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『本を選ぶ』

発行 ライブラリー・アド・サービス

last update:20140331

青木 千帆子, 201312, 「<ろん・ぽわん>ロングアイランドの橋」『本を選ぶ』343: 1.


 20 世紀のはじめ、ニューヨークからロングアイランドにあるジョーンズビーチ州立公園へと続く道に、一つの橋が造られた。ロングアイランドとは、ニューヨーク州の南東部、大西洋に浮かぶ島である。富裕層が多く住んでいる島だそうだ。
 重厚な造りのこのロングアイランドの橋の門柱は、普通車が通りぬけるには十分な高さがあるが、バスが通るには低すぎるように設計されていた。すると何が起こるか。自家用車を持つ人々であればジョーンズビーチに入ることができ、バスを使うしかないそれ以外の人々は入れない。当時、自家用車を持つことができたのは、裕福な人のみだ。結果として、ジョーズンビーチは黒人のいない白人だけのビーチとなった。
 この橋の設計者は差別主義的な価値観の持ち主で、意図的に橋をそのように設計したとのこと。ロングアイランドの橋は、アメリカの政治史に黒人差別の問題を刻みこむ象徴的な存在だ。
 しかし、問題は差別主義者の存在だけなのだろうか?
 この橋を渡る人全員が差別主義者であったわけではないだろう。しかし、このビーチにおいて「黒人」という存在は無いも同然であり、白人ばかりがいることを不思議に思う人はおそらくほとんどいなかったのではないだろうか。そこに突然黒人が現れた際、たとえ差別主義者でなくとも、人々が不慣れなものに対する違和感を抱くであろうことを、私は疑わない。
 ロングアイランドの橋の問題点は、技術が意図的な排斥の手段となっただけでなく、白人しかいないビーチを当たり前の風景と考える人々を大量に生み出したことではないだろうか。建築物は、ただ存在するだけで途方もなく政治的な道具となりうるのだ。ロングアイランドの橋は、技術と社会の相互作用を分析する科学技術社会論における代表的な事例でもある。
 筆者は今、書籍のアクセシビリティに関する研究をしている。翻ってみれば、私たちが日々手にする書籍はどうだろうか。書籍に書かれている内容ではなく、その存在のあり方により、私たちが見落としているものはないだろうか。今日、私たちは知らず知らずのうちに、現代版「ロングアイランドの橋」を渡っているのではないか。
 モノや技術はきわめて社会的特性を備えたもの――このような視点から、書籍のアクセシビリティに関する課題をとらえていきたい。今月からしばらく、その研究内容についてご紹介させていただければと思っている。どうぞよろしくお願いします。
(青木千帆子: 立命館グローバル・イノベーション研究機構)
文献:Winner, L. 1986 “Do Artifacts Have Politics?” The whale and the reactor: a search for limits in an age of high technology. Chicago, University of Chicago Press,19-39.



青木 千帆子, 201401, 「<ろん・ぽわん>障害者サービスは変わる」『本を選ぶ』344: 1.


 「今後、公共図書館における障害者サービスの持つ意味は決定的に変わる。」
 2013 年11 月に福岡で開催された第99 回全国図書館大会、障害者サービスに関する分科会において、このような指摘がなされた。内閣府の設置する障害者政策委員会で委員長を務める石川准氏による発言だ。
 昨年6 月に成立した障害者差別解消法では、公的機関による障害者に対する「合理的配慮」の提供が義務とされた。「合理的配慮」とは、障害者権利条約において次のように定義されている。
「障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう」。
 例えば、段差にスロープを渡すといった対応があげられる。注意したいのは、不特定多数の障害者を対象に事前に行われる環境整備と、合理的配慮は区別して扱われる点である。例えば、バリアフリー法などに基づき、一定のドア幅やエレベーターを設置しておくことは事前の環境整備である。図書館であれば、対面朗読室の設置や点字による案内板の設置、拡大読書器や音声出力機能のついた読書器の配置など、いわゆる図書館のバリアフリー化が実施されていることだろう。
 一方、求めに応じ改善措置をとる場合、「合理的配慮」という言葉が用いられる。例えば、利用者からの申し込みに基づいて音声図書や点字図書を制作することは、合理的配慮ということができるだろう。障害者からの意思の表明があった場合に対応が求められる点が、ポイントだ。
 これまで図書館における障害者サービスは、各図書館の善意に基づいて実施されてきた。しかし、障害者差別解消法施行後は、障害者からの求めに応じることが義務となる。障害者の動きは受動態から能動態に変わり、サービスを提供する側は発想の転換が必要になる。まさに、「障害者サービスの持つ意味は決定的に変わる」のだ。
 公共図書館の予算は年々厳しくなっている中、合理的配慮を提供するための体制を整えるにはどのような準備が必要だろうか。障害者差別解消法は、3年後に施行される。新しく導入された「合理的配慮」という概念をめぐっては、今後も争点となっていくと予想される。新しい法律がただの文字列にならないためには、一人一人が深く考え、話し合っていかねばならない。
◇障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律 http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/sabekai.html 
◇障害者権利条約 http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/rights/adhoc8/convention131015.html
(青木千帆子 立命館大学)



青木 千帆子, 201402, 「<ろん・ぽわん>君辞めたまふことなかれ」『本を選ぶ』345: 1.


 ある木枯らしのふく日、小さな会議室に 20 名ほどの人が集まっていた。机はロの字型に並べられ、すべての椅子に人が座っている。空間は人で埋めつくされていたが、知っている顔は見当たらなかった。
 ここは「NPO 法人タートル(理事長 松坂治男)」の交流会会場だ。タートルとは、視力低下によって就労が難しくなりはじめた人々に、同じ体験をした人が相談を受け支援する組織である。1995 年以後、眼科医、訓練施設、労使団体、行政などと連携してとりくみを続けている。
 全員の自己紹介を終えて分かったことは、参加している人の 8 割が中途視覚障害者であることだった。一人目の報告者は、疾病から復職までの自身の経験や思いを話した。金融機関に勤める彼は、数年前に経験した網膜剥離でほとんど見えなくなったという。二番目の報告者は、現在の職場環境について話した。彼は、子どもの頃から視力の低下が進んでおり、8 年前から白杖を使用するようになった。現在は営業管理を一手に任されているとのことだった。
 この日の報告者は、視力を失っても就労を継続している人だった。しかし、会場にいる参加者の数名は元の職場を辞めてしまっていた。「今の職場に残っても周囲に迷惑をかけるだけ」「失明したらあんまをするしかないと思っていた」。このように思って身を引いたとのこと。彼らは、視力低下を機に以前の職場を辞めたことを悔いていた。
 普段、私たちが職場や家庭で使用しているパソコンは、音声ソフトをインストールすることで視覚障害があっても操作することができる。この日の報告者二人も、音声ソフト活用して仕事をしていた。もちろん、特殊な管理システムは音声機能に対応していなかったり、10 万円を超えるようなソフトは経費での購入が難しかったりするため、様々な困難があるようだ。しかし、訓練施設での技術の習得や職場との話し合いを通して、できることの幅を広げようとしている。
 考えてみてほしい。今アイマスクをして歩くとして、長年勤めた環境と新しい環境、どちらの方が容易に動くことができるだろうか。苦楽を分かち合ってきた同僚と新しい同僚、サポートを求めた際のフォローが容易だろうか。
 仕事を辞めてしまう前に、視覚障害があってもそれを補う技術が多数あること、それらを活用して役割を果たすことができることを知らせることはできなかったのか。来年度の身の振り考えるこの時期。もし、この原稿を読んでいる人や、その周囲に視力の低下を経験し悩んでいる人がいるなら、伝えてほしい。辞めることはない。方法はいくらでもあるのだ。
◇ NPO 法人タートル http://www.turtle.gr.jp/
(青木千帆子 立命館大学)



青木 千帆子, 201403, 「<ろん・ぽわん>スプリング プリーズ」『本を選ぶ』346: 1.


 文部科学省が公表した統計によると、2012年度視覚特別支援学校の卒業生は389人いたらしい。そのうち進路未定の生徒は、全体の54.8%にあたる213人。一般の高等学校卒業生の進路未定生徒数は、全体の4.9%にあたる53,812人だから、約10倍ということになる。なぜこのような偏りが生じているのか。この点について考えるために研究を始めたと、盲学校出身者である佐藤貴宣はいう。
 この佐藤貴宣君と筆者は大学の同期だ。障害者の労働について研究するために入った大学院で、彼と出会った。堂々とした言動で一際目立っていた。しかし、一緒に読書会をするようになると、彼が学術書を読むために苦労していることを知った。例えば、国立国会図書館サーチで検索してみると、私たちがよく読んだゴフマンの著書で点訳されているものは1冊しかない。読書会に間に合うよう点字データを作るため、仲間内で本をスキャンし、OCRにかけ、校正した。読書会での彼のコメントはいつも面白かったから、一緒に本を読みたい一心だった。でも、大変だった。
 後から佐藤君に聞いてみたところ、大学関係者から受け取っていた点字データは読む必要がある文献の1割くらいで、あとの9割は地域のボランティアに頼んでいたとのこと。愕然とした。あんなにがんばったのに・・・! 2013年に大学に所属する視覚障害のある学生への調査を実施した際も、彼(女)らの就学を主に支えているのは点訳ボランティアであり、大学の支援室でも福祉機関でも、公立図書館、大学図書館でもないことが明らかになった。この傾向は、大学院に進学している学生の場合、特に顕著だ。
 「現在の盲学校における教育体制には、スポンジとしての機能はあるけど、スプリングとしての機能がない」と佐藤君はいう。障害に伴う不利や困難をスポンジのように吸収して包摂を進めようとはする。でもそこでの対応は、生徒が学んだことをバネに社会に出ていくための展望を描き、達成できるところまではたどり着いていない。
 確かにそうだ。そして同じことが、大学についてもいえると思う。読書が重要な位置を占める大学教育において、必要な読書量の1割しか準備できない。佐藤君にとってそれは、スプリングとして機能していただろうか。
 国際会議に参加すると、そこで活躍する障害のある専門家の数に圧倒される。一方で、日本人の障害のある専門家はとても少ない。佐藤君は、今年博士号の学位をとった。近い未来、社会で専門家として活躍する彼の姿を見たい。そのために大学は、読書量のせめて9割を保障できる環境であってほしいと願う。
◇文部科学省 2013年度学校基本調査 http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/08/attach/1338337.htm
(青木千帆子:立命館大学)



*作成:青木 千帆子
UP: 20140204 REV:0303, 0331
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