1990年代末以降の社会正義論の主戦場の一つは,責任感応的平等主義(responsibility-sensitive egalitarianism)の是非をめぐる議論,すなわち責任感応平等主義に対する批判とその代替案の提示,または,それに対する責任感応的平等主義の応答に関連するものである.
運の平等主義(luck egalitarianism)とも呼ばれる責任感応的平等主義は,「分配的正義は,基本的には選択に感応的(敏感)(choice-sensitive)で,かつ,運に非感応的(鈍感)(luck-insensitive)なものであるべきだ」とする考え方である(Tan 2012: 89).こうした主張の要点は,人々の自由な決定や選択を反映しない所得や富の分配や,かれら自身では如何ともしがたい外部的状況(circumstance)を反映した所得や富の分配は,人々を道徳的に同等な存在(moral equals)として扱っていない,と考えるところにある2).
こうした責任感応的平等主義に対して痛烈な批判を与えたのが,エリザベス・アンダーソン(Elizabeth Anderson)であった.アンダーソンは,運の平等主義を──かかる平等主義を「運の平等主義(luck egalitarianism)」と名付けたのはアンダーソンである──,自発的な選択の結果により選択当事者がいかなる過酷な状況に陥ろうとも救済の手を差し伸べない理論であると批判した(Anderson 1999: 295-302).また彼女は,運の平等主義を,補償に値する者を自然的不運の犠牲者(victims of bad brute-luck)として見なすことで,結果的にかれらを哀れな者として蔑んでしまう理論であると批判した(Anderson 1999: 302-7).このアンダーソンが,責任感応的平等主義とは異なる平等主義として提示したのが民主主義的平等(democratic equality)論であった.
それでは,アンダーソンの民主主義的平等論とはどのようなものなのか.またそれは,彼女が批判した責任感応的平等主義とはどのように異なるのか.本稿の目的は,両者の差異について社会に生きる人どうしの関係性をとらえる射程の差異として理解し,その上でアンダーソンの民主主義的平等論を,狭い空間射程と短い時間射程の関係性の理論として定位することにある.
2 先行研究と本稿の構成
アンダーソンが民主主義的平等論を提示した“What Is Point of Equality?”論文(Anderson 1999)については,すでに日本語圏内でも何度か取り上げられている.しかし保田幸子も指摘している通り,その多くは責任感応的平等主義(運の平等主義)とアンダーソンによるその批判について注目するものであり,民主主義的平等論についてはその文脈において簡潔に説明されているにとどまる(保田 2012: 37-8).とはいえ,アンダーソンの民主主義的平等論に焦点を当ててその内容を詳説することは,彼女の理論の全体像を把握するうえでも,ありうべき平等主義的社会のモデルを検討するうえでも重要なことである.
アンダーソンの民主主義的平等論の全体像を紹介・検討した論文として,細見圭子の論文(細見 2011)や保田幸子の論文(保田 2012)がある.前者は,アンダーソンの前掲論文の内容を紹介したにとどまる内容である.一方で後者は,彼女の民主主義的平等論の特徴として,分配尺度としての「潜在能力」(ケイパビリティ),分配根拠としての「民主主義」,分配の評価基準としての「十分性説」を取りあげ,手際よく整理している3).
保田論文は結論として,民主主義的平等論を,運の平等主義のような単なる「分配理論」ではない,「社会関係の理論」であると評価している(保田 2012: 48-9).しかし後述するように,アンダーソンの民主主義的平等論についてのそのような評価は,少なくとも英語圏の論文においては保田の指摘を待つまでもなく,一般的であるように思われる.精確にいえば,責任感応的平等主義と民主主義的平等論の差異に関する評価として一般的というよりも,民主主義的平等論を評価し,責任感応主義的平等主義を批判する側の見解として一般的なものであるように思える.とすれば,民主主義的平等論と責任感応的平等主義を対比するにあたって必要となるのは,民主主義的平等論側の見解を陳述するだけではなく,責任感応的平等主義に理解を示す論者の応答(反批判)をも確認し,そのうえで両者の主張を整理することである.
こうした問題意識から本稿ではまず,(細見・保田論文で紹介された内容と一部重複するが)アンダーソンの民主主義的平等論の内容についてあらためて詳細に確認しておく(3節・4節)4).そのうえで「民主主義的平等論」を,責任感応的平等主義と対比される「社会関係の理論」として位置付ける見解(社会的平等主義〔social egalitarianism〕)について英語圏での論考を取り上げながら確認・検討する(5節).そして最後に,関係性の射程という観点からアンダーソンの民主主義的平等論の限界を指摘する(6節).本稿は,民主主義的平等論を社会関係の理論として定位することを批判するものではない.しかし本稿は,アンダーソンの民主主義的平等(ひいては社会的平等主義)と責任感応的平等主義の対比を,関係理論VS分配理論といった対比でのみ捉えることを否定することになるだろう.
3 自由と社会関係を捉える方法としてのケイパビリティ・アプローチの採用
3.1 自由と平等を両立させる理論として
上述のようにアンダーソンは,責任感応的平等主義(運の平等主義)への対抗として提示した自らの平等理論を,「民主主義的平等」論と名付けている.「民主主義的平等論は,すべての遵法的市民に対して,常時(at all times),自由の社会的条件についての実効的なアクセス可能性(effective access)を保証する(guarantee)ものである」(Anderson 1999: 289)とされている.
具体的にどのようにして「自由の社会的条件についての実効的なアクセス可能性」を保証するかについては本節および次節で後述する.とはいえいずれにせよこのような理論は,「すべての市民」に「自由」の実質的基盤を提供しようとする点で,ジョン・ロールズ(John Rawls)を含めた「リベラルな平等主義(liberal egalitarianism)」の系譜のなかに位置付けられる.ロールズに代表されるリベラルな平等主義とは,以下のような見解をもつ.すなわち,自由に活動をすることをすべての市民に保証するためには,単に諸活動を制限するための制約からの自由(解放)を保証するだけではなく,各々のライフプランを自由に選択できる権利や機会や所得・富などを保証することが必要となる,と考える見解である5).
しかしアンダーソンは,自身の民主主義的平等論を,ロールズの正義の理論と全く同一のものとしては見ていない.とりわけロールズの理論と比した特徴として,確認しておかなければならないのは,彼女の民主主義的平等における平等か不平等かを測る尺度(度量単位)としての「通貨(currency)」は,ロールズのような「基本財(primary goods)」ではなく,「ケイパビリティ(capability)」である,ということである.
ここでのケイパビリティはいうまでもなく,アマルティア・セン(Amartya Sen)のケイパビリティ・アプローチ(capability approach)に依拠している.ケイパビリティとは,彼/彼女らが潜在的に達成可能な〈機能(functionings)〉,すなわち「彼/彼女が行ないうること,なりうること」の集合のことである.そしてその〈機能〉は,資源の多寡だけで決まるものではなく,その人の身体的特性や外部の自然状況やフォーマルまたはインフォーマルな社会制度・社会関係の影響を受けうるものとして定式化されている(Sen 1985=1988: 22).
センが「行ないうることやなりうること」やその集合に注目するのは,「本人が価値を置く理由ある生を生きられる(he or she enjoy to lead the kind of life he or she have reason to value)」自由(Sen 1999: 87)を,重視するからである.センによるケイパビリティ・アプローチは,本人が現に達成している「行ないやありよう」を越えて,さまざまな「行ないやありよう」が達成可能であるという自由を,そして,その達成可能性を支える制度的・社会的条件をも,できるだけ総体的に捉えることをめざしている.
アンダーソンも,ケイパビリティをそのようなものとして理解している.「ケイパビリティ(capabilities)とは,その人にとって利用可能な個人的・精神的・社会的資源が与件として設定されたときに,その人が達成しうる機能の集合(a set of functionings)である.ケイパビリティとは,実際に達成された機能を測るものではなく,〔その人が〕価値を置く機能を達成する自由を測るものである」(Anderson 1999: 316).そしてアンダーソンは近年ではさらに,自身の民主主義的平等論を「ケイパビリティ基底的理論(capabilities-based theory)」を発展させたものであると述べている(Anderson 2010: 83).したがって彼女は,センによるケイパビリティ・アプローチがそうであるように,〈現に達成されている機能〉よりも〈自らが価値を置く機能を達成可能とするような自由〉を重視しているのである.
第1節で指摘したように,アンダーソンの民主主義的平等論は,責任感応的平等主義を批判的に検討するなかで対抗的に提示されたものだった.
ゆえに今度は民主主義的平等論が,自発的な選択の結果により選択当事者がいかなる過酷な状況に陥ろうとも救済の手を差し伸べないという責任感応的平等主義の問題,そして,補償の対象者を自然的不運の犠牲者としてみなして哀れな者として蔑んでしまうという責任感応的平等主義の問題を,避けることができるかどうかが問われることになる.
アンダーソンによれば,市民が,過酷な状態に陥るべきでも,不運によって蔑まれるべきでもないのは,民主主義的社会によって人間間・市民間・協働の担い手社会間の平等な社会関係を保証されるべきだからであり,そのための実質的機会が常時(at all times)保証されるべきだから,である.
4.1 「協働のシステムとしての経済社会」という構想
まずはそのうちの一つ,「協働の生産システムにおける平等な担い手」としての〈機能〉が常時保証されるべきだ,という観点から,彼女の民主主義的平等論において,過酷状況に陥る者も蔑まれる者も発生しない,という理由を確認してみよう.
その前提にあるのは,アンダーソンの,経済社会は協働のシステムであり共同生産のシステムである,とする経済観である.「公正な分業(division of labor)や労働の成果の公正な分割(division of the fruits)を決定するための原理を決定する際には,(その分業に参加している)労働者たちは経済を,協働のシステムまたは共同生産のシステムとして見なす必要がある」(Anderson 1999: 321).
アンダーソンによれば,経済社会とは『ロビンソンクルーソー』の物語で描かれた自己充足的な社会ではない.そうではなく,経済はあくまで協働的な生産システムである.すなわちそれが意味するところは,人々が,すべての経済上の生産物を,すべての人が共に働くことによって共同的に生産されたものとして見做す経済システムである.アンダーソンはこうした観点から,特定の生産物(output)をだれか特定の労働投入(input)のみの成果とすることを,ほかの誰かがなしたことに依存して各人は生産的貢献をしているという協働的生産システムにおける因果の網(casual web)の恣意的切断(arbitrarily cut)であるとして批判する(Anderson 1999: 321).
アンダーソンは以下のように事例をあげて現代経済における「協働性」を指摘する.たとえば,各人の労働するための能力は,他の人々によって生産された膨大な投入物(食品,学校教育,子育てなど)に依存している.市民は,レクリエーションやエンターテイメント産業の労働者にも依存している.なぜならばそうした人々の労働が,他の人々の労働のためのエネルギーや熱意を回復することを助けるからである.ある人の労働の成果は,その人の努力のみによって達成されるものではない.バスケットボールコートをきれいに掃除する人がいるからこそマイケル・ジョーダンは活躍できるのである.数百万の人々は,公共交通機関の労働者がストライキをすれば,仕事に就くこともできない(Anderson 1999: 322).また,ルーティン的な低技能労働に従事している人がいる故に,高生産労働に従事できる人がいるのである.企業の高級役員は,電話応答に答えなくてもよいからこそ儲かる仕事に注力できるのである(Anderson 1999: 326).
現代経済における分業(division of labor)の包括性は,協働なしで何も生産できないことを示している.分業を,協働生産の包括的システムと考えることで,労働者や消費者は,各人の選ばれた役割を果たすことを各人に集合的に委任する者として自らを捉えるのである(Anderson 1999: 322).「こうした観点は,各人は社会における能力と役割の多様性から便益を得ていることを評価するものである.またそうした観点は,組織のトップにいる労働者が社会的生産において偏った貢献をしているという考えも否定し,そして,高賃金労働者と低賃金労働者の格差を縮小させるような互恵性(reciprocity)の構想を動機付けることを助けるのである」(Anderson 1999: 326)8).
責任感応的平等主義のモデルは,事実として,私たちが,各人を平等な道徳的地位を持つ者として,営むべき自分自身の生(own live to lead)を持つ者として尊重しなければならないという観念を捉えることを意図している.自分自身の生を営むために,それゆえ自分自身の企図(project)を実現するために,人々は資源へのアクセスを必要とする.しかし,資源の希少性ゆえに,私たちが為した選択は,他人が利用できる資源の量に影響を与える.私たちは希少性の状況下で,個別の人生を送っている(we are being with separate lives).そのため私たちは,他者──とりわけ,無分別に浪費的だったり向こう見ずだったり,そうした理由で,政策上当然にと補償されるだろうと考える他者──の選択からのある種の保護を与えられる権原の保有者として,各人を尊重しなければならない.(Stemplowska 2011: 130)
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