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「第4章 松田祥男先生のライフストーリー」

中村 雅也 2013 「視覚障害教師たちのライフストーリー」
2012年度立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文

last update:20131117


目次

(1)教師になるきっかけ ――初めから教員になろうというんじゃなかったんよ
(2)高校勤務で困ったこと ――まあ、やれるだけやるさ
(3)急激な視力低下 ――もうこれは辞めにゃいけんかな
(4)復職の決意 ――全く見えん人が教壇に立っているというのを見せてもろうてね
(5)障害の公表 ――自分のことを言うたら、よう言うてくれたっていうてね
(6)タクシー通勤・パソコン整備 ――校長やら事務長なんかがね、申請してみようじゃないかと
(7)同僚のサポート ――気楽に助けてくれちょったよ
(8)全国視覚障害教師の会とのかかわり ――働き続ける大きな力になっとった
(9)全国視覚障害教師の会代表として ――孤立しとる人を掘り起こしたい
(10)職場の人間関係 ――いつでも声をかければ、手を貸してくれたね
(11)全国視覚障害教師の会の役割 ――とにかく仲間が集まって、自分の力を高めていく
(12)担当授業時数の軽減 ――準備する時間が全然違うもんな
(13)チーム・ティーチング ――TTでいこうというのが、わしは思うね
(14)パソコンとソフトの整備 ――機械そのものより、今度はソフトの経費
(15)生徒とのかかわり ――いろんな人と接しておくというのは、プラスじゃと




第4章 松田祥男先生のライフストーリー

 松田祥男先生は、1940(昭和15)年10月26日、韓国のソウル市で生まれた。網膜色素変性症により幼少時から視力が弱く、夜盲があった。広島大学教育学部の小学校教員養成課程を卒業後、広島県立高校の数学科教諭となった。1978年4月、2校目の高校に転任したが、9月に腫瘍が発見され、脾臓と胃を全摘出し、休職に入った。此のころ、視力低下が急激に進み、これまでどおりの授業に困難を感じるようになっていた。1980(昭和55)年3月末日に復職し、4月1日付で広島県立三次高校定時制に転任した。39歳だった。ここではじめて視覚障害を同僚や生徒に公表した。21年間同校に勤務し、2001(平成13)年3月に定年退職した。全国視覚障害教師の会の発足に参加し、第3代代表(1996〜2000年を務めた。
 インタビューは、古希を迎えられた2010年11月27日(土)の午後と12月11日(土)の午後との2回、広島県三次市の松田先生のご自宅を訪ね、合わせて4時間40分ほどお話を伺った。



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(1)教師になるきっかけ ――初めから教員になろうというんじゃなかったんよ

 松田先生は、1963(昭和38)年3月に広島大学教育学部を卒業後、すぐに広島県立三次工業高校に数学教諭として新規採用された。しかし、はじめから強い教職志望があったわけではない。高校時代には、父親が税務署勤務だったことから、自分も税務関係の仕事に就こうと考えていた。だが、税務関係の就職試験に不合格となったため、大学へ進学することにした。入学したのが教育学部だったので、同級生とともに教員採用試験を受験し、合格した。広島県と大阪府の教員採用試験に合格していたが、自宅から通勤できる三次工業高校に赴任することになった。

《tr.4-1》
いや、これ(=教師になろうと思ったきっかけ)は別に、これというのはないな。初め、父親が税務関係の仕事をしよったん。税務署というところね。あそこへ勤めよったきね、わしもいずれは国家公務員で税務署にでもいこうかなと思うとったんじゃけどね、税務の試験に落ちたんよ。税務の仕事に落ちたもんじゃけん、さて、どうしようかなと思って、ひとつ大学へいこうかということになって、それで教育学部を受けたんやね。そしたら、偶然、また通っちゃって。そこから運がよかったね。大学に通ったんもよかったけど、また、採用試験も時期がよかったんかね、われわれの仲間は、同級生なんかは全部、教員試験に合格したんで、わしもその中の一人に入って、採用試験に合格しちゃって、それで、さあ、どこへいこうかということになって…。大阪府も受けたんよ。で、まあ一応、合格して、今はあるかないか知らんけど、市岡高校という名前があるわね。あそこの話が出てきたんだけどね、われわれの大学の先生がいくなと言って、広島県で勤めいと言って、県から声がかかるまで待てと言って、県内どっかにあると言って、それじゃと待ってね、待ちよったら、当時、三次工業高校というのがあってね、そこへ、また運がええね、家から通えるところへね、勤めることになった。わしゃ、運がええな。

 大学受験時には教職志望ではなかったが、高校の同級生の多くが教育学部を受験したため、松田先生も教育学部を受験することにした。もともとは小学校教員の養成課程に在籍していたが、大学の先生の指導もあり、中学校、高校の教員免許を取得し、高校に赴任することになった。はじめから教師を目指して大学に入ったわけではなかったが、教師になった以上は教師という仕事をやり通そうと思ったという。

《tr.4-2》
(大学受験時に)それ(=教職志望)はなかった。教師というのはなかったんだけど、高校のときの同級生が結構、5人、10人、10人ぐらいおったかね、友達らが教育学部にいくというけね、それじゃあ、わしも右にならえするかっていうてそれで受けたんよね。そしたら、偶然、通っちゃった。初めから教員になろうというんじゃなかったんよ。

【中村:それは、高校の数学の教員の養成課程みたいな感じだったんですか。】

もともとは小学校関係。教育学部でも小学校のほうへね、みんなが小、中というところへね、みんな希望を出しよったけね。わしも、じゃあ、まあというんで、小学校のほうへ出したんよ。それで、通って、本来なら小学校へいけばよかったんかも知らんけどね、当時、子どもの増える時期でね、小学校はなかなかいきにくいと、大学の先生が高校へいけと言ってね、それで、追加単位、小学校と中、高校と単位数が違うわね、中、高のほうの学校へいけるようにちょっと単位を取れということになってね、それで、中、高の単位を取って、それで、待ちおれって言って、県内、今、子どもの多い時代じゃけん、どっかあるって言う。それで、待ちよったら、声がかかったんよね。ほやけ、初めから教員になるためにというんじゃなかった。じゃけど、教員になった以上は、これはやりとおすしかないなと思って。


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(2)高校勤務で困ったこと ――まあ、やれるだけやるさ

 松田先生の眼疾である網膜色素変性症の症状で、初期から発現し、困難をもたらすのが夜盲である。松田先生も高校就職時には既に夜盲の症状があり、夜間の行動には制約があった。高校に泊まらなければならない宿直勤務のときには不便を感じることがあった。しかし、不便を何とかしのぎつつ、教師を続けていた。

《tr.4-3》
ちょっと不便はあったよね。夜の動きが大きく制限されるけね。不便じゃったけど、まあ、何とかなるさっていうて、高校へ勤務するようになったんじゃけどね。勤務してからは、ちょっとやっぱり、目が不自由というのは不便じゃったね。当時は、知っとってじゃろうけど、宿日直というのがあったけね、学校じゃ。夜に泊まらにゃならんわね。夜の泊まりなんか、ちょっと不便だなあと思っておったけど、まあ、やれるだけやるさって、何とかしのいできたわけよね。途中で転職しようなんて思ったことはないよ。もう、教員になったんじゃけ、もう、このまま突っ走るかというかね。突っ走ってきたんですわ。

 夜間の勤務としては、宿直とともに、クラブ活動の遠征の引率があった。生徒にも助けられてしのいできたというが、もし何かの自己などが起こっていたら困ったことになっただろうと振り返る。何回も遠征の引率をしたが、事故が起きなかったのはついていたという。

《tr.4-4》
まあ、何とかこなしてくるのはきたね。宿直もじゃけど、クラブ活動なんかで遠征したときなんか、泊まりの遠征なんかのときにちょっと、不自由を感じるのは感じたね。それじゃからしのいできた。それも、まあ、一緒に行った生徒らがよかったんやろかね。助けてくれたいうことじゃわね。もし、何か、遠征先なんかで事故でもあったりしたら、ちょっと困ったじゃろうね。夜なんか、さっささっさ、動けるわけじゃないけんね。ええあんばいに、何でんも遠征したけども、事故は起きないしね、ついとったわ。わしゃ、運がええ。


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(3)急激な視力低下 ――もうこれは辞めにゃいけんかな

 三次工業高校で15年間勤務し、1978(昭和53)年4月、広島県立吉田高校に転任した。その年の9月に脾臓腫瘍が発見され、脾臓と胃の摘出手術を受ける。これらの病気とも重なり、休職中の38、9歳のときには視力もかなり低下し、教師を辞めなければならないかとも考えるようになった。しかし、このとき全盲で教壇に立つ楠敏雄先生(第1章参照)や三宅勝先生(第2章参照)と出会い、励まされて教師を続けることになった。これが運命の出会いだったと振り返る。

《tr.4-5》
吉田(高校)でまた倒れたんや。吉田で倒れたときが、わしの目が進む一つのきっかけだったね。吉田で倒れたというのは、上顎腫瘍でね。うわあごのね、上顎腫瘍で…。あっ、上顎腫瘍はもっと前か。吉田では、脾腫瘍じゃの。脾臓腫瘍と、脾臓を全部とってしまって、あそこで胃も全部とったんじゃけどね。三次工業(高校)のときに上顎腫瘍をやって、そのときに放射線治療をして、その影響は吉田にいったときに出たね。それで、吉田でもう、だんだんと視力が落ちてきて、もうこれは辞めにゃいけんかなあと思ったんやね。

【中村:三次工業のときはそんなに不便はなかったけども、吉田高校に変わってから急に、まあ、見えにくくなったと…。】

そうやね。吉田のときが見えなくなった点だったね。

【中村:それって、何年ぐらい、何歳ぐらいとか覚えていらっしゃいますか。】

40過ぎかな。そうじゃね、40ぐらいのときに、もう、こりゃ、だめかなと思ったんだね。そのときがあれよ、だめかなあと思ったときに、楠さんや三宅さんに会ったんだね。それで、辞めるなということになって、がんばって続けろっといって、それで続ける気になったんや。これが一つのわしの運命な出会いじゃね。

 吉田高校に転任しても、見えづらさを抱えつつ、以前と同じように授業を行っていた。しかし、脾臓腫瘍で倒れてから視力も急激に低下し、もう教壇に立てないのではないかと悶々と悩む日々が続いた。そのようなときに楠先生や三宅先生に出会った。

《tr.4-6》
視力が吉田のときにぐっと落ちちゃったね、一気に。それで、もう、ここまで見えにくくなったら、今まで通り教壇には立てんのじゃないかなと思って、悶々としたんじゃね。その悶々としちょるときに、楠、三宅というところにね、出会ったわけや。

【中村:具体的には、どんなふうな大変さとか、視力が落ちてきて困ってきたというのはどういうようなことでですか。】

今まで授業をしてきよったんじゃけど、もう、ぐっと視力が落ちてくると、教科書なんかでも読みづらくなってくるわね。教科書が読みづらくなると、授業もやりにくくなるわね。だから、困ったな、困ったなと。それで、ずんずんと視力が落ちてから…、落ちてから授業をしだしたのはもう三次(高校)に変わってからじゃね。吉田におるときは、(三次)工業(高校)時代と同じような調子で授業をしよったんでね。まあ、これならええかと思って授業をしよったんじゃけど、そこで脾腫瘍がおきて、倒れて、それより以前に放射線を浴びていたのがそこで副作用というかね、目のほうへ副作用が起きて、視力が落ちてきて、もう、そこでどうしようかということになったわけや。

 三次工業高校でも吉田高校でも、視力の弱さは自覚し、困難を感じることもあった。しかし、周りの人たちには公表しなかった。できる範囲で一人でがんばってきたが、急に視力が低下し、もう教師を辞めなければならないかと思った。しかし、転職することは考えられなかったという。

《tr.4-7》
無理しよったんじゃろうね。当時は目が悪くても誰にも公表しとらんかったけんね。そやけ、まあ、一人でがんばってきたというかね、ええ言葉でいえば。だましだまししながら。急に視力が落ちたのにはたまげたね。もともと視力は弱かったから、もうちょっと見えりゃええなあとは思っとったけどもどうしようもないわね。見える範囲でがんばってきてたんじゃけど、急に進んで、こりゃ辞めにゃいけんかと思ったんやね。(楠先生に)何とかなる、何とかしろっと言われて、じゃあ、何とかしようかと。わしも器用な人間でないきにね、転職なんて考えんかったね。転職するというても、目も不自由で、今更、転職も、それほどかしこいわけではないしね、そう簡単に転職なんてできはせんよと思ったけんね、転職は考えんかったね。辞めるかということは考えたよ。辞めなきゃいけんなあとは考えたけど、転職というのは考えんかったね。

 松田先生の視力は子どものころから0.3程度で、自分の視力が弱いことはわかっていた。しかし、病名や病気についての知識を得たのは成人してずっと後のことだった。0.3程度の視力を保ちながら高校勤務を続けていたが、急激な視力の低下により退職せざるを得ないのではないかと思い悩んだ。当時は目が見えなくなったら教師は辞めるしかないというのが普通の発想だったという。松田先生も、全盲で教壇に立っている教師がいることなど思ってもみなかった。

《tr.4-8》
もともと、この網膜色素変性症というのは、あんまりよう知らんかったきにね。正式な名前を聞いたのは、はるか年をとってからや。わしはね、子どものころはずーっと視力は0.3がすーっと続いたんよ。そやけ、工業高校へ勤めよるころも、吉田高校のときも、0.3あった。0.3あって、まあ何とかずっとそれまで仕事をし続けてきたわね。それで、吉田で0.3を急に割って、それで、どうしようかとなったわけでね。当時じゃけ、目が見えなかったら辞めるしかないわというんが普通だったわね。


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(4)復職の決意 ――全く見えん人が教壇に立っているというのを見せてもろうてね

 脾臓と胃の摘出手術をして休職していた1979(昭和54)年、『そよ風のように街に出よう』という障害者情報誌が創刊された☆1。松田先生は、この雑誌で楠先生という全盲の教師がいることを知った。早速、雑誌の編集部に連絡し、楠先生の授業を見学するために大阪に出かけた。楠先生から兵庫県にも三宅先生という全盲の教師がいることを聞き、その足で勤務する中学校に出かけて授業の見学をした。二人の全盲教師の授業を見て広島に戻ったが、その後、間もなく楠先生から連絡が入り、広島で会うことになった。楠先生から教師を続けるように強く励まされ、松田先生は復職の決意を固めた。楠先生や三宅先生に会っていなければ、教師を辞めていただろうという。今の自分があるのもその出会いのおかげだと感謝している。

《tr.4-9》
わしもボツボツ辞めにゃいけんのかと思いよったときがね、そのときに、そよ風という障害者雑誌ね、障害者雑誌そよ風を見て、楠さんの名前を知って、全盲で教壇に立っているというので、授業を見にいったわけ。授業を見せてもらって、そのときに、三宅さんというのも全盲で教壇に立ってるよといって、それでそこはちょっと見学させてもらうわと、三宅さんの授業も見学したん。お二人とも目が見えんのに、教壇に立ってる。わしゃ、できるじゃろうかと思って、帰ったんじゃけどね。帰って間もなくしてから、楠さんがもう1回会おうやといってね、連絡があって、楠さん、広島まで来てくれたよ。そこで広島で話をしていたときに、続けろっといってね、ケツを叩かれたわけ。それで、続ける気になったんよ。

【中村:その、先生が楠先生のところに授業を見にいかれたというのは、脾臓の病気で休まれているときですか。】

うん、そうでしょうね。休職中だね。脾臓を取って、しばらくして胃を取って、脾臓を取ったり、胃を取ったりして、休職になってしもうて、休職中に新聞記事を見て、彼らのところへ行ったんよ。

【中村:休職中に、辞めようかな、どうしようかなと悩んでいらっしゃったときなんですか。】

そうだね。それで、そのときにも、楠さんや三宅さんに会っておらんかったら、もう辞めとるじゃろうね。辞めとったじゃろうね。あれはもう、今、わしがある大きな転換期というかね、飛躍期というかな、出会いというのは、あれはいい出会いだったね、今、思ってみると。人との出会いというのは貴重だね。感謝、感謝、感謝さ。

 二人の全盲教師が教壇に立つ姿を実際に見学し、復職するように励まされて、松田先生は復職へ向けての力を得た。もともと内臓疾患の治療が休職事由だったのでその治療が終われば復職は許可された。もし視力の低下が休職自由だったら、回復が見込めない状態で復職が認められたかどうかはわからない。

《tr.4-10》
これで、わしも復職しようという気になったんじゃね。いやあ、全く見えん人が教壇に立っているというのを見せてもろうてね、その上に、続けろって言われて、よっしゃーって、それじゃあ、続けようと。それで、復職願いを出して、ええあんばいに復職できた。だからね、目が悪いのが理由で休んだんじゃないからね、脾臓やら胃を取って休んだんだからね。目が悪いというので休職していたら、これは復職はどうだったかわからんね。


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(5)障害の公表 ――自分のことを言うたら、よう言うてくれたっていうてね

 1980(昭和55)年3月31日付で松田先生は復職し、4月1日付で広島県立三次高校定時制に転任した。現任校の吉田高校では正規の教諭が松田先生の休職補充として赴任していたので、松田先生はまだ着任2年目であったが、吉田高校には戻らず、三次高校定時制に転任することになった。そこではじめて自分の視覚障害を公表した。同僚に目が見えにくいことを説明し、協力と援助を依頼した。同僚たちはカミングアウトを暖かく受け入れ、積極的に援助を申し出てくれたという。障害を公表していないときには、できないことを隠し、できるふりをしていた。しかし、公表し、援助依頼ができるようになったことで、物理的に仕事がしやすくなった。そして、それ以上に、ありのままの自分を出すことができ、精神的に楽になったことが大きかった。また、障害の公表は松田先生自身を楽にしたばかりではなく、周りの同僚も楽にしたのではないかという。松田先生が苦労しているのに気づいていても、援助してよいものかどうかもわからず、見て見ぬふりをするしかない同僚も、またつらい思いをすることになる。松田先生から援助依頼の声が発せられることは、周りの同僚にとってもかえって歓迎すべきことであった。

《tr.4-11》
そこで(=広島で楠先生と会ったときに)、復職をしろっていって言われたんが、もう、決断のときじゃね。よっしゃっ、じゃあ、復職しようっていって、決意したんやね。ええあんばいに復職できて、復職をしたときに、今度はその職場でも、わしは目が悪いてって言って、そこで公表はしたんや。わしは実は、実はわしは目が悪いんじゃと。今から復職するけども、一つ、力を貸してくださいっていって、言うて復職したん。そしたら、みんながよう言うてくれたっていうて、そしたら、困ったときには言うてくれって言ってね、力貸すけって…。あれはうれしかったね。やっぱり、同じ職場やって、できもせんのにできる恰好をしよったら相手もきついわね。自分もきついけども、周りで見よる人もきついと思うよ。だからじゃろうね、自分のことを言うたら、よう言うてくれたっていうてね、どんどん声かけてくれっていうことで、わしも遠慮せずに困ったときにはどんどん助けてっていうてね、声出してね…。楽だった、声を出せるけね。あれ、助けてくれっていうてよう言わずに現場に立っておったらきつかったと思うよ。職場の人がわしのことを知っておってくれて、声をかけんさいって言うちゃったのは、あれは大きかったね。いい職場だったな。まあ、人間関係というのは大きいよね。人間関係でガタガタ、ギシギシしとったらね、生活もきつうならあね。自分のありのままを出せるという職場はほんと、いい職場だね。幸いだった。

 それまで隠していた視覚障害を公表したのは、楠先生のアドバイスによるものだった。三次高校定時制に転任した最初の職員会議で、松田先生は視覚障害をカミングアウトした。松田先生は、当時、自分の視覚障害を欠点のように感じていた。その欠点を、はじめて職場で公表するのは精神的にかなり大変なことだったようだ。公表したときには、背筋に汗が流れたという。だが、同僚たちの反応はとても好意的だった。障害を公表することでマイナスが生じる場合もあるかもしれないが、自分の場合は職場に恵まれていたのでプラスになったと松田先生は振り返る。

《tr.4-12》
広島で楠さんと会ったときにね、楠さんが復職のときには公表しなさいって、きちんと公表して現場へ立ちなさいって言って、そう言われてね、まさにそれを実行したわけよ。やっぱり隠しておくのはきついといってね。堂々と自分の姿を公表しなさいっていって。これは大きかったね。公表するときは、ちょっとこっちは汗かいたよ。もし、こんなことはね、自分の欠点といえば欠点じゃわな。自分のハンディをみんなの前に言おうというのはちょっときつかったね。最初の職員会のときに、どういうふうに言おうかと思ってね、どういうふうに言うたらええじゃろうかと思って、ちょっと、もう、一生懸命考えたよ。公表しなさいって言われて、そのほうがええっていって言われたけんね、思い切って、汗をかきながら公表したんよ。そのときは背筋を汗が流れたよ。一生懸命、公表した。公表したときの、繰り返すけど、みなさんの反応がよかったけん、ほっとしたね。それからはもうほんと、気持ちが楽になったね。周りの人がみんな知っとってくれてじゃけんね。隠しとかんでええんぎゃけん。隠しておくのはしんどかったよ。堂々と公表したというのはよかった。中には、公表することによって、マイナスになる人もおるかも知らんけどね。世間ではよ。わしがいた職場はみんなプラスにとってくれた。あれは幸いじゃった。いい職場じゃったな。

 松田先生は夜盲があり、仕事が長引いて真っ暗な夜道を帰らなければならないときにはしばしば困難があった。夜道を同僚と一緒に歩いていて、溝などに落ちることがあった。そんなときも、障害を公表する前は、同僚に見えないことを悟られないように、つまづいたなどと言ってごまかしていた。できないのにできるふりをするのはきつかった。しかし、視覚障害はマイナスだという意識が強く、人に知られないように心を砕いていた。今から思うと、見えにくいことで教師という仕事から排除されはしないかという危惧があったという。また、見えないことを知られると、周りの人たちも仕事の依頼を遠慮したり、自分にマイナスの評価を与えたりするのではないかとも考えていた。

《tr.4-13》
(障害を人に知られたらまずいという気持ちが)あったねえ。あったねえ。職員会議なんかで遅くなったりすることがあるわな。真っ暗けになってから、みんなと駅にいかなければならん。困ったねえ。ときには溝に落ちたりしたことがあるんよ。暗いところをみんなと一緒に通いよった…。それで、溝に落ちたりするけ、一緒に歩きよる人がびっくりしてたわね。とうしたんなって言うて。どうしたんなと言われても、見えんのじゃとは言わんかったよ。いや、ちょっとつまづいたんじゃとか言ってごまかしよった。家へ帰る途中なんかでも、時々、道から外れて落ちたりもしたけどね。できるだけ自分の欠点は知られたくない、知られまいと思ってね。黙っておったんやね。それじゃけに、吉田から新しいところに復職したときに、公表したら、ものすごく楽になった。黙っておらんでいいんじゃけね。

【中村:そこまでして隠そうと思っていたのは、やっぱり自分の欠点として人に見られるのがいやだった…。】

ああ、そうだね。そうだね。やっぱり周りの人にできるだけ知られたくないという気持ちは確かに強かったね。できる限り公表はせずに黙っておこうと。それで、黙り続けたんやね。結構、きつかったよね。できんでも、できるふりをせにゃいかんからね。できるふりをするというのは、ほんとにきついわ。自分を、ありのままを出して生活できるというのはいいことじゃね。あれから、生活が楽しくなった。

【中村:僕もね、今になったら、何であんなに隠してたんかなと思うんですけど、あんなふうにしてまで、人に言いたくないとか、隠しておきたいと思う思いというのは一体何なんでしょうかね。】

何じゃろうなあ。実際に表に出して不利になるかどうかはわからんけども、まさにマイナスじゃという意識は強かったね。自分の欠点を、どこかで不利になりゃせんかというのを、それを恐れたね。その不利というのが、今にして思えば、もう辞めっということにつながりはせんかと思ったね。あなたは辞めなさいと言われはせんかというのがあったよ。それで、できるだけ言うまいと。実際、不利になったかどうかわからんけど、どうじゃろうね。早くから、22、25、あのころ、目が悪いんじゃというたら、クビになったじゃろうか。

【中村:僕は、一つは、そのときはまだ教員採用試験を受験しているときだったから、視覚障害というのがばれてしまったら採用もされないかも知れないしとか、やっぱりそんな心配があったのが一つやと思うんですよね。まあ、それは松田先生がもしかしたらクビになるかも知れないとかね、思われたのと同じことですかね。】

そうやね。

【中村:周りの人たちに対して、何か、自分が劣っているように見られるのがいやという、そういう気分…。】

あった、あった、あったよ。やっぱり目が不自由だったら、向こうさんも何かいろいろ事務処理なんかでもね、頼もうと思ったら、やっぱり頼みにくいんじゃないの。あの人、目が悪いのに、こんな文字を読んだり、書いたりする作業を頼むのは悪いかなという気は起きるわじゃね。ねえ。そういうふうに思う人も、思わない人もおるかも知らんよ。でも、そういうことを思う人もおりはせんかなと思うわね。やっぱりマイナスはできるだけ避けようと。まあ、一番、自分がマイナスに評価されるのはいやだったよね。

 視覚障害を公表した後は、職場での発言もしやすくなったという。見えにくいことを隠していたころは、自分に困難な仕事が回ってくることを危惧して、提案なども積極的にはできなかった。しかし、障害を公表してからは、例え自分に仕事が回ってきたとしても同僚の支援がある。そう思うと、安心して自由に発言できるようになった。もし、自分と同じような立場の人がいたら、障害を隠さず、公表して働くことを勧めたいという。

《tr.4-14》
変わった、変わった。これ(=障害を公表したこと)で、ものすごく気持ちが楽になった。ものの言い方も変わったんじゃないかね、それから。発言がね。それまでは結構、言いたいこともちょっと抑えてね、自分へ面倒な仕事が回ってきたら困るという意識がでてくるね。三次高校にいってからはもう自分の悪いところを言うたんじゃけん、思うたことをやるんだというて、目が悪いことで仕事を制限される、まあ、そこらは理解してくれるからね、みんなが。そやけん、ある提案なんかでも、提案をして、提案したなら案外自分に仕事が回ってくることがあるでしょ。それは恐れんで済んだけんね。今までは提案したらできん仕事が回ってきやせんかというのをちょっと恐れたよ。公表してからは提案しても無理な仕事は回ってこんという気持ちがあったから、提案するようになったよね。

【中村:万が一、自分に、ほんだら、じゃあ、松田先生がやってくださいって言われたときも、がんばってやるにしても、見えない部分は手伝ってくれとかいろいろ言えますものね。】

そうそう。そやけん、もう提案もしやすいわ。それを、目が悪いのを知らずに、大きなことを言うといて、仕事を回されて、できませんやって言うて、お前、こういう提案をしたのにできんとは何事だという、ね、それを考えたよ。そやけ、あんまり提案しよらんかったんよね。確かにあるでしょう、提案をしておいて、自分に仕事が回ってきたら、知らんよというわけにはね。そんなの言いたくはないわね。そやけん、まあ、隠しとったときはきつかったよ、何やかんや言うてね。てきるだけ公表したほうがええね。必ず力になってくれる人はおるわ。全部が全部、助けてくれるかと言ったら、それはわからんけどね。やっぱり、職場の中では助けてくれる人はおるわ。そやけん、公表したほうが楽じゃね。今からでも、ああいう、同じような知人、友人ができたら、仕事場じゃ公表しなさいというのを、わしは言うね。長い目で見たら、やっぱり公表して現場に立ったほうがいいよっていってね。心が安定するよ。楠さんの、公表しなさいというのは、大きかったね。ありがたいこっちゃ。


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(6)タクシー通勤・パソコン整備 ――校長やら事務長なんかがね、申請してみようじゃないかと

 復職と同時に転任することになった三次高校は自宅から近く、通勤にも便利だった。まだ白杖を使わずに外出していたため、遠距離の通勤が必要だったらかなり大変だっただろうという。定時制は勤務が夜間にわたるが、出勤時は昼間なのであまり困難はなかった。帰宅時は夜になるが、同僚の自家用車に便乗させてもらうこともできた。

《tr.4-15》
(三次高校定時制への転任は)別に希望したわけじゃない。まあ、通えるところならどこでもいいわという気持ちはあったわね。考えてみればよかったんよね。家から通える近くだったり、それが視力がずーんと落ちたところを、ちょっと遠くへ通うことになってみんさいや。今、思ってみればちょっと恐ろしいよ。バスや汽車に乗ってね、遠くの学校へ通うということになっとったら、どうなっとっただろうかなと思ってね。まだ、その当時は杖の突き方なんかも知らんしね。今、振り返ってみて、地元の学校へ復職できたというのは、やっぱりこれも、わしはまた、運がええなあ。

【中村:でも、逆に言えば、定時制って夜じゃないですか。夜はやっぱり苦手という部分があるのには抵抗はなかったですか。】

あったよ。あったけど、まあ、よかったんだね。当時はまだ、ここからでも、まだ、何とか杖を突かずに、視力は落ちたけども杖を突かずに何とかあるけたけんね。昼からじゃけんね、定時制は。そやけ、飯を食ってから、学校へ行って、勤務して、さて、夜、帰らにゃならん。夜は暗いわね。でも、幸いに、同僚が便乗させてくれたりしてね。

 同僚の自家用車に同乗して帰宅することもあったが、都合が合わないときにはタクシーを利用することがあった。当初はタクシー料金を自己負担で支払っていた。自分で自動車を運転することができず、遅くなるとバスもない。タクシーで帰宅せざるをえないが、料金の負担は大きい。そこで、松田先生は校長などと相談し、タクシー通勤を広島県教育委員会に申請した。すると、申請は認められ、通勤手当に一定のタクシー料金が加算された。松田先生も広島県で他にタクシー通勤が認められている例は知らなかったし、特例だったという。

《tr.4-16》
時には…、同僚も都合があるけんね。毎日、毎日じゃなくて、時にはタクシーなんかで帰ったりもね、初めのころはしよったんやね。今やから言うてええか、だいぶ経ってからね、夜の交通、タクシー通勤が認めてくれたよ。

【中村:それは松田先生だけ特別にということですか。】

おう、そうやな。免許を取れるわけじゃないしね。それで、授業が引けてからバスというてもそうそう遅くまではバスもないこっちゃしね。それで、タクシー通勤を申請したん。

【中村:それは松田先生のほうから、校長か誰かに言ったんですか。】

言うたん。言うたら、校長やら事務長なんかがね、申請してみようじゃないかと言って、それで、県へ申請してくれて、無事に許可がおりたよ。だけど、珍しい事例かも知れんね。

【中村:通勤手当みたいなかたちで出たんですか。】

そうそう、通勤手当の中へ、タクシー代金がね、入っておったよ。ちょっと珍しい事例じゃろうね。

【中村:広島県内でも他にそんな事例は…。】

いやあ、聞いたことないよ。聞いたことないよ、うん。当時の管理職もよう申請してくれたよね。それ、すんなり通ったけんな。特別ですという言葉を聞いたのは聞いたよ。特例ですよいうて。まあ、そうじゃろうてね。通勤にタクシー使うなんて聞いたことないもんね。公費でね。

【中村:そうですね。それはタクシーチケットとか、使った分だけとかというのじゃなくて、一定額ついてるということでしょ。】

もう、定額じゃね。

 松田先生は視覚障害を補う機器も公費で保障するように教育委員会に申請した。まだ視覚が活用できるときには、文字などを拡大してテレビ画面に映し出す拡大読書器が準備された。視力が低下し、視覚の活用が困難になってからは、松田先生専用のパソコンとそれを音声で使うための画面読み上げソフト、プリンターが整備された。障害を補うための機器の保障は現在でも大きな課題であるが、広島県では既に1980年代には公的な予算措置がなされていたことになる。

《tr.4-17》
もう、(視力が)徐々に徐々に落ちてきてね。機器もある時期にええ機械があるというて、それを買ってもろうて、で、何とかやりおったけど、また、進んでくるとそんな機械が役に立たんように…。

【中村:拡大読書器ですか。】

拡大読書器という名前じゃなかったけど、拡大読書器やね。その画面を見ながら、大きな字が画面に出るわね。それを利用して文字を書いて、教材なんかを作ってね、しおったこともあるんだけど、進んでくるとそれも役に立たんようになって、もう、お蔵入りになって。それからもう、最後はパソコン、コンピュータを入れてもらったりだね。でも、これらの対応も、事務長さんもよう助けてくれよちゃったな。ああやって、不自由じゃ、こりゃ見えんよといったら、次の機械を入れてくれたりね。いやあ、ありがたい。パソコンなんかも、前にも言うたけども、わし専用をね、もう、コンピュータからプリンターからセットで設置してくれたんよね。いやあ、助かったなあ。当時じゃけ、一式、専用で設置してもろた人なんか、われわれの仲間でもほとんどおらんのじゃないの。わしのすぐ後に、Mさんがな、あれが、わしが使いよったんと同じソフトやら機械をね、ソフトなんか、彼は公費で入れてもろたね。当時はもっと、公費で入れてもろたというのは本当に数少ないよ。今、われわれの仲間だったら、ほとんど、もう、全部…。今の時代はあれか、学校はほとんど一人一台はコンピュータが入っとるかね。


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(7)同僚のサポート ――気楽に助けてくれちょったよ

 物的サポートとしてパソコンなどの整備はあったが、公的な人的サポートや授業の担当時間軽減などはなかった。アシスタントやボランティアなどの特定の人のサポート体制はなかったが、周りの同僚のサポートを日常的に受けることができた。あまり気兼ねをせずに援助依頼ができ、周りも気楽に応じてくれていたという。

《tr.4-18》
(授業の)持ち時間数なんか、みんなと変わらんようにね。みんなと同じで。

【中村:別に、例えば他に人がついてサポートしてくれるとかいうことはなかったんですか。】

別にそれはなかったね。それぞれ仕事を持って、わしの場合は、これはできないと思うたら、おーいって言って、助けてって言ってね。気楽にいつでも助け舟、声をかけられたから、よかった。気兼ねをしながら頼むんだったらきついわね。わしは、その点、ほんと、何遍も言うけど、気兼ねをせずに、声かけられたからね。楽をしたね。運がええんで。わしは運のええ人生や。

【中村:特に何か読み書きしてもらうのに、ボランティアさんが来たりとか、アシスタントがいたりとかいうのは全くなくって…。】

もう、左隣り、右隣りの人にね、すぐ、ちょっと急ぐ文書なんか来れば、ちょっと読んでって言ってね、それで、すぐ読んでくれてね。その人は迷惑だったかも知らんけども、迷惑なことを言うてなかったし、迷惑そうではなかったよ。みんな、気楽にね、気楽に助けてくれちょったよ。人間関係も、その職場、定時制の職場、よかったということじゃろうね。いい職場だった。

【中村:僕らが普通に考えたら、音声パソコンは準備されていたにしても、時間数も他の先生と全く一緒、特に決まったサポートをしてくれる人もいてないという状況では、すごく大変だったんと違うかなと思うんですけどもね。】

いやあ、わしは大変ではなかったね。何か教材でも作ろうと思ったら、まさにマイペースやな。みんなは迷惑だったかも知れんけども、ああ、これが欲しいなあと思ったら、ちょっとすぐ隣りの人に言うて、読んでもらったりしてね。それを聞いて、自分で(パソコンの)キーボード叩いたりしてね。キーボード叩いて、印刷する。それなんかもすぐ、自分専用じゃけ、すぐ作業ができるわね。こがな楽な職場、日本中探しても滅多にないかも知らん。

 松田先生は自分が仕事を続けられたのは、職場がよかったからだという。誰にでも遠慮なく援助を依頼でき、みんながそれに応じてくれた。普通はなかなかそうはいかないし、多忙さが増した現在の学校では他の人の仕事に手を貸す余裕もなくなっているのではないかと松田先生は指摘する。

《tr.4-19》
(職場が)みんな、いい人だったんじゃろうなあ。わしなんか、ほんと、わがままな人間じゃきな。

【中村:僕なんかも仕事をやっていたときには、勿論、すすんでいろいろと手伝ってくれたり、いやな顔をせんとやってくれる人とかは何人かはいらっしゃったけど、やっぱり、誰にでも、何でも頼めるっていう感じではなかったんですよ。】

まあ、それは普通だろうな。それが一般的じゃろう。今でも、われわれの仲間でも、誰にでもすうすう頼めるという人、少ないんじゃないの。それに、今、職場がものすごく忙しくなっておるじゃろ。そうやって聞くよ。そやけ、人の仕事を手伝う余裕がない。自分の仕事をするのが精一杯で、人に頼まれた仕事を合間合間に入れていくような余裕がないというて聞くよ。

【中村:忙しく、みんな、されていたら、なかなか頼みにくい、余計に頼みづらいですしね。】

いやあ、わしは楽をさせてもろうた。


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(8)全国視覚障害教師の会とのかかわり ――働き続ける大きな力になっとった

 松田先生は、休職中の1979(昭和54)年に楠先生と三宅先生の授業を見学し、1980(昭和55)年に復職した。その翌年の1981(昭和56)年5月に視覚障害をもつ教師の当事者団体である全国視覚障害教師の会が発足した。三宅先生の呼びかけに応じて、松田先生もこの発足時の会合に参加している。これを契機に毎年1回の会合がもたれるようになる。当初、会は関西でもたれることが多かったようだが、松田先生は欠かさず広島から参加していた。会では教材や授業実践の情報交換も行われたが、松田先生はそれよりも仲間同士で励まし合えたことの重要性を強調する。全国視覚障害教師の会の会合で元気づけられ、働き続けることができた。それは自分だけではなく、他の会員も同じだったのではないかという。

《tr.4-20》
これはもう、毎年、必ず1回はね、少なくとも1回は会って、いろいろと元気付けるというかね。ずっと、わしはこれはもう、初め頃、何回ぐらいになるか、ずっと必ず参加しよったね。それで、わし自身もじゃけど、目が悪くても、もうみんな、定年までがんばろうやって言ってね。がんばろうって、そういう意識はあったけんね。そやけ、出る度にがんばろうぜっていってね。はよケツまくらずに。そやけ、あの会があったというのは、それぞれがみんなそうじゃろうけど、やっぱり仕事、働き続ける大きな力になっとったと思うよ。元気づける集まりじゃね。一人ひとりの細かい教材の中身や何やというのは、わしは二の次じゃと思うてね。とにかく、どういうふうに生きていくか、できるだけこう、楽しくね、ビクビクせずに生きていける力になりたいなあ。今もこう思うてみても、わしが一番ええ生活を送らせてもろたんじゃないかな。力がないのに、定年までね。力不足だのに、定年まで働き続けたというのはね、みなさんのおかげやで。わしはほんま、思うてみて、みんな、よう力がある。三宅さんにしても、楠さんにしても、有本さん(第5章参照)にしても、みんなね、本当に実力のある人だ。そやけ、わしゃ、反省するんだけど、わしゃ、何と不勉強だったなあと思うてね。不勉強じゃけども、もう、定年までおったんじゃけの。やはり、これはもう、JVTの、この会があったればこそ、わしは定年を迎えられたんだよ。JVT、わしゃ、よかったなあと思うね。というのは、やっぱりこれからもつぶさんように。

 松田先生は、定年退職した長井先生(第3章参照)の後を引き継ぎ、1996(平成8)年8月から2000(平成12)年8月までの2期4年間、全国視覚障害教師の会の第3代代表を務めた。退職して学校現場を離れるとどうしても情報が入りにくくなる。代表として外部と話をするときには学校現場の状況をわかっているほうがよい。そこで、代表は現役教師の会員が務めようという共通理解があったという。

《tr.4-21》
(代表をしていた)年数は覚えてないけど、わしは2期。2期4年間だけ。2期4年間でもう定年がきたからね。そやけ、まあ、わしの考えとしてはやっぱり代表をするのは現役がいいだろうと。もう退職してから代表しては、情報が入りにくいでしょ。実情はね。そやけん、何かと外部と話をしたりするときに、やっぱり現場を知っておるほうが話はしやすいしね。そやけ、少なくとも代表は現役の人でしようやっていって話になってね。わしももう2期で定年退職がきちゃってね。そこでまた、有本さんに交代したんやね。

 松田先生は、全国視覚障害教師の会の会員が途中で退職に追い込まれたりせず、定年まで務めてくれることが一番の願いだという。いろいろと波風はあっても、辞めずに定年を迎えることは、後に続く人にも勇気を与えると考えている。会員の中で既に定年退職を迎えた人は20名近くになっているという。

《tr.4-22》
もう、わしが一番強いのはやっぱり最後まで、定年までがんばろうやというのが、わしの一番の願いや。いろいろ波風はあるじゃろうけどね。そこはやっぱり、波風はあるけども、やっぱり定年までがんばろうやと。後に続く人もね、ああ、あの人が途中で辞めた、あの人が途中で辞めたというんじゃね、勇気が出んじゃないかと。そやけ、定年までがんばろうぜって言って、結構、定年を迎えたという人がおってじゃよ。このあいだ、ちょっと数えてみたんだけど、20人近く、もう20人近く定年退職がおってよ。いやあ、あれよという間に増えちゃったね。いろいろと機器なんかもできてね、仕事をしやすくなったのは確かにあるわね。もう、みなさん、一人一人、みな、大型、小型パソコンやら何かもってね、どんどん仕事をしよってじゃろ。いやあ、みんな、すごいわ。

 20名近くの視覚障害教師が定年まで働き続けることができたことに、全国視覚障害教師の会が果たした役割は大きいと松田先生は考えている。視覚障害のために一人で悩んでいる教師はまだいるだろう。そのような教師に全国視覚障害教師の会とつながりをもってもらうためにも、全国的にもっと会をアピールしていく必要があるという。

《tr.4-23》
ちょっとたまげたよ。20人近く定年退職がおってじゃ思うたら、おう、やあ、すごいすごいと思うて。こりゃ、もっともっと全国へ声を広げて、JVTの存在をアピールせなきゃいかんかなというんで。やっぱり今でも目が悪いけいうて、一人で苦しみよっての人、おってじゃろうと思うよ。やっぱり黙っておこうかというんでね、おってじゃろうと思うよ。それに最近、またきびしくなったわな。就職難だ何だというてね。もしかしたら、あんた、辞めんさいというように言われはせんだろうかと思うとる人がおってんじゃないかの。わしゃ、そこらちょっと気にはなるんだけど、そうじゃけんいうて、どうゆうように手を出せばいいかようわからんし。

 松田先生は全国視覚障害教師の会の存在を広く知ってもらうことが重要だと考えている。会から書籍が出版されると、それを地域の図書館や学校に入れてもらうように、自ら書籍を持って依頼に回った。会の25周年記念として2007(平成19)年に出版された『教壇に立つ視覚障害者たち』(全国視覚障害教師の会 2007)は、PRのために20冊持参し、三次市長に面会して市内の学校で購入してもらえるように依頼したという。1997(平成9)年に出版された『目は見えなくとも教師はできる――視覚障害教師たちはいま』(三宅 1997)のときは、近隣の小・中学校を書籍を持参して訪ね、直接、校長などにPRして回ったという。また、学校図書館の協議会を通じて、三次地区の全高校に購入してもらいもした。

《tr.4-24》
今回の本(=『教壇に立つ視覚障害者たち』)なんかも市長までいったよ、三次市長。PRして。

【中村:松田先生が届けにいかれたんですか。】

秘書にいってね。そのときなんか、20冊もっていったんよ。それで、ちょっとPRしたいんだと。市内の学校に買ってもらえんじゃろうかなあとか何とか話をしたりしてね。いうたら、今の市長でなくて、前の市長じゃわな。もう全部置いていきんさいっていうて。わしが面倒みようやっていうて。ほんで、20冊置いてきたことがあるよ。

【中村:松田先生の、市長が知り合いだったんですか。】

別に知り合いじゃないよ。知り合いじゃないんだけど、PRだよ。

【中村:それはすっと会ってくれたんですか。】

ちょっと市長に会いたいんじゃがのうと言ったら、市長も忙しいけん、次々、予定組んでるけね、わしを一つ入れておいてと言うて。それで、どこかにはまったんじゃろ。いついつ何時に来てくださいというて。

【中村:それは視覚障害教師の会のそういう本を紹介したいので、会いたいというような申し込みをしたら…。市役所か何かにしたんですか。】

市役所。まあ、ちょっとでも声が伝わればええなあと思って。前のときなんかは、まだ見えよるときなんかにできた本は、ここらを歩いたんじゃわな。各中学校なんかね。本を持って中学校やら、小学校やらね。じかに、直接、校長らに会ってね。一つ、読んでちょうだいやというて。現役のころなんかは、同僚らにどんどん買ってもろうたりね。各学校の図書館へ入れてちょうだいやというて。図書館協議会というのがあるわね、それぞれの地区に。三次なら三次で図書館協議会といってある。そこらへ行って、学校、学校全部入れてやというて。前のときなんか、三次地区の高校、全校へ入れてもうたりしたんよ。

【中村:前のやつというのは、『目は見えなくとも教師はできる』というやつですか。】

今度の分も同じかたちで、各学校へ入れさせようと思うたんや。いうたら、もう、組織がガタガタじゃ。図書館の組織が。今までは各学校から図書館の担当者が各学校におらあね。それで、会議する、寄って。今もそれで全部集まりよるんじゃと思うたら、今は希望者だけ。希望校だけが集まるんで。そやけん、今は半分。それで、この度は全校へ買ってもらうわけにはいかんかった。様変わりしたわ。


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(9)全国視覚障害教師の会代表として ――孤立しとる人を掘り起こしたい

 全国視覚障害教師の会では、毎年1回、夏休みの時期に研修会と総会を合わせて夏季研修総会を開催している。松田先生は会代表のときに、夏季研修総会への出張要請文を作成し、全会員に送付したことがある。その要請文を校長などに提出することで、会員の夏季研修総会への参加を公務として認めてもらおうとしたのである。一般に夏休み期間には様々な研修会が行われ、教師たちはそれらに公務として参加することが多い。しかし、視覚障害をもつ教師のための研修会は同会の研修会の他にはない。視覚障害教師の貴重な研修の機会として、会員を派遣することを依頼するものであった☆2。松田先生自身は夏季研修総会は公務として参加していた。しかし、他の会員がこの出張要請文を使用して、公務として参加したということは少なかったようである。教育委員会などの公的な機関が主催する研修会でなければ公務扱いはできないと言われた会員や、学校内での出張予算が限られている中で出張伺は出しにくいという会員もいたという。

《tr.4-25》
わしとしては、やっぱり、できるだけ中途で退職していく人をでないようにというのは、やっぱり強く願っておったけんね。それで、まあ、年1回の総会じゃけど、できるだけ仲間が集まりやすいようにしたいなというんで、各会員のところへね、出張要請のお願い文を作ったことがあるね。それで、これを各所属長にね、これを出して、出張扱いにしてもらったらどうかといってね。われわれとしても、公費で出られるということになれば、ちょっとは出やすくなるかなと思って、そういう気持ちがあったものじゃけん、出張依頼の文章を作って、各所属長に渡せるようなかたちを作ったのは作った。しかし、残念ながら公費で大会へ出席した人は、なかったといったらうそじゃけど、私は出張届を出して出ましたね。他の会員だけど、所属長へその書類を出したんだけれども、何か公な機関、例えば教育委員会ね、これが後援とかいうかたちで名前があればええんじゃがなといって、言われた人がおるね。やっぱり公の機関がバックにないと、出張扱いはしにくいといってね、言われた人もおったですね。そやけ、私の思うとったみんな出張で大会へ参加できるかなというのは残念ながら実現はしなかったね。

【中村:僕もこの文書を所属長に出して、出張にしてもらうか、職専免にしてもらうかというふうに使ってくださいみたいな案内を受け取った記憶があるんですけど、あれは松田先生のアイディアだったんですか。何回か出されましたか。】

わしになってから、最初から…、全部は出さなかったかな。1回か2回しか出していないかも知らんね。もう、みんな、無理じゃと…。聞いてくれんけんねえと言って。中には言いにくいという人もおったしね。出張経費が少ないけん、申し入れが難しいんじゃという人もおったしね。学校枠で出張経費なんか決まってるでしょ。そやけ、一つの小さい団体が大会をするのに、いちいち出張を切りよったら、出張旅費がパンクしてしまうというんでね。もう、よう出さんという人もおったね。

 松田先生は自分が代表になってからは、毎年、出張扱いで夏季研修総会に参加していた。最初は出張扱いではあるが、交通費のみの支給など、通常の出張旅費は支給されなかった。しかし、後には通常の出張旅費が支給されるようになった。定年退職前の最後の年には、管理職から出張扱いは難しいとの話もあった。だが、松田先生は会の代表であるという自分の立場を説明し、結局は管理職も出張を認めた。すべての会員が出張で研修総会に参加できるようになることを願っていたが、他の会員には広まらなかったことに悔しさを感じているという。

《tr.4-26》
わしは毎たび出した。毎たび出張届を出して。最初、初めて出したときなんか、一般の、普通の出張旅費は出してくれてなかったよ。交通費実費だけとかね、ああいうかたちでしばらく続いたけど、後半は、もう退職するころには、一応、一般の出張扱いでね、普通、一般の旅費を出してくれちょったね。じゃが、最後の最後、もう退職するときね、現役最後の年はおもしろいことがあったん。やっぱり、各学校、経費節減というのがあってね、最後のときには、校長と事務長がちょっと来てくれって…。これを出張にするのはなしにしてくれんかといって、言われたことがあるんよ。毎年出張扱いしてくれよったのに、最後の年。わしもずうずうしいのでね、わしは今、この会の代表をしとるんじゃ、代表をしとるもんがみな自費で出るようなかたちにしたら、後の会員たちにちょっとええ顔をできんじゃないかて。ぜひ、出張扱いしてくれって言って、頼んだん。そしたら、校長と事務長が話をしてから、これを最後にしてくれっていって。あれがようとまったんよ。そこでわしが最後じゃけんね。そやけ、最後の年、出張扱いしてくれて、それ以後、退職してからも大会には出てきよったけども、もうそこは自費じゃわね。そやけ、交通費実費からずっと続いて、最後の数年間は普通出張でね、切手くれた。うちの管理職も結構がんばってくれちょったんじゃね。それが残念ながら、同じことじゃけども、みんなに広がらんかったのはちょっと悔しいね。

 松田先生は会の代表として大きく二つの目標をもっていた。一つは全国の視覚障害をもつ教師を掘り起し、連絡を取ること、もう一つは視覚障害をもつ教師の勤務継続を支援することである。孤立している視覚障害教師が他の視覚障害教師たちの存在を知り、研修会に参加して情報交換することが勤務の継続につながると考えていた。

《tr.4-27》
やっぱりJVTとしては、会員を、孤立しとる人を掘り起こしたいというのがやっぱりあったね。まだまだ孤立して、困っている人がおるはずやというんでね。何とかして、そういう人に声をかけてあげたい、会員を増やしたいというのと、あと、できれば、退職をせん方向でね、仕事の継続を大きな目標には、私は思うとったね。できるだけ辞めまいと。けども、辞めていった人はいけんのかといったら、そうじゃないよ。辞めていって、三療なら三療でもね、他の方向でがんばるといって辞めていく、それはそれでまあええんじゃけどね。辞めたくないのに辞めるというのは、やっぱり避けたかったね。だから、寄ったときに、いろいろとそれぞれの人の実情を話し合ってね、ああ、そういうこともあるんか、こういうこともあるんか、こうやっていろいろ学習していけば、わしはだめじゃと思っておった人でも、じゃあ、やってみようかという気になるかも知れんわね。だから、できるだけようけ集まらんかなと。できるだけ、ちょっとでも、余計集まるための手立てを、一つ、出張で(研修会に参加できるようにする)というようなことにもつながるわけやね。会員の掘り起こしと、退職者をなくす、仕事を継続しようというのが、わしとしては大きな目標だったよね。


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(10)職場の人間関係 ――いつでも声をかければ、手を貸してくれたね

 視覚障害教師が円滑に仕事をするためには職場の理解と協力が必要である。松田先生も仕事を続けられたのは職場の人間関係が良好だったからだという。そして、良好な人間関係が築けたのは、障害を公表し、思ったことを何でも言うようにしたからだと松田先生は考えている。見えるふり、できるふりをせずに、ありのままの姿を見せたことで、自分の気持ちも楽になったし、周りの人たちも協力がしやすくなった。三次高校定時制という職場では、日常的にみんなが松田先生の手助けをする雰囲気ができていた。

《tr.4-28》
わし自身は仕事を続けたいということで、どうすれば続けられるか、やっぱり仕事を続けるためには自分の力もいるんだけども、職場での、お互い、人間関係やね、これをいかに作っていくか。絶対、手助けが要るんじゃけんな。その手助けをお願いできるような雰囲気をどうやって作るかというのは、わし自身は思ったよね。わし自身も転職なんて考えたことはなかった。転職するといったら、また、他の力じゃけん、わしはそんな力ないやと、わしはもうこれを続けるしかないというので、復職と同時に自分のことを公表し、よろしくといってお願いして、それから仕事と人間関係、これがうまくいったから、めでたく退職できたんだけどね。じゃが、人間関係を作るといっても難しいよな。職場によっていろんな人がおるんじゃけんね。わしの場合はほんと、幸いだったな。職場は小さかったから、みんなが協力してくれたきにな。こういうような職場はないかも知らんね。みんながみんな、いつでも声をかければ、手を貸してくれたね。わしも我がままだったけん、今、みなさんがどうか思っとってかな。我がままばっかり言いやがってと思うとったかも知らんけど…。

【中村:でも、さっきおっしゃったように、人間関係を作っていくのに松田先生が工夫されたことというのは何かあるんですか。】

工夫ということはないけど、やっぱり思うたことを言うんだな。思うたことを言うたら、楽になったね。それまでが、思うとっても、あれを考え、これを考えして、発言をひかえたというのがあるね。じゃが、復職と同時にもう何でも言うことになってね。思うたことを何でも言い出したん。それがむしろよかったんだな。思うとったことをみんな言うけん、みんなもいいことはいい、悪いことは悪いといってね、答えが返ってくるわな。できもせんのに、できるカッコウをしたりするのは、自分もきついし、周りもきつい。できんのにできるふりをしよるのを周りの人から見たら、手を貸したいんじゃけども、何にも言わんけん、へたに手が出せんというのがあるじゃろ。だから、やっぱり思うたら、声に出して言えんとな。これが大事だと思うね。わしはそれができたからよかったんかも知らん。わしが公表したときに、最初に返ってきた言葉が、よう言うてくれたっていって。いつでも言うてくれという声が返ってきたきにな。うれしかったね。困ったときには声をかけてくれ、そのほうが手助けしやすいといって言うたけんな。それから、思うたことを何でも言う。みなさんが協力してくれたんじゃろうね。ふりをするというのはきついね。やっぱりふりをするんじゃなしに、ありのままがええ。ありのままが。

【中村:かえって、自分の思ったことを、とやかく考えずに、何でも表現していくのが、いい人間関係を作れたかも知れないという…。】

わしの場合はそうだったね。ずっと公表するまでは、繰り返すけどもふりをしおったけんね。てきんのにできるふりを、見えんのに見えるふりをするんでね、ふりをするのはきつかった。そやけ、公表したらものすごく楽になった。気持ちがすーっとした。ありのまま、これじゃと思うね。でも、わしの場合はよかったんじゃろうけど、ありのままといって、反感をかう場合もあるかも知らんね。

【中村:そうなんですよね。それがやっぱりみんな、気を使って、言いたいことも我慢してということになってしまうのが普通ですしね。言いたいことを言っていて、うまくいくということは、なかなか返ってないかも知れないですよね。】

今時じゃけん、みんな、我慢しよってんじゃろうけどね。我慢、我慢でね。我慢、我慢しよると、みんな、ストレスがたまるわ。やっぱり、できるだけ我慢を減らして、ありのままで生きられりゃ一番いいんじゃないかな。JVTのみなさんも、みんな、自分の思いをありのままに言うて、楽しい職場であればいいんだがね。


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(11)全国視覚障害教師の会の役割 ――とにかく仲間が集まって、自分の力を高めていく

 全国視覚障害教師の会は、発足の初期から運動団体ではなく、研修団体だということを共通理解としている☆3。研修によって自分の力量を高めることで視覚障害者が教師として働く道を切り拓いてきた。一方で社会的な働きかけの必要性も認識している。ただ、運動に取り組むには力が不足していたのではないかと松田先生は考えている。まずは研修でそれぞれの力量を高めたり、情報交換をすることにより、教師として働き続けようとしたのだという。

《tr.4-29》
(全国視覚障害教師の会として)それ(=運動)はやってきてないね。自前の研修というのは一番中心じゃね。言葉で言えば、研修団体だよというのがずっとあったね。運動団体じゃないよというのがね。しかし、運動も少しずつだけど、しなければいけないのじゃないかなというのはある。やっぱり、黙っておったらええことにならんけ。辞めんさいよといって肩たたきがあれば、おいおい、ちょっと待ってくれといって、行政やなんかに声をかけたりというのは、場合によってはいるなとね。研修中心じゃけど、運動もやっぱりちっとはしていかにゃいけんなという気持ちはあるね。多きな運動というのはしてないといっていいかね。

【中村:そういう研修団体だということを強調していて、運動団体ではないんだという考え方になった経緯というのは何かあるんですか。】

そうね。やっぱり、運動するまでに、そう力がなかったというのはあるけども、まずわが身をいかに仕事を続けられるかというのが、やっぱり一番頭にあるきにね。何とかして、(聞き取り不能)力をつけて、仕事の継続をしていきたいなというのがやっぱり一番トップや。運動は二の次やね。とにかく自分の力をつけていこうというのが、最初からそれよね。やっぱり、力をつけて、働き続けていかにゃいけんでと。それで、いろんな仲間の状況も、どんな状況かもお互いに知っていこうぜというので、集まろうやということになってきたわけじゃわな。何人かで集まってくれば、それぞれの場でどんな状況か、どんな勉強をしよるかといってね。お互いの情報を、情報交換やね。少しでも、いろんな実践活動の状況がわかれば、自分も、ああ、そういう動き方もあるんかといってわかるしね。やっぱり、仲間が、とにかく仲間が集まって、自分の力を高めていく方向でというのが、やっぱり根っこにあるから、運動ということはほとんど出たことがなかったよね。運動というのは。もう、いつ集まっても研修というのがね。

【中村:職場で続けていくために、まず必要なのは自分の授業とか、学校での仕事の自分自身の力を高めていく、まずそれが必要だというようなことだったんですかね。】

そうやね。自分では一生懸命やりよるつもりだけれども、職場職場によって状況は、違う状況もあるだろうから、そういうよその状況を知るというのも、これからまたどういう転勤や何かがあるかもわからんし、いろんな職場でいろんな状況があるから、いろんな状況を知っておくというのも大事じゃわな。いろんな現場の状況を知っておくというのも大事じゃし、どんな実践をしよるか、人によって実践の仕方もそれぞれあろうにね。そやけ、人の実践状況を知るというのも自分の力を高めるための一つの条件だよね。だから、他の仲間の動き方、これを学ぶというのも大事じゃし。各教科で、専門教科で勉強していくというのはこれは当たり前やけね。その勉強の仕方も人によってまたいろいろとあろうけね。自分の知らん方法があれば、あったとすりゃ、ああいう勉強もあるんか、ああいう資料もあるんかとね、自分の知らん情報が手に入ればまたそれを勉強してね、自分の力をつける一助になればいいし。だが、一人で考えておくんじゃなしに、いろんな人の考えを聞くというのも大事じゃわね。

 研修総会で視覚障害教師の仲間が集まり、仲間ががんばっている様子を見ることで松田先生は自分もがんばってやっていこうという大きな力を得たという。

《tr.4-30》
わしはやっぱり、毎年1回じゃけど、(夏季研修総会に)行きよったけど、みんなががんばりよるのを見たら、いやあ、やっぱり続けにゃいかんなといって、わしは思うたよ。ようし、またがんばるぞというてね。みんなががんばりよる姿を見たら、よっしゃという気になるよ。次々と辞めていく姿を見たら、ああ、わしもだめかと思うかも知れんわね。ああ、みんな、がんばりよってじゃのうと思ったら、よっしゃという気になるわい。わしはそれじゃったよ。よっしゃ、また1年やるぞーっと。

【中村:みんな、やっぱり、あの夏の大会ですごく勇気をもらって、元気がついて、また現場でやろうという気になるという人が多いですよね。】

やっぱり、仲間が、身近に仲間がおる、しゃべりあい、話し合いのできる仲間がおるというのは強みじゃないの。まあ、どんな団体でもそうかも知らんね。仲間がおるというのは、一人ひとり強くなる要素じゃないんかな。一人で孤立しとったらどうなるかわからんけど、仲間がおるというのはありがたいことじゃ。これが、勉強、研修、それに続くのがこれが運動かな。研修があって、次に運動かね。


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(12)担当授業時数の軽減 ――準備する時間が全然違うもんな

 視覚障害教師が仕事を続けるためには、自らの力量を高めるとともに、働く環境を整えることも大切である。その一つとして、担当授業時数を調整して、過剰な負担を軽減することがある。松田先生は、授業準備にかかる労力を考えると、担当授業時数を減らすことも必要ではないかという。過剰な負担にならない授業時数を一生懸命やればよいと考えている。ただ、その場合も周りの教師たちに、授業準備に時間がかかることを理解してもらうことが大切だともいう。一方で、他の同僚たちと同等の授業時数を担当したいという会員もいる。他の教師に引け目を感じるということもあるかもしれないし、もっと授業で力を発揮したいということもあるかもしれない。ただ、あまりにも少ない授業時数は、配慮ではなく、視覚障害教師を教壇から排除する方策になっていることもある。

《tr.4-31》
これも、できれば、教材作りや何じゃかんじゃ、時間がかかるけね。だから、持ち時間をできれば少し減らして、そういうのは考えたね。少し減らしてもらったらどうかというようなことは考えたけど、一杯一杯しよっとった人もおるし、減らしてもらっとった人もおってじゃけど、それはどうなんかな、持ち時間を増やしたいという声があるんだけど。これはどうなんかね。

【中村:あまりに少ないと、もっと活躍の場を与えて欲しいと思っている人もいらっしゃるね。まあ、言えば、時間数を軽減というよりも、仕事を取り上げられていくという意味で持ち時間をなくされてしまったとかね。O先生なんかそうでしたよね。結局、持ち時間がなくなったというのは、授業をさせてもらえなかったということになってしまったですわね。】

教壇を降ろされたんじゃ面白くないけど、18あったのを15にしてもらったというのは、わしはいいと思うんじゃがな。18やるのと15やるんではね。ゼロになっちゃいけんけどな。10やりよる人がよ、15、18、みんなと同じようにという声も聞いたことあるよな。わしはあまり増やすなやと言うて、あまり増やしてしんどい目をせずに、10なら10で、それを一生懸命やったらどうかというのがわしにはあったね。じゃが、やっぱり、増やしたいという声を何人か聞いたことがあるよ。無理をして増やすなやというて、わしは思うたんじゃけどね。やっぱり、時間数が少ないと、言葉で言えば引け目を感じたりするのかな。あるかね。

【中村:それは、やっぱり、ある人もあるんじゃないですかね。他の先生が、例えば20時間やって、いそがしくやっていらっしゃるのに、自分が10時間しかないとなると、やっぱり他の先生に仕事の負担をかけていると思ったりとかということはでてくると思うんですけどね。】

けど、いろいろと教材研究なんかするにしても、資料を作るにしても、見える人と、わしらみたいなのと、準備する時間が全然違うもんな。それじゃけ、ちょっとは時間数減っても、わしはええと思うんじゃがの。みんなが18やるけん、わしも18じゃというたら、授業数でいえばどっちも18かも知らんけども、準備なんかのことを考えたら、莫大オーバーよ。そやけ、気兼ねをせずに18を15にするんで、それでよっしゃという気持ちになったらちょっとは楽なんじゃないかなと思うじゃけどね。みんなと同じにせにゃいけん、同じにせにゃいけんと思ったら、またストレスにつながるよ。時間がかかるんだよということも知ってもらってね、周りの人に知ってもらって、それで減らしてもらうと、これ、大事なことだと思うよ。

【中村:周りの人に時間がかかるということを理解してもらって協力してもらうということが大切なんですよね。】

やっぱり、それはいうたほうがええね。周りの人はわからんけんね。準備に、どこにどれだけの手間がかかるんかというのはね。資料を聞くといっても、テープで聞きよりゃ、結構、時間がかかるわな。それをまた文章にして、資料プリントを作ろうと思えば、聞いてプリントを作るまで結構時間がかかるわな。そやけ、準備時間いうて、結構かかるんだよというのを周りの人にも知ってもらうというのは大事じゃわね。そやけ、わしは時間数だけ、数字だけでみんなと同じと思わんでいいような活動ができればいいなと思うね。みんなが納得して、時間数を減らす。甘えじゃないよ。甘えとは違うんよ。

【中村:甘えと違うというところが、例えばぱっと時間数だけを見たら、他の先生はみんな18時間持っていると、視覚障害のある先生だから10時間になっているとなってきたら、理解してもらえない人にとっては、同じように働かれへんのかというような批判になるかも知れないし、その分、余計にこっちが仕事をせなあかんと思う人も出てくるかも知れないじゃないですか。そこらへんも、時間数を減らしてもらうということで出てくる問題点というんですかね、人間関係とかでもあるんじゃないかなということも思うんですけれども。】

あるだろうな。

【中村:それだったら、無理してでも同じ時間をやっていたほうが他の先生方と対等につきあえるというんですかね。】

難しいなあ。それぞれの人がどういうように思うとってかな。わしは少し持ち時間を減らすのは、わしはOKやな。


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(13)チーム・ティーチング ――TTでいこうというのが、わしは思うね

 視覚障害教師が授業を行う際、単独で行うこともあれば、アシスタントや他の教師とともに教室に入ることもある。一つの授業に複数の教師が入り、役割を分担して指導効果を高める方法をチーム・ティーチングと呼ぶが、視覚障害教師の中にはこの授業体制で指導効果を上げている者も多い。視覚障害教師からすると、視力を必要とする部分を見える教師に分担してもらえるというメリットがある。一方、実際には教師同士の共通理解が十分でないと、効果が上がらないばかりか、返ってやりにくさを感じることもある。松田先生は視覚障害教師にはチーム・ティーチングという授業体制が適していると考えている。

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ぜひ、(授業に)アシスタントというか、ついて欲しいね。今はTT(=チーム・ティーチング)がまたちょっと増えているようでしょ。

【中村:そうですね。TTで授業をもつというかたちを取っている先生も結構いらっしゃいますね。】

時代が時代じゃけんか知らんが、大変らしいね、子どもらをつかまえておくのが。確かに、われわれの場合、見えないのだから、子どもが教室を出ていったりしても、そっと出ていけばわからんわな。小学校の低学年なんかでも、おらんようになるようじゃ。さっと外へ出て行くみたい。見える先生でもそうなんじゃけんね。われわれとすれば、ちょっと完全につかまえておくというのは無理じゃよね。わしは賛成のほうじゃね。われわれの仲間でも、会員でも、自分一人でええという人もおってじゃわな。

【中村:そうですね。それはたぶん、すごく意見の分かれるところみたいな感じがあって、やっぱり誰かとペアを組んでやるとどうしてもその相手の人に気を使わなければいけないこともでてくるし、自分のやろうと思っていることをやりにくいという場合もあるという考え方もあるでしょうしね。】

TTも確かに相手次第というのもあるよの。相手とうまく合えばいいけどね。合わない人と組んだらちょっと大変なところがあるよね。難しいよな。じゃが、今からは、われわれ目の不自由な者が現場に立とうと思ったら、どうしてもTTのかたちを取らなければいけんのじゃないかな。TTでいこうというのが、わしは思うね。日本全国、TTが当たり前じゃというようなかたちになればいいなと思って。ああ、あそこはTTか、いいなあというようなことじゃなしにね、あそこもTT、ここもTT、それでうまいこといったということになれば一番いいんだがな。


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(14)パソコンとソフトの整備 ――機械そのものより、今度はソフトの経費

 松田先生は三次高校定時制に復職後、早い時期からパソコンと画面読み上げソフトの整備を受けることができた。これらの機器は視覚障害教師が仕事を遂行するためには必須だが、いまだに公的な予算で保障されているケースは少ないようだ。パソコン自体はすべての教師に1台ずつ貸与されるようになってきた。しかし、画面読み上げソフトをはじめ、視覚障害者に使いやすいソフトを整備することまでは十分に対応されていないようである。

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以前に比べたらね。もう、時代が時代じゃけん、今、パソコンはもう一人に1台持っておる時代じゃわね。

【中村:そうですね。機械自体はね。】

機械自体はね。

【中村:なかなか視覚障害者用のソフトを入れてくれるとか、そういうところが難しいみたいですけどね。】

わしのときは機械まで入れてくれと要求しよったんじゃがね。わしの場合は、機械もセットでね、プリンターまでセットになってね、入れてくれたんじゃけど。その後、Mさん、Mさんかな、あれもセットで入れてもろうたりしたわね。今はみんな、機械はもうみんな持っている時代で、後は、今度、ソフトをね、ソフトがいるけ、ソフトを公費で入れてくれればいいなと思うんじゃけど、いつやら、去年か、みなさんに声をかけてみて、機械やソフト、公費の方いらっしゃいませんかと聞いたんじゃけど、少ないね。いま、ソフトまで公費で入れてもらっているのは10人ぐらいかな。

【中村:ケースによってどこまでお金を出してくれるかというのはだいぶ違うみたいな感じでしたね。】

ソフトの数もいろいろあるきにな。いろんなのを全部入れるといったら莫大な金になるきにね。どうしても要求もしにくいし、みなさん、わしはわしで入れるわといってみんな入れおってんじゃね。

【中村:でも、今度はそういう自分の買ったソフトを学校のパソコンに入れたらだめだとか、そういうことのほうがかえって面倒臭いみたいですよね。自分でお金を出して何とかできるんだったら、もう、やってしまったら楽かも知れんけども、この頃は、学校の資料を自分のパソコンで作ってはいけないとか、そういいながら、学校のパソコンには自分の音声が入っていないとか、それが、今度はどうしようもできないですからね。そういうことのほうが問題みたいですね。】

まあ、パソコン、難しくなったね。いろんなところで問題が起きたりしよるけん。便利がようなったら、マイナスもなんぼかあるきにな。(聞き取り不能)経費的には、われわれはいろんなソフトを入れなければいけないけ、経費はかかるわな。これはばかにならんよ。ちょっとでも公に出費してくれればありがたいな。

【中村:そうですね。パソコンだけもらってもただの箱ですからね。やっぱり使える状態にして貸してくれないと意味がないですからね。】

機械そのものより、今度はソフトの経費、これをどういうように援助してくれるかというのは大きいね。やっぱり、われわれは現場に立とうと思えばどうしてもいるんじゃけんね。どうしてもいるもんじゃけ、そこらはちょっと助けてくれれば…。


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(15)生徒とのかかわり ――いろんな人と接しておくというのは、プラスじゃと

 松田先生は三次高校定時制で自分の視覚障害を生徒にも公表した。見えなくて困ることがあれば、生徒にも手助けを頼んだ。生徒たちは外出時には手引き誘導をするなど、よく手助けをしてくれたという。生徒たちに視覚障害をきちんと公表したことはよかったと思っている。

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わしは職員の前で公表したのを皮切りに、もう、教室に行ってもみんなに公表してね。やっぱり言うたほうがええ。そしたら、生徒も、こっちが見えないけん頼むと言ったら、すぐ手助けしてくれるわな。まさにありのままよ。わしはこれが見えないけんの、頼むでといったら、生徒も手助け、動いてくれるわ。やっぱり、言うたほうがええな。例えば外なんか行っても、山へ登るといったりしても、生徒がちゃんと手助けしてくれるしね。一緒に歩きよっても危ないようなところがあれば、ちゃんと説明して、安全なほうへ手を引いてくれたりね。やっぱり、見えないのに見えるふりをしていたら、生徒も困ったろうけどな。見えるふりをしてから、ひっくりこけたりすれば一緒に歩きよった生徒も、ありゃと思うわな。何かあったんじゃろうかと思う。生徒らにもちゃんと言うとったきに、安全な方向へ手引きしてくれるようになって、やっぱりこれらは、生徒に公表するというのも、わし自身よかったと思うね。

 生徒には最初の授業で自己紹介し、そのときに視覚障害のことも話していた。多くの生徒は協力的な様子を示したが、中には反発的な発言をする生徒もいたという。

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わしはもう最初の時間にね。最初の時間は大抵自己紹介というのはするわな。そのときに、各クラス、みんな、自己紹介、わしはこういって目が不自由ですきにな、みなさんに頼むことが多いと思うがよろしくといってな。そしたら、生徒らもはいと言って。中にはいうことをきかんのもおるよ。中には悪態をつくのもおるきにな。ほんまに不自由ならもういんでしまえというのもおるよ。目が見えないのなら辞めてしまえというのもおる。わしはまあそういうなやというてね。でも、その子も本心で辞めてしまえといいよるんかどうかはわからんよ。

 松田先生は学校現場にいろいろな障害をもつ教師がいたほうがよいと考えている。特別な障害者理解教育を年に1、2回行うより、日常的に障害をもつ教師とふれあうことで理解も深まり、援助の実践力も身につくのではないかという。

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やっぱり、いろんな人が(学校)現場に立つというのはいいと思うよ。今なんかよう学校なんかで年に1回か2回か知らんけども、目の不自由な人を呼んできて、マスク(=アイマスク)をして体験するとかいうのがあるわな。あれをするよりか、やっぱり現場におったほうがええと思うがの。どうなんかね。現場にね、目の不自由な人もおれば、車椅子の先生がおってもええんじゃないか、ね。常にそういう人が身近におれば、子どもたちも手の出しようがだんだん慣れてくるわの。あっ、あんなときにはこう手を出せばいいんだということが。年に1回、マスクして体験しても大したことにならんような気もするんじゃがな。ゼロよりはいいかも知らんがね。現場へ、みんな、現場へ入りましょうやというて、いろんな人が現場におろうやというて、そうなればいいんだがね。

【中村:そういう視覚障害の先生が学校におることのよい面というのもあるということですかね。】

やっぱり世の中にはいろんな人がおるというんでね。いろんな人がおる。元気な人もおれば、目の見えない人もおれば、耳の聞こえん人もおれば、いろんな人がおるというのを身近にそんな人たちに接していればね、世の中、どこへ行っても、街へ行ったときでも、あっ、不自由な人がおるなと思ったら、ちょっと声をかけるとかね。かけやすいわな。もっとも知らんかって、いきなりそんな不自由な人と接したときに、よう動かんわな、知らんかったら。普段からそういう人と接しておれば、対応の仕方が応用がきくんじゃないかね。昔なら、不自由な人はもう隔離されておったけん、そんな人と接する機会がなかったけど、今はだんだん世の中が変わって、体の不自由な人も街に出る時代になってきてるね。学校現場なんかでも、そういう不自由な人がどんどん入って動ける社会になってほしいね。いろんな人と接しておく、大事なことじゃと思うね。

 視覚障害教師が果たす役割は障害者理解の促進ということだけではない。視覚障害という困難を抱えながらもがんばって授業をする姿は、生徒たちにプラスの影響を与えると松田先生は考えている。

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よくわからんけれども。実際、生徒らはどう思っているかわからんけれども、目の不自由な人が教壇に立って一生懸命しゃべりよるのを見た人はどこかでプラスになるんじゃないかな。いろいろと苦しんでいる姿、不自由な姿を見て、不自由ながらがんばりよる姿を見ておるというのは、生徒らもどこかでプラスになるような気がするわな。すぐ直接は、目の不自由な人の授業を受けたけんよかったとは、直接はないかも知らんけどね。実生活の中でいろんな人と接しておくというのは、プラスじゃとわしは思うとるね。だからこそ、学校現場になんかでもいろんな人を採用してほしいと。1981年かね、国際障害者年というのがあったわね。あれをきっかけに、だいぶ機会が増えたような気がするね。

 三次高校定時制は複数の教師で一つの学級を担任する体制を取っていた。松田先生も他の教師と一緒に学級担任を務めた。定年退職の年には卒業学年を担任し、引率として沖縄への修学旅行にも同行した。担任の業務のうちで墨字の書類を書くことは見える教師が行ったが、内容の作成については松田先生も加わった。

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わしらのときには、複数担任。全職員がどれかの学級の担任。わしの最後の年はみなさん、配慮してくれちゃってね。定時制じゃけど、4年生。4年生の担任になれというて、みんながね。

【中村:卒業生の担任ですね。】

そうそう。それで、修学旅行なんかも一緒に行こうといって、行ったんよ。4年生の担任をして、修学旅行にもみんなと一緒に行った。沖縄へ行ったんじゃけどね。みなさん、配慮してくれて。それが最後のプレゼントじゃというて。まあ、ええ職場だったね。幸せでした。

【中村:二人ペアになるにしても、どうしても複数担任したら、事務的な仕事は見える先生にしてもらわなければ仕方がないですからね。役割分担としては、見える仕事はもう一人の人にしてもらって、その他、生徒指導的なことは松田先生が担当とか。】

まあ、そうやね。だから、生徒指導なんかはみんな、見える人も見えない人も一緒よ。いろいろと機会をとらえて話し合いはするけどね。個人の報告書みたいなのでも、松田さん、何かこの子についてなんぞいうことがあればいうてくれといって、言うたらそれをもう一人の人が文書にしてくれるわけ。報告書には、わしのいうたことも書くし、もう一人の人のも書くしね。

 松田先生は、生徒とのかかわりで、視覚障害をもつ教師として特別に他の教師と異なったことはなかったという。生徒たちも松田先生を特別視したり、他の教師と異なる対応をしたりすることはなかったようである。ただ、多様な教師との出会いという点では、視覚障害をもつ松田先生と出会ったことは生徒たちにとってプラスだったのではないかという。

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わしは別に(視覚障害教師として他の教師と)差をつけてしゃべったことはないね。わしはわしなりに、わしの思いをそのまま、子どもらと話すようにしてるしね。見えないからこうなるんじゃ、見える人とは違うんじゃというのは、差をつけて話をしたことはないな。もう、わしは見えないのでというのはみんな知っておるしね。そやけ、わしはわしの思うたことを子どもらにもみんな言うしね。見えないから特別変わったことをしゃべったということはないね。まさに思うたことを素直にしゃべっただけだね。

【中村:生徒の反応とかというのは、さっきもちょっとお聞きしたですけども、目が見えない先生だから反発するとか、また、かえってよく話しを聞くとか、そういうことは別にないですか。】

いやあ、別に見えないから、見える人と見えない人の対応ちがえたという感じはなかったね。生徒は生徒で、やっぱり一人の人間として話を聞いてくれて、しゃべってくれたと思うよ。ああ、この人、松田さんは見えないんじゃけ、こういうように話そうかというそういう考えでしゃべってくれた子はおらんと思うね。一人の人間として対応してくれたと思うよ。

【中村:生徒からしても、松田先生が別に特別というわけじゃなく、たくさんいてる先生の中の一人として普通につきあってくれていたという感じてすかね。】

そう思うよ。いろんな人が現場におって、生徒らもいろんな人と、いろんな、元気のええ人もおれば、体の弱い人もおれば、いろんな人と接していられたというのは、生徒らにはよかったんじゃないかな。ちょっといいすぎかな。

【中村:そういう経験をもつというのも、なかなか普通にはないことですからね。】

大きく見れば、そういった面はプラスじゃないかと、プラスと思うよ。

 松田先生は目が見えないことで生徒や同僚とのかかわりにマイナスは感じなかった。ただ、以前はできていたことができなくなったことに対して自分自身にはがゆさを感じることはあった。しかし、生徒や同僚とのかかわりではがゆさを感じることはなかった。それはやはり視覚障害を公表したことによって得られたものだと考えている。視覚障害を公表したことで自分も楽になり、周りとの関係も良好に保てたと松田先生は繰り返し強調する。

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わしは、生徒との関わり、生徒、職員との関わりで、目が見えないことでマイナスというのはあまり感じないね。みんな、よう助けてくれて、聞いてくれて…。わし自身が不自由じゃけん、まあ癪に障ったけどね。何でこれができんのかというのを思うことはあったよ。まあ、見えている時代があるわけじゃけんな。見えている時代にできとったけん、やっぱり、記憶にあるわの。それが見えんようになってから、何でこれができんかいのうと思うて、自分自身にはくそったれがと思うたことはあるけどね。職員や生徒との間で、目が見えないから、ああ、くそったれじゃなと思うたことはあまりないね。初めに、職員、生徒の目に自分のようすを知ってもらったというのは、結局、それが大きいじゃろうと思うね。あれから気分も楽になったきにね。気分が楽になったら、ほんと、生活も楽しくなるわ。どうしようか、どうしようか、どうしようか、だましていこう、だましていこうと思うたら、きついもんな。みんな、知ってくれとる、それから付き合えば楽だ。楽になった、わし自身が。わし自身も楽だったし、わしみたいなのと接触できた子どもらも、どこかでプラスじゃろう。ちょっと自信…すぎか。

 松田先生は、見えていたときと見えなくなってからで変わったのは、助けてもらうことが多くなったことだけだという。授業も生徒に手助けをしてもらうことが多くなったが、やり方や中身が変わることはなかった。

《tr.4-41》
それは、見えないがために、助けてもろうたことは多いわな。そこが大きく違うだけじゃ。後は、話すことは見えておったときも、見えんかったときも、同じじゃけども、助けてもろうたというのは大きいね。不自由になってから、ほんと、生徒にいろいろと助けてもろうたということがあるわな。これは、わしがうれしいことに、みんな、よう助けてくれたきにね。生活、授業、これは今までどおり、生活して、授業もしてきたけんな。その授業の仕方も特に変わったことはないよ。授業の中で助けてもらうことはあったけどね。それはそれで、助けてもらいながらも、授業の中身は今までと同じような中身はしたつもりよ。見えなくなったから授業の中身が、10が7になったということはないと思うね。

 松田先生は見えなくなっても特別なことはしなかった。それでも定年まで勤め上げることができたのは、周りの人たちのおかげだと感謝の言葉を繰り返し口にした。

《tr.4-42》
特に見えんようになったきというて、代わった動きはわしはしたつもりはないね。いやあ、みんな、ようつきおうてくれた。(聞き取り不能)最後までできたんやね。ありがたいこっちゃ。

 松田先生には筆者が帰る列車の時刻ぎりぎりまでお話をしていただいた。松田先生が保管されていた全国視覚障害教師の会の会報や研修大会の資料も譲っていただいた。慌ただしく帰り支度を整えて、手料理のお昼をごちそうしてくださった松田先生の奥様に自動車でJR三次駅まで送っていただいた。

【注釈】

☆1:障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』(りぼん社)の第0号は1979(昭和54)年8月に発行されている。松田先生は新聞でこの雑誌の情報を得て、創刊にかかわっていた楠先生の存在を知る。第1号(1979年12月発行)では、楠先生が「創刊によせて」の中で松田先生の復職問題に触れている。同号の相談コーナーには、復職問題についての松田先生からの投稿が見られる。また、第3号(1980年6月発行)には、松田先生からの復職報告の投稿が見られる。これらの投稿は匿名になっているが、松田先生の許可を得てここに記した。
☆2:筆者もこの派遣依頼の文書を受け取っていた。出張としての申請はしなかったが、この文書を添えることで校外研修への参加というかたちで許可を受けることができた。休暇中の私的な研修ではなく、公務としての研修として参加していた。
☆3:「全国視覚障害教師の会・会則」(1990年8月3日制定、2009年8月12日改正)の第2条(目的)の1に、「1.教職にある視覚障害者が、その職務を遂行し得るように、互いに情報の交換や授業方法の交流を行い職場における理解を深めるための工夫などを研修しあう。」とある。



*作成:小川 浩史
UP: 20130730 REV: 20131117
視覚障害  ◇盲ろう(者)  ◇障害者と教育  ◇全文掲載
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