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「障害者から見た労働」

青木 千帆子
2012/9/2 第29回共同連全国大会東京大会 自主講座:社会的経済と社会的事業所

last update:20131004


  当日の流れ
1.資本主義と労働力 堀(共同連代表)
2.障害者から見た労働 青木(立命館大)
3.コミュニティ経済の担い手としての連帯経済と労働 北島(立教大)
4.反新自由主義としての社会的経済と労働政策 花田(熊本学園大)

  1.はじめに
 はじめまして、青木千帆子と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私は2002年度から3年間授産施設、いわゆる福祉的労働の場で働いておりました。授産施設での仕事は一般企業の下請けの下請けを授産事業振興協会の言い値で引き受けており、やればやるほど赤字額が増えるようなものばかりでした。その後大学院に戻り、障害者の労働について研究することになりました。博士課程では、一般企業、つまり生産性を前提とする場での調査を実施してきました。このように私は、障害者の労働に関して福祉的就労、一般的就労の双方を経験してきました。現在は、共同連をはじめとする障害者の労働権保障に取り組んできた人々の議論と運動の歴史をたどるための調査をしています。
 本日この企画を主催された堀さんから私に与えられた報告テーマは「障害者から見た労働」ということでした。ですので、まずは障害者の立場から労働がどのように論じられてきたと私が理解しているのかを報告したいと思います。

  2.障害者による労働をめぐる議論
 障害者の側からなされた労働に関する議論の中で、もっとも先鋭的な主張の例としては、1970年代に日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」によって唱えられた「障害者にとって生きること自体が労働である(全障連, 1976)」というものがあげられます。この主張は、「働けない身体」そのものを社会的に認めさせなければ、障害者の解放はありえないという認識に基づくものでした。そして、障害者は「働けなくてなぜ悪いという開き直りが必要である」と提起され、賃金労働を求める障害者の要求の中にある「健常者幻想」を自己批判すべきだという主張が導き出されました(横塚, 1975=2007)。労働を否定する主張の背後にあったものは、生産性を根拠に存在の価値を評価されることの拒否でした。
 しかし、労働を拒否し地域で点々と暮らすだけでは、地域社会で対等な関わりを見出すことは困難です。障害者自立生活運動を通して要求されたことは、「施設機能の地域への開放ではなく、施設で生活する人が地域の一住民としての評価そして存在感を回復していくこと(笠間, 1991)」でした。このため80年代になると、「『障害者』を適応させるのではなく、『障害者』に労働を合せること(姫岡, 1981)」という記述にみられるような、新しい労働を作ろうとする取り組みが現れました。それは、生産性を至上価値とする労働のあり方を否定するだけではなく、労働に新たな価値や意味を付けることで新しい評価軸を生み出し、対等な参加を実現しようとするものでした。
 しかし、1990年前後になると新しい労働を作ろうとする取り組みは経済的な問題に行き当たります。「効率を気にせず働いてかせぎだせるはずはなく(なまずの会, 1987)」「思いだけでは腹もふくれん。高い分配といっても生保を下廻るようではメシは食えん(筆者不明, 1994)」「(このままでは)効率の悪い者がはじきだされかねない(なまずの会, 1987)」。共同連は、この頃から中央省庁へ分配を補助する仕組みとして「賃金保障」を求める働きかけを始めています。
 また、1990年には米国でADA法が制定されます。これは、「職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者」への差別を禁止し機会の均等を唱えるもので、とりわけ重度障害者の労働に関して議論をしてきた人々に衝撃を与えました。そしてADA法以後、能力のある障害者に対する就労支援制度は充実していきますが、そうでない者は福祉的就労へとふりわけられます。また、この頃から労働そのものに関する議論は停滞し始め、現在もこの状況が続いていると私は理解しています。

  3.わっぱの会の理念と実践
 さて、私はわっぱの会にお邪魔したり共同連に関する資料を拝読したりすることを通し、そこで労働や障害者という概念がどのようにとらえられているのかを見ようとしています。しかし、実際に現場に滞在しておりますと、たてている問いそのものが成立しなくなるような混乱を経験します。例えば、パン工場で働く人々の間には「健常者」「障害者」という区別のしかたがあまりみられません。そして仕事をすると想像できないほど重度の人が働いていたり、働きにきているはずの人がただ突っ立っていたり、突っ立っていたと思えば一瞬だけ働いたりします。
 また、わっぱの会の取り組みにおいては、パンに代表される生産物を商品として売っていますが、そこから得られる所得は分配し、労働は商品として扱わないことになっています。能力や貢献に応じた分配ではなく、能力や貢献に関わりなく等しく分配すること、これが労働を商品として扱っていないことのあらわれであるという理解でよろしいでしょうか。しかし、組織の内部では労働を商品として扱わないことになっていますが、組織外とのやり取りにおいてはパンやその他生産物を個人から切り離して商品として扱い、再生資源を処理する作業を商品として貨幣と交換しています。つまり、わっぱの会の実践においては、ある文脈ではパンやその他生産物、そして商品を作るための労働力を個人から切り離して商品として扱っていますが、別の文脈ではそれらを個々人の関わりの中につなぎ留め、生活や労働を共有する人々の間で贈与、分配しています。
 ですから、わっぱの会は「パンという商品を売るが労働力は買わない」と理念を表明することで労働を商品としない姿勢を示しています。しかし、実際の取り組みには、労働力を商品とする可能性と労働力を商品としない可能性双方が潜在しているといえます。そして文脈に応じて商品世界に参入したり退出したりすることで、生産物を商品として売る可能性とそうでない可能性、そして労働力を商品として売る可能性とそうでない可能性、双方が存在することを前景化している。
 例えば、わっぱの会のメンバーはインタビューに際し次のように語っています。

(わっぱで働く理由は)皆で一緒にいたい(だけ)。ただ、障害者と健常者が一緒に働くという点では揺れるものがある。理念通りにはいかない。たくさんできる人とちょっとできる人とがいて、一緒にやればできることも多いけど、いつも一緒にできるわけでもない。(2011年2月24日のフィールドノート)

 ここでは、相互扶助や贈与関係を前提とした生活共同体での暮らしを肯定しつつも、労働に関しては労働を単に贈与的なものとすることへの迷いや、理念だけでは事業が成立しないことが述べられています。
 もう一つインタビューをご紹介します。この方は、以前は生活共同体で暮らしていましたが、お子さんが生まれたことで一旦生活共同体を離れている方です。ただし、生活の場を離れただけで、現在もわっぱの会で働いておられます。

(生活共同体を)出たら楽になった。自分たち(家族)のことだけを考えていればよい気楽さがある。でもまた戻りたい。みなと一緒の生活の方が楽しい。[…]一緒に暮らしたり働いたりすることで(、彼らが障害者であれ健常者であれ)気になる存在になる。(2011年2月24日のフィールドノート)

 ここでは、相互扶助や贈与関係から離れた開放感を述べつつも、同時に生活や労働の場が単に商品を交換する場となってしまうことの欠乏感も述べられています。
 このように、わっぱの会のメンバーの語りからは、生活の場や労働の場へ出たり入ったりすることが可能であること、また、そこに所属する人々が、生活や労働がどのような要素で埋められるべきか、どのような意味づけをすべきかを固定して考えず、迷いながら流動的にその時々の暮らしを成立させている様子がうかがわれます。

  4.商品世界に参入すること、退出すること
 少し視点をずらして、商品世界に参入すること、退出することについて考えてみたいと思います。障害者自立生活運動は80年代以後、介助者市場の確立と制度化へ向けて公的介護保障運動を展開してきました。これは健常者の善意や良心に頼って障害者が介助を受けるのではなく、障害者が「消費者」としてサービスを購入することで健常者と対等な関係の下で介助が行われるためにとられた戦略でもありました。一方で介助者の側も、これまで家事労働として賃金の支払いの対象とならなかった介助を、賃金を支払うべき労働商品とする方向へ進んできました。
 しかし、このような取り組みは疎外論を地で行く現実にたどり着きつつあるのではないでしょうか。人々の温情に訴えて生きていくことしかできない立場からの解放は、サービスを購入する費用の保障のみが社会の取り組みとされる現実へ。そして、働いても働いても経済的に従属する位置しか与えられない立場からの解放は、自らの労働を商品として売ることしかできない現実へ。とりわけ私たちの世代にとって、自らの労働を商品として売る以外の選択肢を想像すること、あるいは自らの労働を商品として売る以外の選択肢を存在させる余地があまりありません。
 わっぱの会の取り組みや、公的介護保障運動の取り組みの現状を鑑みますと、これまで問題とされてきたのは、自身の労働や生産物の意味づけや取扱いが自らの意思とは別に他者によって規定され、固定して扱われてしまうことだったのではないかと考えられます。例えば、自らの意思とは別に労働が商品として認められず賃金が支払われないこと、自らの意思とは別に労働が商品として自由競争市場にさらされ安く買いたたかれてしまうこと・・・。
 わっぱの会や共同連は、ある人の労働に商品価値があろうとなかろうと、それを労働と認め生存を保証しようとしてきました。そして共同体主義的な理念を唱えつつ、自由主義経済の中で事業を続けるための努力と適応の過程を経験してきました。しかし、この取り組みは同時に、ある人の労働に商品価値があろうとなかろうとそれを商品として扱う経路を確保することでもあります。また同時に、ある人の労働に商品価値があろうとなかろうと、それを労働と認め生存を保証することで、時には労働を売り、時には贈与し、時にはなにもしないことも可能にしている。つまり、共同連の取り組みは、個人が商品世界に参入したり退出したりすること、あるいは労働を交換したり贈与あるいは分配したりすること、あるいは自由主義と共同体主義、このような運動が否定しているものと肯定しているもの双方の間を行き来する経路を開き確保してきた。このことによって、生産物を商品として売る可能性とそうでない可能性、そして労働力を商品として売る可能性とそうでない可能性、その双方が存在することを前景化し、また、その場にいる人々に、迷いながら自らの実践を流動的に適応させることを可能にしています。
 本日の自主講座のテーマは新自由主義、市場原理主義に対するオルタナティブとしての社会的経済、連帯経済、そしてその活動の場としての社会的事業所についてと伺っています。私の意見は、どちらか一方か、どちらがいいか、ということではなく、どちらか一方に固定されてしまうことが問題なのではないかというものです。そもそも共同体運動とは労働市場が成立した後に、その存在を前提にそのオルタナティブとして発生したものでした。贈与や分配が前提とされる環境へのオルタナティブとして自由や解放が謳われ、交換や競争が前提とされる環境へのオルタナティブとして共同や連帯が謳われる。障害者による労働をめぐる議論、わっぱの会での実践、そして私自身の労働を振り返ってみるならば、これら議論に共通する核心の一つは、自身の労働や生産物への一方的な意味づけやとりきめの拒否だったのではないでしょうか。
 共同連の取り組みは、私たちの労働やその生産物が単に交換するための商品としてあるのではなく、そうでない可能性や別のあり方が潜在していることを示してくれます。あるいは私たちの労働やその生産物が単に贈与するためのモノとしてあるのではなく、そうでない可能性や別のあり方が潜在していることを示している。そして、わっぱの会や共同連に関わる人々に労働の意味づけを選択する余地を残している。私は、この点が共同連という運動体の取り組みの優れた特徴であると考えており、もし社会的事業所という制度によりこのような場の可能性が広がるならば、それは希望といえるのではないかと考えています。

  5.文献
姫岡和夫 1981 「国際障害者年を機に「障害者」の自立と完全参加を求める大阪連絡会議」『季刊福祉労働』. 10, 94
笠間ゆき子 1991 「自立生活に向けて施設で何ができるか」『季刊福祉労働』. 51, 52-67
なまずの会 1987 「「共に生きる場」「働く場」づくりの現段階」『季刊福祉労働』36: 135-139.
なまずの会 1987 「誰もが地域で生き合うために 創りだそう!ともに働き、ともにくらす場を! 全国障害者解放運動連絡会議」『全障連第12回全国交流大会基調・分科会基調・レポート集』騒々社
筆者不明 1994 「滋賀大会参加者からの感想」『共同連ニュース』45:5.
横塚 晃一 2007 『母よ!殺すな』,生活書院
全国障害者解放運動連絡会議 1976 『全障連結成大会報告集』長征社



*作成:青木 千帆子
UP: 20120903 REV: 20131004
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