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「第6章 山口通先生のライフストーリー」

中村 雅也 2013 「視覚障害教師たちのライフストーリー」
2012年度立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文

last update:20131117


目次

(1)生い立ちと大学時代 ――牛乳配達をして、学費をひねり出してくるんです
(2)非常勤講師時代 ――7、8校行ってました
(3)視覚障害の発症 ――出勤簿に判子が押せなくなってきて
(4)病名告知 ――もう、クビになっちゃうんじゃないかな
(5)リハビリテーション ――治って帰ってくるっていうのが前提なんだ
(6)復職交渉 ――2時間の授業をやってみてください
(7)パソコンの貸与 ――高等学校教育課か何かがやってくれたようですね
(8)担当授業時数の軽減と講師配置 ――校内でやったみたいでね、運用か何かでね
(9)工芸高校でのボランティアのサポート ――空き時間はほとんど入ってくれてました
(10)全国視覚障害教師の会とのかかわり ――仕事を続ける上でなくてはならない母港
(11)転任 ――処分された人間はですね、都立高校では、それを動かすわけですよ
(12)小平高校でのボランティアのサポート ――13人ぐらいの人がローテーションで
(13)授業 ――7クラス、週2単位ですから、14時間です
(14)同僚へのサポート依頼 ――なるべく広くね、いろんな人にお願いしたほうが
(15)障害者教師の存在意義 ――生きた教科書のようにですね
(16)生徒とのかかわり ――こっちが自然体でいけば、あちらも自然体でね
(17)保護者の授業参観 ――いつでもどうぞって言ってるんですね
(18)学級担任 ――やろうかなってね、相当、悩んだんですよ
(19)教壇復帰から得たもの ――社会生活や経済生活をすることができる



第6章 山口通先生のライフストーリー


*ここに掲載した「第6章 山口通先生のライフストーリー」は、博士予備論文『視覚障害教師たちのライフストーリー』の該当章を、山口先生のご希望により、Web公開用として修正したものである。

 山口通先生は1949(昭和24)年9月1日、千葉県鴨川市に生まれた。東京都立工芸高校の社会科教諭だった1991(平成3)年、41歳のときに視力低下のため休職した。埼玉県所沢市にある国立身体障害者リハビリテーションセンター(現・国立障害者リハビリテーションセンター)に入所してリハビリテーション訓練をうけ、翌1992(平成4)年4月に復職した。全国視覚障害教師の会の第5代代表(2002〜2010年)を4期8年間勤め、2010(平成22)年3月、東京都立小平高校教諭を最後に定年退職した。
 インタビューは2011年2月1日(火)と翌2日(水)の2回行い、合わせて5時間30分近くお話をうかがった。場所は2回とも山口先生自宅の最寄駅であるJR中央線三鷹駅前の喫茶室「ルノアール」であった。



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(1) 生い立ちと大学時代 ――牛乳配達をして、学費をひねり出してくるんです

 山口先生は、1949(昭和24)年9月1日、家族で疎開していた千葉県鴨川市で生まれた。6人兄弟の第5子である。生まれてすぐに以前に住んでいた東京都台東区に戻り、小学校、中学校、高校時代を過ごした。高校を卒業して2年後の1970(昭和45)年4月、駒沢大学文学部社会学科に入学した。大学時代は生活費と学費を稼ぐため、牛乳配達のアルバイトをし、従業員用アパートに住み込んでいた。

《tr.6-1》
高校までが台東区で、家族とみんなで住んでいて、大学に入って、家族から離れて牛乳配達のアルバイトやってたんですね。それで、そこに下宿ていうか、まあ、アパートを牛乳配達をする人が3、4人いまして、アルバイトの人とかね、その人たちと一緒に、そのアパートでざこ寝みたいなね、その狭いとこでね、住んで、それで、私が、朝、みんな起こしたりして、それで、大学時代はそういう牛乳配達をして、学費をひねり出してくるんです。牛乳配達と集金ぐらいでね、そういうアルバイトで学費を、兄弟姉妹が多かったものでね、兄弟6人だったもんで、で、高校以上は基本的に自分でやると。高校までは親が出してくれてるけども、後は自分でやりなさいっていう、そういう親のね、考えでね。

【中村:兄弟は、山口先生は上のほうなんですか。】

下から2番目なんです。女性が4人で、男性二人っていう。それで、その男性二人が、兄が、一番上なんですけどね、兄と七つ違うんですけど、兄も私と同じ都立高校で教員をやっていて、今は中国の大学で教えてるんですけど、同じ都立の教員になって、兄が世界史で、私が倫理という、そういう、兄弟の男性軍は教員で、後、女性は教員にはならないんですけどね。みんなそれぞれですけどね。

 私立の工業高校機械科に通っていた山口先生は、大学受験に失敗し、父親との約束で、一旦は就職した。しかし、大学への進学をあきらめきれず、会社を1年で辞め、1年間予備校に通って、再度、大学受験をした。

《tr.6-2》
私、高校はですね、私立の工業高校の機械科なんですよ。それで、高校卒業したときにですね、大学受験、失敗しまして、失敗したら、兄弟姉妹が多かったので、働くていうことを父と約束してたんですね。それで、働いたんです。営業をやってたんですけどね、東京で。それで、1年、働いて、今度は、その次の2年目は予備校に行ったんです。それで、二十歳になりまして、そこから大学へ行ったんです。ちょっと2年ね、遠回りっていうかね、しましたけど。それで、牛乳配達をやりながら、自活っていいますかね、自分でね、自立して、学費も生活費も自分でやりました。

【中村:そのときに、まあ、一旦、就職されてから、大学にもう1遍チャレンジされたというのは、何か目標があってのことですか。】

そうですね。あの、就職したときにも、大学は行きたいというのはあったんですよ。ですから、ずっとその2年間は、高校卒業した2年間は、やっぱり受験のことをね、ずっと頭にありました。会社には申し訳なかったけど、そういう、将来的なね、見通しが、夢があったもんですから。



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(2) 非常勤講師時代 ――7、8校行ってました

 山口先生は大学入学当初から教師志望が固まっていたわけではなかった。子どものころに教師は楽しそうだなと思っていたことはあったが、大学に入ってからは研究者になりたいと思うようになった。教職に関心が向き始めたのは3回生ぐらいになってからだった。

《tr.6-3》
まだね、それ(=教師になること)は決めてなかったんですよ、大学へ入った頃は。大学へ入って、そうですね、子どもの、小学校とか中学校のときには、教員は楽しそうだなっていうのがあったんですけども、大学に入ってからは、それが、ちょっと気持ちが変わりまして、研究者になりたいっていうのがあったんですね。じゃあ、何を研究するのかっていうのは、はっきりしてなかったんですね。教育のほうにするのか、それとも、哲学はその当時から関心があって、哲学のほうに進むのかは、はっきりしてなかったんですけども、何しろ、研究者になりたいっていうのがあって、それで、そうですね、教職を取るときも必ず教員になるっていう、そういう方向じゃなくって、まあ、基本的には取っておけばいいかっていうね。それで、研究者になりたいっていうのもあって、それで、教職取り始めて、そうですね、大体、3年生ぐらいから、教育のほうにも、また、関心が出てたって、そういう感じです。

 研究者になりたいという思いをもちながらも、教師志望が固まっていったのは大学3回生ぐらいになってからだった。当時、既に都立高校で教師をしていた兄の影響が大きかったという。就職活動をする時期には教師志望は固いものになっており、教職以外の就職活動はしなかった。4回生のときから東京都の教員採用試験を受験した。高校の倫理社会の枠で受験し、4回目で合格した。大学卒業後は、都立高校などで非常勤講師を務めながら、教員採用試験を受け続けていた。非常勤講師を務めていたのは3年間だが、その間、7、8校の学校で勤務したという。勤務時数も少なく、収入も少なく、不安定な身分で厳しい生活だった。

《tr.6-4》
その当時は(教員採用試験を)倫理、倫理社会ていって、倫理社会で受けられたんです。あの、高校のね。都立の倫理社会っていって、受けて、若干名っていうので。若干名ですから人数書いてないんですよね。普通は、例えば、80名とか、100名とか、国語何名とかありますよね。理科何名とか。どういうわけだか、倫理社会はいつも若干名なんですよ。それで、それを受けてですね、えっと、4年生のときに一回受けて、結局ね、まあ、ちょっと細かいあれですけどね、それでうまくいかなかったんですよね。で、その間、うまくいかなかったけれども、講師、非常勤講師をやりたいということで、それで、結局、受け続けるんですけども、他の県も受けたりしましたけれども、結局、だめで、それで、講師、非常勤講師を都立高校でやりながら、結局、3年目でやっと受かったんです。倫理社会ですね。そういう、3年間、それはちょっと大変でしたけど、非常勤講師を都立でやってたんですよね。それは、週二日とか、週三日とかっていう、そういう非常勤で、まあ、やっと食べられるような…。

【中村:その非常勤講師は、3年間されたっていうことですよね。】

そうです。

【中村:で、4年目からは正採用っていうかたちなんですね。】

そうです。

【中村:非常勤講師に行かれてた学校っていうのは、ずっと同じところですか。】

もう、バラバラだったです。それから、つながってるとこもありますね。あの、何年間か続くっていうのもあったし、1年ポッキリというとこもあったし、いろいろですね。

【中村:全部、東京都立の高校ということになるんですか。】

都立高校と都立の養護学校の寮父もやらせていただきました。

【中村:教科も社会っていうことで。】

そうです。倫理、そのときは倫理社会もありましたけども、後は日本史、地理、世界史、何でもやらないとだめでしたね。

【中村:まあ、社会科免許があったら、どの科目でも教えられるっていうことですよね。】

そうなんですよね。

【中村:何校ぐらい行かれたんですか、非常勤は。】

相当行きました。大体でいうとね、7、8校行ってました。

 山口先生はいろいろな学校で非常勤講師を務めた。非常勤の仕事の中には、専門の社会科の講師ばかりではなく、養護学校(現・特別支援学校)の介助や寄宿舎の寮父もあった。

《tr.6-5》
(非常勤で務めた学校は)3年間で7、8校。それで、その7、8校の中には、一つは養護学校もありましたね。養護学校は何をしてたかと言いますと、昼間は授業のTTをやり、放課後は寮の仕事でした。重い障害の子とかを、車椅子の子がいたので、そこでいろんな周りの…。何ですかね、僕はもう、ただいるだけですよね。いて、ちょっと手伝うぐらいで、その先生が授業やってますから、僕は、あの、生徒のほうにいってるっていう、そういう感じのことを昼間やって、夜は寄宿舎が、当時、あったので、そこで、風呂の介助、食事の介助、洋服の着脱の介助、そういうのやりましたね。泊まりでね。

【中村:舎監みたいな感じなんですか。】

そうです、そうです。それを毎日続くわけですよ。寮母、寮父って昔は言ってましたけどね。女の人は寮母、男性は寮父っていってね。で、教員は舎監っていって、1ヶ月に1回とかね、2回とか泊まり勤務ですね。私の場合は、もう、寮父。昼間は授業のちょっとお手伝いっていうか、そういう感じです。そういうのも経験しましたね。足立区で。



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(3) 視覚障害の発症 ――出勤簿に判子が押せなくなってきて

 山口先生は非常勤講師3年目のときの東京都教員採用試験に合格し、1977(昭和52)年4月、東京都立立川高校定時制に新規採用として着任した。

《tr.6-6》
これ(立川高校)ね、全日制と定時制とあるんで、これ定時制なんです。定時制のほうの倫理の教員になったんです。倫理社会の教員になったんです。(中略)その立川高校に12年いました。で、これ、定時制に籍があったんですけど、昼間の倫理の先生が、昼間は受験校なんですけどね、進学校ですね、立川高校っていうのはね。で、その昼間の倫理社会の先生がドイツに行かれて辞めてしまったんですよ、急に。それで、そこが空いちゃったんですね。それで、昼間と夜と両方教えてました。それで、12年間いまして、で、その次に、次には、今度は、水道橋の東京ドームのすぐ隣にあるんですけども、都立工芸、こうげいは工業の工に芸術の芸です。工芸高校に16年、長いんですよね。で、その次が、今度は都立の小平高校で、最後、5年です。

 初任校の立川高校で12年間勤務し、1989(平成元)年4月、東京都立工芸高校に転任した。

(中略)

《tr.6-10》
工芸高校に転任して、しばらくしてからのことです。出席簿ですね。出席簿がわからなくなってきたんです。出席簿がつけられなくなってきたのと、それから、今度は出勤簿に判子が押せなくなってきて。その当時、出勤簿がまだあったんです。出勤簿が押せなくなって、それで、押してもらうようになったんです。それが、大体、年齢でいうと、30代の終わりごろ、そのへんです。

【中村:あの、それは立川高校の…。】

立川高校じゃなくって、工芸高校ですから、えっと、39歳から行ったので、えっと、39歳で行ったので、39歳だから、次の年ぐらいですかね。40歳ぐらいですかね。そのへんから、出勤簿が押せなくなってきてね。立川高校では、その、階段とか、普通に歩いてたし、それで、出勤簿も当然大丈夫で、それから、薄い字とか、そういうのも大丈夫でした。

【中村:そういう出勤簿が押せなくなったりしたときっていうのは、周りの人にとういうふうなお願いの仕方をされとったんですか。】

そうですね。あの、結局、人を待ってるんですね。その出勤簿が、ご存知かと思いますけど、事務室の入り口のとこに置いてあったんですよね、その当時は。それで、みんな、朝、そこに集まるので、次の人が来るのを待っていて、それで押してもらうようにしてました。

【中村:えっ、それは見えないから押してくれっていうふうに頼むんですか。】

そうなんです。はい。

【中村:その、見えないからっていうのは、まあ、当時は別にまだ視覚障害のことっていうのは周りにはおっしゃってなかったんですよね。】

同僚がね、会談のとこで止まってるよっていうのもあったので、ちょっと何か不自由っていうのは話はしたと思いますね。いろんな人にね、ちょっと不自由だっていうことを。だから、割と、来た人に、誰であろうが頼んじゃうんですよね。そうすると、出勤簿のところに教頭が来たときがあって、それで、えっ、ほんとなんていう感じでね、できないのって言ってね、びっくりしたようなことを言ってましたよね、教頭が。ていうことは、相当悪いんだなみたいな、そういうふうにね、思われたんでしょうね。えっ、出勤簿もわからないのって、そういう感じで言われました。

 生徒たちにも目が見えにくいことを話し、協力してもらった。自分が生徒の出欠記録などに使っているいわゆるエンマ帳は、大きく太い罫線で生徒に書いてもらった。出席簿は生徒に記入してもらった。

《tr.6-11》
生徒のほうの、出欠簿ですね。あれなんかはね、自分で持ってるエンマ帳のほうは、ちょっと大きくしてもらって、生徒に大きいのを、太い線を引いてもらって、作ってもらったり、そんなことを生徒に手伝ってもらったりしてましたね。それで、これは自分の持つほうのエンマ帳で、それから、教室に置いてあるのは生徒に書いてもらって、そういう、割とこまかくいろいろとね、何かね、生徒に手伝ってもらったりするっていうのと、同僚にちょっと手伝ってもらったりということで、その場はね、しのいだっていうね、そんな感じでした。



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(4) 病名告知 ――もう、クビになっちゃうんじゃないかな

 工芸高校に転任して2年目の41歳のときに、見えにくさによる困難を強く感じるようになり、順天堂大学附属の病院を受診した。いくつかの検査を受けて、後日、検査結果を聞きに行き、そこで網膜色素変性症という病名を告知された。医師からは進行性の病気で今後も悪化すること、薬は出すがそれで治るものではないことなどが説明された。仕事ができなくなるとは言われなかったが、続けるのは大変だろうと言われたのを覚えているという。

《tr.6-12》
そのとき(=病名の告知を受けたとき)は、ね、仕事はなかなか困難ですよっていうような、大変ですよっていうようなね、そういう言い方をドクターがしたのを覚えてますね。まあ、ちょっと大変ですけどもっていう言い方で、あの、できないとか、そういうことは一切ね、相手も傷つけるからね、言わなかったんですけど、まあ、大変ですねということはおっしゃってて、まあ、それから進行性っていうこともね、勿論、お話されて、で、これからもっと悪くなるっていうんで、まあ、治療薬は、まあ、飲んでも飲まなくてもいいですよっていう、そういう言い方でしたけど。それで、将来、まあ、あんまり、そんなに将来のことまで突っ込んで、ドクターは、あんまりそこまでは言わないので、まあ、大変、これからね、仕事続けるのは大変ですと。で、薬は、まあ、これで治るということではありませんので、飲まれても飲まれなくても、どちらでも結構ですっていうことと。そのへんを覚えてますね。

【中村:それは、もう、その日のうちにそういう話をされたんですか。】

検査がまずありました。検査後、1、2週間ほどしてからです。病名の告知を受けたときには、家族や親戚に目の病気をもった人はいたかということを考えました。誰もおりませんでした。

(中略)

《tr.6-13》
兄弟姉妹みんな、6人いてね、私以外はみんな、目が悪くないんで、妹も、兄とかも悪くないんで。で、両親とか、祖父とか祖母もね、目が悪くなかったかなみたいな、そんなことを考えましたよね。

 今後、もっと視力が低下したら、どうなってしまうのだろうという不安にも襲われた。だが、中途で障害を負った人がリハビリテーションによって社会復帰するという話も聞いたことがあった。そのときはリハビリテーションのことを詳しくは知らなかったが、頭に浮かんだことを覚えているという。

《tr.6-14》
後、勿論、将来のこともね。これからどうなるのかっていうのを考えましたね。やっぱり、あの、もっともっと悪くなったら、ただ、あの、これからとんでもないことになるんじゃないかっていうのと、ちらっと、だけど、今までいろんな障害者の話も私は聞いてたので、リハビリっていうのはちょっとうかんだんですね、リハビリ。ただ、ドクターは、特にリハビリっていう言葉は出てこなかったですよね。まあ、いろんなこと、考えましたね、それは。自分の家族のね、家族のことと、それから、これからどうするかとか、それから、リハビリをね、リハビリがどうしても、それ、やんないとだめかなっていうね。視覚障害者が生きてるわけですからね、現実にはね。そういう先輩たちがね。だから、リハビリっていうのがちょっと頭にうかんだのを記憶してますね。それも、リハビリのことが、あんまりよく意味がわかってないんですね。詳しくはわかってないんですね。少しは、少しだけわかってるんですけど。

 病名告知を受けた直後は、教師を続けるということについてもほとんど見通しがもてず、不安なばかりだった。解雇されるのではないかという不安も頭をよぎった。一方でリハビリテーションを受ければ何とかなるのではないかという漠然とした思いもあった。しかし、リハビリテーションを受ければ教師を続けられるという見通しをもっていたわけではなかった。

《tr.6-15》
(教師を続けることについての不安は)ありましたね。だから、これから、もう、しんどいことになるんじゃないか、でも、イメージとしてはまだわからない。どんなふうになるのかな、クビになるんじゃないかっていうのもね、勿論、かすめましたけど。クビになるかも知れない。それから、後、リハビリである程度のことができるんじゃないかっていう、漠然とした思いもありましたですね。ところが、結局、リハビリやったから、やれば、見通しがつくのではないかっていう、そういうのはないですね。リハビリやっても、厳しいのかなという思いがして。

【中村:そこで、まあ、仕事を辞めなければいけないとか、まだ、失明してもがんばらな…、あの、教壇に復帰し…、学校は絶対辞めずにいようと思ったとか、そういうことっていうのは、まだ、はっきりしなかったですか。】

そこはね、そのときは、もう、ちょっとパニック状態でしたから、このまま続けるんだ、続けるんだっていう思いもありましたけども、それよりも何よりも、どうなるんかなって、その、漠然とした不安なんですよね。これで、もう、クビになっちゃうんじゃないかなという、そういう不安ですね。だから、リハビリのイメージがあって、鮮明なリハビリのイメージがあって、それをやれば何とかなるっていうにはならなかったですね。そういうふうには考えないですね。ただ、リハビリっていうのをやって、それで、そういう、目が悪くなった人も、リハビリをやってる人がいるっていうのは、少し聞いてたので、漏れ聞いてたので、それで、視覚障害者が、あるいは、肢体不自由の人も、いろんな障害をもった人も、職場復帰してる人は、まあ、少ないかも知れないけど、いるというのは、ちょっとかすめたんです。しかし、自分としてはパニックですから、自信がないんです、そこまで。そういうふうにうまくいくかどうかっていう、そういう不安ですね。で、この、血が逆流するようなね、全身の血が逆流するような、そういう感じでしたね。

 病名告知を受けてからも、その年度一杯は従前と同じように勤務を続けた。次の年度に変わる1991(平成3)年、4月からリハビリテーション訓練を受けることになったが、告知後すぐにリハビリテーションへと向かったわけではない。今後の見通しが全くもてず、不安に襲われて悶々とする中で、以前の職場の先輩、現在の同僚、障害をもつ人など、いろいろな人と会って相談し、アドバイスをもらった。

《tr.6-16》
まあ、(リハビリテーションに)すぐにはいかなかったですよね。しばらくは授業をね、いつもと同じようにやってましたね。で、すぐにリハビリ、リハビリっていう、そういう流れにはならなかったですね。ただ、私が自分で思ってたのは、いろんな方と、障害者とか、いろんな、あの、前の職場の先輩とか、今の工芸のところの同僚と、いろんな人とね、相談…、後、障害者の方と、視覚障害者の方も、いろんな、相談をしてみて、いろんな人と会ってみようってことは思いましたね。そこから、いろんなアドバイスをいただけるんじゃないかっていう期待があったんですよね。何故そのように思ったかっていうと、やっぱり、悶々としてたって、不安がやっぱり、どんどん不安になるんですね、90パーセント。だから、見通しが全然ないわけですよね。そうすると、じゃあ、今までお世話になっていた立川高校時代の先輩たちとか、今の工芸の同僚とか、障害者とか、そういう人たちに相談をして、で、アドバイスをいただけたらいいなっていう、そういう気持ちになりましたね。で、実際、それをやりました。すると、やっぱりね、それはもう、非常に的確なアドバイスをしてくださる方もいらっしゃれば、なかなかね、それはわからないっていう人もね、いらっしゃいましたし。正直にね、わかりませんねっていう人もいらっしゃったけども、やっぱり多くの人とお会いしたので、それがよかったですね。お会いしてね、話しを聞いてもらうだけでも。

 交通事故や脳血管疾患などで障害を負った人がリハビリテーションをしていることは知っていた。リハビリテーションをしないと何もできなくなってしまうようにも思った。しかし、一方ではリハビリテーションを受けたからといって、そう簡単に仕事を続けられるようになるとも思えなかった。

《tr.6-17》
結局、今までもいろんなね、新聞とか、いろんな本とかで、交通事故でね、障害をもった人が、何か、その、あるいは、脳の障害でね、それで半身不随になった人とかね、そういう人がたくさんいらっしゃいますよね。そういう人たちはリハビリやってるというのは、頭にありましたから、やっぱり、これは何もリハビリをしなければ、ほとんど、いろんなことがほとんどできないですよね。ほとんどできない人間になってしまう。で、家の中に閉じこもると。それが頭の中にパッと浮かびましたので、やっぱり、リハビリっていうのはどっか頭にあった。しかし、さっきお話した通り、リハビリっていうのは思い浮かんだけれども、しかし、それで、そう簡単にはいかないっていうのは…。その当時は、リハビリは、今、私ね、リハビリはね、不思議な力とか、リハビリはあの、何だっけ、いろんな言い方するんですけどね…。えっと、不思議な力とか、それから、魔法の力とかって、変な言い方しちゃってね、独特な言い方ね。魔法の力っていうと、ほんとにね、ちょっととんちんかんな言い方ですけど、そういう言い方するんですけど、その当時はそういうふうに考えてなくって、今だからそう思うんですけども、その当時は、ほんとにそれで職場復帰できるのかなっていう、そういうのありましたよ。

 リハビリテーション訓練を受ける直接のきっかけになったのは、工芸高校の同僚のアドバイスだった。その同僚は、以前、埼玉県所沢市にある国立身体障害者リハビリテーションセンター(現・国立障害者リハビリテーションセンター)に勤務し、職業リハビリテーションのコースで指導員をしていた。その同僚から国立身体障害者リハビリテーションセンターの話を聞き、生活訓練をするコースに行くことを勧められた。連絡を取ってもらい、見学にも出かけた。

《tr.6-18》
たまたまですね、その工芸高校の同僚で、国リハ(=国立障害者リハビリテーションセンター)の、職リハってありますよね、職業リハビリテーション、あの、生活訓練科と、国リハの、その中に、職業リハビリテーションセンターもあったんです。管轄がその当時、片一方が労働省で、昔はほら、別々だったでしょ。厚生省と労働省。で、僕たちがいた生活訓練課のほうは、厚生省のほうで、で、その、職業リハビリのほうは労働省だったんですね。そっちの、職業リハのほうに教えてる先生が、私の工芸の同僚にいたんですよ。で、その人、その僕の同僚が国リハってとこへ行けば、あなたには一番、生活訓練課が一番いいんじゃないかって、そういうアドバイスしてくれたんです。これもね、ちょっとラッキーだったっていうか、そういうリハビリのことをね、専門家が、友人の、そのまた友人がね、いたので、それで、ちょっと紹介していただいたんですね。それで、一回、見に来なさいって…。



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(5) リハビリテーション ――治って帰ってくるっていうのが前提なんだ

 工芸高校3年目の1991(平成3)年、4月から病気休暇を取り、国立身体障害者リハビリテーションセンターに入所した。9月までの半年間、そこで視覚障害リハビリテーション訓練を受けた。その後の半年は、高校への通勤や授業準備など、リハビリテーション訓練で身に着けたことを実地で試して練習を重ねた。

《tr.6-19》
えっと、結局、工芸高校に入って、2年目ですね。41歳になったときに、目が悪くなるんですけども、そこで診てもらったんですね。その、41歳で悪くなったときに、診てもらって、それが順天堂という病院が、ご存知ですかね、御茶ノ水に、御茶ノ水の駅のそばにあるんですけども、そこで診てもらって、それで、網膜色素変性症がわかって、それまでは、何か、夜盲、夜盲でずっときて、だいぶ、その、怪我したりなんかしたのが続いたんですね。ですから、そこで、リハビリも行ったのが、その、都立の工芸高校のときに、病休と休職と半年ずつ取ったんです。合わせて1年間です。それが、2校目の工芸高校で、2年目に、39歳、40歳、41歳、そう、3年目ですね。3年目に取ったんです。で、そのとき、担任持ってたんですよ。担任持ってて、それで、1年間休職をしたいのでということで、管理職に言って、それで、そのときは管理職はどうぞどうぞっていうことでね、なったんですけども、埼玉県にある所沢の国立身体障害者リハビリテーションセンターでお世話になったんです。それで、結局、リハビリのほうは半年で終わって、4月から9月まで半年間やったんですね。で、半年間でもう…、それでOKだということで、半年やればまあいいでしょうということで、で、半年やって、その後は、まあ、これ、生活訓練っていうところですけどね。生活訓練課というところを出たんですけども、で、後は、残りの半年は何やったかというと、管理職に許可を得て、たまに学校に来て、それで、電車の乗り降りとか、バスの乗り降りとか、そういうのを自分で練習したり、それから、後、パソコンでいろんな授業準備ですよね。そういったこともやってました。ですから、後、半年は、おさらいみたいな感じでした。半年間習ったものを、復習みたいな、おさらいみたいな、そんな感じでしたね。

 リハビリテーション訓練を受けるためには仕事を休まなければならなかったが、そのための制度はなかった。管理職や教職員組合と相談し、はじめに6か月間の病気休暇を取り、その後、引き続いて6か月間の休職を取ることにした。病気休暇も休職も病気の治療と回復を前提としていたので、医学的な治療ではなく、病気そのものの回復は見込めないリハビリテーション訓練に適応することに管理職は難色を示した。管理職は視力が回復して復職することを強調し、リハビリテーション訓練にはあまり理解がなかったという。

《tr.6-20》
(リハビリテーション訓練を受けるのに)ほんとは病休でね、だけで、ほんとはね、すめばよかったんですけども、やっぱり、いろいろと相談してね、それで、組合のほうにも話したら、病休をまず取ってね、それから、もし、それで足らなかったら休職をね、半年。それで1年間、それで取ったらどうかっていうアドバイスがあったので、それをやったんですね。すると、やっぱり、その、休職っていうのは、やっぱり後でね、大変だったんですね。その後、戻るのが。戻るのに苦労したわけですね、結局は。その当時はわからないんですよ、僕は。何とかここで戻れるんじゃないかと、そういうね、非常に漠然とした思いです。

【中村:まあ、あの、病休のときには、病気静養のためっていうような理由で休むことになるわけでしょ。で、その期間にリハビリ施設に通うっていうのは、まあ言や、あの、なかなか認めにくい現状だったと思うんですよ、当時はね。今はリハビリ休暇的な考え方もあると思うんですけれども。そのことについては、別に管理職なりっていうのは、まあ、病休で取っていて、その間にリハビリ施設で訓練を受けるっていうことについての問題とかは起こらなかったですか。】

あのね、病休で最初いこうかなと思ったんですけども、こちらのほうはね、思ったんですけれども、やっぱり年休っていうのを出してきたですね、あっちは。あの、リハビリっていうのはね、病休にしてもね、治るという、治って帰ってくるっていうのが前提なんだっていうことを強調してましたので、病休だけっていうのは、何か、相手がいやがってたような感じを、ちょっと覚えてますけどね。もう、休職も勿論取ってねっていうみたいな、そんな感じだったのを記憶してるんですけどね。どうぞどうぞ、いってらっしゃいっていう感じでは言ったんですけども、でも、まあ、治って、それで戻ってくるっていうようなことも言ってましたね。治って帰ってくるのが当たり前だみたいな、そういうことを強調してましたよね。

【中村:でも、それは治療のためっていうわけじゃないじゃないですか。】

そうです。私はその点を強調したんですよね。リハビリはあくまでも視覚障害っていう機能障害を克服するには他の四感を使って、四つの感覚を使ってね、それでリハビリをするんだっていう話をしたんだけども、そういうのは、もう、受け入れませんね。

【中村:まあ、病休中ですよね、そのリハビリ施設に通われてたのは。そこに行くことについては何も言われなかったんですか。】

ああ、言われました、言われました。本来はそういうとこに行かない、行っちゃいけないので、まあ、家でゆっくりしていて、静養して治すっていうかね、そういうことを強調していたのを覚えてますね。だから、肯定的じゃないんですよね、リハビリに対して。

【中村:でも、まあ、一応、それは管理職は知ってるけど、まあ、目をつぶるっていうような、そんな感じで…。】

そういう感じです。はい。それで、途中で事務長と教頭が見学に来ましたよ。リハビリの、国リハの様子を見に来てくれて。



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(6) 復職交渉 ――2時間の授業をやってみてください

 一通りのリハビリテーション訓練は終えたものの、視力が回復したわけではない。山口先生は視覚障害をもちながらも教壇に復帰することを強く望んだ。しかし、管理職と東京都教育委員会はすぐには復職を許可しなかった。管理職と山口先生、あるいは教職員組合を交えて何度も復職交渉がもたれた。管理職から3月の春休みに模擬授業をするように言われ、管理職や同僚たちの前で倫理と世界史の授業を行った。授業のようすは写真に撮られ、テープレコーダーで録音された。これらの写真と録音は、参観した同僚の感想とともに都教委に提出されたようであった。結局、3月には復職許可が下りず、4月1日に電話で復職許可が告げられた。復職が許可されたのは、模擬授業への同僚たちの感想が大きな力になったのではないかと山口先生は考えている。

《tr.6-21》
あの、特に2月と3月が、(復職交渉の)一番最後の肝心なとこですね。そこで、2月と3月は、校長の許可を得て、毎日、通勤をしてね、それで、朝のラッシュもありますんで、この2ヶ月は自分で定期を買って通勤したいということで、許可を得て、してたんですよね。それで、話し合いをしてたんですけれども、その、職場復帰に関してね、話し合いをしてたんですけども、うまくいかなかったんですね。うまくいかなくって、それで、3月に、3月の春休みに2時間の授業をやってみてくださいっていうようなね、自分の専門の倫理社会のほうと、後、世界史と、2時間連続でやってくれっていうんでね、それで、同僚と相談したら、まあ、柔軟に構えて、じゃあ、山口さん、やってみようかっていうんでね、同僚みんなで、そういうふうに、やろうっていうことになってきて。それで、そのときには写真を撮らせてもらいたいとか、で、テープのことは言わないんですよ。写真を撮らせてくれないかって、いいですよって言って。テープのことは言わなくって、後でテープはとってたみたいですけどね。それで、それを3月の春休みのところで、私が2時間いって、それで、黒板も使って、校長、教頭、事務長、それから、同僚が春休みなのにね、20人ぐらい来てくれたんですよ。もうみんな、予定があるのにね、それにも関わらずね、申し訳なかったと思うんですけど、来てくれてね。それで、質問してくれたりしてね。それで、あの、勿論、生徒はなしでやったんですけどね。それを、テープと写真を東京都に持っていったらしいんです。で、そのときに同僚が自分の感想とか、それから、山口のこれからの課題とか後、問題点とか、それを何か小さい紙にみんな書いてくれたらしいんです。で、それを管理職、校長に渡したらしいんです。それを持っていったらしいんですよ、東京都へ。それがかなり積極的な役割を果たしてる。僕の印象ですけどね。しかし、その内容を、僕はコピーでもいいから後で見せてくれって言ったんですよ。そしたら管理職は、いまだに見せてくれないんですよ。

【中村:その同僚のコメントみたいなやつですね。】

そうです。それをちょっと見せたって別にねえ…。秘密書類じゃないんだからね。マル秘じゃないんだからね。それなのに、何かまかりならんみたいな、管理職は偉そうでしたよ。でも、それがね、かなり力になったように思いますね、僕はね。僕の印象ですよ。で、結局、校長も教頭も事務室長も、何かちょっと結論を出しにくかったのか、それで、まあ、最後まで東京都と管理職で話し合ったと思うんだけども、4月1日になって、それで、電話があって、職場復帰が、電話で言われたんですよ。1日になってから。31日じゃなくてね。3月じゃなくて、1日なんですよ。

 復職に際して、視覚障害を配慮した公的なサポートは全くなかった。視覚障害者用パソコンなどの機器が整備されることもなく、人的なサポートが配置されることもなかった。校長にサポートの要望を伝えても対応してもらえなかった。山口先生はわずかに残る視力を活用して、他の教師と同等の授業時数をこなしていた。

《tr.6-22》
その、4月1日のときにちょっとやりあったんですよ、校長とね。職場復帰許可するって、そういう言い方でしたけどね。そのときに、何か、私もね、ちょっとはっきりと覚えてないんですけどね、何か、一つね、自分の要望を言ったんですよ。そしたら、相手が怒って、そんなこと言うんだったら取り消すよみたいなことを言ったんですよ。で、それでちょっと沈黙が続いちゃったりして。それね、私、何をお願いしたかね、ボランティアのことでもないし、ボランティアはもうちょっとしてからですね、お願いしたのは。えっと、授業時数のことでもないし、何か言ったんですよ、お願いは、一つね。そしたら、それはすぐにはできないとかね、そういう感じでしたけどね。ちょっと、そこでやりあったんですけど。うーんとね、あっ、授業、持ち時間のことがあったかも知れません、その中に。持ち時間数ですね。あまりにも持ち時間数が多いので、それをね、いくらか配慮してもらいたいっていうことだったかも知れませんね。みんな、16ぐらいやってますからね。あたり前でね、16はね。で、ほんと、休む人もいると。だから、それをもうちょっと配慮してもらえたら、例えば、例え2時間でも3時間でもね、そういう配慮してもらえたらっていうようなことを言ったのかも知れませんけど。そしたら、そんなのはいきなりはできないって…。



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(7) パソコンの貸与 ――高等学校教育課がやってくれたようですね

 復職してからしばらくは自分のノートパソコンを職場に持ち込んで使っていた。しかし、パソコンの買い替えを考えたのを機に、学校で準備してくれるように要望を出した。要望はすんなりと通り、間もなくパソコンとプリンター、画面読み上げソフトが整備された。これらは山口先生に貸与されるというかたちで、専用に使うことができた。学校個別の予算ではなく、東京都教育委員会から予算措置を受けたものだという。従って、次に転任した東京都立小平高校にもそれらを持って行った。そして、退職時には返却した。

《tr.6-23》
パソコンは、結局、自分で持っていったものをずっと使ってたんですけども、途中から、やっぱり新しいの、買いたかったんですね、自分のをね。それで、事務室長と相談して、ダメモトでね、出してみたんですよ。そしたら、パッとやってくれたんです。早かったですよ。頼んだと思ったら、すぐに来ましたよ。それがよかったですね。でも、どうしてそういうふうに、そんなに早くできるようになったのかね、自分でもわからないんですよ。今までは管理職が否定的だった。だとすると、事務室長の決断かもしれませんね。パソコンと関係機器は高価なものでしたよ。これはね、あくまでも、貸す、私に貸してくれるっていうんでね、貸すんだから、それはあなた専用に使っていいと。点字を上につけてもいいし、プリンターも、もう、簡単なプリンターで使いやすいもの、そのセットで、後、ソフトですね。その3点セットで、かなりの値段でしたよ。パソコンだって小型のいいパソコンで、値段もね、よかったんですよ。使いやすかったんですよね。それは、結局、次の学校まで持っていくことになったんですね。小平高校までね、持っていくことになったんですね。

【中村:音声ソフトが入ってたんですか。】

音声ソフトも、そのお金で、東京都のほうで買ってくれたんです。そのノートパソコンと音声ソフトと、それから後、プリンター、その3点セットを買ってくれたんですね。そのときに何を買ったらいいかっていうのは、その、スラッシュって聞いたことありますか。スラッシュって、中央線の荻窪…。

【中村:いや、知らないです。】

スラッシュってパソコン教室なんですけどね、東京の荻窪って、中央線の荻窪って、この隣の隣が吉祥寺ですよね。吉祥寺、西荻窪、これ、東京方向に向かって、新宿方向に向かってるんですけどね、その西荻窪の、その隣が荻窪っていう駅があるんですね。その荻窪で、全盲のかた、ご夫婦でパソコン教室やってるんですよ。スラッシュっていうんですけどね。そこに僕もずっとお世話になってるんですよ。いろんなことを教えてもらうのにね。そのスラッシュの先生に、どういったものを買ったらいいかっていうことをね、メニューを作ってもらったんですよ。プリンターとパソコンとソフトと。それで、選んでもらって、それを買ったんです。そしたら、それはね、東京都でもね、それはOKっていうんですよ。買ってくれたんですね。で、それは退職まで使ったんですよ。ですから長く使いましたよ。

【中村:山口先生から学校を通じて申請したものが、特別の予算みたいなかたちで東京都から出されたっていう感じなんですかね。】

工芸には予算がなかったので、都のほうで、教育委員会のほうで、高等学校教育課がやってくれたようですね。その予算でやってくれたんです。

【中村:学校内での予算をやりくりしたっていうわけじゃなくって…。】

じゃないんです。はい。それで、私が退職する時点でそれを返すと。その3点セットを返すということです。



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(8) 担当授業時数の軽減と講師配置 ――校内でやったみたいでね、運用か何かでね

 視覚障害があると授業の準備をするのにも他の教師よりずっと手間がかかる。他の教師と同等の授業時数を担当することは山口先生にとっては過剰な負担となった。そこで担当授業時数の軽減を要望していた。復職してから1、2年後ぐらいにそれが認められ、週4時間の軽減が実施された。他の教師たちが週16時間担当するところを、山口先生は週12時間となった。

《tr.6-24》
(授業の)持ち時間をね、持ち時間がしんどいので、せめて少し減らしてほしいってことはずっと言い続けて、それで、あっ、そうだ、職場復帰してから、ほんの少ししてから、えっと、何年ぐらいしてからかな、1年、2年ぐらいしてからですかね、みんな16時間やってるのに、12時間にしてくれましたね。それでだいぶ助かりましたね。

 山口先生の授業時数を減らした分は、他の社会科教諭が担当した。しかし、そのままでは他の教師に負担が回ってしまう。そこで、以前からいた非常勤講師の授業時数を増やして調整した。非常勤講師の授業時数を増やす措置は、山口先生のサポートとして行われたのかどうかは明確ではない。社会科の教科内、または学校全体での運用として行われていたかもしれないという。

《tr.6-25》
これ(=減らした授業の穴埋め)はね、複雑な授業の割り振りをしたんですね。私、その当時は、現代社会というのをやってたので、だから、その現代社会の一部分を他の先生がやってくれたんですよね。すると、その他の先生が持ち時間数が増えるんですけども、その方が日本史だったので、その方の日本史と現代社会と両方で増えちゃいますよね、そのとき。で、その方のほうの日本史の部分を、数時間、非常勤、やってましたね。ですから、結局、その非常勤を頼んでくれたので、それが、どうなんですかね、加配とは違うか…。加配になるのかな。そこはちょっと加配になるのかどうかわかりませんが、何しろその分を、僕の分を減らしてくれたんですね。

【中村:まるまる他の先生方に負担がいくっていうわけじゃなくって、それを非常勤、これはどういうかたちで入ってたかわからないけども、非常勤の先生が4時間授業を持って、4時間なり、何時間なり授業を持ってもらうかたちで補ってたということなんでしょうかね。】

はい、そうです。

【中村:それは山口先生の視覚障害のための加配とかいうような名目ではなかった…。】

じゃなかったみたいです。何か、校内でやったみたいでね、運用か何かでね。どういう運用だか、ちょっと詳しくは覚えてませんけどもね。その非常勤の方はずっと来てたんですよね。だから、その人がちょっと増えたっていう感じだったかなと思うんですけどもね。それで、あっ、そうだ、思い出した。結局、その3人でやってましたよね、工芸はね。3人だとどうしても非常勤の人がいないとできないんですよ、全部は。とてもクラスが多いのです。非常勤の人が割りと多かったんです。何人かいらっしゃいました。

【中村:ほな、まあ、明確な障害者のサポートっていうのではなくて、かなり教科内の運用的な感じですね。】

そうです。はい。あるいは、学校全体のね。校内の運用かも知れないし。



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(9) 工芸高校でのボランティアのサポート ――空き時間はほとんど入ってくれてました

 山口先生の仕事をサポートしてくれる公的な人員配置はなかった。見えないことを補い、サポートしてくれたのはボランティアの人たちだった。毎朝1時間の新聞音読、書類や書籍の音読、試験の採点など、視力を必要とする仕事の多くを手伝ってくれた。工芸高校のある文京区には筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)があった。そのため、視覚障害者のボランティア経験の長い人が多く、有効な支援を受けることができた。

《tr.6-26》
結局ですね、職場復帰してから、ボランティアの人に新聞をね、朝、たくさんの新聞を読んでいただきたいと思っていて、ボランティアの人が学校に入ることを許可していただきたいというので、1年間かかったんですよね。職場復帰してから1年間かけて、やっとボランティアの人が職員会議でOKっていうふうになったんですけど、で、このボランティアの人たちは、新聞を、朝、1時間、1時間目始まる前に、1時間読んでいただくだけじゃなくって、それ以外の、いろんな採点とか、そういうのもやってくれましたよね。それから、教育関係の雑誌とか、それから、専門書を読んでいただいたりとか。ですから、空き時間が、朝だけ、勿論、朝も必ず月曜から金曜まで1時間はみんなで交代で入ってるんですね。月曜日はこの人、火曜日はこの人って。で、それ以外に、水曜日の3時間目が空き時間になるとしたら、そこに誰かが入ってくれて、そこで専門書を読んでいただいたりとか、それからちょっとした目を使うことですね、書類に目を通してもらうとか、そういったことをボランティアの人がかなりね、もう、その朝だけじゃなくって、空き時間はほとんど入ってくれてました。で、文京区なので、その工芸高校が。あの、ボランティアが歴史があるんですよ、文京区で、あの、筑波の附属(=筑波大学附属視覚特別支援学校)がありますよね。文京区にあるんですよね、筑波の附属がね。で、そういうのも影響があって、歴史が古くて、そして、また、おまけに機動力があるんですよ。それで、そういうベテランの人がたくさんいるんですよ。それで、その関係もあってね、空き時間なんかね、よく来てくれましたよ、みなさん。で、勿論、採点なんかは、そのみなさんがキュと集まってくれて、たくさん集まってくれて、その日のうちにやってくれたんです。

 山口先生のサポートのためにボランティアが校内に出入りすることには反対意見もあった。職員会議で承諾を得ようとしても、部外者のボランティアが校内に入ることに強い抵抗を示す教師もいた。管理職は傍観しているだけで、調整や意思表明はしなかったという。職員会議で何度か議論をしたが、ボランティアの校内立ち入りが承諾されるまでには1年間かかった。当初は校内でボランティアのサポートを受けることができず、山口先生は毎朝、校門の外で立ったまま新聞の音読を受けていた。それを見かねた同僚が、校内立ち入りの必要性を強く訴えてくれ、やっと実現したのだという。

《tr.6-27》
(毎朝の新聞音読は)もうね、喫茶店のね、喫茶店でも、朝、にんなね、モーニング食べてたりしてるわけですよね、早い時間。それで、そんなあいてないですよね、そんな早くからはね。僕なんか、7時ちょっと過ぎには、もう、学校に入ってたんで、それで、7時半ぐらいからあくとこもたまにあるんですよ。この水道橋はすごくにぎやかなとこですからね。東京ドームや多くの高校、大学、専門学校等があるんでね。にぎやかなとこですから、お店もたくさんあってね。喫茶店も、まあ、朝早くからやってるとこがあっても、そんなに朝早くやってないわけですよ、モーニングするってもね。それで、あいてれば喫茶店の端っこのほうで、他の人に邪魔にならない程度にね、小さい声で読んでいただいたり。でも、あいてないところが大体だったので、校門のところで、道の端っこでね、読んでもらったりしてたんです。で、それがしばらく続いたんですよ。そしたら、同僚が、あの、ずっとね、山口がああやって外でね、ボランティアの人にね、授業の準備で読んでもらってるのは、これは授業に関係してるんだから、これは教育の基本的な仕事をね、やってるんで、個人的にやってるんじゃないと。それから、これは、外でこうやって読んでもらうっていうのはね、職員に対してね、ボランティアの人にもそうだけど、職員に対しても、ボランティアの人に対してもね、非常に無礼じゃないかって言ってくれた人がいたんですよ、若い人で。それで決まっちゃったんです。それまで1年間ね、これはだめだ、あれはだめだ…。

 ボランティアの校内立ち入りが承諾されなかった1年間は、同僚や生徒たちに手伝ってもらうことも多かった。試験の採点などは社会科の教師たちに手伝ってもらった。生徒たちは社会科係として、授業で使うプリントの印刷などをしてくれた。それでも終わらない仕事は自宅に持ち帰り、家族にも手伝ってもらった。校内でのボランティアのサポート体制が整えられてからは、視力を必要とする仕事のほとんどをボランティアの人たちに手伝ってもらうことができるようになった。生徒の成績などの個人情報がボランティアの目に触れることもあったが、決して外部に守れることがないように念押しした。年度当初にボランティアの人たち全員に集まってもらい、校長からも個人情報の扱いをはじめとする注意点が確認された。ボランティア団体で長く活動をしてきた人たちなので、高い自覚をもっておられ、安心して任せることができたという。

《tr.6-28》
それから、(ボランティアの人に手伝ってもらったことは)成績をつけるときの間違いがないかどうかの確認。そういう、その子の情報をね、外に出さないってことは、もう、最初に校長、校長がね、最初はね、来てくれるんですよ。4月の初めのときにね。ボランティアの人、全員集まってもらって、そこで、情報がね、外に漏れないようにしていただきたいっていうことと、いくつかの注意点を校長のほうから言ってもらって、で、校長のほうも頭下げて、どうぞよろしくお願いしますって。

【中村:一番、ボランティアさんにお願いすることで、ネックになるのは、僕もボランティアさんお願いしていてやってもらったんですが、一つは生徒に直接関わる成績のこととかを、まあ、ボランティアさんに見せていいのかっていうようなことが一つと、後、職員会議の資料なんかも、実はあって、職員会議の資料こそ、なかなかボランティアさんに読んでもらうのは問題があったりもするということもあったんですけども、そういう、例えば、テストの採点なんかをボランティアさんにやってもらうことに関しては、そんなに問題はなかったですか。】

はい。それね、私が作ったもの等をチェックしてもらうので、平均点がどうだとか、そういうところなので、勿論、名前とかそんなの見えますけれども、最初のところでそれを確認しているので、それから、また、しっかりとした方が多いんですけどね。そういうのをきちっとやってくれるので、そのへんは全然大丈夫でしたね。今まで、そういう、ちょっと大丈夫かなっていうのはなかったですね。安心してお任せして、それで、個人情報に関してはっていうことも言ってあって、割とくどく言ってありますからね。そのへんは安心していましたし、後、職員会議の資料を読んでいただくってことは、ほとんど同僚にやってもらいました。ちょっと微妙なのもあるんでね。

 ボランティアの募集やサポート体制作りは山口先生が自分で行った。地元の社会福祉協議会やボランティアセンターにボランティア団体を紹介してもらう。そして、そのボランティア団体とサポート内容や時間などを相談してサポート体制を整えていった。

《tr.6-29》
一番最初は社会福祉協議会にお願いして、ボランティアの団体をご紹介していただいて、で、今度は、ご紹介していただいたら、後はもうボランティアのみなさんとの相談っていうことで。だから、元々は社会福祉協議会とか、ボランティアセンターですね、地元のね。文京区だったら文京区。それがスタートで、そっから今度はボランティアのみなさんと直接にね。



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(10) 全国視覚障害教師の会とのかかわり ――仕事を続ける上でなくてはならない母港

 1991(平成3)年9月に国立身体障害者リハビリテーションセンターでの訓練を終え、さらなるスキルアップをはかるため山口先生は東京都新宿区の日本盲人職能開発センターを尋ねた。そこで視覚障害をもつ教師の会があることを知らされた。全国視覚障害教師の会だった。山口先生はそのような会があることに驚いたという。連絡先を教えてもらい、電話でコンタクトを取り、入会した。その後、兵庫県神戸市で行われた夏季研修総会にはじめて参加した。それまでの緊張感がほぐれ、ゆったりとした安心感をもてたという。これからも教師をやっていけそうだという気持ちになれた。

《tr.6-30》
やっぱりね、初めて六甲(=夏季研修総会会場の六甲荘)に行ってですね、みなさんとお会いして、それで、自分の職場復帰のこともちょっとだけお話して、したら、すごく安心感というか、ほっとして、そして、何か、あの、これからね、やっていけそうだっていう、そういう、とてもね、ゆったりとした感じになりましたね。安心感がね、できましたね。それまでは、もう、緊張しきってね、肩肘張ってるわけです。

【中村:(全国視覚障害)教師の会の夏の研修会で他の先生方と交流したときの感じっていうのは、まあ、安心感みたいな、そんな感じだったんですかね。】

ほっとするっていいますかね。ほんとにね、うれしくて涙が出ました。

 他の視覚障害教師たちの実践を知ったことで、職場での交渉などで自信と説得力をもって話ができるようになった。自分だけが例外として孤立させられがちだったが、全国の実践例が後ろ楯となり、くじけずに立ち上がる力を与えられたという。また、他の視覚障害教師たちの実践例を聞くことで、困難を乗り越えるヒントを得、発展的に自分の実践に活かすこともできた。退職強要などの切迫した事態に見舞われたときに相談できる場ができたことも大きかった。

《tr.6-31》
やっぱり、(視覚障害教師の)たくさんの事例がね、その、一人ひとりの事例があるわけですから、それが、こちらが何か、職場で話すのでも、非常にリアリティーをもつし、相手に、ある意味では説得力もあると思いますね。これは私しかやってませんとかっていうのと違いますからね。こんなことを全国で行われているんだと、こんな実践をしてる人がいるんだという、そういうたくさんの生きた実践がありますので、その生きた実践が裏打ちされて、自分の、ひどいことを言われても、それに対してめげないと、ふてくされないと、そういう、こう、自分自身が積極的に、こう、多少ね、たたかれてもね、それでも、まあ、立ち上がるような、そういう力をね、与えられたような、そういう感じですね。

【中村:うーん。】

孤立感があるわけですよね。例外、そういうのはないっとかっていう、例外だとかって言われると、非常に孤立感で、その、非常に、こう、発想がね、狭くなっちゃうんです。いじけてきちゃうんですね。

【中村:他の先生方の実践を聞いて、それを他の人と話しするときも自分だけのことじゃなくってっれいう話しにもっていくし、自分自身も同じような立場の人がいるということで心強いっていうような、そんな感じだったんですかね。】

結局、その、こういう困難があったときにはどうしたらいいかっていう、その方法が、たくさんの方法があるわけですよね。ところが、それは一人で考えてるときは、イメージが出てこないときがあるんです。ところが、ちょっとしたヒントをいただいたり、具体的に私はこんなことやってるっていうのを、全国のいろんな人の話をうかがうと、あっ、そういうこともあるんだと。それから、そのお話から、じゃあ、今度は別の考え方も生まれてくるんですよ。その話しをうかがったところから、別のことを、別の方法が、そこから、そのうかがった話から思い浮かぶこともあるんですよ。まさにネットワーク的な発送で。だから、単に励まされるだけじゃなくって、新たな方法とか、見方とか、そういったものが、明日につながっていくっていう感じがします。その人の一人の実践だけじゃなくって、あの、兵庫の、大阪のあの人がこういうふうにやってる。じゃあ、私はこういうこともできるかも知れないとか、そういう広がりですね。全く同じじゃないけども、こういう方法があるかも知れないとか。じゃあ、それ、やってみるかとか。そういうなの、ありますね。後ろ向きじゃないような。

【中村:その、視覚障害教師の会と出合った意味っていうのは、何か、そういう、一つは精神的なものと…。】

そうです。安心感。

【中村:後、もう一つは、まあ、ノウハウ的なことっていうことになるんですかね。そういうことも情報としては仕入れることができてという、二つのことがあったんですかね。】

そうですね。もう、中心はその二つですよね。それから、何か、急に、例えばですね、その、私学でもそうですけども、急に、もうね、辞めろって言われたときにね、そのときに、みなさんと相談する場があるっていう、それもあります。

 山口先生にとって全国視覚障害教師の会は仕事を続けていくのに不可欠な存在だったという。精神的な支柱でもあり、具体的な方法を学べる場でもあった。

《tr.6-32》
(私にとって視覚障害教師の会は)障害をもちつつ仕事を続けていく上で、不可欠な、なくてはならないベースっていいますかね。母港というか、その、港ですね。母の港。母港っていいますかね。世界に行っちゃったりして。あの、母港ですね、やっぱりね。そこからいろいろと発信されたものが、自分の力にもなるし、それから、自分がこれからどういうふうにして生きていくかっていう、そういうとこのヒントをもらえるっていうんで、やっぱり、仕事を続ける上でなくてはならない母港。あの、学校でもあるかも知れませんね。母校ね。そっちの、学校の母校かも知れません。港の母港と、両方。

【中村:やっぱり、仕事をしていく上での不可欠な力になったという…。】

なくてはならない支えであり、ホームベースであり、ふるさとみたいなね。ふるさとっていうと、また、さっきの母港とは違いますけどね。そういう、一番、基礎的な、基本的なところですね。精神的な支柱だけじゃなくってね。具体的な方法を教えてくれたり、あるいはヒントをもらったり、それから、励まされたり、逆に励ましたりっていうこともあるかも知れませんし。

 全国視覚障害教師の会では、研修を活動の大きな柱としている。会員同士の教育実践を研修の場で持ち寄り、成功例や失敗例、模索していることや悩んでいることを出し合って学び合う。それは視覚障害教師の会の活動の中で不可欠なものだと山口先生は考えている。

《tr.6-33》
やっぱり、これもすごく、あの、先ほどの就労と、仕事に就くという就労と、継続と、勿論、連動していくんですけども、研修っていうものは、やっぱり、研修、研究っていうものが、われわれ教育に携わる人間は、とりわけ大事なんですよね。自分の成長がストップしたり、自分の世界観、すなわち、自然観とか、社会観とか、そういったものが深化することなく、止まっちゃうと、そこで成長が止まっちゃいますので、実際、自然も社会も動いてますから、その動いているのと同様に自分自身も、自然観とか、社会観もどんどんどんどん変化するっていうか、成熟、発展されるっていいますかね、そういう、自分自身をストップしないように、変わっていく、自己変革していく、で、自分の自然、世界観を変える。それが、結局、その人の成長になるわけですけども、そういったものを、とりわけ(全国視覚障害)教師の会は研修、研究を通して、自分自身を変えると、自分自身を変えることは、今度は、授業や分掌やクラブ指導にもすぐに反映するんですね。ですから、研修っていうものがJVTの中では非常に重要な柱に位置づけて、それで、われわれも、その、研修大会って言ったり、研修総会って言ったりしますけれども、研修っていう言葉が必ず入ってくるということで、お互いに経験交流、失敗した例とか、うまくいった例とか、今、模索しているものは何だとか、今、悩んでいるものは何だとか、そういったものを常に、その、研修を、個人で勉強することも当然ですけども、会としては、集団的に研修して、お互いの実践を交流しあって、成功した例ばっかりではなくって、失敗した例とか、今、悶々としている部分とか、今、いろいろと努力してるんだけども、模索してる人とかね、そういう人の実践を聞くと、そこからみんなで学び合うっていうか、そういった研修っていうものが拡大役員会でも、総会でも、やっぱり大事な位置にあると思うんですよね。不可欠な位置に、不可欠な存在だと…。



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(11) 転任 ――処分された人間はですね、都立高校では、それを動かすわけですよ

 教師はほとんどの場合、その教師生活の中でいくつかの学校に転任する。教育委員会には1校の在任年数の目安を規定しているところも多い。山口先生は工芸高校に16年間在任した。在任年数の目安を6年とする都立高校においてはかなり長期間の在任だったという。同僚の中には定年退職まで山口先生の転任はないだろうといううわさもあった。実際、視覚障害教師の転任には、転任先の受け入れ体制の問題など、他の教師にはない障壁がある。山口先生に転任の話が出たのは、2003(平成15)年10月に東京都教育委員会から出された通達「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」☆2に従わず、懲戒処分を受けた後だった。当時、この通達に基づく職務命令に違反し、懲戒処分を受けた教諭は、通例の転任規定にのっとらず転任させられたのだという。

《tr.6-34》
管理職はそういうことは一切言わないんだけど、同僚のうわさで、山口は、多分、定年まで工芸(高校)かなみたいなことがね、うわさね。みんな、そういうこと言ってた。で、どうして、どうしてって言ったらね、多分、そうじゃないのとかって、そういう先輩たちがね、そういうこと言ったりね。で、うわさでもする。えーっ、そうなの、それにだってちゃんと異動の要綱があるわけですよね、東京都の場合。どこでもそうですけどね。で、6年っていうので異動しなくちゃいけないっていうのがあるわけですから、だから、それ、おかしいんじゃないのって僕は思ったんだけどもね、そのうわさに対してね。それで、結局、もう、今年、8年目になりますけども、例の日の丸・君が代の裁判を、私が二つたたかってまして、それで、あの、自分が処分されたほうの裁判と、それから、予防訴訟っていうのでね、これは、その、日の丸・君が代を強制するのを石原さんが始める前に起こしたのが予防訴訟なんですね。予防だからね。それを防ぐってことで予防訴訟。その二つをやっていて、もう8年目なんですけども、その分、私はね、やっぱり、経済的な負担も大きいですしね、その裁判ですからね。そういったものもあって、そういう処分された人間はですね、都立高校では、それを動かすわけですよ、そういう人間を。

【中村:ああ、処分されたときに異動させる…。】

そうです。すなわち、ちゃんと6年経ったら異動させるっていうのとは、そういうのを無視してやるわけですよ、そういうふうにね、強引にね。で、私も、結局、それと関係があると思うので、あの、何かね、今までは16年もいたのにね、急にそういう話が出てきてね。

 校長から転任先の希望を聞かれ、山口先生は自宅から近い高校にしてほしいと伝えた。工芸高校は水道橋にあり、三鷹の自宅からは都心に向かう満員電車に1時間ほど乗らなければならなかった。しかし、転任先に決まった小平高校は、都心とは逆方向で電車はすいていたが、電車とバスを乗り継ぎ、危険な道を歩いて1時間20分ほどかかるところだった。視覚障害教師にとって通勤の安全性と至便性は勤務先の決定には重要な条件である。山口先生は通勤距離の短いところを再度希望したが、校長は決まったこととして取り合わなかったという。

《tr.6-35》
それで、山口さん、(転任先について)要望はあるって校長が言うのね。あの、要望はね、やっぱり、今、1時間、通勤時間が1時間なので、満員電車なんですよね、あの、都心のほうに行くんですね、水道橋。水道橋って駅で、都心のほうなんですよね。御茶ノ水の隣なんですね。

【中村:工芸高校が…。】

工芸高校。それで、工芸高校まで1時間かかったので、それも満員電車だったので、まあ、ちょっと、僕としては、ちょっと大変だったので、まあ、近いところをお願いします。そしたら、はいはいはいはいって、何か、はいはいはいはいって生返事なのね。あの、管理職がね。校長がね。だから、これ、生返事であやしいなって思ったんだけど、そしたら、今、1時間、今っていうか、小平高校は1時間20分ぐらいかかる。

【中村:余計、遠くなったんですか。】

遠くなったんです。方向は逆になって、確かに電車はすいてるんですよ。あの、都心のほうじゃない方向に行くので、まあ、少しすいてることはすいてる。しかし、バス、電車、バスっていうね、そういうあれなんですよ。乗り換えが多いんですよね。危険性が伴うのね。で、その、バス、電車、バスの後、また、歩くんですよ、しばらくね。難しいとこ、狭いとこ、危ない、危険なところをね。それで、まあ、もっとね、なるべく近いところっていうのをお願いしたいんだけどって言ったら、だめだって言うんですよ。もう、そういうふうに決まったんだからって。そういう、こう、言い方なんです。横柄な言い方。決まったんだから、変更なしみたいな、そういう言い方。僕は30分か、40分ぐらいのとこ、お願いしますってね、お願いしたんですよね。で、それは、あの、生返事。わかった、わかった、わかったって、それだけ…。わかってないんですよ、全然ね。そういういい加減なんです。

【中村:ほな、特に山口先生から異動希望を出されたとかっていうことでなくって、向こうから異動してくださいっていうような…。】

そのとおりです。それで、結局、僕は、どこの、都立何々高校ってことは言わなかったんですよね。それで、30分から40分ぐらいだと少し楽になって、安全性も高まるので、あの、30分か40分、片道ね、そういうところをお願いしますって言ったら、逆に増えちゃった。

2005(平成17)年4月、16年間勤めた工芸高校から小平高校に転任した。小平高校が転任先に選ばれた理由を山口先生は二つ推測している。一つは通勤方向が都心とは逆向きで電車がすいていること、もう一つは女性校長が、社会福祉協議会ともつながりがあったことである。転任には受け入れ側の校長の意向が大きくかかわる。小平高校の校長は山口先生の着任に先立って教職員に理解と協力を依頼してくれていたという。また、社会福祉協議会とも相談したり、ボランティアとのかかわりも積極的だった。

《tr.6-36》
多分ね、逆方向でしょ、満員電車じゃない、中央線のね、満員電車に乗らなくてもいい逆のほうだから、あの、山口にはいいんじゃないかっていうのはあったかも知れません。で、もう一つはね、女性の校長が何人かいるんですけども、そんなに多くないんですね、都立高校でもね。まあ、10名ぐらい。それで、その女性の校長だったんですよ。その人が、地元の社会福祉協議会とのコンタクトもあって、いろいろと社会福祉協議会の人間とも相談してくれたり、それから、ボランティアのみなさんとの会話も割りと積極的にやってくれたり、それで、山口が来るので、あの、こういう人が来るので、先生方、いろんな先生方にも話しをしてくれていたんです。で、割とね、そこはスムーズに。それで、こまかいとこまでね、配慮してくれてましたね。だから、多分、教育委員会のほうからそういう話があって、まあ、頼むよみたいなことがあったんじゃないかと思う。

 工芸高校と小平高校との大きな違いは社会科教師の人数だった。職業科を中心とする工芸高校では2、3名の教諭と非常勤講師ですべての社会科の授業を行っていた。だが、普通科を中心とする小平高校では社会科の教師が7名いた。社会科教師の準備室があり、山口先生がそこにはじめて立ち入ったとき、部屋の中心に机と椅子があり、机の上には資料が山積みになっていた。山口先生は歩きにくさを感じた。しかし、次に行ったときには、テーブルは無かった。山口先生の動きやすさを配慮して社会科の同僚たちが整理してくれたのだった。要望したわけでもないのに、新しい同僚たちが気配りをしてくれたことがうれしかったという。

《tr.6-37》
ちょっとこれね、小さいことですけどね、社会科の教員が工芸高校のときには、あっ、3人って昨日言いましたよね。それがですね、何と最後のほうでは、たった二人にされちゃったんです。

【中村:先生も含めて。】

そうです。それは信じられないようなこと。それで、非常勤でみんなね、やろうっていう、そういう発想でね。それで、今度はですね、異動した小平は、あの、7人なんです。だから、まあ、普通校だからね、普通科の教科が重点ですからね。工芸高校とは違うんでね。で、7人いたんですね。社会科の部屋がですね、まあ、みんな、壁に向かってたんですよ。壁に向かってね、4人、こっち4人、こっち3人と。それで、こっち側に窓があって、それで、入り口があって、入り口の丁度正面が窓で、それで、西側の窓で、それで、こう、壁に向かってたんですね、4人と3人で。そしたら、真ん中のところにテーブルがあったんですよ。そこは、僕、初めてお邪魔したときに、そこを歩くのが難しかったんですね。かに歩きしないと、テーブルがあって、で、椅子がこっちにあって。それで、そのテーブルの上がですね、何と、もう、この、いろんなものが、ほら、煩雑に、あの、ほら、何かいろんな副読本とか、教科書とか、山積みになって崩れるようになってるんです。そしたらね、2回目、僕が行ったときにね、それがなかったんです。それが全部なかったんです。別に、あの、これ、ちょっと何とかしてくれって言わなかった…。ただ、ちょっと歩きづらいみたいな、何か、ちょっと言ったかも知れない。つぶやいたかもね。それで、それがですね、きれいになっていて、すっきりしちゃったんですよ。そうしたら、他の人が来て、英語の人とかね、国語の人とかが来て、それで、あの、あれっ、どうしたの、すっきりしたじゃんみたいな…。そしたら、社会科のほうで、あの、山口さんが来たからね、やっぱり、あれ、だめだよみたいな…。そんなようにね、やってくれましたね。それは、もう、うれしかった。山口さん、歩けないよ、これじゃみたいな。



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(12) 小平高校でのボランティアのサポート ――13人ぐらいの人がローテーションで

 小平高校に転任してからは、工芸高校時代のボランティアにサポートしてもらうようなことができなくなった。小平高校の地域の社会福祉協議会に相談し、ボランティアとしてサポートしてくれる人を探した。工芸高校は同じ文京区内に筑波大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)があり、地域に視覚障害者のボランティアの素地があった。だが、小平高校では最初は人数が集まらなかった。多くの時間を割けない人には、ローテーションを組んで月に2回でも入ってもらえるようにした。未経験の人も歓迎した。次第に人数が増えて十数人となり、サポート体制が整っていった。管理職も協力的で、ボランティアの校内立ち入りについて同僚から反対されることもなかった。

《tr.6-38》
(工芸高校では)そこでもうボランティアやってる方なので、そういうベテランの方が何人もいて、いろいろとお世話になったんですね。朝早くからね。で、それとは、ちょっと、今度は小平に移ってからは、最初は人数少なかったんですよ。小平の社会福祉協議会に行ってね、お願いしたんですけども。団体はいくつかあるんですけども、点訳のボランティア団体とかね、いろいろあるんですけども、人数は少なかったんですよ、小平のね。ところが、だんだんだんだん増えてきて、相当、1週間に、全部あわせるとね、1週間にね、13人ぐらいの人がローテーションでやってくれるんですね。空き時間なんかも、勉強しようと思えばできたんですよね。だから、それがね、最初は人数5、6人だったのが、それでもう、最後はもう、十数人でしょうね。とても助かりましたよ。で、そのときに、例えば、1週間に2回だったらちょっとつらいという人もいらっしゃるんですよ、ボランティアの方で。あの、他のこともなさってるからね。1週間に2回はきびしいと。で、月曜日の朝7時半に、奇数週の月曜日、月曜日の奇数週に来ると。そういう人が一人。それから、月曜日の偶数週にくる人がもう一人。そういうやり方もあるんですね。そうすると、月にね、2回とか、大体、そういう…。月に4回じゃなくって、月に2回で。そうすると、負担がだいぶ軽くなったり。だから、いろんなバリエーションがあると思うんですね。

【中村:ほな、今までの、工芸高校のときのボランティアさんは、全部、あの、そこで切れて、で、小平に行かれてから、また新しく組織しなおしたっていうことなんですか。】

そうなんです、そうなんです。結局、社会福祉協議会に、両方とも、工芸のときも、小平のときも、両方とも社会福祉協議会に私が連絡を取って、お会いして、で、その社会福祉協議会の人と話しをして、で、団体を紹介してもらって、で、山口さんにはこの人たちがいいんじゃないかっていうのでご紹介いただいて、そこで、直接、会って、それで、お願いして、それで、人数も、こう、少しずつ、地元の人、なるべく地元で歩いて来られるとか、自転車で来られる人を探して、で、未経験の人でもOKっていう、それを強調したんですね。未経験の人でも大丈夫ですよと。でもね、未経験じゃないよとかってみんな言いますけどね、でもね、未経験でもね、充分ね、大丈夫ですよっていうのをお話しますね。

 無償のボランティアといっても全く出費がないというわけではない。交通費などの実費は利用者が負担することが多い☆3。山口先生の場合、近隣から徒歩や自転車で来る人が多かったので普段は交通費を支払っていなかった。しかし、定期試験の採点のときは遠方からも来てもらい、長時間の作業となったので、交通費として全員に一律1000円を渡していた。この費用は山口先生が個人で負担していた。

《tr.6-39》
僕はね、(ボランティアへの交通費や謝礼金は)基本的にはなかったんですよ。それで、みなさん、自転車とか、歩きとか、まあ、スクーターで来てくださる方もありましたけども、あの、採点をやってもらってましたけれども、採点のときに、遠くから来られる方も何人かいらっしゃるんですよ。だから、採点のときは、ほとんど半日ぐらいね、やっていただくので、そのときには、交通費ですみませんと言って、みなさんに千円でね、まあ、千円以上いく人もいたのかも知れませんけれども、まあ、みなさん一律にね、千円。これはね、採点のときだけです。後、普段は、比較的近くの方が多いので、普段は交通費を差し上げておりませんでした。



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(13) 授業 ――7クラス、週2単位ですから、14時間です

 小平高校では3年生の倫理の授業を担当した。3年生の教室はすべて社会科研究室と同じ2階にあったので、教室への移動は楽だった。3年生全7クラスの週2時間の授業を担当したので、担当授業時数は週14時間だった。しかし、倫理1科目だけの担当だったので、教材研究や試験作成の負担は軽減された。定年退職までの5年間、この体制で授業を行った。

《tr.6-40》
たまたまですね、2階の部屋が社会科の研究室だったんですね。その同じ2階に、私、3年生を全部、3年生、A、B、C、D、E、F、G、7クラス全部やってたので、それで、楽でしたね、移動が。階段、昇り降りしなくていい。全部2階でことが済んじゃうという、そういう感じです。それで、倫理の、倫理を私、全部担当してたんですけども、倫理の授業が選択ではなくて、必修だったんですよ。それはよかった。それもね、多分ね、配慮してくれたと思いますね。で、あの、その必修倫理がない学校も、実は、今、現代社会になっちゃったりして、必修倫理をやってる学校が、丁度、少なくなってたんですね。その点では、その1教科だけだったんです。今まではね、2教科、3教科やる。社会の場合でも理科の場合でもそうですよね。やりますよね。ところが、今回は1教科だけでいい。これは楽でしたね。

【中村:そうですね。教科数っていうか、科目数が増えると、それだけ教材研究の数が増えてしまいますからね。】

そうですね。テスト問題もね。そうですね。大変ですよね。それから、採点もありますし。それで、7クラス、週2単位ですから、14時間です。5年間、やったんです。

視覚障害教師も黒板に字を書くことはできる。特に中途失明で墨字を知っており、板書経験もある教師ならその技術を取り戻すのは十分に可能なことである。ただ、書いた文字の位置や黒板全体の構成が把握しにくい。そこで、マグネットを黒板にはり、触って確認できるようにするなどの工夫がされている。山口先生もマグネットを利用して板書をしていた。薄い板状のマグネットを細長く切り、黒板を区切るのに使っていた。マグネットの切断は工芸高校の職業科の教師が引き受けてくれた。その後、最後の赴任校であった小平高校の若い社会科の教師が使い勝手がよい棒状のマグネットをくれた。山口先生の工夫を、周りの教師が支えてくれていた。

《tr.6-41》
私が板書するときに、マグネットでもね、薄い、何ていうんですかね、えっと、ほら、ぺたっと貼るやつで、丸いのがありますよね。で、丸いの以外に、もっと平らなやつで、正方形のようなのもありますね。薄いやつで。

【中村:板状になっているやつですね。】

板状で、それも薄いやつね。ペラペラってなってる。

【中村:あっ、はいはいはい。】

それをですね、同僚がですね、あの、工芸高校では職人が多いでしょ。そういう専門の人が。それをね、板状のものをね、こう、線をね、切ってくれたんです、細長くね。で、細長くしたものを黒板に縦に三つ貼ったりしてたんですね。黒板の右と左、2分割するときに、その真ん中に、それ、やってたんですよ。丁度、チョークの、チョークケースのあるところのね、上に、こう、三つぐらい縦に並べてたんです。で、それを見た小平高校の社会科の若い教員が、もっと頑丈なのがありますよね、棒状の。ちょっと硬いやつね。あれをくれたんですよ。で、山口さん、これね、これ、あの、真ん中にね、ぺたっと貼ったらどうって言って、これ、差し上げますって言って。自分が使ってたらしいんですね。それで、そっちのほうが使いやすいんですよ。あの、ぺたぺたって貼るやつよりもね。あの、頑丈なほう、棒状のね、マグネットが丈夫だし、一瞬のうちに、ベタっとつきますから。で、それを黒板で2分割できる。それを使って書いていました。



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(14) 同僚へのサポート依頼 ――なるべく広くね、いろんな人にお願いしたほうが

 視覚障害教師が仕事を続けるためには、周りの同僚の協力は不可欠である。手助けを頼む場合、特定の頼みやすい人に偏りがちだが、山口先生は広くいろんな人に依頼の声をかけることが大切だと考えている。そうすることで、自分がどういうことで困っており、どんな手助けが必要かを多くの人に知ってもらえるからである。

《tr.6-42》
非常に大きなテーマですよね、人間関係。それで、まあ、人間って、ぶっちゃけた話、どうしてもちょっとね、付き合いやすい人と付き合いにくい人とね、あんまりいいなと思わない人とかね、印象が悪いとか、それはありますよね、誰でもね。それで、まあ、JVTでも出ますけども、やっぱり、その、あんまり、こう、そりが合わない人でもね、それなりに、普通に、同じようにね、他の人と同じように挨拶したりね、それなりにって言うのも変ですけどね、まあ、普通に付き合っていけばいいと思うし、何もその、あんまりけんかする必要もないですからね。われわれの場合、特に大事なのは、お願いするときっていうのがね、お願いするときに、同じ人ばっかりにお願いしてしまうこともあるかも知れませんけども、やっぱり、なるべく広くね、いろんな人にお願いしたほうが、まあ、お願いしにくいけどもっていうとき、ありますけどもね、ちょっと試しに頼んでみるとね、やってくれるもんですよ。コピーでも何でも。あるいは印刷のときにね、ちょっとしたお手伝いをしてもらいますけど。ただ、忙しいときは、ちょっと今はちょっと無理、無理っていう人も当然いますけどね。なるべくね、いろんな人に声をかけて、で、ちょっと、今、あの、いいでしょうかっていうね、声をかけて、もし、お忙しかったら結構ですけどもっていう、そういう感じでね、ちょっとアプローチするのは、すごく大事だと思うんですね。そうすると、その人も経験になって、どんなところで苦労してるのかっていうのが、ちょっと、どんなところで大変なのかとか、わかってくださいますので、それがまず一点ありますよね。



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(15) 障害者教師の存在意義 ――生きた教科書のようにですね

 障害のある人が教師として仕事をするにはまだまだ課題が多い。それでも、山口先生は仕事を続けることで生活の糧を得、やりたいことに取り組むことができ、幸せだったという。そして、自分が幸せだっただけでなく、そのように働いている障害者教師の姿から同僚や生徒も何か学んでくれるのではないかと考えている。例えば、自分が障害をもつことになった場合、絶望や挫折の後に可能性を見つけるきっかけをつかんでくれるのではないかという。

《tr.6-43》
私もたまたまそういう難病でね、中途失明したわけですけども、障害者が学校にいて、教職に就くっていうことは、確かに難しいですね。しかし、そこで仕事をして、まあ、2割できないことがあると、8割はできると、で、その中でもね、いろいろと配慮もいただいている、同僚にも配慮をいただいているんだけども、そこで仕事を続けるっていうことが僕自身のためにもなるし、僕も生活ができるわけですね、安定した生活が。ところが今日の若い皆さんは生活ができない状況です。ブラック企業および政府のエゴイズムですね。それで、自分の夢もあって、それを教職を続けることもできたんですね。それだけじゃなくって、私自身も幸せだったし、しかし、今度は同僚とか、生徒たちも、こういう人間の仕事が、例えば、耳の不自由な人とか、あるいは肢体不自由の人とか、あるいは、いろんな難病の人とかね、内部疾患の人とかね、そういう方が仕事をやっているというのを、やっぱり、あの、何て言いますかね、おこがましいんですけども、生きた教科書のようにですね、そういうかたちで学び、何かね、学んでね、もらえることがあるんじゃないかなと、自分たちが交通事故や病気で障害をもったときに、自分たちはただそこで、絶望、挫折するというのは当然ですけども、絶望、挫折して、その後、何かをやっぱりね、見つけてほしい。どうしたら、そこで仕事をすることが、就労することができるのか、継続することができるのかっていうことね。まあ、勿論、リハビリテーションがね、私なんかは強調するわけですけども。そういったことをね、あの、可能性ですね。障害をもってもね、自分が将来障害をもっても、方法はある。そういうのをね、つかんでもらえたらうれしいと思う。普段からそんなことばっかり考えてませんけどね。まあ、たまにはね、考えます。

 障害をもつということでなくても、人生には挫折や絶望に陥ることがある。そのようなときに、悩んでも、新しい道を見つけ、前向きに生きていくという生き方を生徒にはしてほしいと山口先生は思っている。そのためには、障害をもつ教師や共に働く教師集団が前向きに生きる姿を見せることは意味があると考えている。

《tr.6-44》
やっぱり、長いね、人生の中にはいろんなものがありますよね。さっきお話したように、挫折とかね、絶望とかあると思います。それは、精神的にもね、絶望したりしますよね。いろんな悩んだり。そういうときに、何か、悩んで、悩んで、悩みぬいて、結論を出していくとかね。あるいは、新たなことに挑戦してみるとか、そういう前向きな感じってね、そういったものを、やっぱり、つかんでもらえたらいいと思いますね。それは、別に障害者になるとか、ならないとかじゃなくって、障害者にならなくても、そういう挫折とか、精神的な葛藤とかあるわけですから、そのときに、そこでね、悩んで、悩んで、それで、あの、新しい道を見つけて、前向きに生きるっていうね、そういった生き方をしてもらえたらいいなあと思いますけれども。それには、教師がその職場の、その学校の教師が、その教師集団が後ろ向きだとだめですね。

 山口先生は生徒にとって自分は生きた教科書だという。歩いていてつまずいたり、ぶつかったりするのも、それでも歩いたり、仕事をすることができるのも、すべてそのまま生徒に見せる。そうすることで、障害をもつと何もできないというような誤解がなくなり、生徒たちの障害についての認識が変わってくると考えている。

《tr.6-45》
結局、生徒の側から見れば、私は、まあ、一つの教科書、生きた教科書みたいなものだって、ね、お話したと思いますけども、それはどういう意味かっていうと、結局、機能障害、一つの機能としての視覚を失ったので、その機能障害をもった人間が、今の社会の中で仕事をしていると。それで、生活していると。それをダイレクトに見てもらう。ちょっとおこがましいんですけども、ダイレクトに見てもらうと。それで、けつまづいたり、怪我したり、そういうのも見てもらう。それで、まあ、仕事はある程度できるっていうのも見てもらう。両方見てもらう。で、壁に激突するのも、そういうのも、廊下で激突するのも見る。考え事してるとぶつかるんですよ、廊下でね。行き過ぎてね。で、そういう激突もみんな見てるわけです。そういうのを見てもらう。そうすることによって、そういう障害があると、何もできないんじゃないかっていう考え方ではなくなる。それは一挙には変わらないかも知れませんよ。子どもたちの考えはね。障害もったら、普通はね、生きていけないよみたいにね。挫折してね、自殺しちゃうかも知れないなんて、そういう、みんな思ってる。ところが、まあ、仕事をしてるじゃないかと。まあ、ああやってけつまづいたりしてるけど、後、壁にぶつかったりしてるけど、まあ、何とか杖を使ってね、階段も昇り降りね、すごいスピードで階段の昇り降りしてるじゃないかと。そういうので、やっぱり、そういうの、全部、生のあれを見てもらう。そういうことじゃないでしょうかね。それは、どこでもそうだと思いますね。幼稚園でも保育園でも、小、中、高、大学ってね、どこでも同じだと思いますね。



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(16) 生徒とのかかわり ――こっちが自然体でいけば、あちらも自然体でね

 山口先生は講師時代を含めると教師生活前半の17年間を見える教師として、1年間のリハビリテーションを挟んで、後半の18年間を見えない教師として生徒とかかわった。見えているときと見えなくなってからでは、生徒とのかかわりも違ってきた。見えているときは、生徒の茶髪やピアスに目が行き、見た目の第一印象で生徒を判断していた。見た目のインパクトは強いため、その印象で生徒を固定的に見てしまいがちだった。しかし、見えなくなってからは、生徒を第一印象で固定的にとらえてかかわることがなくなった。それは教師としては積極的な評価をしてよいことだと考えている。

《tr.6-46》
(見えているときと見えなくなってからの違いで)一番あったのは、見えてるときは、どうしてもその子の第一印象ね、第一印象で判断するんですね。第一印象っていうのははじめて会ったときの印象ですね。それから、後、茶髪だったり、ピアスをね、鼻にやって、口にやったりね。耳にやったりね。いろんなとこにやってるんですけどね。そういう子もね、今でもいるわけですけども、そういう第一印象で判断してしまって、それで、何か、ちょっとね、印象が悪い、印象がいいとかね。そういう、こう、そういうのって、やっぱり、人間って避けられないと思うんですけども、それが、僕も、やっぱり、みなさんと同じで、そういうのがあったですね、見えてるときはね。で、失明してからは、やはり、それがないので、何か普通に話せるかな。生徒指導するのでも、普通に話せるっていうかね。そういうのが一番変わったですよね。勿論、それは、その人のね、しゃべり方とか声とか、そういうのは勿論みんなそれぞれ違うから、あの、しゃべり方で、今日、ちょっと何かね、つらいことがあったのかなとか、ちょっといやなことがあったのかなとかはわかるんですけども、やっぱり、目で見るっていうのはかなりのインパクトがありますので、その子がだらしのないかっこうをしてると、いつもね、そうすると、ああ、あいつはしょうがねえなっていうふうに、どうしてもね、固定的に見ちゃうんですよね。それがなくなったっていうのは、まあ、教育に携わる者としては、あの、積極的だと思いますね。そういう、そこだけで判断しない。

 視覚で生徒の外見をとらえられないために、生徒の内面を推し量るようになる。それは生徒理解やよりよい人間関係の構築にプラスになるという。

《tr.6-47》
先ほどのね、その、視覚が、視覚という機能の障害のために形とか色とか、顔とかがわからないわけですから、そうすると、そういう視覚で相手を判断しないということで、ちょっと、こう、相手の気持ちを、こうどんな気持ちなのかなってね、考えたりね、そういう中で、人間関係が作られていくので、それは、一つね、プラス面っていうふうに言っていいと思うんですよね。

 生徒を見た目だけで判断しなくなると、生徒の反応も変わってくる。山口先生は見えないことで、生徒と対立的にならず、自然な関係がもてるようになったという。黒板の文字が重なってしまったり、社会科研究室を通り過ぎてしまったりしても生徒が自然に声をかけてサポートしてくれた。山口先生はこのようなちょっとした生徒とのふれあいに喜びを感じた。

《tr.6-48》
(生徒を見た目で判断しなくなると生徒の態度も)変わってくるわけです。もう、双方向ですね。あの、結局、こっちがとげとげしくなれば、あっちもとげとげしくなる。こっちが自然体でいけば、あちらも自然体でね。こっちが高飛車になれば、向こうもね、とんがってくる。

【中村:まあ、生徒たちが、山口先生という視覚障害をもってる先生だからこそ、こんなふうな反応をしたとかっていうようなことっていうのはありますか。】

そうですね。これはね、以前、お話したかも知れませんが、えっと、一応、マグネットね、黒板書くときには、黒板、板書するときはマグネット使っているんですけども、たまに、話しが夢中になって、1年に1回ぐらい重なって書きそうになっちゃうときがあるんですね。そのときに、授業中、生徒がね、あの、かぶるって言ってくれるんです。すると、僕は、おお、サンキューって言って、それを下げて、1行下げて書くんです。そういう、かぶるとかね、そういうふうに声かけてくれる。それから、廊下でもですね、私が考え事して歩いているときあるわけですよね。そうすると、社会科の研究室を通り過ぎちゃうときがあるんですね。そのときに、あの、男子生徒が二人ぐらいで、とおるちゃん、とおるちゃんって言ったりね、とおる先生って言ったりしたんだけど、その、とおるちゃん、オーバー、オーバー、オーバーラン、オーバーラン、教えてくれるんです。それで、サンキューって言って。そういうのもうれしいですね。ちょっとした、ささいなことですけどね。

 はじめて山口先生の授業を受ける生徒たちは視覚障害をもつ教師に対して不安感をもつかもしれない。その不安感を取り除くために、山口先生は最初に授業の方法などについて話をする。生徒から質問があれば丁寧に説明する。ボランティアの人たちに試験の採点を手伝ってもらったりするが、個人情報は守られることも話しておく。きちんと説明しておくと、生徒たちも安心して授業を受けるようになる。

《tr.6-49》
(生徒には)一番最初に、テストも自分で私が作るし、それから、プリントの授業を1年間やるっていう話をして、それで、あの、何か要望があったら言ってくださいと。それから、後、あの、不安とか、そういうのはね、あるかも知れないけどね、私も何十年もやってるからね、大丈夫ですよっていう話をね、最初にするんでね。で、そこで、まあ、何か、あの、出席簿どうするんですかとか、そういうね、そういうのもね、質問、出るんですね。そうすると、前の二人にやってもらいますとかね、そういうふうにやりますんでね。すると、みんな、大体、ああ、そうかって感じでね、安心したりね、しますね。で、採点はどうするのって言ったら、採点はね、学校の中でボランティアの人がたくさん来てくれて、それで、情報は個人情報なので、一切、それはね、外に漏らさないように校長から話をしてもらうんだよって。すると、みんな、安心してくれますよ。



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(17) 保護者の授業参観 ――いつでもどうぞって言ってるんですね

 視覚障害教師がどのように授業をするのかは保護者も関心がある。保護者が授業の参観を希望したら、山口先生はいつでも授業を公開した。子どもから視覚障害をもつ教師がいることを聞いた保護者から参観希望があった。だが、それは視覚障害教師に対して批判的な意図があったわけではなかったし、参観後も問題点を指摘されるようなことはなかった。

《tr.6-50》
工芸高校のときに、お父さんやお母さん方が、まあ、ちょっと視覚障害の教員がいるっていうので、どんな授業やるのかなっていうんで、見せてくれますかっていうんで、あの、見に来てくれたんですね。お父さんやお母さん方が10人ぐらいでね。それから、地元の社会福祉協議会の民生委員のおばちゃんたちが20人ぐらい来たかな。見に来たりとか。そういうのは割とありましたね、僕の場合。それで、僕もね、いつでもどうぞって言ってるんですね。

【中村:で、その保護者が見に来られたっていうのは、どうなんですか。それは…。】

何かね、生徒がね、生徒が親に話したらしいんです。こういう人がいるよって。そしたら、何か、PTAのときに、今度、見せてもらえませんかって、お父さんが言いにきたんですよ。あるクラスのね。それで、いつでもどうぞってね。

【中村:それは、別に批判的な意味ではなくって…。どういう感じなんですか。】

あのね、その、自分の子どもがね、こういう先生がいるっていうので、で、こんなふうに授業やってるよっていうのを聞いたお父さんやお母さん方が、ちょっと見せてもらいたいなみたいな、そういうノリですよ。

【中村:別に、あの…。】

大丈夫かなとか、そういうのじゃなくって。そういう感じじゃなかったですね。できるのかしらっていうよりも、どんなふうにやるのみたいな、そういうノリでしたね。だから、暗い感じしなかったですよ。

【中村:授業見られた後の反応とかっていうのはありましたか。】

駄洒落とかばっかり言ってるから、何か、お母さん方には受けちゃったりして、生徒がシラッーッとして。何だよみたいな。おじんギャグだから、だめです。

【中村:まあ、授業を見られた後も、特にそれで問題が起こるということも…。】

大丈夫、なかったですね。はい。



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(18) 学級担任 ――やろうかなってね、相当、悩んだんですよ

 山口先生はリハビリテーションに入る前までは工芸高校で2年生の学級担任をしていた。しかし、復職してからは工芸高校でも、小平高校でも担任はしなかった。担任になることを勧めてくれる同僚や学年団で協力するから一緒にやろうと誘ってくれる同僚もいた。担任をすれば、生徒や保護者ともより深い関係が築け、教師としてのよろこびも一層味わうことができる。しかし、担任をすれば事務量が激増し、学年団の他の教師たちにサポートをしてもらわなければならないことも大幅に増える。山口先生は悩んだ末、定年退職まで担任は引き受けなかった。しかし、山口先生が希望し、学年団もそれを支持すれば、管理職も担任になることを認めただろうという。

《tr.6-51》
もう、あの、(学級担任に】なれなかったというよりも、私のほうでね、あの、同僚からね、一緒にやりませんかって言われたことがあったんですよ、小平で。でもね、ちょっとね、やっぱり、他の同じ学年の先生方にね、負担をお願いすることが多いのでね、負担が大きくなるのでね、お断りしてしまったんですけどね。ちょっと、それもね、相当、やろうかなってね、相当、悩んだんですよ。でも、その男性の先生はね、大丈夫、大丈夫、もう、われわれがやれるとこ、たくさん、われわれがやれるところ、やるから、安心してってね、言ってくれたんですよね。もう立派な方でね。生物の先生でしたけどね。でも、ちょっとね、お断りしちゃったのでね。後ろ髪引かれるような感じでしたけどね。やっぱり、やればね、ある程度はね、また、生徒との関係もね、深くなるし、やっぱり、楽しかったと思います。親との関係も、当然、また、いろいろとね、深くなって、それで、何でも理解とか、そういうのも当然ありますからね。親との関係でね。ちょっと、そのへんが残念だったかなと思いますね。それで、ほら、学習指導要録とかあるでしょ。そういうの、考えちゃうんですよね。そんな指導要録のことばっかり考えて。

【中村:やっぱり、事務量がね…。】

事務量が圧倒的に多いですよ。

【中村:しかも、目を使わなあかん事務になってきますよね。】

そうなんですね。

【中村:そこで、敢えて担任は希望されなかったし…。】

そうなんです。ちょっと残念でしたけどね。で、後ね、他の、その、さっき言った生物の方以外に、あの、やんないんですか、担任とかっていう、そういうふうに言ってくれる、その、工芸高校での、その、専門、さっきの生物の方は小平高校でね。で、工芸高校のときの男性の、やっぱり、(職業科の)専門のほうの先生ですね。その専門のほうの先生でね、あの、担任やんないのなんてこと、言ってくれた先生もいます。やればみたいな感じで…。



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(19) 教壇復帰から得たもの ――社会生活や経済生活をすることができる

 山口先生は中途で視覚障害をもったが、リハビリテーションを経て復職した。仕事を継続して賃金をもらい、安定した生活ができることがまず一番のよろこびだったという。その生活の基盤があって、自分の研究にも取り組める。そして、研究で得たものを仕事として生徒に還元できる。それによろこびを感じていた。

《tr.6-52》
結局は仕事を続けたいと自分は思ったわけですよね。思って、それを実現できたってことはラッキーだったんですけども、で、その仕事を続けられるっていうことは、生活ができるっていうことですよ。生活ができる。そうすると、普通の生活ができるってことですね。それが一番ね、僕はね、まず最初に職場復帰したときにうれしかったことです。他の人と、まあ、100パーセント同じじゃなくっても、まあ、できないことは2割あるけども、しかし、8割はできる。で、普通の人と同じように、他の人と同じように仕事をして、それで、賃金ももらって、で、生活、社会生活や経済生活をすることができるっていうのが、まず一つのよろこびです。で、そのよろこびと併せて、やっぱり、自分の、その、哲学のほうでの研究テーマもありますので、そういうことも勉強できると。その保障ができるわけですよね。ところが、戻れなかったら、そういう研究もできないわけで、可能性がちょっときびしくなってくるんですね。条件が悪くなってくるので。あるいは、できなくなってしまう。それで、それを子どもに、具体的に、その自分の研究した研究のテーマと授業とが連動してきますから、それができたということは、やっぱり、よろこばしい、うれしいことです。で、それを語ったり、子どもたちと議論をしたり、子どもたちは哲学的な目を持ってますから、いろんなことをね、疑問持ったりね。自然って何だとか、社会とは何だとか、人類史って何だとか、なぜ学ぶのかとか、そういうのを、みんな、よく考えますので、そういう、子どもたちに影響を与えて、逆に、今度、彼らのそういう哲学的な素朴な疑問とか、そういったものも、こっちがまた、それを逆に子どものほうからいろんな考え方、いろんな見方ですね、子どものね、純粋な見方っていうか、割と素朴な見方、そういったものを学べるんですよね。だから、双方向っていってもいいかも知れませんね。一方的に生徒のほうからもらうだけではなくて、こちらも与えるものがある。あちらも与えるものがある。

 山口先生は視覚障害をもったことが、自分の自然観や社会観、人生観を豊かにしてくれたという。リハビリテーションで新しいことに取り組む中で、それまでの自分の観念を見つめ直し、ブラッシュアップすることができたと考えている。

《tr.6-53》
視覚障害を、障害をもったということがいろんなチャンスを与えてくれたと思いますよね。自分の生き方とか、自分の自然観とか、自分の社会観とか、人生観とかにかなりのね、いろんなね、いろいろと、何っていいますかね、豊かにしてくれたって言ってもいいと思いますね。むしろ、そこで立ち止まって、リハビリをして、立ち止まることによって、まあ、実はリハビリは別に立ち止まってないんですけどね。成熟してるわけです、そこでね。新しいことやるわけですから。リハビリをやることによって、また、自然に対したり、社会に対する見方とか、自分の人生観とかも、やっぱり、かっこよく言えばブラッシュアップされるっていうか、もう一度、自然を見つめなおしたり、社会を見つめなおしたり、人生観を自分で確認、点検したり、自分で、もう1回、考え直したりね。そういったことができたっていうのは、それは、やっぱり、プラスだったと思いますね。また、プラスのほうになっちゃった。マイナスが出てこない。

 山口先生と筆者はほぼ同時期に全国視覚障害教師の会に入会し、それから20年近くの間、研修総会などで顔を合わせてきた。しかし、1対1でお話する機会はほとんどなかった。インタビュー終了後も話は尽きなかったが、筆者が大阪に戻らなければならない時刻も近づき、喫茶店を後にした。喫茶店から三鷹駅の改札まで山口先生の先導で連れて行っていただき、丁寧に見送っていただいた。

【注釈】
☆1:筆者も、2005(平成17)年4月から1年間休職し、日本ライトハウス視覚障害リハビリテーションセンターで訓練を受けた。当時、リハビリテーション訓練を受けるための休職制度はなく、眼疾への医療上の必要ということで休職を取った。国家公務員のリハビリテーションについては、平成19年1月29日付で人事院から「障害を有する職員が受けるリハビリテーションについて(通知)が出されている。これには、リハビリテーションは病気休暇の対象となり得ること、また、研修として扱うことができることが明示されている。これに準ずるかたちで、地方公務員である公立学校教職員のリハビリテーションも制度的に整えられることが期待される。
☆2:これには、「式典会場において、教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。」という規定があり、これに従わなかった教職員は処分された。
☆3:筆者も奈良県立盲学校に勤務していた2006(平成18)年度・2007(平成19)年度、学校内でボランティアのサポートを受けていたが、交通費は個人負担で支払っていた。



*作成:小川 浩史
UP: 20130904 REV: 20131117
視覚障害  ◇盲ろう(者)  ◇障害者と教育  ◇全文掲載
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