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「1970年代の京都西陣における老人医療対策と住民の医療運動との関わり」

西沢 いづみ 2013/02/20
小林 宗之・谷村 ひとみ 編 20130220 『戦後日本の老いを問い返す』,生存学研究センター報告19,153p. ISSN 1882-6539 pp.11-34

last update: 20131015


1970年代の京都西陣における老人医療対策と住民の医療運動との関わり
西沢 いづみ


はじめに

 今日の高齢社会において,地域医療や福祉の実践に住民の主体的な取り組みが重要であることは,しばしば指摘されている(柴田 1989; 玉置 1998).しかし,住民の医療への参加は高齢社会になって始まったわけではなく,また,その在り方も社会的背景によって異なる.
 戦後の地域医療の歴史的変遷を踏まえれば,たとえば,1944年には,長野県佐久市の佐久総合病院が,農業協同組合を母体に設立され,農民とともに農村医療を実践している(若月 1970, 1971, 1977).1960年代には,岩手県沢内村で,村民の自主組織と自治体が結びついた住民保健福祉活動が行われていた(高橋 1976; 岩見 1976, 1978a, 1978b).両者ともに,過疎地で医療資源に乏しかった農村という場において,予防を中心にした住民による医療の展開があった.また,本章でとりあげる京都の西陣という職人の町において,1950年代から住民による地域医療への取り組みが展開されてきた(佐藤 1989; 孫 1998; 杉万編 2000; 新井 2003; 西沢 2011).先行研究によれば,社会保障制度の整備が不十分ななか,西陣の賃織労働者や住民たちは,保険未加入でも医療を受けられる住民出資の医療機関を設立し,生活扶助や医療扶助の拡大を行政に訴え,運動を続けたことが明らかにされている.
 前出の佐久総合病院や沢内村での取り組みも含め,社会保障が確立していない時代においては,「自分たちのからだは自分たちで守る」という自主自衛が医療への取り組みの手段であった.医療保障という側面からみれば,行政を相手に住民が主体となってつながらざるを得なかった運動といえる.
 1960年後半になると,高度経済成長に付随して,医療保険給付の改善や老人医療費無料化制度など,国の福祉施策の拡大が方向づけられるようになり,一応,多くの人たちが医療にかかれるようになった.しかし,1970年代,石油危機後の経済基調の変化と財政問題などから,社会保障制度全般の見直しに向かった変動の時期をむかえる.それまでの経済成長によって起こった産業構造の変化と核家族化の進展,医療技術の進歩による慢性疾患の増加,そして不況による経済的困窮などさまざまな現象によって老人問題が顕在化してきたのもこの時期である.1980年代にかけての行政財政改革は,国の福祉における公的責任を後退する方向にあり,医療費の急増をもたらした老人医療費無料化制度は1982年の老人保健法によって打ち切られた.高齢者の医療対策においては,「治療からケアへ」の移行と「在宅医療・福祉」の重要性が指摘され出したが,医療と福祉の連帯供給はまだ不十分であった1).その後,社会福祉制度の運営や医療・福祉サービス実施の責任が,国から地方自治体レベルへ,さらには地域住民および家族のレベルへと移り,文頭の住民の参加にいたるのである.
 筆者は,これまでに1960年代までを中心に京都西陣での地域医療を取り上げ,住民の自主自衛によってつくられた病院において,住民組織が果たした役割を歴史的に検討してきた(西沢2011).しかし,高齢化を迎えた1970年代おいて,老人医療対策と住民出資の医療機関をめぐる住民や医療者の葛藤,在宅医療を押し進めた背景について検討できていない.先行研究においても,住民の医療への取り組み方に注目してこの時期を詳細に追ったものはない.西陣産業の不況も重なり住民の生活が変動した1970年代,西陣における住民の医療運動はどのようなものであったのだろうか.先取りして言えば,老人医療費無料化となった1973年には,西陣ではすでに高齢者を対象にした在宅医療・在宅福祉への実践が始まっていた.しかし,先駆的な事例と結論づけるには早計であり,実践の背景には何がありどのような医療への取り組みがあったのかを検討する必要がある.設立した際にもった住民の自主自衛の主体性が,在宅医療の強化につながったのか.それとも,「自分たちの医療機関」の維持方法を模索しあらたな地域での医療を試みたのであろうか.
 そこで,本章では1970年代を中心に,住民運動がベースにあった西陣の住民たちが,住民出資の医療機関との兼ね合いのなかで,医療とどのように関わってきたのか,あるいは関わらざるを得なかったのかという観点から住民の医療運動の歴史的経緯を論述したい.そのうえで,1970年代の西陣における住民の医療運動とは何であったのかを明確にしたい.住民の実態や地域の現実が見えてきたなかでの住民の取り組みを歴史的に追うことは,今日の地域医療や地域福祉における住民参加のあり方についての知見が得られるだろう.

1 西陣における老人医療無料化運動

1.1 1960年代までの住民の医療への取り組み
 まず西陣地域において,老人医療無料化運動に至るまでの住民運動の特徴を簡単に述べておく.西陣は,西陣機業に従事する職人の町であり,伝統産業の担い手として成る土着一家が多かった.同じ地域に暮らし同じ産業に関わる,血縁と地縁の連帯をもつ住民の集まりであった.しかし,技術を直接売るという職業柄,住民同士のつきあい方は複雑であった.西陣織の機業構造自体が,分業と協業でなりたち協力は必須であったが,土足で他家までは入らないという微妙な住民どうしの付き合い方は,西陣の地域性としてあげられる(筆谷1982).また,親方から織機を借りて家で織り,出来高払いで収入を得るという賃織労働者の労働形態は,衣食住が一体の生活環境を生み出していた.その生活環境には,当時の労働条件や衛生状況の悪さからくる健康問題が課題としてあった.そこで,1950年に,当時健康保険を持たない住民たちが,自分たちの健康を守るために資金を出し合い,白峯診療所を設立した2).しかし,自主自衛のための設立とはいえ,血縁と地縁のしがらみからその運動に否といえない住民もいたことは想像にかたくない.反対に,設立当初は共産党と関わりのある医療機関であったため,赤の病院にはかからない3)という住民もいた.住民出資は自主性を促すとともに,妥協性や閉鎖性をも生じさせる.また経営困難時の責任の取り方が問われる体制でもある.一方で,住民の生活・健康全体に関心をもち奔走した医療者たちが,医療とは無縁であった当時の賃織労働者たちと少しずつ信頼をよせ合いながら,医療運動を展開していった.
 1958年に,医療法人西陣健康会堀川病院(以後,堀川病院)となったあと,住民による自主自衛の組織は助成会4)(表1)と命名され,ここから地域理事が選出され,堀川病院の経営や管理も担う住民組織として運動が開始した.運動の基本は,住民の健康を守るとともに住民出資による自分たちの医療機関をいかに維持していくかであった(『助成会のしおり』1959年10月).出資することで発言権をもった住民たちは,医療者とともに保健師による訪問看護5)や往診の実践,分院の設立などを徐々に作り出し,また医療や労働に関する社会保障を行政に働きかけた.住民が多数参加する医療法人は当時でも珍しかったが,住民主体の医療機関として生まれた歴史は,医療関係者の組織との協同経営・管理を可能にしたのである.
 1961年に国民皆保健制度がひかれ,1963年に老人福祉法によって65歳以上の老人健康診査が無料で実施されるようになったが,全国的に次第にその受診率が低下していった.健康診査によって病気が発見されても,老人には治療を受けるだけの経済力がなかったからだ.西陣地域においても,和装離れ・若者の就労離れによる西陣産業の不況とともに,労働条件の悪い賃織労働者の健康は蝕まれていった.1964年時点の京都市国保は,世帯主7割・家族5割給付であり,年金受給者も年金額も少なく経済的に余裕のない高齢者にとって医療費は負担であった.住民たちは国保の給付改善運動に続き老人医療無料化を訴えはじめた.

1.2 西陣手織り健康調査による老人の実態と居宅介護の開始
 高齢者にとって,医療費保障のための無料化は切実な要求であった.さらに,健康であれば高齢でも働ける西陣の職人にとって,労働条件の改善も重要であった.そこで,1969年9月,労働者の生活と健康の実態を知るために,助成会主催で「西陣手織り健康調査」が行われた.手織り歴20年以上の職人70人を対象に,家族構成,年収,年金,生活や病気に対する心配事など事前のアンケート調査を配布し,健康に関しては堀川病院での60項目にわたる健康診断が実施された.診断の結果,平均67歳の労働者たち半数以上に,リウマチや神経痛・難聴・眼疾など職業的影響のある疾病6)のほか慢性肺気腫・高血圧症など,労働環境・食生活などと因果関係がある症状が多くみられた(京都堀川病院 1970).調査結果は西陣織工業組合の健康問題懇談会に報告された.同組合は,1971年に健康対策委員会を設置し,出来高払い制度による労使関係の改善,防音対策,手織り機の近代化などを検討し始めた.
 生活実態の調査結果では,高齢化・核家族化・脳卒中による在宅での寝たきりの存在も浮き彫りにされた.1968年に行われた全国社会福祉協議会の「寝たきり老人実態調査」でも,脳卒中・高血圧症による寝たきり高齢者(75歳以上6ヶ月以上臥床状態)が約8万人,その半数以上がリハビリなど専門的な機能訓練を受けていないことなどを明らかにしている(全国社会福祉協議会 1968).
 堀川病院では,1968年に自宅療養の脳卒中後遺症患者へのリハビリ支援が,保健師による訪問看護によって開始されていた.1969年には,脳卒中後遺症患者の会「半歩でもの会」が結成され,家族や地域住民の参加と支援によって,リハビリ・デイケアとして定着していた.先の生活実態調査で,「同居如何に関わらず世話をしてくれる人がいる」と答えた人が85%となっており,この西陣の地域性も半歩でもの会の活動に影響を及ぼしていたと考えられる.脳梗塞による脳血管障害や長期管理を要する慢性疾患の居宅介護の体制作りがすでに芽生え始めており,後の居宅療養につながる重要な取り組みとなった.「半歩でもの会」での患者の回復において,当時堀川病院の医師であった谷口政春は,「医師が,これ以上手をかけても効なしと思っても,しょせん医師だけの判断であったことを思い知らされた」と述べている(竹澤・谷口 1977: 21).このような在宅での介護実践を伴いながら,老人医療無料化運動がすすめられた.

1.3 老人医療無料化運動の取り組み
 老人医療費の無料化運動は,1960年の岩手県沢内村での実施を皮切りに住民運動として全国に広がり,1969年の美濃部都政の実施についで,京都市でも蜷川虎三が知事選挙に当選した後,1971年に実施された.
 京都での運動は,当時の蜷川民主府政を推進していた京都府医師会・京都保険医協会・京都民主医療機関・生活と健康を守る会などが積極的に参加しており,住民団体を巻き込む大きな運動となった(岡本 2006).この運動に西陣地域の住民・医療者も参加した.1969年6月22日,助成会の長寿会連合会と上京老人クラブ連合会との協議会において署名運動を開始し,その後1年かけて集められた4500名の署名は,1970年7月24日に市会本議会より市会厚生委員会に付託された(『医療生協助成会だより』第76号 1970年8月10日).老人医療無料化運動の京都市への請願事由には,以下のようであった.

 戦後の家族制度の崩壊により核家族化した家庭には,老人の座は揺らいで止みません.今や老後の不安と不幸を除く道は,心身の健康を保持する事に尽きるかの感があるのであります.近時世上に於いては,労働力の不足著しく,西陣産業等に於いても軽産業部門では,老人の熟練度が再認識され第二軍的労働力として尊重される傾向にありまして,其の健康こそは改めて重大関心事であらねばなりません.(京都堀川病院 1970: 7)

 健康保持だけではなく,健康で働きたいことが無料化の理由であった.いくつになっても技術を生かしたいという職人の声であり西陣産業の実情を物語っている.同時に,家族における老人の座を,問題意識としてとりあげている点も興味をひく.座の揺らぎに対する懸念は,後に続く社会的入院や間歇入院制度の受け入れ困難につながってくる.
 1970年9月14日には,助成会と上京老人クラブ連合会が実施した「お年寄りデモ」に120名が参加し,同年12月8日の京都市会普通予算特別委員会において,「来年度から老人医療の無料化を実施」することが決定された.助成会だよりには,「この決定は,署名運動,老人デモ,陳情市民運動の結果として,厚生委員会から予算委員会へと審議された市会の動きとして注目された」とある(『助成会だより世話人版)No3 1970年12月21日).
 運動の結果,京都府における老人医療の無料化は1970年6月から実施され7),京都市では,1971年度から65歳以上のすべての老人に対して無料化が実施された.1972年に老人福祉法が改正され,翌年の1973年から,70歳以上の老人の医療費無料化が全国的に実施された8).

2 社会的入院から間歇入院制度へ

2.1 老人の長期在院による住民への影響
 老人医療費無料化の実現は,老人に受診の機会を与える一方で長期在院を容易にした.疾病の治療目的の入院ではなく,自宅療養の代替役割を医療機関が担う「社会的入院」である.特別養護老人ホームの施設不足や訪問看護料など,福祉や在宅対策が不十分なまま無料化が実施されたため,高齢者の長期在院は一層増加した.長期在院は,医療機関側からすれば,失禁・徘徊などの老人の世話をする医療者の負担と経営低下につながる.当時の診療報酬体系では,老人の重症加算も認められておらず,老人をたくさん抱え込むほど経営不振に陥った.広報ほりかわには,「ある病院では,病院の経営防御策上,重症失禁老人は入院させられないという限界線をだしているところもある.医療費の無料化だけではなく,内容の充実した制度を作らなければ,老人と病院はぶっ倒れ大きな社会問題となる(『広報ほりかわ』第3号 1972年12月15日)」と記述されており,病院機能の低下は多くの私的病院が抱える問題であったことがわかる.
 堀川病院でも高齢の長期在院患者は増加した.内科入院患者数でみれば,60歳以上の入院患者の割合が1965年に27%であったのが1971年では44%を占めるようになった(京都堀川病院地域医療研究会 1975).西陣地域が存在する上京区は市内でも老人人口が多かったが9),住民出資の医療機関であったことは大きな要因である.高齢者の単身や老夫婦だけの世帯が多くなり,体力が弱まり介護者がいない高齢者にとって,自分たちの出資した病院は大きな拠り所でもあり他の医療機関に移る患者は少なかった10).また,家族にとっても頼る場所であった.寝たきりとなった老人や痴呆老人の面倒をみることは,家族にとって負担となり,入院治療が必要でなくなっても引き取りたがらない家族も増えた.
 無料化による経済面と住民出資の病院という要素は,堀川病院での長期在院の数を増加させた.しかし,長期の入院は老人の生活機能の低下という問題につながった.さらに,満床によって新しい入院患者や急性疾患の患者の収容を不能にするという新たな問題も生じてきた.これは当時の多くの医療機関が抱えた問題であり,1973年の京都私立病院協会主催の第9回京都地方病院学会では,救急医療の要望が課題となっているほどである(『広報ほりかわ』第10号 1973年7月20日).
 堀川病院の救急受け入れ数を上京全体でみると,1970年に4割近くあったのが1972年では1割弱に減っている(京都堀川病院地域医療研究会 1975).この状況に対して,地域住民から「急患のたらい回しをするのか」「何の誰の為に建てた病院だ」と大きな批判があがった(谷口・石井編 1988: 72).自分たちで建てた病院を急病発生時の拠り所としていた住民からの批判であった.入院出来ずに,在宅での寝たきり老人も増加した.老人の長期入院を希望する住民と救急の受け入れ拒否や入院拒否を不満とする住民が,出資した病院をめぐって混在し,それはそのまま住民が抱える矛盾ともなった.院内においても,急性疾患の集中看護と高齢者の生活介護の並行作業は,看護面の矛盾を顕在化した.老人の生活機能低下も医療者の葛藤であった.当時は第二次医療技術革新期と重なり,高度医療の推進に意欲を持っていた若い医師や看護師たちにとって,老人看護に費やす時間と労力は不満となっていった.
この頃の病院の状況について,当時健康管理部にいた西池季一氏11)は以下のように語った.

 この時期は,病職員の生活要求を保障することがままならいほど赤字であった12).1971年に病院始まって以来の労働組合によるストライキも起き,地域住民の病院に対する不信から助成会の地域理事が一斉に辞表を出したことがあった.若い医師や看護師らも随分辞めた.これがさらに赤字に追い打ちをかけた.診療所を立ち上げた古い医師たちが,この穴埋めをすることになり,医師たちの間でもかなりの不和が生じていた(2011年9月16日 筆者による聞き取り).

 西池氏の語りから,高齢者の長期在院をきっかけに,医療者や住民がもつ矛盾や齟齬が,互いの不信を生み出していたことがわかる.
 医師・看護師不足と経営悪化.訪問看護体制の未熟さ.出資した病院であるがゆえに,他の医療機関に移動することが少ない老人たちと急患受け入れ拒否を不満とする住民たち.助成会や医療者たちは,自分たちの病院のあり方,すなわち,出資の医療機関と住民との関わりをあらためて考えるべき過渡期を迎えた.

2.2 老人問題研究会と間歇入院制度
 自分たちの病院を地域病院として機能させるためにも,老人医療対策は重要な課題であった.地域の人たちと病院の職員たちは,1970年に地域医療研究会を設け,老人の入院および居宅処遇について勉強会を始めた.1971年に,研究会のひとつの部門として外部の専門家を招き「老人問題研究会」を結成した.当時,老人問題を研究していた大阪医科大学の吉田寿三郎と京大老年医学教室の奈倉道隆の参加を得て,専門的立場から助言や提言を受けた.病院職員を始め,老人施設で働いている人や京都府立医大の社会医療研究会の学生,佛教大学の社会福祉学科の学生,老人を抱えている家族などが集まった.長期在院患者のケースカンファレンスや訪問看護,老人の生きがい,死の問題と死に場所など多岐に渡り議論された.弱った老人をみるのは病院の使命ではないか,老人病棟を併設できないかなどの意見がでたが,老人の医療と福祉に関する地域ケア体系に重点がおかれる方向へと検討が進められた.当時院長であった竹沢徳敬が,1970年に北欧の老人施設を視察し在宅ケアの重要性を説いており,従来からおこなってきた訪問看護体制にあらたに焦点があてられた(『医療生協助成会だより』第77号 1970年10月5日).当時,訪問看護を担当した桐島世津子氏13)は,外部からの専門家が介入したことで,地域や院内だけで解決策がでなかった問題を客観視できたという.
 幾度にもわたる事例研究・実態調査の結果,老人の生活自立のために,居宅療養と地域での施設確立を目標にした「間歇入院制度」を,1972年度の定期社員総会14)で打ち出した.具体的には,以下の内容である.

@老人の問題は老人自身の問題として,長寿会の活動の強化を進めること
A慢性化した老人の看護は住みなれた地域社会や家庭で見守り,さらに老人自身の生活自立性を高める必要性から,居宅療養体制,訪問看護が必要であること
B老人の生活機能低下を防ぐために,急性期病状の時は出来るだけ早く入院させ,病状の回復とともに早期退院の実施が望ましく,間歇入院制度のシステムをとること
C現状では,病院医療と居宅医療のみでは老人医療システムとして不十分であり,ディケアサービスの強化,中間施設,リハビリ施設,ナーシングホームの設立が必要(竹澤・谷口 1977: 19).

 間歇入院制度とは,居宅療養を基本にした医療体制をひき,急性期の一定期間のみ早期入院・治療し,よくなれば退院して居宅療養,症状が急変すればすぐ入院という考え方である.これが間歇の意味である.生活自立を目標に掲げたのは,生活機能低下を防ぎ「寝たきり」にさせないためであった.西陣では,「手足さえ動けば機が織れる」という職人としての誇りが高齢になっても存在していたことも起因する15).老人の入院を短縮することで病床回転もよくなり経営的にも効率がよかった.家族の負担を軽減するための居宅療養体制の強化と並行し,間歇入院制度の導入が始まった.

2.3 間歇入院制度と住民の関わり
 ところが,間歇入院制度は住民に受け入れられなかった.「老人にとって居宅療養が良い」という考え方は,住民にとって自分たちの医療機関を利用できないことであり,また無料化制度にもそぐわず不満となった.居宅療養体制はまだ徹底しておらず,早期退院は家族の不安を煽った.住民にとって間歇入院制度は病院の都合の良いすりかえ策としか受け取れなかったのだ(京都堀川病院地域医療研究会 1975).その結果,「病院は薄情だ」「年寄りを放り出すのか」「儲け主義になったのか」「病院は病気を治すところやないのか」「昔は入院できた」などという反論を病院に訴えた(谷口・石井編 1988: 31).地域住民は,出資し発言し医療に参加してきたからこそ堀川病院を利用してきたのである.だから「薄情」という言葉がでるのである.同じように,医療者側も地域の人たちの病院という意識から住民たちを突き放すわけにはいかず,困惑の時期を迎えた.当時,長期入院していた父親が間歇入院制度によって退院となった患者家族のSさん16)は,以下のように語った.

 父は,全身がマヒした状態で13年間入院していた.入院最後の4年間は無料で, 経済的にも楽だった.病院では,歩行器で廊下を歩けるようになっていたが,退院となると,狭い家ではそんなわけにはいかず,父もその点で,退院は半分納得がいかなかったと思う.父を退院させるかどうかで,医療者の間でも結論がでなかった.家族が介護しようと覚悟したのは,定期的な訪問看護と,緊急の往診システムがあったからだ(2011年9月19日 筆者による聞き取り).

 S氏の語りから,医療者の間で退院の判断がまちまちであり,これも住民の不信感につながったことが窺える.また経済的にも在宅介護には相当の覚悟が必要であったことがわかる.
 助成会員数をみると,1970年から1973年にかけて減少している.急患受け入れの拒否や早期退院を経験した住民の病院に対する不信感,そして出資というシステムに対する住民の考え方の変化がこの数字に現れている(表2).
 しかし,さまざまなコンフリクトは,住民出資と住民主体に特化した地域密着型の構造が,避けがたくできあがっていた結果といえる.長期在院と急患受け入れ要求がもつ矛盾,老人の世話と高度医療の平行業務における医療者の葛藤,早期退院における住民の不満も,堀川病院に固守したがゆえに生じたのである.したがって,これらの問題は地域のなかで解決をするしかなかった.それが自分たちのつくった病院を維持していくことであった.助成会の機関誌に「金も出すが口もだす.そして責任ももつ」(『助成会だよりほりかわ』第145号 1979年2月10日)と,住民参加の真意が載せられている.その責任のかたちとして,医療者と住民は,居宅療養体制と地域支援を強化し,慢性化した老人を住みなれた地域社会で見守ることを引き受けたのである.医療機関を地域との関わりのなかで維持するためには,時間と力(協力)も提供し引き受けざるを得なかったともいえる.間歇入院制度の見解は実践を伴いながら徐々に地域と病院に反映されていった.
 在宅介護に対する住民たちの負担と不安は,堀川病院の居宅療養体制と訪問看護体制の強化につながっていった.S氏が退院を決断した理由も居宅療養体制の存在であった.この強化機能に大きな役割を果たしたのは,堀川病院を中心に西陣地域内の各学区にまたがった3つの分院,正親診療所・出町診療所・北野診療所の存在であった.1964年までに住民出資で開設されており,周辺住民の外来・往診を担当し,緊急時や入院時や人手不足のときなどは,本院である堀川病院が担当するというシステムが組まれていた.周辺住民にとって,近くで診察を受けられ往診代も安く安心であった.今でいう医療連帯体制のはしりである(看護学雑誌編集室 1980).各診療所を支える学区には助成会の支部が置かれており,医療機関と周辺住民たちで高齢者を見守る体制が作り易かった.地域社会そのものを療養の場にしていく体制が各学区から実践されていたのである.
 1970年代半ばは,老人医療無料化が全国で実施されていた時期であるが,ショートスティ,ディサービスも制度化されておらず,在宅医療や在宅福祉の具体的政策は1983年の老人保健法実施を待たなければならなかった17).このときすでに西陣では,医療者や住民の葛藤や齟齬とともに,地域内での解決方法として間歇入院制度を模索し,長期入院の老人を在宅中心に地域社会でみることを検討し始めていた.
 高齢化社会における在宅ケアは,国の国庫負担の縮小という政策ゆえに,地域社会や家族の機能を重視せざるを得なかったという一面がある(天田 2011: 366).地域社会や家族の負担となった姿が,在宅ケアである.だが西陣においては,衣食住一体化の生活状況や訪問看護・往診体制を背景に,医療機関と地域住民が密着型であったがゆえに,居宅療養が強化され地域全体を療養の場にしていったという側面をもつ.これが,当時における西陣の住民の医療運動であった.

3 居宅療養家族の会の結成

3.1 居宅療養体制の確立と助成会の活動
 医療者側にとって,長期入院から早期発見・早期退院の間歇入院制度への移行は,外来・往診・病棟の看護の継続性を前提とした居宅療養への移行であり,住民にとっては,徹底した往診・訪問看護を前提とした地域住民の横の繋がりへの拡大であった.どちらも医療者と住民の協同作業であり,時間は要したが,居宅療養の患者に対して個別に始められた訪問看護を組織的なものに強化しつつ,住民自身も地域ぐるみで援助する運動を展開していった.
 従来の訪問看護体制を組織立てるために,1973年に外来看護部のなかに居宅療養部が結成された.医療従事者によるプロジェクトチームが組まれ,1976年には看護部から独立し,訪問看護に関しては責任をもつ専門の部署となった.急患・往診は365日24時間体制をひき,医療・看護が組織的につながった居宅療養体制を確立させた.これらのもと,早期入院・早期退院・在宅療養の繋がりができ,1971年に平均54日あった在院日数は,1976年には27日に短縮された.間歇入院制度が住民に受け入れられるようになったのである.むしろ,退院患者よりも,入院をしないで居宅療養を持続している患者数が多くなってきた.在宅療養患者数は,1974年に79名であったのが1977年には121名,定期往診患者数は149名から240名,往診延数2001回から3376 回,訪問延数944回から1981回と増大している(谷口・石井編 1988: 32).1975年から1976年の堀川病院の入院経路の調査によると,入・退院者数と地域の開業医や救急からの受け入れ数がともに増加している(『助成会だよりほりかわ』第126号 1977年7月10日).入院日数の短縮と居宅療養体制の徹底が,入院患者数の増加を可能にし,急患の受け入れもスムーズになってきたことがみいだせる.
 訪問看護が組織立ってきたのと並行して,助成会の活動も展開された.日常的な買い物,独居の患者の食事などは,助成会の地域福祉部を中心に各支部で連絡を取り合って実施された.助成会が,各小学校区につくられた支部でなりたっていたことは,横のつながりの拡大に役立った.協力しながらも土足で他家には入らないという,つかず離れずのつきあい方をする西陣の地域性ではあったが,桐島は,「いい結果が得られれば,すぐに知れ渡る『村』のようなところが利点となった」と,西陣のもうひとつの側面を挙げている.
 助成会による国や自治体に対する医療保障の運動も実施された.1971年から1972年は,政府による健康保険の改変に対する反対運動が中心となった.1971年9月に「市と住民集会」を開催し,京都市老人福祉課長・上京老人福祉事務所長・上京区長の同席のもと,老人医療に関する充実した政策を要求するなど,老人医療問題研究会での討議を自治体に訴えている(『医療生協助成会だより』第86号1971年10月1日).また,1972年8月に,居宅療養患者に車いすを贈る運動(車椅子運動と名付けられた)を開始し,約一年間で,1500人から60万円を集め,車いす11台,歩行器2台を購入した.1973年9月には,助役・民生局長・保健一課長に対して車いすの市のサービス支援を要求している(『ほりかわ』第90号 1973年9月25日).
 1974年に,リハビリ施設と患者専用の入浴施設を含んだ病院の増築計画案が第18回定期社員総会に出された.訪問看護によるリハビリの重要性や寝たきりの老人を風呂に入れたいという住民の要求,あるいは高度な医療施設での受診の必要性などが重なり,一大事業に踏み切ったのである.この総会において,訪問看護の看護料・入院の付添料・医師・看護師・理学療法士の教育・養成に対する国や自治体の責任,および中間療養施設設立の市への要望を引き続き運動していくことが決定された(『助成会だよりほりかわ』第91号 1974年8月).増築建設資金の募金活動が始まり,地域資金は1975年以降増加している(表3).制度の追いつかないなかでの老人医療対策は,住民自身が受け入れ協力せざるを得なかったのだ.
 この状態になるまでに,老人問題が浮上して以来5年余りの時間を要したが,助成会の活動は,1974年10月12日に行われた第16回日本老年医学会・日本老年社会科学会共催の「地域における医療福祉総合活動研究懇話会」で発表され,病院と住民の連帯による医療・福祉の展開として全国に注目されるきっかけとなった(『助成会だよりほりかわ』第94号 1974年11月).なかでも,堀川病院の早期入院・早期退院・居宅療養体制の3本柱は注目され,行政関係者の見学も増加した.その度に,地方自治体に訪問看護料の財政的保障を訴え続けたという(『助成会だよりほりかわ』第126号 1977年7月10日).

3.2 居宅療養患者家族会の結成と活動内容
 居宅療養体制が組織立ってきた1975年7月に,長期居宅療養者をかかえる家族の集まりが計画された.介護の大変さを家族同士で話し合いたいという家族と,病院が今までおこなってきた方法が果たして自分たちの自己満足ではなかったかという訪問看護側の思いが重なり,4人の家族と医療者と保健師の11人が集まったことから始まった.それが居宅療養患者家族の会(以後,居宅家族会と略す)であった.家族の中にはすでに10年以上も寝たきりの夫を介護している妻や認知症のおばあさんを5年間も見続けた家族がいた.風邪もひけない,食事もままならない,疲れたときに預かってもらえる場所がほしいなど切実な思いが語られた(谷口・石井編1988: 115).
 介護が家族内に閉じられた状態にあるという実態は,1970年代に数次おこなわれた全国的な高齢者の実態調査でも明らかにされている.それまで一般の老人を対象にした調査が,各地域の社会福祉協議会によって,寝たきりと一人暮らし高齢者を対象にした生活実態調査に変化し,具体的な介護状況や介護者との関係が調査され始めた結果である.日本の高齢者福祉調査の形成を通じて高齢者像を論じた中川は,「社会的資源と利用意向の低さが家族依存を強くしている」と分析している(中川 2009: 63).このような背景のなか,疾患患者やその家族を援助するだけでなく,生活しつつ介護する家族の横のつながりに焦点があてられたことは重要であった.家族の共通の思いを語る場になり,個々の体験によって資源の利用方法も広まった.さらに,家族から病院・助成会へと交流の場をひろげ,介護問題の認識も拡大された.その意味において居宅家族会の存在は大きかった.
 1976年4月に,折りたたみ式の簡易風呂や予防マットを共同購入するため,助成会・病院職員とともに実行委員会を結成しバザーを開催し,約85万円の資金が集まった(『助成会だよりほりかわ』第113号 1976年6月).この資金で,歩行器や布団乾燥器や紙おむつの共同購入を実施し,これをきっかけに理容師や大工によるボランティア訪問も始まった(『助成会だよりほりかわ』第115号 1976年8月).1976年4月に増築完成した堀川病院では,助成会資金によって寝たまま入浴できる患者専用の浴室が完成し,ディケアのシステムも院内に整備された.
 行政へのはたらきかけとしては,1976年12月,京都府市民団体協議会を通じて京都府・市に「適切なリハビリや訪問看護を社会的な資源として確立する」よう要求を提出している.これは,同年11月に京都市社会福祉協議会が「当面する老人福祉対策とそのあり方についての第一次答申」において,各行政区の「在宅寝たきり老人訪問看護事業」を1980年から打ち出す方針をだした(京都市社会福祉協議会 1976)からである.在宅福祉および地域看護の原動力として訪問看護事業の必要性を明らかにしたことに対して,施行に先立ち提出したものである.その要求内容は以下のようである.

・訪問看護料の公費負担・リハビリ訓練の機能訓練士を公費により養成・簡易風呂や紙おむつやシーツの・現物支給・車いすでのれる福祉タクシーの増加への施策などの要求(『助成会だよりほりかわ』第119号 1976年12月).

 翌年の3月にこれらの要求に対する回答が,当時の鳥養健助役から出され再交渉を確約している(『助成会だよりほりかわ』第122号 1977年3月).このような自治体への交渉も,病院や地域住民と一体となっていたからこそ押し進められた.

3.3 認知症高齢者の介護問題へ
 1977年5月に,独り暮らしの高齢者たちが「とこしえの会」を結成し,健康講座や昼食会を通じて交流の場をつくり,そこで寝たきりの人におむつを贈る運動を開始した.この活動に多くの人たちが参加したため,助成会の福利厚生部の提案で,1979年に改めて「独身クラブ」を結成,120人の参加団体になった.この独身クラブの会の活動の中から,堀川福祉奉仕団が誕生した.一人暮らしの老人たちが,一人暮らしの老人を支えるために結成されたのである.奉仕団は,給食サービス班,縫製班(おむつを縫う),家庭訪問班,自動車運行班,家事手伝い班など各組織に分かれ活動を担った(『助成会だよりほりかわ』第154号 1979年11月10日).現在も,活動内容は変化しながら続いている.
 居宅家族会や堀川福祉奉仕団が実践してきた在宅老人への支援体制は,認知症高齢者の介護の問題を社会問題として捉えるきっかけとなった.さまざまな老人の介護を通じて認知症の実態を把握し,これから迎える少子高齢化社会において避けられない事実として捉え始めたのである.院内でも,認知症の介護問題が取り上げられ,中間施設の要望や介護と仕事の限界あるいは最後まで看たいという家族の思いなどが議論され,社会全体の問題として福祉領域での対処の必要性が問い直されていた.居宅家族会は,1978年11月に北海道鷹栖町町立老人福祉センターの婦人部と交流会を開催し,「認知症が,地域だけに留まらない社会問題であることが確認できた」と語っている(『助成会だよりほりかわ』第145号 1979年2月10日).
 今まで,点の存在であった家族や患者が,お互いをつなぐことで線となるという広がり方をした居宅家族会は,1980年の「呆け老人をかかえる家族の会」の発足につながる.今後,西陣における医療運動をさらに追っていきたい.

おわりに

 本章では,高齢化を遂げつつあった1970年代,西陣での老人医療対策の変化やその背景を,住民の医療への関わり方を中心にみてきた.これまで明らかにした点を再確認しつつ,1970年代における住民の医療運動は何であったのかを結論づけたい.
 核家族化と高齢化による老人の家で座のゆるぎが,無料化施策と重なり,社会的入院を生み出したひとつの要因であることはこの時期の特徴であろう.同時に,西陣では住民出資の医療機関という存在が,さらに長期在院の数を増やし,医療者と住民,あるいは住民同士の葛藤や矛盾,医療者間の不和を顕在化させた大きな要因でもあった.急患受け入れ拒否を批判しながらも,長期在院との同時進行が,自分たちの病院を維持するために矛盾となることは明らかであった.出資の限界もあり,施設の維持も拡大も無理であるならば,退院した老人をどこで見守るのかが,老人医療対策の重要な課題となった.住民参加の真意が問われた時期であるが,そこで出て来たのが間歇入院制度であった.在宅医療・看護を中心とした療養体制である.しかし,ここでも住民の納得を得ることは困難であった.「自分たちの病院からなぜ追い出されるのか」という住民の一言がすべてを物語っている.また,医療者の間でも,いつ入院させいつ退院させるかという見解に相違があった.住民,患者,患者家族,医療者の利害関係だけを追えば,すべてベクトルが異なる.しかし,葛藤と矛盾の要因ともなった「自分たちの病院」は互いの共通部分でもあり,これが地域密着型の構造をうみだし,あらたな医療への参加方法を地域のなかで試みざるをえなかったことも事実である.すなわち,密着型ゆえに生産された問題を,地域住民と病院との関わりのなかで完結する必要があり,その結果として居宅療養体制を強化し,老人を地域で見守ることを受け入れたのである.それが,自分たちの病院を維持していくために,時間と協力を提供する責任のとりかたであった.しかし,その間に助成会員数も出資金も低迷の時期を迎えていることから,設立時に必要であった自主自衛の主体性と出資というシステが,この時期に必要不可欠な要素ではなくなっていることも見逃してはならない.
 しかし,居宅療養体制を試みることができたのは,すでに基盤ともいえる要因があったことも確かである.それを2つあげながら,1970年代の西陣における住民の医療運動とは何であったのかを結論づけたい.
 1つめは,西陣の地域性である.老人人口比が高く老人に関わる課題が顕在化しやすかった.さらに家で機を織る職人にとって在宅療養の意味は大きく,また同居か否かに関わらず,病気の際身の回りの世話をする人が存在していたことである.
 2つめは,分院である3つの診療所を中心に往診や居宅看護をすでに実践していたことである.特に1969年に,居宅看護の活動から結成された脳卒中後遺症患者の会「半歩でもの会」の存在は,退院した後の受け皿が地域のなかに出来つつあったことを示し,後の福祉体制につながる意味で重要である.
 これらを背景にした西陣の老人医療対策は,無料化を廃止し地域や家族の責任負担へと移譲した1980年以降の国の政策の先取りかもしれない.だが,受け皿がないのに放り出す,あるいは自己責任として片付ける国の政策とは異なる.少なくとも,老人や患者という範疇だけではなく,地域という現場・住民というファクターも医療に関わり在宅医療や居宅療養体制を模索した側面がある.地域密着型であったがゆえに,自ずと地域社会そのものを療養の場とする意味での地域医療に移行してきたのだ.これが,1970年代の西陣における住民による医療運動の姿であった.
 1980年に,「半歩でもの会」の京都市への要求でもあった上京福祉老人センターが設立され,在宅と施設の併用ができるようになった.施設の増設とともに地域の範囲が拡大されると,西陣と他地域との連帯が必要になってくる.居宅家族会が,家族だけでなく地域を越えた活動をしてきたのもそのひとつである.
 しかし,西陣の地域医療体制が,果たして超高齢化を迎えた今日に,どのように生きているのだろうか.あるいは相容れない体制となっているのだろうか.これらの結論を引き出すためにも,1980年代以降の西陣での住民の医療運動が,地域医療や老人医療の歴史のなかでどのように位置づけられるのかを検討していきたい.今後の課題である.


[注]
1)1978年の厚生行政調査報告によると,全国の特別養護老人ホームは,8,000施設,入居者が寝たきり老人の約16%の6万4000人,入院者は約14%で,残りの約70%は在宅となっている(厚生省大臣官房統計情報局編 1979).
2)1949年に発足した「上京生活を守る会」が中心となり,零細の賃織労働者や西陣機業の関連業者,商店主などの住民約800人が出資.設立金約3万円で,京都市上京区の白峯神社の近くに設立された.理事長に西陣学区の神戸善一(織元).所長に早川一光(医師).
3)当時,GHQによる統治政策に対する反対勢力の中に,白峯診療所の設立運動があった.
4)助成会は,学区ごとに8つの支部に分かれ,各支部代表の8人が助成会の理事となり,堀川病院の院内理事とともに理事会を構成していた.各支部には福祉厚生部・保健部・長寿会連合会などがつくられ,学区の横の繋がりを果たしていた.任意団体であった助成会は,1960年から京都労働金庫と提携し,一口100円の助成積立金制度を始めた.1967年から,出資金3000円以上の出資者を病院法人の社員とする制度をひき,年に1回の社員総会が開かれた.1981年,医療法人西陣健康会堀川病院の社員組織と助成会を統一し,助成会を西陣健康会と改称.300人から始まった会員数は1980年には4,500人となったが,それをピークに減少していった.
5)当時は家庭訪問とよばれていた.
6)これらの疾患は西陣病と名付けられていた.
7)京都府下の市町村に対し,80歳以上および65歳以上の福祉年金所得以下の寝たきり老人に限って,医療費の二分の一(京都市は三分の一)の補助金を出すことから始まった.
8)無料化制度は,当初,老齢福祉年金支給額が,扶養家族6人で年間180万円以上ある場合は対象にならなかった.1974年に撤廃された.
9)1970年の京都市の老人人口比は,京都市が7.5%,上京区は9.6%となっている(京都市役所総務局統計課,1970).経済成長の最中であり,ドーナツ化現象と若年労働者が西陣機業に就かなくなったことが,老齢化の速度を早めた大きな要因である.
10)たとえば,あるケースワーカが取り扱った1971年の堀川病院における長期在院(6ヶ月間)患者の処遇内容では,実数41名のうち,他医療機関・特養への転院は3名となっている.
11)西池季一氏は,1958年?1990年まで,出町診療所医療事務,堀川病院健康管理部に従事していた.本章での西池氏への聞き取りは2011年9月16日におこなった.
12)1965年前後の社会保険の引き締めと経済不況によって,地域資金の他は3千万の銀行借入れに依存していた.外来医療と病棟の最大限利用によって1970年に赤字は解消したが,病棟部門は赤字であった.その後,社会的入院や医療者不足によって再び1971年に赤字経営となっていた.
13)桐島世津子氏は,1975年から1995年まで居宅療養部に所属した保健師.本章での聞き取りは全て2011年9月16日.
14)定期社員総会は,堀川病院の最終的な意思決定機関である.出資社員(1974年時点で約700人)の過半数以上の出席で開催される.
15)1972年の平均69歳を対象にした正親長寿会の実態調査では,生活費は自分で稼ぎたいという高齢者が87人中40名近く存在している(『医療生協助成会だより』第83号 1972年4月1日).
16)S氏は,1962年?2000年まで堀川病院助成会事務局担当.筆者による聞き取りは2011年9月19日.
17)厚生省による寝たきり老人の短期保護事業がはじまったのが1978年である.1979年には,在宅の要介護高齢者等に対して入浴や食事,日常動作訓練等を行うディサービス事業が創設され,1982年から在宅の寝たきり老人等に対して,居宅まで訪問して入浴・給食等のサービスを提供する訪問サービス事業が開始された.


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UP: 20130306 REV: 20131015
老い  ◇医療/病・障害 と 社会  ◇生存学創成拠点の刊行物  ◇全文掲載
 
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