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「戦中期における少女の化粧 ──『少女の友』からの一考察」

小出 治都子 2012/03/12
角崎 洋平松田 有紀子 編 20120312 『歴史から現在への学際的アプローチ』,生存学研究センター報告17,431p. ISSN 1882-6539 pp.242-262

last update: 20131015


小出 治都子
(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程)


はじめに

 「ぜいたくは敵だ」や「欲しがりません、勝つでは」というスローガンの下、配給生活を送っていた戦中期(1941年〜1945年)。物資不足の中、化粧をしていたはずがない、というのが通俗的な解釈である。しかし、当時の化粧品会社の動きを見てみると、化粧品は生産され、雑誌には化粧品広告が掲載されていた。しかも、その広告は、婦人に対してではなく、高等女学校に通う女学生、いわゆる少女が読む少女雑誌に掲載されていたのである。
 本報告では、この事実を踏まえ、どのような化粧品広告が少女雑誌に掲載されていたのかを考察する。さらに、当時の少女たちが形成していた文化(以下、少女文化)の中で、化粧品はどのような役割を果たしていたかを論じることとする。
 本報告の構成は次のとおりである。
 まず、戦中期を化粧品広告が掲載された時期と掲載されなかった時期に分けて考察する。戦中期の化粧品広告は1941年1月〜1943年7月まで掲載された。そこで、第1節では、化粧品広告が掲載されていた時期の化粧品会社の動向とともに、『少女の友』が示した少女の理想像がどのようなものであったかを考察する。第2節では、1941年1月〜1943年7月までの『少女の友』に掲載された化粧品広告を具体的に考察する。化粧品広告に描かれた挿絵や広告文句がどのようなものであったかを提示し、少女文化にどのような影響を与えていたかを論じる。第3節では、化粧品広告が掲載されなかった1943年8月〜1945年8月の『少女の友』を考察する。さらに、化粧品が再び掲載された1946年7月の『少女の友』も考察対象に加え、戦中期から戦後にかけての『少女の友』が示した少女の理想像がどのように変化していったかを論じる。そして、戦後の少女文化の中で化粧品がどのような位置づけとなったかを論じる。
 本論に入る前に、本報告における少女の位置づけ、さらに、考察対象とする少女雑誌について述べておく。本報告における少女とは「就学期にあって、出産可能な身体を持ちつつも結婚まで猶予された期間」(渡部 2007: 12)の存在であり、「女学校に通い、少女雑誌を買い与えられていた女子に限定され」(今田 2007: 5)をさすものとする。「経済的に余裕があること、親が教育熱心であること、少女雑誌のような都市文化に肯定的であること」(今田 2007: 5)が少女の条件であり、その年齢は12歳〜17歳頃である。
 この少女たちが愛読していた少女雑誌の一つが、実業之日本社から刊行されていた『少女の友』である。『少女の友』は、1908年〜1955年まで続いた長寿雑誌である。「明治・大正・昭和にわたり数多くの少女たちに深い感動や、忘れ難い思い出を与えた記念すべき雑誌」(浜崎 2004: 74)と言われた『少女の友』には、数多くの化粧品広告が掲載されていた。『少女の友』に関する先行研究は多数あり、戦中期における『少女の友』についても言及されている。戦中期の『少女の友』は、「『女学生』を『国家』に寄り添わせて語る方法によって、女学生の日常生活が国家的な出来事であるかのように記述され、言説において両者の一体化がされ」(水谷 2006: 15)ていた。また、読者投稿欄でも、少女たちが「銃後」の役割を担っていることが書かれており(硲 2006)、『少女の友』が少女と戦争を結びつける役割を果たしていたことが読み取れる。さらに、国家に忠誠を尽す「新しい少女」が提唱されたことにより、少女たちは否応なしに戦争に加わったことも論じられている(今田 2007)。
 本報告では、『少女の友』が長寿雑誌であること、読者投稿欄を通じ読者との交流を図ることによって少女に大きな影響を与えていたこと、そして、数多くの広告掲載を行なっていることから、『少女の友』を研究対象とし、『少女の友』に掲載された化粧品広告を考察することとする。


1.1941年1月〜1943年の『少女の友』と化粧品会社

 1941年1月〜1943年7月にかけての『少女の友』に掲載された化粧品広告数は、文末の表1に掲載したとおりである。この表から分かるように、化粧品広告は戦争が拡大する1941年以降も掲載されていた。ただし、その掲載方法は1940年9月に改正された化粧品営業取締法に加えられた第4条によって縮小されている。第4条とは次のような規制である。

第4条 化粧品の効用に関しては文書、言語その他何等の方法を以てするを問はず虚偽誇大の広告を為すことを得ず

 化粧品の広告取締条項の目的は、「医薬品と化粧品の区別を明確にする目的と、軽佻浮薄の風を招かないようにとの、戦時下生活での自粛を促すこと」であった。つまり、それまでの化粧品広告は戦争が拡大し始めた1940年であっても「虚偽誇大」が問題とされる状況にあったといえる。では、どのような化粧品広告が掲載されていたのであろうか。本田和子は、1940年2月号の『少女世界』(講談社刊)に掲載されたウテナクリームの広告を事例に挙げて考察を行なっている(本田 1991: 30-33)。本田は、ウテナクリームの広告を次のように論じている。

化粧品を女学生にすすめるという、どう考えてもさほど教育的でもなく、国策に添うとも言い難い所業を、いかにも「時局的」と見せるこの名言(迷言?)。戦う男たちのために、国内の娘たちを美しくするのだという、この奇妙な理屈が、しかし、堂々と目次の折り返しを飾る。もちろん、宣伝文句はウテナ化粧品側のもので、講談社の関与するところではない。とは言え、口絵に「堂々タンク隊の大行進」とばかり戦車隊の写真を掲げ、また、「父のかたみ」と題して、戦死した兵士の遺品に見入る家族の姿を描くこの同じ号が、こうした奇妙な化粧品広告を平気で掲載する。無神経と言おうか、あるいは、徹底した無責任性とこそ言うべきかもしれぬ。しかも、翌月のウテナクリームは、宣伝の仕方をガラリと変え、ひたすらに肌への栄養効果を謳い上げるのだ。(本田 1991: 32)

 本田は、女学生に化粧品をすすめることを、国策に添わない所業だと論じている。本田が取り上げた1940年2月号の広告文句は、「戦地のお父様やお兄様に見せてあげたい あなたの……赤い頬っぺた健康的な頬っぺた」である。確かに、戦時中であることを述べながら、化粧品によって健康的な頬っぺたになろうという主旨の広告は、「奇妙な理屈」とも取れなくはない。しかし、大正期から女学生、つまり少女たちは化粧をして高等女学校に通っていたといわれている(小出 2011)。また、戦う男性のために少女を美しくする、という「奇妙な理屈」も戦中期だけのものではなく、明治期に女子教育の観点から論じられていたことである(渡部 2007)。さらに、第一次世界大戦時も、『少女の友』には化粧品広告が掲載されていた。そこに描かれた広告文句や挿絵には、「〜ですの」、「〜てよ」などの女学生ことばを使いおしゃべりをしている少女たちが描かれており、およそ戦時下のものとは思われないものであった(小出 2008)。ただし、第一次世界大戦時とは異なり、1940年頃には物資が困窮していた。それにも関わらず、戦局が拡大しつつある時期の広告としては、本田が論じるように「奇妙な理屈」で成り立つ「無神経」で「奇妙」な広告であるといえよう。
 しかし、「奇妙な理屈」によってつくられた広告は、当時では「正当な理屈」として捉えられた。先述したように、明治期から女子教育の観点では少女が男性のために美しくなることは必要なことと捉えられていた。戦中期にはさらに、「検閲を行う側であり、戦時下のイデオロギーを流布する側であった立場の人物」(水谷 2006: 18)からも肯定されることとなった。
 1942年5月に「陸軍省情報局所属」であり、「昭和十五年度に新聞雑誌用紙統制委員会の官庁側の委員に任命され」た(水谷 2006: 18)鈴木庫三によって寄稿された「日本少女の美しさ」には、少女に必要なものとして三つのことを取り上げている。それは、「第一に心の美しさ、人情の美しさ」、「第二は肉體の美しさ」、「第三には化粧や服装の美しさ」である(1)。そして、「日本少女の美しさには心の美しさと、健康の美しさと、簡素な化粧、服装の美しさと三つの美しさが調和することが大切」であると結論付けている。
 この記事のタイトルである「日本少女」とは、心が美しく健康的で、簡素な化粧をし、服装が美しい少女であることをさすだけでなく、お国のために働く健気で雄々しい少女である。これは、戦前までの『少女の友』の読者である少女たちとは違う立場の「新しい少女」であった。戦中期、『少女の友』では、「古い少女」=「大人」と「新しい少女」=(今の)少女という対抗図式が作られた。「新しい少女」は先述のように、お国のために働く健気な少女であると述べた。それに対し、「古い少女」とは、「総力戦体制という新体制に適合することができない弱々しい」存在として語られている(今田 2007: 179)。この二つの少女を対立させ、「新しい少女」を賛美することで、読者である少女に、「古い少女」性の排除と「新しい少女」性の導入を促したといえよう。
 このように、戦中期の少女はそれまでの少女性を否定され、「新しい少女」性へと移行した。そのような時期に掲載された化粧品広告は、この「新しい少女」性を肯定したものであったのであろうか。広告の規制が強化された時代の広告では、「新しい少女」をどのように描かれていた、もしくは描かれなかったのであろうか。この時期の『少女の友』に掲載された化粧品広告について考察する。
 1941年1月〜1943年7月までの化粧品広告は、全部で148枚ある(2)。
 この化粧品の種類別に分けると、クリームの広告が最も多く、次に化粧水、洗粉の順に多い。その理由には、化粧品会社の動きが関係している。
 1941年以降、化粧品会社が多く製造した化粧品は、クリーム類と洗粉であった。特に、クリーム類は、白粉や紅などを使う化粧よりも手早く出来ることを謳い、「時局向商品」として販売された。クリーム類の中で主に製造されたものは、バニシングクリーム(3)とコールドクリーム(4)である。しかし、当時の生産実績を見ると、バニシングクリームに比べコールドクリームの生産量は格段に少ない(5)。その理由として考えられるのが、コールドクリームの原料である。コールドクリームはバニシングクリームに比べ、油分の多いクリームである。そのため、原料を確保することが難しく、生産量が少なくなってしまったのではないだろうか。『少女の友』の化粧品広告を見ても、クリーム類の中で最も宣伝されているものはバニシングクリームであり、コールドクリームの広告は数が少ない。以上のことから、少女たちにとって主要な化粧品とされたのが、バニシングクリームであったことが伺える。
 そこで次節において、バニシングクリーム広告を最も掲載したウテナの広告について考察し、どのような挿絵と広告文句が描かれていたのかを論じる。さらに、『少女の友』に登場した「新しい少女」が化粧品広告に反映されていたのか、または反映されていなかったのかについても考察する。


2.1941年1月〜1943年7月までの化粧品広告   ──ウテナバニシングクリーム広告を中心に

 1941年1月〜1943年7月までの『少女の友』に掲載されたウテナバニシングクリームの広告は13枚である。前節で触れた広告規制により、誇大広告が強く戒められたため、1940年9月以前と以後の広告表現には相違が見られる。例えば、1940年5月のウテナバニシングクリーム広告を見てみる(左図版参照)。
 まず、広告の右下の笑顔の少女が目に入る。その少女が見上げた先には、大きく「ウテナバニシングクリーム」の文字が書かれている。さらに、少女の写真の上には、「乙女よ薔薇のやうに」というタイトルとともに、ウテナバニシングクリームの効能が書かれている。効能の記述は次のようになっている。

サラリとお肌にとけこんでしかも芯からお肌を美しくする素晴しい作用があるのですがその上にニキビや色黒・脂ら顔を解消して、薔薇のやうにいき××とした若肌をやしなひます(論者註:×は繰り返しを表示している)

 ニキビ・色黒・脂顔は少女を含め、当時から女性の悩みの一つであった。そのため、これらを解消するという文句は当時の化粧品広告でもよく使用されていた。 しかし、これらの悩みのうち、ニキビと脂顔には関連性を見ることができる(6)が、色黒とニキビ・脂顔の悩みに関連性は(少なくとも、この広告からは)見受けられない(7)。だが、ウテナバニシングクリーム広告には、このクリームをつけるだけで少女たちの悩みを解消し、さらに、「薔薇のやうにいきいきとした」若肌を養うとまで書かれている。この広告は、クリームひとつで肌にまつわる全ての悩みが解消され、さらには望みも叶えられると豪語しているのである。
 しかし、1941年1月のウテナバニシングクリーム広告(右図版)を見てみると、その表現が以前よりも直截的なものに変化していることがわかる。

お肌にサラッと心よくとけて細かい被覆力でお肌を護るクリームですから、キメを美しくやしなつて肌アレを防ぎいつも生々とした若肌を保ちます

 1940年5月の広告文句に比べ、その内容が変化し、クリーム本来の効能を記すのみとなっており、広告規制による広告文句の変化を見ることができる。
 では、広告規制によって変化したウテナバニシングクリーム広告は、どのような挿絵と広告文句を描いたのであろうか。ウテナバニシングクリーム広告の中で特徴的といえるのは、わずかだが広告文句に戦争を想起させるものがあることである。本田が1940年の『少女世界』のウテナ広告を取り上げていたように、同時期の『少女の友』でも同じように戦争を謳った広告が掲載されていた。このような広告は、1941年以前のものも含めれば、1940年12月には、ウテナ広告に「興亞」と書かれた広告文句が登場する。その後、1941年2月・4月・5月にもウテナ広告にも同様に「興亞」が、さらに、同年10月には「奉仕」という言葉が広告に登場する。また、1942年3月・5月・6月にも、ウテナ広告に「銃後(后)」という戦争を想起させる文字が書かれる。
 ウテナ広告は、『少女の友』の化粧品広告の中でも、最も多く掲載した化粧品会社のひとつである。それだけ、宣伝広告に力を入れていたのであろうし、化粧品広告をとおして、戦時下にあっても少女たちに美しくあることを求めた国の方針に従ったともいえるだろう。しかし、戦争を意識させるような広告文句を書いた広告に描かれた挿絵には、『少女の友』が示した「新しい少女」はほとんど描かれていない。少女の写真が掲載されていても、「新しい少女」を想起するようなものではなく、笑顔の少女が掲載されているものがほとんどである。唯一、1941年2月の広告に労働している(かの様に見える)少女の挿絵が描かれ、戦争を意識する「興亞」の文字が書かれている(右図版参照)。
 さらに、1942年以降、戦争を表す言葉は出てこず、化粧品の効果説明のみが記載されている。広告文句同様、挿絵も戦争を想起させるものは描かれていない。また、少女の写真・挿絵も減り、商品の写真・挿絵が描かれることが多くなっていく。その広告では、「健康」や「明るく」あることを謳ったものが多くあり、「心の美しさと、健康の美しさと、簡素な化粧、服装の美しさと三つの美しさが調和すること」といった「新しい少女」を意識するものであったが、国家に尽くすこととは一定の距離がおかれている。
 以上により、1941年1月から1943年7月までの化粧品広告をまとめると、次のように論じることができる。まず、少女たちに戦争を意識させるものは少ないという点である。『少女の友』は国家につくす「新しい少女」であることを読者に求め、小説や読者投稿欄などで活発に語られていた。しかし、化粧品広告を見ていると、「健康」や「明るい」という「新しい少女」の理想は謳っても、国家につくすことに対しては消極的な態度をとっている。つまり、『少女の友』の中に矛盾した少女が存在しているのである。この矛盾した少女は、化粧品広告が掲載されなくなった『少女の友』の中でも出てくることとなった。
   そこで、次節では、化粧品広告が掲載されなくなった1943年8月以降の『少女の友』と化粧品会社の動きを踏まえつつ考察する。


3.1943年8月〜1946年7月までの『少女の友』と化粧品会社──化粧品広告の再掲載まで

 1943年8月〜1946年6月まで、『少女の友』では化粧品広告が掲載されなかった(文末表2参照)。化粧品広告だけではなく、広告そのものが掲載されなくなっていることから、雑誌の用紙割当によるページ数削減の影響によるものと考えられる(8)。この背景には、1943年から、化粧品生産が生産減少に転じたことが考えられる。物資が不足していたことに伴い、各メーカーは代用品の研究が行なわれ、中山太陽堂(現クラブコスメチックス)では、バニシングクリームと乳液の原料が入手困難となったため、落花生や枇杷の実を代用原料として生産していた(株式会社クラブコスメチックス編 2003: 289)。また、資生堂では、代用品による販売を行なっていた。例えば、化粧下に使うためにコールドクリームを買いに来た客に、クリームシャドーを奨める。クリームシャドーがない場合は、化粧下クリームを奨める。それがなければ、……というように、である(和田 2011: 438)。しかし、空襲などにより、生産数量は激減していき、1944年の生産数量は1942年に対し約60%となっている(日本化粧品工業連合会編 1995: 241-43)。
 この時期の生産実績を見ると、バニシングクリームをはじめ、化粧水、肌洗粉の生産量が減ったことわかる(9)。この三種類は、1941年・1942年の生産実績では増加傾向にあった化粧品であるが、戦局の苛烈化に伴う物資不足のため製造が難しくなってきたことが原因と考えられる。それに対し、1941年・1942年に生産数が少なかったコールドクリームの生産量が増えている。バニシングクリームに比べ、生産量に大きな差はあるが、化粧品の生産量が全体的に減少傾向にある中、増加している点は留意すべき点と考えられる(10)。このように化粧品の需要と供給が伴わない状況下で、化粧品が『少女の友』の読者に販売されることは難しいだろう。そのため、各化粧品会社は広告を掲載しなくなったのではないだろうか。
 また、1943年頃は、『少女の友』の読者である少女を取り巻く状況も大きく変化した。中等教育課程の簡略化のため「中等学校令」が発布され、中学校、実業学校、高等女学校の一本化が図られたのである(高等女学校研究会編 1990: 1-2)。この時廃止されたのは、実科高女だけであり、高等女学校の形はそのまま、引き継がれたが、この高等女学校の変化は少女がつくってきた少女文化を土台から壊すことになったといえよう。少女であるための条件のひとつは、高等女学校に通っていることである。その高等女学校の変化は少女にとっても大きな変化を招いたと思われる。それが、「新しい少女」の出現だったのではないだろうか。「新しい少女」はお国のために働く雄々しい少女であることが理想とされた。それに対し、それ以前の少女、つまり「古い少女」は中原淳一(11)が描いたような、清純な少女を理想としていた。
 「新しい少女」の登場によって『少女の友』の中で「古い少女」は否定された。そして、『少女の友』の紙上では、「古い少女」が望んでいたような小説や、かわいらしいものを描いた挿絵がなくなり、銃後の守りとしてお国のために奉仕するという内容の記事が掲載されるようになった。しかし、それだけでは単なる戦争に関する記事にしかならず、購読されるための魅力はない。そこで考えられたのが、いかに楽しく、かつ、面白く奉仕する気持ちにさせるか、ということである。
 そのため、『少女の友』の記事には色々な工夫がされている。例えば、1943年8月には、慰問帳の作り方を掲載し、少女たちに千代紙などを貼って慰問帳をつくるように勧めている。そういった記事内容に対し、翌月には読者投稿欄で、この慰問帳作成について、「樂しい事」として紹介されている。これは、おしゃれができなくなった少女がきれいなものと触れあえる楽しみのひとつといえる。慰問帳作成は、かわいいものやきれいなものに触れたい少女の願望を具現化したものとも考えられる。
 しかし、「古い少女」を否定した「新しい少女」が、かわいい慰問帳を作ることは矛盾ではないだろうか。それに対して考えられることは、慰問帳作成で対象となった少女は読者投稿欄でのコミュニティ(今田は「少女ネットワーク」と呼んでいる)によって作られた存在をさしているということである。この「新しい少女」と少女には連続性があり、どちらも「大人」と差異化されている。「新しい少女」は、「国民という自覚のある少女」と「それの欠如した大人」という図式、少女は「清純な少女」と「醜悪な大人」という図式である(今田 2007: 186)。この「清純な少女」こそ、「古い少女」が求めた「少女幻想共同体」(本田1990: 179)の理想像であり、中原淳一が描いた少女だったといえよう。
 つまり、慰問帳作成の記事、そして、それに対する読者投稿欄の少女たちの繋がりは、「新しい少女」として捉えられた少女たちのささやかな息抜きの場所だったのかもしれないのだ(12)。少女に対して慰問帳という実用的かつ装飾性も兼ねたものの作成を紹介しながらも、「新しい少女」に対して、勤労奉仕についての記事を掲載し、少女たちが楽しく労働するさまを描くことで、「国民という自覚」をもたせることも『少女の友』は忘れなかった。それが、1944年5月に掲載された「モモちゃんもんぺ戦記 挺身隊便り」である(右図版参照)。
 主人公であるモモちゃんに、学校を卒業したあとすぐに工場に働きに出た従姉の春子姉さんから手紙がきた、という構成になっている。この手紙の中で、春子姉さんは勤労する工場について「こんなに明るいとは思はなかつた。まるで温室みたいね」と言い、業務内容については「まるでお人形でもこしらへている様な氣がするワ」と述べている。そして、勤労に従事する少女たちは、「汗の化粧くづれと油のクリーム」によって光っており、それを「恥しくない」ことと書いている。明るい工場での楽しい労働、そして、白粉や紅によってつくられた顔ではなく、汗と油によってつくられた顔こそが美しいものであるとするこの記事には、『少女の友』が提示した「新しい少女」の理想的な姿が描かれている。さらに、戦争が終盤にさしかかった1945年4月の「美しく健かに」という記事では、少女に「健康とCらかな美しさ」を求める。そこには、勤労奉仕に従事する少女の汚れた顔ではなく、「Cらかな身嗜」をした少女が求められている。
 これらの記事から、戦中期の少女に求められたのは、国家に従事する労働者としての顔が汚れることも厭わない少女と、国家の花として健康的で清らかな身嗜みをした少女であったことがわかる。一見、矛盾しているような少女の理想は、少女がもつ特有の曖昧さが表出しているようにも思われる。
 そして、これらの記事に共通しているのが、白粉や紅を使った化粧の否定である。前節で、戦中期の化粧品はクリームが主であったことを述べたが、クリームのことは触れられていない。この時期の化粧品生産量は減少方向であったことはすでに述べたが、そのことを踏まえても、これらの記事は化粧そのものを否定していると捉えることができる。戦争末期の1944年・1945年は、『少女の友』において少女という存在の曖昧さが表出した時期でもあり、化粧が否定された時期でもあったといえよう。
 そのような時期を経て、『少女の友』に再び化粧や化粧品が登場するのは、1946年4月に「盗み(コント)」という読み切り小説の中である。この物語の中に、女学校の生徒を目当てに開かれた「ぷり村」という名前の店が登場する。この店で売られているものは次のように描かれている。

お揃ひでしてみたいブローチ、お金よりも夢のかけらを忍ばせたいやうな小銭入れ、中身が何であれ、持つてゐるだけで心豊かになれさうなハンド・バッグ、美しく映りさうなコンパクト、たまには自分でお作りなさいと催促してゐる手藝材料など、女學生の好きさうな品物の間に、女學生にも一寸したお化粧ぐらゐは、といふつもりか、クリームや粉白粉やポマードが、多少遠慮ぶかげに列んでゐた。(尾阪 1946: 16-7)

ここに描かれている品物の羅列は、中原淳一の店「ひまわり」に飾られた“淳一ブランド”をほうふつとさせる(川村 2003: 14)。そしてその中に、「多少遠慮ぶかげ」に並んでいるクリームや粉白粉があり、「女學生にも一寸したお化粧ぐらゐ」は必要であると考えられていることを踏まえると、この小説の世界は、戦前の少女文化を想起させる。もしかしたら、少女文化への慕情ともいえるかもしれない。
 中原淳一は、1946年2月・4月・6月の『少女の友』の裏表紙にスタイル画を描いた。そこに描かれた少女のスタイルに戦争の影響はみじんも感じられない。中原淳一は1946年2月の『少女の友』の裏表紙(右図版)に、少女のスタイル画とともに「長い戦時生活の爲に貴女たちは明るい乙女らしい心を忘れてゐたのではありませんか」と問いかけ、「やがて春が來ます。明るい美しい夢を呼び歸して下さい。」と呼びかけている。このように、『少女の友』誌上では、戦争からの逸脱を図ったような記事や挿絵を見ることができるが、化粧品業界ではどのような動きがあったのであろうか。
 戦後の化粧品は、物品税、公定価格、原料配給制度によってしばられるなど、困難な状況にあった。とくに、原料入手が最大のネックであったようで、クリームや粉白粉などの原料を入手が難しいことを示す資料が残っている(日本化粧品工業連合会編 1995: 268-69)。そのような中で、化粧品生産の困難を招いていた公定価格の撤廃が1946年に行なわれ、限界価格が決定され、次いで優良化粧品制度が生まれた(13)。この制度は一時的なものであったが、化粧品会社が化粧品を販売しやすくなったことは確かである。このような時期に、『少女の友』では化粧品広告が再掲載されるようになった。
 1946年7月の『少女の友』に再掲載された化粧品広告は、中山太陽堂のクラブ乳液と昇英堂のピース香油であった。中山太陽堂の広告には笑顔の少女の挿絵、そして“your skin must have life”の文字とともに、次のような広告文句が書かれている(右図版参照)。

あなたの夢は何でせう……
ベルベツトのやうなお肌にとの願ひもその一つでせう。お肌に新しい命を與へ若草のやうな柔らかなさと潤ひとで甦らせる化粧液をほんたうにお贈りしませう。そして更にあなたを美しく……

 戦中期には英語表現を用いた広告などなく、このことだけでも戦後を象徴しているといえる。さらに、広告文句に書かれた「お肌に新しい命を與へ若草のやうな柔らかさと潤ひとで甦らせる化粧液をほんたうにお贈りしませう」という表現には、当時の化粧品業界や少女の理想像の変化を見ることができる。前述したように、硬直化した公定価格によって、どんな粗悪な化粧品であっても国が定めた一定の価格で販売されていた。そのため、中山太陽堂が広告で「ほんたうにお贈りしませう」と述べたことは、「本物をお贈りしましょう」という意思の表れと取ることができるのである。また、「若草のやうな柔らかさと潤ひ」という広告文句からは、戦前の誇大広告や戦中期の商品説明のみの広告文句とは違うことが伺える。そして、笑顔の少女の挿絵は、それ以前の広告に描かれた「新しい少女」のような戦争を意識させるような描かれ方ではない。かといって、「古い少女」たちのような弱々しい少女でもない。
 戦後の『少女の友』は「新しい少女」から「古い少女」へのノスタルジアを描いていた。しかし、1946年7月に掲載された化粧品広告に描かれた少女は、明治大正期の「古い少女」でも戦中期の「新しい少女」でもない、戦後の少女だったといえる。


おわりに

 以上、戦中期の少女向け化粧品広告を考察し、少女文化の中で、化粧品がどのような役割を果たしていたのかを、少女の理想像の変化や化粧品会社の動向など社会的背景を踏まえて論じた。
 まず第1節で、1941年1月〜1943年7月までの『少女の友』では、「新しい少女」が登場し国家に従事する猛々しい少女が賞賛されていたことを述べた。また、同時期の化粧品会社の動向についても考察し、戦中期に最も生産された化粧品がバニシングクリームであったことを述べた。
 次に、第2節では、バニシングクリームの広告が最も多いウテナバニシングクリームの広告を考察した。そして、化粧品広告では、「健康」や「明るい」という「新しい少女」の理想は謳っても、国家につくす「新しい少女」に対しては消極的な態度をとっていることを論じた。『少女の友』の中に矛盾した少女が存在していたことは、化粧品広告が掲載されなくなった『少女の友』の中でも出てきており、そのことについて第3節で考察した。
 第3節では、まず1943年7月〜1946年6月までの、化粧品広告(だけでなく、広告自体)が掲載されなくなった時期の『少女の友』と化粧品会社の動向について考察した。そして、化粧品広告が掲載されなくなった時期でも、クリームや化粧水、洗粉は製造され、販売されていたこと、『少女の友』では、少女にいかに楽しく勤労に従事させるか、ということが散見できる記事が載っていることを論じた。その中には、読者投稿欄によってつくられた少女コミュニティに存在する少女たち向けに書かれた記事と、「新しい少女」向けに書かれた記事が混在していたのである。戦後になると、『少女の友』では、さっそく少女たちに「乙女らしい心」を思い出すように諭している。戦中期に登場した「新しい少女」から「古い少女」へのノスタルジアが描き出されていたのである。しかし、1946年7月に掲載された化粧品広告に描かれた少女は、明治大正期の「古い少女」でも戦中期の「新しい少女」でもない、戦後の少女だったといえる。
 戦中期の少女は、国家につくす「新しい少女」という理想像を国家や雑誌メディアに確立された。そして理想に近づくための一つの要素として少女に対し、化粧品会社は簡単に化粧できるものとしてクリーム類を宣伝した。しかし、化粧品会社にとって、少女たちは購買対象者であり、「新しい少女」である必要性はなかった。そのためか、化粧品広告では「新しい少女」はあまり登場しない。まずここで、雑誌メディアと化粧品会社の少女の捉え方の相違が見られる。そして、戦後になり、雑誌メディアでは「新しい少女」から「古い少女」へのノスタルジアを示す表現が多くなったが、化粧品会社の化粧品広告は戦中期の「新しい少女」でも、ましてや戦前の「古い少女」とも違う少女を描いた。戦前の化粧品広告に描かれた少女が女学生ことばを用いた弱々しい存在と捉えられたのに対し、戦中期に描かれた少女は国家につくす雄々しい存在として捉えられた。そして、戦後には弱々しい存在とも雄々しい存在とも違う、新たな少女が化粧品広告の中に形成されたのである。ここに、雑誌メディアと化粧品会社の大きな相違をみることができ、少女文化の中の少女の理想像の多様性が出てくるのである(14)。

付記:本研究を遂行するにあたり、経費を援助いただいた財団法人コスメトロジー研究振興財団に深謝いたします。

[注]
(1)鈴木が述べる「第一の心の美しさ、人情の美しさ」とは、「明くCく直き誠の心」であり、「第二の肉體美」は「健康で調和のとれた肉附の顔形で血色もよい」ことをさす。そして、この二つの美しさを際立たせるために「第三の化粧や服装の美しさ」が必要であるとし、「簡素な化粧や服装」を身につけた「日本少女」こそが美しいと説いている。(鈴木 1942: 58-61)
(2)広告を掲載した化粧品会社と、それぞれの広告数の内訳は次の通りである(文末表1参照)。ナリス化粧品:4枚、三和商会:12枚(バニシングクリーム:4枚、コールドクリーム:6枚、粉白粉:1枚、水白粉:1枚)、ウテナ:30枚(バニシングクリーム:13枚、レモンクリーム:9枚、ビーシー乳液:8枚)、カガシ商品本舗:29枚(グランドクリーム・カガシクリーム:9枚、ミルクローション:4枚、液体コールド:16枚)、橋本製薬:14枚、桃谷順天館:28枚(にきびとり美顔水:24枚、明色クリームローション:3枚、明色クリンシンクリーム:1枚)、藤村一誠堂:12枚、湯瀬産業:16枚、その他:ベルボンクリーム、レービクリーム、モロゾフのノリトあらいこ各1枚。ただし、1枚の化粧品広告に2種類の化粧品が紹介されている場合は、2枚として数えている。
(3)バニシングクリームとは、さっぱり、べとつかない弱油性クリームの代表として古くからあるクリーム。皮膚に塗布すると白くなり、塗擦するとバニッシュ(vanish)すなわち消失するように見えるので、この名称がつけられたといわれる(日本化粧品技術者会編 2003: 662)。
(4)コールドクリームとは、構成成分の50%以上が油分からなるクリームで、油分が多いため、皮膚に塗布したときひんやり冷たく感じることからコールドクリームのよび名がついた。油性クリームともよばれる(日本化粧品技術者会編 2003: 478)。
(5)『化粧品工業120年の歩み 資料編』によると、1941年・1942年の化粧品の生産実績は次のとおりである。下表に記載したものは、『少女の友』に掲載される数が多かったバニシングクリーム、コールドクリーム、化粧水、肌洗粉の数量と金額である。なお、表に記載された金額は、物品税込価格である。物品税の課税率は、1941年12月1日より1943年2月28日まで、一般化粧品:50%、洗粉・シャンプー:20%となっている。
(6)皮膚表面に存在する脂質である皮脂が過剰な状態になると、ニキビなどの美容上のトラブルが起きる。(日本化粧品技術者会編 2003: 680-81)
(7)色黒の原因がこの広告では不明なため言及することができないが、仮に日焼けによる色黒の場合、その原因は紫外線であり、ニキビや脂顔の原因である皮脂の過剰状態とは関係しない。(日本化粧品技術者会編 2003: 707)
(8)化粧品広告だけではなく、広告自体掲載されなくなった。
(9)1943年から1945年までの化粧品生産実績は以下の表のとおりである。物品税の課税率は、1943年3月1日から1944年2月11日まで、一般化粧品:80%、洗粉・シャンプー:30%となっている。さらに、1944年2月12日からはさらに上がり、一般化粧品:120%、洗粉・シャンプー:60%となっている。
(10)平松隆円は、この時期の化粧品製造について、資生堂を例に挙げ、戦時中においても化粧品製造が行なわれていたと述べている。しかし、その製品は一般の女性に販売されることはなく、戦略物資を購入するときの見返りや、外交戦略としての贈答品とされていた、と論じている。(平松 2009: 173)
(11)1913年生-1983年没。イラストレーター、人形作家。略歴については、http://www.junichi-nakahara.com/profile/ryakureki参照。
(12)実際、中原淳一が1939年に開店した「ひまわり」という“淳一ブランド”を扱った店には、多くの「少女」が押しかけたという。“淳一ブランド”とは、オトメの絵を描いた便箋や封筒、カード、手帳、また淳一作の人形やワンピース、スカート、エプロン、ベレー帽、ハンドバックなどである。(川村 2003: 34)
(13)公定価格は、1940年に決定された物品税5%増徴を価格に反映させた結果、設定された価格である(日本化粧品工業連合会編 1995: 236-39)。
  戦後になり、1946年3月1日付けで「国民生活用品の生産、配給、価格等に対する統制要綱」が発令され、化粧品のごとき第3類物資には、小売最高価格のみを規定した限界価格が定められた。さらに、同年秋には優良化粧品制度が実施され、限界価格に3割以下の加算が認められた。その後、特殊性の高い製品にはさらに2割以下の加算が追加できるようになった。しかし、1947年に公定価格が大幅に改正されたことに伴って、優良化粧品制度は廃止された。(日本化粧品工業連合会編 1995: 265-75)
(14)ただし、このような結果は、今回研究対象とした『少女の友』と、その中で掲載された化粧品会社(主にウテナ)の広告にのみ言えることである。これが当時の雑誌メディア・化粧品会社全体にいえることなのかは今後の課題としたい。

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UP: 20120429 REV: 20131015
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