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「変貌する集合的主体──パナマ東部先住民エンベラの現代史に関する一考察」

近藤 宏 2012/03/12
角崎 洋平松田 有紀子 編 20120312 『歴史から現在への学際的アプローチ』,生存学研究センター報告17,431p. ISSN 1882-6539 pp.333-371

last update: 20131015


近藤 宏
(立命館大学先端総合学術研究科博士課程・日本学術振興会特別研究員)


はじめに

 20世紀後半から国際的なレベル、および国家のレベルに先住民を主体として位置付けることを目的とした様々な試みがなされてきた。国際的な機関、たとえば国連では1980年代から先住民の権利に関する宣言の草案をまとめるための委員会が設置され、世界銀行でも1980年代から先住民に対する開発計画が検討されるようになった。ラテンアメリカ諸国では1990年代に憲法の多文化主義化という潮流が見られた。これらの構想は、先住民を「国民化」するのではなく、個々の文化の固有性を認めると同時に、国家の内部に中間集団として先住民を位置づける取り組みだった。今日では、先住民の生存と彼らの生活の自主管理の基盤とみなされる土地権の承認に関しては一定の達成がなされている、という評価もある(Garcia & Surralles 2005)。
 今日の先住民の生は、ローカルな人々だけではなく、先住民という集合的なカテゴリーを書き換えていくグローバルな状況、中間集団として先住民をその内部に位置づける国家の3つの異なるレベルに結びつくものとなっている。本稿では、こうした異なるレベルが結びつき先住民であることが問題になる局面を集合的な主体形成の場面ととらえ、パナマ共和国東部の先住民エンベラにおけるその形成過程を考察する。
 太平洋と大西洋をつなぐ交易の中継点であるパナマでは、1903年のコロンビアからの分離独立以前からエリートによる政治経済活動がその交易路の周囲に集中していた。この地理的な状況のため、他のラテンアメリカ諸国に見られるような大土地所有制もほとんど発展しなかった。パナマ独立後も都市部=運河近郊地帯への政治経済活動の集中は続き、1968年、クーデターによって発足したオマール・トリホス将軍による軍事政権期の改革まで周辺地域の統合は進まなかった(Ropp 1982; Macky 1982)。なかでも今日多くのエンベラが居住するダリエン地方は最も統合の進んでいない地域であり、首都からの道路交通が整備される以前、1970年の人口密度は1.4人/?でしかないような地域だった。18世紀中頃にコロンビア北西部から移住してきたエンベラは20世紀の中頃まで、パナマ共和国政府からの強い関心を逃れていた。このような状況から1983年にはエンベラの自主管理によって運営される特別区が認定され、エンベラは土地の集合的所有権をもつ集合的な主体となった。
 エンベラの集合的な主体形成の過程を、個別の歴史的状況を克服するためのエンベラに起因する運動としてのみ理解することは難しい。むしろエンベラの主体形成とその変貌の局面には、他の先住民の経験や活動に基づく政策構想やモデル、あるいは個別の集団よりも総称的なカテゴリーとしての先住民を念頭においたモデルが持ち込まれる様子をより明確に確認することができる。ここでは、エンベラの人びとが歴史的な変容に相対したときに見せる主体性よりも、20世紀の国家にエンベラを配置することがエンベラにもたらした、歴史的に条件づけられた主体形成の様相を明らかにしたい。 
 本論に入る前に、パナマの先住民の状況を簡潔に説明する。パナマ共和国には現在7つの民族集団が居住している。そのうち、5つの民族集団が5つの特別区(Comarca)を獲得している。だが、特別区は民族集団と1対1の対応関係になく、先住民の居住地帯を包摂してはいない。それぞれの特別区を制定する法文では、集合的な土地権の承認と同時にその土地の自主管理を担う組織として評議会(Congreso)が承認されている。その外部にある全ての先住民共同体に対しては、2008年72号法によって集合的土地所有権とその領土所有・管理主体として「伝統的な政治組織」を承認する手続きが法的に確立された。現在では評議会の数は11に及んでいる。7つの民族集団、5つの特別区、11の評議会、といった民族集団と評議会の数から明らかなとおり、ある民族集団がそのまま評議会を構成する集団にはなっていない。本稿で取り上げるエンベラも3つの評議会を有しているが、そのうち特別区を備えているものはひとつで、エンベラとウォウナンによって構成されているが、この二つのグループはかつては「チョコ」という単一の呼称で呼ばれてもいた。パナマ国内の5つの特別区は1938年から2000年のあいだに断続的に認定された(図1)。
 本論の構成は以下のとおりである。1節から4節では1950年代からのエンベラ=ウォウナン特別区制定までの動向を考察する。1節ではローカルなレベルにおける共同体形成、2節では地域開発、3節では政治組織化の動向を辿る。4節ではエンベラに特別区制定の動向をもたらした歴史的な事象として、同時代のパナマ国内の先住民問題を考察する。5節と6節では1990年代からの特別区の変化を集合的な主体性の変貌として考察する。


1.共同体の形成

   1983年にパナマ国内第2の特別区として制定されたエンベラ=ウォウナン特別区はサンブー川(Rio Sambu)流域を対象とするサンブー区(Distrito Sambu)とチュクナケ川(Rio Chucunaque)、トゥリア川(Rio Turia)流域などを対象とするセマコ区(Distrito Cemaco)からなる(図2)。2つの区のあいだには黒人の共同体があり、そこを回避する形でエンベラ=ウォウナン特別区は制定された。この特別区が位置するダリエン地方は、1970年代の道路建設と同時期に増加した他地域からの農民の移住以前には、黒人とクナ、エンベラ、ウォウナンといった先住民が人口の大多数を占めていた。
 道路交通が他の国土から隔絶していたとはいえ、1950年代にはすでにエンベラにおいても農作物の商品化が始まっていたことが、人類学者の調査によって明らかにされている。エンベラは河川の流域に家屋を立て、その周囲に果樹や調理用バナナなど長期間収穫可能な作物を植え、トウモロコシなどの単年作物は、他者と競合しない場所で耕作していた。また、農地や家屋の状況などの様々な要因で別の場所へと頻繁に移動していた。当時、エンベラは集合的に居住し共同体を形成するのではなく、世帯ごとに一定の距離を保ち分散する居住形態をとっていた(Benett 1960)。
 新しく結婚した若者たちは、親あるいは義理の親の家に仮住まいをしながら焼畑農業などを手伝うことはあったが、別の家屋を作り、独立することが望ましい、とする規範があった(Torres de Arauz 1969; Faron 1962)。同時に、近い親族関係のある隣接世帯のあいだには協力関係があり、河川流域では内婚が選好されてもいた。ただし、親族関係にある人物が河川流域から離れていくこともあり、世代をさかのぼる系譜の観念は発達していなかった(Faron 1962)。しばしば先住民共同体という語が暗黙の前提にする一定の地域に居住した親族集団というよりも、可動性と分散への可能性を多分に含んだ社会関係が築かれていた、といえるだろう。こうした親族関係が確認できる範囲に限って最年長者である男性が権威的な立場にあった。こうした人物たちはNokoと呼ばれていた。だが、それよりも広い範囲にわたる政治組織は形成されていなかった。
 1950年代までエンベラは、非集住的な住居形態、拡大家族を超えた範囲に広がる政治的な権力や恒常的な組織の不在といった、集合的な主体形成には程遠い状況にあった。しかし、それからわずか30年も経っていない1983年にエンベラ=ウォウナン特別区が制定された。冒頭で示したように、このプロセスはエンベラ自身の自発的な活動だけではなく、彼らの生をそのように導こうとするエイジェントや政府機関による先住民政策によって展開した。本節では以下、共同体の形成の動向について、筆者が2009年から2010年にかけてエンベラ=ウォウナン特別区サンブー区にあるバヤモンという共同体で行った聞き取りなどを交えながら、考察する。
 筆者による聞き取りでは、多くの人は共同体の形成をスペイン語の「学校」の設立と関係づけていた。それだけでは、この点について十分に理解することはできなかったが、1980年代初頭にダリエンのエンベラのもとで文化地理学の調査を行ったピーター・ハーリー(Peter Herlihy)が、共同体形成のプロセスについて簡潔な記録を残している。ハーリーによれば、エンベラの地域に初めて学校が作られたのは、1953年バルサ川(Rio Balsa)の流域だったという。エンベラが建物を建設し、政府から住込みの教師がそこに派遣された。そして、「いくつかの家族は子供が学校の近くの親族とともに生活できるようにし、文字通り家屋を引きあげ学校のそばに建て直したものもいた」という(Herlihy1986: 163)。このアイディアはしだいにエンベラに広がり、1968年までに7つの共同体が形成された。
 同時期に宣教活動に関連した言語教育も開始された。南バプティスト教会のグレン・プランティ(Glenn Prunty)、言語学者・人類学者であり夏期言語協会のメンバーでもあったジャコブ・ローウェン(Jacob Lowen)らがパナマの教育省(Ministerio de Educacion)の支援を受け、聖書翻訳など文字教育にも通じた宣教実践を展開した(Herlihy 1986: 152)。1953年から接触が始まり、1956年には聖書翻訳を目的とした「チョコ語研究」がはじめられた。この計画の時には、ハッケ川(Rio Jaque)流域で始まった活動はサンブー川流域にも広がった(Lowen 1963: 97-98)。
 宣教的言語教育は、国家による教師の派遣にはないやり方で、エンベラの集合性の形成に影響を及ぼした。これはローウェンによる計画の考察に見てとれる。夏期言語協会の活動のひとつの特徴に、彼らの現地での活動は北米の夏季に限られているために調査と並行する宣教活動も3か月間に限られてしまうという点がある。この問題に、ローウェンたちのグループも直面した。しかし、活動を続けていくうちに残りの9ヶ月の期間が、新しい教えの「普及の期間」であると同時に、「先住民のリーダーシップを発展させることを助ける」ことに役立っていたことが明らかになった(Lowen 1963: 104) 。「外部から権威を与えられるリーダー」の姿は、以降もエンベラの集合性を形成する場面にたびたび現れることになる。1961年には「チョコ」に最初の教会が作られ、聖書の読書会が行われるようになり、彼らの意見を組み入れ宣教師たちがエンベラの牧師を選ぶようになった。ローウェンは、こうした行為が「顔の見える関係」に基づく社会関係に及ぼす影響について再考する必要性を訴えてもいたのだが、バヤモンでは最初の共同体の首長は宣教師が選んだ、と当人が語っていた。従来には見られなかった集団を形成する仕組みや地位などが宣教的言語教育を通してエンベラ社会に導入されたのである。
 1960年代初頭には、言語教育とは別にエンベラの生を集合性へと導く動きもあった。それは、先住民の土地を守るものとしての特別区の構想を伝えるものだった。筆者の調査滞在地でも、多くのエンベラがこの動向をある個人とともに記憶していた。「ペルー」というあだ名を持つ白人が特別区の構想を初めてエンベラに伝えたと言うのである。「ペルー」に関する語りにおいて驚くべきことは、非先住民人口とのあいだでの土地をめぐる問題がエンベラによって意識されていなかった時点で、土地問題から自分たちを守るための特別区の形成を訴えていたことや、他の先住民のところでは土地の不足が問題になってきたとエンベラに伝えてくれたと記憶される点である。
 この人物についても、ハーリーがエンベラからの聞き取りの記録を残している。ハーリーによれば、「ペルー」がエンベラと関係を持つようになったのは1963年頃だった。70年代終わりから80年代に多く見られたダリエンの農民人口流入以前のこの時期にも、移住はすでに始まっていた。だが、それはエンベラの居住域というよりも黒人共同体の多い地域に見られるものだった(Torres de Arauz 1970a)。
 「ペルー」については、その素性や出身国についても正確な情報を記憶している人は調査地域にはおらず、また彼がエンベラの周りから姿を消した後についての消息も同様だった。ハーリーによれば、「ペルー」の本名はハロルド・ベイカー・フェルナンデス(Haroldo Baker Fernandez)であり、エンベラと接触する前からダリエンで生活をしていた「神秘的な冒険家、探検家、宣教転向者」だという(Herlihy 1985: 164)。
 のちに宣教師になったという「ペルー」も、ローウェンらと同じように言語教育を当時のエンベラに必要なものだと考えていた。さらに、共同体形成を「学校建設、教員派遣、医療品等の供給そして、特別区、あるいはエンベラの土地と資源に対する権利を保障する準─自治的な行政区分をチョコたちが政府に要求するメカニズムとして見通していた」(Herlihy 1986 :166)という。「ペルー」はバルサ川流域のマネネ(Manene)に住んでいたファビオ・メスア(Fabio Mesua)という名のエンベラとともにサンブー川、チュクナケ川流域と移住し、活動を展開した。この活動にも「外部から権威を与えられるリーダー」の姿が確認できるだろう。
 ハーリーは、「ペルー」とエンベラのあいだにこうした関係ができるようになったエピソードなど、個人の性格を伝えるような語りも記していた。一方、筆者の調査では「ボカ・トランパにいたとき共同体のために仕事、草取りなどをすると、ミルク缶や小麦粉がもらえた。ペルーは来ていた人全員にあげていた」という語りや、ヘリコプターで当時の村にやってきた、といった冒険家や探検家というイメージからは浮かび上がってこない行動力、それも経済力が必要となる行動力についての語りが聞かれたが、「ペルー」が何らかの利害関係を担っていたか、そうでなかったのかは確かめられなかった。


2.ダリエンの開発と人類学という知

 ここまで、エンベラに記憶されるようなローカルなレベルにおける、エンベラではない人々による集合的な主体形成を導く共同体形成の活動を確認した。以下では、それとは異なるレベルで展開した集合的な主体形成の動向をふたつの観点から考察する。ひとつはエンベラが居住していた地域であるダリエンをめぐる地域開発の動向であり、もうひとつはパナマ国内の先住民をめぐる政府主導の動向である。1983年のエンベラ=ウォウナン特別区制定は1960年代から70年代に展開したこのふたつの動向の延長線上に位置している。  パナマ国内の歴史を踏まえると、この期間は寡頭支配層を打破し、労働者や農民からの支持を集め周辺地域の経済、社会的な統合を進めたオマール・トリホス政権による改革が進んだ時期でもあった。憲法改正、労働者の団結権の承認、農地改革、議会の再編などの改革が進められ、国外の銀行の誘致、道路交通網整備を進め、ダムや鉱山開発などについては、実現しなかったものも含め多くの計画が展開した(1)。トリホス政権期に先住民の政治参加等が進んだのだが、その枠組みを用意する動向はクーデター以前に始まり、ダリエンの地域開発計画はトリホス政権にのみ由来するものではなかった、という事実があるため、ここでの考察では1969年前後に大きな断絶を設定しないかたちで論を進める(2)。 
 第一次大戦後から、米州諸国では南北アメリカ大陸をつなぐ交通網の確立のためにパン・アメリカンハイウェイが構想された(3)。これは当時自国の領土であったパナマ運河防衛を懸念していたアメリカ合衆国の構想によるものであり、合衆国からパナマ運河までの陸路によるアクセスの獲得も目的のひとつとなっていた。そのため、パナマ国内では,パナマ運河からアメリカ合衆国につながるパナマ西部地域の道路の整備は1930年代に進められたが、ダリエンのある東部地域の建設は残されたままだった(Sub-Comite del Darien 1962)。
 1950年代中頃には中米地峡地帯と南米大陸の接合地帯となるダリエンでこの道路交通網が分断されていることが米州機構(Organization of American States)でも問題となり、「ダリエン・ギャップ」を解消するためにダリエン小委員会(Sub-Comite de Darien)が米州機構内に設立された。1960年には、建設ルートの調査のためパナマのダリエンからコロンビアのチョコを車で横断する調査隊が組まれた。この調査隊の成果は道路建設のためだけに活かされるものではなかった(4)。1960年に国立パナマ大学で初めて人類学講座を開くなど、パナマ国内の人類学の発展に尽力したトーレス=デ=アラウス(Reina Torres de Arauz)も一員として参加しており、エンベラをはじめとするこの地域に住むクナや黒人、また他県からの移住者の生活についても記録された(Sub-Comite del Darien 1962)。トーレス=デ=アラウスはこの人類学的な調査成果は調査隊の主目的ではなく個人的なものと記していたものの、この調査に続き1961年には国立パナマ大学の学生たちとダリエンでの調査を行なうようにもなった(Gonzalez Guzman 1997)。ダリエンという未開発地域における人類学的な調査が開発構想によって発展しただけではなく、以降開発構想に人類学的な調査も組み込まれるようになった。
 道路建設が実現する以前、ダリエンはアメリカ合衆国による第2運河開発構想の舞台にもなっていた。パナマの分離独立のきっかけとなった従来の運河は水門式運河であり、通行可能な船舶の大きさが制限されるなど輸送能力に限界があった。第二次大戦後から、大型化が進む空母の輸送や運河防衛の観点から海面式運河建設の必要性が指摘されており、1947年にはメキシコからエクアドルまでの範囲のなかで30のルートが検討された。しかし、海面式運河建設の大きな問題点のひとつである建設費用のために、1950年代中頃までは計画の実現は困難だとみなされていた。だがこの状況は、アイゼンハワー政権が提唱した「平和のための原子力」構想と結びつくことで一変し、海面式運河実現の可能性が模索されるようになった。原子力を掘削に利用することで建設コスト削減が見込まれたのである(5)。以降、政権が交代しても原子力を利用した海面式運河建設構想は引き継がれ、1964年9月には、ルートの決定や最適な建設方法工法の確定などを目的にした「大西洋-太平洋両洋運河調査委員会」(Atlantic-Pacific Interoceanic Canal Study Commission)が設立され、放射能汚染の観点からダリエンを横断するルート17やコロンビアの国境を通過するルート25が重視されるようになった(Lindsay-Poland 2003)。
 こうした動きと並行するように、1966年にはダリエンの土地私有の新たな獲得を制限する政令(Decreto)、1966年第103号が発布された。この政令は運河建設と放射能汚染回避のための移住を前提にしたものだった。ルート17に関しては、掘削に必要な爆発物の量を決定するための地質調査、放射性物質拡散予測のための調査に加え、1968年には「生態環境と放射線学上の実現可能性の調査」のために、トーレス=デ=アラウスを中心にダリエン全土の住民の居住の状況、生業経済、社会組織、各民族集団の間の関係性の調査を踏まえた上での移住の指針の作成などを目的とした調査隊が組まれた(図3)。調査報告では、放射線被害予測が不明瞭なため、具体的な計画を提出することはできない、と断ったうえでそれぞれの集団の生業経済、社会組織にあわせた指針が記されていた。エンベラに関しては、ダリエンの生態環境によく適応しており漁猟と狩猟という特徴のある生業形態に留意した移住が好ましい、とされていた。また、各集団の生業経済形態に加え、地域全体としての農業経済の状況に関する報告があった。地域全体として「僻地」と言われてきたもののダリエンから米やトウモロコシ、調理用バナナなどの主食用作物が既に都市部に一定量「輸出」されてきたことや、黒人、「チョコ」、入植者ごとに商品作物としての米とトウモロコシの生産能力などが報告された(6)。クナがここに加わっていないのは、彼らの居住地域がサン・ミゲル湾付近に発達していた流通網から隔絶された場所であったからである。移住が念頭に置かれた計画を通して、集団ごとに異なる生態環境との関係と経済的開発の余地に対する関心が寄せられていたのだった(Torres de Arauz 1967; 1970a)。 
 ルート17については、当初の計画よりもその掘削には大量の爆薬が必要になり、コストが想定されていたものよりも高額になること、爆発による振動がパナマシティの建物に及ぼす影響に対する懸念などが1960年代の調査から報告されており、結局1970年には「大西洋-太平洋両洋運河調査委員会」は核を利用した海面式運河計画そのものに「実現可能性がない」という評価を政府に提出した(Lindsay-Poland 2003)(7)。
 結果的にはダリエンで原子力を利用した海面式運河計画は実現しなかったため、大規模な移住という事態には至らなかった。だが核を利用した海面式運河の建設は放射能からの保護のために移住を強制するものであり、ダリエンにおける人口分布を大きく変化させうる開発計画だった。その中で、人間集団と生態環境との関係性を経済や社会組織の観点から把握するための知の役割が人類学に与えられていた。
 1960年代末から1970年代はパナマ国内で人類学という制度が発展する時期にあたる。トーレス=デ=アラウスは1972年の論文で、いまだにパナマには人類学の伝統は形成されていない、としたうえで、海面式運河計画の調査を応用人類学の実例として位置づけ、その点こそがパナマ国内の人類学に求められていると論じた。国内の諸問題に対応するための知の役割としての応用人類学の実践が人類学に求められる状況は他のラテンアメリカ諸国にも共通するとしたうえで、特に人類生態学(Human Ecology)という学問を重視した。それは、経済活動による適応状況に議論を限定することなく、社会組織、再生産様式も視野に入れて人間集団と居住域の生態環境との関係を議論するものだった。つまり、民族など個別の人間集団と生態環境とを一つの系として把握する知であり、生業経済や社会組織を通じてそれぞれの集団が発達させてきた生態環境との結びつきを明らかにする知が、国内問題への対策として求められたのである。(Torres de Arauz 1972)。
 こうした知とともに考察されていた国内問題とは、国内での人口移動、特にチリキ(Chiriqui)、ベラグアス(Veraguas)、ロス・サントス(Los Santos)といったパナマ中央部・西部からダリエンへの移住者である。この地域では従来、焼畑農業と牧畜業が盛んに行われていた。だが、60年代までにこの地域の人口増加だけではなく、運河地帯の発展に伴う増加人口を養うために必要になった農地や牧草地の拡大によって中央部、西部地域では土地不足が問題となっていた。1940年代には運河工事のために中央部からの移住者が増え、工事終了後には都市近郊の土地が農地となった。以降も都市部では人口集中が進み、60年代には住環境の悪化をはじめとする都市問題が浮上した(Macky 1982; Priestley 1986)。1960年代の終わりにはパナマ国内でももっとも人口密度の低いダリエンに農牧業用地を求めて移動するものもあらわれていた。パン・アメリカンハイウェイ建設が進む1970年代、1980年代には移住はさらに進んだが、その初期の段階ですでに社会問題として人類学者たちは考察していた。なかには大統領府計画行政総局(Direccion de Planificacion y Administracion de la Presidencia)という行政局から刊行された論文もあった(Heckadon et al. 1982)(8)。 
 この移住が問題になっていたのは、中央部からの移住者が牧畜業という経済活動を実践していたためである。従来のダリエンには見られない経済活動であるだけではなく、牧畜業が拡大していたチリキやベラグアスは森林破壊を経験している地域であり、牧業者の移動は熱帯林というダリエンの生態環境を不可逆的に変化させてしまうものとして認識されていた(Torres de Arauz 1970; Macky 1982; Heckadon et al. 1982)。すでに指摘したように、人類生態学とは個別の人間集団と生態環境を一つの系として把握するものであった。そして、その知を活用する人類学者や政策に携わる人々に、異なる集団の共存が迫られる地域となりつつあったダリエンに、それぞれの集団が必要とする生態環境、土地の確保が争点となる状況が訪れるという認識は共有されていた。
 パン・アメリカンハイウェイの建設は1960年代初頭にルートの選定が済んだ後、パナマ国内では数百キロの道路を5つの区間に分けて建設のための調査が進められ、1970年代初頭には建設が一部の地域で進められた。今日でもコロンビアまでは道路はつながっていないのだが、道路が途切れるヤビサ(Yaviza)までは80年代初頭までに建設が完了した。1973年にはパナマの今日の経済財務省(Ministerio de Economia y Finanzas)の前身である政治経済計画省(Ministerio de Planificacion y Politica Economica)が米州機構の遠隔地開発プログラムに要請し、1975年から「パン・アメリカンハイウェイの建設を補完する」ためのダリエンの地域開発計画のための調査が進められた。それは経済的にも国土面積の約20パーセントに見合う地域とするための経済的開発と地域社会の開発とを目的としていた。社会的な側面とはおもに保健と教育の分野に関するものであり、経済開発は農業経済の開発を念頭に置くものだった。そのための技術や生産様式の改善、流通網の整備、入植計画に加え環境保全も構想に加わっていた。
 計画全体は、コロンビアとの国境地帯を森林保全地とすることを含め、ダリエンを5つの地域に分け開発計画を立てることに特徴があった。入植地には、パン・アメリカンハイウェイ側の土地、ダリエンの北東部地域など先住民や黒人人口の少ない地域だけでなく、黒人共同体が広がっていたガラチネ湾岸、道路建設以降流通拠点として期待されていたヤビサを含めた8つの地域が候補に挙がっていた。エンベラの居住地に隣接する地域もいくつか選ばれていた。地域区分に際して、先住民居住地に対する特別な考察は見られなかったものの、入植者との衝突の回避など、すでにダリエンに居住していた人間集団に対する配慮の必要性に注意が向けられてもいた(Organizacion de los Estados Americanos 1978)。
 開発計画では単に地域の農業生産性の向上だけではなく、それと同時に移住者、黒人、クナ、「チョコ」という、異なる生態環境を必要とする人間の集団の共生が問題になっていた。そのために、この計画では農業経済、流通、入植、森林保護などの観点からダリエンという地域の区画化が重視されたのである。結局、財源の不足等によって計画全体は実現されなかったが、政治経済計画省は個別の政策立案のためにこの構想を活用した(Organizacion de los Estados Americanos 1984)。
 ここまでに見たように、ダリエンは1960年代から広大な土地と過少な人口という状況のために様々な開発の余地がある地域とみなされ始めた。この地域開発計画を通して、多様な生態環境利用を実践する人間集団を領域内に適切に配置することで実現される、人口問題と経済開発への回答が模索された。異なるやり方で生態環境を活用する複数の中間集団が共生する地域としてダリエンは位置づけられることになり、それぞれの集団への土地の配分と確保が、人類生態学、開発手法としての区画化とともに考察されていた。


3.導入される政治組織

 ここまで、60年代からのダリエンをめぐる開発計画を追ってきた。同時期、パナマ政府には政治参加の観点から先住民を国家に統合する動きがあった。政府主導のこの取り組みでは、それぞれ異なる状況にあったクナ・ヤラ、ノーベ=ブグレ、エンベラなどの先住民集団を、同じ枠組みに位置づけるかのような議論がなされていた。エンベラにとってみれば、他の先住民集団の問題や経験に基づいた構想が持ち込まれることで、集合的な主体形成が展開するような動きだった。
 1968年3月に第1回全国先住民会議(Congreso Nacional Indigena)が当時の「ガイミー」の保留区(reserva)で政府主導によって開催された。この会議では、「サンブラス特別区」で発達していた政治組織についてクナの首長の1人エスタニスラオ・ロペス(Estanislao Lopez)が語り、複数の首長(Cacique)によって構成されるクナの政治組織をモデルに「ガイミー」から計3人の首長を選出するものだった(Young and Bort 1980; Enrique 1979)。選出された首長は政府によって承認された。「ガイミー」は、ボカス・デル・トロ(Bocas del Tolo)、チリキ、ベラグアスという3つの県にまたがって居住しており、それぞれの県から1人ずつ選出された。
 当時「サンブラス特別区」では共同体の評議会、地域評議会(Congreso Regional)、総評議会(Congreso General)という階梯構造の政治組織が形成され、地域に応じた首長3名が選出されていた。この政治組織は領土内の統治だけではなく、パナマ政府や米軍領だった運河に在留していた米軍など外部との交渉を担うようになっていた。理念的には首長の権限は評議会に属するものとされていたのだが、国家は首長に大きな権限を見出す傾向にあった。外部組織との交渉は首長が担うことが多いのだが、ロペスは首長の中で唯一スペイン語にも通じており政府機関の人間にもよく知られていた(Evans 1967: 355)。このような状況にあったサンブラスのクナが発達させた政治組織のありかたがモデルとなり、その他の先住民に導入され、発展していった。そのために全国先住民会議は機能していた。
 第1回全国先住民会議には2人のエンベラが呼びかけを受け、参加した。1人はチコ川流域に居住し、行政上のやりとりの経験があるテミストシエス・オルテガ(Temistocies Ortega)だった。翌年の第2回会議を経て、サンブラスの政治組織をモデルにエンベラの4人が首長として選ばれ、政府によって承認された。それぞれ、チュクナケ川、サンブー川、トゥイラ川、チコ川の代表だった(図2)。オルテガはその1人となり、「ペルー」とともに活動していたファビオ・メスアも首長に選出された。そして1970年には第1回のエンベラ評議会が開催された。先住民の政治組織化は、まず首長を任命することから始まった。つまり、首長の存在が先行する政治組織を導入し、発展させるプロセスだったのである。ここにも「外部から権威を与えられるリーダー」としての首長が認められる。
 首長が選出された方法ははっきりとはしていない。ハーリーによれば代表者をロペスが任命し、任命された首長とロペスとが評議会を集めた、という(Herlihy 1986: 171)。だが、代表を4つの河川から選ぶ、という選出方法の基盤となる社会関係、複数の支流にまたがる社会組織が当時のエンベラに形成されていたという報告はない。つまり、首長制がエンベラの社会関係から派生したとはいえないのである。この評議会と首長制からなる政治組織は政府との関係を形成するために外挿されたものといえるだろう(9)。
 政府側の動きに戻ると、1972年には政府・司法省(Ministerio de Gobierno y Justicia)内のインディヘニスタ政策局(Politica Indigenista)が再整備され、先住民の定住計画が1年間進められた(Ministerio de Gobierno y Justicia 1973)。インディヘニスタ政策局は、1940年に設立され、48年に米州機構の専門部局となった全米インディヘニスタ協会(Instituto Indigenismo Interamericano)の先住民政策構想をパナマに導入する機関として、法文上は1958年に設立されていた。だが、十分な資金が割り当てられることはなく、活動実態がほとんどない組織と評価され続けていた(Torrez de Arauz 1967)。したがって活動にどの程度継続性があったのかは不明瞭だが、この政策局が再整備された1972年は憲法改正によって先住民の政治的な状況が大きく変わる転換点となる年だったことには留意する必要がある。
 1972年の改正憲法では、「先住民の民族的同一性」の承認や文化への配慮、そして集合的な土地権の承認(86、87、123条)など、文化の独自性と土地権という点で先住民の特異性を認めるとされていた。また第120条では国家が「国民生活における経済、社会、政治的参加を促進するために」先住民に特別の配慮をすると規定されている。政治、経済、社会面での国家の枠組みに参加することと土地や文化の面では特別な集団であること、という先住民に関する二つの条件が並置可能なものとして位置づけられている。だが、先住民に言及する憲法の規定以上に直接的な影響を与えたのは議会の再編だった。
 1972年憲法は、従来の政党に基づく選挙制度による国会議員の選出を中止し、国内に505あった最小の行政単位である地方行政区(Corregimiento)の代表者からなる地方行政区代表者議会(Asamblea Nacional del Representante de Corregimiento)に議会を再編した(10)。またこの議会と地方行政区、区(Distrito)という地方行政体を統括する部局として共同体開発総局(DIGEDECOM,Direccion General para el Desarrollo de la Comunidad)も併せて設立され、従来の寡頭政治体制にはなかった、地域と国家との直接的な関係が政治体制を通じて作られることとなった(11)。
 この議会再編は先住民の国政への参加を可能にした点で特に重要な意味を持っていた。1974年から開催された議会には議席全体の10%を超える58人の先住民が選出された。この改革以前から先住民は選挙を通じて政治参加をしていたが、代表者として選出されたのは初めてのことだった。
 ただ注意したいのは、議会再編による政治参加とは先住民ではない人口にも当てはまる改革であり、先住民独自の政治組織である評議会とは別のメカニズムによるという点である。国家の行政区分と評議会という二重のメカニズムによる政治参加は、特別区設立後も引き継がれることになった。だが、地方行政区代表者議会は長くは続かなかった。1977年に締結されたパナマに運河を返還する「トリホス─カーター条約」が要請する民主化のために1980年には以前の政党に基づく選挙制度が行われることとなった。
 こうした状況のもと、1979年にインディヘニスタ政策局のエンリケ・ブランコによって先住民の政治参加を問題にした報告書が作成された。1960年代からの評議会と選挙制度による先住民の政治参加の状況を振り返った文章には政治参加のメカニズムの問題点が示されていた。地方行政区代表者議会の制度とは別に先住民の「伝統的な政治組織」、つまり評議会と首長制をそれぞれの先住民が発展させていることに触れたうえで「われわれの統治の秩序に先住民の政治的な代表者を取り込むことは、先住民を選挙制度において活用するだけだった古びたものから、政治を分け隔てることに寄与するだろう」とまとめている。選挙制度を通じた政治参加、つまり非先住民にも共通する個人のレベルで実現される政治参加ではなく、集合体としての先住民の政治参加が求められた。その制度として、政府が交渉可能な個人でもある首長を政府が任命することによって確立された評議会が法的に認められ、首長と評議会から構成される政治組織は先住民集団に固有の伝統的なものとみなされるようになった。エンベラにとっては、親族関係に基づく政治的な権威であるNokoとは異なる新しい政治組織とは、自らの政治領域に集合的な存在として先住民を必要とした国家という外部との関係から生じたものであった。


4.「先住民」問題の所在

 ここまでみてきたように、エンベラにとっての土地問題は1960年代からのダリエンの地域開発を通じて形成された。その同時期に先住民の政治組織化が進んだことで、集合的な主体形成は展開した。では、なぜその時期にパナマ国内で先住民の政治組織化が進むことになったのか。本節ではこの点について考察する。
 先ほど触れたインディヘニスタ政策局の報告書には「先住民特別区に関する結論と勧告」と題された付録があった。そこには「保留区(reserva)に対する特別区という概念を認める」とあり、先住民居住地の法的な地位が論点となっていた。この主題が先住民の政治組織形成と不可分な問題であったことは、全国先住民会議の主要な目的が先住民の保留区の保護に対する解決策を政府に要求することだと、1971年の会議で確認されていたことからもわかる(Enrique 1979)。土地問題がエンベラの総評議会で取り上げられるようになったのは1974年のことだった(Garia 2008: 502)。だが、土地問題に対してトリホス政権が先住民と直接交渉するようになったのは、パナマへの運河返還を確約したトリホス─カーター条約が締結された1977年からだった(Herrera 1999)。トリホス政権の支持層は労働者階級だったのだが、1973年のオイルショックを受けてパナマ国内の経済状況が急激に悪化したのちには、パナマ運河返還という課題に取り組むために、ナショナリズムを高めていった(飯島1991)。テンガロンハットをかぶり「ガウチョ」を名乗ることで大衆との親密さを演出していたトリホスが、運河返還に向けた条約を実現させるまで先住民の土地問題に手をつけなかったというのも想像には難くない。以下では先住民の土地に関する法的地位をめぐる動向について考察するが、その前にここまでエンベラを考察の中心においてきたために言及してこなかったパナマ国内の先住民居住地の法的な状況を簡単に振り返る(図1)。
 1968年の政府主導の先住民の政治組織化以降に初めて発布された先住民の土地に関する法律は1983年のエンベラ特別区法だが、1968年以前にもサンブラス特別区法以外にもいくつかの法律は発布されてきた。1968年当時、サンブラス特別区以外の法的に認められた先住民の居住地域は、エンベラの場合はチコ川流域の500メートルに渡る保留区(1957年20号法)という、非常に限定的なものだった。ボカス・デル・トロの「ガイミー」やバヤノ川流域のクナの保留区は1934年18号法によって認められていた。だが、明瞭な境界画定がなされていない場合が多く「ガイミー」の土地では、非先住民人口の侵入が見られていた(Gjording 1991)。バヤノのクナに関してはこの時期に進んでいたバヤノダム開発によって移住を迫られるなど、保留区が認められているから土地が守られているとは言えない状況があった。また1958年27号法では、サンブラス以外にも3つ特別区が認められていたのだが、エンベラの居住区に関しては土地境界画定がなされていないなどずさんなものだった。またこの法文中にある他の規定も実現されておらず、影響力のない法律だった(12)。エンベラに関しては法的な領域において、保留区、特別区が確立されていないことに加え、すでに2節でみたように、当時、土地問題は顕在化してはいなかった。つまりこの当時のエンベラがおかれていた歴史的な状況は保留区、特別区という法的な土地カテゴリーの問題の外部にあったといえる。
 「ガイミー」が居住していたタバサラ(Tabasara)特別区に対しても1958年30号が実態を持たなかったことは、1967年第30号法が証明している。だがそれは、エンベラの場合とは異なり、土地の法的地位が問題となる状況があったことを示している。その表題、「タバサラの先住民地帯(la Zona Indigena)の行政上の規制に関わる法」にあるように、「特別区」が「地帯(Zona)」に上書きされている。保留区でも特別区でもないカテゴリーが暫定的にでも求められるような状況があったのである。この法律の前文では「タバサラの先住民地帯は、この地域における人間の活動のあらゆる側面に対する法規の遵守を可能にし、効力のあるものとするための行政上の再編が、緊急に必要となっている」と記されており、6つの地区に分けて計30名の「先住民監査のチーム」が派遣された。先に触れたインディヘニスタ政策局の付録に戻れば、文中にはクナや「チョコ」という名が現れるのだが、冒頭には「政府・司法省、政府機関(Entidades del Gobierno)および「ガイミー」特別区の首長からなる委員会」という名が文章の署名のように記されている。この署名が示すように保留区、特別区という法的な土地カテゴリーの問題の当事者とされた先住民とは今日ではノーベ・ブグレと呼ばれる「ガイミー」であり、さらには1968年以降の政府主導で始まった政治組織化の動向とは「ガイミー」の歴史的経験がもたらした問題だったのである。
 「ガイミー」のもとに生まれていた緊張した状況は、「ママチ(Mama-Chi)」という終末論を語る予言者を中心とした宗教的な運動に由来するものだった。運動は「ママチ」と呼ばれた女性預言者と呪術師を中心に聖なる処女とその夫イエス・キリストが現れるという物語とともに広まった。「ガイミー」の居住する地域にも姿を見せるようになっていた非先住民の参加や彼らへの教義の伝達を拒みながら多くの「ガイミー」が運動に加わった。教義では学校教育、身分登録制度などの非先住民的な制度、ものに対する批判が繰り広げられた。
 1960年前後に始まったこの運動は、1964年の女性預言者の死によって、宗教的なものから政治的なものに切り替わっていった。「ママチ」の死後、政治的な運動は分裂したが、「ガイミー」の社会・経済状況の改善という争点は共通なものであった。なかには「ガイミー」の居住地帯の政治的な自律性を求める動きもあった。ボカス・デル・トロ、チリキ、ベラグアスの3県にまたがって広がっていたガイミーの居住区は、1950年代には各県内の地方行政区として位置づけられており、それぞれの地方行政区の代表者である地方行政官がひとつ上位の行政区である区(Distrito)の長である区長(Alcalde)によって任命されていた。区長は非先住民であるために地方行政官は「ガイミー」ではない世界に通じているものとみなされていた。そのため地方行政官は運動の初期からその中心となることはなかった。政治的なものに運動の性質が変わったのちにはその担い手が教育を受けた若者に代わり、地方行政官とは異なる政治のありかたを求めるようになっていた。1965年にはチリキの運動家たちがある人物を「国王」とし、国旗をつくり、憲法を起草するなどの政治的な自律を求めた強い動きを見せた。この動きは、チリキ県内のコスタリカ国境近くにあるダビという都市に住む弁護士に支持されたものでもある、といったうわさもあった。警察機構である国家警備隊が事態の収拾に向かうことになったものの、暴力的な事態に展開することなく、1966年には徐々に政治的な「ママチ」の運動も下火となった。とはいえ、「ガイミー」のもとで国家の既存の行政制度である地方行政区ではない政治組織化の欲求が噴出したことは間違いない(Young 1971: 212-224; Gjording 1991: 28)。1967年30号法、そして1968年からの政府主導の先住民の政治組織化は、この宗教・政治的運動への対策だった。そして1968年に選出された首長はチリキの「ママチ」を導いた「首長」とは異なる人物であった(Enrique 1979)。
 この時期「ガイミー」は、経済的に困難な状況にあった。ユナイテッド・フルーツ社が20世紀初頭、ボカス・デル・トロ県のカリブ海沿岸部の「ガイミー」の土地に大規模なプランテーションを開き、運河建設後には、黒人労働者が移住するようになった。また1930年代に運河地帯と道路がつながると、チリキやベラグアスの農民・牧業者の土地利用が拡大した。以降「ガイミー」の土地の境界画定がなされていないために非先住民牧業者による侵入は続いた(Gjording 1991: 51)。こうした外部からの圧力に加え、「ガイミー」自身の人口増加によって土地不足がみられるようになっていた(Young & Bort 1979: 84)。
 ガイミーのもとでは1930年代から生業経済だけではなく貨幣経済への参画が進み、現金収入を得るためユナイテッド・フルーツ社や、その子会社であり1930年代にチリキ県の太平洋岸にプランテーションを開いたチリキ・ランド社(Chiriqui Land Company)で季節労働を行う人口が増加した。だが、1961年にはチリキ・ランド社の作業の機械化と労働運動のために、季節労働者の雇用枠がなくなるという事態が生じた。1960年の労働環境改善を求めた労働運動の結果、正規雇用者の労働組合が結成され、組合員であることが雇用条件となっためである。そのために多くの「ガイミー」は雇用から外れることとなった(Young 1971: 100)。また現金収入のために、20世紀の初めにはガイミー自身によって実践されるようになっていた牧業も土地不足のために減少していった(Young & Bort 1979: 83-84)。
 1960年代に「ガイミー」のもとで調査したアメリカ合衆国の人類学者フィリップ・ヤングは、ママチの政治的な運動の展開とこうした経済状況に強い相関関係を見出し、「文化変容」の事例として議論を展開した(Young 1971)。困難な経済状況に由来した政治的な運動の実現という議論は少なくとも、同時代のパナマ国内の人類学者にも共有されていた(Heckadon 1972; Torres de Arauz 1967)。居住地域周辺で増加し続ける牧畜業からの圧力、それに端を発する解消不可能な土地不足、商品経済への依存度の増加による困窮。同時期にダリエンが、中部西部地域の農業用地不足の解決策として入植地とならざるを得ない状況が予見されていたことに鑑みれば、「ガイミー」が当時直面していた経済的な状況がのちにエンベラにも起こりうるものだと見立てられていても不思議ではない。「ガイミー」のもとに生じた政治運動という問題とその対策とが、同じような経済状況の到来が予見されてはいたが実現はしていなかったエンベラのもとに導入されることになったのである。
 1968年からの政治組織形成の取り組みは、「ガイミー」の歴史的な状況が作り出した問題が、エンベラなど他の集団を含めた「先住民」問題に拡大されるものだった。そしてこの問題にエンベラも位置づけられるようになったのである。いわば、「ガイミー」のもとに生じた問題の解法としてクナの政治組織がモデルとなり、さらにそれが「ガイミー」のような問題は実現していなかったエンベラにも応用された。エンベラの集合的な主体形成とは、このようにエンベラではないグループの問題に直面した政府機関の知がつくった構想に配置されることでもあった。


5.土地権の主体とその変貌

 ここまでにみてきたように、自ら直面していた困難を克服するというよりも、他の先住民の同時代的経験とダリエンの置かれた状況とが重ねられることで構想されたモデルが持ち込まれる過程が、エンベラの集合的主体の形成過程だった。1983年には22号法によってエンベラ特別区が確立された。その16年後、1999年には特別区の自主管理を担う組織運営について詳細に規定する行政令(Decreto Ejecutivo)、カルタ・オルガニカ(後述)が発布された。詳細がカルタ・オルガニカによって規定されるということは83年のエンベラ特別区法に明記されていたのであり、このふたつの公文は、はじめから1つのペアとしてデザインされていた。だが16年後に発布された行政令は、その組織を大きく再編するものだった。
 エンベラ特別区法は、全25条から構成されている。その中身は、特別区の範囲の詳細な規定(第1条)に始まる。第2条では、当該の領域内における私有地の取得の禁止と、エンベラとウォウナンの集合的な使用という土地利用の規定が続く。ただし、私有化された農園(finca)は認められ(13)(第4条)、農地改革以前に獲得された私有地に関しては、使用の状況にある限りにおいて所有権と相続権が認められる(第5条)。土地に関する規定は以上の通りで、他の条文は特別区をいかに国家の内部に配置するのかを規定している。そこには、1968年からの動きに見たような政治参加のための二重のメカニズムが確認できる。
 国家の行政区分との関係は以下のようになる。セマコとサンブーはそれぞれ区議会(Municipio)が管理する区に相当し、それぞれ地方行政区に分割される。地方行政区からは地方行政官、区議会の首長として区長が直接選挙によって選出される。これは先住民特別区でも見られる行政制度である。また、特別区は国家の行政区分上、県(Provincia)と同じ地位にあり特別区にも県と同様に1人の知事(Gobernador)が任命される。その任命は内閣府が行うが候補者3名を選出するのは先住民組織である。これらの役職や区分は国家の側に属するものとして理解される。
 これに対して、先住民の政治組織である評議会については、共同体、区、特別区全土の3つの階層的な水準に応じて、総評議会(Congreso General)、地域評議会(Congreso Regional)、共同体評議会(Congreso Local)がある。各評議会には代表者である首長(Cacique)の役職があり、総評議会の首長である総首長(Cacique General)は、「政府、公共機関、私的機関に対して、特別区の主要な代表者と代弁者」として位置づけられている(第11条)。
 一方、特別区はその運営の点で、パナマ共和国内の憲法や諸法の主体として規定される。また、国家は特別区内で国土の発展のために必要な国家プロジェクトや公共事業を行うことができる(第24条)、とあるように、自律性と従属性とが共存するかたちで国家との関係が位置づけられている。国家とのそのような関係性は、コミュニティの開発・発展に関しては、「特別区内の開発プログラムは、先住民当局と政府機関の協同作業で練られた計画に従う」(第16条)、「共同体の開発のために特別区が開発計画を企画し、実行すること。そのために、政府に対して技術および資金の上での援助を求めることができる」(第17条)、という規定にも見ることができる。このように独立や自治ではないものの、国家との関係性は計画を協同で進めていく可能性、交渉可能性に開かれている。また、土地規定と政治組織の規定からわかるように、土地と不可分に結びついた集合的な人々を特定の代表者が代表・代弁可能なものとして、集合的主体は位置づけられている。前節までに確認してきた1960年代末から70年代に展開したエンベラをめぐる潜在的な問題に対する対策の帰結としてエンベラ特別区が設立されたことが、こうした規定に見て取れるだろう。
 1999年に政令として発布されたカルタ・オルガニカは、132にも及ぶ条文をもって特別区を運営するための組織や規則を具体的に規定しており、首長制が重視されてきた政治組織を改変するものだった。首長のほかに特別区行政の運営機関が多く設立されたのである。総評議会の運営の責任を負う執行部(Junta Directiva)が組織され、新たにその長として、議長(Presidente)という立場がつくられた。さらにこの執行機関に付属する機関として、立案局、天然資源・環境局、土地・境界局、文化・教育局、保健・サービス局、家族局の6つの専門部局が設置された。執行機関やこれらの専門局に関する規定は、組織する、管理する、調整するといった動詞群によって記述されており、決定機関という性格は備えられていない。これらの専門機関の設立の目的は、「総評議会および地域評議会による計画の実行」とそのための「公的機関との効果的な連携」の実現にある(第60条)。
 既に示したように、エンベラ特別区法の段階でも特別区内での計画について政府機関と連携が求められていた。だが、新たに組織を創設することを通して、政府による計画案などの外部からの意見の調整という、決定とは異なる役割が明確化されたといえる。これらの専門部局は、特別区知事や地方行政官といった国家の行政枠組みに関係しているのではなく、特別区を先住民の領土として運営する評議会の枠組みに位置づけられている。つまり行政専門部局の設立は、決定そのものではなく決定の方向性や決定された計画の実施という局面において特別区外部の機関の構想や枠組みを滑り込ませる可能性を示している。1983年から1999年のあいだに、こうした役割の具現化を要請する歴史的な状況がうみだされた。この点は後述する。
 行政部局の中でも特に目を引くのは、環境・資源局と土地・境界局のふたつの部局である。天然資源・環境・土地という互いに密接に関連している事項が特別区の運営組織設計においてどのように切り分けられ、また連結されているのだろうか。  まず天然資源・環境局に関する条項から検討する。この部局は特別区にある天然資源を国家環境庁(Autoridad Nacional del Ambiente)と共同で評議会が保護、保全、利用、調査、開発するための政策の決定・推進のために創設された(第95条)。その役割は、特別区内での資源利用の監視、あらゆる調査、資源開発の申請の受付をはじめ、自然保護、保全、持続的開発の計画、その修正、調整に際する国家環境庁との連携や総評議会の決定に資するための鉱物利権の交渉への参与、商産業省による鉱産物の調査への許可の発行などである(第96条)。土地そのものではないがそこに内在する鉱物や一定の領土を前提とする動物相、植物相、森林や土壌を含んだ天然資源の開発・運営・管理を担う部局となる。ここでは自然資源や鉱物を土地からずらすように規定し、その土地ではない資源を管理する役割が与えられている。
 土地に関する担当は土地・境界局であり、エンベラ特別区法で確立された集合的な土地権に基づいてその利用を調整する。共用地の運営のために以下の6つのカテゴリーが創設された(第85条)。まず家族利用地、共同体用地、共用地の3つ、家族、共同体、任意の集団という想定される利用主体に基づくカテゴリーである。残りの3つは森林資源管理を念頭に置いたカテゴリーであり、森林開発用地、狩猟、薬用植物の収集や動物相、植物相、水の保全を目的とする用地、森林再生用地がある。最後のものについてはエンベラ以外のあらゆるセクターにも利用が開かれている。同部局は6つの土地利用形態に従って総評議会が土地の分配や調整を行う際に、立案や計画の組織と実行の責任を持つ機関であり、また土地に関するあらゆる問題を区長との連携によって解決する、という性格を備えている(第86条)。部局の役割を記した条項(第87条)では、区長との連携が求められるのは、非先住民による特別区内の土地所有の境界を調査する時であると記されており、政府機関との連携はそれ以外にはない。ここだけを見れば権利として保障されている土地には介入の余地がないかのようである。だが同じ条項で、先住民組織の部局である天然資源・環境局との連携で、土地の分配、利用、用益権についての政策を導入することもこの部局の役割とされている。すでに指摘したように天然資源・環境局は国家環境庁との連携のもとに政策の調整を行う部局である。
 土地利用のカテゴリーにあるように、エンベラ=ウォウナンが集合的に利用する土地が、集住以前からみられる世帯を中心とした経済活動から、国家環境庁との連携により進められる森林開発、非先住民組織による森林再生まで多様な利用主体に開かれることが想定されている。土地・境界局と天然資源・環境局を異なる部局として設立することは、土地と天然資源・環境を問題や言説として切り離すものである。だが同時に、それは天然資源の管理や環境保全という問題を経由することでエンベラ=ウォウナンの共有地に外部から関与する可能性を開いてもいるだろう。
 ただ、こうした緑への配慮を特別区において担うのは、特別区を管理・運営する組織である総評議会なのである。カルタ・オルガニカの前文には、「この憲章を通して、特別区における政府機関との永続的で調和のある連携を通じ、エンベラ=ウォウナンが発達させてきた文化的な生活の形式と宇宙観、環境との均衡、生物多様性を維持するように努めることで、先住民の自治とエンベラ=ウォウナンによる自主管理を認める」とある。このように、カルタ・オルガニカを通じて集合的な主体としてのエンベラ=ウォウナン特別区は、単に土地を共有する主体としてではなく、森林資源管理主体としても位置づけられた。
 このように1983年の特別区法から1999年のカルタ・オルガニカまでのあいだに、緑に配慮するという性格が集合的な主体としてのエンベラ=ウォウナン評議会の前面に現れるようになった。第1条には「エンベラ=ウォウナンの文化的な遺産、民族的同一性、芸術、音楽、母なる大地との関係を保護する」ことが憲章の精神である、と記されている。この条文には、個別の文化の価値を守る言説とその文化に緑への配慮を記す言説とが重なり合っている。こうした言説上の特徴とはカルタ・オルガニカに限られたことではない。環境保全、生物多様性保全が問題になると、そうした生態系にある場所で生活をしてきた先住民の生のありかたに内在する生態系への配慮や環境との調和は注目を集めた。先住民を緑への配慮の主体とみなすことは、NGOなどに限られず、先住民自身の政治的なボキャブラリーにも運用されるようになった(Albert 2005)。こうした特徴は、1980年代以降の先住民をとりまく諸言説のひとつを示すものだろう。
 パナマでは1990年代中頃から2000年までのあいだに特別区を制定する法律やカルタ・オルガニカが立て続けに発布されたが、その背景には1995年に立法府内に先住民常任委員会が設置されたことがある。この委員会は「先住民関連諸法の早期制定を目的」に設立され、草案に対する助言などを行う役割を果たしている(Valiente 2002)。これを受け、3つの特別区制定法と4つのカルタ・オルガニカが発布された。1983年のエンベラ特別区法は1968年からの先住民の政治組織化のひとつの帰結だが、1990年代後半の先住民関連法案・行政令の整備は「持続可能な開発」の導入と強化を目的とする、1998年41号法、環境法の整備と同時期に進められた。この法律では、国内の自然資源管理に関する基本方針が規定され、その行政組織として国家環境庁が創設された。環境法には、先住民の特別区、共有地の資源管理に関する規定があり、また国家による自然保全・利用計画において主要なアクターとして参与する役割が先住民に与えられた。
 この「持続可能な開発」を目的とする環境法の整備は、同時代の国際的な文脈に位置づけられる(14)。生物多様性に富む中米の地峡は「政治的な境界によって単一の生態系が分断されている」状態にあるために国家の枠を超えた取り組みが進められた。この動きは1987年から中米諸国を中心に進んだが、1994年の首脳会議で各国の具体的な行動計画と義務を導入するアジェンダ「持続可能な開発のための同盟(Alliance for Sustainable Development)」が締結された。同年、中米諸国が「持続可能な経済開発を達成する」ためにそのアジェンダへの援助をアメリカ合衆国が表明した(Holley 1998)。パナマの環境法の発布はこうした国際的な動向の影響下にあった。
 1998年には、米州開発銀行が「ダリエンにおける持続可能な開発計画」を導入した。この計画は、1.土地利用計画、土地権付与、資源保護・管理の運営 2.機関の強化 3.生産効率改善の援助、4.交通網の整備、5.水、衛生環境などのインフラ改善 という項目からなっている。特に注目したいのは、計画の導入のための諸機関の強化を目的とする項目2である。具体的には国家環境庁や農牧業省(Ministerio de Desarrollo Agropecuario)などの政府機関の強化に加え、地方自治体や先住民特別区の組織の強化、ひとびとの能力開発や地方分権の促進を目的としていた。この計画にはダリエンという地域、地方自治体を「持続可能な開発」の構想に組み込むように再編することが目的のひとつとして組み込まれていた。エンベラ=ウォウナンもその構想に含まれており、先のカルタ・オルガニカの発布も計画の一つだった(IADB 1998: 23)。カルタ・オルガニカにみられる組織編成は「持続可能な開発」というグローバルな経済開発構想における先住民という位置にエンベラを配置するために、その集合的主体を上書きするものだった。
 こうした経済開発構想という知を生産する主要な機関に世界銀行がある。1980年代末から世界銀行は環境分野の人員の増員や環境アセスメントの導入など、環境問題への配慮を政策に取り込み始める(George and Sabelli 1994[1996])。ほぼ同時期の1991年に、先住民の生活、信条、土地などに影響を及ぼす開発に対する先住民自身の自己決定権を規定するILO169号条約に即したかたちで先住民政策を起草し、先住民の参加が開発計画の前提となった(15)。また1990年代には、「先住民組織、共同体の社会関係資本の強化」に資する計画が経済活動の活性化につながり、「先住民の存在、集合的土地権、特異な文化と言語の承認に適した国家の政策」こそが、先住民の経済発展の開発計画に不可欠なものだとみなすようになっていた(Davis 2002: 233-235)。土地政策についても、個人的な土地権への転換を目指す土地政策の見直しが90年代の終わりにあった。多くのコストを要する一方で、土地市場の活性化に対しては期待するほどの効果が得られなかった個人的な土地権の付与に代わって、集合的な土地権を認めるほうが移行のコストを抑えられる点や、集合的な土地権を認めたほうが異なる集団の需要にあった計画の選択肢を増やすことができるなどの利点が認められるようになった。そして、1990年代後半には、市場に起因する共同体ベースの新しい開発計画の導入が実験的に始まった(Deinminger & Binswanger 1999)。
 カルタ・オルガニカによってエンベラの政治組織形態が大きく変わり、森林資源管理主体と位置づけられるようになっていたこの時期とは、土地と不可分に結びついた共同体を経済領域に位置づける、という構想が可能になった時期だった。


6.資源管理がもたらす経済領域の拡大

 土地と不可分に結びついた共同体を経済領域に位置づける動きは、エンベラのもとでは2000年代に進んだ。2005年、WWFを中心に、エンベラ=ウォウナン特別区、セマコ地区内のトゥピサ川(Rio Tupiza)流域にある5つの共同体の周囲を対象とする「持続的な開発」計画が開始された。この計画は、流域の森林環境を評価し、トゥピサ川流域の土地区分を行い、焼畑活動が行われていない地域の80%にある木材の切り出しを中心とした森林資源の共同運用を導入する計画であった(16)。共同体内での雇用の創出や焼き畑に代わる経済活動の導入といった目的を持っていたこの計画の実施に先立って行われた環境アセスメントを通じて、トゥピサ川流域の共同体のあいだには森林生産組合が形成された。環境アセスメント報告書では計画を通じてエンベラが森林資源の共同運営を習得することがひとつの目的として挙げられていただけではなく、「法人格を得るための手続き」がなされていた(WWF 2005)。この生産組合とは、隣接しあう複数の共同体と特定の土地との領土的な関係を具体的なものにする新しい組織であり、より経済的な性格の強い集合的な主体である。森林資源を運用するこうした組織形成は、環境アセスメント報告書では「エンベラ=ウォウナン特別区、あるいはパナマ全土においても前例がないであろう」新たな森林資源利用のモデルケースになりうるものと評価されていた。
 この報告書に予見されていたような法人格をもつ森林資源運用の組織は、トゥピサ川流域の森林組合とは別に、2009年に実現した。エンベラ語で「われわれの土地」を意味するNe-Duraというその企業は、特別区内の一部の共同体を基にしたものではなく、特別区全土に広がるもので、評議会と密接な関係にあるものとして構想されている。この動きはこれまでのように国際的な開発機関の計画ではなく評議会メンバーが中心になって進めている。構想の背景には、「経済的資源の不足のために特別区の管理及び統治上の効率に対するネガティブな影響がもたらされてきた」という状況があった。2010年の段階では、農作物販売、生態系サービス、観光業などを想定してはいるものの、具体的な経済活動については検討課題という状態である(17)。とはいえ、これは1983年の特別区法で想定されていた先住民自身による政治組織としての集合的主体から大きくその性質が変貌することを意味している。政治ではなく、経済領域に集合的な主体が形成されたのだった。
 現在進行しているこうした集合的主体の変貌と並行しながら、先住民を取り込む新しい経済的な枠組みがグローバルなレベルで形成されつつある。それは炭素排出量取引の一形態であり、気候変動枠組条約国会合で議論されているREDD+(レッド・プラス)である(18)。REDD+とは「途上国における森林減少・劣化による排出削減、森林保全、持続可能な森林管理、森林炭素蓄積の増強(Reducing Emissions from Deforestation and forest Degradation and the role of conservation, sustainable management of forest and enhancement of forest carbon stock in Developing countries)」の略称である。この枠組みの基本的な考え方とは、「途上国での森林減少・劣化を抑制する活動や持続可能な森林管理や森林保全政策によって、抑制した森林の炭素排出量や維持・増加した炭素蓄積量に応じて経済的なインセンティブを与えよう」とするものである。改善される以前の森林利用活動から予測される炭素排出量・炭素蓄積量を算出し、実測される炭素の量との差から、活動による抑制や蓄積の量が導かれる(19)。この枠組みについては国際的な合意には至っておらず、具体的な森林利用活動の評価方法も定まっていない(清野 2010)(20)。具体性に欠ける状態にありながらも、REDD+導入の方法論として国土の一部でREDD+を確立する「準-国家レベルアプローチ」というものもあるため、この構想を導入する準備計画を含めて先駆的な計画は世界各国で進行している。
 パナマは国連環境計画によるUN-REDDのパートナー国になっており、2011年から国レベルでの計画が始まっている。だがそれに先立つように、2010年初頭には先住民を対象にしたREDD+セミナーが開始された。Ne-Duraも重要な計画としてREDD+への参与を挙げていた。
 国際的な経済領域で新たに商品となる炭素とは、森林における人間の活動の変化によって算出されるヴァーチャルな量であると同時に、単に自然が生産するものではなく「生活と自然」の融合によって生産されるモノである。本来商品として生産されていないにもかかわらず商品として扱われることになったものをポランニーは「擬制商品」とよび貨幣、労働力、土地を挙げていたが、炭素も新たな擬制商品と呼べるだろう(Polanyi 1957[2009])。この擬制商品の誕生は、人々の森林利用活動そのものを国際的な経済領域に位置づけることを意味している。炭素経済に限らず、今日では持続可能な開発の具体的な実践の導入のために、現地共同体、現地社会に経済的なインセンティブを与えることで人びとの資源利用を管理するという手法が今日、採用されるようになってきている(Li 2005)。今日では、ローカルなひとびとによる生活の場の利用を国際的な経済領域に位置づける枠組みが形成されており、エンベラにおいては集合的な主体の変貌と連動して、こうした動きが実現しつつある。


おわりに

 本稿では、1950年代からのエンベラにおける様々な政策構想の導入による集合的な主体形成の様相を、そして1960年代から1983年までの動向に関してはパナマ国内の国家統合に、1990年代後半からは持続可能な開発を中心とするグローバルな環境問題に結び付けられた集合的主体の変貌を明らかにした。集合体としての政治組織と集合的な土地権という要件の組み合わせは、エンベラの集合的主体の基礎をなしていたといえるだろう。以上を通じて本稿が目指したのは、集合的主体の変貌とは、国家による統治の対象でもある中間集団の形成とその再編であるということ、政治・経済的な領域における外部社会との関係の形成に重点が置かれたものであること、そしてそのために、エンベラの生活との接続については余白として残すレベルであったことを理解することだった。今日では、集合的な主体のレベルでは、自然との関係性の再編が進んでいる。集合的土地権という観念の導入から始まり、森林を利用する生活そのものを経済領域へと位置づけようとする、エンベラには由来しない自然との関係性の再編は、エンベラの生活にどのように接続されているのか。この点を問うことは、主に政治、経済の領域の再編として進められた集合的主体の変貌という現代史を、エンベラの経験的な世界の再編として考察し、理解することを可能にするだろう。

追記:本稿は平成23年度科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による返球成果の一部である。


[注]
(1)ひとつは注2であげたバヤノダム開発である。また今日ノーべ・ブグレが居住する地域では鉱山開発計画を進めようとしたが、こちらは実現しなかった。この計画についてはGjordingが民族誌を記している(Gjording 1991)。バヤノダムも鉱山開発も経済計画省(Ministerio de Planificacion y Politica Economica)を中心に進められた計画である。
(2)クーデターは1968年10月に、大統領アリアスを排除するかたちで起こった。クーデター直後は軍部内での争いが続き、トリホスが政敵を排除して政府を統括するようになるのは1969年12月からである(Phillipps 1991)。一方、政府主導の先住民の政治組織化の動向に位置づけられる第1回全国先住民会議は1968年3月に実現した。この動きはクーデター後にも引き継がれ、トリホス政権期に展開した。このように、以下で考察する先住民に対する政策構想がトリホス政権に独特のものだったと断定することはできず、考察の余地は残されている。
(3)新しい一本の幹線道路が建設されたのではなく、既存の幹線道路の整備などを行ないながら、パン・アメリカンハイウェイシステムという幹線道路交通網が構築された。
(4)この成果を受けて1961年には米軍が熱帯林での運送能力に関する演習を行った(Sub- Comite del Darien 1962)。
(5)水面式運河建設のコストは1947年に核爆発を用いない方法によって計算されたが、1960年に核爆発利用を前提に改めて計算された。そのコストが60年代の水面式運河建設の議論の指針の一つになった。(Lindsay-Poland 2003: 83)
(6)米の商品化に関しては、入植者たちが人口比の10%にも満たないにもかかわらず、人口比80%の黒人と同等の生産量があることなどが報告されていた。エンベラに関しては農作物を商品化するなど「近代的な」経済活動に移行しつつある、という評価がされていた。(Torres de Arauz 1970a)。 
(7)1971年にはアメリカ合衆国政府は核を利用した掘削に関する予算項目を削った。ただし、第二運河計画そのものがなくなったわけではなく、現在では2003年に決められた水門式運河建設が進められている。
(8)初出は1972年、大統領府計画行政総局。
(9)外挿された政治制度としての首長制は「ガイミー」についてもいえる。1960年代から70年代に「ガイミー」のもとで調査を行った人類学者によれば、1968年の首長の選出経緯についてその経緯を覚えている「ガイミー」は限られており、「ガイミー」による投票があったという事実に関する信頼できる情報はなかった。また、首長はこの時代の「ガイミーの伝統的な主導者」ではなかった(Young and Bort 1979)。
(10)この議会は立法の権限をもたず、副大統領選出などの限られた権限を持つものだった。
(11)共同体開発総局の下部組織に先住民問題を取り扱う部局も作られた。ただしこの部局が進めた開発プログラムは、サンブラス特別区とベラグアス、チリキ、ボカス・デル・トロの「ガイミー」を対象にするものであり、エンベラは含まれなかった(Medina 1972)。
(12)トーレス=デ=アラウスを含め、パナマの先住民政策にかかわった人々の論考から、この点は読み取れる。共同体開発総局のギジェルモ・メディナは1972年の論文で、「十分な効力を備えたかたちで、共和国の法によって設立され、保護されている先住民保留区はいまだにない」と論じている(Medina 1972: 107)。また、全米インディヘニスタ協会に所属していたアンドレス・メディナも、パナマの先住民の法的な状況について、サンブラス特別区は十分に確立されているものの「大部分が紙の上にとどまっている」と評価している(Medina 1972: 74)。また、トーレス=デ=アラウスも運河計画報告書のなかで1958年27号法に言及しながらも、その規定はほぼ無視している。
(13)エンベラは植えられた果樹のある場をneuと呼び、その翻訳語にfincaを使う。土地そのものや単年性の作物などが植えられている焼畑の開墾地はそのように呼ばれない。
(14)「持続可能な開発」という概念は国連の「環境と開発に関する世界委員会」による1987年の報告、通称「ブルンラントン報告」によって提示された。そこでは、先住民の伝統的生活や伝統的知識の重要性が指摘されると同時に、彼らを社会経済的な枠組みに統合すべきことなどが提示されている(高倉 2009)。
(15)ILO169号条約とは1989年に国連の専門機関でもある国際労働組織によって定められた国際条約である。先住民を定義する国際的な条文、文化相対主義に基づく権利を擁護する条文として、今日のラテンアメリカ先住民の権利言説において重要な位置を占めている。
(16)流域の土地は、カルタ・オルガニカの規定に基づき農耕地、森林保全地、持続的な管理の土地に区分された。
(17)Ne-Drua ホームページ、http://www.nedrua.com/ 参照。
(18)もともとは2005年のCOP11において、森林減少の回避を温室効果ガス排出削減対策としてコスタリカ、パプアニューギニアが提唱したことから始まった。その後、類似する提案を総称するものして、REDD(Reducing Emission from Deforestation in Developing countries)という名前がつけられた。2007年のCOP13で単に森林減少、森林劣化の削減だけでなく森林の保全による炭素吸収の維持、増加の活動の重要性も指摘され、COP14からはREDD+と呼ばれるようになった(松本 2010)。REDD+の資金メカニズムは、国際的な基金や二国間基金からの資金提供による「基金方式」と排出削減された炭素をクレジット化し炭素市場で取引を行う「市場方式」、それらを組みあわせた「ハイブリッド方式」がある。主に「基金方式」は事業の準備段階のための資金源として優れており、UNDPをはじめとする国際的基金はREDD+の準備活動のために資金を提供しているという。「ハイブリッド方式」では事業実施の段階で市場を利用するというのが基本的な考え方だという(百村・横田 2010)。
(19)この方法は「経済的視点からはコストが他の対策よりも安くすむという期待」がある(松本 2010)。
(20)「低木林やゴム林を林地と定義すると、低地林へのゴム林造成は林地内の変化になるので、森林管理となる。また、低木林を森林、ゴム林を農地と定義すると、低木林のゴム林造成は森林減少にあたる」(清野 2010:7)。

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UP: 20120429 REV: 20131015
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