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「資料II カトリック新聞2009年12月六日号 「意見、異見、私見」」

堀越 喜晴 20130320 「障害受容」について/から考える研究会 第4回報告
於:名古屋駅近く貸会議室

last update: 20131021

資料II カトリック新聞2009年12月六日号 「意見、異見、私見」

障害が「恵」とは教会の真の教えなのか
金沢淳

 

惑わせ続ける一部の同信者たち

 身に障害のある私がそれこそお恵みによって洗礼を受け、カトリック者となって60数年がたつ。この長い期間、いまだ真に至らない私を常に暖かい御眼差しで見守ってくださった神に大感謝だ。
 が、そうした中において、入信以来、長年にわたりずっと私の旨につかえてきた事柄が一つあった。
 それは何というに、教会の中を異端的に思える説が堂々と「正論」であるかのように飛び交ってきたことであり、私はそれに一人刃向かい続けてきたのである。
 同じカトリックの洗礼を受けた大多数の障害者たちが教会の中に何らの確証も見当たらないままにもかかわらず、平然とした態度で「障害は恵みである」と主張しているのだ。単なる自分たちの一時的で安直な救いとも知らず、何の論拠も支えも一切持つことなくしてだ。
しかし思い起こせば、彼ら、カトリックの洗礼を受けた障害者たちの大半と共に、私自身とて、また一時期同様に、「障害は恵」だと、恥ずかしいことながら思って悦に入っていたのも、また喜び、踊っていたのも事実であったのだ。それが半年、1年がたち、洗礼時の熱も収まった後、私の場合、それが人一倍早く表れた。身体障害の痛みもじくじくと復活してきたのであった。こうした結果、教会そのものへの勉強に励み、磨きを重ね始めたこともほどなくであった。もう、全ての事柄が、あいまいで一時的な解決方法に乗せられたままでは、私自身大いに納得できないのだった。私は迷いに迷っていた。迷いながらも祈りを忘れなかった。
これもイエス不在の説
  その挙句の果て、私は最良と思える近道を選び出した。それは何かというに、知る限りの不特定多数のカトリックの聖職者、すなわち、神父さん方に見解を尋ねることであった。私が訊きたかったのは単刀直入、「障害は「恵」とは、はたしてもともとの教会の教えに基づくものであるか否か」であった。と、この問いに答えるに10人中8人から9人の神父さん方が困ったような顔つきとなり、「障害者自身が自ら言うのなら、それもやむを得ないことであろうが、障害者以外のいわゆる健常者なる者は絶対に口にしてはならないもの」と言い放っていた。
 私はこれに先立ち、旧約聖書を開き、レビ記21章20節から23節までを読み、飛び上がらんばかりに驚かされた。「祭司アロンの子孫の内で、以上の障害のある者は誰でも」という言葉を冒頭に、障害者を「汚れたる者」とする説明がしばしば記載されている。それらによれば、彼らは「神に食物をささげる務めをしてはならない」どころか、「垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、私の聖所を汚してはならない」とまでも記されていた。キリスト教の前身のユダヤ教の「掟」にはそうしたものがあったということか。で、ユダヤ教の信者であったイエスは障害者らに出会った折、新約聖書にたびたび記述されているように憐みをもよおされ、癒しという奇跡を用いられ、その大本、汚れ(障害)からの解放(愛の行為)をなされたとの由。けれど、多くの障害者はここにおいてもまた、主は自分らを愛してくださる故という解釈に終始し、イエスの行為を伝え、納得し、微笑んでいる始末。
 事実を知ろうとせずいい加減に拒否し続ける人々。さて、こうした兄弟たちをどのように救い上げたらよかろうか。頭の痛い、そして私たちにとって大切な問題の一つなのだから。(信徒)



*作成:小川 浩史
UP: 20131021 REV:
「障害受容」について/から考える研究会  ◇医療/病・障害 と 社会  ◇全文掲載 
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