■ 2012/03/27 リベ研・ケア研・規範×秩序研合同研究会 『フェミニズムの政治学――ケアの倫理からグローバルな倫理へ』をめぐって 質問者・堀田義太郎 質問は大きく二つあります。 1 フェミニズム理論の射程――とくに責任論のヴァルネラビリティモデルによる組み換えに即して 2 自律した主体モデル批判の射程について 1 フェミニズム理論の射程――とくに責任論に即して 本書では特に、フェミニズムに「できること」が力強く・幅広く展開されている。とはいえ、同時に、本書でフェミニズム理論の意義――「できること」――として位置づけられているいくつかの主張や議論について、さらに、それらはすべてフェミニズムでしかできないのかどうかは気になる。 フェミニズムでしかできない主張や議論に私が関心がある理由は、フェミニズムという立場に立つことの認識的な利得、フェミニズムの理論的な利点や独自性という観点からは、その立場に立たない限り「できないこと」や「分からないこと」――つまりフェミニズムでしか言えないこと――がやはり重要になるのではないか、と思われるからである。 もちろん、岡野氏の主題は、フェミニズム理論による公私二元論解体・自律した個人モデル批判の観点から、より広く政治思想の諸課題について「何を/どこまで言えるか」ということにある。そして、これまでそれが行われてこなかったという観点からすれば、まずは「可能性」に焦点化することには大きな意義がある。 ただ、その上でやはり、公私二元論解体・自律した個人モデル批判を基盤にして「しか言えないこと」は何か、逆に、公私二元論解体・自律批判という基盤「だけでは言えないこと」もあるのではないか、という点が気になる。私見では、フェミニズムの議論――仮に依存普遍性モデルと呼ぶとして――からしか言えないことは、やはり「普遍的ケアギバーモデル」(N. Fraser)を打ち立てる点にあると思われる。この発想は、自律した主体モデルからは絶対に出てこないだろうし、それを明確に顛倒させるものだから。 フェミニズム理論の射程の明確化という意味では、依存の普遍性という観点から開かれる展望の広さを提示すると同時に、その独自性(限界を含めて)が気になる。 たとえば、責任概念のヴァルネラビリティによる組み換えは、フェミニズムの観点からしか認識できない/論じられないことだ、と言えるだろうか。 ・責任概念のヴァルネラブルモデルによる組み換えの射程について (第二部・第三章(特に176-184) 責任の前提を自由な主体同士の契約や同意、何らかの(互恵ないし利害)関係等に置くのではなく、対象の脆弱性およびそれをケアできる力を持っているという事実に置く。 ⇒ しかしこれは従来の責任概念でもいけるのでは? 「責任」という言葉を私たちは一般に次のように理解しているのではないか。まず、過去志向的には、ある種の価値的にマイナスの事態に対する関与責任や生成責任を、責任帰属の根拠だと考えているだろう。同時に、未来志向的には、当の「事態」の生成に関与していなくても、現に何らかの「ニーズ」等が発生している場合、それに対処する「能力」を持っているという事実やある「役割」にあるといった事実に基づいて、何らかの「責務」があると言える場合がある、と考えているのではないか(「力の義務」(セン)、「役割責任」(ハート)など)。これは、「責任」という用語には「規範違反行為」や「約束や同意」とは別の、「対象の脆弱性・緊急性」という側面も含まれるということでもあるだろう(瀧川裕英『責任の意味と制度』勁草書房、2003年、23頁)。 《本人の選択の結果ではない事柄には責任はない》という自己決定-自己責任の発想は、本書で指摘されている通り、たしかに根強い。ただ、これは「自然的義務」や「力(ある者)の義務」等の概念によって修正可能かもしれない。 2 「自律した主体」批判の射程について 「他者への依存に対する恐怖と思考の抽象性はともに、いかに自己を自他の身体性から解放し、身体の支配者とするか、という伝統的哲学の探求に連綿と引き継がれた身体性への侮蔑が異なる形で表れたものに他ならない」(267) 「理念としての自律的主体――自らの意志を貫徹し、身体をコントロールし、なにものにも依存しない存在――」(270) 本書では、一貫して他者に依存することへの恐怖や忌避感、身体をコントロールする主体=自律した主体という発想が批判されている。 (1) とはいえ、同時に私たちは、(他者は当然として)自らの身体も完全に思い通りに自由にコントロールできないからこそコントロールしたい、と思うのではないだろうか。身体が本来的に「ままならない」からこそ、その「ままならなさ」をできるだけ軽減したい、と。この欲望を否定することはできないと思われるし、もしコントロール不可能性を甘受すべきだという議論を普遍化してしまうと、苦痛も甘受すべしということになってしまうのではないか。どこかに限界があると思われる。 (2) そしてそれは、他者に依存されることの「負担」を回避したい、という思いとも表裏一体だと思われる。これについても、やはり他者に依存されることの負担を回避したい、という思いそれ自体を否定することはできないのではないか。他者に依存されることに伴う「負担」を回避、あるいは軽減したいと思うのは、それが私を疲れさせ、コントロールできない状態にするから、と。 (3) したがって、依存してよい人と、依存したくてもケアに値しない人がいるのではないか。ケアする側の能力が無限ならばそうした線引きは不要かもしれないが、ケアする側もセルフケアが必要だとすれば、たとえば、他者に依存せずに自由に行動できる人が他者に要求する場合、それは自分で何とかしろ(自己責任だ)、ということになると思われる。 → 総じて、どこかで「線引き」が必要であり、またそれが前提になっているのではないだろうか。 ある種の切迫した、あるいは重大なニーズをもち、かつ自らそれを実現できない人が、それをケア・実現できる余裕のある人(あるいはその地位にある人)に要求するのは妥当だが、セルフケア能力のある人間(たとえば男性)が、「風呂! メシ!」等と言っているとして、我々はそいつのニーズを「ケア」できるとして、すべきだとも、した方がよいとも考えないはず。 とすれば、余裕のある者、力のある者、「できる者」には、セルフケアの責任があり、その上で余裕があるならば、「できない者」に対するケア・援助の責任がある、といった線引きがあると思われる。 そして、その線引きの基準として妥当なのはやはり、利益と負担の配分(ロールズ)、あるいはより単純化してしまうと、個々人に経験・感受される快苦の計算になるのではないだろうか。