HOME > 全文掲載 >

「プロレタリア音楽家同盟における移動音楽隊の実践」

西嶋 一泰 2012/03/12
角崎 洋平松田 有紀子 編 20120312 『歴史から現在への学際的アプローチ』,生存学研究センター報告17,431p. ISSN 1882-6539 pp.284-306

last update: 20131015


西嶋 一泰
(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程)


はじめに

 「和太鼓ブーム」と呼ばれて久しい。1970年代から盛んになった和太鼓は、現在把握されているだけでも4000を優に越すグループが活動を行っている(東方 2008: 74)。現在数多く展開されている和太鼓サークルの一つの起源となったと言われているのが、わらび座である。わらび座は日本各地の民俗芸能や太鼓を取材し、舞台に取り入れる演劇活動を展開していた。最大手の和太鼓メーカー浅野太鼓の和太鼓雑誌『たいころじい』でも、わらび座の特集が組まれ、わらび座は「戦後和太鼓の歴史を考えるうえで欠かすことのできない重要な役割を果たした」、「日本各地の和太鼓芸能を舞台芸能として洗練することに最初に体系的に取り組んだ」グループとして重要視される(たいころじい編集部ほか 1993: 64)。また和太鼓だけでなく、日本の民俗芸能を学校教育に取り入れる試みである民舞教育運動もわらび座が端緒となり、各地で教育実践が展開され、民俗芸能サークルも数多く生まれている(中森 1990; 岡田ほか 1998; 黒井・前田 2009)。
 この全国各地に展開する和太鼓サークルや民俗芸能サークルのルーツとなったわらび座だが、1951年に共産党の文化工作隊海つばめとして活動を始めている(1)。このわらび座が民俗芸能を扱うようになった経緯については、わらび座の創立者原太郎の思想・実践を中心に西嶋(2010)で明らかにした。そして本稿では、このわらび座へと繋がる原太郎の戦前の活動として、プロレタリア音楽家同盟における移動音楽隊について考察を行う。
 戦前の1930年代前半に活動を展開したプロレタリア音楽家同盟(以下、「PM」と呼ぶ)は、「プロレタリア音楽家同盟」という大層な名前がつきながらも、実働メンバーは音楽家くずれの寄せ集め集団であった。PMは、プロレタリア運動を、音楽を用いて展開するも、そのレパートリーは、労働者やメーデーについての歌の合唱がメインだった。警察や企業の経営者などに活動を妨害されながらも、彼らは自らの活動のフィールドをどこに求めたのだろうか。
 本稿では、のちにわらび座を創設する原太郎を中心に、PMに集まったメンバーたちの実際の活動の様子を「移動音楽隊」の実践を中心にとりあげる。この移動音楽隊のスタイルこそ、原太郎を通じてわらび座へと引き継がれ(原 [1968]1976: 65)、果ては現在数多ある和太鼓サークルや民俗芸能サークルへと影響を与えているといえよう。ここで獲得された移動音楽隊のスタイルとはどのようなものだったのか、そしてその移動音楽隊のスタイルはどのような条件下で獲得されたのかをみていきたい。
 第1節では、先行研究を概観する。PMについての先行研究をふまえ、PMに対して新たな評価軸を加えるため、サークル研究との接続を試みる。
 第2節では、まずPMおよび原太郎の概略をふまえ、PMにおける音楽会の失敗から、千田是也が紹介するドイツのアジプロ隊に影響を受け、原太郎が中心となって展開した移動音楽隊についてとりあげる。また移動音楽隊の活動を成立させた背景についても考察を加えていく。


1.先行研究

 1. 1 プロレタリア音楽家同盟の先行研究
 PMの先行研究は少ない。PMを中心に論じたものとしては、秋山(1974a; 1974b)程度である。PMに参加した人物による手記でまとまっているものとしては、河野(1968a, 1968b; 1968c)、原(1976)がある。音楽評論家の秋山邦晴は、その研究状況を以下のように述べる。

P・Mとは、日本プロレタリア音楽家同盟の略称であり、昭和4年から9年にかけて、日本の作曲会の内部と外部とで独自な運動をつづけたグループであった。/[筆者注:引用文中の「/」は改行を表わす、以下同じ]ところがいまでは日本の作曲界の歴史から、この運動は落ちてしまっている。このような運動があったことさえ黙殺されてしまっている。(秋山1974a: 68)

 秋山は、文学史においてプロレタリア文学が確固たる位置づけがなされているのを例にあげて、音楽史におけるPMの活動の再評価を試みている。
 では、なぜPMは「黙殺」されてしまったのだろうか。秋山は、PMの活動を音楽史、作曲界が評価してこなかった理由を、その活動の政治色の強さに求めているが、それだけではない。PMの活動には、作曲家の吉田隆子・露木次男・守田正義、演奏家の関鑑子などが参加してはいるが、いずれも活動時期は限定的で、音楽的にまとまった成果をあげることはできなかった。実際にPMの活動をしていたのは以下のような人びとだった。

ですから、安定していたというのは、10人程度でしょうね。/10人というのは、そういった作曲家のほかに、音楽家というには少し気の毒な人も加えてですよ。文化活動家で、どこへ行っても、どうにか楽譜の読み方を覚えて合唱隊に参加できるという程度です。(秋山 1974a: 72)

 以上は当時PMの活動に参加していた原太郎の言である。「音楽家というには少し気の毒な人」が中心となっていた活動を、音楽史や作曲界が評価するのは難しく、「黙殺」されてしまったのではないだろうか。それでも秋山は、PMの活動を再評価するにあたって、PMを創設した守田正義や、その後運営の中心を担った原太郎らにインタビューを試み、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)、のち日本プロレタリア文化連盟(コップ)など他のプロレタリア芸術運動と関連づけている。
 しかし、本稿が注目するのは、秋山が注目したPMの文化思想的背景やプロレタリア芸術活動における音楽家や文芸作家の交流や影響関係ではなく、「音楽家というには少し気の毒な人」たちが行ったPMの実践である。そのため本稿では、ナップの音楽部で活動し1929年にPMを創設しながらも、徐々に活動からはなれていった守田正義よりも、1931年から途中参加し、以降PMの実働部隊を率いた原太郎を中心に取り上げる。

 1. 2 サークル研究との接続
 秋山は音楽史のなかでプロレタリア音楽家同盟を評価しようとしたが、PMの移動音楽隊の実践はサークル研究の文脈で論じられるのではないだろうか。
 そもそも「サークル」という言葉は、蔵原惟人がプロレタリア文学運動の中で1931年8月の『ナップ』に発表した論文「芸術運動の組織問題再論」において初めて発表したもので、運動の単位グループを指すものとして国際共産主義運動から持ち込まれた概念だった(道場2007: 49)。PMはもともとナップの音楽部として始まっており、独立後もナップと連絡を取りつつ活動を展開したため、この蔵原が言う意味での「サークル」という言葉とも緊密に関係している。
 だが、それだけではない。「サークル」は極めて政治的な用語であり、当初は共産主義者たちがその担い手であった。しかし、戦後の「レッドパージ」をうけた共産主義者たちが拡散し、各地で一般の人々を巻き込みながらサークルを再び組織していった。そして1950年代前半には、労働者や主婦たちによる自発的なサークルが数多く活動を展開していった(道場 2007)。この1950年代に展開された文化運動は、従来は共産党が展開した政治的な運動としてのみ観られていたが、一般の人々が多く参加した自発的な文化運動として再評価しようという動きが近年ある。例えば、成田(2004)で1950年代を「サークル運動」の時代と捉え、労働者や民衆が「主体」として文化活動に参加し始めたことを評価する。2007年には、『現代思想』で「戦後民衆精神史」の特集が組まれ、1950年代の文化運動が再び注目を集める大きな契機となった。
 この1950年代のサークルの再評価の中で注目されるのは、共産党の政治方針に囚われない、労働者や主婦たちの主体的・自発的に展開される多様な文化活動である。詩や歴史、演劇や音楽など、それまではそんな創作活動に取り組んだことない人びとが作品をつくりはじめたのである。その活動は、サークルで大量に生まれる下手な詩の評価をめぐり「へたくそ詩」論争を巻き起こし(鳥羽 2010: 21-25)、かたや鶴見俊輔や福田定良によって「大衆芸術」あるいは「限界芸術」として評価された(鶴見 1967; 福田1957)。  専門家ではない人びとによる文化実践、試行錯誤、それらはまさに、PMの活動においてなされたことであったのではないだろうか。


2.プロレタリア音楽家同盟での原太郎の実践

 2. 1 プロレタリア音楽家同盟と原太郎の概略
 そもそもPMとはいかなる組織・活動であったのか。秋山(1998)を参照しつつ、簡単にまとめる。1928年3月、日本プロレタリア芸術連盟と前衛芸術家連盟が合同して、ナップが結成される。その専門部の一つとして音楽部が設置され、この音楽部が1929年4月にナップの方針を受けて日本プロレタリア音楽家同盟として独立した。関わった時期は異なるが主な参加メンバーは、作曲家守田正義、露木次男、原太郎、吉田隆子、石井五郎、演奏家の関鑑子、井上頼豊、福田上一ら。1934年に政府の弾圧を受けて、解散している。  この時期のプロレタリア芸術運動は組織の改組や分裂など非常に多く複雑に絡み合っており、PMもその例にもれないが、その詳細を考察することは本稿の主旨ではない。その代わり、PMの実務的な中心を担った原太郎の略歴を原の回想録(原 1984)から、確認しておこう。
 原太郎は、1904年3月25日、兵庫県養父郡滝の谷村で生まれ、大阪で育った。音楽好きでクラブや独学で、合唱や作曲に取り組む。大阪高等学校から、1926年に東京帝国大学の理学部に入学するも中退。1928年に東北大学の法学部に入学するが、東京の弁護士事務所でアルバイトを続ける。ふとしたことから日本初のプロ合唱団ヴォーカルフォア合唱団(2)のテストを受け、入団し、音楽関係の道が拓かれる。原は、ヴォーカルフォア合唱団と関係があった塩入亀輔紹介で、雑誌『音楽世界』の編集の手伝いに入り、PMを取材する。そしてPMの中心だった守田正義に説得され、1931年、自身もPMに参加し、組織部長になる。やがてこのPMの仕事が忙しくなり、ヴォーカルフォア合唱団も、『音楽世界』の編集も辞め、活動に専念。翌1932年にはPMの書記長となり、以降1934年PM解散まで実務的な中心となる。またこの間に小説家の鹿地亘の妹でPMのメンバー峯弘子と結婚もしている。  以上の経歴からわかるように、PM当時の原自身もプロの音楽家とは言い難い(3)。原は学校の音楽の先生や独学によって作曲を学びつつ、高校の合唱部で活動した程度の、アマチュア音楽家というより音楽愛好家であった。それが、ヴォーカルフォア合唱団への入団を機に音楽の道に飛び込み、PMにたどり着き、組織部長、書記長となって活発に活動しはじめたのである。

 2. 2 メーデー・カンパ音楽会の失敗
 PMという組織には音楽の専門家は必ずしも多くなかった。

我々の活動の中には音楽家でない人が余りにも多いのだ。いや寧ろ、音楽家が余りに少ないのだ。我々の合唱団には楽譜の十分に読めない人、音程の甚しく不正確な人などが澤山居る。正しいテンポで、楽譜と指揮者の支持にしたがって統制ある合唱の出来る人は非常に少なく、2人か3人位しか居ないのだ。(原 1933a: 30)

 実際にPMに残って原とともに活動をしたのは、大連のヤマトホテルのバンドあがりの和田節造、流しの演歌師であった武者秀男、作曲家の吉田隆子などのかなり寄せ集めの雑多なメンバーだった。書記長となった原もまたほぼ独学のアマチュアだったことを考えれば、PMの実態が見て取れる。当時のPMは、このようなメンバーが集まって、合唱を中心に音楽会を開催していたのだった。
 PMに入りたての原は、『ナップ』の1931年6月号で、「メーデー・カンパ音楽会」という記事を書いている。記事では、PMが「1931年メーデーへの大衆動員に対する積極的参與」を目的に、労働組合の組合員向けではなく、まだ組合に入っていない大衆にむけての音楽会が企図実行された様子が書かれている。「大森の××××會社××會クラブ」、「大島関東消費組合連盟本部」、「柳島帝大セツルメント」の3ヶ所でそれぞれ公演を行った。プログラムは、「普通の単なる音楽會と異なり(中略)曲目よりも、スローガンを主とし」た合唱であった。「アジプロ(アジテーション・プロパガンダ)」活動と位置づけられているように、政治的な主張を歌に乗せて発信するという形をとっている。この音楽会の顛末はといえば、「××會」は、宣伝を組合の青年部が受け持ち300〜400人の動員ができると思われたが、直前に「大量馘首があり、『首切り直後に音楽會でもなからう』」ということで、20人程度しかこなかった。消費組合では、数人の本部員と、十人ほどのピオニール(少年団)、柳島のセツルメントでは2〜3人の所員、近所の子供、通りすがり数名、スパイを相手に音楽会を行った。PMの実際の活動としてはこのようなものであったのだ。原自身もこのメーデー・カンパ公演を振り返って「自己批判」している。

我々は一層大きな誤謬を敢てした。それは、今度の様なメーデー・カンパ音楽會がそれだけで獨立して何か大きな効果を挙げ得るかの様な空想の上にすべてがなされた點にある。(中略)したがって徹底的に街頭的聴衆を目標とするに流れ、工場農村に根を張つた力ある活動となすための努力が毫も拂はれなかった點にある。(中略)我々は當日更めて我々自身の根をシツカリと工場農村におろす事の意義と必要を再認識したのであつて、現在の所はまださう云ふ根拠は持つてはゐないのであるが、それにかくまでに街頭の聴衆以外に動員方法を考へないで好い筈はなかつたのである。(原 1931: 75)

結語。我々は我々の方針をかく理解しなければならぬ。/街頭より職場へ!/公演より日常闘争へ!(原 1931: 78)

 「メーデー・カンパ音楽會がそれだけで獨立して何か大きな効果を挙げ得る」というのは空想だ、と原は断ずる。通常の音楽の公演や、あるいは街頭で自らの腕だけを頼りに活動するパフォーマーたちと異なる論理を原はここで打ちたてている。これは無論、街頭で大衆が足をとめるほどのパフォーマンスをするには、当時の原たちのPMは腕も経験もなかったということかもしれない。
 だが、原がたとえ多く集まったとしても街頭の聴衆を相手にするのでは駄目だと切り捨てる。結語である「街頭より職場へ!/公演より日常闘争へ!」とは、原が戦後展開するわらび座の活動へもつながっていく言葉ともいえよう。寄せ集めのアマチュア音楽集団を率いる原は、自身のパフォーマンスの力量不足を考慮に入れながら(4)、自身たちの活動が最大限に発揮される方法を模索していたのではないだろうか。
 1929年に結成し、音楽的には目立った成果をあげることもなく1934年に解散したPM。1931年からPM参加した原は、さっそくメーデー・カンパ音楽会の失敗に直面する。素人集団を率いて、取締りに合いながらの活動を原はどのように展開したのか。それは、1933年から1934にPMが解散するまでのわずか一年間だが活動を展開した移動音楽隊に集約されるだろう。このPMの移動音楽隊に影響を与えた、千田是也が紹介したドイツのアジプロ隊について次にみていく。

 2. 3 千田是也のアジプロ隊 
 1933年当時、ドイツ帰りの千田是也がドイツの移動演劇隊を紹介し、日本でもメザマシ隊を組織して活動しており、原はそれに影響を受けて自身でも移動音楽隊を手探りではじめた。

我々の活動としても、戦後は「海つばめ」以来文工隊[筆者注:文化工作隊]と呼んでいますが、当時文工隊という名はなかったが、同じものが移動音楽隊という形であった。(中略)日本のサークル活動だって国際的な経験に多くを学んだものだし、移動音楽隊もやはり国際的な経験に学んだものです。一番痛切に学んだというのはドイツへいって当時帰ってきた千田是也、この人は当時最も戦闘的な演劇活動家だったのです。指導者だった。この人がもたらしてきた話の中に、移動音楽隊の話がある。(中略)当時のドイツの青年たちは何をやったか、トラックを1台獲得してその上にバンジョーだの人形などをもって歌をうたい、寸劇をやり、街の隅々にトラックをのりつけ人の集まる所でやる。バンジョーをかきならしていきなり歌をうたい人形を使って寸劇をやる。エーデルマン、ノスケの反動支配を暴露する。これはつかまれば大変な、ただでは帰れない。だから5分間そこでやって、またどこかへ行ってしまう。こういう活動をやっていたそうだ。そういうことを我々は聞き、何とかしてそういう活動の実質を我々の条件なりにやってみたいものだ、と、どんなに思っただろうか。余り派手な活動は出来なかったけれど、やはり我々の移動音楽隊の活動にそのドイツの経験はどんな大きな刺激と、そういう活動への憧れを養っただろうか、これはもう言葉につくせない。(原 [1968]1976: 65-66)

 ここでは、PM時代の移動音楽隊の着想が、原の戦後の活動である海つばめ、わらび座へと受け継がれていることが明言される。また、千田是也によって紹介されたドイツの移動音楽隊の話が熱っぽく語られている。どんな場所へでもトラック一台で赴き、バンジョーと人形でもって歌をうたい、寸劇を行う楽団の機動性と大衆性を原は評価する。これはあるいは、1940年代に国策に利用された移動演劇隊にも共通する部分でもあるが(5)、とりあえずここでは、この移動音楽隊というスタイルが原にとってどのような意味を持っていたのかを考えて行きたい。

 まずアジプロ隊を日本に紹介した千田是也だが、新劇の代表的な演出家で、1924年に築地小劇場の研究生となり、プロレタリア芸術連盟の演劇部を経て、1927年にドイツに渡り、1932年に帰国している。ドイツ滞在中に千田はドイツ共産党の党員となり、ドイツの演劇や音楽を用いた「アジプロ隊」に衝撃を受けて、帰国後にドイツのアジプロ隊を紹介している(千田 1933a; 1933b)。
 「獨逸アヂプロ隊の活動」では、まず「アヂプロ隊は獨逸のプロレタリアが、その闘争の過程に、闘争の必要に應じて作り出した、演劇的方法による煽動宣傳の一形式だ」と述べ、1930年のドイツ国会選挙においてドイツ労働者演劇同盟所属のアジプロ隊が、労働者周回、長屋の裏庭、工場の前、街頭、農村で行った650回の移動活動で、18万の観客を相手にし、1万2千人のオルグに成功し、パンフレットを1千マルク分売上げ、2万5千マルクの選挙資金を集めたという事例が紹介された(千田 1933a: 14)。
 ドイツのアジプロ隊の実態が、千田是也が言うようなものであったかは、定かではないが、少なくともドイツ帰りの千田がこのように展開する演劇のアジプロ隊を紹介したことは事実であり、「メーデー・カンパ音楽会」が失敗に終わった原は、この千田の記事をある熱狂を持って読んだことは間違いない。では、ドイツのアジプロ隊における実際の活動とはどのようなものであったのだろう。

朝早々だ。郊外線の列車の中は仕事に行く労働者の男女で満員だ。(中略)そこへ、汽車がもう出ようとする處へ。二三人の青年勞動者が飛び込んで来た。一人がしやがんで、何かを拾つた様な格好をする。「ウアツハ、賃金袋が落つこちてるぞ。誰んでえ一體?』/皆が耳をそばたてる。するともう一人が叫ぶ。『幾らって書いてあるんでえ? 幾ら位えかせぐのかなあ、そいつ、日に?』/『畜生、いやな野郎、幾ら入ってゐるかつて? ヘッ! 手前、いかほどの目くされ金を頂載してお家へ運ぶかは、自分で分ってゐそうなもんぢやあねえか?』/それから、三分と經たぬ中に、大統領緊急令に就いての、それから組合幹部の裏切と社曾民主黨の政策や、フアシズムに就いての議論が列車中に広がって行く。そして汽車が目的驛に着くまでに、これ等の全ての問題が革命的プロレタリアの立場から充分に討論しつくされる。そして汽車が止ると、三人の青年は眞先に飛び下りて、汽車の出口でビラを皆に手渡す。(千田 1933a: 15)

陽が照つてゐる。何千もの勞働者が湖畔の、川べりの無料水浴場に寝そべつてゐる。(中略)突然音樂が聞えて來る。浴客達の眞中に、アヂプロ隊の連中が急に列をつくつて歌ひ始める。(中略)それが終へて樂器を置いたかと思ふと、一人がすぐ話し始める(中略)そこで忽ち、アタリに議論がまき起る。そしてこの討論がアヂプロ隊の人によって。巧みに指導されて、討論の終る頃になると誰もが自分で次の様な結論に達する様になる。『そうだ俺たちを不幸から救ふのは、俺達自身の他にはない!』(千田 1933a: 16)

 朝の通勤電車の中で、あるいは休みの日の水浴場で、この後に続く例では出勤前の住宅街の中庭で、日常の風景の中に、ある異物としてアジプロ隊が入り込んでくる。演技、歌声、演奏によって人びとの注意を集め、日常の空間を変化させ、議論を巻き起こさせる。そして、その議論を導びき、人びとを革命へ向かわせる。アジプロ隊に対して人びとが実際にこのように受容したかはよくわからない部分ではあるが、アジプロ隊が備え付けの舞台ではなく、人びとの日常の生活の中に現れて活動を行う、いわば演劇のゲリラであった。
 興味深いのは、これらの場所である。街頭などよりオープンな場で行ってもよさそうなものであるが、労働者をターゲットに労働者が集まる場所を選んでいるのではないかという点だ。通勤の満員列車はあるいは特定の大きな工場に向かう列車かもしれない。保養所として使われる川べりの水浴場といっても、その浴場に集まるのは労働者が中心であったかもしれない。朝の住宅での公演もまた、その地区に住んでいるのはどのような労働者かはっきりと傾向があるはずだ。単に漠然とではなく、対象とする労働者の生活が営まれている場所に入り込んで、それを相対化させるような活動をアジプロ隊は行っていたのではないだろうか。
 アジプロ隊においては、「俺たちの演劇」と「彼等」の「職場の日常闘争」がいかに結びつくかが、そのパフォーマンスの目的に据えられた(千田 1933a: 21, 1933b: 7)。娯楽として演劇を観るのではなく、演劇を通じてあるムーヴメントに人びとを巻き込んでいくという方向性である。

 2. 4 原太郎の移動音楽隊
 このようにして千田是也によって紹介されたドイツのアジプロ隊に対して原はいち早く反応する。原は千田によって紹介されたアジプロ隊を「プロレタリアートの戦線に於て如何にすぐれた働き手」評し、「是非一讀されたい」と熱をもって薦めている(原 1933b: 67)。
 また原は、自分が出会った「アジプロ」的パフォーマンスの例として、中央線の中で国旗の掲揚を主張してまわる男の例を紹介する(原 1933b: 67)。その男のパフォーマンスは滑稽ではあったが、車内の人びとの興味をひきつけ、主張に耳を傾けさせたことは事実であり、見習わねばならないと述べる。
 アジプロ隊は、音楽会のように公演のために観客を用意するのではなく、すでに労働者たちが集まっている日常の場に赴いて公演を行う。この公演の形態こそ、原が自身の活路を見出したのではないだろうか。千田に触発され、原はPMにおいて自ら組織するアジプロ隊、移動音楽隊の活動を展開し始める。原は、千田の1933年2月の「獨逸アヂプロ隊の活動」と同月に「先ず何を為さねばならぬか? プロレタリア音楽運動を飛躍させるために」という記事を『プロレタリア文化』に寄稿しており、その中でアジプロ隊、移動音楽隊についても触れている。原は、その「先ず何を為さねばならぬか?」の中で、従来の活動とその停滞を自己批判しつつ、移動音楽隊の必要性を語る。
 当時のPMの規模もこの記事からわかる。1931年12月の時点で、東京の同盟員数は8月の81人から56人に減り、大阪も20人から14人に減っている。京都、神奈川、仙台、札幌も数名程度で活動が展開できるような状況ではなかった(原 1933a: 25)。
 「絶對的な立遅れ」と評されるこの規模のなかで、原を中心にPMの東京の実働人数は数名であった。この状況の打開策として「第1に、わがP・Mの活動を、その多様な姿で大衆の面前に展開し、我々の影響を先づ廣汎に押し廣める事」=アジプロ活動の重視(原 1933a: 26)を挙げる(6)。その中で、対抗すべき「敵」として、「ブルジョア反動音楽」や「卑俗な流行歌」「封建的な民謡」をあげている。(原 1933a: 26)。芸術的な音楽から卑俗な流行歌まで、当時の一般大衆を取り囲むあらゆる音楽シーンに対して、「プロレタリア音楽」を対抗させていこうというのである。そのための形態として、「公演」、「出版活動、刊行物」とならんで、「移動音樂隊(アジ・プロ隊)の活動」が挙げられている。「我々は未だ、恒常的なアジ・プロ隊は持つてゐない」としつつ、「この形態の活動は最も多くの問題と可能性に當んだ活動であると思ふ」と移動音楽隊に大きな希望をみている。だが、この移動音楽隊を実践するにあたって、その方法論にも注意を払っている。

アジ・プロ隊の演奏活動は、大勢の合唱でやるのと同じ事を2、3人の少人數でやるのであつてはならない。その様な少人數で無伴奏(精々提琴の助奏位で)やられる演奏形式には、その効果を高める爲には獨特の研究と工夫が必要である。のみならず、アジ・プロ隊の活動には演奏者と聴衆とが、完全に意氣統合する事が必要なのだ。(原 1933a: 28)

 アジプロ隊が少人数で、その場にいる多くの大衆を巻き込むためには、旧来の「音楽会」形式ではない方法が培われる必要があるということ、またそれこそが「プロレタリア音楽獨特の方法」となりうることが提起されている。この方法は少人数でアマチュアばかりというPMの実情とも合致したということもある。だが、そこで獲得された、「企業、長屋、部落の廣範な大衆の中へ」あるいは「演奏者と聴衆とが、完全に意氣統合する事が必要」という方針は、単なる流行や現状の代替手段を越えて、原の中に根付いていく。
 さらに原は、1933年5月に「経営(部落)内アヂ・プロ隊結成と我が移動音楽隊の新しい任務」を執筆し、より「アヂ・プロ」隊に焦点をおいた持論を展開させている。これは、千田(1933b)に対応した形で、単なる「街頭」ではなく、人びとの生活と結びついた「企業」や「農村」の中に入っていっての活動が模索されている。そして、実際に移動音楽隊がどのような活動を行ったかについては同年6月に原が『プロレタリア演劇』に「メザマシ隊と移動音楽隊とはどんなに共働したか?」に詳しい。ここでは、1933年3月より活動してきた日本プロレタリア演劇同盟(プロット)のメザマシ隊、PMの移動音楽隊が「共働」して「藝術アジ・プロ活動」をどのように行ったかが記されている。

事例A 
江東×××のピクニツクに對する突撃計畫(實現しなかつた)
4月の第3日曜(4・16)に×××が荒川にピクニツクに行くと言ふ情報が入つた。道順、時間等が調査された。メザマシ隊と移動音楽隊は各二人のメンバーを決定し、この四人が適當な時間に適當な場所で×××の兄弟達をまち受け、うまく話しかけて合流する様に努力することが計畫された。戰争反對とメーデーとを主題としたレパートリー制作が、メザマシ隊で二つ、移動音樂隊で一つ着手され、このほかに以前からあるオペレッタ「爺さんと子供」が一人のメザマシ隊員と一人の音樂隊員とで稽古された。/この創意に富めるすぐれた計畫は、不幸にして實現しなかつた。原因は、先方の計畫變更、その後の消息不明にある。(原 1933c: 56-57)

 原らは、会社やサークルがピクニックに行くという情報をつかみ、それにあわせてメンバーや楽曲が組まれ、実行するというまさに「ゲリラ」的な活動を、完全に手探りの中で行った。
 この事例Aでも活動は不発に終わっているが、事例Bでは、城西の文学サークルを相手に行ったが、「相手が街頭的文學サークルである爲に」、反応がよくなく不成功に終わる。ここで言う「街頭的」というのは、生活や職場を共有していない烏合の衆といったようなニュアンスで原の中では否定的に評価されている。事例Cでは、「××館」の争議へ出向いて「インターの合唱」を行う予定であったが、「ダラ幹[筆者注:堕落した幹部]」によって閉め出され、結局不成功であった。

事例D
ある朝鮮の兄弟スポーツ・グループを中心とした失業者及半失業者(概ね紹介所關係)の一團のピクニツクに。/4月25日二子玉川より稲田堤へ。/メザマシ隊、三・一劇團、移動音樂隊各二名出動。最初四・一六に計畫されたが天氣の都合で廿日に延期され、更に25日にのびたその爲、我々の準備活動はかなり充分に行はれた。(中略)我々はこの爲に20日から24日迄の五日間を如何に準備したか?/第1に××團歌が作られた。歌詞は團員自身の筆になつたものの、曲はP・Mで作曲された。/第2に、一人のメザマシ隊員が20日から××團の世話役の家に泊り込んで、居住に於ける相愛會の徹底した反動欺瞞ぶりに親しく接して、相愛會バクロと××團のアジ・プロを結びつけた小劇「××團萬歳!」を書いた。/第3に、日本帝國主議の朝鮮民族厭迫の歴史を取扱ったシプレヒ・コール「己未運動」がP・Mによって作られた。(中略)××團歌は、23日以來××團の世話係の家に泊りこんだメザマシ隊員が中心になって多くの團員が練習を積んだ。「××團寓歳」と「己未運動」はメザマシ隊と三・一劇圏と移動音樂隊によって討論が重ねられ、内容が修正せられ、充分に練習された。(注力)當日は團歌は××團員をはじめ、音樂隊、メザマシ隊、三・一劇隊等のメンバーによって繰返し合唱された。用意された「××團寓歳」と「己未は勿論の事、三・一によって「泥棒」が一人のメザマシ隊員と一人の移動音樂隊員とによって「爺さんと子供」が、全體の興味の高まりの結果とび入り的にやられ、日本語、鮮語の闘争歌、朝鮮民謡、その變え歌等が多くの人々によつて歌はれた。(原 1933c: 57-58)

 事例Dの場合もやはりサークルのピクニックが移動音楽隊の標的となっている。延期に延期が重なって、「準備活動はかなり充分に行はれた」にも関わらず、当初の予定にあった演目が用意できないなど、アジプロ活動がまだ場なれをしていないことがわかる。
 だが一方で、「一人のメザマシ隊員が20日から××團の世話役の家に泊り込んで」、議論や取材を行って小劇「××團萬歳!」を書くというかなり活発な面もみせている。この対象となる労働者や農民の生活に入っていき、取材を行って、それに即した創作を行うというスタイルは、後に原が展開するわらび座における民俗芸能取材のスタイルに通じるものがある。だが、若干異なるのは、この場合はあくまで労働者の主題を取材し、音楽や演劇などの表現手段はPMやメザマシ隊が請け負っていた。わらび座の民俗芸能取材の場合は、農民たちの主題とともに、歌や踊りといった表現手段も農民たちへの取材とともに行われる、ということがあるのだがここでは触れない。
 ともかくも、移動音楽隊のスタイルとは、「街頭より職場へ!/公演より日常闘争へ!」のスローガンどおり、人びとの生活の場へと入り込んで、人びとを巻き込んでいくというものだったのである。舞台と観客が切り離される公演形式の活動には、人びとを魅了する芸が要求される。だが、サークルの歌をつくり、いっしょになって歌うことによって、観客はいなくなる。人びとを次々にプロジェクトのメンバーへと巻き込んでいく。そこにあるのは、巧みな芸ではなく、パフォーマンスを介したコミュニケーションだったのである。

 2. 5 プロレタリア音楽家同盟の活動背景
 PMの活動を、移動音楽隊を中心にみてきたが、どのような時代的な条件を背景に展開されたのか改めて考察していきたい。
 後期PMは積極的にアジテーション・プロパガンダ活動を展開していたが、1930年代のプロレタリア芸術運動において芸術の大衆化は、一つの大きなテーマであった。蔵原惟人、中野重治、鹿地亘、貴司山治、林房雄らによって10年以上繰り広げられた、「芸術は大衆化されなければならないという命題」と、「すぐれた芸術が必ずしも大衆に受け入れられるとは限らないという現実」をどのように埋めていくかという論争であった(林 1988: 41)。文学を中心とした論争だったが、コップおよびナップを主導した蔵原惟人の文学以外の芸術活動に対する態度は、「諸分野にわたった文化サークルを底辺とする幾つの芸術団体をコップがもとうと、それは「芸術を利用して大衆の直接的アヂテーシヨン」」(林 1988:43)でしかなかった。プロレタリア芸術運動において、大衆化とは量のことをさし、党員の頭数を増やすことであった。
 その意味で、千田(1933a)においてドイツのアジプロ隊を、カンパやオルグなど具体的な効果において紹介したのは有効であったといえよう。だが、原は量のことは問題にしつつも、大衆の中に入っていく際に、単に烏合の衆を相手にする「街頭的」な活動ではなく、人びとの生活に入り込み「日常的闘争」と結びついたパフォーマンスを志向していったのはこれまで確認してきたとおりである。
 また一方で、PMの活動を成り立たせている経済的な条件はどのようなものだっただろうか。PMは、ナップの音楽部としてその活動を開始しており、ナップ、のちコップの支援を受けながら活動を展開した。ナップの要請を受けて組合の大会やメーデーイベントなどに出演していった(河野 1968a: 115)。また拠点に関しても、人形劇団プークと共同で村山知義のアトリエが提供されるなど運営のかなりの部分をナップのネットワークに頼っていたといえる(河野 1968a: 122)。だが、それゆえに1934年のコップの解散と時期を同じくして、PMもまた解散している。
 もちろんPMも独自に音楽会を開くこともあった。1930年に第一回プロレタ音楽会を、上野自治会館で開催し、入場料20銭で、PMの収益が100円あった。だが、この100円は、「『戦旗』三千円基金募集」に寄付されており、PMの恒常的な資金源となったわけではなかった。初期PMに関わった人びとは、「音楽家として世に出た人とか新興作曲家連盟の一人だとか、進歩的文化人の夫人」など、特にPMで稼がなければならないという人びとではなかった(原1976: 51)。だが後期PMを担ったのは、「音楽家というには少し気の毒な人」たちである。原は初期PMの音楽家たちは、「ルンペン的な生活習慣との同居に耐えられ」ずに、PMの活動から離れていったのではないかとしている(原1976:52)。
 この「音楽家というには少し気の毒な」ルンペン風の人たちに移動音楽隊は意外な人気であった。

移動音楽隊というのは、3回のうち1回はたいていとっつかまる、つかまれば一ヶ月は帰ってこれない。(中略)志望者は多いんだ。食いつめ者のルンペンみたいにね。つかまれば生活の心配がないからね(笑い)(原1976:40)

 初期PMに見られた音楽会の収益を寄付するなどの経済的余裕とは対照的に、食うに困るほどの状況に追い込まれながらもPMの活動を続ける「食いつめ者のルンペン」たちの姿が映し出される。
 移動音楽隊は、基本的には当局に許可を得ないゲリラ的な活動、非合法な地下活動であり、検挙されることも多い。しかし、それでも後期PMが移動音楽隊を活動の中心としなければならなかったのは、通常の音楽会を開くことすら困難になりつつあったためともいえる。音楽会を開くにあたっては、「歌詞の検閲」がされ、公演の最中にも「中止! 中止!」と叫んで妨害してくる(河野 1968a: 118)。PMに新メンバーが入ろうものなら、うむを言わさず警察にひっぱられ、集まって練習することすら困難になっていく(原 1984: 76)。原太郎もメーデーの予防拘禁などで捕まり、半年近く警察署内で生活したという。
 このような取締りが厳しくなる状況のもとで、その規制をかいくぐる移動音楽隊の活動を展開する過程で、PMの主力は気鋭の音楽家たちから、「音楽家というには少し気の毒な人」たちへと切り替わっていったのである。

 2. 6 移動音楽隊から文化工作隊へ
 戦前のPMの移動音楽隊のスタイルが、原太郎を通じて、戦後の文化工作隊海つばめ、ひいてはわらび座へと受け継がれている。では、どのように受け継がれ、またどのような部分が受け継がれなかったのかを、西嶋(2010)および創立30周年記念誌編纂委員会(1982)を参考に最後に簡単にまとめる。
 1951年、原はわらび座の前身である文化工作隊海つばめを、音楽家の雨宮すみえと2人ではじめた。アコーディオンを担いで、日雇労働者のたまり場や農村を渡り歩き、上演活動をするうちに徐々にメンバーが増えていった。音楽会を開くのではなく、人びとの生活の場へと自ら飛び込んでいくというスタイルは、まさにアジプロ隊、移動音楽隊のものである。
 そして、技量云々よりも、人びとをパフォーマンスの中へ引きずり込んでいくという手法がわらび座において存分に展開された。2人から始まったわらび座が、公演先で出会った若者たちが次々と参加することにより、10年足らずのうちに100人を越える規模にまで達したこと。ここには、音楽や演劇の専門家も多少入っているが、わらび座のパフォーマンスに魅力を感じ、また自らもそこに参加してみたいという気になった若者たちであった。
 そして民謡や民俗芸能を自らのパフォーマンスの題材とすることで(7)、人びとに対する一方通行の表現ではなく、人びとからむしろ表現手法を学びながら、人びとを自らのプロジェクトへと巻き込みながら活動を展開することが可能となった。
 そして、移動音楽隊の手法を最も発展的に継承しているのが、わらび座の公演の運営手法である。初期わらび座もまたPMと同じく素人たちの寄せ集め集団であったのだが、どのようにして公演を行っていたか。まず公演予定地の学校や組合に少人数で公演オルグへと赴く。そこでちょっとしたパフォーマンスや座の目的などを話し、学校教員、組合員、青年団員などによって実行委員会を組織する。その実行委員会がわらび座の公演の準備を進め、のちにわらび座の本隊が公演に行くのである(創立30周年記念誌編纂委員会 1982: 151-154)。公演を企画運営する段階で既に現地の人びとを自らのプロジェクトへと巻き込んでいくという手法は、移動音楽隊で試みられたスタイルを発展的に継承したものといえるだろう。
 また経済的な面でいえば、わらび座は独立採算で運営していかなければならないプログループであり、人びとの生活の場に突如として現れるゲリラ的な活動は徐々になくなっていった。その代わり、共産党や教職員組合のネットワークを使って、現地での協力者とともに、全国各地で大公演から、僻地での小公演まで幅広く展開していった。PM時代と多少手法は変われど、わらび座の活動は、移動音楽隊のコンセプトを受け継いだものである


おわりに

 以上、PMが行った移動音楽隊の実践を考察してきた。
 第1節では、先行研究を概観し、PMについての先行研究の少なさ、音楽史のなかでの評価の低さは、音楽的にまとまった成果を出すことなく、後期には「音楽家というには少し気の毒な人」たちが活動を担っていたことに起因することを確認した。本稿では、PMを評価する際に、プロレタリア芸術運動における芸術家たちの交流・影響関係のなかでPMを捉えるのではなく、むしろ非専門家的な人びとによる文化実践という意味でサークル研究の文脈からPMを考察することを示した。
 第2節では、まずPMおよび原太郎の概略をふまえ、PMにおけるメーデー・カンパ音楽会の失敗をとりあげた。音楽家たちが集まっていた初期PMとは異なり、後期PMは「音楽家というには少し気の毒な人」たちが中心で、スローガンを歌詞にした合唱が主なレパートリーであり、技量を欠いているパフォーマンスに人が集まることはなかった。だが、ドイツ帰りの千田是也が紹介したゲリラ的に風刺劇や合唱などのパフォーマンスを行うアジプロ隊に原太郎は衝撃を受ける。少ない人数で、それほど技量がなくても、人びとの生活の場にこちらから赴き、人びとを巻き込むようなかたちでパフォーマンスを行えたならば、絶大な効果をあげることができる。その確信のもと原太郎は、PMで移動音楽隊を組織し、組合のピクニックなどをターゲットに活動を展開していった。またそのような目に見える効果を重視するプロレタリア芸術運動の芸術大衆化路線を背景に、PMの経済的事情もあいまって、移動音楽隊の活動が展開されていったことを明らかにした。そして、その移動音楽隊の実践が、原太郎を通じて、戦後わらび座によって受け継がれていった。
 本稿でとりあげたPMの移動音楽隊だが、必ずしも成功したとは言い難い。1933年に始まった移動音楽隊の実践は、1934年に政府の弾圧によるPMの解散によって終わる。取り上げた事例でもそうだが、計画が不発に終わることもあり、段取りの悪さによる頓挫や中止になることも多かった。移動音楽隊のノウハウを蓄積し、展開するには時間があまりにも足りなかった。
 だが、それでもドイツのアジプロ隊に影響を受けた移動音楽隊のスタイルが、戦前のPMでの試験運用を経て、原太郎により戦後の文化工作隊海つばめ、およびわらび座で存分に展開されたことは注目に値する。この戦後における原太郎の活動とその展開の詳細については、また機会を改めて考察したい。


[注]
(1)1951年に活動を開始したのは第二次海つばめであり、これがのちのわらび座へと直接繋がっている。1948年に第一次海つばめが発足していたが、こちらは原太郎らが片手間にやっていた活動であり、途中で頓挫している。また、現在のわらび座は共産党の関係はなくなっている。
(2)ヴォーカルフォア合唱団は声楽家の田谷力三、松平里子、佐藤美子、内田栄一ら四人が中心となって結成された日本初のプロの合唱団である。指揮者の上田仁や、作曲家の山田耕筰、演出家の土方与志なども関わり、さまざまな形で演奏会を行っていた。例えば、「マダムバタフライ」をオペラ形式で行ったこともあった。
(3)PM解散後の1936年から、原は専門音楽家を志し、ドイツで作曲を学んだ諸井三郎に師事し、本格的に音楽に取り組む。また、諸井に学んだ対位法の講義を頼まれ、国立音楽大学の講師をしていた時期もあった。1939年には作曲・演奏・評論活動を行う総合音楽集団「プロメテ・グループ」を結成し、作曲家としての活動を行っている。
(4)例えば、原は公演のインタビューで以下のように発言している。「──[注:インタビュアー]原さんはわらび座の主宰者ですけども、音楽のほうでは作曲を長くやってらしたわけですか。/原 長くといいますか、本格的に勉強始めたのは三十過ぎですが、それにしても四十年になりますね。しかし本当に勉強した期間はそう長くないですよ。/今の仕事になってからそんなに勉強できていませんからね。」(原[1976]1983:6) ちなみに太郎はPMでの活動は20代で、30歳のすぎに作曲の勉強をしたというのは、1936年に諸井三郎から対位法や楽曲分析などの講義を受けたことを指す
(5)1941年に大政翼賛会のもと日本移動演劇連盟が結成され、松竹や東宝などが参加。多くの劇団が次々に加盟させられていくということもあった
(6)なお、「第二に」は「ブルジヨア音樂の技術的遺産を精力的に急速に奪取して、我々が技術的に飛躍し、且數多くの技術家を養成する事」を挙げている
(7)原太郎の戦前・戦後での活動の大きな違いは、パフォーマンスの題材を西洋音楽から、日本の民謡や民俗芸能に切り替えたことである。これは原がレンパン島での捕虜生活中に体験した演芸会で、自ら生き生きとニワカや浪花節を演じる人びとを見たことに端を発するが詳しくは拙稿、西嶋(2010)を参照のこと。

[参考文献]
秋山邦晴, 1974a, 「プロレタリア音楽運動その(1)──原太郎氏に聞く」『音楽芸術』32(6): 68-75.
────, 1974b, 「プロレタリア音楽運動その(2)──守田正義氏の発言○1」『音楽芸術』32(7): 58-65.
秋山邦晴, 1998, 「プロレタリア音楽」『世界大百科事典』日立デジタル平凡社,
天野正子, 2005, 『「つきあい」の戦後史──サークル・ネットワークが拓く地平』吉川弘文館.
Certeau, Michel de, 1980, L’Invention du Quotidien, Paris: UGE(=1987, 山田登世子訳, 『日常的実践のポイエティーク』国文社.)
福田定良, 1957, 『日本の大衆芸術』青木書店.
原太郎, 1931, 「メーデー・カンパ音楽会」『ナップ』2(6): 72-78
────, 1933a, 「先ず何を為さねばならぬか?」『プロレタリア文化』3(2): 25-32.
────, 1933b,「経営(部落)内アジ・プロ結成と我が移動音楽隊の新しい任務」『プロレタリア文化』3(5): 54-60.
────, 1933c, 「メザマシ隊と移動音楽隊とはどんなに共働したか」『プロレタリア演劇』6: 56-59.
────, 1968, 「闘いの伝統は暗黒の時代をも貫いて」『座内報野火』3月号(再録:原太郎, 1976, 『原太郎芸術論集第3巻』未来社: 62-69).
────, 1976, 「PM活動と執筆の周辺」『原太郎芸術論集第3巻』未来社: 39-61.
────, 1984, 『私の青春日記抄──まわり道・めぐり愛』同時代社
林淑美, 1988, 「芸術大衆化論争における大衆」『講座昭和文学史 第一巻都市と記号』有精堂: 40-49.
河野さくら, 1968a, 「われらは一団(上)──日本プロレタリア音楽家同盟の記録」『文化評論』80: 113-125.
────, 1968b, 「われらは一団(中)──日本プロレタリア音楽家同盟の記録」『文化評論』81: 161-170.
────, 1968c, 「われらは一団(下)──日本プロレタリア音楽家同盟の記録」『文化評論』82: 123-136.
黒井信隆・前田雅章編, 2009, 『まるごと日本の踊り小学校運動会BOOK 演技編』いかだ社.
道場親信, 2007, 「下丸子文化集団とその時代──五〇年代東京南部サークル運動研究序説」『現代思想』35(17): 38-101.
水溜真由美, 2010, 「サークル運動」『昭和文学研究』61: 103-106.
中森孜郎, 1990, 『日本の子どもに日本の踊りを』大修館書店.
成田龍一, 2004, 「一九五〇年代:「サークル運動」の時代への断片」『文学』5(6): 114-115.
西嶋一泰, 2010, 「一九五〇年代の文化運動のなかの民俗芸能──原太郎と「わらび座」の活動をめぐって」『Core Ethics』6: 299-310.
岡田和雄・松宮文子・村上紀子・平野正美, 1998, 『絵でみる表現・民舞指導のポイント』あゆみ出版.
千田是也, 1933a, 「獨逸アヂプロ隊の活動(一)──演劇によるアヂプロ方法確立のために」『プロレタリア演劇』2: 13-23.
────, 1933b, 「企業内の芸術的アジプロ活動の為に──資本主義國に於けるプロレタリア演劇の最も優れた効果的形態はアジプロ隊である」『プロレタリア演劇』4: 5-25.
創立30周年記念誌編纂委員会編, 1982, 『日本の歌 民族の舞──わらび座30年』わらび座.
たいころじい編集部ほか, 1993, 「特集 楽団海つばめの精神史」『たいころじい』12 : 1-64.
鳥羽耕史, 2010, 『1950年代 「記録」の時代』河出書房.
東方美奈子, 2008, 「『和太鼓』の創造:ローカル/アイデンティティ形成における身体」『成蹊大学文学部紀要』43: 59-76.
鶴見俊輔, 1967, 『限界芸術論』勁草書房.




UP: 20120429 REV: 20131015
民族・エスニシティ・人種(race)…  ◇生存学創成拠点の刊行物  ◇全文掲載 
 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)