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「障害者の就労場面から見える労働観」

青木 千帆子
『解放社会学研究』25: 9-25.

last update:20131004

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  障害者の就労場面から見える労働観
  青木千帆子

  1 本稿の構成
 
 今日、障害者の労働をめぐる国際的な動向のもと、障害者従業員を雇用することが企業としての「社会的責任」として語られている。五六人以上規模の民間企業における障害者従業員法定雇用率は一・八%と定められ(▽1)、いずれの事業所の従業員も、理念的には障害者従業員を包摂していかなければならないと理解している。しかし労働の現場においては、障害者従業員を包摂することによる「労働」の枠組みの揺らぎや労働規範の変容が、周囲の従業員にとって何か正しくないもの、あるいは不正義として捉えられる瞬間が存在する。そこには、労働をめぐる二つの規範の間にある乖離や矛盾が正視されてこなかった歴史が浮かび上がる。本稿でいう二つの規範とは、労働が人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであるべきとする価値観や規範と、労働が生産的で集団に貢献するものであるべきとする価値観や規範である。それぞれ、労働の理念的側面(自己実現)と経済的側面(生産性)とに対応するものとして、本稿では位置づけていく。 本稿の目的は、障害者の就労場面における調査を通し、労働の場に「働けない身体」の位置を見出せなくさせている要因を描き出すことである。このため本稿では、まず障害者の労働に関する議論を振り返り論点を整理する。続いて障害者が働く現場のエスノグラフィーを描き、労働をめぐりどのような言説が生じているのかを確認し、その展望を考察する。本稿ではとりわけ、労働の理念的側面(自己実現)と経済的側面(生産性)の乖離をめぐり何が語られるのかに注目した。


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  2 論点の整理
 
 2‐1 「働けない身体(▽2)」の位置と「働ける障害者」の経験する差別
 障害をめぐる議論には二つの視点があることが、多くの文献により指摘されてきた。一つは障害の個人モデル、もう一つは障害の社会モデルである。障害の個人モデルは、医療モデルとも呼ばれる。障害の生起点を身体の組織または機能の欠損(以後インペアメント impairment)にあると捉え、専門家が個人に介入し、治療・訓練することによってインペアメントの克服・軽減が図られてきた。一方で障害の社会モデルは、障害の社会構築論とも呼ばれる。社会組織がインペアメントのある人々を考慮しないために引き起こされる活動の不利益や制約を社会的障壁と呼び、その解決が社会に向けて要求されてきた[石川・長瀬、一九九九、杉野、二〇〇五]。
 障害者自立生活運動は、障害の社会モデルを戦略的視座として採用することで発展してきた。しかし、障害の社会モデルを共有するなかにも、労働に関しては多様な議論が存在する。一つは、既存の労働概念そのものを疑い変革しようとする議論である。ここでは、個人の生産性によって存在の価値を評価されることを問題視し、労働とは何かが問われる[全国障害者解放運動連絡会議、一九七六、異端の落とし胤、一九七六、原田、一九八三など]。もう一つは、既存の労働概念を前提としてなされる議論である。ここでは、労働の場で求められる機能や能力と障害者の備える機能と能力の問題に関し、いかに取り組むのか、そして、これと相関的に生じる差別、選別、格差をどう考えるのかが問われる[小川・梅永・志賀・藤村、二〇〇〇、臼井、二〇〇一、遠山、二〇〇一、富安、二〇〇一、鈴木、二〇〇二など]。
 前者に関する議論の中で、もっとも先鋭的な主張の例としては、一九七〇年代に日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」によって唱えられた「障害者にとって生きること自体が労働である」[全障連、一九七六]というものがある。この主張は、「働けない身体」そのものを社会的に認めさせなければ、障害者の解放はありえないという認識に基づく。障害者は「働けなくてなぜ悪いという開き直りが必要である」という主張が提起され、賃金労働を求める障害者の要求の中にある「健常者幻想」を自己批判すべきだという主張が導き出された。労働を拒否する主張の背後にあったものは、生産性によって存在を評価されることの拒否である。障害者が働くことを否定する青い芝の会による一九七〇年代の主張は、既存の労働概念に対して矛盾のない一つの結論だったといえる。しかし、自立生活運動を通して地域に出、脱施設を果たした先に待っていた課題は、生産性によって存在の価値を評価されることを拒否しながらも、異なる形での「対等な」関係を創出することによって社会へ参加することであった。そこでは、参加や


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自立を達成するための手段としての「新しい労働」が求められた。それは、労働の理念的側面と経済的側面の矛盾を超克する新たな労働概念を作り出そうとする困難な課題であった(▽3)。
 一九八一年国際障害者年以降、障害者の労働が重要な政策た課題として取り上げられるようになる。これを受け、後者の議論、つまり、労働の場で求められる機能や能力と障害者の備える機能と能力の問題に関しいかに取り組むのか、そして、これと相関的に生じる差別、選別、格差をどう考えるのかという議論が中心となる。労働は、そもそも求められる要件を満たす人と満たさない人とを選別するものである。労働の場において、それが労働である限り求められる機能や能力が必ず存在し、それゆえに「要件を満たす者/満たし得ぬ者」という選別が生じ、労働を担う人に対する選別は免れない。後者の議論では、仕事の要件を満たす人を選別することと格差・差別の問題はいわば表裏一体であり、この点に関してどのような態度を示すのかが問題となる[立岩、二〇〇一]。 「働けない身体」の社会での存在をどのように認めるのかという課題と、「働ける障害者」の経験する格差や差別をどう是正するのかという課題。この二つの課題には、それぞれ「できない」ことを志向する議論と「できる」ことを志向する議論という、二つの相反する方向性が潜在している。「できない」ことを志向する議論は、たとえ「できない」ままであっても、労働は人を社会的な価値ある存在として位置づけるものだから、「働けない身体」も労働の場に参加することを目指す。一方で「できる」ことを志向する議論は、障害者といえども「できる」のであるから、労働の場における不当な格差・差別を解決することを目指す。「できない」「できる」をめぐる議論は、それぞれ労働の理念的側面と経済的側面を照射しているともいえる。すなわち、障害者の労働に関する議論を振り返ると浮かび上がってくる問題とは、「できる」「できない」をめぐり、また労働の経済的側面(生産性)と理念的側面(自己実現)をめぐり、これらの議論をいかにして止揚していくのかという問題であると措定することができる。

  2‐2 労働と賃金の等価交換の原則
 ところで、労働の経済的側面と理念的側面を同時に満たすためには、すなわち、労働が生産的で集団に貢献するものであると同時に、人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであるためには、メーダ[1995=2000]によって指摘されているある擬制が前提となる。その前提とされている擬制とは、個人が自由に能力を開花することが無条件に集団の利益につながると擬制すること、そして計測可能なものとして「生産性」を擬制することである。
 メーダは、「労働の開花という十九世紀の神話」と題された議論において、労働における各人の発達がどのように生産の集団的な性格と両立しうるのかという疑問を提示し、個人


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と社会の無条件の両立という擬制について考察している。個人と社会の無条件の両立が得られるには、生産の選択があらゆる諸個人によってなされること、そのような選択が真の社会的欲求に応えていること、すでに豊かな社会であること、といったいくつかの諸条件が満たされる必要がある[Meda, 1995=2000: 119-124]。つまり、個人が自由に能力を開花させることがすなわち集団の利益につながるという、個人と集団の無条件の両立が必要となる。しかし、個人と集団の無条件の両立は必ずしも実現するわけではない。とりわけその食い違いが如実に現れるのが、本稿で後述するような障害者の就労場面である。
 もう一つの条件は、計測可能なものとして「生産性」を擬制することである。私たちは、例えば生産性というものを一定時間内の労働成果と理解している。しかし、実際に自らの労働を振り返ってみるならば、「生産性」とよばれるものが計測可能である場面は非常に少なく、数値であらわすことができるかのような「生産性」は、擬制されたものであることに気づく。「人間労働はこんにちあまりにも機械とシステムの総体の中に埋め込まれているので、その有用性を機械やシステムの有用性から識別することができない」[Meda, 2000: 175]のだ。
 このように二つの擬制―個人と集団の無条件の両立と生産の計測可能性―を前提とすることにより、労働の経済的側面と理念的側面を同時に満たすことが可能になる。言い換えるならば、「集団への貢献に応じて評価され労働対価が支払われる」という「労働と賃金の等価交換の原則」が成立することで、労働が生産的で集団に貢献するものであると同時に、人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであることが両立可能となる。かくして「労働と賃金の等価交換の原則」は、私たちに自らの生産性の証と生きがいを同時に与える重要なルールとなる(▽4)。
 では、「労働と賃金の等価交換の原則」は、障害者の労働場面においてどのような役割を果たしているのだろうか。一例を挙げるならば、青木・渥美[二〇〇九]が調査した事業所では、多くの場合、障害者の労働として単純作業がわりふられていた。障害者従業員自身の工夫および意思決定の余地がなく、労働は単調な作業となっている。また、障害者従業員が取り組む作業の多くはその工程を数えることが容易なものでもあり、常に障害者従業員の労働が賃金に値するものであるか否かが、周囲の健常者従業員によってチェックされている。それゆえ、障害者の労働は多くが息の詰まるものとなる。このことは、労働の経済的側面と理念的側面を同時に満たす唯一の隘路であるはずの「労働と賃金の等価交換の原則」が、矛盾のない解決を導き出す原則であるとはいえないことを意味している。「できる」ことを機軸として編成される労働の場において、労働の経済的側面(生産性)と理念的側面(自


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己実現)をめぐる二つの課題を同時に論じすり合わせるという作業は、実際にはそれほど単純ではない。
 「働けない身体」の社会での存在をどのように認めるのかという課題と、「働ける障害者」の経験する格差や差別をどう是正するのかという課題、そして「できる」「できない」をめぐる、また労働の経済的側面と理念的側面をめぐる課題。これら障害者の労働をめぐる議論は、個人と集団の無条件の両立と生産の計測可能性という二つの擬制を内包する「労働と賃金の等価交換の原則」を解決の道とすることで、乖離や矛盾を残したまま今日に至った。そこで次に述べるフィールドワークを実施し、実際に障害者が働く現場で「働けない身体」の存在をめぐり、「労働と賃金の等価交換の原則」がどのように現れ、論じられているのかを確認する。

  3 方法

 調査者は二〇〇八年九月から二〇一〇年一月まで、事業所Xの清掃担当部署に、おおよそ週に一度ボランティアスタッフとして訪問し、フィールドワークを実施した。この際に備忘録的に取ったフィールドノートに加え、事業所Xの従業員に対し行ったインタビューをもとに、本節を構成する。
 事業所X清掃担当部署は、健常者従業員八名、障害者従業員十六名によって構成されている。二〇〇八年十一月の時点で、健常者従業員は、当該部署の責任者兼人事担当者である四十代男性従業員が一名、事務担当者である五十代男性が一名、清掃担当者である五十代男性が四名(A、B、C、D)、五十代女性が一名(E)、二十代女性が一名(F)在籍していた。なお、二十代女性従業員Fは二〇〇九年十一月末で退職し、代わりに五十代女性従業員Gが入職している。障害者従業員は全員が清掃を担当しており、三十代男性従業員が一名、二十代男性従業員が十名、二十代女性従業員が五名在籍している。人事担当者と事務担当者のみが事業所Xの正規職員であり、他の健常者従業員及び障害者従業員全員、つまり清掃担当者全員が非正規職員である。そのうち本稿に頻出する三十代男性の障害者従業員を佐藤さん(仮名)と呼ぶ。
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表1 事業所X清掃担当部署の構成員(合計24名、2008年11月時点)
障害者従業員16名 佐藤さん(30代知的障害者男性)、他 知的障害者従業員15名
健常者従業員8名 部署長(40代男性)、事務担当者(50代男性)、A(50代男性)、B(50代男性)、C(50代男性)、D(50代男性)、E(50代女性)、F(20代女性)→G(50代女性)
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  4 事例 

  4‐1 佐藤さんをとりまく労働環境
 事業所Xは、法定雇用率は未達成であるが、知的障害者従業員を時給八五〇円、週三〇時間契約で雇用している事業所だ。事業所Xにおける障害者従業員の典型的な日課や作業としては次のようなものである。
  九時三〇分〜 朝礼
  九時四〇分〜 3グループに分かれ、屋内・屋外の清掃
  十二時〜 昼休憩
  十二時四五分〜 3グループに分かれ、屋内・屋外の清掃
  十六時〜 終礼
 屋外の清掃としては、敷地内の道路や建物周辺の清掃がある。炎天下であったり北風が吹きすさんだりする中での作業のため体力を消耗する。しかし、緑の多い事業所Xの敷地内を清掃するのは気持ちの良い部分もある。敷地内は一見きれいなのだが、例えば植え込みの中に一歩踏み込んでみるとゴミが吹き溜まっていたりして、清掃すべき箇所は多岐に渡る。
 屋内の清掃としては、会議室の清掃やトイレの清掃、宿泊施設の清掃などを担当している。これまでは外部委託していた清掃を障害者従業員が担うようになったのだが、外部委託では大きな建物に一〜二人が派遣され清掃している状況であった。このため少し目につきにくいところを見てみると全く手が行き届いていなかったりする。そうなると壁材であれ床材であれ傷んでしまうのは当然のことであり、屋内に関しても清掃や手入れをすべき箇所は無数に存在する。
 昨今、知的障害者が清掃作業に従事する事例が多いのであるが、実際のところ清掃とは極めて難易度の高い仕事である。一定の時間内にどの範囲をどのレベルまできれいにするのか、きれいになった基準とは何か。その判断には高い状況把握能力が求められる。また、役員室など頻繁に清掃に入るよう指示される場所になると、逆にどこが汚れているのかも見分けにくい。革製品のようにどのような洗剤を使ってどのようにきれいにするのか判断が困難なものも出てくる。このため、障害者従業員四〜六名に対し、健常者従業員が二〜三名のグループで作業をしている。健常者従業員がその日の作業を判断し指示する立場にあるが、基本的には健常者従業員・障害者従業員が同様の仕事をこなしている。調査者が事業所Xに調査に入り始めた当時は比較的健常者従業員からの指示が常時入っていたが、一年たった時点では一人で作業を進める障害者従業員が増えてきた。
 しかし、そのような清掃作業の中で一人浮いてしまう存在がいる。それが佐藤さんだ。調査者自身、事業所Xに調査に


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入り始めてすぐに、彼の作業効率が低くトラブルを起こしがちである点に気付いている。

 今日はしばらく単独で落ち葉を回収していたが、途中からAさんの指示で佐藤さんと組んで掃除をすることになる。いつも怒られてばかりの佐藤さん。ぼんやりしやすいが、怒る・注意するという関わりよりは褒められる・手がかりを与えるという関わりが合う人なのだと思う。ちりとりを置く位置、袋に移すタイミングなど、軽く声をかけるとそれなりに動いてくれる。ちりとりを持つポーズが多少不自然だが、仕事は進んでいるのだ、良いではないか。[二〇〇八年十一月二十日のフィールドノート]

 休憩時間中にAさんが話しかけてくる。「佐藤さんな、よう車の前で立ち止まったりトイレ行ったりしているやろ。あれ、Gさんが自閉症特有の傾向じゃないかと言うからトイレに行って何しているのかみてきたんや。そしたら、出入り口にあるドアのきらきらした取手や、トイレの鏡とかに向かってずっと独り言しゃべっとんねん。こういうのどうしたらええと思う?」[二〇〇八年十二月四日のフィールドノート]

 佐藤さんは、止めてある車の前に釘付けだ。手を動かしてはいるのだが、地面を見ていないのでまったく掃除になっていない。Bさんの話では、正月以後佐藤さんの作業は、全く就労当初のレベルに逆戻りしてしまったらしい。[二〇〇九年一月十五日のフィールドノート]

 調査者がその場面に遭遇したことはないが、佐藤さんは清掃作業中に居眠りをしたり暴れたりすることもあるという。そのような時期には遅刻が増えるなど様々な問題が頻出し、所属部署の雰囲気は硬くなり、従業員同士の関係も悪化する。

 いつものように掃除を始めるが、相変わらず佐藤さんがうろうろしてしまうので、「一緒にやりましょう」とつかまえて一緒に掃除を始める。するとGさんから「あ、青木さん〔調査者〕、今日は佐藤さん一人で側溝をきっちりやってもらおうということになっているんです」と声がかかる。「そうですか、すみません」と佐藤さん、さんに声をかけてその場をはずれる。(以下、〔 〕内筆者)
 私がはずれの方にある側溝の掃除をしていると、しばらくしてGさんが話しかけてきた。
G:先ほどはすみませんでした。
調査者:いえ、私も何も知らないのに勝手に動いて。
G:ちょっと今まで私たちの指示の出し方もそれぞれバラバラだったので、統一させようと言うことになって、


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このところ話し合って決めているのです。何もお伝えしていなかったから。〔中略〕
 帰り際、Bさんが話しかけてきた。
B:最近、しんどくなってきました。
調査者:そうですね。ずっと外の作業は疲れますよね。
B:いや、そうじゃなくて、精神的にね。
調査者:どうしたんですか?
B:いや、最近佐藤君のこととかで会議をしているんですよ。でもその会議での意見があまりにもバラバラで、どうしたらいいのかが分からなくなってしまって。
調査者:どういうことですか?
B:ほら、もっと細かくいろんな事を決めて関わった方がいいという人もいるし、使えない人はどんどん切るという人もいるし…。
調査者:それは難しい問題ですね。…私が以前勤めていた施設(▽5)でも、同じような問題がありました。職員同士で、能力をどう見るのか、目標や到達点をどこに据えるのかという問題が異なり、対応がバラバラになってしまって。
B:やっぱりそうなんですか。[二〇〇九年一月二二日のフィールドノート]


 事業所Xはあくまでも「労働」の場だ。うろうろして一人で仕事をこなせない佐藤さんに関して、「一人できっちりやってもらう」ことが要求され、「使えない人はどんどん切る」というように、事業所Xにおけるその存在が問題となる時もある。健常者従業員だけではなく、障害者従業員の側からも、佐藤さんと組んで清掃を担当する際の不満を何度か聞いた。 佐藤さんをめぐっては、家族や就労支援をした社会福祉法人の担当者など、外部の人間を交えた会議が調査期間中に二度開かれている。会議では、佐藤さん自身に就労を継続する意欲があるのか否か(▽6)、また家庭での状況などが確認された。そして、佐藤さんには医療機関から処方されている投薬があり、この薬を変えた時や服薬量を間違えたりしていた時に多くの問題は生じていたということが分かったという。
 この会議の際、「このような状況で、今すぐにでも辞めなくてはならない状況なのは分かっているのですが…」と肩を落とす母親の姿を見て、「それまで佐藤さんの存在を問題視していた視点が何か違う視点へと、自分の中で何かが変わった」とAさんは話す。本調査終了時、佐藤さんは退職せずに働いていた。

 4‐2 労働の経済的側面をめぐるやりとり
 事業所Xにおいて、労働の経済的側面をめぐり、労働が生産的で集団に貢献するものであるべきとする規範が表面化する場面は当然ながら存在する。各部署・各従業員に対し経営努力が求められ、これに対し最低賃金を下回らない給与が確


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保されている。また、この清掃部門における労働力は流動的であり、責任者と事務担当者の二名を除く全員が非正規労働者だ。つまり、求められる機能や能力と従業員の備える機能と能力の一致がより頻繁に評定されている。
 一方で、事業所Xにおいて障害者従業員が取り組んでいる作業は、事業所内清掃、廃棄書類処理、リサイクル封筒作成と、実はあまり明確な納期が決められていない作業でもある。つまり、それらの作業がどれほどの利益を生むのかが不明な作業だ。清掃や廃棄書類の処理は優先順位が低く後回しにされ続けたため、構内は汚れ倉庫一つ分ほどの廃棄書類が溜まっているのだからもちろん必要な作業ではある。しかし、その経済的効果が詳細に計算されているかというと不明であり、調査者自身「〔清掃作業を外注せずに〕事業所X〔の清掃部門〕で引き受けることでどれくらいの節約できるのかが少し心配」[二〇〇八年十月二三日のフィールドノート]と記録している。
 先に報告したフィールドノートには含まれていないが、事業所Xの健常者従業員からは採算に関して次のような言説が聞かれた。

A:経営的に?あの、その意味が分かれへんけど、経営言ったら利潤を生むことやからね。利益の中から人件費を生み出す。ここの場合は利益はないんや。[二〇〇九年七月二一日のフィールドノート]

B:〔障害者従業員の仕事により一定の収入は入っているが細かい部分で健常者従業員が作業を補っていることを話し〕できるところまでもっていく人の役割を誰が負担するのか。 …それ〔採算をあわせること〕についてはもう考えたくない。[二〇〇九年七月三一日のフィールドノート]

F:ここは福祉じゃないですからね。[二〇〇八年十月六日のフィールドノート]

 健常者従業員A、B、Fの採算に関する語りは、労働が生産的で集団に貢献するものであるべきという規範が暗黙のうちに参照されている。そして、「できるところまで持っていく人の負担」が必要であり、「利益はない」ことが、障害者従業員が採算に合う水準の作業を遂行できていないことを述べている。この問題に対しBは、「もう考えたくない」と述べるなど投げやりな態度である。一方でFは、「ここは福祉じゃない」、すなわち福祉的就労の場ではないのであるから、労働が生産的であるよう改善する努力が必要だと意味づけている。

  4‐3 労働の理念的側面をめぐるやりとり
 事業所Xにおいては、労働の理念的側面をめぐり、労働が


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人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであるべきとする規範が現れる機会もある。それは例えば、佐藤さんの処遇をめぐって開かれた会議後、健常者従業員Aが佐藤さんに対する視点を変えていくこと、そして、明らかに採算に合わない行動を示す佐藤さんの事業所における存在を否定しないことなどが挙げられる。
 しかし、事業所Xは経常利益を上げることで事業体を維持している。これに対し障害者従業員の所属する部署では、4‐2で述べたような採算や組織への貢献が不明な労働が展開されている。それ故か作業内容故か、障害者従業員が所属する部署への他の部署からの関わりが少ない。さらに、本来ならば清掃を担当する従業員がいるのだから、事業所X全体の清掃を担当するはずなのだが、清掃を外部の業者へ発注し続ける部署も存在する。事業所Xは、「十六人の知的障害者を雇用」し「一定の雇用率を維持」する事業所であると称される。しかし実際は、障害者を統合したかに見える事業所Xの内部には、他の部署とは隔離されたかのような福祉的空間が発生しているのである。このことがこの部署に所属する従業員に違和感を生じさせる原因となっている。

清掃部門責任者:一気に十六人とか雇っているから表面的に何かすごいことをやっていると思われているけど、実際にはここにはいい話なんて一つもない。雇用条件も障害のある人が働きやすいものではないし、変えようとしても前例がないと変えられない。部署によっては〔障害者を雇うことを〕全然検討する気すらない。本当は誰も真剣に障害者雇用をどうするのかなんて考えていない。[二〇〇八年十一月一七日のフィールドノート]

B:結局障害者をある程度取らなかったら逆に国にお金取られるからね。いうたらお金ですよ。[二〇〇九年七月二三日のフィールドノート]

A:問題だと一番思ったのは、ただ雇うだけでええんかと。例えば全職員の分母に雇用率一.八かけた数だけでいいんやったら、置いといたらええんや。べつにきれいくせんでも。[二〇〇九年七月二一日のフィールドノート]

 健常者従業員Bが「お金取られるからね」という言葉で言及しているのは、障害者雇用納付金制度による納付金のことをさしている。障害者雇用率を達成していない事業主は、法定雇用障害者数に不足する人数に応じて、一人につき月額五万円の障害者雇用納付金を納付しなければならない[障害者高齢者雇用支援機構、二〇一〇]。事業所Xは調査開始時には障害者雇用率を満たしていない事業所であったため、清掃部門で十六名の障害者を雇うことにより、年間九六〇万円の納付金を


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免れることになる(▽7)。つまり清掃部門責任者、健常者従業員A、Bの批判は、事業所Xにおける障害者の労働が九六〇万円の納付金を免れることだけで良しとされていることに向けられている。
 例えば、本稿でみてきたような佐藤さんの労働は、調査を実施した時点では生産的でも組織に貢献するものでもなかった。事業所Xの方針は、確かに納付金を免れるために障害者と雇用契約だけ結び「置いておく」ようなものだ。しかし、労働とは当人の能力を開花させるものであり、障害のある従業員であってもその労働が彼/彼女らを社会的な価値ある存在として位置づけるものであるべきという規範を参照するならば、「ただ雇うだけでええんか」という言説にあるように、本当に納付金を免れるだけのために障害者を雇用し続けることが良いことなのかという問いが浮上するのである。
 知的障害者従業員十六人を時給八五〇円で雇用していることは、「表面的に何かすごいことをやっている」ように見える。実際に事業所Xを障害者の先進的雇用事例として見学に訪れる他事業所の人事担当者も存在する。しかし、清掃担当部門に障害者従業員を「置いておく」だけの実態は「実際にはここにはいい話なんて一つもない」と表現されている。健常者従業員らの語りには、二つの労働規範を参照した批判が明確に表明されている。労働は能力を開花させるものではないのか。勤務時間中に何の結果も生み出さない清掃作業に取り組み、居眠りをしたり、暴れたりすることが、人を社会的な価値ある存在として位置づける労働なのか。このような存在を包摂することで納付金を免れることが、それが私たちの目指す障害者雇用のあり方なのか。労働の経済的側面(生産性)と理念的側面(自己実現)の乖離・矛盾を抱え解消する役割は、事業所Xにおいて清掃部門従業員だけが担っている。さらにその清掃部門は事業所において他の部署から隔離されたかのようにおかれ、事業所X全体としては障害者を雇用することに伴う困難や変化を何も経験しないままにその事業体を維持し続けている。この状況に対する違和感は、組織全体としての、ひいては社会全体の障害者雇用の取り組みに対する疑念へと変わっていく。

  5 考察

  5‐1 ぶつかり合う規範
 以上、三つのエピソードを通し、障害者の労働現場で二つの規範がぶつかり合い、並存している様子を確認した。労働が生産的で集団に貢献するものであるべきという規範は「〔採算については〕もう考えたくない」「ここは福祉ではない」という言説を生み出し、労働が人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであるべきという規範は、「いうたらお金ですよ」「おいとくだけでいいんか」という言説を生み出して


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いる。二つの規範をめぐり相互に背反するかのような言説は、四つ巴になって障害者の就労現場を混乱へと陥れている。
 しかし、このような四つ巴状態は、事業所Xの清掃部門に勤める健常者従業員が佐藤さんの労働が賃金に見合うものであるかどうかを心配し、その一方で雇用調整金の話題を持ち出しては金銭の問題ではなく理念の問題であると心配することから生じている。事業所Xを運営する側にしてみれば、障害者従業員の労働が賃金に見合うものであるかどうか、労働の理念が適切なものであるかどうかは、事業所Xにとっての問題だとしても、非正規労働者にとっては関係のない問題のはずである。にもかかわらず、これほど佐藤さんの労働に関する二つの労働規範を参照し問題として構築する語りが聞かれるということは、参照されている労働規範が健常者従業員の労働を強力に規定していることの表れであるといえよう。実際に調査者自身が、障害者が働く現場で障害者の労働をめぐる二つの規範がどのように現れ、論じられているのかを確認することを目的とする本調査において、等価交換の原則に基づいて事業所Xの現状を判断していたのである。「〔清掃作業を外注せずに〕事業所X〔の清掃部門〕で引き受けることでどれくらいの節約できるのかが少し心配」と。
 事業所Xに限らず、筆者が調査を実施した他の事業所においても、一般就労した障害者従業員とともに働く人々は、非正規労働者であることが多い。労働は、また労働を生み出す主体としての人間は市場で売買するために作り出される商品ではない[ポラニー、 1944=二〇〇九]。しかし、労働はそれが流動的であればある程、より商品として扱われ易くなる。商品として扱われる労働は、今日の労働問題として多く語られているように、正規労働者の労働に付与されている福利厚生や保険といったコストがそぎ落とされていく(▽8)。労働は純粋な商品へと近づけば近づくほど、その労働は市場交換へと疎外されていく。
 つまり、集団への貢献に応じて労働対価が支払われるということを重要な問題として構築しているのは、多くは非正規労働者なのである。労働が生産的で集団に貢献するものであると同時に、人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであることは、疎外された労働を生きる非正規労働者にとって、非常に重要な問題であると内面化されている。労働が人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであることは「自己実現系ワーカホリック」[阿部、二〇〇六]や「〈やりがい〉の搾取」[本田、二〇〇七]と呼ばれる現象を起こすまでにいたっている(▽9)。提供する労働と支払われる賃金の等価交換という原則は、非正規労働者にとって搾取されることを防ぎつつ、経済的側面(生産性)と理念的側面(自己実現)という二つの労働規範を同時に実現するための、なお唯一の隘路なのだ。 今日、ベーシック・インカムや年金、生活保護といった


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様々な社会保障に関する議論において「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というスローガンは広く語られ共有されるものになった(▽10)。だれもが生きられる社会であるべきという意見に、多くの人々はうなずくことだろう。しかし、生産の場に向かうならば即座に、私たちにとっての正義は「能力に応じて働き、貢献に応じて受け取る」というものへとすり替わる。非正規労働者である私たちにとって、「労働と賃金の等価交換の原則」は労働における基本原理として特権的な位置を占めている。労働が生産的で集団に貢献するものであり、かつ労働が人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであるべきだと、多くは健常者である私たち自身が再帰的に強く規定しているのだ。

 5‐2 労働は本来的に能力を開花させるものであるのか

 繰り返しになるが、私たちが労働の基本原理としている「労働と賃金の等価交換の原則」は、個人と集団の無条件の両立と生産の計測可能性という、必ずしも現実的とは言えない擬制を前提にしている。しかし、本稿で見てきたように、労働と賃金の等価交換の原則を周囲の労働者が参照することによって、障害者従業員の労働は経済的にも理念的にも問題として構築されていた。すなわち、二重の擬制を前提にしながらも健常者従業員の労働を強く規定する「労働と賃金の等価交換の原則」こそが、「働けない身体」の位置を労働の場に見出せなくさせる要因だということだ。
 労働の経済的側面、つまり労働が生産的で集団に貢献するものであるべきとする規範のみが問題であるという指摘は可能であるし、実際に多くの論者によってなされてきた。このような議論の一例として、本稿の冒頭では、七〇年代における障害者当事者による労働をめぐる議論をふり返り、労働を拒否する主張から「新しい労働」を作り出すという主張へと重点が移ってきたことを確認したといえる。しかし、今日私たちが「労働」と呼んでいるものは、メーダ[1995=2000]が指摘するように、産業革命期に発明されたものである。以後、労働は専ら効率性の原理に従って開発されてきた。これに対し、ヘーゲルやマルクスを契機として「開花すべき労働(▽11)」「労働のユートピア図式(▽12)」という「十九世紀的神話(▽13)」が生み出された。メーダによる議論を通して私たちが確認すべき重要な点は、能力を開花させる労働というイメージが、様々な問題を抱えながらも社会が発展段階にある産業革命期に生み出された一九世紀的神話であるという指摘、そして、労働が人を社会的な価値ある存在として位置づけるものであるべきという規範は、労働が生産的で集団に貢献するものであるべきという規範と不可分の、むしろ生産性を前提に組み立てられたものだという指摘だ。
 本稿で報告した事例を通しても明らかなように、障害者の働く現場において現出する問題とは、「できる」「できない」


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をめぐり、また労働の経済的側面(生産性)と理念的側面(自己実現)をめぐり語られる言説の整合性をどうつけるのかという問題である。にもかかわらず、「働けない身体」の社会での存在をどのように認めるのかという議論と、「働ける障害者」の経験する格差や差別をどう是正するのかという議論は、三〇年にわたる時間を経てもなお止揚されることなく並存してきた。私たちは、あたかも「能力を開花させる労働」という十九世紀的神話に目隠しされたままに、労働力市場へと駆り出されてきたかのようだ。
 労働の場は、もはや障害者が参加することを望んだ「社会的な場」ではなくなったのか。あるいは、初めからそのような場ではなかったのか。今日もなお、事業所Xに象徴される、隔離された空間としての障害者の就労場面では、経済的側面(生産性)と理念的側面(自己実現)との乖離や矛盾が顕在化している。そして、隔離された空間にある混乱に蓋をしたままに、雇用率の達成が謳われ求められている。私たちは、労働のあり方を「開花的」なものとし正統化する神話に惑わされることなく、今一度注意深く見つめ直すべきなのではないだろうか。

  キーワード:障害者、労働、エスノグラフィー
  keywordswords: disabled people, work, ethnography

  註
▽1 障害者の労働に関しては「障害者雇用率制度」が定められており、民間企業、国、地方公共団体は、それぞれ、障害者雇用促進法に定める法定雇用率に相当する数以上の障害者を雇用しなければならないとされている[厚生労働省、二〇一〇]。
▽2 ここで「働けない身体」という言葉は、障害を個に起因するものとして位置づけることを意図して用いているのではない。社会的障壁を取り除いてもなお人には「できない」ことが多く残る、このことを指して用いている。
▽3 「新しい労働」をめぐる議論には、マルクス主義の影響が色濃く見られる。例えば、労働を拒否することから「新しい労働」へと向かう転換期の議論として、次のようなものがみられる。「労働力商品として成り立たず労働価値を生み出さないといわれる重度障害者はどうしたらいいのか?[中略]われわれ障害者は資本主義社会での賃労働と資本の関係を問い直し、障害者にとっての労働概念を作り出し、障害者の「自立」と「解放」の思想を作り出していかなければならない」[全障連全国事務局、一九七六、一四九頁]。「重度障害者は一人で大小便を始め多くのことができない。ここに重度障害者の存在価値があり、重度者でないと果たせぬ役割がある。その生こそ、重度者


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にとっての真の労働であろう。まさに、労働とは、その原始形態がそうであったように、人間が、共に生きていく以上、共同社会のあり方にとって必要な行動、営みすべてを意味する。[中略]地域社会は悪霊のような労働に取り付かれているゆえに変革を必要とする。そして障害者こそ、その生そのものから、変革のために必要な労働の役割をもつ。この役割を障害者(重度程)以外に誰がになえるというのか」[全障連全国事務局、一九七六、一七二頁]。しかし、このような「新しい労働」を求めた運動の展開に関する詳細は、あまり研究されていない。現在筆者自身が更なる研究に取り組んでいるところである。
▽4 ここで指摘している提供する労働と支払われる賃金の等価交換の原則は、「メリット=IQ+努力」と定式化される「メリトクラシー」の観点にも通じる。メリトクラシーとは、ここでは「人々の「能力」に基づいて社会的地位、すなわち職業や収入、権力や権威など、労働と不可分の諸要素が決定されるということを基本原理とする社会」[本田、二〇一〇、十二頁]のことを指す。
▽5 調査者は以前、身体障害者通所授産施設で作業指導員として働いていた。
▽6 佐藤さん自身は「仕事を続ける気があるのか?」という問いかけには応答しない。ただ、「僕、コーヒー好きなんだ」といったことは答える。職場への行き帰りの際、缶コーヒーを買うことを楽しみにしている。
▽7 この数値はあくまでも調査者の試算である。他部署での障害者従業員の在籍状況や、ダブルカウント制度の影響もあり、実際に支払っている納付金の額については確認できていない。
▽8 湯浅[二〇〇八]などにて、「溜め」という言葉を用いて削ぎ落とされている物事の重要性が論じられている。
▽9 「自己実現系ワーカホリック」「〈やりがい〉の搾取」という言葉において指摘されている事柄は、労働により労働者の自己実現が達成されているのであるから問題ではないという議論ではなく、彼・彼女らが自発的に「自己実現」に邁進しているように見えて、実は彼・彼女らをその方向に巧妙にいざなうしくみが、働かせる側によって、仕事の中に組み込まれている点を問題視する議論である[本田、二〇〇七、一一六頁]。
▽10 古くはマルクスによって唱えられたものとしてあまりにも有名であるが、その他にも立岩[一九九七]や[ Fitzpatrick, 1999=2005]、湯浅[二〇〇八]など、多くの書物においてこのような議論は確認される。
▽11 「開花すべき労働」という語によってメーダは、労働を「創造的な自由」や「個人の自己実現手段」と考える人々の観点を指している[Meda, 1995=2000; 118-119]。
▽12 「労働のユートピア図式」という語によってメーダは、「労働は疎外の場であるが、労働の遂行条件を根本的に変えさえすれば労働の本質を取り戻すことができる」という主張を指している。この論においてメーダは、『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスの「諸個人は、彼らの自律的活動に到達するために、現存の生産力の総体を領有しなければならないところまできている。[中略]この段階になってはじめて自律的活動は物質的生活と合致するが、このことは全体的個人への個人の発展およびあらゆる自然的成長性の脱却に対応する」という議論を引用している[Meda, 1995=2000: 154]。
▽13 メーダは、個人と集団の両立が労働によって保障され、生産の上昇が


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他者による規定からの解放へと結びつくと信じられ一九八四年の革命を起こすほどの力を持ったことを指して「神話」とよんでいる[ Meda, 1995=2000: 119-122]。

  文献
阿部真大、二〇〇六、『搾取される若者たち ―バイク便ライダーたちは見た!』、集英社
青木千帆子・渥美公秀、二〇〇九、「障害者」の無力化に規範が及ぼす影響 ―就労場面を通した分析」、『障害学研究』五巻
原田豊、一九八三、「依存から自立へ」、『季刊福祉労働』二十巻姫岡和夫、一九八一、「国際障害者年を機に「障害者」の自立と完全参加を求める大阪連絡会議」、『季刊福祉労働』十巻
本田由紀、二〇〇七、「自己実現という罠〈やりがい〉の搾取 ―拡大する新たな「働きすぎ」(特集 労働破壊―再生への道を求めて)」、『世界』、七六二巻三号
本田由紀(編)、二〇一〇、『労働再審1―転換期の労働と〈能力〉』、大月書店
石川准・長瀬修編、一九九九、『障害学への招待―社会、文化、ディスアビリティ』、明石書店
異端の落とし胤、一九七六、「人間の創り上げた虚像 ―労働から解放された存在」、『あゆみ』三五号
笠間ゆき子、一九九一、「自立生活に向けて施設で何ができるか」、『季刊福祉労働』五一号
厚生労働省、二〇〇八、「第三〇回障害者部会資料[平成二〇年六月九日]」
倉本智明、一九九七、「未完の〈障害者文化〉 ―横塚晃一の思想と身体」、『社会問題研究』四七巻一号
Mauss, Marcel, 1970, The Gift: Forms and Functions of Exchange in Archaic Societies, Law Book Co of Australasia(=マルセル・モース著、吉田禎吾、江川純一訳、二〇〇九、『贈与論』、ちくま学芸文庫)
Meda, Dominique, 1995, Le travail: Une caleur en voie de disparition, Aubier;(=ドミニク・メーダ著、若森章孝・若森文子訳、二〇〇〇、『労働社会の終焉』、法政大学出版局)
小川浩・梅永雄二・志賀利一・藤村出、二〇〇〇、『重度障害者の就労支援のためのジョブコーチ実践マニュアル』、エンパワメント研究所
Polanyi, Karl, 1944, The great transformation: The political and economic origins of ourtime. Beacon Pr.(=ポラニー著、野口建彦、楢原学訳、二〇〇九、『大転換』東洋経済新聞社)
杉野昭博、二〇〇五、「障害」概念の脱構築―「障害」学会への期待」『障害学研究』一巻
鈴木隆、二〇〇二、「雇用をめぐる諸政策―諸国を中心に」、竹前栄治(編)『障害者政策の国際比較』、明石書店
障害者高齢者雇用支援機構、二〇一〇、「障害者雇用納付金制度について」 http://www.jeed.or.jp/disability/employer/koyounoufu/about_noufu.html(最終アクセス日:二〇一一年一月二四日)
田中耕一郎、二〇〇五、『障害者運動と価値形成―日英の比較から』、現代書館
立岩真也、一九九七、『私的所有論』、勁草書房
立岩真也、二〇〇一、「できない・と・はたらけない―障害者の労働と雇用の基本問題」、『季刊社会保障』三七巻三号


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富安芳和(編)、二〇〇一、『援護就労の挑戦』、学苑社
Fitzpatrick, Tony, 1999, Freedom and Security, Palgrave publishers Ltd;(=トニー・フィッツパトリック著、武川正吾・菊池英明訳、二〇〇五、『自由と保障―ベーシック・インカム論争』、勁草書房)
遠山真世、二〇〇一、「障害者雇用政策の三類型 ―日本および欧米先進国の比較を通して」、『社会福祉学』四二巻一号〈http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/06/dl/s0609-6a.pdf〉(最終アクセス日:二〇一〇年五月二六日)
臼井久実子(編)、二〇〇一、『Q&A障害者の欠格条項―撤廃と社会参加拡大のために』、明石書店
湯浅誠、二〇〇八、『反貧困―「すべり台社会」からの脱出』、岩波新書
全障連全国事務局、一九七六、『全障連結成大会報告集』一巻、長征社

(あおき・ちほこ/立命館大学 立命館グローバルイノベーション研究機構)


※(行き詰っているんですが)その後考えていること
◇青木 千帆子 2010/09/25-26 「「できない」ことはどう位置づけられるのか――共同連における議論の分析」 障害学会第7回大会 於:東京大学
◇青木 千帆子 2012/03/04 「『地域に出る』それは手段だったのか目的だったのか」 障害学研究会中部部会ワークショップ・東海社会学会第7回研究例会 於:愛知大学 ⇒『障害学研究』9号に掲載していただきました。
◇青木 千帆子,2012/09/02,「障害者から見た労働」,自主講座:社会的経済と社会的事業所,第29回共同連全国大会 於:立教大学池袋キャンパス


*作成:青木 千帆子
UP: 20120907 REV: 20131004
全文掲載  ◇障害者と労働 共同連 共同体運動・コミューン運動 
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