についてはまったく別のものであったと言わなければならない.タルドの一般社会学が,社会を競争的にではなく協同的なものへと変容させていくものとして構想されていたのだとしたら,シュンペーターは,資本主義の発展という動態の原理的解明のために,発明概念から切り離してイノベーション概念を彫琢したのである.この差異を乗り越えて,両者の類似性を強調しすぎることには注意しなければならないだろう.
 この差異は,間接的なタルドからの影響のもとで,アメリカ社会学において1920年代から30年代にかけて議論された「発明の社会学」の展開にも影を落としている.次節でみてみよう.

5 タルドから「発明の社会学」へ──オグバーン,ギルフィラン

 タルドが初期のアメリカ社会学に対して大きな影響力を有していたことは,例えばロバート・パークの博士論文の研究対象としてタルドが論じられていたこと(Joseph 2001),コロンビア大学のフランクリン・H・ギディングスやスタンフォード大学のエドワード・A・ロスへのタルドの影響関係など(池田 2009: 119-21),すでにさまざまに指摘されている.ここでは,小林も注目するように(Kobayashi 2012),とくにギディングスとの関係が重要である.ギディングスはタルドの『模倣の法則』の英訳の刊行に尽力し,自ら序文を寄せるなどした,タルドとも直接の交流があった人物である.そのギディングスの弟子であり,後にシカゴ社会学において量的分析の研究をより充実させることになるウィリアム・F・オグバーンと,その同僚であるS・コーラム・ギルフィランとが,1920年代から1930年代──大恐慌をはさむ時代──のアメリカにおいて「発明の社会学 Sociology of Invention」を論じている10).このような人的影響関係のほかに,オグバーンとギルフィランの発明の社会学は,「発明のプロセス inventing process」(Ogburn& Gilfillan 1933: 122)に注目している点においても,発明を既存の技術の結合として理解している点でもタルドの議論と共通している.実際ギルフィランは,『発明の社会学』のなかで,「発明は,一連の創造というよりは一つの進化であり,生物学的なプロセスにより類似している」(Gilfillan 1935: 5)として,発明がプロセスであることを強調している.さらに「発明は,「既存の技術 prior art」,すなわち,あらゆるカテゴリーにおいてすでに知られた観念からの新結合new combinationである」(Gilfillan 1935: 6)と論じ.そしてタルドを引用しながらつぎのように述べる.
発明は古いアイデアの新結合であるという原理は,証拠をそれほど必要としないだろうし,それ以上主張する必要もないだろう.……その要素の数は,社会学においてはわれわれが関心をもつ必要がない心理学的な意味を除けば,タルドが主張していたように2つだけではなくて,極めて多数になりうるのである.(Gilfillan 1935: 31)
 このようにタルドを摂取しながら,彼らは発明を,シークエンスをもったプロセスとしてみなし,さまざまに論じていた.当時の発明の社会学について検討した前述のMcGeeも,彼らが発明を「偉大な発明家」によるものではなくプロセスとしてみなしている点,しかし同時に,発明者の革命的な意義を認めてもいる点を指摘している(McGee 1995: 783).ゴダンは彼ら社会学者たちのシークエンスの一覧を表にしている(表1).
 では,実際彼らのシークエンスがどのようなものであったのかの一例を,オグバーンからみていこう.オグバーンは,『社会的変化』(Ogburn 1922)のなかで,発明とその社会的適応 adjustment/不適応 maladjustmentをシークエンスとする議論を展開している.それは著名な「文化的遅滞 cultural lag 」の概念と大きく関わっている.この点についてみていこう.オグバーンは,近代を「物質文化 material culture」の変化が急速になった時代であるという.オグバーンのいう「物質文化」とは,「物質的な事物の使用は,いかなる民族の文化にとっても,極めて重要な一部である」(Ogburn 1922: 4)として,「文化の物質的な特色を強調する」ために用いられている概念である.具体的には「われわれの家,衣服,食料,輸送手段」などが,今日の物質文化の例として挙げられている(Ogburn 1922: 116).つまり,それは技術的な要因がきわめて高いものが多いと指摘することもできるだろう.またこのような「物質文化」は,「発明という手段によって成長するようにみえる」(Ogburn 1922: 140)とされると同時に,「物質文化」が豊かであれば,それに応じて発明の数も増大するという関係にある(Ogburn 1922: 105).この理論に従うなら,発明が増大するということは「物質文化」が成長することであり,「物質文化」が豊かになれば,さらに発明が増大する……という仕方で,変化の加速度が上がり続けることになるだろう.そして,オグバーンによれば,「近代における変化の急速さは,社会的な適応 adjustment の極めて重要な問題を提起する」のである(Ogburn 1922: 200).
 「社会的な適応」の問題は,この発明との相乗効果によって豊かさが加速していく「物質文化」と,それに「順応した文化 adapted culture」とのあいだにおこる.というのも,オグバーンによれば,社会には,発明のように変化しようとする傾向と,伝統や慣習のように変化しないようにする傾向とがある.そのために,発明によって変化していく「物質文化」と,変化以前の「物質文化」に適応した結果として「効用」を有していた「順応した文化」の間に,ズレが生じてしまうからである.このように,発明を原因の一つとする社会的変化に伴う社会的不適応 social maladjustmentを「文化的遅滞」として論じ,それを如何にして適応させるか,調和的にするかという問題に取り組んでいたのである(Ogburn 1922: 200).
 このようなオグバーンの議論は,彼の理論として意義があるだけではなく,政策的な影響力も有していた.オグバーンは,フーバー政権下において,大恐慌後に設置された社会傾向調査委員会(Research Committee on Social Trends)のメンバーとなり,ギルフィランとともに,委員会の調査報告書のなかで「発明と発見の影響」という章を担当している(Ogburn& Gilfillan 1933).なぜ社会傾向の一つとして発明と発見の影響が論じられるべきなのかについて,彼らは次のように述べている.
機械的発明と科学的発見が社会傾向の研究に含まれるのは,それらは純粋に社会的な多くの変化と結びついているからである.こうして自動車の発明とその普及は,郊外の成長を助け,町の拡大を促進し,鉄道運行を減少させ,多くのホテルビジネスの性格を変え,マナーやモラルを変容させ,犯罪を増大させ,家庭での召使い雇用を減少させ,市場領域を変更し,そして石油資源をめぐる国際的困難の原因となった.(Ogburn& Gilfillan 1933: 122)
 この自動車の発明にみられるように,発明は社会的な変化をもたらす.「今日の社会的変化は過去の発明と結びついており,今日の発明が未来の社会的変化の先触れであることはうたがいないであろう」(Ogburn& Gilfillan 1933: 122).それゆえに社会傾向の一つとして発明が調査される必要があるのである.調査報告書では,当時なされていた発明を,TV,ラジオ,セルロイド,X線など多数挙げながらそれぞれの効果effect について論じ,特許数をグラフ化するなどして,発明と発見をめぐる状況を調査している.そして注目したいのは,主要な論点の一つとして,彼らが発明と社会の不適応を問題にしているということである.
機械的な発明が最初にやってきて,特定の適応的な社会的装置 device が後に続くという例はたくさんある.広告はみずからをラジオに適応させた.家族を変えるのは工場である.産業が先ず変化し,学校のカリキュラムがその後に変化する.物質文化が変化した後,順応した文化におこる変化には遅れ,あるいは遅滞がしばしばあるのである.ときにはそれらの遅滞は,産業事故に対する労働者への補償の事例のように,非常にコストの高いものである.高度に統合された社会の異なる部分がばらばらの速度で変化するという事実は,そこに調和の欠如があり,頻繁に深刻な不適応があり,そして,常に,可能な発展を活用することへの失敗があるのである.(Ogburn& Gilfillan 1933: 125)
 このような不適応への対応が,政策的にも求められることとなる.実際には,彼らによる発明と発見に関する政策的な提案は,発明の促進のための施策と,「適応のための遅滞」をどうするか,という提案であった(Ogburn& Gilfillan 1932: 163-6).彼らは,この報告を次のように終えている.
変化し続ける巨大な物質文化への社会のよりよい順応の問題は,そして,この適応における遅れを減らすという問題は,社会科学にとって極めて重要な問題である.発明とその社会的結果を予測することは非常に困難であるように思われる.しかしここまで論じてきた調査は,さらなる研究がいくらかの成功を約束されているということを示している.(Ogburn& Gilfillan 1933: 166)
 彼ら自身が指摘するように,実際にはイノベーションの効果の予測は決して容易なものではないし,彼らが楽天的に望んでいたような「成功」は,現在においてもみることはできそうにない.イノベーションの評価はそれが普及する以前には十全なものではありえず,普及が起った事後にしか困難であり,イノベーションへの評価そのものにも「遅れ」があると言わざるをえない.しかし,ここで注目すべき点は,オグバーンとギルフィランは,発明→適応/不適応というシークエンスによって,発明によって生じる「文化」の変化ゆえに生じる問題への対応を政策的な提案としてまとめていたことである.そしてそれは,経済発展の実現のためにいかにしてイノベーションを創出するかという議論とはまったく異なるベクトルを示しているという点である.ゴダンは,オグバーンをイノベーションという言葉を使うことなしにそれについて論じているとし,イノベーション研究の先駆として評価している.しかしこれまでの議論から,ゴダンの論じるような現在の意味でのイノベーション研究が,社会学者によって創りだされたという議論には再考が必要であるように思われる.

6 イノベーションの経済学の成立──イノベーション・リニア・モデルの登場

 最後に,彼らの「発明の社会学」を参照しつつ,そしてシュンペーターからの強い影響をうけて,イノベーションの「リニア・モデル」が登場してくる過程についてみていこう.この「リニア・モデル」には,「基礎研究→応用研究→開発→(生産と)普及」(Godin 2005)であったり,「基礎研究→応用研究→開発研究→製品化→市場化」(文部科学省『平成14年版科学技術白書』)であったり,さまざまなバリエーションはあるものの,科学における研究から,その発明としての開発,イノベーションとしての商業化,そして生産・販売する過程までを,一直線に結ぶモデルであると概観できるだろう.現在においてはその単純さから引き合いにだされ批判されるものの,ここにおいて科学研究とイノベーションの商業化が結びつき,イノベーション政策の対象が明確なものとなり,科学技術政策の一環として論じることを可能にしたものとして,非常に興味深いものである.
 この「リニア・モデル」の起源は,これまで,(1940年にアメリカ国防研究委員会〔NDRC〕の議長となり,マンハッタン計画の導入期にかかわった)ヴァネヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)の1945年のレポート『科学──終わりなきフロンティア』に起源があるとされてきた(村上2000; 平田2011)11).ゴダンは,これが誤りであると指摘し(Godin 2008b: 13),ルパート・マクローリン12)こそが,真の提唱者であると指摘している.
 ゴダンも前述のブッシュ・レポートはたしかに重要であるという.とくにその一つ,マクローリンがその長を務めていたボウマン・レポートにおいては,「純粋な研究/バックグラウンドの研究/応用研究および開発という分類」が提出され,「重要な新たな産業の発展は,純粋科学の継続的な力強い進歩に第一に拠っている」という議論がなされているという.しかし,「この分類はけっして社会─経済的進歩の説明のシークエンシャルなモデルとしては使われなかった」と指摘している.この分類は,「純粋研究に用いられるファンドと,応用研究に用いられるファンドとの間の格差を評価するためだけ」にもちいられたのであり,「ブッシュは,科学と経済間のリンクを説明する中で,基礎研究→開発(技術)という,イノベーションのリニア・モデルの一部を扱った」に過ぎないものとして,それを先駆的なものとして位置づけるにとどめている(Godin 2008: 13).
 では,マクローリンは,どのようにしてイノベーションのリニア・モデルを構築したのか.彼は,彼が用いることで一般的になった「技術的変化」という用語を用いて,とくにラジオ技術に関する研究を行なっていた.さらに彼の指導の元,MITでは○1「様々な産業における技術的進歩率に反応的な主要な経済的要因を決定すること」,○2「産業において,堅実な技術的進歩と,それとの摩擦によって生じる失業の最小化を行う最もconductiveな条件を決定すること」をめぐって,グループで研究を行なっていたという(Godin 2008: 7).そのなかで,マクローリンは技術的変化について,4つのファクターを挙げるなどしていたもの.その後,前述のブッシュ・レポートから影響をうけて,自分の研究を段階論へと展開させていく(Godin 2008: 7).
 ゴダンによれば,イノベーションのリニア・モデルの誕生は,1951年,US Social Science Research Councilによって組織されたQuantitative Description of Technological Changeというカンファレンスでの,マクローリンの報告においてである13).これは1953年に"The Sequence from Invention to Innovation and its Relation to Economic Growth"として,American Economic Reviewに掲載されている.ここでのマクローリンの報告は,技術的イノベーションの5つのシークエンスを提示するものであった.それは次のとおりである.
純粋科学 pure science→発明 invention→イノベーション innovation→資金調達 finance→受容(あるいは普及)acceptance (or diffusion) (Godin 2008b: 12)
 ゴダンは,「このような「シークエンス」としての技術的イノベーション・プロセスの理論化または図式化は,技術的変化についてのマクローリンの十年を超える研究の結果であった」と,リニア・モデルがマクローリンの研究の成果であることを強調しながら,「この報告は,事実,のちにイノベーションのリニア・モデルと呼ばれるであろうものの理論と全体の議論を最初に論じたものであった」(Godin 2008b: 12)として評価している.
 ゴダンの結論によれば,マクローリンの目的は「技術的イノベーションと経済成長の体系的理論を公式化すること」であり,また,「新たなあるいは改良された製品またはプロセスの商業化」という技術的イノベーションの,いま共有されている明示的な定義」は,彼の示唆によるものであった(Godin 2008b: 22).すなわち,彼は,ゴダンの論文のタイトルにあるように「シュンペーターの影のなかで」,イノベーション研究の基礎を築き上げた,「不遇だが『革命的な経済学者』」(Godin 2008b: 21)として評価している.
 マクローリンの研究は,シュンペーターだけでは説明しえない,現在のイノベーション研究の三つの特性をすべて兼ね備えるものであったから,ゴダンにとっても,本論にとっても重要なものである.このマクローリンのリニア・モデルは,その成立過程においても,意図においても,○1経済成長へのポジティブな影響を与えるものという「規範性」,○2政策指向の研究であることからくる,社会経済的問題の〈解決〉としてイノベーションを提示しようとする「遂行性」(政策指向という点においてとくに),○3イノベーションを技術的イノベーションの商業化として理解している「技術/市場の中心性」を帯びていたようにみえる.
 それはいまもなお生きている「理論」として発展していく端初となった.たしかに,「リニア・モデル」は広範な批判にもかかわらず,あるいはその批判によって,現在も参照され続けている.

7 おわりに

 本論では,19世紀末のタルドの発明と模倣の社会学,シュンペーターのイノベーション論,1920-30年代の発明の社会学,そして1940-50年代へと至るルパート・マクローリンのイノベーションの「リニア・モデル」の登場までを概観してきた.かれらの議論は,発明者をめぐる議論から,イノベーション・プロセスの「科学」への純化を示しているとしてとらえることも可能かもしれない.だがその過程は同時に,実際にはそこにあった現在とは異なるイノベーション論の可能性が削り取られていくことを示す過程でもある.むしろ筆者としては,その削られていった可能性にこそ注目したい.われわれの社会を駆動している動因の一つにみえるイノベーション概念はどのようなものなのか,なぜそれが〈規範性〉を有してしまうのか.このような概念史による検討だけではなく,その規範性を相対化するような,さまざまな批判的検討が行われてしかるべきであるように思われる.人間が労働力としてではなく,その発明し,模倣する能力としてみなされたとき,それらを利用する,それらによって社会,経済が変化していくということはどのようなことなのかを,社会科学において改めて検討する必要があるだろう.本論はこの意味においてはその検討にむけた予備考察にすぎない.今後も,イノベーション概念をめぐってすでにあった可能性を検討すること,そして現代のイノベーションをめぐる概念的布置を検討することが今後も求められるだろう.


[注]
1)日本においてイノベーション概念は,新機軸や新結合として訳されていたが,「もはや戦後ではない」という記述によって知られる1956(昭和31)年の『経済白書』において,「技術革新」という訳語が用いられ,一種の「ブーム」となって定着したことで,独特の進展をみせることとなる.この『経済白書』では,復興需要の低下による世界経済の成長率の鈍化にもかかわらず戦後の工業国が戦前よりも成長している理由の一つとして,「経済政策の高度化」,「大衆購買力の増加による耐久消費財の売れ行き増加」と並んで,「技術革新」が挙げられていた.またその際「技術革新」の典型とされていたのは,「原子力の平和利用」と「オートメーション化」であった.これは四回目の「革新ブーム」とされており,シュンペーター『景気循環論』における「コンドラチェフの波」の議論の強い影響下で書かれたものであろう.その後,星野芳郎を中心として「技術革新」概念は盛んに論じられていくこととなり,いわゆる「技術論論争」の展開の一つを構成していく.その際,星野によって何度も「技術革新の停滞」がすでに論じられていた点も興味深く,現在のイノベーション概念の「中心性」は,決して直線的な発展にとどまらないことが伺える.
  また,「技術革新」について,1965年において大河内一男は次のように論じている.日本における低賃金・長時間労働,そして年功賃金という慣例があり,そこに「技術革新」が生じる.それは労働時間の減少をもたらすものであるはずが,日本ではそうなっていない.そして,年功賃金の実質を担っていた年齢が上がるにつれた習熟による技能の向上が,「技術革新」によってもたらされる新しい技能習得にはむしろ障害となり,その実質を掘り崩している.若年労働者にとって,中高年労働者という「先輩たちによって搾取されている」状況になっており,労働組合はその点で「むつかしい」ものとなっているとする(大河内 1965).これらの状況を検討し,年功賃金から,技能に応じたものへの変更を主張している.大河内の主張そのものというより,労働とイノベーションを結びつける観点を,改めて検討する必要があるだろう.例えば派遣労働の普及は,POSシステムやPCの導入といった,事務に関する労働への「技術革新」とは無縁なのだろうか.池田信夫などのイノベーションに関する論者がことさらに「技術革新」では範囲が狭いと指摘するのは,これらの労働条件や賃金との関係のなかでイノベーションを論じる議論を廃する意味もあるのではないか.
2)ゴダンは,17世紀イングランドにさかのぼり,宗教的な異端者,また政治的な改革者をinnovatorと呼ばれていたというところから論じている.じっさい,例えばデイヴィッド・ヒュームは,イノベーションを「革命」と近い意味──現体制の転覆をめざすもの──として理解し,批判語として用いており,その古い用法において用いている.
3)Moldaschlは,「なぜイノベーション理論は意味をなさないのか」のなかで,「タルドのアプローチは,現在のイノベーションへの途方もない過大評価に対するカウンターバランスでありうるだろう」(Moldaschl 2010: 2)と指摘している.
4)タルドの模倣─発明論の源泉として,アダム・スミスの共感論および模倣論がその一つに挙げられている.スミスからタルドへの影響関係は確かに存在しており,有力な説である(大黒 2012).ここではもうひとつの遠い源泉として,コンディヤックも挙げておきたい.コンディヤックはその『動物論』(1755)において,動物は発明しないというビュフォンの説に対抗して,動物も貧しいながらも発明力を持つと論じる.そして動物と対比させて,人間の模倣をコミュニケーションと結びつけ,人間が差異化するのは社会の中での模倣によってであると指摘している.それだけではなく,模倣と発明とを結びつけて,知識の集積を論じている(Condillac 1755=2011: 87-88).
5)タルドは『模倣の法則』第二版序文において,批判に答えながら次のように述べている.「こちらのほうはもっと正当な批判とおもわれるが,『発明 inventionという言葉』を不当に拡大した」と私を責める人がいるかもしれない.私があらゆる個人的創意 initiativeにたいしてこの語を用いたのは事実である」が,「それでも本書で私がもっとも簡単な部類のイノベーション innovation さえも発明や発見decouverteと呼び,日常語で押し通したのは正しかったと考えている.もっとも簡単なイノベーションがもっとも成果の乏しいものとはかぎらないし,もっとも困難なイノベーションがもっとも有益なものともかぎらないのだから,なおさらそう考えてよいはずである.」(Tarde [1895]2001=2007: 46-47=13)
  タルドは発明の難易度に関して差異があるとしつつ,発明,発意,発見,イノベーションという言葉をまとめて発明・発見と呼んでおり,基本的には区別していない.イノベーションと発明とを別々に定義している箇所は,これまでのところみつかっていない.
6)この点についてのデュルケムによる批判は以下のとおりである.
  「ところで,タルド氏が理解しているようなものとしての発明の科学は存在しない.というのも,発明が可能であるのは,発明者たち,ある発明者,天才のおかげによってでしかなく,それらは,「極めて偶然的なもの」,偶然の純生産物だからである.受精fecondationの二つの要素が「お互いに見分けをつけられず,遠くから合図をすることのないままに出会うだろうのと同様に,それら二つの要素は,賢明な選択がなされることなしに交配されるだろうし,そして,この盲目で偶然的な交配から,発見と発明の源泉である天才的であるだろう誰かの個人的な特異性が生まれるであろう.…長い間,人は,社会学における偶然的なものの役割は,際立っており,比較し得ないほどであると言いうるだろう」というわけである」.(Durkheim 1900: 650)
7)本稿の範囲を超えるが,『経済発展の理論』のシュンペーターは,タルドと非常に近い点を多数もっていることも認めなければならない.その企業者概念,動機理論,資本概念,さらには企業者利潤をめぐる検討をはじめとして,きわめて類似しつつ異なっており,シュンペーターはこの著作ではまったく言及しないものの,1908年の『理論経済学の本質と主要内容』において否定的に言及していたタルドを,改めて乗り越えることを目指しているのではないかと思われるほどである.実際,シュンペーターの『経済発展の理論』(1912)は──この著作ではタルドにまったく言及していないにもかかわらず──,刊行当初からタルドの議論との類似が指摘されている.『経済発展の理論』刊行の翌年に書かれた書評において,McCreaは,シュンペーターの「産業的パイオニアとリーダーたち」が,「経済進化」の駆動因になっていると紹介しつつ「こうして,シュンペーターは経済的進歩の超人による解釈 a super-man interpretationを提示したのであり,その概要は,ガブリエル・タルドの社会学体系とよく似ている」(McCrea 1913: 526)と,やや揶揄的に指摘している.しかし,両者の類似と差異は企業者と発明者の類似にとどまらない.
  少しだけ例を挙げるなら,シュンペーターは,企業者が「新結合の遂行」を行なう三つの動機のうちの一つとして,「仕事に対する喜び,新しい創造そのものに対する喜び」を上げている.そしてシュンペーターによれば他の2つは勝利者意志と,その対価としての私有財産の獲得であり,資本主義社会においては最後のものが最も主要な動機であると指摘する.そのうえで,勝利者意志や創造そのものに対する喜びといった動機の「存続可能性」について,「真面目に考慮さるべき「計画経済」および真面目に考慮さるべき社会主義の一つの根本問題である」(Schumpeter [1912]1926=1977: 上・247-8)と論じている.タルドも,「発明すること,それは大きな喜び joie である」として,その「喜び」を基礎においた,「アソシアシオンの体制」の可能性を検討している.
  また,タルドは競争について,次のように論じている.「戦争形式下においても,商業形式下においても,産業形式下においても,社会的競争は,人間の革新の必要条件であるこの主要な発明のたった一つさえかきたてるには十分でないのだ.産業的進歩や軍事的進歩は,ある戦闘または商業的敵対性から直接的に生まれるのではない」(Tarde 1898[2005]: 11-12) シュンペーターにおいても,競争それ自体は,企業者に「新結合の遂行」を決意させるものではなく,むしろその企業者利潤を失わせていくものであり,新結合の成功を困難にしているものでもある(Schumpeter [1912]1926=1977:下・16).これらを含めた両者の検討は,今後の課題である.
8)シュンペーターは,『景気循環論』において,その発明概念についてギルフィランに依拠していると述べている.
  「必要は発明の母であるかどうかの議論につづいて:中倉]その間,われわれは,たとえばS・C・ギルフィラン氏(S. C. Gilfillan) がその著『発明の社会学』 (Sociology of Invention) 中にのべたようは発明理論を承認してもよいが──筆者は実際問題として実質的にそうしているのだが──,われわれの目的にたいしては別の観点をとるということが指摘されなければならない.この機会を利用して,A・P・アッシャー (A. P. Usher) 教授の『機械発明史』 (History of Mechanical Inventions, 1929) ──本書は筆者から大きな助けをえた──,R・K・マートン (R. K. Merton) の Quarterly Journal of Economics 誌一九三五年五月号の『産業発明率の変動』( Fluctuations in the Rate of Industrial Inventions) をあげておこう.筆者は発明については,ギルフィラン氏の筆者への報告に負うことを謝したいと思う.(Schumpeter 1939=1958: 123)
9)ただしシュンペーターは『経済発展の理論』において,企業者の動機を検討する際に,この前言を覆すかのように,経済学を心理学に基礎づけるのは誤りだが,「逆に,まったく心理学の助けなしに,すなわち観察されうる研究や解明なしに,すべてのわれわれの問題を解決しなければならないという見解は幼稚である」(Schumpeter [1912]1926=1977: 235-236)としている.
10)McGee(1995)は,当時の発明の社会学をめぐる主要人物として,技術史家であるアボット・アッシャー Abbott Usher,ギルフィラン,ジャーナリストで歴史家の Waldemar Kaempffert,社会学者のL. L. Bernard,そして化学技師のJoseph Rossmanを上げている.1920年代から30年代にかけて,彼らは「学派というラベル」を正当化するのに十分なほどであるという.その理由は,「全員が,文化による発明の決定を擁護し,発明者の重要性に反対する議論を行なうために,発明の結合/蓄積モデルを用いている」という,一般的特徴があるためとしている(McGee 1995: 781).
11)平田光司は次のように論じている.
  「戦争終結以前に,すでに大統領は V.Bush に戦後の科学政策について諮問しており,これに答えた Bush の「科学,終わりなきフロンティア」が戦後のアメリカ科学政策の基本となった.これは基礎科学が進歩すれば応用科学の進歩を促し,それが国民に利益をもたらすので,国家は基礎科学に投資する必要がある,というもので,図式的には
  基礎科学→応用化学→社会
 と書ける.関係が直線的なので,リニア・モデルと呼ばれる.」(平田 2011: 308)
12)Rupert Maclaurin(1907-1959):ニュージーランド生, MITの経済学教授を長く務める.第6代MIT学長(1909~20年)だったRichard Maclaurinの息子.1936年MIT助教授,1942年教授.ブッシュ・レポート『科学──終わりなきフロンティア』にも参加.1959年8月,ボストンのホテルの上から飛び降り自殺.
13)このカンファレンスそのものも,当時の発明,イノベーションに関する論者が集まっており,重要である(Godin 2008b).

[文献]





*作成:小川 浩史
UP: 20140515 REV: 20140517
社会学 sociology  ◇経済(学) economics  ◇全文掲載 
 
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