20 世紀のはじめ、ニューヨークからロングアイランドにあるジョーンズビーチ州立公園へと続く道に、一つの橋が造られた。ロングアイランドとは、ニューヨーク州の南東部、大西洋に浮かぶ島である。富裕層が多く住んでいる島だそうだ。
重厚な造りのこのロングアイランドの橋の門柱は、普通車が通りぬけるには十分な高さがあるが、バスが通るには低すぎるように設計されていた。すると何が起こるか。自家用車を持つ人々であればジョーンズビーチに入ることができ、バスを使うしかないそれ以外の人々は入れない。当時、自家用車を持つことができたのは、裕福な人のみだ。結果として、ジョーズンビーチは黒人のいない白人だけのビーチとなった。
この橋の設計者は差別主義的な価値観の持ち主で、意図的に橋をそのように設計したとのこと。ロングアイランドの橋は、アメリカの政治史に黒人差別の問題を刻みこむ象徴的な存在だ。
しかし、問題は差別主義者の存在だけなのだろうか?
この橋を渡る人全員が差別主義者であったわけではないだろう。しかし、このビーチにおいて「黒人」という存在は無いも同然であり、白人ばかりがいることを不思議に思う人はおそらくほとんどいなかったのではないだろうか。そこに突然黒人が現れた際、たとえ差別主義者でなくとも、人々が不慣れなものに対する違和感を抱くであろうことを、私は疑わない。
ロングアイランドの橋の問題点は、技術が意図的な排斥の手段となっただけでなく、白人しかいないビーチを当たり前の風景と考える人々を大量に生み出したことではないだろうか。建築物は、ただ存在するだけで途方もなく政治的な道具となりうるのだ。ロングアイランドの橋は、技術と社会の相互作用を分析する科学技術社会論における代表的な事例でもある。
筆者は今、書籍のアクセシビリティに関する研究をしている。翻ってみれば、私たちが日々手にする書籍はどうだろうか。書籍に書かれている内容ではなく、その存在のあり方により、私たちが見落としているものはないだろうか。今日、私たちは知らず知らずのうちに、現代版「ロングアイランドの橋」を渡っているのではないか。
モノや技術はきわめて社会的特性を備えたもの――このような視点から、書籍のアクセシビリティに関する課題をとらえていきたい。今月からしばらく、その研究内容についてご紹介させていただければと思っている。どうぞよろしくお願いします。
(青木千帆子: 立命館グローバル・イノベーション研究機構)
文献:Winner, L. 1986 “Do Artifacts Have Politics?” The whale and the reactor: a search for limits in an age of high technology. Chicago, University of Chicago Press,19-39.