(1)どう見ても「差別」だと思われるような事例を,その理論は分析・説明できるかどうか.これらは別言すれば,(1)は理論が偽陰性(false negative)を生じさせないかどうか,(2)は偽陽性(false positive)を生じさせないかどうかに関するテストであるとも言える1)
(2)どう見ても「差別」だと思われないような事例をも,その理論が「差別」として検出してしまわないか
どうか.
「私たちは自分たちの直観から自ら構築するモデルを参照しながら,当の直観を修正しなくてはならない.あるいは,信頼度のより高い直観から構築されるモデルを参照して,暗中模索状態にある直観を修正しなくてはならない.どちらの場合においても,直接的にとらえられた道徳と抽象化された道徳とのあいだを,直観的な理解と反省的な理解とのあいだを行きつ戻りつする」(Walzer 1987=1996: 21-22)「差別」についても同じく,より信頼度の高い直観とそれに基づく実践から説明モデルを構築し,それによって当の直観を修正し,あるいは,より曖昧な状態にある直観を修正する,という形になる.もちろん,差別論では具体的事例とそれに対する判断が問題になるので,ウォルツァーやロールズが問題にする理論とはレベルが異なるが,基本的な議論の構図は同じであり,差別論の方がよりストレートにこの方法論を採用しやすい(とはいえ,「自由」「平等」「幸福」「正義」などの理論化も基本的にこの方向性になるだろう).
「第一に,不当ではないものを差別としてしまう.先の人類学者の例を考えてみよう.彼の行為は不当な差別とは呼べないだろう.だがその行為は,一部の人びとによって差別として告発された.坂本の議論の前提と定義に忠実であるならば,告発された人類学者の行為は,差別として同定されてしまう.//第二の問題は逆に,告発の試みが告発となり得るとは限らないということだ」(内藤 2003: 39)ここで言及されている「人類学者の例」とは次のような事例である.
「ある文化人類学者が,あるインディアンの家庭で共に暮らすことになった.ところが彼は,自分の家族をインディアンの指定居留地から離れた白人部落に住まわせた.子どもたちが頼んでも,そこに来ることもインディアンの子ども達と遊ぶことも許さなかった.これを見たインディアンを含む一部の人たちは,人類学者が人種的偏見を示している(不当に差別している)と不平をいった.//ここまでの記述では,確かに,この人類学者は偏見から差別したように見える.しかし実は,このときインディアンの部落には結核が流行しており,彼が共同生活している家庭では,4人の子どもがすでに結核で死亡していた.彼はこの事を知っていたために,ただ自分の子どもを結核の危険から遠ざけようとしていたのである.//つまり人類学者の行為は,彼からしてみれば偏見からの差別ではなく,実際には十分に正当だと納得のいく理由を有していた.読者もこれを差別とは認めないだろう」(内藤 2003: 34 傍点強調は引用者による)この内藤の指摘は,坂本の議論が偽陰性と偽陽性を両方含んでいるという指摘である.ただ,傍点を付したように,「偽陽性」の指摘は,この人類学者の例に関する実質的な価値判断・解釈に基づいているということを,ここで確認しておこう.
「例えば,一市民Uさんが,ただUさんであるというだけの理由で,市の行政サービスを拒否されたとしよう.これは不当性の明白な差別だろう.だが,社会的カテゴリーがかかわるものこそ差別だと考えるならば,これを差別といえなくなってしまう」(内藤 2003: 43)内藤によれば,このUさんの事例は「不当性の明白な差別」だが,「社会的カテゴリー」を用いる議論はこれを検出できない.
「例えば,一市民Uさんが,ただUさんであるというだけの理由で,市の行政サービスを拒否されたとしよう.これは不当性の明白な差別だろう.だが,社会的カテゴリーがかかわるものこそ差別だと考えるならば,これを差別といえなくなってしまう」(内藤 2003: 43)上でも確認したように,この議論の前提は,《この事例を「差別だ」と我々(読者)は判断するはずだ》という内藤の解釈である.「社会的カテゴリー」に基づく議論はこれを「差別」として分類できない(したがってその理論は偽陰性をもつ),という批判の効力は,この事例は「差別だ」という判断が妥当だという解釈に依存している.だが,そのためには,《この事例は「差別だ」》という判断の根拠が必要になる.「一市民Uさんが,ただUさんであるというだけの理由で,市の行政サービスを拒否された」として,とくにそれは「不当性の明白な差別」などではない,と誰もが考えるならば,この批判も力を失う.
ある「社会的顕著集団」に属す人が不利益処遇を受けた.しかし,不利益処遇を行った人は,その人がどんな集団に属すかを知らない状況で,完全に別の基準でその人を他の人よりも不利に扱った.という事例を考えよう.この場合,その人がある集団の成員であるという事実を「理由」にしていないので,この不利益処遇は差別であるとは言えないだろう.これは,不利益は生じているが,「理由」が異なるケースである.
何の「社会的顕著集団」にも属しておらず,むしろ「社会的有利集団」に属す人が,ある場面で「社会的顕著集団」に属していると誤解され,それに基づいて不利益処遇を受けた(しかしこの不利益自体は当人にとってとくに取るに足らないものだった).これは,当の集団の成員に対して直接的な不利益がなくても,社会的顕著集団に属しているという理由に基づいて不利益処遇が生じているケースである.ここで二つの立場に分かれるだろう.