最後の最後に僅かばかりの記述をしておこう。
ニーチェの「生に対する歴史の効用と害悪についてVom Nutzen und Nachtheil der Historie fur das Leben」は「生に対する歴史の利害について」という訳語に見られるように、その文意は誤読されているか、そもそもきちんと読解されていない(Nietzsche 1873-73=1993)。
ニーチェはヘーゲル的な歴史認識を完全に馬鹿にしていた。軽蔑していただけではなく、それこそ我々にとって害悪であると考えていた。ニーチェにとって、自らの生を肯定するために過去を何とか克服しようと苦闘しつつ解放する者たちのために歴史はある。それゆえに、歴史とは強烈な批判を通じて深い苦悩と愛惜、憧憬と希望に引き裂かれた人間の歴史性として立ち現われるものである。その中でこそ、たんなる出来事の集積としての歴史や教科書的役割としての歴史を超え、歴史を創造することを導くのである。プロイセン国家に飼いならされたヘーゲル的な歴史認識は、こうした歴史の創造を、更にはそこに刻まれる深い苦悩と葛藤・憧憬と希望に引き裂かれた歴史の圧倒的な力を抹殺していると侮蔑しているのである。それは、生き抜かれるべき歴史を過去の史実に関する知識の集積に貶めてしまった。要するに、歴史学は知識の集積を経て、過去の文化の死体解剖をやっているに過ぎない。いや、それどころか、絵に描いたような「歴史の必然的帰結」というお話をでっち上げ、それを持ち上げてきた。大学教育の場で、未来への憧憬を抱く者たちに過去に起こった出来事を並べ立て、その歴史的帰結=物語を謳っては?らないのだ。
過去の記憶を持たない動物は「瞬間という杭に繋がれている」状態であり、過去との関係から現在を意識することなく現在という瞬間を只管生きている。それに対して、過去の記憶を持つ人間は、それゆえに、過去を背負って生きざるを得ないのだ。そうであるからこそ、人間にとっては「過去のものが忘却されなければならない境界を画定する(die Grenze zu bestimmen, an der das Vergangene vergessen werden mus)」のであり、そのことによって自らの世界を作り上げていくのである(Nietzsche 1873-73=1993)。境界画定こそが、生の主体に「過去のものやなじみのないものを変形する力」を与え、「過去のものを生に役立て、起こったことから再び歴史(Geschichte)をつくる力」となる。換言すれば、文字通り身を引き裂くような苦しみとともに強靭な精神でもって歴史を批判することこそが、忘却されなければならない過去との境界画定を可能とし、歴史を変形させていくのである。その意味では、強靭な精神でもって批判的な歴史診断を通じて、歴史は(深い悲しみとともに)忘却されなければならないのである。そして、ここで歴史診断・歴史記述において決定的に重要な点は、ある歴史は「学園に閑居するふやけたやつら」によって仕上げられた奴隷根性丸出しの物語として「出来上がっている」のである。すると、ここで重要な点は、例えば「当事者の視点から歴史を描く」「当事者に照準した現実を描く」といったお話ではない。繰り返すが、それは(程度の差こそあれど)すでに出来上がっているのである。「当事者話」はすでにインフレ状態であると思ったほうがよい。
したがって、我々は「学園に閑居するふやけたやつ」が必要とするのとは別の仕方で歴史を必要としなければならない。むしろ、「少数派」の視点に限った歴史診断と現実記述は容易く出来合いの物語に嵌り込んでいく。逆に、「少数派への位置取り」は常に危うさを抱えていると思ったほうがよいのだ。むしろ、「少数派」と呼ばれる人たちにおける差異や利害などを解明したほうがよい。更には「少数派」が様々な歴史的背景によって生み出されてきたものであることを知った上で、創造的に歴史を導くことが大切なのである。