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竹村正人監督『反歌・急行東歌篇』レビュー

村上 潔 2013/09/15

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last update: 20151227


〈トンカ書店〉での《『反歌・急行東歌篇』上映会リターンズ》http://okabar.exblog.jp/20971270/、いい会でした。初めての人でも気の置けない小さな空間で、椅子を寄せ合って、のんびりな進行のもと、小さなスクリーンを見つめる。105分の映画だけど途中休憩あり。ホームパーティ感覚。
posted at 03:01:10

『反歌・急行東歌篇』:中盤に現れる、高橋悠治氏のピアノが寄り添い加速度的に力とリズムの必然性が増していく藤井貞和の朗読は、圧巻としか言いようがない。朗読の概念が塗り替えられる10分間?(時間の感覚もなくなる)。なぜこのような発音と、節回しと、意味付けが可能なのか。想像もできない。
posted at 03:11:33

『反歌・急行東歌篇』:>続>この作品は、なにより竹村監督の藤井貞和への想いと距離感が刻印された映画である。走る電車の車窓は、後景(過ぎ去る景色)→前景(前から迫る景色)→脇(平行して横に流れる景色)と変化する。それにあわせるように、カメラの藤井の捉え方も変化する。
posted at 03:16:37

『反歌・急行東歌篇』:>続>冒頭、カメラは藤井の背中のすぐ後ろにつき、肩越しに研究会の会場を捉える。その後、藤井の朗読をほぼ正面から大きく捉える。そして、作品後半に入ると、カメラは急に藤井を突き放していく。藤井以外の登場人物だけが映り、藤井が画面の外に押し出されるシーンまである。
posted at 03:19:54

『反歌・急行東歌篇』:>続>つまり、藤井の「旅」が目的地に近づけば近づくほど、竹村監督は、藤井と自分との、また藤井と藤井が迫ろうとする事態との「距離」を否応なく自覚し、それをカメラを持つ手で表さざるをえなくなったのだ。ある時点で、もうただ藤井の朗読に浸っていた自分と決別したのだ。
posted at 03:23:48

『反歌・急行東歌篇』:>続>竹村監督は詩の力を信じているし、詩の力を信じて模索を続ける藤井の力を信じている。しかし、藤井がつねに迷い、無力さにうろたえ、そこから何かを掴もうとするように、竹村監督自身も藤井という対象を飛び越した景色を見たくなったのだろう。その躊躇のなさは潔い。
posted at 03:27:00

『反歌・急行東歌篇』:>続>エンドロールのあとの静寂の数秒間のショット。あの微妙な手のブレ、カメラの傾き、そして捉えられ続ける反射する水溜り。あれは藤井の立ち位置を象徴するというより、藤井に対する竹村なりの回答であり、また藤井の存在の「先」に見えた微かなイメージの象徴なのだろう。
posted at 03:32:38

『反歌・急行東歌篇』:>続>レビューは以上です。『ダダッ子貫ちゃん』同様、実在の人物を追ったドキュメンタリーとしてはきわめて不親切な――人物や撮影場面の背景に関する解説は一切なし――作品ですが、自分なりの何らかの表現を模索している方々にはお薦めしたい作品です。DVD販売中です。
posted at 03:39:04


◆『反歌・急行東歌篇』
2012/日本/105分
監督:竹村正人 機材:DVX 100A(24PA) 画面:4:3 制作:FCC
出演:藤井貞和/神山睦美/田口空一郎/森川雅美/佐藤雄一/兵藤裕己/高橋悠治/松棠らら/桜井勝延/若松丈太郎/内池和子 ほか
朗読とは何か。映画はこの問いから始まった。だが現実がこの映画を純粋な朗読映画に終わらせることを許さなかった。ドキュメンタリーとは常に状況と出会い葛藤することだ。詩が本来そうであるように。藤井貞和の連歌による詩集『東歌篇』が出た時、彼の読者はきっと頷き、驚いたろう。湾岸戦争に際して詩を書き続け「なにがイッツウォーだ。ファックユーである。」と叫んだ人の、これは不変に変成を続ける鉱石である。だが、歌人とちがってしじんはいろめき立つことができませんと書いたのもまた藤井さんではなかったか。果たして彼の詩作は実験の中にあって今も自由詩でありつづけているか。それともうっかり歌の方へと転んでしまったか。本作はその結論を出すために撮られたのではない。しかし朗読が幻の列車「急行東歌」に乗って走り出す時、「異なる声」たちは問いに光を当てはじめるだろう。
http://fuckcinema.exblog.jp/18887988/


*作成:村上 潔
UP: 20151227 REV:
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