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「存在論的「障害」論の試み(報告)Ver.6」

加賀谷 はじめ 2013/12/21 「障害受容」について/から考える研究会,於:淑徳大学加賀谷研究室

last update: 20140214

存在論的「障害」論の試み(報告)Ver.6

加賀谷 はじめ  

1 「障害」という糸口

「障害」という言葉が使われるようになった理由とは何か。
仏教では人間の避けられない苦を生老病死に代表させてきた。「障害」という苦はそこに登場してこない。ただ病気自体としてハンセン病や盲目、「つんぼ」、足萎え、などの言葉がみられる。それらはむしろ身体の「欠陥」として扱われてきた
 その理由は、かつては「障害」をもつことは生産に余裕のない社会においては生存の困難を来すことから、問題となる以前にそれらの人々が淘汰されてきたことが考えられる。したがって「障害」という存在が公共福祉の主題となってきた背景には、一定の社会的豊かさ・余裕が生まれてきたことが考えられる。
しかしそれは「障害」が問題とされるようになった背景の説明であって、「障害」そのものへの問いかけの答えとしては十分ではない。問いがはじまるのはそこからである。

1)「障害」の意味
 「障害」とそれらの病気や「欠陥」とはどこが違うのか。「障害」は必ずしも病気によるものだけではない。事故や生まれつきの「障害」も存在する。
 例えば脳性麻痺には原因が不明のものがある、老化によってものが見えにくくなること、階段を上ることが難しくなること、記憶力や注意力の衰えということもある。ではそれらの「欠陥」を示すために「障害」という言葉が必要となったのだろうか
〔1〕「障害」の原因としての環境
 1980年に公表された国際障害分類ICIDHは「障害」に対して、それまでの疾患(医療)中心の立場からより包括的に疾患と人間を捉える視点を提起した。それは「障害」は本人だけの問題ではなくそれをとりまく環境によっても引き起こされる、ということであり、このことは特にその後の国際生活機能分類(ICF)によって明確となった。
 すなわち言い方をかえれば、「障害」を孤立した存在として考えるのでなく、環境の中で・世界との結びつきの中で具体的に考える、ということである。この環境重視の新たな観点から、社会的リハビリテーションの考えかたもうまれたが、しかし、それは歴史的にみると、すでに多くの医師によって実践されてきたともいえる。
 これを極端に押し進めれば、重度障害者生活自立運動の「「障害」は社会的産物である」という主張に達するが、「障害」が環境によって生じるとすれば、これは論理的必然的に導かれる結論である。
*もちろん本人の持つ「潜在的能力」(残存機能)を高めるというリハビリテーション訓練の意義が無いわけではないが、それは限定的であり、それによって解決できる範囲はきわめて限られている。ある意味でそれが限られているからこそ、治癒以外のリハビリテーション「医学」が生まれたといえる。上田敏はリハビリテーションの目的は社会的不利の解決の重要性を指摘している。
〔2〕「環境を変える」ということ
 「障害」が環境あるいは社会的問題だとすれば、「障害」問題はそのような外的な工夫で解決されるということになる。仏陀が「障害」を生老病死と同じように扱わなかったことは当然であったかもしれない。
 しかし、「障害」の問題は環境を変えること、例えば生活上の不便(「障害」)を少なくする工夫によって消滅するのかといえば、決してそのようなことはない。それは現実に人間の身体の複雑さを考えるとき、それをすべて取り除くことは非常に困難であるということがあるし、経験的にもそのような解決が全てでないことがある。それは死の問題についてもいえる。
 死の問題は不死の医療によってすべて解決することができるとするなら、死について考えることはすべて無意味ということになるが、そうだろうか。あるいは人間はただそのような解決の時の到来を待てばいいということだろうか。
 現在、人間は死を生物的に消し去ることが出来ない。しかし、死の存在は死ぬことについて人間は考え、そこから新たな生き方を見出すこと、あるいは生きることにあらためて考えることは決して無意味ではないし、そこに死の問題の解決を見出すことが全く出来ない、ということではないだろう。

2)「障害」を解決するということ
 ただし「障害」を道具としての身体の問題に限るとき、それは部分的に代替可能な部分もあることは確かで、その技術たとえば環境制御装置によって「障害」に対してある種の「解決」をみた例も存在する。(「障害者の日常術」晶文社の上村の例)
〔1〕上村における「障害」の技術的解決
 上村における「障害」は重度頸髄損傷のため感覚運動機能が極度に損なわれたことから生じている。道具として身体を見た場合にはその「障害」の日常生活に対する影響は重大で、ほとんどの活動に介助を要する状態である。したがってその介助を少しでも減らすことはとても重要である。事実、環境制御装置はその問題解決においてきわめて効果的で、彼の日常生活のあり方を一変させるきっかけとなったことは確かである。
 しかし、この場合は注意すべきは、「障害」はその全体をみれば決して環境制御装置によって解決されたわけではない。あるいはこの話をもって、「だから技術的進歩によって「障害」問題は解決できる」ということになるわけはではない。(幻想としての「バリアフリー万能観」)
 環境からの解決という点でみれば。環境制御装置は日常生活の不便の言ってみればほんの一部を補っているに過ぎない。では何が彼における「障害」問題の解決を促したのだろうか。
〔2〕技術的解決とは何か
 まず言えることは、全体としてのさまざまな「障害」の中で、あるいは「障害」の日常の中で、上村自身が「障害」と考えていることと医学的「障害」とは必ずしも同じではない、ということがある。あるいは彼が解決を求めていることと治癒とは同じではないということである。たとえば上村以外の同様な「障害」を持つ人が、環境制御装置があったとしても、実際にそれだけで日常生活がすべて自分一人でできるわけでないことを理由に、その効果をほとんど評価出来ないとしたとしても、それを否定することは誰もできないだろう。
 しかし上村のような例の存在は、そのような技術的視点が「障害」問題の場合にはきわめて重要で、その解決も「障害」の問題の設定のあり方・受け止め方に大きく関わる、というまぎれもない事実であることを示唆している
 このようにみると、「障害」という存在は人により、立場により、見方により、さまざまなあり方、意味を帯びていて、とうてい一律には論じられないということがわかる。だがそれでは「障害」の問題の解決は「人による」といつた、まったく脈絡のない話なのだろうか。
*ある意味で「障害」について語ること、これは客観的に測定できる「障害」が存在するという立場からすれば脈絡のない話である。すなわち「知性」・悟性からみれば理解できないことかもしれない。
*先の上村の例における環境制御装置のもたらしたものの意義には、人間における本来的あり方としての自由の問題が含まれていることをここでは指摘しておきたい


2 実存的問題としての「障害」

 「障害」の問題を考えるにあたって、まずふまえて置かなければならないことは、病気に対する「障害」の日常性である。簡単に言えば、病気は身体の不調で、一次的状態ないし慢性状態にせよ治療を要する状態であるが、「障害」は日常の生活のあり方として日常的存在であることが本質的に異なり、それが「障害」に特有の問題をもたらしている。
 すなわち、病気は病気のない状態と対比して考えることができ、それが病気の本質をなしている。しかし「障害」の問題にはその状態自体が日常であるという意味で、より内在的意味を帯び、それをどのように受け止めるかということが問われ続けるという深刻で普遍的な問題が横たわっている。それゆえ「障害」はそれをかたづけてから・・ということが成り立たないのであり、ここに「障害」問題の存在論的に言えば緊急性・切迫性が存在している。
この点からすると、「障害」には死とはまた異なる重要なテーマがその存在を通して浮かび上がる。それは「障害」が人間のもつ本質的な有限性によって生じている、ということである。しかしこのことは、ただ不死の人間がいないように、「障害」を絶対に免れていると保証されている人間など存在しないということ、あるいはそれは人間が単に生物として身体をもつがゆえである、ということにとどまるものではない、というこが含まれている。

1)人間的存在の範疇としての「障害」
 「障害」は人間(ハイデガー的にいえば現存在)の本質に属している。動物には「障害」は存在しない。ただ機能低下が生じるだけである。「障害」は人間に本質的な存在の一つの様式である、ということにまず留意しなければならない。
 ただし誤解してはならないのは、「障害」が人間の本質に属している、ということは「障害」が事実として人間の誰にも存在している、ということを意味しているのではない、ということである。私たちは「障害」を知らない人間を想像することはできる。それは実際にはまれなことかもしれないが、しかしそれはあり得ないことではない。
 ここで述べていることはそのような経験的なことに関して述べているのではない。すなわち、「障害」の存在を考えるとき、その存在が人間の本質(現存在)と深く関わっているということであり、決して「障害」と健常の境界がグラデーションを成し、連続している、ということを指しているわけではないし、逆に実質的に大きな違いが存在している、ということを指摘したいがためでもない。そもそも「障害」の存在自体が人間の本質的あり方を離れて存在し得ないし、それは実存的意味において解さなければならない、ということである。(グラデーションあるいは中性化して「障害」を解消する見方は、いわゆる知的理解として特殊な見方である)
 たとえば動物が自らの「障害」を意識し、自らを「障害」動物とみなす、ということが考えられるだろうか。もちろん犬にも脊髄損傷は存在するし、それによって歩けない犬が存在することも確かである。しかし、だからといって犬がそれを「障害」として認め、自らを「障害」犬として生きるということがあるだろうか。すなわち、自らをについて何かを知っている、ハイデガーにいわせれば了解している存在だけが、「障害」を認め、その存在を明るみにだすことができる、ということである。
 しかし、ではそのようにして人間が明るみにだす存在とは何だろうか。それは「障害」の存在である。しかし、これは人間が「障害」を認識するということではない。明るみにでるのは、「障害」は存在するということであり、それは人間存在がそれ自身と切り離せないものとして存在へともたらす、ということである。すなわちこの意味で「障害」は、現存在としての人間において生じるところの「事実」としてハイデガーはこれを「現事実」と名付けている。
 「障害」は決してそれ自体で存在するものではない。それを存在せしめるのはいうまでもなく人間という存在(現存在)である。「障害」は現存在によって光を当てられ、照らし出される以外に存在することはない。この意味で「障害」はその存在自体を、環境よりも、脊髄損傷よりも、偏見や差別よりも先に、何よりもそれは現存在によって明るみにだされた存在である。だからそれらの「障害」は現存在の根本機構にその存在自身の根(根拠)を持っている。
*ここでは「障害」が人間存在の全体的あり方に深くかかわっていること、あるいは「障害」の全体性・重大性ということを強調しておきたい。それは「障害」を受容することがその人の人生・生き方に根底的な変化をもたらすことをみればわかる。

2)「障害」の実践的側面
 「障害」は人間とは別個にそれだけで存在しているわけではないとすれば、「障害」は具体的に人間においてどのようにしてもたらされるのだろうか。一般的にいえば「障害」はまず、実践と不可分の関係にある。実践の無いところに「障害」は存在しえない。山はそれをたとえば風景とみてその景色を楽しむならば、そこに「障害」が存在することはない。しかし、その山をこえて向こうの町に行こうとするとき、その山は現実に「障害」として立ちふさがる。
 したがって山を「障害」として存在させるのは人間の意図であるということになる。しかし、それをただ心のなかで思うことはその計画であって、いわば計算上の要素であり、そこで「障害」が実際に露わになるわけではない。たとえばそこで必要なトンネルが地質調査により困難が予想されたとしても、それはただ技術的問題という形をとるだけであって、それが実際にどのような困難であるかは、実際にそれを解決しようとするときにはじめて「障害」として浮かび上がる。
 すなわち「障害」を浮かび上がらせ、存在せしめるのはあくまでも実践においてであり、そこで「障害」は直接把握されるものとしていわば、手応えとして私たちの前に登場する。この意味での「障害」は世界と具体的に関わる人間の存在のあり方がそれをつくりだしているということができる。
 しかし、この場合に「障害」とは決して否定的なことではない。立ちふさがる大きな岩はその向こうに達しようとする具体的意志によって「障害」となるとしても、それはあくまでもそれを支えるのは、そのような強い実践的意志の存在である。この意味でこの場合の「障害」の存在は人間存在のむしろ能動性、挑戦というすぐれて積極的なあり方の一部でしかない。たとえばこの場合の「障害」はむしろ実践のなかで、その動機の一部として「やりがい」となることさえ決してまれではない。難しいからそれに挑戦する、それを解決することの喜びは何ものにも代え難い。
 この点からすれば、本論で採り上げる「障害」は実践と切り離すことができない概念であるという共通性を有しているとしても、そのような実践に必然的に含まれる「障害」あるいは「抵抗」とは異なる側面が「存在」している。すなわちそれは「障害」を「否定としての存在」あるいは「欠性」として単独で存在せしめる別の経験である。
*ただし、ここで重要なことは「障害」は決して単独あるいはそれ自体で成立する事実ではなく、あくまでも人間の行為・実践に対して、それを前提として、それとの結びつきのなかではじめて存在するという事実である。この意味で「障害自体」という見方は根本的に誤っている。
*このような実践にともなう「障害」は、リハビリテーションにおける障害の実践的性格と共通するところがあり、また作業の存在論的意味(さらには作業療法)を論じる上できわめて重要な手がかりを与えるものとして、あらためて検討しなければならない。


3 「障害」という観念

 現存在が「障害」を浮かびあがらせるのは、現存在がたえず自己の存在を了解しつつ存在し、おのれへと向かいつつ存在している、ということによる。そしてそのような存在機構を理解することを抜きにして、「障害」という存在を理解することはできない。逆にいえば、そのようにして開示された「障害」こそ、自己の存在へのア・プリオリ(先験的)な関心の存在をも開示し、またそこに「障害」問題の根源的解決の道が存在している、ということである。
 しかし、ここで注意すべきは本質的に「障害」は先に環境との関わりにおいてみたように「事物的存在」ではない、別の言葉で言えばそれ自体で存在しているのではない、ということに加え、これから考察するリハビリテーションにおける「障害」においては、「比較」という関連づけがきわめて重要な役割を果たしているということがある。そしてこのことはまた「障害」が直観によってもたらされるのでなく、間接的に「比較」を通して得られた「観念」として存在している、ということを意味している。
*この意味でもそのような能力を欠く動物が「障害」者として自己を了解することはありえない。

1)他者との比較・気遣いと共存在
 人間が自己をさしあたって理解するのは、身近な世界を通してである。他人が自分をどう見るか、実際の生活の中で自分が出来ること、出来ないことを通して人間は自己がどのような存在であるかを理解する。これは人間が自己を周囲の世界や人びととの交わりの中で、自己をまず了解する社会的存在・共存在であるということによるが、その前提としてハイデガーのいう人間存在(現存在)における世界内存在という根本機構とその具体的表れである「気遣い」という機制が存在している。
 この他者との比較ということで言うなら、「障害」もそのような<他>との比較によりもたらされ、その比較なしにそれ自体で存在するものではない、ということをあらためて注意したい。すなわち「障害」は直感によって直接与えられるものではなく、他者との比較を通して与えられるものであるということであり、このことは「障害」を論じるにあたってきわめて重要な本質的事実である。
 たとえばこのことは、生まれつき盲目のひとが、自身では自分の盲目に最初は気づかない事実によってもしることができる。生まれつき眼が見えないAさんは、周りの世界を触ることによって確かめていたが、あるとき、美術館で彫刻をさわろうとして姉から「さわっちゃだめ」といわれ、さわらないで分かる世界(見える世界)の存在を知ったという。そしてはじめて自分が眼の見えない盲人であることに気づかされたという。
 すなわち、眼が見えないことが普通であたりまえの世界にいれば、それは他人からみれば不便かもしれないが、もともとそのような生活をしていればそれが不便という思いも生じることはない。だから「障害」は比較するという経験によってはじめて生じる観念であり認識ということになる。
 したがってこの意味では「障害」の解決あるいは克服は価値の転換というより、むしろ他者との関係の問題であり、共存在あるいは人間の根本機構としての内存在、それにかかわる顧慮的気遣いにその原因をみることができる。(
*この問題に関する研究として西倉実季の『顔にあざのある女性たち』があり、これは「障害」は比較を抜きにして考えられないことを示している。
*なお「障害」があたかもそれ自体存在するかに受け止められ、一人歩きをすることの理由を考えるとき、そこで浮かび上がるのは「語る」ということの重要性である。「障害」という言葉が存在し、「障害」が生まれる、「障害」があたかもそれ自体として与えられているかのごとく思ってしまう、ということがある。「障害があるから」という表現でそこからさまざまな想像がうまれ、それを補強する「対策」が為されるようになり、「障害」はより目立ち、主題となり、蔓延するという社会現象が存在する。これは「障害」の「社会現象」(例えばスティグマ)としてまた別の考察を要する。

2)自己における比較・時間的存在としての実存
  人は生まれつき最初から「障害」を持つ存在として生まれるだけではない。「障害」は比較を通して、人びとの間のある違いがそのように着目されることによって産みだされたイメージ・観念であるが、このことは「中途障害」の場合にも同様に考えることができる。
 例えば私がある日、脳卒中に襲われ、半身の手足が突然動かなくなったとする。私はたぶんうろたえ、前後の見境が無くなるかもしれない。しかし私は私の身の上におこった出来事を理解することができる。私の身体はもはや以前の身体ではない。あのせわしくキーボードを軽快に叩いたあの指の素早い動きは完全に失われてしまった。あの町中を散策し、カメラのシャッターを切ったあの日々をもう一度くり返すことはおそらく永遠に出来ないだろう。つまり私は「障害」者になってしまったという現実にいやがおうでも直面しなければならない。それは決して取り戻すことのできない現実である。
 この場合に「障害」という出来事を理解させるのは以前の身体とは異なる身体になってしまった、という私の思いである。私が思い通りに動かすことのできた身体と今のどうすることもできない身体との違いである。その違いが私に私が「障害」者となったという観念を支えている。
 すなわちこの場合に「障害」の存在を知らしめているのは、過去と現在にわたり、現在のうちに過去を、過去の内に現在をみる時間の中に生き、時間的存在としての現存在(人間)の根本機構に他ならない。そのような機構こそ私において「障害」を「障害」たらしめるもっとも根源的な根拠をなしている。


4 「障害」の実存論的構造

「障害」が観念であること、あくまでも比較による存在であることは「障害」は「実体」(他の存在に依存しない独立した存在)ではないこと、相対的な存在であることを意味している。だから「障害」はその定義がきわめて困難であり、基準の統一が不可能である。これは「障害」に関する客観的な国際統計が得られないことに表れている。
 しかし、このことはまた「障害」問題の解決の道を示唆してもいる。すなわち、実存の根本機構あるいは、その現事実性に属すること(属性)であれば、その存在を排除(解消)することは自己否定におちいるがゆえに原理的に不可能である。しかしそうでない、それが偶然的な存在であるとすれば、それは解消すること、取り除くことが可能となる。
 だがそのためには、まず「障害」という観念がいかなる観念か、いかにしてそれが実存の構造から発しているかをその根拠においてみておく必要がある。

1)有限性
 「障害」の経験のなかで示されること、あるいは経験するということの中には、すでに有限的に現存在が実存として存在してということがある。有限的とはこの場合、限界をもつということであるが、これは逆の見方をすれば、それは無限性を了解しているということでもある。すなわち有限性と無限性をともに了解している存在。すなわち両者をその幅において、全体にわたって存在する存在者においてこそ、始めて有限性ということの理解が生じる。
 この有限性はまた、現存在の根本機構である被投性にも深く関わる。すなわち現存在は時間的存在として始まり(誕生)を持つが、誰一人その誕生を自ら創り出してはいないということを経験によらず、ア・プリオリ(先験的)に知っている。このことは死を考える場合に同様に考えることができる。すなわち実存は誰一人死を経験してはいないが、ア・プリオリに死という終わりも存在することをすでに予期している。
 すなわち現存在はこの世界においてすでに存在へと自己を原因としてもたらしたのではなく、投げられた存在、すなわち被投的存在として存在しているのであり、実存の自由とはその中で自らを先へと先駆的に投企する被投企的投企の上になりたっている。
 そのような被投企性こそ、実存がそもそも有限的であることの基礎をなすものである。したがって有限性とは決して身体の限界ということだけに解してはならず、実存の本質的あり方(性格)として理解しなければならない。

2)欠性
 「障害」はそれを広くみれば、有限性によって了解することができる。ただし有限性による理解は「障害」という性格を十分に理解するにはなお不足がある。なぜならそのような有限性は実存に共通の存在であり、「障害」という(特別の)有限性を示すにはふさわしいとは思われない。
 さまざまな「障害」について、精神障害から身体障害、発達障害にいたるあらゆる「障害」に共通することは「欠性」(何かが存在しないこと)ということである。過剰にあること、例えば多動ということも「障害」に含まれるのか、という問題も、その抑制の欠如として理解することができる。「障害」は何かが欠けている(欠性)という存在のあり方を抜きにしては語ることができない。
 しかし、この欠性という存在は、実存の範疇(用語)として理解しなければならない。すなわち欠けていることは、それ自体で見れば、すでに一つの事実として存在しているのであり、その状態だけを見るならそこには何らの欠性(欠損)も見いだすことできない。
 このことは比較ということを持ち出しても変わることはない。なぜならそれは別の違ったあり方が存在するということであり、違うことがただちに欠損した存在となるわけではない。ヒトコブラクダは決してフタコブラクダの欠損ではない。
 すなわち欠損とはあるものが存在しないこととして存在することを了解する存在、すなわち端的にいえば現存在において存在しうる存在の性格に他ならない。存在しないこと、欠けていること、不在の了解、実存の基礎的構造としての現存在の「現」、すなわち存在を露(現)わしめることであり、「障害」が現事実である、ということの真意はここに存在している。この意味に欠性を解すれば、先天的「障害」に対するリハビリテーションという言葉がリハビリテーションに含まれるRe(再び回復する)という意味にそぐわないとして、「ハビリテーション」という言葉がわざわざ用いる必要はないということになる。
 ただし「障害」において欠性は決して絶対的ではない、ということにも注意すべきである。それは死の絶対性に対する「障害」の相対的不可能性・困難という性格である。死と「障害」(生)のあいだには大きな境界がある。したがって「障害」の受容ということも死の受容とは根本的に異なる面がある。「障害」で問われていることは生であって、死という終わりではない。「障害」はまた別の生のあり方のひとつと考えなければならない。
*ここで「欠性」に対して「完全」をあえて対置しなかったことは、先に有限に対する無限を対置したことに反するように見えるかもしれないが、欠けていることをもたらす性格は必ずしも「完全」を基準としていない、という可能性を考えたからである。「障害」を一律に割り切って考えることが難しい一つの事実がここに示されていると思われる。
*「欠性が」それを通して存在を露わにすることについては、廃墟が美術における重要なテーマとして採り上げられていることにも通じるものがある。

3)喪失 
 「障害」は有限性一般、あるいは「変化」や「違い」としてだけあるわけではない。その重要な契機はそれが、欠損や喪失という実存論的な事実を伴っている、ということである。
「欠性」とともに「障害」を正確に表現しようとするなら、それとともに「喪失」ということも考慮にいれなければならない。それは中途「障害」の場合には「障害」はただ「欠性」だけでなく、存在した機能が失われるという体験を伴っているからである。 
 では喪失とは何だろうか。一般的にいえば喪失は人生のあらゆる場面であらゆる人が体験する、深刻な出来事として記憶に刻まれている。特に我が子を失うこと、最愛の人を失うことの喪失感は計り知れない。しかし、喪失はただ単に愛着を抱いた存在が失われるというだけのことではない。喪失は失われた存在が、私の中にはいまだ存在し続けているということによってもたらされる。本当に失われたものは、すでにその失われたという存在さえも失われた場合である。忘れたことさえ忘れてしまう、ということ以上に完全な忘れることがあるだろうか。
 すなわち喪失とは、完全に失われたしまった存在が、しかしいまだに私の中には存在し続けているということに他ならない。あるいはそれが強まればだからこそ、それにしたがって喪失感が一層増すということが生じる。
 このことを片麻痺という「障害」を例にとると、その喪失感の深さが単に麻痺によるだけでなく、外見はそれほど変わらずに残された身体による喪失したという思いの強さが、喪失の存在により影響していることが理解できる。重要なのは機能的な「障害」の程度と喪失感の深さが必ずしも比例していないことであり、外見的には切断に対してある意味で「障害」は軽いようにみえても、片麻痺には喪失という点ではより大きな影響が及んでいるのもその理由による。


5 「障害」から「存在」へ

 「障害」を通して私たちは有限性、欠性、喪失、という実存のあり方にふれてきたが、そのことを検討する中で、私たちがそこに見いだしてきたのは、私たちが有限性であると同時に無限性であり、欠性であると同時に十全性であり、喪失であると同時に失われないものの保持としての不変性・同一性が存在している、ということであった。
 そしてそれは「真正の経験」とでもよべるものへと通じる経験でもありうる。真正とはこの場合、本来的な実存のあり方ということであり、「真理」と言い換えてもよい。
 もう少し具体的にいうなら、身体に「障害」が生じるということは、存在論的に言えばそれまで意識することなく過ごしてきた身体が、それまでとは別の存在として現れるということである。すなわち生きた身体が事物として、実存とは異なる存在としてその姿をあらわすということである。
 このことを道具の故障ということを例に考えてみたい。例えば道具の故障あるいは不具合によって私たちはその道具がそれまで果たしてきた働きにはじめて気づかされる。いまも手元を照らしていたランプが消えることによって、私たちはそのランプの存在がいかに闇を遠ざけてきたかということを実感する。そしてそこから例えば電気のない暮らしを、あるいは生活の仕方について模索をはじめるかもしれない。失われた存在を通して、そこから私たちは新たな自己に直面しつつ、新たなおのれ自身の可能性を見出すかもしれない。その時、障害の経験は「真正の経験」とよぶことができるのではないだろうか。
 実存とは開示する存在である。それはしかし世界・事物だけでなく自己を開示する。さらに開示すること自体を開示する。「障害」は開示する、あるいは「障害」によって開示される。では何を開示するのか。「障害」は端的に言えば、実存の本来性を露わにする。露わにするということはそこに光が当てられ、存在に近づくことが出来るということ、見えるようになるということである。そのものを存在として近づけるようにする、ということである。不可能性や困難と同時に可能性や自由も露わになるということである。しかし開示は同時に隠蔽という形をとることがある。

1)比較と非本来性
 実存とは開示する存在である。それはしかし世界・事物だけでなく自己を開示する。さらに開示することを開示する。すなわち「障害」は開示する、あるいは「障害」によって開示される。ではいったい何が開かれるのだろうか。換言すれば私は「障害」が身体や情動とおなじく実存の被投性という基礎的な実存範疇であることをあらわにする。
 たしかに原理的に現存在はそのあり方を事象(事実)から規定することはできない。私が重大な「障害」を負ったとしても、その事実が私という存在を決定するわけではない。両者の関係は両義的、部分的、「ある程度」という曖昧性を持ち込むことなく、一線を画して厳格に区別しなければならない。
 しかし「障害」は事実ではあるが、それは私をその事実に差し向けるのであり、私自身がつながれている特別な事実である。それは私自身が引き受けなければならない、逃れることのできない特別な事実(実存的現事実性)として存在している。
 それゆえ、人はその「障害」によってさまざまに解釈(「障害者」)され、さしあたり事実によって事実の方から、人びとの評価から解釈されるということがありうる。それがすなわち「障害」と名付けられた性格として受け容れられる、ということではないだろうか。「障害」の受容ということも、この場合にはさしあたって他者による評価の受容として理解される。それはたとえば展覧会に出品した絵画が他者の評価によってその価値が定められることと同様に考えることができる。しかし、真の芸術がその枠をこえて、自らの内心のあるいは風景の存在の「語ることば(印象)」によってある真実に達するように、その存在自身によって本来の姿に立ち返るということがある。本来的な意味での「障害」の受容とはそのような気づきに他ならない。
 ただしこれは「比較」が無意味であるとか価値が低いといったことではない。事物存在において比較はその対象を知り、その的確な働きかけ・実践に必然的にともなう区別である。人は対象の微妙な違い、今日の天気と昨日の天気の日差しや温度、風向きの違いを知ることによって、作物の出来や管理方法を合わせることができ、それは収穫を左右する重要な判断材料となる。実践においてその対象・出来事により的確に対応するためにはその違いを知ること(比較)は欠かすことの出来ない能力である。
 しかし人間においてそのような比較ははたして可能だろうか。他者の評価は本当に私自身の存在そのものと考えていいのだろうか。私は私における「障害」の存在を通して私の事物としての側面・存在に気付かされる。しかし、それは本当の私自身としていいのだろうか。比較し、そこで得られた自分は、それが自分自身と別の存在ではないとしても、それを全てとしてよいのだろうか。
 おのれの存在のあり方を決めるのは実存であって、人間の本質とは実存に他ならない。そのような実存の本来性へと向かうこと、自己の真実性を開示すること、それは他者によってではなく、おのれ自身によること、「障害」という他者との比較によって実存をはかるのではなく、おのれ自身の存在から、おのれを投じること、そのことがもし「障害」という存在規定をのりこえさせるなら、「障害」は「障害」としてではなく、本来性への可能性としてもたらされるのではないだろうか。
 すなわちここで現存在の本来性の問題、すなわち現存在の本質的あり方としての存在の問題が浮かび上がる。しかしこれは本来性という特別のあり方が存在しているということではない。本来的ということはその存在の根源的性格を示しているのであって、そこに何らかの積極的価値を認めるということではない。ではそのような存在とは何か。あるいはおのれ自身の本来性に気づくことができ、超越が可能であり、それが決して幻想ではないという根拠はどこに存在するのだろうか。

2)本来性と「存在」
 「障害」は存在をあらわにする。それは「障害」者自身の存在をあらわにする。まず露わにするのはまわりの人びとであるが、それを通して私が「障害」者として露わにされ、そこに私の存在が露わにされる。この「障害」が露わにするということは、他者を通じてということに限らない。アウシュビッツに残された義足や眼鏡の山、ある宗教団体の博物館に展示されている大量の杖、それらはそこにおける「障害」者の存在を、不在の存在として(直接)露わにしている。
 この出来事を「感情移入」として理解することは正しくないだろう。なぜならそれは感情移入される対象の存在を前提としているからである。端的にいえば、その人の存在(「障害」)あるいは「感情」を私はそこに、自分の外に直接見いだすのである。
 「障害」が存在するということは、まず「障害」が目立ち、注意をひくということではないだろうか。もちろん目立つことはそれ自体では良いとも悪いともいうことができない。ただそれが人びとの注意を集める(あるいは人びとが気遣う)ということである。このことは「障害」が単に機能の問題にとどまらず、比較(気遣い)によって生じるということを示している、ということは強調しておかなければならない。「障害」とはまず「異様」とみなされること、「比べること」における問題としてあらわれる(ここでは異様とは比喩的であり、ただ外形のことを指しているわけではない)。
 機能的に何ら問題のない「顔のあざ」はさまざまな障害の特別な例ではない。それは「障害」という存在のもっとも根源的な実存論的あり方を示している。「あざのある」女性あるいは男性に対する極度の否定はそのことを端的に示している。すなわちそれは「あざ」が顔という実存にとってもっとも個人を象徴する場所にあることによる。
 したがって比較される存在としての「あざ」は極めてそのわずかな違いも大きな存在として実存的に存在している。その大きさは本人が最初はなぜそうなのかを理解できない、と証言しているほどである。しかし、この場合にも「障害」の存在は他者による観念として存在している、という点では何の違いもない。
 他者の「まなざし」こそが「障害」の実存的意味である例としては、たとえば「障害」児をもつ親にとって大きな負担の原因ともなっている「好奇のまなざしで見る」それも密かに盗み見るように見つめる、という行為がある。ある「障害」をもつ人が「障害」者に対して日本と外国では視線が違う、見ていないようでじっと見ているのは日本人だ、と語っているのを聞いたことがある。しかしそれは「障害」に対してであって、その人に対してではない。人は「障害」を見るが、人としてはみてはいない。人は「あざ」をみるが人を見てはいない。
 すなわち「障害」にはそのような事物的存在としてのおのれがそこに「露わにされる」ということがあり、またそこに実存の存在が浮かび上がる、あるいは自己の全体性が問われる、ということがある。「障害」を持つ人たちが直面していることは、そのような実存的な問題であり、存在問題に他ならない。
 現存在とは自らの存在を問いかけ、それへと向かいつつある存在のことである。この意味で「障害」とはそれ自体がひとつの問いかけであり、「問いかけ」とはすなわち自己の存在全体を現存在自らが了解しつつ明るみにもたらす現存在の根源的あり方である、それゆえその問いかけはまた可能性・希望へと通じている、ということである。
 なぜなら存在はその本質において否定として存在することはありえないからであり、存在はまったくの肯定だからであり、ハイデガーの言葉を借りれば「存在とは明るみである」ということである。現存在としてあるということはすなわち、その明るみの中に立つことに他ならない。

(2014年12月21日の研究会でのレジュメを加筆修正)     2014/01/17  加賀谷
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メモ(覚え書き)
*安積さんは社会的問題としての「障害」ではなく、実存的問題としての「障害」を通して本来性の問題に開かれたということである(「障害者の日常術」晶文社参照)。
*ロスは「ライフレッスン」で人生における「障害」問題の解決の道を明るみだしたが、存在の問題には触れていない。すなわちさらに一歩すすめて日常の危機については触れていない。
*レヴィナスは『全体性と無限』の中でハイデガーの存在が全体の優位として個を否定しているとするが、これは特に現存在に対する誤解ではないだろうか(現存在とは究極の個であるというのがハイデガーの真意である)
*「障害」受容の問題は実存における本来性の問題であり、存在の問題に帰着する。それは受容をこえて現存在が存在しているという事実を明るみにだす、という問題である。
*現存在は存在として、また共現存在として、また現事物として(身体)として、気遣いとして存在しつつ、存在者の存在である。そのような存在が現存在であり、人間の存在の本質を成している。「障害」者(存在者)であることは、そのような存在のあり方の一部である。あるいは欠性とは実存の本質的性格であるともいえる
*注意すべきは、存在の多様なあり方というのは、可能性ということとは少し違うということである。人間は可能的存在であるが、存在のあり方はすでにそのような実存の範疇に含まれ、前提である。すなわち人間はそもそも可能性、すなわち実存である。
*私は字を読むことが老眼で困難である、記憶することも難しいことがある、にもかかわらず私は確かに「障害」にもかかわらす存在している。
*実存における事実性ということについていえば、さまざまな気分に自分がおそわることが、それ以上さかのぼれない存在としてあるのは実存の事実性の一例である。
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参考とした書籍
ハイデガー 『存在と時間』1−III 原 ?・渡邊二郎訳  中公クラシックス 2003
障害者アートバンク編 『障害者の日常術』  晶文社
西倉実季 『顔にあざのある女性たち』 生活書院


*作成:小川 浩史
UP: 20140214 REV:
障害学 全文掲載 
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