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「生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶」(連載)
毎日新聞(地方版:熊本) 連載14〜
http://mainichi.jp/area/kumamoto/index.html
last update: 20130109
◆目次
◇
14 社会復帰1
/
15 社会復帰2
/
16 社会復帰3
◇
17 娘1
/
18 娘2
◇
19 再び恵楓園へ1
/
20 再び恵楓園へ2
/
21 再び恵楓園へ3
◇
22 提訴1
/
23 提訴2
/
24 提訴3
/
25 提訴4
◇
26 壁を越えた日1
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27 壁を越えた日2
/
28 壁を越えた日3
/
29 壁を越えた日4
◇
30 宿泊拒否事件1
/
31 宿泊拒否事件2
◇
32 妻の死
◇
33 保育所1
/
34 保育所2
◇
35 菊池事件1
/
36 菊池事件2
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/14 社会復帰/1/熊本(毎日新聞 2012年05月22日 地方版)
◇退所目指し治す決意
《恵楓園に入所して10年ほどがたったある日、弟が突然訪ねてきた》
真剣な顔つきで「ハンセン病って感染症だよなあ」と聞くんですよ。当時、弟には結婚を約束した女性がいたんですが、相手の両親に私のことを話したら、先方はかかりつけの医師に相談したんですね。すると医師は「ハンセン病は『遺伝性』の病気だから結婚は認めちゃいかん」と言ったと。ハンセン病が遺伝することはありませんから、むろん全くの誤解です。
そもそも原因となる「らい菌」は感染力がとても弱いうえに、既に特効薬は開発されて当時は「治る病気」になっていた。まだそういうことを言う医師がいるのかと、がく然としました。
《2人は結婚したが、女性の両親の同意は最後まで得られなかった》
相手の両親は「この結婚を認めると親戚から八分(はちぶ)にされる」と言ったそうです。このままではいかんと思いましたね。私には弟と妹が2人ずついますから、他のきょうだいの結婚にも影響するんじゃないかと。
私は最初に梅毒と誤診されて症状が悪化したため、「らい菌」がなかなか陰性にならなかったのですが、絶対に治してやろうと思いました。そうしたら自信がついて誰にでも堂々とものを言えるとも思った。社会復帰を目指して本格的な勉強や準備を始めたのはそれからです。
【聞き手・澤本麻里子】
http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20120522ddlk43040547000c.html
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/15 社会復帰/2/熊本(毎日新聞 2012年05月29日 地方版)
◇15年目の退所、養鶏始める
《1962年7月、医師から園内放送で呼び出された》
何だろうと思って行ったら「『らい菌』が陰性になったから社会復帰の準備を始めていい」と。その医師とは、よくけんかしよったんです。入所して10年以上、薬を飲んでいるのに治らないから「やぶ医者。悔しかったら隔離を解け」って怒鳴りつけたりしてね。本音でぶつかり合った仲だけに、その時は抱き合って喜びましたよ。差別に偏見、ひどい神経痛に悩まされて「死んだ方がまし」と思ったこともありましたから、「やっと『人間』に戻れる」とうれしさでいっぱいでした。
《退所に備えて準備は既に進めていた》
一番の課題は「自立」に不可欠な仕事です。私は手に後遺症があったからハンセン病の過去は隠せないし、普通の企業は雇ってくれないだろうと考えました。そこで何年も前から養鶏の専門誌を購読して社会復帰の準備を進めていたんですよ。父親に報告したら喜んでくれて「大学に行けなかった代わりに」と、土地の購入費を支援してくれました。
ただ、妻はなかなか納得してくれなかったですね。彼女は私より先に陰性になっていたんですが、もともと体が弱かったこともあって「外に出て生活することに自信がない」と言っていました。差別されることへの不安もあったんでしょうね。私は「療養所にいるから悪いことばかり考えてしまうんじゃないか」と思っていたので、あえてどんどん準備を進めて最後は押し切るような形で。翌63年に合志市内で養鶏を始めました。30歳の時です。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/16 社会復帰/3/熊本(毎日新聞 2012年06月05日 地方版)
◇自分の足で立つ喜び
《恵楓園を退所後に始めた養鶏。朝から晩まで働いた》
ひなから成鶏まで1万羽以上飼育していたので毎日忙しかったですよ。100メートルもあるホースをかついで14棟ある鶏舎の中を消毒したり、夜中に何度もひなの様子を見に行ったり。妻も餌やりや鶏舎の掃除、卵の選別を手伝ってくれました。
きつい仕事でしたが、自分の足で立っている、社会の中で生きている実感がありましたね。体はしんどいはずなのに、体調も不思議と安定していました。
《退所後、自分がハンセン病だったことは一切隠さなかった》
養鶏場を始める前に、地元の区長にあいさつに行ったんです。「私は恵楓園にいたけれど園長から許可が出て社会復帰してよいということになりました。集落の外れで養鶏をやるので、よろしくお願いします」と。正面からお願いしたら相手も「だめ」とは言いづらいだろうと思ってね。
集落の人みんなが受け入れてくれるという、夢みたいなことは最初から考えていませんでした。ただ、1人でもいいから話をしてくれる人がいればそれでいいと思っていた。実際仲良くなった人もいましたよ。作った野菜をよく持って来てくれるから、こっちはひびが入って売れない卵を渡したりしてね。私がざっくばらんに何でも話したのがよかったんでしょうね。人とのつながりが徐々に広がっていきました。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/17 娘/1/熊本(毎日新聞 2012年06月12日 地方版)
◇新しい家族増える
《恵楓園を出てから6年後の1969年、家族が1人増えることになった》
事情があって親類の赤ちゃんを養女として育てることになったんです。妻には恵楓園で堕胎させられた過去がありますし、2人とも戸惑いがなかったわけではありませんが、実際に家に来てみると、やっぱり可愛かったですね。妻が一生懸命ミルクをあげて、娘はだんだん大きくなっていく。そのうち歩き始めて、言葉を話すようになって。3歳からは私が毎日ピアノを教えました。
ただ、可愛がるだけではやっぱりいかんなと。人より体が大きかったので「弱い者いじめだけはするな」ということは厳しく言ってました。だから、ちょっとでもいじめられている子がいると飛んでいって、男の子とけんかしたりするような活発な子になりました。
《娘の成長はうれしかったが、不安もあった》
一番心配したのは両親がハンセン病だったことで娘が周りから差別されるのではないかということです。そこで一計を案じて、地元新聞社の読者欄に難しい哲学や法律の話、農業の課題なんかをいっぱい書いて投稿しました。そうしたら、いつの間にか「あそこの親父はうるさいから子供をいじめたらとんでもないことになるぞ」といううわさが広まって。しめたと思いましたね。
ただ、娘に何もなかったとは考えていません。たぶん何とか耐えてくれていたんでしょう。「いじめられた」という相談を受けたことは一度もありませんでした。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/18 娘/2/熊本(毎日新聞 2012年06月19日 地方版)
◇親子の再出発
《娘には養女ということを伝えなかった》
隠していたわけじゃないんだけど、タイミングを逃して何となく先延ばしにしてしまって。本当は短大に入る時に言おうと考えていたんだけど、やっぱり言いそびれてしまった。内心困ったなと思っていた時、娘が就職関係で証明書が必要になってね。自分で住民票を取ったんです。それで分かってしまった。
「いつかきちんと言わなくては」というのは以前から妻と話し合っていました。ただ娘は私たちと違って何の心の準備もなかったので、その衝撃は大きかったと思います。
《娘は帰宅後、自室に閉じこもってしまった》
中途半端はいかんから、泣くだけ泣かせようと思って、しばらく放っておきました。何時間かたって「いいかげん出てきなさい」と言ったら、2階から暗い表情で下りてきてね。「確かに本当の親子ではないけれど、3人で20年間暮らした事実は揺るがない。養女だからといってこれまでの親子関係が変わるわけないだろう」と言ったら、泣きながら笑ってました。
その後は親子間で、しがらみはなかったですね。私たちはハンセン病の後遺症がありますから、いつまた体調を崩すか分からない。なるだけ早く自立してもらおうと、娘が将来何をやりたいのか、そのためには今何をすべきかということを全力で考えました。厳しいこともたくさん言いましたが、娘にも思いは伝わっていたんでしょうね。目立った反抗期もなく、きちんと大学を卒業して就職してくれました。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/19 再び恵楓園へ/1/熊本(毎日新聞 2012年07月10日 地方版)
◇治らない傷
《社会復帰して始めた養鶏の仕事は順調だった》
近所の団地のお客さんが卵を買いに来てくれて、それなりにもうかっていたんですよ。ところが、しばらくして高速道路の計画が持ち上がって移転することになった。集落から少し離れた場所だったから、採算を合わせるためこれまでより規模を大きくしました。鶏舎の消毒など力仕事をすることも増えてね。体力的に無理をすることが多くなりました。
そのうち元々悪かった膝のまひがだんだん広がってきてね。ハンセン病の後遺症で、すり傷ができても気付かないから、いつの間にか関節の中に菌が入ってしまった。これはもう治らないなと思って40歳の時に右足の切断手術を受けました。
《手術後も義足を付けて55歳まで働いた》
知人から「将来娘さんが結婚して、だんなとけんかした時に帰ってこられる家がないとかわいそうだ」と言われたんですよ。確かにそうだなと思ってね。私たち夫婦が安心して暮らしていけるよう思い切って合志市内に家を新築しようと働き続けた。引退を決めたのは娘の就職が決まったからです。
ただ、せっかく建てた家に住んだのはわずかな期間でした。3回目の足の手術を受けた後、傷がなかなか治らなくてね。恵楓園で診てもらったら緑膿菌(りょくのうきん)という細菌にやられてました。傷がひどいから義足は付けられないし、家もバリアフリーじゃないから車椅子生活はできない。自分で身の回りのことができなくなって、恵楓園への再入園を考え始めました。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/20 再び恵楓園へ/2/熊本(毎日新聞 2012年07月31日 地方版)
◇「生かされる」生活に
《手術した右足の傷がなかなか癒えず、恵楓園への再入園を決意した。社会復帰から27年がたっていた》
また恵楓園に戻ることになるなんて思ってもみなかったですよ。でも入院生活が何カ月も続いたら、あきらめみたいなものが生まれてきました。ちょっとずつでも良くなっていれば家で暮らし続けることを考えたかもしれないけどね。私たち夫婦の力だけで生活していくのはやっぱり無理だなと思いました。
戻るのを決めた時は、それまで築いてきたすべてをなくしたようで寂しかったですよ。だけど、こればかりはしょうがないと自分に言い聞かせました。
《妻は再び恵楓園で暮らすことに難色を示した》
病院に面会に来た時に伝えたら「私は入りません」って。彼女はハンセン病の後遺症はあったけど車の運転はできたし、日常生活で困ることは何もなかったから。そんな人が療養所で暮らす必要はないでしょう。当然の反応だと思いました。
社会復帰後、良い時ばかりではなかったけど、助けてくれる人もいて何とかやってこれた。これが「生きている」ことだと実感しました。恵楓園の中だと、すべてが与えられるだけに「生かされている」という気持ちがぬぐえないんですよ。彼女にはもう二度とそんな思いをさせたくなかったから「それならそれでよか」と言いました。ただ根負けしたのか、私が退院すると彼女も引っ越してきて、また恵楓園での暮らしが始まりました。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/21 再び恵楓園へ/3/熊本(毎日新聞 2012年08月07日 地方版)
◇らい予防法廃止
《1996年、ハンセン病患者を事実上、社会から隔離してきた『らい予防法』が廃止された》
強制隔離が始まったのは1907年だから、90年続いてようやく終わったことになります。特効薬も開発されていたのに、なぜ私たちが隔離されて暮らさざるを得なかったか。理由の一つは、病気が治っても社会の中に居場所がなかったからです。普通の病気であれば、治ったら自宅に帰る。ところが長い間「怖い病気」と誤解され、差別されてきたハンセン病患者は、その「当たり前」ができなかったんです。
「予防法があるから国に保護されて生活できてるんじゃないか」と言われたこともあります。でも誰が自分から好んで隔離されたいと思いますか。恵楓園には私を含め、故郷に帰った人なんてほとんどいません。そういうひどい状況を作ってきたのが予防法なんです。年を取ってから退所するのは難しいし、多くの人は断種や堕胎を強いられて、頼れる子供もいません。みんなここで後遺症の治療をしながら、静かに暮らしてるんです。
《ただ、廃止によって特に何かが変わることはなかった》
法律がなくなったからといって後遺症が消えるわけではないし、差別や偏見が解消されるわけでもないですから。そういえば、予防法が廃止になった翌日に園内にさい銭泥棒が来ましたね。それまでは物が盗まれることなんてなかったから、みんな家に鍵もかけなかったのに。「壁」がなくなったのを一番最初に理解したのが泥棒だなんて皮肉なものですね。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/22 提訴/1/熊本(毎日新聞 2012年08月21日 地方版)
◇無責任な国への怒り
《『らい予防法』が廃止された後も、恵楓園を出る入所者はほとんどいなかった》
長い隔離生活でみんな年を取ったし、ハンセン病の後遺症がある人も多かったですから、社会で働きながら暮らすことができる人が少なかったんですよ。加えて当時「社会復帰」する人に対する国の支援は、一時金150万円の支給だけだったことも大きかったですね。家族に迷惑をかけないよう気を使い故郷に帰れない入所者が、慣れない土地で新生活の準備をしたら何も残らない額です。事実上「あなたたちは療養所の中で生きていきなさい」と言っているようなものですから。国はどこまで責任を取らないのかと思いました。
《予防法が廃止された日から、入所者は隔離の必要のない『元患者』になった》
あの法律は一体何だったのかと思いましたよ。特に家族は、その思いがより強かったんじゃないかと思います。私がハンセン病になったせいで母親は一家心中を考えるほど追い詰められた。弟は結婚する時に相手の両親から反対され、妹は何度も破談にされました。私の家だけじゃない。家族から1人患者が出たら、みんな同じ運命をたどったんです。
国は入所者に対しては、それまで通りの生活を約束しましたが、差別は根強く残り、家族の苦しみや苦労は何も変わりませんでした。医学的根拠のない隔離政策を90年も続けた国は間違っている。誤りを認めて謝罪してほしい、という思いが強くなっていきました。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/23 提訴/2/熊本(毎日新聞 2012年08月28日 地方版)
◇背中押してくれた母
《裁判で国の責任を問うことを考え始めたが、そこにはいくつもの壁があった》
健康面や金銭的問題、そもそも入所者の気持ちを代弁してくれる弁護士が本当にいるのかなど、不安要素はたくさんありました。ただ、その中で一番大きかったのは公の場で本名を名乗らないといけなくなるということでした。今でこそ被害者に配慮した匿名裁判も目立つようになりましたが、当時はそういうことができると知らなかったんですよ。
私は20歳の時からずっと園名「志村康」で生活してきましたから、今さら本名をばらして家族に迷惑をかけることはできないと。そんな時、薬害エイズ訴訟の原告が名前を伏せ、番号で裁判をやっていると知ったんです。「これならいけるかもしれない」と光が見えた気がしました。
《母親には事前に『決意』を打ち明けた》
ハンセン病を患った息子の存在を隠し生きてきた過去が母親の心に深い悲しみとして残っていることは知っていました。裁判をすることでつらい記憶を呼び起こしてしまうかもしれない。反対されるのを覚悟で「提訴したいが大丈夫か」と尋ねました。すると「一族の名誉のためにぜひやってほしい」と言うんですよ。意外でした。
改めて考えると、私たち入所者は療養所に閉じ込められて自由を奪われたけれど、壁の外にいる家族に比べれば、ある意味で守られていた部分もあったんですよね。母親は何も言わなかったけれど、親族にも頭が上がらないような状況がずっとあったんだろうと胸が締め付けられる思いでした。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/24 提訴/3/熊本(毎日新聞 2012年09月04日 地方版)
◇弁護士との出会い
《1998年2月、九州大で開かれたシンポジウムで1人の弁護士と出会った》
後に、ハンセン病国賠訴訟の西日本弁護団代表となる徳田靖之弁護士です。実は私とは別に、鹿児島のハンセン病療養所にいた作家の島比呂志(ひろし)さんが、国の隔離政策に対するそれまでの弁護士の対応を批判する内容の手紙を九州弁護士連合会に出していたんですね。それをきっかけに、療養所で弁護士の聞き取り調査が始まっていました。九大のシンポジウムもそうした取り組みの一環で、「らい予防法」廃止後の入所者の支援のあり方を考えるというのがテーマでした。その場に徳田弁護士もいたんです。
この時、たまたま「予防法は憲法違反かどうか」という話が出たんです。子供を堕胎させられた過去がよみがえり、気付いたら客席から手を挙げて一気にしゃべっていました。「高齢で先はないし、お金も支援もないけど、裁判をしないことには死にきれない。どうか応援してほしい」とね。
《徳田弁護士との出会いが、国賠訴訟への道を開いた》
私の話を聞いた後、「予防法は違憲だと思う。私以外にも多くの弁護士が裁判に参加するだろう」と言ってくれました。うれしかったですね。気持ちを分かってくれる弁護士がいたのが驚きであり、無上の喜びでもありました。シンポジウムが終わった後、がっちり握手を交わしたのを覚えています。熊本地裁に提訴したのは、それから5カ月後のことです。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/25 提訴/4/熊本(毎日新聞 2012年09月11日 地方版)
◇声上げないと変わらない
《ようやく訴訟に向けた準備が始まったが、周囲の反応は冷ややかだった》
恵楓園では私と溝口製次さんが最初の原告になったのですが、溝口さんは提訴前に当時の園長から「訴訟をするなら療養所を出てからにしてくれ」と言われたそうです。園長は国から派遣された公務員ですから、裁判を快く思っていなかったのでしょうね。出入りする弁護士や取材に訪れる記者にその都度、入園許可を取るよう求めるなど、嫌がらせをしてきました。裁判をする権利は誰もが持っているのに、本当に腹が立ちました。
入所者自治会も基本的には訴訟に反対でした。国の支援で生活を送ってきたわけですから、そこを相手に「訴訟を起こすなんてとんでもない」と。同じく訴訟の準備を進めていた鹿児島の敬愛園では「1億円の賠償金が行きよる(もらえるらしい)」と金の亡者のように言われて、原告は完全に孤立していたらしいです。私自身は直接何かを言われたことはなかったけれど、「国を相手に裁判をして勝つわけがなか」とか、陰ではいろいろ言われていたみたいです。
《ただ、提訴の決意が揺らぐことはなかった》
そもそも最初から裁判で勝つなんて思ってなかったですから。一番の目的は、公の場でハンセン病患者や家族が受けてきた被害を語り、苦しみを広く知ってもらいたいということでした。そのためには、やっぱり療養所の中にいる者が声を上げないと何も変わらないと思っていた。98年7月31日、恵楓園と敬愛園の入所者13人で熊本地裁に提訴しました。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/26 壁を越えた日/1/熊本(毎日新聞 2012年09月25日 地方版)
◇子供を返して
《裁判ではハンセン病患者として経験した50年間の苦しみをぶつけた》
最初に言いたかったのは「志村康」という名前が本名ではなく園名であること。そして、なぜ私が園名を名乗らざるを得なかったかということでした。ハンセン病になったせいで、私は父親の葬儀にも行ってません。「らい予防法」は廃止後も家族を痛めつけ、患者を社会的に抹殺してきたんです。裁判という公の場に姿をさらした私が、それでもなお園名を使わざるを得ない現実を知ってもらいたい。その一心でした。
《とりわけ力が入ったのは、子供を堕胎させられたことへの怒りと悲しみだった》
当時、ハンセン病は既に「治る病気」と分かっていたのに、療養所内では当たり前のように断種、堕胎手術が行われていました。法廷には、中絶手術のため生を受けることがなかった私たちの子供「操」の位牌(いはい)を持っていきました。証言台に立つまでは緊張していたんですが、「1人じゃない。操も一緒だ」と思うと肩の力も抜けて。最後は原稿を見ずに前を向いて大きな声で言いました。「裁判長、私の子供を国から取り戻してください。(ハンセン病患者に対する堕胎の事実上の強制は)国家による子殺しでしかありません」と。
傍聴席では泣いている人もいました。特に女性から「ありがとうございました」「胸がすっとした」と言われて。あえて詳しくは聞かなかったけれど、この人たちもおなかの子を堕胎させられたのかもしれない。そんなふうに思いました。
【聞き手・澤本麻里子】
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/27 壁を越えた日/2/熊本(毎日新聞 2012年10月02日 地方版)
◇提訴と支援広まる
《顔や名前を公表した原告は少なかったため、瞬く間に裁判の『顔』になった》
判決が出るまでの3年間は本当に忙しかったですね。あちこちから講演依頼があって、県外にもずいぶん行きました。何と言っても大変だったのはマスコミ対応です。当時はハンセン病に関する資料や本が少なかったから、入所者がどういう被害を受けてきたのか皆さん全く知らないわけですから。いったん取材が始まると何時間もかかりました。
毎日のように記者が来るから妻は疲れていたけど、私は分かってほしい気持ちが強くて断りませんでした。1人の記者と4、5回会ってやっと通じ合う。そんなことの繰り返しでしたね。
《熊本、鹿児島の13人で始めた裁判だったが、提訴の動きは東京、岡山などに広まった》
正直、ここまで多くの入所者が原告になるとは思ってもみなかったですよ。裁判に参加することで、「唯一の生活の場」である療養所にいられなくなる可能性だってあるんですから。特に高齢の入所者の不安は相当だったと思います。
裁判で国は隔離政策を進めた責任を否定し、全面的に争う姿勢を見せました。私は、そのことがずっと沈黙を守ってきた入所者の心に火を付けたのだと思っています。国への怒りは抑えきれないところまできていた。最終的には全国の療養所入所者の半数以上が原告となりました。熊本地裁で一番大きい法廷の傍聴席は支援者でいつもいっぱいでした。こんなに応援してもらったのは初めてだったから心強かったし、ありがたかったですね。
【聞き手・澤本麻里子】
http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121002ddlk43040637000c.html
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/28 壁を越えた日/3/熊本(毎日新聞 2012年10月16日 地方版)
◇司法は生きていた
《01年5月11日、判決の日を迎えた》
正直なところ、期待はしていませんでした。玉虫色の言葉は並べるだろうけど、裁判自体には負けるかもなって。ところが裁判長がまだ判決文を読み上げている途中、隣にいた原告の溝口製次さんが私をつついてきて、「勝ったばい」ってささやいたんです。耳を澄まして聞いたら、確かに「被告(国)はお金を支払え」という内容でね。「やった!」とこぶしを何度も突き上げると、後ろの傍聴席から一斉に拍手が起こりました。
熊本地裁判決は、ハンセン病患者を療養所に閉じ込めてきた「らい予防法」を憲法違反と判断しました。長らくこんな法律を放置していたのは、司法の「不作為」ですよね。ただ、その苦しみから解放してくれたのは他ならぬ司法だった。裁判所前でマスコミに囲まれ、思わず口をついて出たのは「司法はまだ生きている」という言葉でした。
《母親にはその日のうちに勝訴を報告した》
電話口からおえつする声が聞こえました。そして「よかった。よくやってくれた」と何度も言いました。15歳でハンセン病になってから長い間、母親を苦しめてしまったので、ようやく親孝行ができたと思いましたね。
その日は、記者会見が終わった後も自宅までマスコミが来てね。ずっと慌ただしかったです。夜は恵楓園の中の交流荘で、弁護士や支援者らと勝訴のお祝いをしました。私はお酒は飲めないけれど、みんなで乾杯をして本当に気持ちよかったのを覚えています。
【聞き手・澤本麻里子】
[外部リンク]
http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121016ddlk43040718000c.html
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/29 壁を越えた日/4/熊本(毎日新聞 2012年10月23日 地方版)
◇人間回復、願いが通じた
《熊本地裁での勝訴判決を受けて、原告や弁護団はその日のうちに上京して国に控訴しないよう求めた》
予想もしていなかった画期的な判決でしたから勝利の喜びにわく一方で、誰もが「国は控訴するだろう」と思っていたんですよ。そうなれば裁判は続くだろうし、生きている間の「解決」は望めないだろうなと思っていた。それでも控訴期限までの2週間は、当時の坂口力厚労相に療養所での差別的な体験を訴えたり、森山真弓法相に控訴しないよう申し入れたりとできる限りのことをしました。
国会議員も支援に動いてくれました。療養所は熊本だけでなく全国にありますから、入所者や家族が差別に苦しんでいたことを知っている人もいたんですね。「ここで決着をつけるべきだ」と、ずいぶん働きかけてくれました。
《小泉純一郎首相との面談を求めて官邸前で声を張り上げた》
控訴期限の2日前に会えることになって。妻が体調を崩したので私はいったん熊本に帰ったのですが、後から聞いた話によると、最初は10分だけの予定だったのに40分も話したそうです。原告の代表が「人間として認められたい」という願いを切々と語ると、小泉首相は目をうるませていたようです。
控訴しないとの発表は、そのすぐ後でした。自宅へ取材に来た記者から「どうやら控訴しないようだ」と聞いてテレビをつけたら、テロップが出て。ほっとしたと同時に、この動きが国内だけに終わらず海外にも波及してほしいと思いました。差別に苦しんでいたのは日本の元患者だけではないですから。
【聞き手・澤本麻里子】
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http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121023ddlk43040582000c.html
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/30 宿泊拒否事件/1/熊本(毎日新聞 2012年10月30日 地方版)
◇差別は続いていた
《喜びに沸いた熊本地裁での勝訴判決からわずか2年後、黒川温泉のホテルが恵楓園入所者の宿泊を拒否する事件が起きた》
問題が表面化し、大きな批判を浴びたホテル側は入所者自治会に面会に来ました。そして騒ぎになったことについては頭を下げたけれど、宿泊拒否については「他の宿泊客からクレームが来たら対応の仕様がない。当然の判断だ」と言い切ったんです。県がホテルを手配したのですが、「入所者であることを事前に知らせなかった県に責任がある」と言って。
これでは何も謝っていません。それなのにマスコミはこぞって「ホテルは謝罪したのに自治会がそれを拒否した」という構図で報道したんです。この「誤報」が、その後大変な事態を生みました。
《自治会に対し、匿名で中傷の手紙や電話が殺到した》
「世間を騒がせずにおとなしく暮らせ」ということでしょう。勝訴したといっても、ハンセン病や入所者への差別と偏見が根強く残っていることを、まざまざと見せつけられた思いでした。マスコミは、私たちとホテルとのやりとりを見ているんだから、ホテル側が本当の意味で謝罪していないことは分かったはずなのに。センセーショナルに書いた方が読まれるだろうと思ったのかもしれません。訴訟の取材で顔見知りの記者もいたのに、何であんな報道をしたのかと強い怒りと悲しみを感じました。
でも、これまでの啓発活動や交流で出会った子供たちは逆に励ましの手紙をくれたんです。「あなたたちは何も悪くありません」と。それだけが私たち入所者の唯一の救いでした。
【聞き手・澤本麻里子】
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http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121030ddlk43040543000c.html
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/31 宿泊拒否事件/2/熊本(毎日新聞 2012年11月06日 地方版)
◇差別禁止法の制定を
《黒川温泉のホテルによる宿泊拒否から3カ月後、県が3日間の営業停止を決めると、ホテルは廃業を宣言した》
「入所者がホテルをつぶした」といった批判や中傷の手紙、電話が自治会に再び殺到し、私も対応に追われました。言うまでもありませんが、私たちはホテルをつぶそうなどとはまったく考えておらず、ただ「差別」を認め、態度を改めてほしいと主張しただけでした。私も電話口で、本当は何があったのかを一生懸命説明したのですが「あんたたちのやり方は汚い」と罵声を浴びることがほとんどでした。
「自治会がホテルの謝罪を拒否した」というマスコミの「誤報」によって、入所者はかつてない差別と偏見にさらされました。どんな人の心にも差別心は眠っているということを嫌というほど思い知らされました。
《営業停止処分決定後、熊本地検も旅館業法違反の罪でホテルを経営する会社と前社長ら3人を略式起訴した。ただ、差別を前に法は無力だった》
罰金はたったの2万円。ホテル側は「県の処分は違法で不当だ。宿泊拒否の責任は入所者であることを事前に説明しなかった県にある」と、従来の主張を最後まで繰り返しました。結局、私たちの言いたかったことは最後まで相手に伝わらなかった。無力感を感じました。日本には差別を禁止する法律がありません。法があれば解決するという問題ではないけれど、憲法14条で法の下の平等をうたっている以上、そのよりどころとなる「差別禁止法」をつくるべきだと思います。
【聞き手・澤本麻里子】
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http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121106ddlk43040497000c.html
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◆ 生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/32 妻の死/熊本(毎日新聞 2012年11月13日 地方版)
◇静かな別れ
《05年、妻嘉子が体調を崩して入院した》
妻とはけんかしながらも50年近い時を共に過ごしてきました。国賠訴訟の原告にもなってくれてね。お互い「我が道を行く」夫婦だったので理由は結局聞いてないのですが、家に出入りする原告の話を聞いているうちに思いを抑えきれなくなったのかもしれません。
証言台では、恵楓(けいふう)園で中絶させられた私たちの子ども「操」のことについて陳述しました。手術台が冷たかったこと、その後お乳が出て1人泣いたこと、二度と妊娠したくなくて私と夫婦関係を持つのを恐いと感じていたこと。私は当日傍聴できなかったのですが、後から読んで、初めて彼女の悲しみを知りました。
《嘉子は8月15日、恵楓園の病棟で息を引き取った。70歳だった》
それまで何度も生死の境をさまよったのは、どちらかというと私の方だったんですよ。若いころには肺炎で危うく命を落としかけたし、交通事故で瀕死(ひんし)の重傷を負ったこともありましたから。そのたびに心配する妻に、いつも「俺の方が長く生きるから」と軽口を言っていたんですが、それが現実になるとは正直思ってもみませんでした。
最期は娘と孫も病室に来てくれました。孫が「ばあちゃん」って呼ぶと弱まっていた脈や呼吸が戻るんですよ。意識はなくても聞こえてるんですね。それを何回か繰り返したところで「これ以上はかわいそうだけん、もうやめよう。ばあちゃんにさよならしよう」と言って。みんなで静かに見送りました。(文中敬称略)
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/33 保育所/1/熊本(毎日新聞 2012年11月20日 地方版)
◇療養所の開放目指し
《今年2月、恵楓園の敷地に保育所『かえでの森こども園』がオープンした》
療養所の地域開放を進める「ハンセン病問題基本法」が08年にできたのをきっかけに、入所者と恵楓園、県、合志市が一緒に「将来構想」をまとめ、その中に保育所誘致を盛り込んだんですよ。全国のハンセン病療養所で初めての試みです。もともと保育所をつくろうという話はずいぶん前からあったんですよ。恵楓園で働いている女性職員にとって、職場と保育所がくっついていた方が便利だし、産後の職場復帰もしやすいだろうと。
ただ私たち入所者にとっては万感の思いがありましたね。ここには発病を機に子供と引き離されたり、堕胎させられたりした人がたくさんいますから。園内を散歩する子供たちにお菓子をあげている入所者は本当にうれしそうでした。孫とふれあうような感覚だったんでしょうね。
《保育所の開所には、長く外部と遮断された療養所の社会化を進める狙いもあった》
ハンセン病の原因となる「らい菌」は感染力が非常に弱く、療養所職員にうつったこともありません。それなのに患者を強制隔離する「無らい県運動」を官民あげてやったせいで、国民に「恐い病気」という思い込みが広がってしまったんですね。訴訟には勝ったけれど、黒川温泉の件でも分かるように、差別は依然消えていません。だけど、地域から長い間隔離されてきた療養所に子供たちが日常的に出入りして「普通」になれば、もうみじめな思いをしなくていい。そんな思いもありました。
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http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121120ddlk43070515000c.html
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/34 保育所/2/熊本(毎日新聞 2012年11月27日 地方版)
◇子供の存在は希望
《恵楓園の入所者は最も多い時の5分の1程度まで減った》
私が妻と結婚したころが一番多くて1700人以上いましたが、今では350人弱になりました。退所して「社会復帰」した人もいますが、多くは恵楓園で亡くなっています。入所者の高齢化は進む一方で、認知症も増え、出歩く人はめっきり減りました。以前は、見学に来た人から「ここには音がないですね」と言われることも多かったんです。
でも保育所ができて、それはにぎやかになりました。子供たちが広場で遊んだり散歩したりしているだけで、園内の空気がぱっと明るくなりますね。声を聞くだけで元気になります。
《送り迎えで保護者も出入りするようになり、ようやく『普通の社会』に近付いた気がした》
「おじいちゃん、おばあちゃん、こんにちはー!」と子供たちが自治会に遊びに来て、花見や運動会の招待状を持って来てくれるんですよ。でも私たちが参加することを周囲の人がどう思うかが、どうしても気になる。私たちのせいで園児が減ってしまったらどうしようと不安になってしまうんです。だから、交流は少しずつ進められたら、それでいい。今はそっと見守ろうと思っています。
今年に入ってから恵楓園では23人が亡くなりました。気のめいることばかりだけど、子供たちの存在は希望そのものだと思っています。
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/35 菊池事件/1/熊本(毎日新聞 2012年12月04日 地方版)
◇ある男性の死
《長い入所生活の中で、今も一人の男性のことが気にかかっている。『菊池事件』のFさんだ》
菊池事件は県内で起きた二つの事件の総称です。最初に村職員だった男性の家でダイナマイトが爆発する事件があり、同じ村のFさんが逮捕された。Fさんは無実を訴えたけれど、懲役10年の有罪判決を受けました。Fさんは当時、ハンセン病患者として恵楓園への入所勧告を受けていました。
その後、Fさんは家族に会いたい一心で恵楓園内の拘置所を脱走するのですが、この間にダイナマイト事件の被害者が刺殺され、今度は殺人容疑などで逮捕されました。Fさんは再び無罪を主張しましたが、被害者に患者として県に報告されたのを逆恨みしたとして1審熊本地裁判決で死刑になりました。控訴、上告も棄却され、3回目の再審請求が棄却された直後の1962年9月に刑が執行されました。
《自治会の渉外部長として、園に隣接していたハンセン病患者専用の刑務所でFさんと会った》
面会室には刑務官がいるから事件の話はあえてしなかったけど、一人娘のことをすごく心配していてね。Fさん自身、子供のころから働いて学校に行けなかったので娘さんにはちゃんと高校を卒業してほしいという気持ちが強かったんです。本当に実直な人でした。
実は執行前日にも会いに行ってるんですよ。事件で転校を余儀なくされた娘さんの学校が決まったと報告したら、すごくうれしそうな顔をしてね。最後に握手して別れたんですが、まさか次の日に刑が執行されるなんて夢にも思わなかった。頭が真っ白になりました。
【聞き手・澤本麻里子】
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http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121204ddlk43070524000c.html
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◆生きる:ハンセン病回復者・志村康の記憶/36 菊池事件/2/熊本(毎日新聞 2012年12月25日 地方版)
◇「生きる」ための闘い続く
《ハンセン病に対する差別や偏見を背景に、菊池事件の裁判は事実上非公開で進められた。裁判官や検察官は手袋をはめて証拠物を扱い、弁護士ですら、まともにFさんの言い分を聞かなかった》
凶器とされた刃物から血液反応は出ていません。検察側は「ため池で洗ったから」と主張してますが、数十カ所も刺しているのにそんなばかなことがあるはずがない。そもそも同種事件と比較して、死刑はあまりにも重すぎます。
私はFさんが本当にハンセン病だったのかということにも疑問を持っています。大学病院では「病気ではない」という診断が出ていましたし、ハンセン病患者特有の後遺症も見られなかった。それなのになぜFさんは恵楓園に入るよう迫られたのか。結局、官民一体で患者を療養所に強制隔離した「無らい県運動」が背景にあると思っています。当時、恵楓園は「患者が増えている」と増床したところだったんですね。ベッドが埋まらなければ園長は責任を問われる。その結果、各地で「患者狩り」のようなことをしてでも、入所者を増やそうとしたのではないかと。まったく本末転倒な話です。
《Fさんが死刑になって50年となる今年11月、恵楓園入所者自治会や全国ハンセン病療養所入所者協議会などが、検察官に再審請求を求める要請書を熊本地検に提出した》
本人が亡くなっている場合、本来は遺族が再審請求します。ただハンセン病に対する差別や偏見は今も残っていて、遺族はなかなか踏み切れないでいるんです。他に請求権を持つのは検察官しかいません。そうした「事情」をくんで、代わりに再審請求してくれませんか?というのが私たちの主張です。
なぜ今になってと思う人もいるかもしれません。でも、国家賠償訴訟で勝ったといっても、ハンセン病差別は今も終わっていないんです。私にしても「志村康」だから取材を受けられるのであって、本名はいまだに名乗れません。ハンセン病の問題というのは決して過去形では語れない、現在進行形の問題なんです。だからこそ私は菊池事件にこだわり続けたいと思っています。
【聞き手・澤本麻里子】
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http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20121225ddlk43070237000c.html
*作成:
小川 浩史
UP: 20121206 REV: 20130109
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