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「資料III 『障害は恵みか?』を問うシンポジウム(2010年11月15日)における呼びかけ人の所見」

堀越 喜晴 20130320 「障害受容」について/から考える研究会 第4回報告
於:名古屋駅近く貸会議室

last update: 20131021

◇橋本 宗明 「障害は恵みか?」をきっかけに
 1 障害と個
 2 障害と悪・罪とのかかわり
 3 信仰における教会の教えと我らの受容
◇阿佐 光也 「障害は恵みか?」を巡って
 
◇堀越 喜晴 「障害は恵みか」という問いに対する私の見解(覚書)
 1 私個人の障害について
 2 障害と神―神はどこまで、またどのように人間の生活に介入するか
 3 私の見解
 4 結論


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「障害は恵みか?」をきっかけに

橋本宗明

 ヨハネ9の1から3
 (1) さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
 (2) 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
 (3) イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

     一  障害と個

 (1) 因果応報、をバッサリ否定しているところは、大変気持ち良い。人は原因を知りたがるものだ。
 (2) 問題は後半である。「神の業がこの人に現れるため」というのはどういうことか?さらりと読むと簡単のようだが、よく考えるととても分かり難い。分かり難い、というより私には謎めいて見える。障害を持ってキリスト教に接する人は、大抵ここで足踏みする(私もそうだった)。
 (3) 議論を進める前に、用語について決めておきたい。@「神の業」を私は「神の栄光」と読み変えたい。さる神父に聞いてみたら、少し黙っていたが、「構わない」と言ってくれた。A御心・御旨・思し召し、これらを私は神の意志、と括ることにする。ベタベタせずに、無機質ですっきりするのだ。
 (4) 「神の業(栄光)がこの人に現れるため」の中に、私は二つの問題を見つける。まず、「ため」である。これは障害イコール神の業、ではないことを示している。もし、イコールなら「障害(盲人)は神の業(栄光)である」とならねばならない。「ため」という語があることは、イコールでないことを意味している。もう一つ、ここには何か重大なことが省略されている、と私は何年か掛かって気付いた。省略されているものは、私の応諾の意志、である。神は私を盲人にした。これは紛れもなく神の意志である。この神の意志に対し、私が応諾の意志を表すことにより、神の業(栄光)がこの人、つまりこの私に現れることになるのである。もし神が私を盲人にすることについて、私がそれを「嫌です」と言えば、私の盲人は神の業(栄光)の現れにはならない、ということになる。神の栄光の現れのため、私の応諾は不可欠、なのである。神の意志は元々愛、なのだから−私のために悪いことをするはずがないのだから−盲人、が少々辛くても、それは大したことではない。またこうも言える。障害を通して神の意志と私の意志が一致したとき、その障害は聖なる障害、に聖変化、する。これはまた、障害の苦難をイエスの十字架の苦難に重ね合わせる−苦難を捧げる−ことにも通じる。他方、神の与えた障害を私が拒否したら、その障害はどうなるのか、創造の残渣として宇宙をさまようことになるのか、私の神学ではまだよく分からない。
 (5) この項の締めくくりに、キリスト教的心理プロセスの一例について略記する。
 苦しみ(障害)→試練→恵み→喜び。
 苦しみ(障害)は自分の魂を鍛えるための、神の与えた試練である。金を含んだ鉱石は製錬(高熱を加える)されることにより、純粋な金になる。苦しみを試練、として受けとめることにより、魂は純化され清められる。試練によって清められた魂は苦しみを恵み、として受け取ることができるようになる、これは大きな恵みである。そして神の前に立つための準備が進んでいることを、自覚することは大きな喜びである。つまり、苦しみは−神に向かって進む限り−喜びに聖変化してゆく、のだ。

     二  障害と悪・罪とのかかわり

 (6) ここまではいわば障害と個、の関わりである。この私が、なぜいわば選ばれて盲人にならねばならなかったのか。なぜBさんではなしにCさんでもなく、この私なのか?という問題領域である。
 しかし障害と信仰のかかわりについては、もう一つの側面がある。人間にはなぜ、このようにおぞましい障害などというものがあるのか。神はなぜ障害をそのままにして置かれるのか?
 神が世界を創造したとき、「全ては良かった」と言われている。つまり存在、は、そもそも善、である。ではなぜ善、である存在世界に悪、が入り込んで来たのか?そして悪、は存在なのか?全ての存在は神に依存するとするなら、では神はなぜ悪をも作ったのか?それは神の創造の原理に反するではないのか。(議論は限りなく広がる)
 (7) 教会の教えによれば、悪、の原因は人間の罪、であり、罪は人間の自由意志、の乱用により発生したと説明される。つまり悪は人間の自由意志によってなされた行為(罪)の結果ということになる。ではなぜ、神は人間の「罪を犯す」選択をとどめなかったのか、と議論は広がる。神は人間の自由意志の結果を尊重された。神が与えた人間の自由意志、とは、それほど重みのあるものなのだ。人間はなぜ罪を犯してしまったのか、そこまでゆくと、私は神秘(ミステリウム)、という語の中に逃げ込むしかない。
 (8) 罪には2種類ある。人祖アダムとエバが犯した−リンゴの−罪(不服従ないし傲慢)を原罪、と言い、これは後の全人類に及んでいる。我らが当面している障害、もこの原罪に起因している。因みに悪、は善が欠落した状態と教会は教える。私はこれを更に広げ、欠落した後には「痕跡」が残る、と考えている(痕跡は存在ではない)。もう一つはそれぞれの人間(個人)が犯す罪で、自罪、と名付けられ、これにも痕跡は残る。このように罪は二重構造を持っている。

     三  信仰における教会の教えと我らの受容

 (9) 教会とは見た目的には信徒集団であるが、厳密には人間(信徒)と聖霊の二つでできている。だから人間的誤謬が入り込む余地はあるが、最終的には聖霊により質されていく。
 教会は信仰内容を言葉化し、信徒に提示する。その最も大きな部分は聖書である。聖書の信憑性は「教会の権威」において裏打ちされている。これに次ぐものとしては、信条、がある。有名なものはニケア公会議の「ニケア信条」である。そして教会の諸決定にはさまざまなランクがあるが、それらの中には歴史的限界、つまり人間的誤謬の入っているものもある。歴史が進み人間が成熟してゆく中で−聖霊の働きにより−それらは徐々に質されてゆく。
 それらの教え、をどう受けとめるか、それは一人一人の信徒の判断に委ねられることになる。聖書に反対すればそれは既にキリスト者ではなくなるだろうし、ニケア公会議の信条に反対すれば、キリスト者であることは、かなり疑わしくなる。ここには紛れもなく、信徒としての主体性が保たれていることになる。
 (10) 本論に戻ろう。「障害は恵みか?」この問いに教会は具体的に応えてはいない。しかし、それに関わるたくさんの示唆が、既に教会の教えの中に見い出すことはできる。聖書の中でイエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8.34)と明言している。またヨハネは「神は愛である」と言い切っているのだから、この二つのテーゼだけでも−障害を恵みとして受けとめるためには−既に十分である。



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「障害は恵みか?」を巡って

阿佐光也

(1)
 「障害は恵みか?」というテーマについて、まず考えられることは、一般論としてこの問題を取り上げるのは不可能であるということである。障害は個人個人の問題であり、それを恵みとして受け取るか、不幸として考えるかは、その障害を負う人の自由であり、他人が考えたり、規定することではない。また、いわゆる障害をもっていないものが、そのことに口出しすることは不遜であり、意味を持たない。そもそも一般論として「障害は恵みか?」などいう問いかけそのものが成立しないのではないか。「障害が恵み」という発想そのものが一般の社会には存在しないと思うからである。

(2)
 ではどこに「障害は恵みか?」という問いかけが起こるのか。それはキリスト教の信仰の世界においてである。つまり、キリスト教共同体である教会にそのような考え方がわき起こってくるということである。教会の信仰においては、世界のすべてのことは全知全能の聖書の神の御旨あるいはご計画によって動いているという信仰が一般的であるために、自分の負う障害も神の御旨あるいは神のご計画として考えなければ、信仰との辻褄が合わなくなるのである。そう考えると、「神は何故、この私(あるいはこの人)に障害を負わせたのか」という疑問が必然的にわいてくる。実は、この考え方こそ因果応報思想の温床であり、その裏返しとして、持ち出されてくるのが「障害は神の恵み」という考え方であり、「神様は特別にあなたを選ばれた」という発想なのである。
 私は、かなり昔からキリスト教の信仰における、すべての事柄は神の御旨あるいはご計画のもとにある、あるいは歴史を導く神、という考え方に疑問をもっている。この世界に起こることすべてが神の御旨と支配のもとにあるとは到底考えられないからである。卑近な例だが、数年前にある交通事故のニュースが報じられた。交差点で右折した乗用車に直進してきたオートバイが激突して、オートバイのドライバーの青年が亡くなったという事故である。ただこれだけなら、普通の交通事故だが、私がこの事故を忘れられないのは、乗用車のドライバーが亡くなったオートバイを運転していた青年の母親だったからである。なんという偶然のいたずらであろうか。これも神のご計画の一つだと、教会は言えるのであろうか。
 もし、これが神のご計画であったら、その神というのは、よほど無慈悲な、意地の悪い神ということになる。そのような神でもいいのなら、世界に起こるすべてのことを神の御旨、あるいは神のご計画とする信仰も成り立つだろうが、私はとてもそうは思えない。これは人間の世界の物理的出来事なのである。事故と神とを結びつけたなら、神は迷惑であろうと私は思う。したがって、私の妻が2006年の12月25日、クリスマスの日の夕方、自宅近くで買い物の途中、前方不注意のクルマにひかれて、翌朝息を引き取ったという、自分に起こった悲劇についても、これを神と結びつけることはなかった。

(3)
 では、私の信仰の恵みはどこにあるのか。それは、この私たちの現実、殊に私たちの苦難や悲劇の只中に人となった神、イエス・キリストがいて下さる、ということである。神はイエス・キリストにおいて、私たちを救い、支え、助けてくれるのである。事故や障害そのものに意味も神のご計画もないのであって、それは起こらないに越したことはないのである。しかし、それが起こるのが私たちの世界である。そのことを、旧約聖書の創世記では、人が食べることを禁じられた木の実を食べ、エデンから追放された、という物語で描いている。私たちは神から離れて不完全な世界に住むことになったことをこの物語は告げている。それ故、悲劇や苦しみは、神から離れてしまった人間の在り方自体に起因して起こるのであって、神の御旨でもご計画でもないのである。
 よく、創世記の1章31節の「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった」という言葉を引用して、神が「良い」と言っておられるのだから、障害も神が良しとされている、と言う人がいる。しかし、神が「極めて良かった」と言われたのは、エデンの園から追放される前の世界についてである。そこは神の支配する完全な世界で、それを見て神は「良い」と言われたのである。しかし、人は神から離れ、不完全な「神」となったのである。そこで、私たちの世界は、争いや犯罪、事故や災害、病や障害、そして死を抱える世界となったと聖書は説明するのである。
 勿論、私たちの世界は、このような負の側面だけがあるのではない。愛や喜び、友情や助け合いという、神から与えられた私たち本来の性質も豊かに見いだせる。神は、私たちが、神が作られたこの本来の姿に戻るようにと、私たちに働きかけ、私たちを呼び求めておられる。このことは旧約聖書全体に記されている通りである。この神の私たちに対する熱い思い、つまり、神の私たちに対する愛と憐れみの大きさは尋常ではない。しかし、人はいつも神のこの思いを裏切り続けてきたのである。
 私たちは、神の御旨とか、神のご計画というものを、実に、この神の私たちに対する愛と憐れみにおいて知ることができる。そして、この神の愛と憐れみは、ついに神ご自身が人となって、この私たちの世界に来て下さるという、前代未聞の出来事となって私たちに示されたのである。それがイエス・キリストである。さらに神はただ人となって下さっただけではなく、人の辛酸を嘗め尽くし、私たちのすべての現実を負って十字架上で、私たちの手で処刑されたのである。これはもやは、前代未聞という表現ではとうてい言い尽くせない、ありうべからざる出来事でる。その神のなされたありうべからざる出来事を信じることによって、私たちは神に取り戻されるのである。これが私たちの只中に起こった神の救いの業、福音である。そこまでして、神は私たちの命をかけがえのない存在として愛おしみ、追い求め、大切にされ、救われるのである。私たちは、私という弱さから逃れられない。しかし、その私を私のままで、何ものにも代えがたい存在として、キリストは肯定し、受け入れてくれる。これが私たちの歴史上に起こったイエス・キリストの出来事であり、福音なのである。
 そして、このイエスの出来事こそが、神の御旨であり、神のご計画なのである。したがって、障害の問題も、障害そのものが神の御旨とか、神のご計画ではなくて、障害を負って生きる者の傍らにいつも神(イエス・キリスト)が共にいてくださる、このことが神の御旨とご計画なのだ。この神の人間に対する愛を信じて歩む、これが私たちの信仰であり、救いであると私は信じている。

(4)
 私は日本盲人キリスト教伝道協議会の主事をしていた関係で、ヨハネ福音書9章の冒頭の物語について、実にいろいろ考え、いろんな人と話し合い、いろんな所でお話をしてきた。通りがかりに出会った物乞いをしている生まれつき目の見えない人について、「この人が目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか、本人ですか、両親ですか」と弟子たちがイエスに尋ねたという物語だ。この質問に、イエスは、誰の罪でもないと宣言する。そして、「ただ、神の御業が現れるため」と語るのである。この人が目が見えないのは、誰の罪でもないのだ。それは、「誰のせいでもない」ということで、敢えて言えば、人間の命そのものが抱えている問題の一つなのだ、ということである。
 そして、私たちの命が抱えているこのいかんともしがたい問題と真正面に向き合って下さる存在がある。それが聖書の神である。そして、これこそが、イエスの言う「神の御業」なのである。その神の御業とは、イエス・キリストそのものなのだ。神の御旨と神のご計画はこのイエス・キリストにおいて、ただ一点に凝縮されているのだ。
 私は、私たちに起こる障害という問題も、あるいはその他の苦難の問題も、この信仰の理解に基づいて、考えられるべきだと思っている。あらゆることがら、特に私たちの只中で起こる苦難の問題を神と直接結びつけようとするとき、イエスの存在が希薄になり、その代わりにヨブの物語が浮き上がってくるように私には感じられる。障害が恵みか、そうでないかは、その人が生きていく中で、自分で感じることであって、神と結びつけて納得したり、教会が安易にその意味を語ることでは決してないというのが、私の結論である。障害を負うことで、より豊かな人生を歩むことができると、障害を恵みとして受け取れる側面もあるだろうし、そのために自己実現が阻まれ、人生の楽しみを奪われるなどの負の側面としてもとらえられる。そして、おそらくはそのような様々な思いが生きるという営みの中で、複雑に絡み合っているのが現実の人間の姿であろうと私は考えるのである。
 すべてを神の御旨やご計画として受け入れていく信仰になれている方には戸惑いを与える発言かも知れないが、私には聖書のメッセージはそのように響いてくるのである。私たちがどのような状況にあろうとも、イエス・キリストにおいて、神の愛と憐れみ、赦しと癒しが私たちと共にあることを信じることができるなら、それこそが信仰による恵みであり、そこにこそ神の御旨があり、神の御業が現れることになるのである。



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「障害は恵みか」という問いに対する私の見解(覚書)

 堀越喜晴

I. 私個人の障害について
 私は、網膜芽細胞腫により生後2歳半までに両眼を摘出していた。したがって、物心ついた時から私は視覚なしで世界に相対してきた。そのため私には、光がないことが闇とは感じられず、光も闇もない世界がごく当たり前の世界のあり様のように認識されている。
 そういうわけだから、私にとっては視力がないことそれ自体は苦でも悲しみでもない。私自身の一部、とも意識されないほどに私自身の中に埋没している。だが厄介なことは、私のように視力の持ち合わせのない者はごく少数で、それゆえこの社会が目で見ることを当然の前提として運行されているということである。このことを意識させられるとき、私は有無を言わされず自分の障害を意識せざるをえなくなる。もう一つ厄介なことは(実はこちらの方がよほど厄介なのだが)、いわゆる「晴眼者」と言われている周囲の人々が往々にして私のような者を頑固に型に嵌った見方でしか見てくれず、しかもその見方を私自身の生活実感に勝って正しいものと信じ、それを私にも教え込もうと努めるということである。私の経験では、このステレオタイプは私たち視力のない者を過度に無能な者とみなすか、あるいは過度に神聖視するかの両極端に分かれるようである。
 そのような厄介はあるけれども、私にとって障害が通常意識されていないほどに私の一部となっていると感じられている以上、それは私のペルソナを構成する一要素であり、そうであるならばそれは当然「母の胎内で私を組み立てられた」神からの賜物であり、そうであるならばそれはやはり恵みである、とごく自然に解釈されうる。しかし私は、このような考え方をキリスト教に入信する以前から持っていたように思う。「イエス・キリストを信じて、奇跡を祈り求めなさい。そうすれば必ず目が見えるようになる。」望んでもいないのにそう言って私に伝道を試みるクリスチャンたちに、私はこんなふうに反論したものだった。「もし、天地万物の造り主なる全知全能の神がおられるならば、この世に私を障害者としてお遣わしになったのもやはり神だろう。ならば、私がこの世で障害者として堂々と生ききることこそが、神の定めたもうた私の使命なのではないのか。」

II. 障害と神―神はどこまで、またどのように人間の生活に介入するか
 さて、私のように物心ついたときから障害者で、しかもすこぶるつきの能天気なのにとっては、この稿をここで終えてもいっこうにかまわないかもしれない。しかし、やはりそれはあまりに無責任と言えよう。これまで五感をフルに活用して人生をエンジョイしてきた人が、不慮の災難によって、しかも人為的な過ちによって、さらにはいわれのない悪意に巻き込まれて障害を負ったような場合、はたしてそのことを一朝一夕に「神からの恵みだ」などと得心することができるだろうか。また、例え障害が先天的なものであったとしても、その人の意識の中で前に述べたような周囲が強いている厄介さが勝っているために、鳥居篤治郎氏のように障害を「不自由なれど不幸にあらず」と達観することのできない人もいるだろう。そういう人に対して、「それは神様からの恵みなのですよ」などと説得しようとすることは、ほとんど暴力である。しかし、人生の途上で障害を得、絶望のうちに日々を送っている人に、一転光明がさす瞬間があることを私は知っている。それはおそらくその人が、過去の「健常者」としての思い出や幻影に見切りをすけ、障害者として生きていく覚悟を決めた瞬間なのだと思う。そのときからその人は、失われたものを数えることを止め、自分に残されているもの、またそれを活用して自分ができることの可能性に目を向け始める。想像するに、その瞬間とは至福直感、ないしは悟りとも言うべき、すぐれて宗教的な体験といえるのではないだろうか。
 それでは、避けようのない宿命的なものから不慮の事故によるものまで、あらゆる障害や災難・苦難の全ては、本当に無条件に神のご計画による「恵み」だと解釈されうるのだろうか。ある人は言う、「それは個々人の心の持ちようだ。そう思いたいのならそれでもよかろう。」またある人は言う、「全てを恵みと受け取れない者は、神に対して無知なのであり、心が頑ななのだ。」
 おそらくこの問題は、神がどこまで人間の行動に介入するか、どこまで人間の自由を許容するかという、神学の根本問題に関わることなのだろう。無論神学の徒ならざる私には、もとよりこのような議論はあまりに荷が勝ちすぎている。しかしここでは、ほんの少しの聞きかじりの知識に想像力の詐術を加えて、蟷螂の斧でせめてこの偉大なる岩の上っ面だけでもなでてみたいと思う。
 この問題に対する一つの極端な解釈は、いわゆる理神論と呼ばれている説である。これによれば、神は「光りあれ」の一言により宇宙に最初の一打を与えた後は、ただ理法(ロゴス)の運ぶに任せて、宇宙の運行にもまた人間の営みにも何らの介入もしない。そうして人間を含む宇宙の万象は、紆余曲折を経ながら結局は必然的に最終局面であるオメガ点に到達する、と、ごく乱暴に言えばこのようになる。もう一方の極端は、ローマの信徒への手紙9章などに現れているパウロの言葉を字義通りに取って、「神はご自分が哀れもうと思う者を哀れみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。そこには人間の努力の関わる余地は一切ない」とする、いわゆる予定説、とりわけカルヴァンの説く二十予定説である。
 私にはこのいずれもがしっくりとこない。おそらくそれは、いずれの説にも神と人間との間でのコミュニケーションが感じられないということによるのだと思う。前者の説では人間の自由が最大限に許容されている。しかしそれは、ちょうどお釈迦様の手の中の孫悟空のようで、どこへ行って何をしようとも、どんなに神から遠く離れようとも、神は人間の言動に何らの関心も持たず(おそらくそれは絶対に安全だということが分かっているからなのだろうけれども)、ただそうするままにさせている。それでいて最後には計画と寸分たがわず帳尻が合っている、というわけである。しかしここには、「救い」や「赦し」、あるいは時として「ねたむ」などとも表現される神の情熱が見て取れない。人はただに宇宙の中の駒にすぎず、その中で起きる災難や不幸も、全体から見れば取るに足りないこととみなされるのだろう。したがって、障害や事故も、それを恵みと取るか否かは正に個々人の自由なのであって、神の摂理とは何の関係もないということになりそうだ。他方後者では、こんどは人間の自由は神によってぎちぎちにコントロールされている。人がいくら自分は独力で勝手にやっているのだと思ったとしても、それはすでに天地開闢のときから、そのときに、その人によって、そのようなことがなされるとしっかり計画されていたことなのである。したがってこの説では、あらゆる不慮の事故や災難は全てが神によって計画された必然であり、もし神の業は全て正しく善きことだとするならば、これらもみな神の恵みと無理なく(もしくは無理やり)解釈されることになるだろう。しかしこれは、「求めなさい、そうすれば与えられるであろう」、「祈りは聞き入れられる」などのイエスの教えと遭い矛盾することとならないだろうか。つまりは、人間の側からの神に対する応答可能性(responsibilityイコール責任)が全く考慮されていない。ようするに、私にはいずれの説からも、神の属性であり神とイコールで結ばれている「愛」が見えてこないのである。

III. 私の見解
 やはり私には、神があらゆる事故や人間の過失、さらには悪意に至るまでの全てをコントロールし、しかるべきときに起きるよう劫初(ごうしょ)から計画しているとはどうしても考えられない。歴史上時として、いやしょっちゅう、人間は神の意思を裏切り、捻じ曲げ、神はそのつど大なり小なりその計画を変更せざるを得なかったのではないだろうか。神がアベルの献げ物だけを受けカインの献げ物を省みなかったとき、はたして神はその後に起こったカインによる弟の殺害までも望んでおり、始めからこの事件を持って人類史上に殺人という営みを導入するつもりだったのだろうか。出エジプトに際して、イスラエルの民が約束の地を目前にしていたとき、偵察に出た12人の内カレブとヨシュアを除く10人に嘘の証言をさせ、それによって荒野滞在の期間を何百倍にも延長させ民の中から多くの犠牲者を出すことも、みな神の計画にあらかじめあったことだったのだろうか。
 私のイメージの中では、神と人間との関係はどこまでも親子のそれであり、けっしてロボット製作者とロボットのようなものではない。親が最高にうれしく感じるのは、なんといっても子どもが自分の足で立ち、歩み、そして自分の手で親の志向と矛盾しない幸せを攫むのを見ることだろう。仮にそれが親の完璧な強制によって成ったものだとするならば、そこには子どもとの真の喜びの交流がないがゆえに、その幸せには自ずと限界が生じないはずがない。したがって、もし神が善き親だとするならば、実の子どもである人間がその歩みの途上で何らかの災難に見舞われたり、あるいは道を外れて迷い出でてしまったりしても、よほどのことがないかぎりリモコンのような力で呼び戻したり、そのようなことが始めからなかったかのようにリセットしたりすることはないだろう。むしろ、腸が引きちぎられるような思いでその子の無事を願い、そしてなりふりかまわずその名を呼び、捜し求め続けるのではないだろうか。そしてその子が無事に帰ってきたときには、あの放蕩息子の父親のように、大盤振る舞いの喜びを隠さないことだろう。私の中で神とはそのような存在なのである。
 そうであるから、神が人間の障害や災難にどのように処しているかについての私の考えは以下のようになる。先天的なものであれ、不慮の事故によるものであれ、人が何らかの障害や苦難を背負って生きなければならなくなったとき、「悲しむ者と共に泣」く神は、その人やその身内と共に、いやそれ以上に深く悲しんでいることだろう。しかし神は、聖書にあるように「試練を与えるときには必ずそれを超える道をも与え」る方である。神はその人がその道を見出すように、腸が引きちぎられるような思いで念じ、計らい、そして待っている。そしてついにその人がそれに気づき、新たに幸せへの道へと歩を進め始めたとき、神の喜びはその人のうちに満ち溢れ、天をも覆うのである。それこそが、先に述べた至福直感、ないしは悟りの瞬間である。そしてその瞬間に、障害や苦難は神からの尊い恵みとなるのである。

IV. 結論
 私には、「障害は恵みであるか」という問いを立てるよりも、「障害を恵みとするか」と問うことの方が意味あることのように思える。障害はまずはそのままでは恵みとは言えないだろう。しかし、ちょうどイエスのたとえ話の中のタラントンのように、人がその中に何らかの意味と価値を見出し喜びを持って歩み始めるとき、その人は自らの障害を恵みとして神から受け取ったのであり、そのとき神と人とは一つの大いなる喜びによって結ばれる。そのときこそが、神がTov!(「甚だ善し!」)と叫ぶときなのである。



*作成:小川 浩史
UP: 20131021 REV:
「障害受容」について/から考える研究会  ◇医療/病・障害 と 社会  ◇全文掲載 
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