つかもとよしつぐ映像作品『電信柱、センチメンタリズム』レビュー
村上 潔 2012/12/10
last update: 20151227
つかもとよしつぐ氏の映像作品上映企画《電信柱、センチメンタリズム 〜竹村正人君とともに〜》(2012年12月9日 於:チタチタ喫茶)【リンク省略】に参加しました。
posted at 00:25:53
《電信柱〜》:最初の上映作「One Windy day」は、まるでStatic(http://www.static-music.com/)のエレクトロニカ作品のPVのようだった。一転、「あじさいの咲くころ」は、初期のサニーデイ・サービスの曲を流したいような、若者像に忠実な抒情的・憧憬的映像詩篇。
posted at 00:32:22
《電信柱〜》:「アビリョの妻〜」は、ジョナス・メカスを髣髴とさせた。旅の追憶? 墓地への執着。めまぐるしいカットによる幻惑。「電信柱〜」は、フィッシュマンズが(Walking in the〜などで)提示した東京の空と道を辿る線を描き出したかのよう。夏の日、追憶と感傷が挿入される。
posted at 00:39:25
《電信柱〜》:「錆び」は極めてオーソドックスな実験的佳作。とはいえ、主題材に硬質性や鋼物性を微塵も感じさせない、明るく反転したような色調と、背景のぼやけた情景が次々と転換していく様は個性的。「キリンの夢」はダンス・パフォーマンスの記録。詩の朗読音声が発する変化の機敏に注意が向く。
posted at 00:45:56
《電信柱〜》:「静物画」は、今回上映されたもののなかで、最も物質の存在への執着を表した作品。形状の差異への注目と愛着。そこに力を加えたい欲求と、それに反する精神と。自己の逡巡とありふれた物質との対話の過程のドキュメント。変化は唐突に訪れるが、しかしそれは変化であるのか、と問う。
posted at 00:50:10
《電信柱〜》:アフタートークで、ゲスト竹村正人監督は、「つかもとの作品は映画館で座ってスクリーンを見つめるものではなく、人が流れる場所で観客自体も動きながら感じる作品だ」と指摘。妥当。つまりはインスタレーション的に受容されるのがもっとも適した形態だろう。ある程度の空間が必要だ。
posted at 00:53:37
《電信柱〜》:つかもとが作品で使う(自作)の音楽は、わかりやすいエレクトロニカ/アンビエントだが、そのことも、非−映画的鑑賞法と親和性が高い要因だと思う。映像も、エレクトロニカ作品のPVにできるような作りのものが多い。多分に、音楽から逆算して映像を撮り/編集しているように思える。
posted at 00:57:03
《電信柱〜》:結論から言うと、つかもとよしつぐは光と粒子をこよなく愛する作家である。色のにじみも重なりも、明るい光のパレットの上で表現される。主たる構成要素である「女性」の描き方も同様だ。そして闇は存在しない。ゴシックな表現もない。音楽もドローンにはならない。徹底したスタイルだ。
posted at 01:02:05
《電信柱〜》:付言すると、つかもと氏の作品は実験映像作品という範疇にはあるが、求道的な実験精神や、アンダーグラウンド精神は微塵もない。深い一途な「私語り」もなく、あくまで自己相対化的。90年代以降のリミックス文化の文法・文脈を土台として様々な表現を試みているのだろうと想定される。
posted at 01:10:23
◆つかもとよしつぐ映像作品『電信柱、センチメンタリズム』上映会
(2012年12月8日・9日 於:チタチタ喫茶)
http://titatitafanclub.blogspot.jp/2012/11/blog-post_22.html
http://okabar.exblog.jp/19244231/
*作成:村上 潔