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袋坂ヤスオ舞踏公演「天人五衰」レビュー

村上 潔 2014/03/30

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last update: 20151225


 まずもって、「天人五衰」を演じる/踊るということは、輪廻の座礁と転生の挫折とを身をもって表すことを意味する。そこでは、宿業的生体と、一切の想定された文脈を切断する(攪乱する)鋭い決断の力と意志とが、演じ手に要請される。
 ヤスオは、転生する主人公の系譜を自らが忠実に再現することよりも、転生の外縁に自らの身体を絶えず滑らせ、自らを囲む空間と、自らに変容をもたらす女たちの振る舞いをコントロールする役割を担う。一見受動的に見えるが実は強い「力」を司り、様々な生体に成り変わることができる存在である。よって、奇怪にして不穏である。そして、本作ではさらに、随所で「記号化されたミシマ」がヤスオに仮託される。そこには悲愴感やリアリティはなく、シニカルさと表層感だけがある。
 つまり、ヤスオの身体には、はなから挫折することが宿命づけられている輪廻・転生のルートの外縁を滑る力動の存在感と、記号としてのミシマが同時に組み込まれており、イメージは表裏一体のものとして舞台に向けて提示されるのである。これが本公演のもっとも興味深い点である。
 3人の音楽家たちは、ミシマにも見えず『天人五衰』の主人公にも見えないヤスオの、不穏に変転していく過程を見守り、付き添う。3人は『天人五衰』の、というよりも、ヤスオそのものの輪廻・転生の目論みともがきとその挫折を見届けているのだ。なんとも劇場的であり、一面では実際に三島が演出した現実的状況のようでもある。公演中には、「ミシマ」が向き合ったであろう思想・運動論がキッチュにデフォルメされて挿入されるが、それが完全に異化を狙った――しかし不徹底さが色濃い――ものであるのに対して、生身のヤスオと音楽家たちの関係性が真に「三島」的であるのは非常におもしろい。
 本公演を通じて、ヤスオは、転生の挫折を明示的に描いてはいない。しかし転生そのもの(過程/段階)をざく切りなつなぎで表していることもあり、結果、転生という前提の不確実性や、それによって生じる幻影性は表現されている。別の言い方をすれば、文脈の切断の思い切りのよさは見て取ることができる。それは、話の内容を伝えるという意味では適切ではないが、ヤスオなりの三島への回答とみなせば、理解はできる。つまり魅惑的な物語の「転生」の未練を断ち切ったということだ。
 その表れか、ヤスオの肉体と3人の音は、いつにも増してソリッドであった。それは三島のマッチョイズムとは違った意味で、時代/状況に相対する覚悟の表出と見ることはできるだろう。ヤスオなりの三島への「回答」として、観客はこれを受け取るべきである。そして三島がある種の無常観を湛えつつ表示した転生の挫折とその眩しく美的な高揚感を、舞台上にあったヤスオの肉体にもう一度イメージのなかで重ね合わせてみようではないか。


◆袋坂ヤスオ舞踏公演「天人五衰」
2014/03/28・29 at UrBANGUILD
[出演]
袋坂ヤスオ
みすず
[音]
太田ひろ
Jerry Gordon
ryotaro
┃題名「天人五衰」について
天人五衰(てんにんのごすい)は仏典に現れる語で、六道最高位の天界にいる天人が死の直前に現す5つの兆しのこととされる。能楽「羽衣」では、漁師によって天の羽衣を奪われ天上に帰るすべを失った天人が落胆するさまを「天人の五衰も目の前に見えてあさましや」と謡う。
三島由紀夫最後の長編四部作「豊穣の海」の最終巻の題名となった。この長編の主題は輪廻転生であるが、「天人五衰」では“ニセモノの転生”が問題になる。1970年11月25日、「天人五衰」を入稿した三島はその当日に陸上自衛隊市谷駐屯所で割腹自殺を遂げた。
http://www.urbanguild.net/event/events.html


*作成:村上 潔
UP: 20151225 REV:
全文掲載
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