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「第3章 長井仁先生のライフストーリー」

中村 雅也 2013 「視覚障害教師たちのライフストーリー」
2012年度立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文

last update:20131117


目次

(1)幼少時からの弱視経験と就職 ――特別にだめですと言われたようなこともない
(2)小学校産休代用教員 ――視覚障害だからということの意識は、あまりなかったですね
(3)加茂暁星高校へ ――視力の問題で採用されなかったのか
(4)失明と復職への模索 ――結局、視力は、まあ、だめだったということですね
(5)復職へ ――今までやってきた仕事の延長で苦労したほうがいいんじゃないかと
(6)復職の条件 ――特別な手立てというかね、それはちょっと今の段階ではできない
(7)手探りの授業 ――自分で工夫するということから出発したんですね
(8)生徒の協力 ――私は生徒に任せたんですよ
(9)同僚の協力 ――本当に手当たり次第頼むんです
(10)質問への対応 ――手間がかかるのは、やっぱりやむを得ないこと
(11)家族の協力 ――採点やノートの点検まで同僚にお願いというわけには、なかなかいかなかったですね
(12)生徒とのかかわり ――思いがけない生徒の実態みたいなものがわかってくる
(13)障害者教師の存在意義 ――障害をもっっている教師が一人、二人、三人ぐらい
(14)全国視覚障害教師の会の仲間との交流 ――そこでまた、元気を注入されて
(15)見えているときと見えなくなってから ――見えるか、見えないかだけでは何とも決まってこない
(16)視覚障害教師に心を開く生徒 ――緊張しなくていいんでしょうね、生徒はね
(17)学級担任と校務分掌 ――われわれとしては甘えてはいけないところだろうと
(18)障碍をもつ教師として ――差別なし、平等、公平とか、そういうことで



第3章 長井仁先生のライフストーリー


 長井仁先生は、1981(昭和56)年、45歳の時に網膜はく離によって失明した。当時、新潟県加茂市にある私立加茂暁星高校で教務主任を務めていたが、治療とリハビリテーションのために1年8か月学校現場を離れ、1983(昭和58)年4月、同校教諭に復職した。私立高校でははじめての全盲の教師だと思われる。全国視覚障害教師の会第2代代表(1992〜1996年)を務め、1996(平成8)年3月、35年間勤務した加茂暁星高校を定年退職した。
 2010(平成22)年12月25日(土)午後と26日(日)午前の2回にわたり、新潟県加茂市のご自宅を訪ね、75歳になられた長井先生にお話を伺った。インタビュー時間は合わせて4時間50分ほどであった。



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(1) 幼少時からの弱視経験と就職 ――特別にだめですと言われたようなこともない

 長井先生は、1935(昭和10)年9月2日、新潟県新潟市に生まれた。地元の新潟県立新潟商業高校を経て、新潟大学人文学部哲学科を卒業した。専攻が哲学ということもあって、一般企業への就職は意識になく、卒業後は教職かジャーナリズムの他はあまり考えられなかったという。

《tr.3-1》
まあ、専攻が哲学というふうなことですから、それの延長線ということでしょうかね。教職か、あるいはジャーナリズムかという、そのへんが職業選択の方向ということはそれなりに決まったというかね、そういう状況だったわけで、だから、一般の会社とかというのは、最初からそういう方面の職業というのは意識になかったですね。大体、高校が商業高校ですからね。そのへんの卒業生というのは、大体、一般の会社、商店とかね、せいぜいで地方公務員、県庁か市役所かみたいな、そのへんあたりの職業を選ぶというのが普通の状況ですよね。まあ、銀行なんて方面もあるけども。ところが、そのへんがどうも私には向いてないなという感じを最初から思っていたものだから、そうすると、教員か、新聞記者かみたいなね、そんな感じ。

 長井先生は幼少時から強度近視による弱視だった。視力は矯正しても0.1程度で、その視力ではジャーナリズムの仕事は難しいだろうと考えていた☆1。

《tr.3-2》
ところが、新聞記者とか、あるいは放送局なんかでもそうだけども、その頃、もう既に視力が非常に弱かったわけで、強度近視というのか、弱視というのか、そういう状況でしたから、矯正視力でもようやく0.1ぐらいのね、そんな状況でしたから、なかなかそういうジャーナリズム、マスコミの関係ではうまくいかないわけですよ。適正がないというのかな。

 長井先生は幼少時からの経験で自分の視力の弱さは自覚していた。自分の視力では難しい仕事もあるとも思っていた。しかし、教職に関しては、大学で教職科目の単位を取るのも、教員採用試験を受験するのも大きな壁はなかったという。

《tr.3-3》
まあ、教職単位を取るとか、あるいは、採用試験を受けるとか、そういう段階では視力の問題というのは、視力が弱いからだめというふうなことではなかったと思うんですよね。私の場合は矯正視力でようやく0.1という状況で、それ以上の矯正ができなかった状況ですから、しかも、わたしは、やっぱり、物心ついた頃からそういう強度近視といわれてきたんですけどね、小学校、中学校、高校も、教室の自分の席というのは必ず一番前。しかも、なるべく中央よりのね。それ以外のところにいた覚えがないんですよ。それでもなお、黒板の文字はあまりよく見えない。だから、小学校の頃は、あの当時の生徒の机というのは蓋が外せるような、そういう机だったんですけどね、どうしても黒板の文字を写さなければならんなんていうときは、その蓋ごと、ノートをのせた蓋ごと外して、一番前の席から更に前にいって、黒板の真下までいって、黒板を写してというふうな、そんな状況でずっとやってきたんでね。だから、視力を使わなければならんような仕事というのは、まあ、だめだろうなということは自分でもそれなりにはわかってましたしね。だけども、教職に関しては、見えるか、見えないかというかね、つまり、全盲だったとしたら、そうはいかないんだろうと思うんですよ、あの頃だってね。だけども、教職単位を取る、それから教員試験を受験する、ここでは特別にだめですと言われたようなこともない。



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(2) 小学校産休代用教員 ――視覚障害だからということの意識は、あまりなかったですね

 長井先生は視力の問題もあってジャーナリズムへの就職を選ばず、教職を目指した。高校の社会科の枠で新潟県の教員採用試験を受けたが、すぐに採用とはならなかった。新潟県新発田市の小学校分校で産休代用教師を務めたのが教師生活のスタートだった。

《tr.3-4》
教員採用試験を受けて、高校の社会科ですね、で、採用試験を受ける。ということになったわけだけども、ところが、割と教員の志望の多かった時期でもあるんですが、特に社会科は多いわけです。比較的、教職を取りやすい分野だったということもあるのかも知れませんけどね。なかなか社会科ではうまく採用にならない。そんなことで、その年はだめだったから、じゃあ、翌年、もう1回、受けなおそうと思っていたところへ、年度の途中で、小学校の産休代用で臨時でいってみないかと、こういう話がやってきて、何とかそういう学校と結びついていたほうがゆくゆくは高校へ結びつくにしてもいいんじゃないかという、そんなことで小学校の臨時産休代用ということで仕事を直接やるようになったと、こういう状況ですね。

 着任した学校は1年生と2年生の2クラスだけの分校だった。産休に入っていた教師が出産後そのまま亡くなってしまい、なかなか後任が見つからないので、本校から教師が交代で出向いて授業をやりくりしていた。しかし、先生が定まらないと子どもたちは落ちつかない。そこへ長井先生がやってきたので、子どもたちは喜んで、よくなついた。教師生活の最初に出会ったこの経験によって、長井先生はまず子どもたちと一緒にいることの大切さを身にしみて知らされたという。

《tr.3-5》
その小学校、産休代用でいった小学校に着任したら、新潟市からは少し離れているんですよ、新発田というのがとなりの市にあるんですけどね。新発田市の小学校で、しかも、分校だったわけです。その分校が、割とその本校に近いところにあった分校なんだけども、小学校の1年生と2年生、低学年ですね、その付近の集落から通う低学年の生徒だけをあつめて、そこで、分校でやると。3年生になると本校まで通う。こんな分校なんですよね。だから、小学校自体としてはかなり大きな学校なんだけれども、分校としては二クラスしかない、それぞれ一クラスずつで二クラスしかない。そういうところへいったわけですね。ところがね、その分校で私の前任者であった人が出産のために休んでいたわけだけれども、そのまま亡くなったんですよね。子どもを産んだ後に亡くなった。それで、産休代用というのも、一人目の産休代用の期限が終わって空白になっていた時期に、私がいったわけ。ですからね、私の前に産休で来ていた人がいたわけだけれども、それが期限切れでお辞めになった。その後任がなかなか見つからないわけですよね。そこへ私がうまく引っかかって入ったわけだけれども、ところが、その間にしばらくブランクがあったわけですよ。そのブランクの間はどうなっていたかというと、本校から日替わりで分校のほうへ誰かが出かけていく。校長がいく、教頭がいく、いよいよ誰もいけないような状況だと、養護教諭が代わりにいくとかね。本当に、毎日毎日、別な先生がやってきて生徒を教えると、こういう状況です。だから、生徒が落ち着かないことね。集中力がないというのか、落ち着かない。そこへ私がいくことになって、毎日、同じ先生が教室へ来る。それだけで、もう、生徒が大喜びをすると、こういう状況なんですよね。だから、その学校に私は約半年いたわけだけれども、なるほどな、生徒とまず一緒にいることが大事なんだということを身にしみて知らされた、そういう時期ですね。だから、朝、生徒は学校へ来て、小学校の1年生ですからね、大体、午前中ぐらいで終わるんですよ。たまに、1週間に何回か、1回か2回ぐらいは給食が出たり、そういうときもあるんだけれども、それにしてもそんな午後遅くはならないのね。1時ぐらいには放課後になるわけだけれども、その間、生徒はね、まつわりついて離れない、そんな状況ですね。だから、ズボンにやら上着の腰のあたりやら、手垢というか何と言うか、ベトベトになるような状況。そんなことで半年ぐらいやって、私のほうも期限切れで年度末に終わりということになったんです。

 小学校に勤務していたときも、長井先生は矯正視力が0.1程度で、弱視という障害をもっていた。しかし、その障害によって仕事をする上で困難があったという覚えはない。それよりも、未経験の仕事を試行錯誤でこなしていくことのほうが大変だった。その中で、教師の世界にも独特の文化があることに気づかされる。

《tr.3-6》
(小学校で仕事をする上で)特に視覚障害だからということの意識は、あまりなかったですね。その前に、全く未経験なことを、周りにそういう手本になるような人もいないような状況で、分校で自分一人でやれみたいな、こういうことですからね。じゃあ、どうするか、試行錯誤、いろいろとやってみてということのほうが忙しいというかね、そっちのほうに気を取られて、視力のせい、視覚の問題でという、そこまで考えているのがなかなかできない。それで、生徒もせいぜい一クラス、あれはそれでも50人まではいなかったのかな、結構、多いんですよ。40何人ぐらいとかね、生徒数。あんまり他のことに気を取られずに、その生徒たちだけを注目していけばいいという、そんな状況でしたから、特別に視覚障害でどうのこうのという、そのへんは意識せずに済んだんですね。そのかわり、とんでもないところというか、例えば、保護者会みたいなのがある。学期末ぐらいになると必ずあるわけでしょ。私は、自分は初めての経験だし、あんまり堅苦しいのはいやだからと思って、集まった父兄、まあ、10人ぐらいしか集まらないんですよね、ああいう場所だからね。母親が10人ぐらい集まって、しかも冬ですからね。じゃあ、まあ、人数も少なめだし、みなさん、椅子を持ってストーブの周りに集まって、そこで話をしましょうなんていうことで、そういう話の持ち方をやったら、父兄が帰った後、その日の夕方になったら、早速、本校の教頭から電話があって、父兄が集まって、そこで話をするときはちゃんと机のところに座ってもらって、しかもね、その生徒の座る場所にそれぞれの父兄を座らせろと、こういうわけね。そして、自分は教壇のところで話をしなければだめみたいな、そういう電話が教頭からすぐに入るんですよ。どこで、そんなことがわかるのかなと思って、私は不思議でしたけどね。なるほどな、教員の世界というのも、こういうことがあるのかなと思って。

 特に視覚障害を意識することもなく勤務していた長井先生は、自分が弱視であるということを同僚に告白し、理解を求めるようなこともなかった。また、弱視であることを隠そうという意識もなかった。極端に目を近づけて文字を読む様子を見れば、視力が弱いのだろうということはすぐに推察される。しかし、そうだからといって、取り立てて問題視する人もいなかった。長井先生の強度近視は俗っぽく侮蔑的でもあるが‘ドキンガン’などと名指されるとき、よくあることとして人々に受けとめられる。筆者も夜盲という障害があったが、‘トリメ’と名指されているうちは、珍しくもないこととして受け止められていた。‘ドキンガン’や‘トリメ’にいかめしい診断名がつけられ、それが障害だと名指された途端、気に留め、問題にしなければならないこととして人々は受け止めてしまうのである。

《tr.3-7》
まあ、勿論、(自分が弱視だということを)私のほうから話をするというようなことは特になかったけども、その小学校の分校の時代でも、たまには本校から来た先生なんかとも一緒になることがあるわけですよ。私が、例えば生徒のノートとか、そういうのを点検したりなんかしている状況を見てるとね、ものすごく目に近づけてやってるわけでしょ。そういうことは他の先生方も見て、ああ、この人はそうなんだなということはわかってはいたと思います。だけど、特別、それで何だかんだということもなかったですね。

【中村:まあ、昔でいう近眼のきつい人だなあというような程度…。】

そういう感じですね。

【中村:それが特に障害だとか、そういう認識じゃなくて、ただ近視の強い人というような感じだったんですかね。】

そうですね。

【中村:僕らも夜盲がありましたけど、そのときは、もう鳥目、鳥目といって、普通にあるような感じで、夜見えないとか、暗いところで見えないということはわかっていたけれども、それが特に障害とか、そういう意識でとらえられていたというよりは、ただ単に、ああ、鳥目というような感じでいわれていただけだったんで、取り立てて、視覚障害があるからどうのこうのというような見方はなかったという感じだったですけどね。】

そうそう。



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(3) 加茂暁星高校へ ――視力の問題で採用されなかったのか

 長井先生は高校の社会科教諭の枠で新潟県の教員採用試験を受験していた。受験に際しては、特別の配慮を求めることはしなかったし、教育委員会が視力を問題にすることもなかった。しかし、受験を許可することと、実際に採用することとは違う。全盲者に教員採用試験の点字受験は許可するが、採用はしないと公言している教育委員会もあった☆2。長井先生の場合も、採用試験に合格しなかったことに視力の問題があった可能性はある。

《tr.3-8》
(弱視でも教員採用試験の受験はできたが)実際に採用するという段階になると、これは問題になるんですよね。だから、やっばり、そんななかなか見えないようなのよりは、見えるのを取ったほうがいいと、こういうことは当然出てくるんでね。そういう面でのハンディは、当然、あったと思うんですよね。だから、私の場合、確かに高校の社会科というのは競争率が高かったんだけれども、競争率が高いからなかなか採用されなかったのか、あるいは、そういう視力の問題で採用されなかったのか、ここは何というか、微妙なところで、はっきりいってよくわからないところですね。

【中村:僕の時代なんかもそうだったんですけれども、当時は願書を出すときに健康診断書を提出するということになってましたからね。そこには、勿論、視力も書かれていたわけでね。それが、たぶん、合否判定の一つの材料にされていただろうなということは想像できますよね。】

だけどね、例えば視力が0コンマいくつだから、門前払いということも特になかったんですね。

【中村:内規のようなものが…。】

まあ、おそらくそのへんに引っかかったんだろうとは思うんです。

 小学校での臨時教員を経て、大学卒業1年後の1960(昭和35)年4月、長井先生は私立の加茂暁星高校に教諭として就職する。たまたま同校に勤務する先輩に出会い、誘いを受けたのであった。そして、定年退職となる1996(平成8)年3月までの35年間、同校に勤務することになる。

《tr.3-9》
その新しい年度の採用試験も受けてはいたんですけれども、そこでもまだ、なかなか簡単には(勤務先は)見つかりそうもない。そういう状況の中で、たまたま先輩で私立高校へいっている人に街でばったり会って、今、どうなっているかという話をしたときに、じゃあ、うちへ来いという話になったわけです。その私立高校へね。丁度、その私立高校のほうは生徒増を迎える時期にあたったんですよ。ベビーブームの頃で、生徒数がどんどん増えてくる時期。生徒数が増えて、クラスの数も増えると、こういう時期ですからね。それにともなって、教員も増やさなければならん。こんな状況がうまくぶつかって、その私立高校へ勤務するようになったと、こういう状況ですね。

 高校の勤務でも、長井先生が強度の近視であることは同僚などにも知られていたようである。しかし、それが問題となったり、そのことで長井先生が視覚障害者として特別視されたりすることはなかった。

《tr.3-10》
そんなことで、(加茂暁星高校に)行ったんですけども、視覚障害ということも、勿論、ものすごい近視だということはすぐにわかるんですけども、それだからどうのこうのということは、同僚の間でもなかったですね。自分でも、あんまり視覚障害なんていうことは意識しないでやっていた時期でもありますからね。放課後になれば、夕方まで生徒と一緒に遊びがてら、例えばバレーボールをやったりとか、それから、夏休みになれば生徒を連れてテントを担いで山へいくとかね、いうふうなこともやってましたし、そうね、あんまり視覚障害がどうのという話はほとんどなかったんでしょうかね。

 一般に弱視者は見づらさを抱えており、目を酷使する事務作業は負担となりやすい。もともと読みづらい文字なども多い試験の採点は、一定期間に大量に処理しなければならないこともあって、弱視の教師には負担の大きい業務だと思われる。しかし、長井先生は試験の採点やレポートのチェックにも、普通以上に負担は感じていなかったという。長井先生自身も視覚障害によるハンディキャップをあまり感じていなかったし、同僚にもほとんど意識されていなかったようである。

《tr.3-11》
それ(=試験の採点などの目を酷使する作業)もね、あんまり気にはならなかったな。勿論、採点や何かは物理的に大変だということはあるんだけれども。たまに、本当に薄い鉛筆で、光に透かさないと見えないみたいな、そういう答案とか、レポートなんかでもそうだけど、そういうときには生徒に、もう少し濃いので書けよとかね、まあ、文句は言うけれども、それでどうのこうのということは、それほどなかったですね。



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(4) 失明と復職への模索 ――結局、視力は、まあ、だめだったということですね

 加茂暁星高校で21年目を迎えた1981(昭和56)年、長井先生は網膜剥離を起こして失明した。45歳だった。強度近視は網膜剥離を起こしやすい疾患だといわれているが、眼球に衝撃を与えるような事故があったわけではない。目に異常を感じ、病院に行くことにしたが、朝、通勤で乗ってきた自転車に、夕方、帰宅するときにはもう危なくて乗れないぐらい見えにくくなっていた。翌日の夜には、テーブルの上の様子もわからない状態になっていた。

《tr.3-12》
(加茂暁星高校に勤務して)20年、21年ぐらい経ってましたかね。その間、その20年ぐらいの間に、校内のいろんなスタッフの状況の変化で、私は商業科目から社会科へ移っていたんですよ。実際にやっていたのは、商業科目も一部やってましたし、社会科のほうもやったからね、両方の科目を兼ねて持っていたんだけれども、一応、社会科のほうの籍に移っていたと、こういう状況ですね。1学期の終わり近かった頃、7月に入っていたかな。6月の末か、7月頃に、どうも何かちょっと目の調子がチカチカおかしいから、眼科へいってみなければだめだと思って、一日休みを取って病院へ行こうということで、休む日にはそれなりに授業時間があるわけだから、生徒の自習の課題を作ったりなんかして、夕方、少し遅くなって帰ってこようと、あたりはかなり薄暗くなっていた時間帯でしたけども、そんな状況だったんだね。その日は、出かけるときには、家から学校まで、毎日、通勤は自転車を使ってやっていたんだけども、朝は自転車に乗って学校へ出かけた。ところが、帰りは、まあ、ちょっと夕方ということもあったけども、もう自転車が使えない状況になっていた。どうも見づらいというか、薄暗さが一層強まっているみたいなことでね。ちょっと危なくて自転車には乗れないなんてことで、自転車を学校に置きっぱなしで帰ってきたんですよね。翌日、病院へいこうと思って出かけたら、天候か何かの関係で列車が不通になったの。加茂から新潟までの。全く不通というわけじゃないけれども、かなり遅れが出てね。それで、病院に電話をかけて、行こうと思っているんだけども時間が遅れそうだと話したら、11時までに受け付けに入ってもらわないと困るというわけですよ。仕方がないということで、その日はやめることにして、一旦、家へ戻った。それで、更にその翌日に出かけようというつもりで戻ったんですけども、その晩のうちにほとんど見えなくなった。テーブルの上の様子さへわからない。そんな状況だったですね。そんなふうにして、病院で診察を受けて、網膜剥離だということで、できれば即日入院してもらいたいんだけれども、どうもすぐにといってもベッドが空いていないからすぐにというわけにはいかない。ベッドが空くまで家で安静にしていなさいということで、その日は家へ帰ってきて、二日ぐらいしたら、ベッドが空いたからということで入院して、こんなことですね。網膜剥離というのも、なるべく体を動かさずにということなんですよね。特に頭を動かすなというわけでしょ。更に、その上にできれば目玉も動かさないというんだけども、目玉を動かさないというのはね…。

 7月に網膜剥離の治療手術をして、8月の末には退院した。網膜剥離を処置する手術は成功したということだったが、視力は回復しなかった。そのため、その年度一杯は病気休暇、翌年度は1年間の休職を取った。休職期間中にその後の方向性を模索する中で、全国視覚障害教師の会との出会いがあり、復職の方針が固まっていく。

《tr.3-13》
それから(=入院してから)、手術をして、それが7月だよね、やっぱりね。1学期末間もなくというときにそんなことになったから、7月の初めか半ばぐらいまでの間ですね。手術を終わって、何とか退院できたのが、丁度、夏休み明け、8月の末。だけど、手術はしたんだけれども、視力は戻らないわけですよ。医者としては網膜剥離の手術は成功しました、網膜はちゃんとくっつきましたというんだけども視力は戻らない。それで、結局、2学期からは、その年の9月ですね、9月から休職、休職じゃないや、その年度中は病欠なんです。病気休暇ということで、3月まで。それで、年度が新しくなって、翌年の4月から今度は休職になったんですね。1年間休職。そして、その1年間の休職が明けて、4月に復職と、こういうことになったわけ。ところがね、休職の期間中に、更にその翌年、復職できるか、するかという、あるいは休職を更にもう1年延長するかとかね。そこののところを何とかしなければならんという、その時点で(全国視覚障害)教師の会と連絡が取れていったと。そういう中で、よし、じゃあ、復職をしようという方針が出てくるわけです。

 手術をしても、それまでよりは視力が低下すると医師に聞かされていた。手術後も、回復の見込みについてははっきりと聞かされず、全く見えないままなのか、少しは見えるようになるのか、不安と期待の中で入院生活を送っていた。

《tr.3-14》
あのね、それも、まあ、医者としては視力がもうだめですよと言いたかったんだと思うんですよ。だけど、やっばり、なかなか、いきなり、いわば失明の宣告ということも簡単にはできないわけで、一応は安定はしたけれども、もう少し時間をかければ少しはよくなるかも知れない、少しは見えるようになるかも知れないみたいなことを言うわけね。こちらとしては、それこそ、藁にもすがる気持ちがあるものだから、ということで、なるべく安静にしてみたいなことで、療養をしようという気になるわけでしょ。だけど、実際は視力が回復するということはちょっと無理だったんじゃないかなと思いますね。その手術を受けている最中にも、医者は手術をして、だけど視力は確実に今までよりは落ちますということははっきりと言ってましたね。全く見えなくなるかどうかというところは、ある程度、曖昧にはしておいたんでしょうけどもね。今まで通りというわけにはいきません、見え方は悪くなるということは言ってたんですよ。だから、悪くなるというのがゼロになるのか、途中で止まるのか、こっちとしては何とか途中で止まってほしいとは思っていたけれども、結局、視力は、まあ、だめだったということですね。

 手術をした翌年度の1982(昭和57)年度は休職した。しかし、休職の間に視力が回復することは考えにくかった。見えなくなるといっても、全く何も見えないのか、目を近づければ少しは見えるのか、見え方はどんなふうなのか、予想も判断もできなかった。

《tr.3-15》
その(手術をした)翌年、82年、1年間休職をしたわけだけれども、この1年間、休職を続けていても、それは他のことで見えない状況に慣れていくということはあるかも知れないけれども、視力がそのために回復するということはまずないだろうなという気はしていたんですよね。ただ、私としても、見えなくなるということがどういうことかというのは、ちゃんと自分でもわかっていないわけですよ。だから、例えば教科書の文字でも、今まで30センチくらいで見えていたものが、見えなくなったから、じゃあ、半分の15センチまで近づければ見えるのか。あるいは、5センチまで、3センチまで近づければ見えるのか。そのへんだって、全然、判断できないわけですよね。だけども、例えば、周りの様子がある程度わかっても、文字は読めないとかということはたくさんあるわけでしょ。そういう見え方、見える、見えないというだけじゃなくて、見え方がどうなるのかということについて、全く予想ができない。こんな状況でしたね。



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(5) 復職へ ――今までやってきた仕事の延長で苦労したほうがいいんじゃないかと

 見え方がどうなるかということは、その後の方針を考えるのに重要な問題である。しかし、全盲で教壇に立っている全国視覚障害教師の会の三宅先生(第2章参照)や有本先生(第5章参照)との交流を通じて、全く見えないということを前提としても、再び教壇に戻ろうという方針が固まっていく。そして、復職の意志を校長に伝えた。校長は、全盲の状態での復職の申し出に困惑していたという。

《tr.3-16》
それで、とにかく見えないということを前提にして、じゃあ、どうするか。そういう中で、視覚障害教師の会の三宅先生とか、有本さんとかの話を聞いて、じゃあ、何とか復職をやらなければだめだということで、1月になってからだったか、あるいは暮れのうちだったか、ちょっとはっきり思い出せないんだけども、学校へ出かけていったんです。で、校長に会って、新年度から復職をさせていただきたいという話をしてきたわけ。さすがに校長も困ったことになったと思ってはいたわけですけども、私のほうから復職という話を持ち出すとは思っていなかったみたいなのね。かといって、もう20年も勤めてきた学校ですから、簡単にだめだよとも言えなかったんでしょうね。困ったような顔をしていたらしいんですけども。まあ、すったもんだあってね。

 校長に復職を願い出ても、すぐに許可されたわけではない。校長とも数回の面談を行い、同僚教師たちにも現状と復職の意志を伝え、協力を依頼した。高校の教職員組合にも支援を求めた。組合の役員会や総会の場で長井先生自身が復職への理解と協力を訴えた。復職を危惧する意見もないわけではなかったが、組合としては復職支援の決議をあげてくれた。

《tr.3-17》
それまでに(=復職が許可されるまでに)、こちらとしてもいろんな根回しをして、校長に一応会って直接そういう話をして、そんなことで数回、学校へ出かけていくと、その度に教務室へいって、いろんな話をして、教室へいって黒板に、これからちょっと板書してみるから、どんなようすか見てくれといって、2、3人の同僚に見てもらったりなんかして。ほう、なんとか書けるね、なんて言われてね。更に、組合の力なんかも利用しましたね。組合にも復職をしようと思っているんで協力してくれということで。組合の役員会でも、どうするかいろいろと検討して、私が出かけていって役員会で話をしたりとかね。組合総会で話をするとか。で、結局、何とか復職させるべきだということで、組合のほうも意見一致してくれたんですよ。中には大丈夫かというようなのもいたわけだけども、だけど、本人がそういう希望があるのならやるだけやらせてみるみたいなことになって、組合も復職決議をあげてくれた。そんないきさつがいくつかあって、何とか83年になるのかな、83年度の4月からは復職ということが実現したと、こんな状況ですね。

 手術後、失明状態になって、教師として復職しようという考えがすぐにもてたわけではなかった。教師を辞めなければならなくなったら、他の仕事を考えなくてはならない。視覚障害者の仕事としてはあん摩・マッサージ・指圧、鍼灸ぐらいしか思い浮かばない。そのような仕事にしても、他の仕事にしても、一から新しい仕事を始めるのには相当の苦労が予想される。全盲の状態で教師を続けるのも苦労が予想されるが、全く新しい仕事に就くよりはやりやすく、苦労のし甲斐もあるのではないかと考えた。

《tr.3-18》
81年の手術が終わって、退院してきて、秋からですよね、9月、10月、11月、さて、どうするかなということはかなり真剣に考えて…。他の仕事といっても、例えばマッサージとか、そういう仕事をするにしても、鍼灸マッサージなんて、それから盲学校かどこかへ入って訓練を受けて、あれ、資格試験があるわけでしょ。そんなことをやって、3年なり、4年なりかかるんだろうけども、そうすると、年齢としてもそろそろ50に近くなるわけですよ。私のほうの年齢としてもね。だから、そういうことを考えると、3、4年、そのために勉強をして、資格を取ってという、それだけの苦労をするのならば、今までやってきた仕事でやったほうが返って苦労のし甲斐があるというのか、やりやすいんじゃないかということを考えたわけでね。しかも、私の年齢が45歳、子どもも、上の子が高校生になった頃かな、下の子はまだ小学校みたいな、そんな時期ですから、無職というわけにはいかないし、仕事をしなければならん。そうすると、新しい仕事のためにいろいろと苦労をしていくよりは、今までやってきた仕事の延長で苦労したほうがいいんじゃないかと。それは、大体、半年ぐらいかかったでしょうかね、やっぱりね。そこへいきつくまでに。

 教師として復職するにしても、長井先生自身そのような情報をもっていなかった。中途失明して教師に復職した前例などを、教育委員会や教職員組合、健康保険の共済組合などを通じて調べてみたが、情報は得られなかった。中途失明した教師がいたとしても、あまり表沙汰にはせず、学校現場のレベルで対処している例が多いのではないかと長井先生は考えている。

《tr.3-19》
まあ、(失明して教師に復職した前例を)実はいろいろと調べてみたんですよ。調べてみたといったって、調べる方法もあまりない状況だったけども、教育委員会とか、それから組合関係の厚生の仕事の連中とか、そういうところを通じて調べてみたんだけれども、例えば、教育委員会なんかには前例ありませんという、こういう返答。それから、組合の厚生の仕事の関係とか、もう一つ考えたのは健康保険、共済組合の健康保険の関係、そういうところを若干は調べてみたんだけれども、やっぱり、そういう例はありませんという返事、ほとんどがそうなんですよね。考えてみたら、表面に、失明したからどうのこうのという、失明して、なお復職とか、現職に留まってという、こういうのは、その当時としては、表面に出てくるはずはなかったんだろうなと。言ってみれば、何とか隠して続ける。見えなくなっているけども、まだまだ見えているよというかたちで続けるみたいな、そういう例はあったにしても、これは表面に出てこないんだろうなと、後で気がついたの。実際、(全国視覚障害)教師の会なんかでいろいろと話を聞くとそういう方がかなりいるんですよね。だから、なるほど、例えば、現場で校長なんかがこの人はもう全く見えないなんてことを教育委員会に報告をするということは、そういうことはなくて、見えていることにして、何とか穴を埋めるような人員配置をというふうな、そういう手を使ってという、そんなことで切り抜けている場合があるわけでね。だから、そんなのを教育委員会へ正面からぶつかって、こういう実例があるかどうかなんてことを聞いたって、ありますという返事は、まあ、こないんだな。そういうことがね、ようやく気がつくわけ。

 有力な情報もないまま復職への道を探っていた長井先生に、画期的なニュースが伝わってきた。大阪で全盲の高校教師が誕生したというニュースである。1982(昭和57)年4月、大阪府立白菊高校に全盲の有本圭希先生が英語科教諭として着任したのである。

《tr.3-20》
そのうちに、大阪の例、全盲で採用されたというのがニュースになって伝わってきた。で、これで、じゃあ、やってみようかと、こういう気になってくるわけですよね。

【中村:大阪の有本先生とかのニュースに出会うまでは、復職の道を手探りでというか、いろいろと情報収集をして、戻れないかなあということを探していたという感じで、まだ必ずこれで戻れるだとか、戻るんだとかいうところまでは…。】

そこまでは強くなかったですね。まあ、がんばればできないわけがないんだから、何とか戻れればいいなと、こんな段階からスタートですね。

 新聞で有本先生のことを知り、新聞社に連絡を取った☆3。有本先生に手探りで手紙を書いた。有本先生からは返事を録音したカセットテープが送られてきた。有本先生とのつながりをきっかけに、視覚障害教師たちの情報が入るようになり、中途失明で教壇復帰を果たした川西市立多田中学校教諭の三宅勝先生とやり取りするようになった。視覚障害教師の実例に触れたことで、暗中模索だった復職への道に光が見えてきた。

《tr.3-21》
(有本先生の記事は)具体的には、朝日新聞の全国版、署名入りの記事でした。それを、私自身が直接見つけるということではなかったわけで、周りからそういう話が入ってきて、こういう記事が載っているといってね。それで、まず最初に、その朝日の記者に、署名入りだったから、そこへ手紙を出したんですよ。私はこういう状況で、今、休職中だと。で、何とか戻りたいと思っているというふうなことでね、手紙を出した。そしたら、早速、電話がかかってきてね。そんな例は、実は全国にいくつかあるんだと。有本さんの、その記事は有本さんについての記事だったけどもそれだけじゃなくて、大学関係ではこの人もいるしというふうなことで、いろいろと情報を教えてくれたんですけどね。それで、比較的状況が近い有本さんに、有本さんが白菊(高校)にいたころなんだけども、学校宛だったかな、どっちだったかちょっと忘れた、自宅だったか、そこへも手紙を出してね。そしたら、彼からはテープの返事が返ってきて。こっちはそこまで気が回らないわけね。何とか手探りで書いた手紙を出したんだけども、向こうも、これは点字はだめだし、墨字もだめだし、ということで、テープで返事をよこした。そこで、また、関西の状況が、更にこまかいところまでわかって、三宅さんと連絡がついていったということですね。三宅先生と連絡がついて、いろんなやり取りの仲で、何とかなりそうだなという、そういう光が見えてくるわけですね。

 長井先生は失明しても教師として復職できる可能性を信じていた。しかし、有本先生の高校着任が全国紙で取り上げられたことからもわかるように、全盲の高校教師など前代未聞の時代であった。長井先生の復職希望には、学校管理職も同僚たちも戸惑った。教職員組合の会議でも、全盲で教師が務まるのかという疑念の声があった。

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大体、一般的な雰囲気としては、見えなくなったんだからもうこれで終わりだろうなというふうに見ていた人がほとんどでしょうね。そこへ私が、いや、復職しますという、そういうことを申し出たものだから、やっぱり校長自身も戸惑ったし、それから、周りの同僚なんかも、勿論、驚いたでしょうね。だから、組合がどういう態度を取るかということについては、組合総会を開いているんですよ。そこで、私も出ていって、状況を報告したり、あるいは、全国的な状況…、といってもあんまりよくこっちもわかってないんだけれども、全国には、大阪ではこういう例があるとかいうことも紹介したりして。そういう中で、確かに、それはちょっっとどう考えても無理じゃないか、聞き分けのいい生徒ならともかく、うちの学校の生徒ではみたいな感じの意見も出てくるわけだし、中には、本人がそういう状況で、これはちょっとだめだろうから、じゃあ、替わりに奥さんを採用するみたいな話も出てくる。まあ、あの人も昔、うちの学校に1年ぐらいいたわけだから、そんな話も出てくる。だけど、代わりに誰か採用しろというのでは問題解決にならんわけですよ、全然ね。だから、いや、それはだめだということで。

 同僚のほとんどが加入していた教職員組合の理解と支援は、復職するには不可欠だった。いろいろな議論がある中で、最終的に教職員組合は復職支援の決議をあげた。そのような結論に至ったのは、それまでの同僚との信頼関係によるところが大きいと長井先生はいう。それまでの20年余りの勤務の中で、加茂暁星高校で長井先生が果たしてきた役割は大きい。同校は職員の公選によって教頭を選出しており、長井先生は失明する前年度までの2期6年間、教頭を務めていた。教頭の任期を終え、学校の重要ポストである教務主任を務めていたときの失明だった。それ以前にも、新潟県の私立学校の教職員組合連合の役員をしていたこともあった。このような実績から、長井先生の力量は広く承認されていただろうし、長井先生が全盲でも仕事ができると言えば信用されもしたのだろう。確かに、長井先生だからこそ同僚の理解と支持が得られたということはある。しかし、それを裏返せば、特別な 実績や力量のない教師だったら、理解も支持も得られないということが考えられる。実際、中途失明した教師が復職交渉で希少な前例を挙げても、それは‘あの先生’だからできるのであって、あなたにはできないと言われることもある。現在では、一定数の視覚障害教師の実例が蓄積されている。そのため、問題の所在を個々の教師に回収させず、視覚障害者全般に普遍化して教師はできるという主張が受け入れられやすくなってきた。

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いろんな意見が出てくる中で、結局、本人がやろうという決意でいるんだから、できるか、できないかなんていうのは、それは今の段階ではわからないから、復職を認めるべきだと、こういう意見に落ち着いていくんだけれども、そこではやっぱり何というか、長い間、同僚として付き合ってきた中でできてきた信頼関係といっていいのか、とにかく、こいつがそういうんだったら、それなりの目算があるんじゃないかと、それを信用してみようみたいな、そういう雰囲気が強かったんだと思うんです。どういっていいのかな、つまり、まあ、20年以上その学校にいたわけですよね。しかも、学校の成り立ちからいうと、私はもう一番古いグループに入っているわけ。ほとんどの人が私より後に学校へきたわけで、だから、そういう中でいろんな活動の中で、私がやらなければならんことというのはいろいろとたくさんあって、そういう中で、それなりの仕事をこなしてきていたんでね。そういう人間同士の信頼関係みたいなものが、やっぱり最終的には決め手になったんじゃないかなという気はしているんですよね。

 長井先生は復職を実現させるにあたって、学校当局との交渉よりも、教職員組合を中心とした同僚の理解と支持を得ることに力を注いだ。教職員の総意として復職の方向性が示されれば、学校当局もそれを却下することはできないだろうという見通しがあったからである。

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そっち(=学校当局との交渉よりも同僚の支援を取りつけること)が先ですね。それで、学校の校務運営上の体制でいえば、校長がいて、その上に理事長がいてというかたちにはなっていたけども、実権としては校長が一手似握っていたみたいな状況なんですよ。だから、校長が仕方がないだろう、うんと言えば、それはそうなっていくだろうという、そういう見通しはあったわけ。だから、校長が、職員の間で一致して復職という意向が強まっているという状況の中で、いや、だめだ、お前、辞めろとは言えなかったろうなと、そのへんはこっちの計算ですね。



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(6) 復職の条件 ――特別な手立てというかね、それはちょっと今の段階ではできない

 教職員組合の復職決議が出されると、学校当局も復職を許可する方向で交渉に応じた。ただ、長井先生をサポートする特別な体制を整えることは、その段階ではできないということだった。長井先生も、とにかく復職してやってみようということで、その条件を受け入れた。

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復職は認める、しかし、特別な手立てというかね、それはちょっと今の段階ではできない。だから、アシスタントをつけるとかいうふうな、あるいは、そのことによって時間を軽減するとか、特別な設備を作るとかみたいなことまでは、今の段階ではできないということで…。今の段階ではそれでもやむを得ないからとにかくやってみると、そういうかたちですね。

【中村:特にそんなに何度も学校当局側と話し合いをしたとか、拒否されたとかということはなく、案外、学校は特別な手立てはしないという条件だったら復職させましょうというかたちになったんですかね。】

そうですね。だから、実際的には、例えばクラス担任なんか、私も最初のうちはそういう希望を出さなかったわけだけども、クラス担任をもてなんていうこともなかったし、それから、授業時間数にしても、視覚障害だから時間数を減らすということはなかったのね。ただ、教科内で時間配当なんかの調整をやるときに、同僚の配慮というふうなかたちで、数時間マイナスになったということはあった。

 長井先生は画面読み上げソフトをインストールしたパソコンを自分で準備し、校務に使用した。学校側に要望するにしても、長井先生自身も全盲で教師をするにはどのような条件を整えなければならないのかがよくわからなかった。

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その時点では、一つは最新的な機械設備みたいなものを、私自身が使いこなせるかどうか自信がなかったしね。それから、本当に必要最小限の音声ワープロ、これは自分で備えたわけですね。後、特別なことは要求、何を要求していいか、どういうふうに要求するかって、こちら側がその点、はっきりわからないわけですよ。



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(7) 手探りの授業 ――自分で工夫するということから出発したんですね

 1983(昭和58)年4月、長井先生は教壇に復帰した。全盲の状態で、どのような授業が展開できるのか、どのような教材を使えばよいのか、それを模索することから始めなければならなかった。教科書は音読してもらってカセットテープに録音し、それを繰り返し聞いて授業の内容を組み立てていく。それに基づいて、授業用プリントを音声ワープロで作成する。そのプリントを音声ワープロで読み上げさせてカセットテープに録音し、繰り返し聞いてプリントの内容を頭に入れておく。1回の授業で1枚のプリントを完成させるというスタイルで授業を行った。

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授業のやり方にしても、それから、使う教材にしても、自分のできることは何かということを自分で考えながら、本当に原始的な方法だけれども自分で工夫するということから出発したんですね。まず第一は教科書。教科書が読めないわけでしょ。だから、その教科書は読んでもらって、それを全部テープに録って、そのテープを聞きながら自分の授業の内容を頭の中で組み立てていく。こいつはもう少し説明を加えなければだめだなとか、ここの部分はいらないなとかいうことを頭の中で組み立てて、それに基づいて授業用のプリントを作るわけですよ。音声ワープロを使って。そのときに、そのプリントを生徒に配って1時間で1枚を完成させて提出させると、原則的にはそういうかたちなんですけども、そのプリントを作るときに、ちゃんと授業を聞いていないと、あるいは、黒板の板書を見ないと完成できないような、そういうプリントを作る。ということで、だから、1時間に1枚ということでやったんだけどもなかなかそううまくいかなくてね。2時間にかかることもしばしばあるんだけれども。そういうプリントを自分で作る。人の作った資料を活用する、そういうことも必要は必要なんだけれども、それでもとにかく自分の言葉で、自分の文章でプリントを作らないと説明とちぐはぐになってしまうんですよね。そういうプリントを作って、音声ワープロですからね、プリントの内容を音声で出して、それをテープに録っておく。それで、授業までの間にそのテープを何回か聞きなおして、そうすると大体プリントのどのへんにどういう説明があって、そこで何を生徒が考えて、何を記入すべきかという、そういうことも一応自分の頭に入ってくるわけですよね。

 教科書は自宅で家族に音読してもらい、カセットテープに録音した。最初は奥様が音読していたが、かなり疲れる作業なので、息子さんも協力した。録音された教科書を聞いていると、目で読むときにはあまり目に留めないところまで読んであるので、かえって教科書の細部まで把握できたという。

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教科書を読むのは家ですね。つれあいに、まず初めのうちは女房が読んでいたんだけども、とっても疲れてだめだと。で、後半になったら、息子が代わりに読んでくれるとかね。で、教科書というのは、そんなふうに読んで吹き込んでおいてもらうと、本当に隅から隅まで聞きなおすわけでしょ。普段、教科書の、例えば注がついている隅まで全部丹念に読むなんてことは、まあ、ないわけだからさ、かえって、そういう点では、教科書に何が書いてあるかというのを把握するにはよかったですね。

 授業はプリントに沿って進められるが、黒板を使っての説明なども行われる。長井先生は板書の文字は見えないが、手探りで書くことはできる。手書きで書いたり、予め準備したカードを貼り付けたり、ときには模造紙を貼り出したりして、黒板を使った説明なども行った。

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そのプリントを授業が始まる前に生徒に配る。そのために、私の授業が始まる前の休み時間に、そのクラスの生徒が教務室へやってきて、私からプリントなんかを受け取って、事前にクラスに配布をしておく。そこへいって授業を始める。そのとき、板書をするんだけども、手探りで黒板に書くわけです。時には重なったり、曲がったりするんで、何とかそこのところを少しはうまくやろうということで、カードを作って、ちょっと厚紙でカードを作って、そのカードにキーワードだけ1枚一つずつ書いていく。それを黒板で説明するときに貼り付けて、黒板に貼り付けて、そういうカードが何枚か黒板に…。そうすると、そのカードに従って1行か2行ぐらいの説明がつけられるとか、あるいは、矢印で結ぶとかいうふうなことでカードを作ったり。それから、また、あるときには模造紙に必要なことを項目ごとに書いておいて、それを貼り出す。やっぱり、時間の節約上、そうやったほうがいい場合もあるわけだから。

 生徒が提出したプリントの点検は自宅に持ち帰って行った。生徒が墨字で書いたプリントを独力で点検することは長井先生にはできない。しかし、学校ではそのようなサポート体制は整えられていない。そこで、自宅で元教師だった奥様の協力を得て、点検作業を行っていた。点検したプリントは次の授業で生徒に返却し、また新しいプリントを配布して、提出させる。その繰り返しで授業は進められた。

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そんなふうにして、プリントが完成すると提出させる。それを家へ持って帰って、点検してもらって、誰が提出したかしないか、あるいは、プリントの内容がどうなっているか、もう1回、提出させたほうがいいというのには再提出というふうなことでね。あるいは、まあ、かなりいいのはAとか、Bとかみたいなことで、生徒に返す。だから、ほとんど毎時間、前に提出したプリントを返す、新しいプリントを配る、それで、その時間が終わるとその新しく配ったプリントを回収する、そういうことの繰り返しですね。

 音声を頼りにパソコンでプリントを作成するのにも、慣れないうちはかなり時間がかかった。授業の前夜遅くまでかかって作成したプリントを、当日の朝一番に同僚や司書補の職員に印刷してもらった。

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そのプリントを作るのが、慣れないものだから、(音声)ワープロを使うにしても時間がかかるんですよ。そのワープロで作った原稿を、一晩かかって作って、翌日、学校へ持っていって、朝のうちに他の同僚に頼んでクラス分だけ印刷してもらう。そのへんは同僚に頼むとか、あるいは、図書館の司書補というのかな、司書の人じゃなくて、その手伝いをしている司書補の若い女の子なんだけども、それが半専属みたいなことで私の仕事を手伝ってくれることになって、彼女に頼んで、印刷してもらうとかね。いうふうなことをやって、大体、それでずっと通しましたね。

 長井先生をサポートするための職員配置はなかったが、図書室に配置されていた司書補の職員がその役割の一部を果たしていた。プリントの印刷や教材の準備などに手を貸してくれた。これは公式なサポートとして位置づけられたものではないが、学校内での運用的な配慮だったようである。

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(司書補の職員には)ほとんど毎日、これ、プリント頼むとかね、それから、カードを作る手伝いとか、それから、模造紙で貼りだすんだけれども、何クラスか使ってくるうちにボロボロになるわけでしょ。それを防ぐために、ちょっと裏打ちをするとかいうふうなことを手伝ってもらって。

 中途失明の人の多くが点字の修得に苦労する。特に指先で点字に触れて読む触読は簡単に上達するものではない。長井先生も点字の資料を読みこなすほどの触読の力はなかった。しかし、メモ程度でも点字の読み書きができたことは、カードの判別などに大変役立ったという。

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例えばカードに、キーワードを書いたカードを何枚か用意していってそれをテープで貼るんです、セロテープで貼り付けて。5枚、6枚ぐらいまではいいんだけれども、枚数が増えてくるとわからなくなるわけですよ、どのカードに何が書いてあるかというのがね。そういうときは、一番前に座っている生徒に、ちょっとこのカード、どう書いてあるか読んでくれと、まあ、確認して貼るということもあるんだけれども、そういうときに点字、メモ程度でもいいから点字が読み書きできるというのは武器になるなあという感じでしたね。全く点字がわかってないんじゃね、本当にお手上げということになるんで、そのへんはなるべく同僚、あるいは、生徒の力を利用する。まあ、そういうことをやってましたね。



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(8) 生徒の協力 ――私は生徒に任せたんですよ

 長井先生は、クラスの出欠確認や出席簿の記入も生徒に協力させた。授業前に生徒が出席簿を取りに来て、予め出欠を確認し、授業のはじめに長井先生に報告した。出席簿記入に誤りがないかなどは、担任教師に確認してもらった。

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出席の確認も私は生徒に任せたんですよ。名前を読み上げて出席を取るのはできないから、授業が始まる前に、うちの学校は個人の出席簿がなくて、クラスの出席簿が教務室の棚のところに差してあるわけね、そこからそのクラスの出席簿を持って出かけるんだけども、私の授業のときには生徒が教務室に来て、自分のクラスの出席簿を持って、それで出欠を確認しておく。それで、私が聞くと、誰と誰が欠席ですみたいな、そういう報告をしてくれるんです。その辺、やっぱり、一つの鷹揚さというか、気楽さがあったんだろうけども、最近はなかなかそうはいかないでしょうね。

【中村:そうですね。やっぱり、出席簿の管理というかね、生徒に任せておいて、公簿ですからね。万が一、記入の間違えとかがあったら、誰が責任が持てるのかとかいうようなことにもなりますよね。】

だから、勿論、その辺は生徒に任せっぱなしというわけにはいかないから、クラス担任とちゃんと連絡をして、ちょっと後で確認しておいてくださいといって頼んではおくんだけど。

 出席簿の記入やプリントの配布など、生徒に協力させることも多かったが、試験答案の返却は生徒にさせるわけにはいかず、学級担任の教師に依頼した。自習時間の監督などはやったが、試験の監督は外してもらっていたという。

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問題だなと思ったのは、定期試験のときね。試験の答案を生徒に返させるというのは、ちょっとこれはいくらなんでも問題があると思ったから、試験答案の返却はクラス担任に頼むんです。採点が終わったから返してくれませんかといってお願いして。クラス担任もいい加減なのも中にはいるからね。ああ、わかった、わかったなんて持っていって、教室へいって、おっ、返しておいてくれと生徒にまたそこから頼むとかね。そういうのも中にはあったけども、一々そこまでこちらもつっこんでられないから、黙ってはいたけども。それから、もう一つは、定期試験のときのいわゆる試験監督。これはやっぱりやりますというわけにはいかなかったね。そのときは、だから、試験監督の仕事から除いてもらってましたけどね。後、例えば自習時間とか、そういうのに出かけていくときは、他の人と同じようにやってましたね。



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(9) 同僚の協力 ――本当に手当たり次第頼むんです

 司書補の職員がサポート役として位置づけられていたが、他の同僚にも日常的に手助けを依頼していた。余計な気を遣わずに身近にいる同僚に手助けを頼んだ。長井先生は、誰にでも気兼ねなく手助けを頼める職場の雰囲気が大事だという。障害者教師に特定のアシスタントがつく場合もあるが、そのアシスタントにしかサポートを頼めないようになるのも問題だと指摘する。

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それ(司書補以外の同僚に手伝ってもらうこと)はショッチュウありますよ。教材を調べていて、ちょっとここがわからんところがあるななんて思ったときに、手当たり次第に、誰かに、まあ、教科の問題があるから、全然他の人にというわけにはいかないから、同じ教科の人に頼んで、ちょっとここのところを資料を見てくれとか、年表をちょっと調べてくれないかとかということは、しょっちゅうあったしね。教科書だって、どうも教科書の説明がおかしいから、ちょっと確認のために教科書をそこのところ読んでくれませんかとかね。いうふうなことは、それは日常茶飯事、しょっちゅうあったことで、案外、そういうところは、私はなるべく余計な気を使わないようにして、本当に手当たり次第頼むんです。隣の人でも、周りの人でも、大体、教務室のブロックが教科ごとになっているから、手近な人に、誰でもいいからお願いして。だから、実はそういう手助けみたいなのは、本当に気兼ねなく、あんまりその同僚の負担にならない程度にお願いできるという、そういう雰囲気も大事なんだろうと思うんですよね。だから、それを、この人のアシスタントは誰々なんてことが決められていて、その人でなければ頼めないとかいうふうなことは、それはそれなりにきちんと責任のある対応ができるだろうけれども逆にまた、頼みづらいことも出てくるわけでね。だから、どっちがとっちともいえない、一長一短かなという気はしてますけどね。



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(10) 質問への対応 ――手間がかかるのは、やっぱりやむを得ないこと

 授業以外でも生徒の質問などに対応することがある。生徒が問題集や教科書の質問箇所を指し示しても、長井先生はそれを見てすぐに解答することはできない。生徒に問題を読ませ、説明させることになる。すると、生徒は長井先生に伝えるために問題を読んだり、説明したりしているうちに、その過程で問題を理解し、自ら答えにたどり着くことも多い。長井先生はこのことに気づき、意図的に問題を読ませたり、説明させたりして、生徒が自ら理解を深め、答えを発見するような対応をしている。それは手間がかかる指導法ではあるが、無駄なことではないと考えている。

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定期試験なんかが近づいてくると、生徒がいろいろと質問にくるわけです。そのときには、問題集とか、教科書やノートを持ってきて、先生、ここは…なんていう。ここはと聞かれても困るから、それはだめだ。ちゃんとそこのところを読んでみろと、生徒にわざと読ませるんですね。そうすると、まあ、質問の半分ぐらいは、教科書を読んだり、あるいは、ノートを読んだりしている間に、あっ、わかった、ということになるんですね。だから、ただ、生徒が自分で考えないで、質問をして答えだけ聞いてという、そういうことは通用しなくなってくる。これは案外いい方法だったかなと思う。そのかわり、手間はかかりますけどね。手間がかかるのは、やっぱりやむを得ないこと。



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(11) 家族の協力 ――採点やノートの点検まで同僚にお願いというわけには、なかなかいかなかったですね

 学校でのサポートは司書補の職員や同僚を中心に日常的に行われたが、試験の採点やノートの点検などは自宅に持ち帰り、家族の協力によって行っていた。それはかなり家族の負担にもなっていた。家族のサポートで仕事上の困難を解消するのは正当ではない。公的なサポート制度は必要である。それは肯定しながらも、あまりサポート体制の形にとらわれてしまうと、やりにくい面も出てくるのではないかと長井先生は考えている。

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これ(=試験の採点やノートの点検)は家ですね。採点やノートの点検まで同僚にお願いというわけには、なかなかいかなかったですね。

【中村:今、いろいろなサポートのお話をお伺いしていたんですけども、結局、かなり先生のサポートの中心は司書補という方がやっていただけたということで、それでもやっぱり、授業の準備とか家に持って帰っての採点とか、ノートの点検とかは、かなりの負担というのはあったんじゃないですか。】

私よりも家中の連中が負担にはなっていたでしょうね。だから、そういうところを家族的に解決するというのは間違いだ、邪道だと言えば、それはそうだと思うんですよ。だから、そういうところをきちんと制度を作ってと、そういう考え方もあるわけですよね。そういう制度は必要だとは思うんだけども、それだけにあんまり拘っても、かえって困ることもあるんじゃないかという気はするんです。だから、それよりも家族も同僚も、それから生徒も含めて、日常的なかたちでサポートができるという、そういう体制をもっと作っていく必要があるんじゃないかな。特に、学校、職場なんかではそこのところは一つは職場の中での、いわゆる管理体制みたいなものとの関わりで、あんまり監理とか、かたちに拘ったやり方というのにとらわれないほうが長続きする、そういうサポートができると思うんですけどね。



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(12) 生徒とのかかわり ――思いがけない生徒の実態みたいなものがわかってくる

 長井先生は、同僚のサポート、家族のサポートと並んで、生徒たちのサポートをを受けることで仕事を行ってきた。だが、生徒のサポートというのは、先生が障害者だからこのようにサポートしなさいという一方的なやり方では成立しないという。教師と生徒が一緒に授業を作っていくという関係の中で自発的にサポートが行われるようになる。したがって、長井先生のサポートのやり方が予め決められているわけではないし、クラスによって多様な方法が取られる。そこには学級担任の教師の意識が現れてくるという。

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生徒とのサポートの面でいえば、生徒がサポートしてくれるというのは、こうしなさいというふうに押し付けてというかな、そういうかたちでやるんじゃ、まずだめですよ。そうじゃなくて、生徒の側から自然なかたちでサポート、手伝いをしてくれる、そういう生徒との関係がどうしても必要になるだろう。それは、障害があるからとか、ないからとかいう問題とは違う問題と関係してくるんじゃないかなと思うんですけどね。

【中村:生徒との関わりの中で、サポートを生徒のほうからやるというのは、障害者のサポートという観点ではなくて、一緒に勉強していく教師と生徒との関係という、そういうようなことですかね。】

そういうことです。学習というか、勉強を生徒が自分たちで作っていくという、そういう意欲というか、そういうものがないとうまくいかない。だから、教室へ出て、教師が生徒に教えるという一方的な関係だけでは、そこはうまくいかないだろうと思うんですね。共同で授業を作るというかな。そういう方向が必要だと思うんですけどね。

【中村:先生の授業でいえば、授業準備の手伝いみたいなことをクラスの社会科係りみたいな生徒たちがやっていたわけですね。】

どういう生徒がその当番、係りになってくれるかというのは、そのクラスの状況によってそれぞれ違いますから、そこはクラス担任も含めてどういうかたちがいいかねと相談しながらね。じゃあ、級長にやらせるわという、そういうクラスもあるし、誰か生徒の中から希望者というか、立候補を募って、それでやってもらうとかね。あるいは、月ごとに交代させたほうがいいとかね。いろんなやり方がクラスによって出てくるわけ。

【中村:それも別に画一的に、長井先生のサポートはこうするのだというのがあるわけではなくて、クラスの中で長井先生の授業は誰が、どういうふうなかたちでサポートをしようということをクラス運営の中で自然にかたちができていくという…。】

そういうところで、クラス担任の意識というかな、そういうのが非常に大きな役割を果たしますね。

 授業の準備だけでなく、校内での移動でも生徒がサポートをすることがある。慣れた教室への移動であれば独力でも差し支えないが、あえて生徒のサポートを受ける形で一緒に移動することもある。それが生徒とのふれあいとなり、生徒の実態をつかむ機会ともなるからである。そこでは、他の場面では出てこないようなことを生徒が話すことがある。生徒が長井先生に心を開いているといえるが、それは長井先生の人柄によるものなのか、サポートして一緒に歩くという場面によるものなのか、もしくは、他の要因によるものなのか、このエピソードだけではわからない。しかし、視覚障害教師が生徒のサポートを受けて一緒に歩いているときに、特有のふれあいが生まれることは考えられる。

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生徒との関係でいえば、大体、学校の中の教務室と教室の間というのは、何とか自分で一人で動けるんですよ。ところが、生徒の中には、どうしてもガイドして一緒にいくという生徒もいるわけね。それはそれで大変いいことだと思って、教務室を出て一緒に廊下を歩きながら、ちょっと他の場面ではできないような話がひょいと出てきたりするのね。一度、面白い話があって、授業が始まる前に生徒が私のところへ連絡に来て、じゃあ、今日はこのプリントを返して、こっちのプリントを配って、授業でこれとこれを使うから一緒に持っていってくれと頼んで。ところが、その生徒が教務室に入ってきて、私のところまで来る間に他の先生につかまるわけ。ほら、スカートが長いぞとか、髪の毛とか、それから、中には、この子、最近、居眠りばっかりしていて、教室の中で授業中に居眠りばっかりしていて、長井先生、気をつけなければだめですよなんていう、そんなおせっかいなのもいるんだけども、その生徒が一緒に教室までいく途中の廊下ての話で、実はうちにばあちゃんがいて、それが最近、ぼけかかってきている。夜中に徘徊を始めた。それで母親が心配して、一晩中、おちおち寝てられないような状況がずっと続いているんだと。だから、私が時々、交代で一晩徹夜で見張っているというかね、外へ出ないように気をつけている。そういう話なんかもするわけ。そういうところから、それは大変だなあとかね、そういうときにはこんなふうにしたほうがいいんじゃないかとかみたいな、そういう話もできるわけでしょ。そういう思いがけない生徒の実態みたいなものがわかってくる。これは、そういう話を私にするということは、一つは生徒がそれなりに気を許しているんだと思うんですよ。そういう関係がないと、生徒が気持ちの上でガードを固めているような状況ではやっぱりうまくいかないんだろうなという気がしますけどね。



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(13) 障害者教師の存在意義 ――障害をもっっている教師が一人、二人、三人ぐらい

 現在では、障害者教師にアシスタント職員をつけたり、担当授業時数を軽減したりする合理的な調整の必要性は認識されてきている。しかし、長井先生が復職した1983(昭和58)年当時は、独力で他の教師たちと同等の仕事をこなすことが求められた。それができないのなら辞めるしかないというのが一般的な意識だった。しかし、長井先生は学校に障害者教師がいることは自然なことであり、教育的にはむしろ有意義なことでもあるという。理想的な社会の縮図であるべき学校は、多様な生徒と多様な教師がいることによって作り上げられると考えている。

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(障害者教師は)サポートがなければできないとか、そのために時間数を減らせとかということは、つまり、一人前の仕事ができてないんじゃないか、こういう意識ですよ。だから、そんなんだったら、辞めたほうがいいみたいなね。そういう意識のほうが強かったと思うんですね。だけど、私はそういうときに考えたことは、学校という場所は生徒にとっては一つの社会ですから、あるべき社会の一つのかたちだと思うんですよね。どういったらいいかな。つまり、人間の社会が平等で民主的な社会というのが理想のかたちだとすれば、生徒にとって学校という場所は、そういう民主的な、平等な、差別のない、自由な、そういう集団というか、そういう社会であるべきだと。そうすると、その中には、障害の問題でいえば、障害をもっている人もいるし、障害をもっていない人もいるし、それから、ある面での優れた能力をもっている人もいるし、他の面で優れているけれどもという、そういう人もいるし、いろんな人間がいて、それで一つの社会が成り立っている。だとしたら、そういういろんな個性といっていいのかな、それぞれの特徴をもつ人間が集まって一つの、生徒なら生徒という、そういう一つの集団を作っている。とすれば、教師だってそれでいいんじゃないか。それぞれの特徴をもった教師がいて、そういう教師が自分のもっている個性なり、特徴なりというふうなものを充分に発揮しながら生徒と関わりを作っていく。あるいは教師同士の関わりを作っていく。そういう中で、学校という社会ができていくんじゃないのかなと、そんな感じがするんですよね。だから、決して一律のものを、一面的な人間だけでできているんじゃないから、いろんな個性をもって、いろんな特徴をもった生徒がいる。いろんな特徴をもった教師がいる。そういうことで、いいというか、そういうことでないとかえって困るんじゃないか。理想的な集団というか、理想的な社会にはならないんじゃないか。そういう理想的な社会を、生徒が成長していく段階で提供できる。それが学校という組織というか、学校という集団の必要な責務なんじゃないかなというふうに思うんですよね。だから、障害をもっている教師が全くいない、そういう学校よりは、障害をもっっている教師が一人、二人、三人ぐらい、学校の規模にもよるけれども、そういう学校のほうが返っていいんじゃないかという、ちょっとこれはいろんな反論も出てきそうな考え方だけれども、そんなふうに思うんですよね。一つの学校に車椅子の先生がいて、盲導犬も使っている先生がいて、あるいは、補聴器や何かを使っている先生がいて、これでいいんだろう。だから、教員の配置なんかも、そういうことを一つの柱に考えたらどうなんだという、随分前にそういうことを言ったことがあって、そしたら、いやあ、とってもまだそこまでは言えないわという反論が当然ありましたね。

【中村:その話は一度、先生にお伺いしようと思っていたところで、当時、といってもいつ頃の話になるのかわからないですけど、僕も視覚障害教師の会で障害のある教員がどうやっていこうかというようなところをいろいろみんなで悩んだり、模索している時期に、一つはまず、他の先生方と対等に仕事をしなければあかんという意識というのがすごく強くて、そこで例えばサポートの先生についてもらって仕事をするとか、時間数を軽減してもらうとか、そういうことというのはなかなか発想としてはなかったし、サポートの先生についてもらわなければできないのだったら、それはできないことだというような、サポートの先生についてもらえばできるという発想ではなくて、サポートがいなければできないのだったらできないというようなそういう発想からなかなか抜け出られなかったというのが、一つ、やっぱりあります。もう一つは、そういう発想をもっているものだから、障害をもっている先生は何とか他の先生と対等にやっていくように、もっといえば迷惑にならないように、がんばらなあかんみたいな、そういうような発想をずっともっていたんですけども、長井先生の、その障害をもっている先生の存在意義があるんだみたいな話は、多分、長井先生から初めて聞いて、ああ、そういうような発想があるんだなということがすごく、一番最初に聞いたときの印象としてあるんですよ。他では、そんな話というのは全然、障害のある先生だからこそいいんだというみたいな、逆転の発想というのかな、そういうのは聞いたことがなかったので、多分、僕は長井先生が書かれたものとか、JVT☆4の会でおっしゃったときというのは、そういう考え方に初めて触れたことだと思うんですよ。】

JVTでもそういう意見を言ったことがありますよ。かなり前だけどね。

【中村:それは以前からどこかで言われていたこととかというのじゃなくて…。】

特に言われていたというわけでもないと思うんだけども、ごく一部には、かなり極端な考え方をする人の中には、それこそ、宝なんだからみたいな言い方をする人はないわではなかったけれども、私も個人としては、そこまで肩肘はって、居直ってみたいな言い方はできなかったですね。



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(14) 全国視覚障害教師の会の仲間との交流 ――そこでまた、元気を注入されて

 教壇復帰は果たしたが、視覚障害をもちながらの仕事は物理的にも精神的にもかなり厳しいものだった。気持ちがくじけて、辞めてしまいたいような気分になることもある。そんなときに、全国視覚障害教師の会の研修総会や拡大役員会での仲間との交流は元気を取り戻させてくれた。このような交流に支えられて、定年退職までの15年間、勤務を続けてこられたという。

《tr.3-42》
夏休みを利用して集まるというのは、これは一応、(全国視覚障害教師の会の)全体の総会というかたちですね。その他に、だんだんと定着してきたのが、これは冬休み、春休みあたりを利用してということになるんだけれども、役員会というかたちでね。その役員会もなるべく拡大したかたちでもちたいということで、拡大役員会みたいなかたちで、少なくとも冬休み、春休みの間を利用して1回はやろうと、こんな感じで。私は、だから、大体、年に2回ぐらいは、主に関西ですけども、出かけて行ってましたね。だから、日常的に一緒に…。物理的にも、精神的にも、しんどい仕事になっているわけですから、どうしても、まあ、いやになるというかね、気持ちが挫けてくるわけですよ。そうすると、例えば、4月に新学期が始まって、1学期やってみると、思うようにやれないとかというふうなことで、かなりしんどくなってくる。その時期に夏休みの全国の総会が開かれる。そうすると、それぞれの現場で苦労しながら努力を積み重ねている人たちの話をいろいろと聞いて、そこでようやく自分のほうも元気を取り戻して、よし、じゃあ、まあ、もう少しがんばってみようと、こんな感じになってくるわけですね。それで、9月から2学期が始まって、それも、もう年末、2学期の終わり頃、あるいは、年があけて3学期に入ったりすると、やっぱりまたしんどくなってきて、まあ、明日にでも辞めようかみたいな気にもなってくるんですよね。で、ところがまた、そういう時期に、今度は役員会というふうな名目でまた集まりがある。そこでまた、元気を注入されて、じゃあ、もう少しがんばるかと、そんなことが繰り返されながら、結局、15年間、そういうことで続けることができたと、こういう状況でしょうかね。



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(15) 見えているときと見えなくなってから ――見えるか、見えないかだけでは何とも決まってこない

 長井先生は35年間の教師生活の中で、はじめの20年間を見える教師として、後の15年間は見えない教師として生徒と向き合ってきた。見えなくなってから、日常的な場面では生徒とのかかわりが変わったこともある。しかし、生徒との信頼関係を築くということについては、見えているときも、見えなくなってからも、基本的には変わらないという。見えなくても、コミュニケーションを十分に深めることはできるし、その結果、生徒が教師を信頼し、心を開くようになる。それは、視覚障害があっても、なくても同じだと考えている。

《tr.3-43》
(見えているときと見えなくなってからの生徒とのかかわりの違いは)勿論、日常的にはいろいろとあるわけですよね。それこそ、見えなくなってからは、目が行き届かないから生徒は目をごまかしていたずらするとかいうふうなことはしょっちゅうあるわけで、そういう点では関わりが変わってきたことは確かですね。だけど、私は基本的にはそれほど変わりはなかったんじゃないかという気がしているんです。というのは、生徒との関わりというのは、見るとか、見ないとかだけじゃないわけですよね。いろんな感覚を通して、あるいは、話を聞くとか、話をするとか、そういうつながりの中で生徒との関係ができていくわけで、見えるか、見えないかだけでは何とも決まってこないというふうに思うんでね。だから、結局は生徒が視覚障害教師、見えない先生を信頼するかどうか、そして、生徒が心を開いてくれるかどうか、そこのところが教師と生徒の人間関係というか、生徒との関わりで一番大事なところだろうというふうな気がしているんで、そのためには、やっぱり生徒と直接話しをする、そういう場面を増やしていくとかね。そういうふうにしていけば、かなりハンディは埋められるだろうと思うんですよね。だけど、これは、例えば、扱う生徒が高校生だという、そういうこととも関係があると思うんで、じゃあ、それが小学校に全部当てはまるかとかいうふうなことになると、また、別な新しい問題が起こってくることは当然あるわけだけれども、私が関わってきた高校生という、そういう年代の生徒であれば、話をすれば心は通じてくるだろうと思うし、それから、生徒のほうが私に対して心を開いてくる、私を信頼してくれるという場面も当然出てくるわけだし。

 生徒の信頼を得るための基本は、毎日の授業をきちんとすることにあるという。

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生徒が私について信頼するという、そういうかたちが取れるためには、高校の場合でいえば、自分の教科、担当する教科が中心になっていくだろうと。つまり、私でいえば社会科、例えば、日本史なら日本史の授業をきちんとやれると。見えないからといってレベルを落とさない、手を抜かない。そういう授業をきちんとやれるということが基本になって、あの先生なら信頼できるとか、心を開いてくるとか、そういう関係ができていくんじゃないかという気がするんですよね。そういう意味で、私はかなり早い段階から教科指導が中心だということを盛んに言っていた時期がありますね。そこのところは基本だからやらなければならないし、そういう中で見えない先生がいたって、それはそれでいいんだというかね、それが当たり前だというふうな、そういう学校ができていくんじゃないかと。

 生徒に信頼される授業をすることが、その先生への信頼にもつながる。見えなくてもできるところを生徒に示しておくと、授業が信頼され、教師への信頼にもつながっていくというのである。

《tr.3-45》
授業なんかのことでいえば、見えないからレベルを落とすということをやらなければ、そういうことをしないで、以前のレベルをもちこたえる、あるいは、それ以上のものを目指す、そういうことを意識的に積み重ねていけば、ああ、見えなくてもそこまで考えられるのかとか、そこまでわかるのかとか、そういうことは人間的な信頼にもつながっていくんだろうと思うんですよね。例えば、これは私はいささかはったりもあってやることだけれども、教科書の何ページ・そこのところに魏志倭人伝の資料が載っている、なんて言って、その資料を読み上げてやるわけです。ところが、自分たちはその資料を目で見ているわけだけれども、私が読み上げるのが間違えなく読み上げるみたいなことになると、おお、なかなかやるねみたいな、そういう、これは一つの単なるはったりにしか過ぎないけれども、そういうことが、この先生が授業でいうことは間違ったことはいわないなというところへつながっていくことがあるわけですよね。勿論、授業のレベルというのはそれだけでやれるものではないけれどもね。例えばという話で、そんなもんですよ。



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(16) 視覚障害教師に心を開く生徒 ――緊張しなくていいんでしょうね、生徒はね

 長井先生は、問題を抱えている生徒が自分には心をひらいてくれるという経験をもっている。それは長井先生が障害をもっているため、生徒の障害者観からある種の安心感を与えているのではないかと考えている。長井先生個人の要因ではなく、障害者教師に一般化してそのようなことが言えるのなら、そこに障害者教師の一つの存在意義も出てくるのではないかという。例えば、服装や髪形などで校則に違反している生徒は、それを見とがめられることを予想して、教師に対して緊張感をもったり、避けようとすることがある。しかし、見えない教師の前では、そのような緊張感から解放される。

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生徒は私との関わりだけではなくて、社会一般の影響を受けて、その中で育ってくるわけだから、それなりの、いってみれば障害者に対する意識というのは持っていますよね。だから、そういうときに、ちょっとはっきりいえば、ドロップアウトしそうな生徒のほうが安心して心を開いてくる、そういう場面が多いんじゃないかという気はするんですよね。強面のおっかない先生よりは、目の見えない先生のほうが気楽だというか、あるいは、相談できるというか、安心できるというか、そういう場面が多くなってくるということは、私も実際、日常的にはそういう経験があるものだからね。そうなってくると、これは、障害を持つ教師の存在というのが、そこに一つの意味が出てくるんじゃないかなという気がするんですよね。

【中村:教育的な意味で障害を持つ教師としてのプラス面というんですかね、そこら辺、もうちょっと具体的にあれば教えていただきたいと思うんですけど。】

そうね。例えば、最近の生徒でいえば、服装とか、髪型とか、そういうことで生徒はしょっちゅう注意を受けているわけですよ。スカートが長いの短いのとね。そういう点では、私なんかの場合でいえば見えないわけだから、気にならないというか、注意のしようもないというかね。そういうことで、一つは、あんまりそういう点で気を使わなくていい、緊張しなくていいんでしょうね、生徒はね。だから、比較的気楽にということになるわけだし。



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(17) 学級担任と校務分掌 ――われわれとしては甘えてはいけないところだろうと

 長井先生は失明後もそれ以前と同様に授業は担当した。しかし、学級担任にはならなかった。学級担任にならなかったことは残念に思っているが、実際に視覚障害教師が学級担任をするのには、厳しい問題もあるだろうという。しかし、視覚障害教師が学級担任をすることは不可能ではないし、その厳しさを乗り越える必要があると考えている。

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クラス担任の問題でいえば、私は35年間学校にいたわけだけれども、うちの学校のシステムというか、やり方として、教頭と教務主任、それから、ごく一部、例えば、進路の関係とかいうふうな、そういう仕事の上でちょっと忙しすぎてクラスをもてそうもないという、そういう分掌を除いてほとんどみんながクラス担任をやると、こういう状況なんですよね。それで、私は教頭を6年やったのか。その前に、3年ぐらい教務主任という段階がありましたから、失明するまでの、それ以前が20年ぐらいあったわけですけれども、10年近くがクラスがもてなかったのね。それまでは、毎年、もっていたわけです。失明した後、また、教務主任に戻ったというか、その分掌になったんで、その年もクラスはもてないと、そういう状況だったんで、失明後もやっぱり結局はもたなかったですね。ただ、私の考え方としては、教頭をやって、じゃあ、それを任期で辞めたから次はどうするんだみたいな雰囲気は校内にはあるわけですよ。同僚の間には。だけど、私としては、それはまた元へ戻ってクラス担任をもてばいいんだと、こういう考え方だったんですけど、私の場合としては、実現はしなかったけれどもね。だけども、考え方としてはそういう考え方でしたね。いささかそこのところは残念ではあるけれども、だけど、実際、やっぱり見えない人がクラス担任というのはかなり厳しいだろうと思います。いろんなやり方によっては不可能ではないと思いますけれどもね。厳しいことは厳しいだろうと思いますね。だけど、そこのところはわれわれとしては甘えてはいけないところだろうという気はしていますけどね。

 教師は授業や学級担任以外にも、学校の様々な職務を校務分掌として分担して行う。長井先生はクラブ活動の顧問として山岳部を担当するほか、生徒会の指導も担当していた。山岳部の顧問は失明する前から担当していた。失明してからは、生徒と一緒に山に登ることはしなかったが、登山計画や装備などについての指導はできた。

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その他の校務の分掌としては、クラブ指導は、見えている間はずっと山岳部の指導なんですよ。だから、見えなくなってからは、やっぱり名前としては山岳部に入っていたわけ。実際に生徒と一緒に山へということはちょっと無理だったけれども、計画とか、登山計画や何か、それから、準備なんかのところではそれなりのことはできたわけです。このコースはちょっとここを気をつけなければならんとか、あるいは、準備でその計画だったらこういう準備が必要だとか、それから、そういう装備なんかの扱い方の指導とかみたいなね。そういうところはそれなりのことはできたんですね。それから、もう一つは、その他の校務の分掌としては、私は生徒会の指導に入ったわけです。特に生徒会の役員というか、総務の連中、生徒会長以下の三役で、こういう連中が生徒会の行事を計画したり、実際にその仕事をやっていく。そのときに、いろんな問題が出てくるわけでね。その相談にのったりしているんだけどもね。大体、その仕事が中心でしたね。



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(18) 障碍をもつ教師として ――差別なし、平等、公平とか、そういうことで

 長井先生は加茂暁星高校でただ一人の視覚障害をもつ教師だった。だからといって、視覚障害者として学校との特別なかかわりをしてきたわけではない。ただ、障害だけが理由でないにしても、失明後は差別を排し、平等、公平を重視する意識はさらに強くなった。

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特別、自分が視覚障害だということに拘って学校生活をやったわけではないですよね。あんまり拘りが、そういう点ではない。だけども、結果としては、視覚障害ということが理由になるかどうかはともかくとして、やっぱり公平というかな、差別なし、平等、公平とか、そういうことで学校の仕事をやっていこうという、そういう意識は強まったかも知れませんね。

 インタビュー終了後、前夜に降った雪が残る中、長井先生の息子さんお二人とお孫さん一人に自動車で新潟駅まで送っていただいた。奥様からは、病床の私の母に手織りのクロスをいただいた。私は上越新幹線で東京で行われる全国視覚障害教師の会の冬の拡大役員会に向かった。

【注釈】

☆1:筆者も幼少時から弱視で夜盲の症状が強く、暗いところでの行動にはかなり制約があった。自動車の運転免許が取れないことと夜間の行動が制約されることは、職業選択の幅をかなり狭めた。学校の教師なら運転免許は必須ではないし、夜間の勤務も少ない。よって、教師は筆者にとっても就職の有力な候補となった。学校時代にはあまり深刻な問題とならないような障害も、就職を考えたときには大きな制約をもたらし、実社会の厳しさをはじめて痛感するということは現在でもある。
☆2:「はじめに」の☆1参照。
☆3:1983年1月17日の朝日新聞朝刊第4面に「一般校で教える全盲教師――大阪の二人を訪ねて」という記事が確認できた。この記事では、1982年に大阪府立白菊高校に転任した有本圭希先生と、同年に大阪府箕面市立第二中学校に新規採用された高田剛先生が紹介されている。
☆4:全国視覚障害教師の会(Japan Visually-impaired Teachers' Association)の略称。



*作成:小川 浩史
UP: 20130808 REV: 20130904, 1117
視覚障害  ◇盲ろう(者)  ◇障害者と教育  ◇全文掲載
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