思想に値段をつけることができるだろう.ある思想の値段は高く,ある思想の値段は安い.さて思想の代金は,なにによって支払うのか.勇気によって,とわたしは思っている.(Wittgenstein 1977=1981: 141)
「人称的な連帯」が特定の人々のあいだでのネットワークという形態をとるがゆえに,その生の保障が社会の全域に及ばないのにたいし,「非人称の連帯」は社会保険という制度的な形態をとるため,構成メンバーの生の保障を遍く可能とするという点において安定しているとされる.またそれは制度によって媒介されているがゆえに,保障される側と保証する側の関係が相対的に不可視化され,そのことによって相互のあいだに依存や犠牲といった否定的な感情が生じるのを抑制しうる点で優位性をもっているとされる.(安部 2011: 160-1)このようにしめされる「非人称の連帯(制度化された連帯)」の特長を旧稿では「安定性」と「優位性」として整理したのだが──かつ批判したのだが,それはここでは措く──,それをふまえて注目したいのはこの点にかんする齋藤の認識の推移である.すなわち齋藤(2011)では「安定性」についての言及はないが「優位性」についてはその意義があらためて強調されている5).またそのうえで「制度化された連帯」の難点が指摘されている.
第一に,福祉国家〔制度化された連帯〕においては,人々の相互支援はルーティン化した負担‐受益の関係に化し,それが相互性のある制度であるとはなかなか実感しにくいという問題がある.第二に,福祉給付の実態においては,相互の連帯という面よりも,権力行使をともなう行政という面が前面に出てくる.……第三に,福祉国家の連帯は,自発的なものではなく,強制されたものとして感じられる,という問題がある.人々に求められる連帯の行動は,ほとんどの場合,他者の具体的必要に直接応答することなではなく,税金を納付し,社会保険料を拠出するという迂遠なものである.しかも,それらは法的制裁をともなう義務であり,自らの行動が他者との連帯の行動であるとはなかなか実感しにくい.(齋藤2011: 106,補足は引用者)重要なのは,この指摘をふまえて齋藤の問題意識がつぎのように焦点化されていることである.すなわち「制度化された連帯」はまさに制度によって媒介されているがゆえに,そして強制的な性格を有しているがゆえに「動機づけの欠損(motivational deficit)」という問題を不可避のものとしてかかえこんでいる.のみならず今日では,その欠損は世界レベルでの経済停滞やグローバル経済の進展もあいまってかなり深刻なものとなっている.そしてそれはとりもなおさず「制度化された連帯」が崩壊の危機に瀕していることを意味している.したがって齋藤によれば,だからこそ,連帯という資源をいかにして再生産していくかが重要な課題となる.だからこそ,かかる再生産を支える「動機づけ」が重要な問題となる.すなわち相互支援の義務・責務の遂行という連帯の理念/目的をまさに実効的な規範とするためにもプラグマティックに重要な問題となるのである6).
「市民が形成する連帯──それは間人格的なコミュニケーションだけではなくコミュニケーションのネットのネットによって媒介される関係をも含む──の役割は,政治的公共性における民主的な意見形成─意思形成を,それ自身の熟議にもとづいて意思決定を行い,法を制定する政治システムにつなげていくことである.」(齋藤 2011: 123)J・ハーバーマスの理説に全面的に依拠したこの連帯の規範は「制度化された連帯」と「運動/活動としての連帯」の関係をめぐる考察を梯子にしつつ導かれる.すなわち齋藤によれば,ポーランドの「連帯(Solidarno´s´c)」をその範例とする運動としての連帯は,制度への不正義感覚と被抑圧の共通経験(経験の共有化)によって(連帯へと)動機づけられる.こうした方向性はC・ムフらの「闘技デモクラシー(agonistic democracy)」とも共振するもので,そこでは人々の相互熟議ではなく,感情の民主的な動員,集合的な同一化をつうじた共闘集団の形成と(支配的な)多集団との政治的抗争によって「動機づけ」問題の解決が志向される.
とはいえ,運動としての連帯が制度の具体的な不正義を正そうとし,そのために制度を改革していくことを求めるのであれば,制度へと接続していく回路に開かれている必要がある.実際,制度の外部で行われる運動の多くは,制度のあり方──物質的な再分配のあり方や「生活形式の文法」のあり方──を市民として問いなおしていく活動でもある.(齋藤 2011: 124)すなわち「運動としての連帯」は党派的・闘技的な政治をそれじたい目的とするものではない.齋藤によれば,そもそも闘技/熟議という区分じたいがあくまで分析的なものにすぎず,社会運動の実体を反映したものではない.むしろ「運動としての連帯」は公共の議論をつうじた政治的意思の形成や公共的に審議されるべきアジェンダの設定を喚起することをとおして連帯の規範を支えてきたのである.つまりそれは「闘技・熟議のいずれのかたちにおいても,制度化された連帯との関係においては,その機能不全や副次効果を問題化し,制度の硬直化を防いでいく役割を果たす.」(齋藤 2011: 125)
人称的な連帯においては,連帯への動機づけを得ることは,連帯を成り立たせている目的への関与という面においても,連帯する者どうしの忠誠や愛着という面においても比較的容易だからである(逆に言えば,そうした自発的な動機づけを得ることができなくなれば,人称的な連帯は崩壊するほかない).(齋藤 2011: 117)ここにしめされているのは,すくなくとも「人称的な連帯」は「動機づけ」の点では「制度化された連帯」に優越するという認識である.しかしながら齋藤において,第一に,その優越は「人称的な連帯」が「安定性」と「優位性」の点で「制度化された連帯」に劣位することで,帳消しどころか赤字となる9).また第二に,リベラル・ナショナリズムへの批判点とも重なる点だが,「人称的な連帯」においては「動機づけ」を調達するための感情の紐帯が集合的なアイデンティティにもとめられるのだが,それは望ましくない.そしてこれらが,齋藤においてそもそも「人称的な連帯」が《構想》外の対象として位置づけられる所以をなしていると考えられる.