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「第2章 三宅勝先生のライフストーリー」

中村 雅也 2013 「視覚障害教師たちのライフストーリー」
2012年度立命館大学大学院先端総合学術研究科博士予備論文

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last update:20181224


目次

(1)失明以前 ――音楽教師のほうがなりやすいだろうというところで
(2)目の変調 ――まあ、こんななるとは思わへんだけど
(3)手術の決断 ――そんな深刻に悩むことなかったですけどね
(4)手術の失敗 ――こっちは目の前が真っ暗になりましたわ
(5)失明宣告 ――まあ、むなしき努力やったけどな
(6)リハビリテーションへ ――自分がもう一度、挑戦してみます
(7)復職審査 ――病気が治らないと復職はできない
(8)市教委のテスト授業 ――授業ができるかどうかということを見せてもらいたい
(9)県教委のテスト授業 ――学校現場で訓練させてくれ
(10)視覚障害者として教壇に立つ ――視覚障害者であろうが同じだろうと
(11)授業のやり方 ――見えてたころ、教科書を覚えてるわけですわ
(12)中途退職を考えたこと ――もう俺は潮時に辞めるべきやろう
(13)授業準備に生徒の目と手を借りる ――あんたがやらな誰がするねんと言われてね
(14)アシスタント ――僕と職員とのぶつかる間に入っている人がおる



第2章 三宅勝先生のライフストーリー

三宅勝先生は、兵庫県川西市立多田中学校に勤務していた48歳のときに中途失明した。1年間仕事を休んでリハビリテーション訓練を受け、1978(昭和53)年、全盲で復職を果たした。中途失明した教師が全盲で普通校の教壇に復帰した最初のケースだと思われる。復職した当時、全盲で普通校に勤務する教師としては大阪府立天王寺高校に楠敏雄先生(第1章参照)がいたが、楠先生は非常勤講師だったので、教諭としては全国ではじめての全盲教師ということになる。視覚障害教師の先駆者として仕事をしながら、全国視覚障害教師の会発足に尽力し、初代代表(1981〜1992年)を務めた。

定年退職して20年余り、81歳にして地域の音楽指導に情熱を傾けられている三宅先生を兵庫県西宮市のご自宅に訪ねた。インタビューは、2010年10月16日(土)と11月6日(土)の2回にわたり、合わせて4時間45分ほどお話を聞かせていただいた。




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(1) 失明以前 ――音楽教師のほうがなりやすいだろうというところで

三宅先生は1929(昭和4)年2月25日、兵庫県西宮市で生まれた。「西宮で生まれて、西宮で育ちの、もう西宮でやがて死ぬんでしょう」と言って笑われたとおり、西宮市でずっと暮らしてこられた。大阪音楽短期大学(現・大阪音楽大学)作曲科を卒業し、音楽教師としてのスタートは西宮市にある報徳学園中学校だった。教師になった動機は、好きな音楽を続けながら生活できる仕事だからということである。


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きっかけは、うーん、やっぱり音楽やって、音楽の道に入ってからでしょうね。音楽家になるいうたってなかなかそう簡単に独立してもできるわけやないし、手っ取り早いとなると、やっぱり学校の関係、音楽教師のほうがなりやすいだろうというところで、生活のためにと、いうことでしょうね。

報徳学園中学校に非常勤講師として3年間勤務したが、体調を崩し、退職して1年ほど療養した。病気がよくなったので、兵庫県の公立小学校教員の採用試験を受験し、1960(昭和35)年4月、川西市立川西北小学校に音楽専科の教諭として採用された。


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(報徳学園には)3年…、3年勤めてたかな。そしてね3年勤めた後、ちょっと病気しましてね、1年少々、療養所に入ったんですよ。そして、その間、報徳学園のほうも迷惑かかるからって退職をして、そして、病状が安定したので、じゃあ、今度、正規に公立学校の試験を受けてみようということで希望したのが、ちょうど1960年から。そのころですから、昭和35年ですから、昭和35年に川西市に勤めたわけですわ。

川西北小学校で7年間金不し、同じ川西私立の多田中学校に転任となった。小学校から中学校への転任はあまりないケースかも知れないが、専科の教師だったことがこの転任につながったようだ。三宅先生は、この後、1989(平成元)年に定年退職するまでこの多田中学校の音楽教師として勤務することになる。


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これ(=小学校から中学校への転任)はね、普通って、普通は小学校から小学校なんですよ、専科といえども。でも、やっぱりどうしても人事の欠員の関係でね、特に中学校の場合、先生が必要であると、で、小学校の場合は専科がいなければならないというあれはないわけですよね。あれは、何学級以上で職員定数の関係で、定員法の関係で、人数が取れる範囲で小学校の専科をつくるか、あるいは美術の専科をつくるか、家庭科の専科を取るか、それは小学校に任されているわけですよね。そういうかたちだから、要は、小学校の専科というのは余剰教員という、余ってる教員だという考え方やね。だから、中学校へ行くときは、ポンと中学校へ行くときもあるわけですが、だけども、普通はだいたい小学校から小学校で動いてますからね。小学校行きたいから、いや、中学校行きたいからって言って、通るもんでもないらしいですわ。

【中村:そのとき、先生は中学校への異動を希望されて…。】

いえ、全然、希望してない。むしろ、小学校へ残留の気持ちやったのに、突然、ボーンときたわけね。ええ、何でやって感じでね。事前に中学校へ行ってくれへんかっていうような、あれも何もなしに、いきなりでしたよね。

転任先の多田中学校は、西宮市の自宅からは遠く、通勤には1時間30分を要した。自宅から近い学校への転任も希望したが、川西市から西宮市へというような市をまたぐ異動は難しかった。


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(自宅から多田中学校までは)遠いですよ。電車で通えば1時間半、学校まで1時間半かかりますね。

【中村:近くの学校に転勤とかっていうことはあんまりお考えにならなかった…。】

いや、考えましたけどね。これは難しいです。特に市内での異動はまあいけるんですけどね。市外での異動というのは、もう、何人もそういった人が希望して、何年もかかってやっと異動できたっていう人はいますけども。僕の場合は異動希望は出しましたけども、実現しませんでした。もう難しいことは前に聞いてましたからね。最後まで異動希望なし。




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(2) 目の変調 ――まあ、こんななるとは思わへんだけど

三宅先生が目に変調を感じたのは45歳のときだった。失明する3年前のことである。視界にもやがかかっているように見えるので眼科を受診したところ、緑内障と診断された。緑内障という病名も三宅先生にとっては初めて聞く言葉だった。治療が難しく、失明の可能性があることも聞かされたが、そのときには後に本当に失明することになるとは思わなかった。


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あのね、丁度ね、45歳ですからね、年齢でいえば45歳あたりからね、緑内障っていうのにかかってるんじゃないかってこと言われてね。どういうかたちに見えるって言えば、まっすぐ見てたら、いわゆる晴天の、晴れた日でもですね、何かモヤがかかったように見えるんですな。僕ら、最初、そのように見えたんですよ。これは何だろう。モヤでも、霧が出てるわけじゃないからね。霧やったらわかるからね、動くから。おかしいな、ほんで医者に聞いたら、ちょっと調べてみましょういうことで調べたら、眼圧とかいろいろ測ったんですね。ほんで、やったら、緑内障ですなって言われてね。どんなもんですねんって。全然、聞いて、初めて聞く言葉でね。これは原因がようわからんのですよていうようなことでね、言われてね。眼圧は上がるとまずいから、眼圧を下げるようにしましょうと。眼圧、上がったらどうなるんですかって聞いたら、ああ、そのときはもう、しょうがない、失明をすることになるから、眼圧を下げるためには手術することもありますと。治りますかって言うたら、治りません、治りますかって言うたら、治りません言われてね、治るもんちがいます言われてね。ほんな、えらいこっちゃ言うことで、そういうことですわ。そのときは、そんな、ただ単に言葉としてえらいこっちゃ言うだけのことでね、まあ、こんななるとは思わへんだけど。

緑内障の診断を受けてから3年ほどはそれほど視力の低下もなく、自動車の運転もしていた。しかし、48歳のときに目に急激な変化が訪れた。鉛筆で書かれた薄い文字が読めなくなり、目に見えて視力が落ち始め、手術を行うことになった。手術の前には、晴天の昼間でも夕方か曇りのように見えるほど視力は低下していた。


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手術するとき、48歳のときでしたけども、緑内障かもしれないよって言われてから、1年、2年は何ともないんですよ。3年目ぐらいしてきたら、48歳ぐらい、入院するときですけど、その年なったら急激にどんどんどんどん、あるとき突然、1週間に1回ぐらい、今日はえらい見にくいなあと思って、おかしいなって思って、(聞き取り不能)なってるんだろうなと思いながらね、医者にも通ってましたから。そんな話をしてる患者さんが多いですよ、気をつけなあかんよ、これしかないよって言って、(聞き取り不能)言われてる、また、1週間か十日ほどしたら、また、ぐっと下がってくるんですね。それがだんだんだんだん急激になってきて、もう、手術受けるときになったら、もう、そうですね、昼間の11時、12時、真昼ですよ、その太陽のもとでも夕方の4時ぐらいの明るさに感じる、今日は何か曇ってるのかなあと思って、えらい太陽光が弱いなあって感じ、そんな感じです。聞いたら何のこっちゃい、今、カンカン照りやで言われてね。あっ、そうか言うて。ああ、だいぶ、落ちてるんやな言うてわかったね。だから、もう、そのころなったら、目に見えて視力落ちてるってこと、わかってましたね。勿論、文字はだんだん見えなくなるし、特に鉛筆で書いてあるでしょ。鉛筆の線、細いですやんか。読めないんですよ。見えないんですよね。太けりゃ見えますけどね。薄い細字なんてもう、鉛筆で書いた文字なんて見えなくなってきてね。こりゃ、えらいこっちゃなあと思って。そういう状態になりましたね。

47歳の11月頃に視力が急激に低下し始め、年が明けて3学期になってからは自分でもどんどん見えなくなっていくのがわかった。そして、48歳になったばかりの1977(昭和52)年3月初旬には手術をすることになった。


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昼間は見えてましたけどね、夜になったら、太陽の光がぐっとこう、夕方近くになってきたら、もう電気つけなあかんわけですよ。これ、夜といっしょやからね。夜になったらみえないっていうのに夜盲症ってあるでしょう。それかなって言うたら、それと違いますって言われたから。緑内障の症状ですよって言われて。そやろな、そうでなかったら、夜盲症なんかの関係やったら、もっとよう見えてるときからそんななって、傾向出照るのになあと思とったからな。それではないんだなあ言うことで。

【中村:かなり長い期間、そんな状態だったんですか。】

いえいえ。もう見えなくなりかけたら、私が48歳のときの3月に手術したんですけどね、その3月の前の、その前の年の47歳の11月やね、そのころから、もう年明けたら1月ね、年明け多羅どんどん落ち込んでるのわかりました。それまではそういうことなかったんですよ。だから、急に見えなくなった。もう、その学年の3学期の初めぐらいからとっとっとっと落ちてきて、3月にはそれでもう手術しようっていうことになって…。




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(3) 手術の決断 ――そんな深刻に悩むことなかったですけどね

視力低下への対処法は手術しかなかった。しかし、手術は回復を目指すものではなかった。医師からは、うまくいっても現状維持、見えなくなる可能性もあることが伝えられた。かといって、手術をしなければ近いうちに見えなくなることは予想された。医師からは、早晩失明するのなら、早く見えなくなったほうがリハビリテーション訓練にも有利な面があるというような説明もあったという。医師からは「後は自分で選びなさい」と言われたというが、三宅先生はそんなに深刻に悩むことなく手術を決心した。


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医者に聞いたら、これはもう失明することになる、手術しても、うまくいって現状てストップするか、もし、それが現状でストップしなければ、その手術でもって見えなくなるか。どっちですかって、どっちや?どっちがいいです?ほっといたらどうなりますねん言うたら、だんだん見えなくなりますよって。だったら見えなくなる、これはまちがいないと。手術しても、うまくいったら現状でとまればよしと。さもなければ、見えなくなります。ほな、見えなくなるということに焦点合わせたら、今、見えなくなるか、先に見えなくなるか、先に見えなくなっても何年先か、もう、1週間、ずっとずっと落ちてますからね。この勢いでいったら、後、もう時間の問題でしょうと。時間の問題で、今、見えなくなるか、何日かなしに見えなくなるかやったら、もう、どうしたらよろしいていう(聞き取り不能)やね。そのお医者さんも、盲学校関係のとこで学校校医やってた人なんでね、話してくれましたけども、見えなくなるっていうことは大変なんだから、どうせ見えなくなるんやったら、こんなこと言っちゃ悪いけども、早く見えなくなるほうがいいですよって言われて。早く、一日でも早いほうがいいです。何故かって、見えなくなったらすぐ訓練行かなあかんわけでしょ。訓練せんないかん。それが先になればなるほど、やっぱり年齢が先なれば、ものすごく感覚鈍りますと。早いほうがいいですよ。まあ、医者のほうは、はっきり言う、残酷なようやけども受けるならすぐ受けなさい。で、見えなくなるんやったら、すぐ…。それでとまればよしと。それで、後は自分で選びなさい言われてね。そういう、もう、はっきり言われると決心がつきやすかったですよ。そんな深刻に悩むことなかったですけどね。




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(4) 手術の失敗 ――こっちは目の前が真っ暗になりましたわ

手術は局部麻酔で行われたため、三宅先生は手術中の様子を覚えている。まず、左眼に注射をしたが、そのとき血管を傷つけて出血してしまったという。そのため、左眼の手術を続けられなくなり、右眼から手術を行うことになった。右眼を切り開いたところ、手術が難しい状態であることがわかった。手術を続けると眼底出血し、失明する危険性も高かった。しかし、三宅先生も同意の上で手術は続けられた。


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手術の途中でやっぱりこれはだめだということがわかったんですよ。医者が言うたから。三宅さん、これ、目、切り開き、開けましたね、目、開けたけど、右目から先に切手もらったんやけど、左側、先にやるべきだったけど、左側のほうは、先に手術するつもりで左目のほうに注射を打ったんですよ、麻酔をね。そのとき、何か血管のほうに打ち込んだらしくて、血管が破れて、わーっと出てきたもんで、見えなくなったわけで、そうしたら、もう一度、担当主治医の眼科医の医長さんやな、医長さんが、麻酔でそういう状態になった場合は、今、これは切らんほうがいいですと、出血がひいてから切ったほうがいいから、残りの右目から先にしましょうかということになって、右目をやって、右目を開いたんですね。開いたときに、ああ、これは、そのときわかったんですが、これ、開いたけど、せっかく開いたけど、これは難しいと言い出した、これはちょっとできないかもわからんぞって言って、そうしたら、三人か、四人ほどの立会いの医者がいましたけどね、そこから、その四人がずっといろいろ会議してるわけですよ。これ、こうなんかなあとか、これ、やばいとか、あぶないとかなんとか言いもってね。どうやらやってみようか、やってみましょうということになって、どうですかって聞いたら、こっちも局部麻酔やから聞こえるからね、どうですかって聞いたら、いや、難しいですって、だめですかって言ったら、いや、だめではないけれども非常に難しいですって、どういうふうに難しいか、切ると眼底内で出血するおそれがあると、それはなしではいけないかって言うと、この状態ではそれなしては防ぐことはできない、眼底出血するかもわからん、したらどうなるかと言うと、それでもって見えなくなることは、しっかり見えなくなる、眼底出血したらだめですって。だから、なるおそれがある、ならないかもわからん、うまくいけばならずにいけるかも知れない。いちかばちかですね。どっちにしますっていうことになってね。初めから医者に聞いてるから、手術して失敗すれば見えなくなりますよって、うまくいっても現状維持よりは先、よくなりませんよ、ほっといたら見えなくなりますよって聞いてたからね。もう、ここでもうみえなくなろうが、なろまいが、同じこっちゃろと。そこで、もう即座に決心してね。お願いしますって言って、やったんですよ。そのときに、左は切ってないからね、左はどうなんですかって聞いたんですね、メス入れてないけれどもって。左目のほうは、もう、これは視力が出ません、見えなくなってますって。だから、左のほうの目については、手術しても、しなくても、結果的には変わりないですって。右目だけが、一応、目やったけど、これを切ってしまえば、見えなくなるんやなあってことで、半分、ちょっと躊躇したような感じやったけど、思い切ってやってもらったんですよね。

三宅先生は手術の途中で、見えなくなったことがわかったという。執刀医が「あっ」と声を出し、目の前が真っ暗になった瞬間を鮮明に覚えている。


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見えなくなったときと、いや、見えてるときと、見えなくなったときが、はっきりわかるんですよ、それ、境目が。あっ、今、見えなくなったっていうことが。最初に医者が言ってましたんや、三人ぐらいでやってましたけど、執刀医が、いけるかな、いけるかなって言いもってやってるわけやね。執刀医が、あっって声出したんで、あっって声出してね、あっって言ってね、こっちは目の前が真っ暗になりましたわ、そのときに。ああ、このときやと思ったね。ほんで、医者もあっって言ってるしね。あのときに、見えなくなったのはこのときやなあと思っとってね。看護士さんがね、麻酔が切れますって言い出したんや。部分麻酔やったから。麻酔が切れますって。切れたらまずい、全身麻酔に切り替えてって言われて、すぐに全身麻酔の注射を打ったりしてね。それからすーっと意識を失ってしまって、だから、それからどういうふうに医者が言葉を交わされたかは知らないんですけども、あっというか、見えなくなった瞬間が、真っ暗になってしまったということはわかってるから、はあ、あのときやなあっていうことで…。時間もわかってるし、一応、昼から、執刀は1時やったときやから、2時ぐらい前ですわ。そのときやなあと思って。




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(5) 失明宣告 ――まあ、むなしき努力やったけどな

手術後、3、4日して眼帯を外し、目を開いたが、何も見えなかった。4、5日後には、医師から失明宣告がなされた。その後は治療は全くなかった。


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(手術が終わったら)見えない状態です。眼帯でこう、押さえられてますからね、わかりませんけれども。それを外されて、三日、四日したけれども、目を開けても見えないしね。これ、見えるのかなあって医者に聞いたら、もう、これ、見えないでしょうなあって、いや、それはまだ希望は捨てませんなんて純粋に言っとったけどね。まあ、むなしき努力やったけどな。四日目か五日目やったかな、医長が、はっきりと宣告ですわね、申し訳ないっていうか、お気の毒ですが、まことに言いにくいことですがって言われて、あっ、やっぱりそうかと思ったね。医者がはっきり手術は失敗でしたと。今で言ったら、医療ミスとちゃうかなって…。今で言ったら医療ミスですわ。その瞬間に、そういう危険なときにはあんまりやったらいかんのですよね。まあ、そういうことっていうのが、見えなくなったいきさつですね。

【中村:その後は特に何回か手術をするとか、治療をするとか、全くなしで…。】

全くなしで。




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(6) リハビリテーションへ ――自分がもう一度、挑戦してみます

3月の手術後、失明し、視力の回復は見込めなかった。そして、1977(昭和52)年4月から大阪市鶴見区にある日本ライトハウス視覚障害リハビリテーションセンターに通いはじめた。


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それから(=手術後)、3月の末に退院して、ライトハウスにいったのが4月ですから。だから、まだ目のほうの充血がひいてないときに、もう日本ライトハウスにいって、通ってるわけですからね。その間の時間的な(聞き取り不能)はそんなにないんですよ。普通は、聞いたら何か、ライトハウスに入所するまでにも、一年待ち、二年待ちというのがあったらしいですけどね。僕は全く待ち時間なしに、即、右から左へ手続きしてくれた。そういう意味では、わりとラッキーでしたね。そういう意味ではですよ。

リハビリテーション訓練を受け始めた三宅先生だったが、当初は明確に教師に復職することを目指していたわけではなかった。大学の同級生で音楽教師をしていた人が、やはり中途失明し、退職せざるを得なくなった前例も知っていた。自分の目が見えているときには他人事のように思っていたが、同じ立場になってみると自分のことのように感じられた。その人が退職せざるを得なくなったように、自分も教師を辞めなければしようがないのかも知れないと思いながら、リハビリテーション訓練を受け始めたのである。


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先ずですね、僕の、川西に復職したんですけど、その川西の教員、川西じゃない、その北のほうに猪名川町という町があったんですがね、今でもありますけど、猪名川町と川西市は隣り合わせですから、教育行政は一緒なんですけどね、猪名川町に、僕の同期というか、大阪の音楽学校時代の同じクラすにいた人が、名前はTさん、Tということにしておきましょうか、その彼が教員をしていたんですよ。僕はまだ教員じゃなかったけどね。その彼が弱視であったのか、どうかわからない、かなり目の視力が進んで、とうとう途中で字を見ることはできないと、教科書を見ることもできないんで、授業が非常にやりにくい、音楽の教師でしたけどね、その人は。猪名川町の教育委員会のほうやら、学校の校長さんやら同僚の人たちにいろいろと援助するか、介助するか、いろいろ試みたんだけど、やっぱり見えないものはどうしても見えないからね。いろいろな方法を取って、あの手、この手をやって、この職種はどうだ、こういう方法はどうだということをみんなで考えて、考えて、それをやった中で、もう、どんどんどんどん、結局、見えないということに追い詰められているわけです。その人たちも、自分の身体的な環境の変化によって、要はその、意思とは関係なく、追い詰められてしまって、ついに、これではもう勤めを続けられないということで、自他ともに納得して、退職された。同期生だから、退職したということは後で知ったんですわ、退職してから。そのことを知ってから、そうだ、彼がそうしたんだなということを。そのときは、こっちはまだ見えてましたからね。自分が見えなくなったときに、その人のことが、今度は人のことではなしに、自分のことのように思えたわけですね。同じに立っているわけだから。僕も入院しているわけにはいかないし、そういうことになるだろうと、辞めるか辞めないかわからないけど、彼が辞めた以上、やっぱり自分も、復職できるかできないかわからないし、もう辞めなければしょうがないかなと思いながら、ライトハウスのほうに訓練に入ったわけなんです。まず最初の動機はそういうことですね。

また、三宅先生が手術を受ける数か月前、同じ病院にやはり中途失明した高校の教師がいた。そして、その教師は復職することができず、自殺してしまったという。三宅先生はその話も病院で聞いていた。


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僕が知らない人で、同じ学校の教員で、高校の名前だけは言いますけど、本人さんの名前は言えないんだけど、兵庫県立N高等学校、今でもありますけどね、N高等学校、ここの先生ですわ。先生であったんですね。その方が中途失明で、原因はよくわからない、原因は聞いていなかったけど、でも、結果論で聞いてるわけですけど、その先生が入院されて、僕が入った病院と同じ病院です。入院されたところが、手術した結果、うまくいかなかったんですよね。何がどうしたのかはわからない、僕らと同じ手術だったんだと思うんだけど、うまくいかなくって、結局、不完全なままで退院したけれども、復職はできないしというところで、ご本人が非常にその間の、今まで見えていたのに見えなくなった、復職はできない、職を失わなければいけないということで、そんなに本人さんは大きな精神的なショックがあったんでしょうね。その方が自殺をされたんですわ。それを聞いたんです、話を。病院でも聞きましたし、病院でも患者仲間でも有名になって話しに残ってますからね。それも何年も前じゃなしに、つい最近にあった話だしね。

日本ライトハウス視覚障害リハビリテーションセンターの紹介や入所の段取りは、ほとんど病院がやってくれた。それは、手術の失敗ということに加え、前述の高校教師の復職がうまくいかず、自殺という最悪の結果を招いてしまったことへの病院側の反省があってのことではないかという。日本ライトハウスも、その高校教師の復職を目指したリハビリテーション訓練を積極的に行おうとしていたという。高校教師の自殺という最悪の事例を経験した病院と日本ライトハウスは、三宅先生が決して同じ轍を踏むようなことがあってはならないと周到な対応をしたものと考えられる。三宅先生も、病院からリハビリテーション訓練の必要性と日本ライトハウスの概要を聞かされ積極的に訓練を受けようと思った。


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(高校の先生が自殺したのは)何ヶ月か前ですよ。何年じゃないんですよ。病院の人も、そういう看護婦さんも知ってますよ。それで、そういう話をしたら、日本ライトハウスもそれを知ってたんですわ。そこへもってきて、日本ライトハウスはその先生を何とか訓練させて、復職にこぎ付けようと職員一同、ものすごくはりきっていたらしいんですよ。ところがそういうかたちになったでしょ。職員の人たちもショックがあったんでしょう。そこへもってきて、僕自身がぱっと出てきたわけですね。それも、ちょっとこの前に話しをしたかもわかりませんが、僕の場合の手術の経過の状態から考えると、やっばり今でいえば、医療ミスに近いようなことがあったために、病院は僕自身を、過去のその先生の例もあったんでしょうけども、僕の退院の後のリハビリですね、訓練のことについては、ものすごく気を使って、日本ライトハウスも僕も知らなかったんですけどね、病院が全部、ちゃんと手配してくれて、話をつけてくれて、後は、あなたはもう、僕は3月の末に病院を退院したんですけど、4月のそうそうからそこへいってください、そしたら、日本ライトハウスのほうには話しをしてありますからと、もう大体できていたんですね。僕はその先生が自殺されたこともしっれるし、自分も他人事じゃないから、ということで、病院のほうもそういったことで、日本ライトハウスの事情、どういうところかということも説明してくれまして、そこへいって訓練受け手みたらどうだということで、僕もそれをぜひ受けたいと。

大学同級生の音楽教師の退職の事例から、三宅先生は自分も退職せざるを得ないのかとも考えた。一方で、高校教師の復職のために日本ライトハウスがリハビリテーション訓練を準備していた話を聞き、自分も訓練を受けることで復職できるのではないかと希望を持つようになる。教師への復職ということが、訓練を受ける三宅先生と日本ライトハウスの指導員との共通の願いとなった。目標が明確になったことで、三宅先生からも訓練内容の提案をするなど、積極的に訓練に取り組めた。指導員も協力を惜しまなかった。中途失明者に対するリハビリテーション訓練としては、歩行と点字とが大きな柱となる。現在では、画面読み上げソフトを活用したコンピュータの使用も重要な訓練内容となっているが、当時はまだ一般的ではなかった☆1。全盲者が読み書きできる唯一の文字が点字であった。三宅先生は、教師への復職には点字の修得は必須だと考え、点字の読み書きも身につけていった。徐々に、歩行もできるようになり、点字の読み書きもできるようになって、復職に向けてのリハビリテーション訓練は順調に進んでいった。


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よし、ならば、できればその先生が復職できなかったんだけれども、よし、それを自分がもう一度、挑戦してみます。単純な考え方だけどね。挑戦してみようと思って、ライトハウスではそんなことは正面から大見得を切っては、ちょっとこっちも言えた柄じゃないし、そんな勇気もなかったけども、心の底にもっていたわけですね。日本ライトハウスのほうもそれが頭にあったんでしょう。で、僕自身も何とか訓練をさせて、復職にもっていきたいと。というところで、訓練生である僕の願いも、指導員のほうの願いも、全く一緒だったんですね。それでとんとん拍子にずっと話がどんどん、訓練の話もね、高校こういうふうにしてみたいとか、これも、こういうこともどうやろなと、こっちが疑問になったり、思ったことを話をした場合に、どんどんそれについて協力してくれてですね、そして、訓練ができている、で、自分はだんだん歩ける、一人歩きもできるようになる、点字も何とか読めるようになる。点字を読めなければ、そのときには点字しかなかったですからね。テープレコーダーとかそんなものがありましたけども、パソコンなんかあらへんしね。文字処理みたいなもの、自分で点字を打つか、それしかないから。それができなかったら復職できないだろうということを、自分自身もそう思っていたし、訓練の職員のほうはそういうものの言い方はしませんでしたけどね。点字ができなければ復職、元に戻れませんよというようなことは言わなかったけどね。自分で、自ら必要な、これがなかったらできないというのが自分で自覚したものだから、それは訓練をする中で、それができてくる、歩ける、そういうところが訓練とかみ合っていくということですね。




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(7) 復職審査 ――病気が治らないと復職はできない

リハビリテーション訓練を始めて8か月ほど経った1977(昭和52)年12月、三宅先生は翌年の新年度から復職しようと考える。そして、所属校である多田中学校に復職願を提出した。3月になって、復職への手続きが行われたが、すぐには復職の許可は下りなかった。復職するためには、兵庫県教育委員会の復職審査会の審査を経て、復職許可の決定を得なければならない。復職審査会では、三宅先生のケースは審査の対象とならないと判断された。病気休職からの復職は、休職事由である病気の回復が前提であり、失明して回復の見込みのない三宅先生の復職願は受け付けられないということだった。復職の許可はできない旨、兵庫県教育委員会から川西市教育委員会に通知された。川西市教育委員会は三宅先生に復職は許可されないことを通知し、今後の三宅先生の意向を尋ねてきた。ここで三宅先生は中途失明した教師が復職するのには、大きな制度上の壁が立ちはだかっていることを知るのである。


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丁度、訓練を始めたのが4月で、丁度、12月、8ヶ月ほど過ぎてからですわ。12月ごろになったら、よし、来年の3月を目処に復職の希望を出してみようと思ったんですね。で、日本ライトハウスにその話をしたら、それはいいことだということで、ライトハウスも大乗り気だし、こっちもその気になって、学校のほうに復職願いを出したんですよ。それはもちろん書類の上だけのことですから、まだ、本決まり、どうしよう、こうしようというところまで学校は考えていないんだけど、まあまあ、かたちとしては。そうして、いよいよ3月が来たときに復職審査会というのが開かれる、書類をだしてますからね。復職審査会では、もう、パと、第一声、初めに開口一番、これはだめだ、復職できないと。復職査定は、査定の会議外の存在だと。ということで、ポーンとはねられてしまったんですわ。それを知らないからね、こっちは。そしたら、月末ぐらい近づいたころやな、教育委員会のほうから、県のほうでは査定は、復職査定会ではだめだとなっているんだけども、退職するか、しないかを聞いてくれということで、教育委員会のほうでは、川西市の市教委としては本人の意向を聞いているんですということで、話が来たのは、どうするんだということになったんだと。そういう話が、そこで初めて復職というのは、僕の場合は復職は病気を、休職したかぎりにおいては病気が治らないと復職はできない、そういうふうになっているんですわ、われわれのときはね。で、僕は病気が治ったのと違うわけですよ。見えなくなってしまったんだから。もう完全に元に戻らないわけですわ。病気が治ったことにならない。だから、復職査定の対象にならないということは、あっ、そうか、そういう意味でならないということは、まあ、わかったと。問題はそしたら、そういう見えなくなってしまったから、もう、教員に立てないんだけども、それでどうするかということを聞きただすというのが、ここから始まるんだなということが初めて理解したんですね。

三宅先生が復職し、再び教師として中学校の現場に戻ろうとした理由は大きく二つある。一つは仕事をして生活の糧を得なければならないということである。しかし、単に生活のためだけに復職するというわけではない。それまでの20年余りの教育者としての実績と経験は、視覚障害者となっても学校現場で活かしていけると考えたからである。


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(中学校の)現場に入る前から、入る前に訓練を受けていたときに、自分は一体、何の目的で現場復帰するのか。目的は二つありますよ。最初に生活の問題がありますよ。生活の問題がありますけど、それだけでは、ちょっと何か、もう、自分が教員として勤めていた、そのものとして考えたら、単なる生活だけでは、ちょっとこれは、自分として我慢できない。やっぱりそこには何かあると。やっぱり教育者、やっぱり今までやってきた授業と生徒たちと織り成してきた、そういう経験者としての、それが視覚障害者であっても、その経験は活かしていける。そこにポイントを置こうじゃないかと。それは生活は生活だけど、それと表裏一体といえば表裏一体ですけどね。ということが、根本にあったわけですわ。




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(8) 市教委のテスト授業 ――授業ができるかどうかということを見せてもらいたい

今後についての三宅先生の意向を尋ねる川西市教育委員会に対して、三宅先生は復職を目指す自分自身の思いを訴える。川西市教育委員会は強く復職を希望する三宅先生の訴えに耳を傾けてくれた。兵庫県教育委員会に対して復職に向けての報告をするために、復職の可能性を示す材料としてテスト授業を行うことを提案する。三宅先生は即座にそれを了承した。日本ライトハウスの指導員に協力してもらいながら、テスト授業の教材研究や指導案の作成を行い、テスト授業に臨んだ。


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やはり自分自身が復職するということはどういうことかと、常々思っていた自分の思いと、これをここで述べなければ、ここで話をしなければするときがないということで、自分の考えをずっーと述べたんですよ。障害者として、健常者の前に立つということはどういうことやということの、理念、今から考えたら、言うたもんやなと思ってな、まあまあ、とにかく口はばったいことを言ったわけですな。そしたら、教育委員会のほうもそれはわかったと、検討してみるんだけど、その検討だけでは検討できないから、川西市の教育委員会は何を考えたかというと、それを裏付けするために、実際に教育、授業ができるかどうかということを見せてもらいたいと。それで、まあ、あんたが、僕が言ってることね、言ってることと、それとあんたの授業と、比べて、それを検討材料としたいと。それを県のほうに報告すると、こう言ったんですよ。で、僕はもう二つ返事に、はい、いいでしょうと言ったんですよ。僕は授業をしますよと。そしたら、とんとんと話が進んで、授業の中身までそこで話をしてしまって、自分のほうは授業準備に入ったわけですね。それでまあ、授業準備をするためには教材研究とか、授業準備をせないかんから、そういった準備も、こっちは一人ではできないんで、ライトハウスのほうの職員の先生にちょっとお手伝いを願って、それで教材を作って、教材の資料を作って、生徒に配布する資料を作り、いろんな先生方に見てもらうわけやから、見てもらうための授業案、授業の指導案というやつをね、作って、当日を迎えたわけですわ。

 テスト授業ではピアノを伴奏して生徒に歌唱させる場面を入れることを川西市教育委員会から支持された。口頭での指導だけではなく、ピアノ伴奏の実技のようすも確認したいということなのであろう。目が見えなくなったとは言っても、休職前までの20年余り行ってきた音楽の授業は三宅先生にはさほど困難なものではなかったようだ。授業を受けた生徒たちからも、目が見えているのと変わりない授業だったという感想が多く聞かれた。この生徒たちからの評価は、三宅先生を復職させる方向で川西市教育委員会から兵庫県教育委員会へ報告を上げるときに、大きな力になったという。


《tr.2-20》

当日、授業をしたわけですよ。ちゃんとそのときには、学校の教育委員会のほうも、特別の要望があってね、音楽の教師やから、説明することもあるやろうし、歌うこともあるやろうし、必ずピアノを弾いて歌わせる場面は作っておいてくれと。これだけが一つ作ってくれよと。他のことはやったらできるわけですね。他の、例えば音楽の楽譜のことを説明するとか、音楽鑑賞のことで説明するとなると、ピアノを弾かないということで済ませられるときがあるんですよね。そういう1コマも作れるわけなんですわ。そうじゃなしに、必ず歌わせる場面を作れということで、その歌う場面もちゃんと作ったものをやったわけですわ。そしたら、その日、教育長も来てましたが、ほう、三宅はちゃんと授業できるやんかと言われて、授業できるって当たり前やんか、これを去年までやってたんやから。半分、苦笑いしとったんですわ。そのときに、ほんまに幸いやったけども、その教育委員会の人たちも含め、関係の民主団体の人たちやら新聞社の人たちも来てましたけども、そういう人たちが、生徒たちに聞いてまわったらしいですわ。三宅先生の授業って、どないやったと。その生徒は1年生のときに授業をしている生徒なんですわ。顔を知ってるわけ。顔を覚えてるわけや。名前を聞いたら、ああ、おまえやねっていうことを覚えているわけや。その生徒やから、生徒にどないやったって聞いたらしいわ。そしたら、どないやったってどういうこっちゃって、先生見えてないんやけど、えっ、見えてないって全然そんな感じせえへん、僕らが授業受けてたんと全く一緒や、ちっとも変わってへんでって、というのは、ほとんどの生徒はそういう意見を出していたらしいんですよ。それを教育委員会のほうも報告を聞いてね、後で聞いた話やけど、それがもうほんとに教育委員会としては、非常に県のほうへ報告するときの大きな力になったと言ってましたけどね。それで、教育委員会側の報告として、それを県のほうに自信をもって(聞き取り不能)したと。




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(9) 県教委のテスト授業 ――学校現場で訓練させてくれ

川西市教育委員会からは、三宅先生の復職を後押しするような報告が兵庫県教育委員会へ上げられたという。しかし、兵庫県教育委員会は、県としてテスト授業を実施したい旨を連絡してきた。テスト授業は3日間で3時間分、指導の内容も指定された。三宅先生はこれも躊躇なく承諾した。どんなテスト授業でも受けて立とうという意気込みがあった。三宅先生は指定どおりの授業を行った。生徒たちとのやりとりも問題なく、授業には自信があった。


《tr.2-21》

その後(=川西市教育委員会のテスト授業の後)、そうすんなりいけしませんがな。県のほうは、教育委員会がそういうふうに話をしたんだけども、県のほうは県のほうとしての観点があるから、県のほうでは県のほうとしての授業を見さしてくれという。今度は3時間、日にちは三日間、一日1時間、三日で3時間、見せてもらいたいと。で、内容はこれとこれとこれというように内容を指定して、ちゃんと指定してきましたね。これによって、県のほうとしての考えをまとめたいと思うと、というようなことをまた言ってきたぞといって電話がかかってきたわけ。三宅さん、どないするって言うたから、そんなことを言うんか、そんなら、腹の中ではね、ははん、これは要するに採用テストと同じやなと思ってな。よーし、かまへんと思って、腹の中で。まだ若いからな、元気なもんやから。向こうが向こうなら、こっちはこっちや、よっしゃ、受けたれって。向こうが採用試験をやるつもりなら、こっちはこっちでそれだけのことをやっていこかいっていって、そんなん、負けてたまるかっていうことで、すぐ二つ返事で、やりますよって言って、やったんです、受けたんですよ。それを、指定された時間にその内容で、三日間やりましたよ。まあ、(聞き取り不能)自信はありましたしね、生徒たちとの会話もできるし、さあ、これでもし授業ができへんなんて言うたもんなら、それこそ、言うなら言うてみいっていうような意気込みでね、てぐすね引いて、腕まくりして、心の中で腕まくりしてたんですよね。

テスト授業が終了し、三宅先生と兵庫県教育委員会の担当者との話し合いが持たれた。三宅先生は授業内容には自信があったが、県教委の担当者が最初に指摘したのは生徒への対応についてだった。三宅先生がある生徒に質問したとき、その生徒が返答しなかったので無視して、他の生徒に質問を移したというのである。そのような事実は全くなく、担当者の誤認であった。テスト授業では目が見えなくても授業ができることを実証したため、授業そのものではなく、教師としての適格性を問題にしてきたと三宅先生には思われた。視覚障害を理由に復職を許可しないのではなく、三宅先生を差別的な教師にでっちあげて教壇から排除しようとする方略だと理解した。日頃から、子どもを一人ひとり大切にしている三宅先生にとって、全くの誤認で、生徒を無視し、差別的に扱ったように指摘されたのは許し難いことだった。


《tr.2-22》

教育委員会、これは県のほうですが、県のほうでは、開口一番に、三宅さん、教員として一番大切なことは何ですか、授業に立つ前に何をあなたは大切にしていますか、こう、開口一番それですわ。ほんで僕は、それは子どもを一人ひとり大切にすることですよと、こう言うたんですよ。そのとき、何をこんなこと言うんかなと聞いていたら、じゃあ、質問しますがと、こうきたわけや。何をと思ったときに、あの3時間目の話、3時間目のこのときに、あなたが生徒たちのほうに質問をしながら、ノートについて質問をしながら机間巡視で机の、生徒との間を回ってきたときに、一人の生徒の前で質問をしたと。あんたは生徒に、君はどう書いたんやということを説明したときに、あなたが、その生徒はしばらく答えなかったので、僕はそのときわからんよ、その場面は覚えてるんだけどね、教育委員会が言うには、その生徒が答えなかったもんだから、あなたはとなりの生徒に指名して、代わりに答えろということを言ったんだけども、あれは一体どういうことかと、こういう質問をしてきたんですよ。これはもうおわかりでしょ。僕に質問した相手の本人がこれは答えられへんな、こいつはだめやから、こっちへ振ったということになるわけや。となりへ振ったわけね、こいつはだめやから、こっちへもっていけというように。そしたら、その最初に質問した子どもに対しては無視しているわけです、僕は。無視して、そのとなりの生徒に代わりに、君はどうやった、見てくれっていうような調子で質問を振っていった、これはどういうことやと。その瞬間にわかったんですわ。これ、何が言いたいかということがすぐにわかった。何がわかったって、これは僕が見えるとか見えないとかいうことで質問にならんから、僕は授業をきっちりやってるからね、質問できないものだから、教員としての根本的な資質の問題ですね、生徒を無視した、一人の個人の生徒を大切にしなければならないという、そういう、一人の生徒の人格を無視した、無視してるわけね、蔑視して、そして、となりの生徒にぱっと振っといたり、差別行為ですよ。差別行為をやったと、そこを追及して、僕を、いわば失脚、という方法へ追い込もうとしてきたということは、瞬間にぱっとわかったんですよ。そのときに、これはもうすごい憤りを感じましたね。差別発言してるわけやからね、僕が、したって言うから、何を差別だっていうことでね。そんなこと、やった覚えないんですよ。そのときは、その生徒に質問をしていく、その生徒が答えなかったけど、となりの生徒に答えを振ったんじゃないんですわ。となりの生徒とはグループを組んでいたわけですね。そのとなりの生徒とお互いに相談してやっていたわけなんで、その生徒がそのとなりの生徒に、これ、どないなっとるんやなと質問したらしいんですよ。そのときに、生徒はそれを受けて、こうこうこうやということを言ったんだと、その発言が、僕が見えないから、その県から来た人もそこのところまで見てないわけ。言葉で聞いてるわけやな。僕はとなりの者に言うて、質問を振ったように見えたわけ。僕はそれを知らないし、聞いたときには、その二人のほうで、本人がしゃべってると思ったわけよ。本人がしゃべってると思ってたんで答えが正解やったから、その質問をした生徒の肩をたたいて、よっしゃ、できた、できたって言ってたたいた。その生徒も、わーっていって喜んでるわけ。僕はその生徒との会話ができてるわけなんですわ。僕の頭に差別なんてあらへんのですよ。例えば、相手を指摘するのはいいけどね、ありもせんことをでっちあげてね、そういうことを言うのは、こいつは許しておけんって。

このとき、県教委からは担当者が二人来ていた。三宅先生に生徒への対応を問いただした担当者に、もう一人の担当者が経緯の事実を説明した。そこで、三宅先生が生徒を無視したという事実はないことが明らかになった。誤認していた担当者は謝罪することもなく、軽く受け流すような反応を見せただけだったという。復職を審査される立場だった三宅先生は抗議することを抑えたが、この担当者の態度に同じ教育者として憤りを感じたという。


《tr.2-23》

そのときには、県のほうから来ていたの一人だけじゃなかった、二人来てましたんで、もう一人の人は僕の学校時代の同期生やったんですが、その彼がちゃっと説明したんですね。いや、こうこうこうこうこうやいうて説明、その人の上司にあたるねんやろな、上司に説明したら、その上司のほうは、あっ、そうか、ふーん、これでしまいや。(中略)僕が試験官じゃなしに、僕が試験受けに来てるほうやから、それ(誤認についての抗議)、言えないからね。雇われるほうやから、グッと我慢して、何を言うか、その後、ジイーッと待ってたわけね。

その後の授業についての話し合いでは、教室内での三宅先生の動きが若干遅いとか、点字を読むスピードがゆっくりだとか、一般的に中途失明者には当然想定される事項が指摘された程度であった。三宅先生としては、先の誤認による発言について撤回と謝罪を求めたい気持ちがあったが、事実を説明して誤解を解いてくれた担当者への配慮もあって、追求はできなかった。


《tr.2-24》

後は何を言い出したかと言うたら、別に、結局、僕自身が動きがのそいと。子どもとの受け答えはすぐにできるけども、黒板に字を書いてあるところにいくときに時間がかかるとか、ピアノを弾くときに、ピアノを弾いて、座って弾き始めるときに若干時間があると。そんなこと、当たり前やないかって言うたのよ。そんなもん、ピタッって当然弾けるわけないよね。そういうことを言ってみたりね。それから、失礼な話だけども、あなたの読む点字のスピードはかなりゆっくりでしょうと。4月から始めたんやったら、まだ1年しか経ってないから、そんなにスラスラいけないでしょうって。だから、もうちょっと訓練を受けてから復職されてもいいんと違いますか、こういうふうに話をもってきたんですわ。自分たちは、最初に彼が僕にたいしてガッと質問したことに対しては取り消しもなんにも言わないで、あっ、そうか、ふーん、それでおしまいでしょ。それについてどうするかって言ってやろうかと思ったけど、待てまて、これは、その代わりに言ってくれた、間に入ったもう一人の教師の、援護してくれた、説明してくれた人の立場もあるから、変なことを言ったらいかんなと。同期生やから、同期生ってあの、同期の同じ学校やからね。大学、一緒やってんから、知ってるわけや。そういう顔もあるから、まあまあ、あんまりもの言われへんなあ(聞き取り不能)してたんですけどね。そういう質問がきたんですよ。質問内容が変わってきたわけやな。

県教委の担当者は、点字の読みのスピードがゆっくりであることなどを指摘して、4月からの復職ではなく、もう少しリハビリテーション訓練を重ねた上で復職を考えたらどうかという提案をした。三宅先生はそれを突っぱねた。1年間の訓練で教師という仕事を遂行するための基本的なスキルは獲得している。今後は、学校現場に戻り、毎日の教育実践を積み重ねることが即ち訓練になる。学校現場でなければ教職のリハビリテーション訓練はできないと考えたのである。


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それ(復職)は(もう少し)訓練を受けてからというふうになったときに、僕は、訓練を受けてからどうのこうのというか、僕は一年間の訓練を受けてきたと。4月から3月までの訓練を受けてきたんやし、それを更に訓練を受けるとなれば、これは、後はもう、生徒たちと、今日も授業参観を見てもらっておわかりのように、生徒たちとの関わりはできると思うから、その関わりの中で、それが訓練やと思てくれと。だから、復職をしたその日から、毎日が訓練のつもりでどんどん進めていくから、その中であなたが言われる訓練というのもそこで実行されるはずだと。だから、教育の実習という、実習生じゃないけど、学校現場で訓練させてくれ、別のところで訓練したって、これは結果は一緒やということでつっぱねたんですよ。そんなら、それは、いや、それは僕のほうでは、これに対してはそうだとは言えない、これは帰って県のほうの上司に報告してから、そうでないとその結果は言えないけれども、これは今日来た僕の考えでの話しですよと言うて、ごまかしよったわけね。で、まあ、今日はこのことを報告に帰りますっていって帰ったわけですわ。

この一件で、三宅先生は生徒一人ひとりを大切にして付き合っていくことを改めて自分に言い聞かせた。特に視覚障害教師として、こちらが伝えようとしていることを生徒がしっかりと受け止められるようにする方法を構築しようと決心した。


《tr.2-26》

そういうことがあってね。だから、僕は、生徒たちを無視することは絶対にしてはいけないということを、どんな生徒であっても、その生徒に対しては対等につきあっていくと、それをつきあっていかないで、もし外れたら、教師としては失格だということを自分に言い聞かせるとともに、自分でそれをするためには、いかなる生徒にもわかりやすく質問をし、こちらが何を言ってるか、何をきいてるかということをしっかりと受け止められるように、その相手にもわかるように納得させて、いけるような方法も、いう方法を構築しようと、これが僕の、視覚障害者のためにも、教員として基本的なあれやけどね、視覚障害者である以上はなおかつ、これ以上にそれに重点を置こうと、そういう決心をして。




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(10) 視覚障害者として教壇に立つ ――視覚障害者であろうが同じだろうと

三宅先生は復職するにあたって、視覚障害者として中学校の教壇に戻ることの意味を自分に問い直した。生徒と教師が信頼し合い、認め合うことが教育の真髄でなければならないと考え、教科指導もその上に立ってこそ単に知識の教授ではなく、教育と言えるのだと考えた。生徒との信頼関係を築くことにおいては、視覚障害をもつ教師も他の教師も同じだという。


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僕自身が復職する場合に、視覚障害者が普通の教壇に立つとはどういうことかということの、自分自身に問いかけて、そこからあったわけですけどね。だから、障害者が教壇に立つということは、先に言ったように生活の問題もあるだろうけど、だけど、それ以上に教育者としての、教育職というものを選んだ以上は、生徒たちに何をどういうかたちで指導していくのか、生徒たちを大切にしていくためにはどうしていけばいいか、勿論、生徒を認めるということは自分自身を認めることになるわけやから。それをもって、人が人を信じるとか、認め合うとか、言葉はいろいろとあるでしょうけど、そういうのが教育の真髄でなかったらいかんと。教える、数学の方程式を教える、あるいは英語の単語や英文法を教える、それはあくまでも教える、物理的なものやと。しかし、精神的なものとちがうと。その精神的なものの上に立って、それを教えたときに、教えた内容が単なる物理的じゃなしに、それを教えられた、あの先生からというふうなかたちで定着する、そこが教育なんやと。というのが、視覚障害者であろうが同じだろうと。だから、僕は、自分は視覚障害者として教壇に立つ場合はやはりそこを一回も踏み外したことはない、

三宅先生は、生徒と同じ目線に立ち、生徒と一緒に授業を作っていくという。自分は教師として生徒たちに知識を教授することができる。一方、生徒たちは目が見えるという利点を持っており、自分はその力を借りて授業を行う。そのような‘持ちつ持たれつ’の関係が、視覚障害教師としての自分の出発点にあるという。


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生徒と同じ目線で、生徒たちと一緒に授業なら授業に取り組んでいく。ただし、一つ大切なことは自分は知識を持っている、生徒はその知識を、彼らは僕の知識を享受しようとするだろうけども、彼らには見えているという、僕以上のものを持っていると。見えている限りにおいては、僕と比べると彼らのほうには利点やね、利点というのを僕が享受したいと、利用したいと。そういうことになってくると、お互いに持ちつ持たれつやないかと。ここに僕の場合は、視覚障害としての、いわゆる視覚障害教師としてのお前の考える出発点、軸足はそこにあるんやぞということで、自分に言い聞かせてたわけですね。




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(11) 授業のやり方 ――見えてたころ、教科書を覚えてるわけですわ

三宅先生はリハビリテーション訓練で点字の読み書きを身につけた。授業は点字の資料を読みながら行うことができたが、生徒が使う教科書の内容のすべてが点訳されているわけではない。しかし、その教科書を見て授業をした経験があるため、教科書のどこに何が書いてあるかをほとんど覚えている。視覚障害教師にも先天盲の人と中途失明の人がいる。それぞれに教師として困難を抱えることや強みにできることが異なる。見えている状態で授業をしてきた経験があるということは、中途失明の教師の強みともいえる。


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僕の場合は点字が読めるから、点字を読みながら生徒の教科書と、何行目かはわからんけども。というのは、僕はどっちか言うたら現職の教員だから、彼らが使っている教科書を知ってるわけや。見えてたころ、教科書を覚えてるわけですわ。だから、何行目に、ページ、あそこ開けたらそこに書いてあるっていうことを知ってるから、勝手にできるわけやね。そういう点があるから、僕の場合はまあ、中途失明という強みがあるから、生徒とのコミュニケーションの場合に、おお、お前ら、何ページ読まんなあかんの、右のほう見てみ、書いてあるやろ、見えるわけですよ。それが僕の強みやったからね。そういうのを利用してやってますんやという話ですわ。




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(12) 中途退職を考えたこと ――もう俺は潮時に辞めるべきやろう

復職して6年目の1983(昭和58)年、三宅先生はこの年度末をもって退職することを決心する。60歳の定年退職までは後6年を残していた。理由は激務による疲労であった。通勤電車の中では眠ってしまい、歩いていても足元が定まらない。このまま仕事を続けると、倒れてしまうか、通勤途上でけがでもしかねない。通勤には鉄道も利用しており、視覚障害をもつ教師が通勤途上で大きな事故にあうようなことになっては、学校や生徒たちにも迷惑がかかる。勿論、自分自身や家族にとっても取り返しのつかない事態となる。

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あのとき(=退職を考えたとき)は体がちょっとついていけないし、もうふらふらになったというか、疲れてしまってね。もう、このままでいったら倒れてしまうなと。その年のときなんか、電車に乗っていても眠ってしまうしね。気がついたら、ぱっと見ても足元が定まらんしね。あぶないな、こういうときにけがをするんだな、けがをしてから退職になったらえらいこっちゃなと思って。これやったら、けがするのも自分は損だし、同時にやっぱり、視覚障害者が勤務しとって通勤の途中でけがをするというのは、視覚障害者にとってもマイナスのことやなと。視覚障害者という立場からみた場合ね。いろんな面において、例えば学校側に対しても迷惑かかるやろうと。学校側がどういうふうな使い方をしてたんやと言われることになってくるのを、新聞に表立って出てくるし、学校側にも迷惑がかかるし、ということは、同僚にもいろいろ、そういうことがかかるし、ひいては生徒側にもいい印象は残らないだろうし、僕自身にとったらけがでもしたら一生の問題やし、これはもうけがせんうちに命があるかぎり辞めてもいいなと、それを本当に真剣に思いましたね。だから、家で相談して、けがしたら大変だしといって、それを乗り切るためには、今度は自分の今やろうとして、やっていることについて方向を変えないことには、これはとってもやないけど、(聞き取り不能)、変えるということはすぐに変えられるわけじゃなし、変えるということは今のところ思いつかないし、だから、もう俺は潮時に辞めるべきやろうと。家の者にはそれをわかってくれと言うてあったら、家のほうも、それはそうやわ、僕と一緒やねん、けがをしてしまったらどうしようもないわということで、それで、学校側に今年一杯で辞めますからって言ったんですよ。

視覚障害があると、校務の処理や授業の準備にも時間がかかる。他の教師たちと同じように校務をこなし、授業を行い、ブラスバンド部の顧問もしていた三宅先生は、仕事を家庭に持ち帰り、夜遅くまでかかって仕上げる毎日だった。睡眠不足で疲労が蓄積し、電車を乗り過ごしてしまうこともしばしばだった。そのために、出勤時刻に間に合わず、時間休暇を取ったこともある。肉体的に限界を感じ、辞職を考えたのである。

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(就寝時刻が)2時、3時はこれ、ざらですよ。それで、朝は6時には言えを出なあかんわけや、間に合わへんねんや。寝てる時間、何時間や。単純に考えても答えでますでしょ。学校へいっても、授業のないときは、ぼーっとしてますよね。精神的にたるんどるといえばたるんどるんかもわからんけど、一日、二日やったらたるんどると言われるかもわからんけど、毎日、ずーっと続いたらたるんどるどころじゃない。これは放っといたら自分の中で(聞き取り不能)。それが、ちょこちょこ現れたのは、電車に乗って通勤の途中にね、降りるのが気がつかず、忘れちゃうんですね。乗り越してしまうんですね。そんなの、何回もありましたね。で、また、バックしてこなならんし、(聞き取り不能)、また乗り過ごしてしまうし、これは大変、学校に遅れるしね。学校側にそんなこと、いわれへんし。時間休やというかたちで迷惑がかかるわけやけどね。自分が授業ができないんじゃなしに、体がついていかないということになりますとね、これ辞めたほうがいいという、それでまあ、辞めるとなったわけやけどね。




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(13) 授業準備に生徒の目と手を借りる ――あんたがやらな誰がするねんと言われてね

退職を思いとどまったきっかけは、ある同僚教師からの言葉だった。視覚障害者として教壇に立った限りは、物理的な困難を乗り切る工夫が必要だし、その工夫は本人が考えるしかないというのである。


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ある教師のほうから、僕が辞めるというときに、三宅はん、それは今、辞めたらあかんでという言葉から始まって、説教をされているんでしょうけどね。そのときに、それを聞いて、なるほど、そこやったんや、それをやるために物理的にもついていかれへんねんやと言うたけれど、それは自分で工夫せなあかんねんや、誰も、本人さんいわく、なんぼ僕が逆立ちしてやってあげようと言ってもこれは自分には考えられへんと。それは三宅さんがやってやらなあかんねん。障害者として最初に立ったんやから、それはもう、あんたがやらな誰がするねんと言われてね。誰もでけへんぞって。

それまでの授業のやり方では準備に時間がかかりすぎて、過剰な負担に耐えられなくなることはわかっていた。それを回避するために、授業の準備方法を転換する。生徒たちや同僚教師たちに理解と協力を求め、新しい授業方法を模索した。


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(教師を)辞めないでいくためには、自分の授業の方法を大転換しましたよ。それをやらんことには、まともにやっていたら時間が足らないねんもん。また、睡眠、2時、3時になるでしょ。勿論、時間は2、3時間かかってましたけどね。内容的にも、余裕というよりか、時間をかけても十分に余裕ができるような状態に、そうするためにはどういう方法を取れば、学校内で、どういう方法を生徒たちにも頼み、職員たちにも協力をお願いするか。それについての、自分自身は青写真を作らなければいかんでしょ。それを立てて、うまくいったために、辞めないで、そのまま継続できたんですね。

三宅先生は授業の準備をすべて自分一人でしており、それにかなり多くの時間を割かなければならなかった。そこで、授業の準備から生徒たちに参加させ、生徒たちの目と手を借りながら授業を作っていく方法を取り入れた。授業準備も効率化され、生徒たちもより深く授業に関わることができる。しかし、三宅先生に協力的な生徒たちと教師に反発を覚えている生徒たちとの間で軋轢も生じているようだった。


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【中村:先生がおっしゃっているやり方というのは、授業の教材を作っていくところから生徒に関わらせるというやり方ですよね。】

そうです。これには相当、(同僚教師からの)抵抗がありましたね。生徒たちは抵抗がなかった。生徒間同士においてはお互いに反目があったらしいような気がするんですよ。やっぱり中学生やからな、教師とともに行動する側の姿を見ているのを見てですね、快しとせんやつがおるわけや。教師てな何じゃいやというひねくれた連中ね、そういう連中からすると、やっぱり生徒たち同士で軋轢があったようなことを聞いたような…。それは生徒が具体的には言えへんけどね。授業の中で現れてた(聞き取り不能)、それはわからん、それはもう個人の心の中やからな。生徒の動きの中で、それがそれやった、あれがああやったということは言えば言えるけど、それがそうであるかどうかはわからんしね。そうこう、そんなことしている連中やけど、こちらの呼びかけに応じて、手伝いにきよるしね。

授業準備に生徒たちを参加させるという発想は、アメリカで視覚障害をもつ小学校教師と面会したときに聞いた話が手がかりとなっている。その女性教師は小学校2年生や3年生の担任であったが、学級経営の様々な場面で子どもたちに手伝わせ、子どもたちと一緒に学級を作り上げているというのである。


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僕は、ただ、一つの手がかりになったのは、あの教育方法がアメリカで教えてもらったんですわ。アメリカに渡ったときにね。あの、向こうの女の、女教師がこっちを激励、半分、はっぱをかけたつもりで言うたんだろうけどね。

【中村:アメリカの視覚障害教師の視察というか、調査に行かれたときに会った視覚障害のある女の先生ですね。】

そのときに教えてもらったんやけどね。ええっ、そんなことを…、そやけど、よう考えてみたら、そうか、小学校の低学年では学級経営をするために、教師が勿論やるんだけども、それには生徒たちも、小学校2、3年生の段階ですわ、2、3年生の段階で担任の教師のいろんな学級経営に対する手伝いを生徒がするということやったことを覚えてますねん。そういえば、これ、よう似てるな。それを中学校でやるにはどうしたらええやろ。学級経営するのとちゃうねんで、これ、授業やでと。それはなかなか工夫はつかなかったけどね。まあ、あれからできるようになったんですけどね。それを実行するためには、教師にも理解してもらわないかんし、生徒側も何でということになるからそれにも言わないかんし、ちょっと最初は説明と協力のために時間を取ったけどね。

同僚教師の中には、三宅先生のこのような授業のやり方をあまりよく思わない人もいたという。生徒側の立場に立つような発言や行動を嫌味に感じる教師もいたようで、生徒たちと一体になって授業作りをする三宅先生のやり方は生徒に肩入れしているように映ったのかもしれない☆2


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教師側にしてみると、そういうふうな(=生徒と一緒に授業準備をするような)生徒との関わり方については反対というか、それはあまりよくないという…。われわれも見えているころはね、生徒の側に立ってものを、何でもその生徒側にたってものを言うとするでしょ。それはやっっぱり教師としては嫌味に聞こえるんでしょうな。それで、がーっと意見が合わなくなっちゃうわけね。で、それに対してこっちもなにっ、というようにやったら、生徒が(聞き取り不能)、若いから。じっくりと話すりゃ、わかるんやけどな。とうとう、わからんじまいやったけどな。

授業準備に生徒たちを参加させるやり方は、同僚教師たちからも賛否両論があり、生徒たちに動揺を与えることもあった。しかし、そのやり方は生徒にとって有効な授業のあり方であるという確信があった。困難も多かったが、同僚教師たちや生徒たちの理解と協力を得て、新しい方法が徐々に構築されていった。それをしっかりと確立したものとするには、定年退職するまで後3年間欲しかったと三宅先生は振り返る。


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もう、(同僚教師からの)反目もあれば、同情もあって、そらもう、反対というのも(聞き取り不能)。その代わり、生徒たちの動揺もありましたね、生徒間の中でも。一番しんどかった、あれやってるのが。辞めようかと思ったときのほうが、まだ楽やったかわからんわ。けど、そのしんどさは、せんなならんという、この方法が絶対に生徒のためにも、教師の基本的な授業のあり方というのにこれに間違いはないんやという確信があったしね。だから、しんどくてやめようというのは起こらなかったです。もう、とにかくやり遂げようと。定年退職の60歳になる年の間際まで、もう後3年、後に与えてくれたらな、これ実現するのになっていうことを言うたことがあるな。それももたれへん、定年退職は歴然たるものやからね。後3年欲しかったなあということでね。




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(14) アシスタント ――僕と職員とのぶつかる間に入っている人がおる

視覚障害者が教師の職務を遂行するにあたって、独力では物理的にできないことや、できても非常に手間と時間がかかることがある。三宅先生も墨字の資料は見える人に読んでもらわなければならなかったし、大量の仕事をこなすのには非常に時間がかかった。しかし、物理的なしんどさは自分で引き受けて乗り越えていくしかないと考えていた。


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(仕事をこなすのは)物理的には大変、物理的にはね、量の問題ね。量をこなさなあかんからね。見えないから資料を読んでもらう、これ、読んでもらわなければしょうがないわけね。見えないというのは、そういうの、もうどうしようもない。読んでもらうことは物理的なもので、精神的なものと違いますからね。そういうしんどさは、これは乗り切らなしゃあない。

視覚障害をもつ教師が、独力で他の教師と全く同じ仕事をしなければならないとしたら、物理的な困難に突き当ったり、負担が過剰になったりすることは避けられない。そこで、障害を保障するために様々なサポートが必要となる。サポートとしては、設備・機器などの物的サポート、アシスタントや同僚教師による人的サポート、担当授業時数や校務分掌の軽減などの職務配慮が考えられる。三宅先生も、物理的な困難や仕事の過剰な負担を軽減するためには、適切なサポートを受けるという方法もあることは知っていた。同僚の中からもサポートをつけたらどうかという声も聞かれた。しかし、三宅先生は自分の授業にアシスタントをつけることは求めなかった。アシスタントがつくと物理的には楽になるのは確かだ。しかし、アシスタントの存在が職場の人間関係に及ぼす影響を懸念した。一つは他の同僚教師との関係であり、もう一つはアシスタントとの関係である。三宅先生に専属のアシスタントがつくとどうしても他の教師たちとの直接の関わりは希薄になる。三宅先生と他の教師たちとの間にアシスタントが介在した人間関係になってしまう。自分を理解し、協力してもらわなければならない同僚教師たちとは、間接的ではなく、直接的な人間関係を結ぶことが必要だと考えた。また、アシスタントが授業に入った場合、自分が展開しようとする授業とアシスタントが考えている授業が一致するとは限らない。授業の方針に齟齬をきたしたときに、アシスタントはそこから立ち去ることもできよう。しかし、障害をもつ教師は授業を放棄することはできないし、アシスタントとの関係を断ち切ることも難しい。そうなったときに、かえって精神的に大変な思いをし、やりづらくなるのは自分だと三宅先生は考えたのである。この考えは同僚にも支持された。

《tr.2-39》

そういうこと(=アシスタントをつけて仕事をすること)を知ってましたよ。で、同僚の中でもそういう言葉が出ました。出たけども、それが出たとき、何を考えていたかと言うたら、そういう経験はないんやけど、やってないからね。それをやった場合に、アシスタントにそういう誰かそういう介添え者がついた場合に初めはいいけども、何年かしているうちに、その先生を通して、その向こう側に、その周囲に一般の職員がおると。自分と職員と直接ぶつかっているんじゃなしに、僕と職員とのぶつかる間に入っている人がおると。この人間関係はまずいと思ったわけや。これをやるとね、一見、いいように見えるけれども、この、まず人間関係、人間関係というのは果たしてどういうかたちでそのアシスタントを選ぶかということやけど、僕は選んだことはないけども、今現在、選ばれているのは全部あてがいぶちでしょ。こっちから選んだんと違いますよ。その度に、その人との気が合うか、合わないか、いろいろあるでしょう。どんなことを考えているかわからん。そういう人たち、同じ教壇に立っていても、立つ場合があったとしてもね、そういう人に教壇に立ってもらうのは、これは仕事の内容と違ってくるけども、立ってもらった場合には、その人がどういうつもりで教壇に立つかということになっても、自分とは違うわけ。必ず同じではない。だから、そういう人が間になった場合に、一番、やりにくく感じるのは自分やと。相手の人と違うと。相手の教師は、そういう存在やから、辞めようと思ったら辞められるわけや。一番中心になって僕は、生徒との関わりを中心にしてるわけや。一番困るのはこっちやからな。職員からそういう話が出てましたよ。そのとき、そういう話をぱっとしたんですわ。ほな、その先生方は、なるほどそうやなということで、そういう相槌を打ってくれたわけや。それは三宅さんの言うとおりやと、それは大きな問題があると。だから、もう要求しないということのほうが、われわれも正解やと思いますというようなことを言い出したからね。

アシスタントなどのサポートを受けずに仕事をこなすのは、現実的にはかなり大変だった。しかし、サポートを受けて物理的な負担を軽減することと、アシスタントとの間に軋轢が生じたときの精神的な負担を天秤にかけた場合、三宅先生は後者を軽く見ることはできなかった。物理的な負担は他に補う方法を工夫することもできるが、精神的な負担は他の方法で補うことは非常に難しいという。安易にアシスタントをつけることの危険性を三宅先生は強調する。だからといって、障害をもつ教師がアシスタントのサポートを受けることを否定しているわけではない。アシスタントをつけるなら、障害をもつ教師自身がアシスタントの存在をどのように位置づけ、アシスタントのサポートによって生徒にどう関わろうとしているのかというビジョンをしっかりと持っておくべきだと考えている。これは、視覚障害教師の道を切り開いてきた三宅先生から後に続く障害教師たちへの厳しくも暖かいアドバイスであろう。

《tr.2-40》

実際はそれ(=アシスタントをつけずに仕事をすること)は大変なんですよ。それはそういう人(=アシスタント)がおったほうが物理的には楽なんですわ。物理的には楽やけど、精神的には問題にぶつかるぞと。そういう問題があったから、僕は、精神的なほうがこわいと。物理的なことは何としてでも、まあ、金で、金で違うけど、まあ、金で商売するわけやから。精神的なものは、なかなか代償といっても精神的なものはそれを償うということは大変やけどな。物理的なものはできますよ。そういうふうに考えたわけよね。だから、いまだにそういう気持ちもなきにしもあらずですよ。勿論、だからといって、アシスタントを否定しているわけじゃないんです。だから、アシスタントをもう少しお願いするということであれば、そのアシスタントについてる、もろに受けるのは誰やといったら、自分だぞと。要するに、あんたはどう考えてるねんやと。自分はそのアシスタントとどう向き合っていこうとしているんや、それで生徒をどういうふうに動かすつもりやと。そのときには、やっぱりビジョンをきっちりと持っているかと。そのビジョンがなかったら、うっかりとそんなアシスタントなんか、はいはいなんて受けるなというのが僕の考え方なんですよね。受けたら、最終的にはしんどい思いをするのはあんたやぞと、本人やぞということになるわね。まあそういうことは言うたら、まあ、誰にも言うてませんよ。これ、今日、初めて、これ、しゃべってるのはね、今、こんなことを言っているのは。今まで、アシスタントの話は出ましたけどね、それは言うてない。言わないけど、かねがね心の中ではそういう思いもありいの、僕が現職のときにやったときも、そういう話も出たときに、そういうことを考えて、他の先生方も、全員じゃなかったけども、まあまあ、それに同調、先生のその意見に賛成やということで言ってくれたので、(聞き取り不能)うけて、やったと。その代わりしんどかったですね。

インタビューを終え、ご自宅を出るときに、三宅先生から1冊の本を手渡された。全国視覚障害教師の会が1987年にはじめて世に問うた教育実践集『心がみえてくる――普通校における視覚障害教師の実践記録』だった。私はかつてこの本を持っていた。しかし、失明し、教職を辞したときに、もう自分では読むことができなくなった蔵書をほとんど捨ててしまった。この論文を書くのに不可欠な文献として、ありがたくいただいて帰路についた。



【注釈】
☆1
「第5章」の☆5参照。
☆2
今回のインタビューでは詳しく聞くことができなかったが、三宅先生に対する同僚教師たちの態度については次の機会にはぜひ伺いたい。



*作成:小川 浩史
UP: 20181224 REV:
中村 雅也  ◇視覚障害  ◇盲ろう(者)  ◇障害者と教育  ◇全文掲載
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