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筑波大学 社会・国際学群 国際総合学類 卒業論文

「伝統社会と近代教育――ケニア・マサイコミュニティを例に」

筑波大学 社会・国際学群 国際総合学類
橋場奈月

※ pdfファイルはこちらからダウンロードできます。「伝統社会と近代教育ケニア・マサイコミュニティを例に−」

目次

第1章 序論
 1. 問題意識・問題設定
  (1) 国際社会における教育開発の潮流
  (2) 伝統社会における教育開発
 2. 研究方法

第2章 多民族国家ケニアとその学校教育政策
 1. ケニアという国家
 2. ケニアの学校教育政策の変遷
  (1) 植民地時代の学校教育制度
  (2) 独立後の学校教育制度
 3. ケニアの学校教育制度の問題点
 4. ケニアにおける学校教育普及と格差

第3章 マサイの社会と文化
 1. マサイの歴史
 2. マサイ社会概観
  (1) 衣食住
  (2) 生業
  (3) 社会構造
 3. マサイの伝統的な教育の仕組み
  (1) 日常生活における教育
  (2) イニシエーションと教育
  (3) 近代教育制度の捉え方

第4章 マサイランドにおける学校教育とその影響
 −カジアド県ルードキラニ郡エランガタウガス地区を例にして−
 1. エランガタウガス地区における学校教育の現状
  (1) 学校の概要
  (2) 学校の問題
 2. 人々の学校教育に対する意識変化の要因
  (1) 環境の変化
  (2) 政府のはたらきかけ
  (3) 外部との交流の増加と貨幣経済(資本主義経済)の流入
  (4) ロールモデルの誕生
  (5) NGOや学校運営委員会のはたらきかけ
 3. 人々の学校教育に対する意識変化
 4. 文化の衰失、変容と継承
  (1) 衰失する文化
  (2) 文化の変容と継承

第5章 結論

参考文献

English Summary

謝辞


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第1章 序論

1. 問題意識・問題設定

 筆者は2008〜2011年の間、ボランティア活動等を通じ、アフリカ諸国において現地の学校教育に接する機会を得た。旧宗主国の影響を受けた教育システムが状況の大きく異なる途上国においても適応されている現状や、多くの中途退学者や高等教育の欠如がみられる現状を見てきた。「学校教育を受けることは善である」ということが世界の常識となっているが、実際には、学校教育は自らの社会生活とは相容れないものであるなどの理由から、学校教育という近代的教育の導入に反発する人々もいる。学校教育を受けることは、すべての人に対して肯定的な影響を与えるものであるのだろうか。本稿では、かつて学校教育の導入に反発していたケニア国リフトバレー(Rift Valley)州カジアド(Kajiado)県ルードキラニ(Loodokilani)郡エランガタウガス(Elangata-Wuas)地区に住むマサイの人々を事例として取り上げ、学校教育が彼等に、そして地域に与える影響の分析を通して、マサイの人々にとっての学校教育の意味を明らかにしていく。

(1) 国際社会における教育開発の潮流

 欧米から植民地が独立した1960年代初頭、多くの途上国では成年識字率は非常に低かった。例えば、本稿で取り上げるケニアでは、1960年における識字率は20%であった[西村 2007:138]。独立国家の建設にあたり、教育が近代化のために不可欠であるという考えが広まり、教育関連の予算は拡大され、先進国からの教育援助が開始された。当初、国際社会は国家を支えるエリートを輩出するための高等教育を重視し、多くの援助が高等教育へ投入された。しかし国際社会は、経済発展と貧困や格差の解消とが一向に実現しない状況に、学校教育の中で最も教育収益率(1)の高い初等教育が最大の社会経済的発展の効果をもたらし得ること、基礎教育(Basic Education)(2)の充実こそがベーシック・ヒューマン・ニーズ(Basic Human Needs: BHN)(3)、もしくは基本的人権にかなうことであるという認識を持つに至った。さらに1990年には、タイのジョムティエンにて「万人のための教育世界会議(World Conference on Education for All)」が世界銀行、ユネスコ、ユニセフ、国連開発計画によって開催され、すべての人々に基礎的な教育を保証することは国際社会や国家の重要な責務であることを明確にした。会議の結果発表されたジョムティエン宣言では、「万人のための教育(Education For All:EFA)」というスローガンが掲げられ、普遍的初等教育(Universal Primary Education:UPE)(4)の普及を2005年までに達成することが目標として設定された。

 EFAが掲げられて以降、途上国に対する初等教育分野への援助は増加した。それにより初等教育就学率の改善など一定の成果も見られたものの、1990年代後半に至ってもアフリカ諸国の中には初等教育就学率が50%に満たない国もあり、目標である2005年までのUPEの普及には程遠かった。そこで、目標達成のための今後の目標と戦略として、2000年に「ダカール行動枠組み(Dakar Framework for Action)」が世界銀行、ユネスコ、ユニセフ、国連開発計画、国連人口基金によって打ち出された。この枠組みは、セネガルのダカールで開催された「世界教育フォーラム(World Education Forum)」において採択された枠組みであり、1999年に世界銀行によって提案された「万人のための良質な教育(Quality Education for All)」という方針[The World Bank 1999:5]を基に、2015年までにすべての子どもたちに無償で良質な教育を提供することを掲げている。以前は、教育の量と質は、量を重視すれば質を犠牲に、質を重視すれば量を犠牲にするというトレードオフの関係にあると考えられており、UPEの達成という目標の下では、教育の量が重視され、質を問うことは少なかった[黒田・横関 2005:5-6]。しかし、1990年以降の取り組みによる経験から、教育を万人のものにするためには一定以上の質を維持する必要があり、両者は補完関係にあるという考えが一般的になった。その結果、教育の質に着目する必要があることが広く認識されるようになったのである[黒田・横関 2007:5-6]。

 教育の質を向上させるためには、「各地域と学校の実状を深く把握し、当該社会の生活条件や文化、環境に即した教育を行うこと」[江原2003:39]が必要とされる。学校教育というそれまで社会になかった仕組みを導入し、人々に受容、活用されるためには、学校教育が当該社会に合わせたかたちで実施される必要がある。しかし、途上国における学校教育システムの多くは、旧宗主国による円滑な植民地支配を目的として整備された近代教育制度を原型としている場合が多い。さらにアフリカ諸国は、独立時に欧米諸国によって一方的に決められた国境線によって区切られたため、国内に多様な民族を抱えていることが多く、それぞれの民族がもつ生活条件や文化、環境に即した教育の実施は難しい。多くの途上国ではUPEの達成に向けた援助機関や政府による教育予算の拡大などの努力によって初等教育の就学率は上昇してきているが、多くの場合中途退学や圧倒的に低い中等・高等教育進学率という問題を抱えている。そのような基本的な教育制度が未完成である国家にとって、個々の民族や地域に適した教育の実践は最重要目標ではなく、国家が中央集権的に教育制度を提供することが優先されるのである。

(2) 伝統社会における教育開発

 このような教育事情を抱える国家の一つに、東アフリカに位置するケニアがある。ケニアは東アフリカ地域の経済と貿易の中心でありアフリカの中では高レベルのGDPを誇る経済的に比較的恵まれている国家であるが、国内に本稿で取り上げるマサイ社会を含む40以上の民族を抱える多民族国家である。

 マサイは、ケニアの全人口のおよそ1%を占める。長身でシュカー(shukas)(5)をまとい、鮮やかなビーズのアクセサリーを身に付けるマサイの人々は、そのジャンピングダンス(6)で世界に知られている。ケニアとタンザニアにまたがるマサイランド(7)に約150万人が居住し、ウシやヤギ、ヒツジなどの牧畜(8)を生業とする伝統的な生活を数千年以上前から営んでいる。インフラや学校教育の普及など多くの面で、ケニアの他地域と比べると近代化は進んでいない。マサイの人々は、学校教育を自らの伝統文化と相容れないものであると捉え、子どもを学校に送らないなど、学校教育を導入しようとする政府に対して反発していた。しかし、独立以来一貫して行われてきた政府の就学推進政策の影響もあり、学校に通い、近代的教育を受けるマサイの子どもたちは増加してきている。特に、2003年にケニア国内で就学促進を目的とする初等教育の無償化(Free Primary Education:FPE)が実施されて以来、初等教育就学率は飛躍的に上昇した。学校教育が普及したことで、それまでの伝統的な学習スタイル、すなわち長い時間をかけて様々な体験をしていくことによって生活のための知識を身につけていく独自の学習システムが大きく変化してきている。

 しかしながら、初等教育の就学率の上昇は、必ずしも中等教育やその後の高等教育機関への進学率の同等の上昇を意味しない。中等教育への進学は一部の者に限られ、高等教育への進学となるとその数はさらに限られる。そのような状況でも、ケニアの初等教育は中等学校に進学するためのケニア初等教育修了証書(Kenya Certificate of Primary Education、以下KCPE)(9)を強く意識したカリキュラムになっている。中途退学や中等・高等教育の欠如がみられるマサイ社会の中で、学校カリキュラムは地域生活や文化、環境と適合しているとは言い難い状況にある。それにもかかわらず、マサイの人々は子どもたちを学校へ送る。それでは、上記のような学校教育の姿はマサイの人々の全体的な生活の向上に貢献していると言えるのだろうか。そのような学校に通うことはマサイの人々にとってどのような意味をもつのであろうか。

 本稿は、マサイの人々が子どもたちを学校に通わせるようになった背景として、地域で起きた変化や学校教育が子どもたちのみでなく大人たちも含め地域の人々に与えた影響を明らかにすることで、マサイ社会の中で近代教育システムがもつ意味を明らかにしていく。

2. 研究方法

 本稿は、教育開発全般やケニアの教育政策、マサイの歴史文化に関する文献、学術論文、インターネットを通じて得られた情報、及び筆者によるフィールドワークから得られた情報をもとに研究を行う。

 フィールドワークは、2011年7月25日から8月12日の19日間、マサイの人々が多く居住するケニア国リフトバレー州カジアド県ルードキラニ郡エランガタウガス地区において実施した。ケニアの首都ナイロビ(Nairobi)から車で約3時間、県都カジアドタウン(Kajiado Town)から車で約1時間の距離にある地区である。そこでマサイの一家族と共に暮らしながら、現地出身のガイドと共に学校や地域の家庭(homestead)を訪れ、半構造化インタビューや参与観察を行った。インタビューは、学校での生徒へのインタビューを除き一対一、通訳が必要な場合はガイドを含み二対一で行った。対象別の被インタビュー者数は、就学者14名、中途退学者(10) 2名、教師7名、宗教関係者1名、NGO関係者3名、政府関係者2名、保護者・地域住民21名の計50名である。


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第2章 多民族国家ケニアとその学校教育政策

1. ケニアという国家

 ケニアは、アフリカ大陸東部にあり、北はスーダン、エチオピア、西はウガンダ、南はタンザニア、東はソマリアと国境を接し、南東はインド洋に臨む、赤道直下の国である。58万2,650km2(11)の国土は、インド洋海岸のバリアリーフから砂漠、森林におおわれた高地、平原、年中積雪のあるケニア山と多様性に富む。国土の南西部1/3はケニア高原を含む肥沃な高原地帯であり、残りの2/3の国土には台地と平原が広がり、高原を二分するように大地溝帯(グレート・リフト・バレー、Great Rift Valley)(12)が南北に走っている。多様性に富んだ地形であるため、気候も、沿岸部の多温多湿な気候、高地や高原の冷涼な気候から、内陸部の乾燥地帯まで幅広いが、大部分の地域において、4〜6月の大雨季と10〜12月の小雨期の2回の雨期がある。

 人口は、2011年7月現在でおよそ4107万1000人であり、キクユ(Kikuyu)22%、ルヒヤ(Luhya)14%、ルオ(Luo)13%、カレンジン(Kalenjin)12%、カンバ(Kamba)11%、キシイ(Kisii)6%、メル(Meru)6%、マサイを含むその他の民族16%からなり(13)、国内の民族数は40以上(14)であるといわれている。数多くの部族語が存在するが、国民統合の観点から、公用語は東アフリカ地域で広く使われているスワヒリ語と宗主国イギリスから受け継いだ英語である。多様な民族、言語を反映して、様々な伝統宗教も信仰されていたが、アラブや欧米からの宗教の流入により、現在は、キリスト教78%、イスラム教10%、伝統宗教10%という構成になっている(15)

 現在のケニアにあたる地域に居住する人々が外国との関係をもつようになったのは、アラブ人が海岸地帯に定住し始めた7世紀頃からである。その後、1498年にポルトガルが進出を始め、アラブ人とポルトガル人との間で争いが繰り返され、16世紀初期から約200年間ポルトガルが占領し、1729年から再びアラブ人に支配された。19世紀に入ると、イギリスの冒険家、商人、宣教師の進出によりイギリスの影響力が拡大し、1895年にイギリスの東アフリカ保護領、1920年に直轄のケニア植民地となった。植民地化された1920年代からは、キクユを中心として独立運動の機運が高まり、第二次世界大戦後に激しい独立運動へ発展した。1963年に初代大統領を与党ケニア・アフリカ民族同盟(Kenya Africa National Union:KANU)のジョモ・ケニヤッタ(Jomo Kenyatta)として独立、1964年に共和国となった。以来、KANUによる一党独裁体制が敷かれていたが、1991年に複数政党制に移行した。2002年の大統領選挙で、大小の政党からなる国民虹の連合(National Rainbow Coalition:NARC)にKANUが敗北し、NARCから出馬したムワイ・キバキ(Mwai Kibaki)が大統領となった。2007年の再びの大統領選挙の結果、与党国家統一党(Party of National Unity:PNU)から出馬したキバキ大統領が野党オレンジ民主運動(Orange Democratic Movement、以下ODM)の候補者に競り勝ち再選を果たしたが、選挙結果を巡る与野党の対立は独立以来の部族間の対立を表面化させ、死者1,200人、国内避難民50万人を超える大規模な混乱に発展した。この混乱は、2008年にアナン前国連事務総長らの仲裁により、両党を中心とした大連立政権が発足したことで収束している。

 ケニアは、比較的工業化が進んでいるものの、コーヒー、茶、園芸作物などの農産物生産を中心とする農業国である。農業が、約314億米ドル(2010年)(16)のGDPの約25%、労働人口の約60%を占める(17)。工業では、食品加工、ビール、タバコ、セメント、石油製品、砂糖、ソーダ灰や蛍石を生産し、観光産業も盛んである。経済は2007年の大規模な政治的混乱により一時期落ち込んだが、その後、観光業や建設業を牽引役として徐々に回復基調を見せており、2010年の経済成長率は約5%となった(18)。中所得国入りを目指すケニア政府は、2008年に長期経済開発戦略である「ビジョン2030(Vision 2030)」を打ち出し、「2030年までに毎年平均経済成長率10%以上の達成」、「公平な社会発展と清潔で安全な環境社会整備」、「民主的政治システムの持続」を目指すとしている(19) [Government of the Republic of Kenya 2007:2]。

2. ケニアの学校教育政策の変遷

(1) 植民地時代の学校教育制度

 現在のケニア領土で学校教育が始まったのは、ヨーロッパからの貿易船が訪れ始めた15世紀頃である。貿易に関する事務的な仕事や通訳をするアフリカ人を必要としたヨーロッパ諸国が、そのような人材を養成するために貿易拠点を中心にヨーロッパの言語の読み書きや計算を教える学校を設置するようになった。その後ヨーロッパ諸国が天然資源や奴隷などの商品への支配を強めようと内陸部への進出を強めるにつれて、キリスト教の宣教師たちも「野蛮で遅れた」アフリカの人々の精神を救済するという大義名分のもとで布教活動を行った。学校の建設はその一環であった。そのため、統一された学校教育システムなどは存在しなかった。また宣教師の作る学校に子どもを行かせると、「人質に取られる」、「伝統を軽んじるような人間にされる」といった疑惑が人々の間に広がり、就学児童数は伸びなかった。

 宣教師団が中心となって提供してきたこのような学校教育に転機が訪れたのは、ケニアがすでにイギリスの保護領となっていた第一次世界大戦後である。植民地政府はそれまで学校教育に対しては傍観者の立場をとってきたが、アフリカの人々にヨーロッパの価値観や実践を受け入れさせるための手段として教育を捉え[Omolewa 2007:594]、宣教師たちが提供してきた教育の発展を目指して教育省を設立し、教育への無償援助を行う制度を確立した。1919年には東アフリカ保護領教育委員会(East African Protectorate Education Commission)を設立し、植民地で提供されているすべての教育を評価する権限を与えた。この時期には、教育に関する法令も成立し、『10年計画(A Ten Year Plan)(20)』やPhelps-Stokes委員会(21)など、多くの報告書の作成や委員会の設立が行われた。植民地における教育の発展を目指した多くの提案がなされたが、資金不足を理由にそれらの委員会の提案は実施されることはなかった。ヨーロッパ人とアジア人(22)に対する教育は、将来ホワイトカラーの職に就くことを見据え学術的な内容が重視されたが、他方アフリカ人に対する教育は将来単純労働者として働くことを見据えた教育内容となっており、人種差別主義に基づいた教育であり続けた。現地の人々の多くは、植民地政府によって提供される人種差別的な教育ではなく、将来の発展につながると考えられていた学術的な教育を望んでいたため、独自の学校を設立するようになった[Ojiambo 2009:135-136]。

 1949年、それまでに植民地において提供されてきた教育の内容や運営などを評価するためにBeecher委員会が設立された。同委員会は、『10年計画』やPhelps-Stokes委員会の提案を発展させ、アフリカ人に対する実践的な教育の強化を打ち出し、これが1963年の独立までの植民地における教育政策の方針となった。このような方針に対して、現地の人々から自らの文化や個人のニーズに適していないとして強い反対が起こった。彼等は、植民地政府の方針は教育のアフリカ化ではなくヨーロッパ化を推し進め、アフリカ人を永久に低い社会的地位に押しとどめるものであると主張した [Ojiambo 2009:136-137]。

 1950年代半ばになると、植民地政府は方針を切り替え、中等・高等教育を拡充することでアフリカ人の高い技術をもった労働者を生み出し、発展を加速させることを試みた。しかし、人種間の平等は達成されることはなく、財務面を含む様々な面でヨーロッパ人の教育は優先された[Ojiambo 2009:137]。例えば、人口の3%を占めるヨーロッパ人とアジア人の教育に、人口の97%を占めるアフリカ人の教育より多くの資金が配分されるという事態が起きていた[Somerset 2007:1]。ごく少数のアフリカ人の子どもたちのみが学校に通い、中途退学も多く、中等・高等教育へのアクセスは多くの試験を課すことで厳しく制限されたものとなっていた。植民地政府の、人種差別的な発展への意図がここに表れているとも言える。

(2) 独立後の学校教育制度

 ケニア独立後の教育政策の基礎となったのは、独立闘争が行われていた1961年にエチオピアのアディス・アベバで、1962年にマダガスカルのタナナリブで開催されたアフリカにおける教育開発に関する会議である。アフリカ各国からの代表がそれらの会議に出席し、それぞれの国家において経済的・社会的発展を促進する教育制度を確立することで合意した。1963年の独立時の選挙では、ほぼすべての候補者が、より安価なもしくは無償の学校教育の普及、UPEの達成、シラバスや教員のアフリカ化、アフリカの文化を重視する教育の確立をマニュフェストに掲げることとなった [Ojiambo 2009:137]。新国家ケニアにとって、教育の普及は、国づくりを進めていくための国民意識形成の手段として重要な政治的課題でもあった。新政府が最初に取りかかった独立後のケニアの早急なニーズと目標を分析した報告書である『Sessional Paper Number 10』においても、教育は国内において技術を身に付けた労働力の不足を補いすべての人々に平等な経済的機会を与えるものと位置付けられた[Ojiambo 2009:138]。同報告書の作成と共に、政府は国内における教育の現状を分析し、今後の教育政策を検討するために教育に関する複数の委員会の設立も行い、教育制度の整備を進めていった[Ojiambo 2009:138]。その結果1967年に近代化の実施という国家のニーズに即したかたちで導入されたのが、旧宗主国イギリスの近代教育制度を模倣した初等7年、前期中等4年、後期中等2年、大学3年の教育から成る7-4-2-3制の教育制度である。民族や言語、文化の違いを超えて共有できる価値を生み出すことによって国民を統合し、急速な近代化を図るために最適であると考えられたのが、西欧型の近代学校教育制度の普及であり、文化の多様性などは考慮されなかった。しかし、有料であったこともあり、就学児童数、就学率は伸び悩み、1973年に政府は初等教育1〜4学年の授業料の無料化に踏み切った。

 1974年の授業料無料化政策は、初等教育第1学年の就学者を前年の153%[Ojimanbo 2009:143]に押し上げるなど、初等教育の就学率を急激に上昇させたものの、無料化で失うこととなった歳入の補填方法を検討することなく実施されたため、ほとんどの初等学校は財政難に陥った。歳入の補填のために各学校の運営委員会は、新たな設備の設置を行うための建設費などを名目に諸費用を保護者から徴収するようになり、その額は無料化以前の学費より高額になることもしばしばであった[Ojimanbo 2009:143]。学校のこのような方針により授業料の無料化によって就学率が上昇していたときでも、中途退学率は37.78%(1980年)であり、多くの中途退学者を生み出していた [鶴田 2008:123]。

 無料化政策は就学率の上昇をもたらし、公教育の拡大に関して就学者数の増加という一定の成果を上げていた。しかし、1970年代に国際社会の要求を受け入れ構造調整政策(23)を導入した結果、経済成長が低迷し、政府の教育支出も減少したため、初等教育の就学率や修了率が低下する事態となった。多くの中学校、大学卒業者の失業も深刻化し、貧困率は1994年時点で農村人口の47%、都市人口の29%という高水準となった。このような一連の現象の原因として卒業者のホワイトカラー志向、実社会の需要に対する妥当性の低い教育カリキュラムが上げられた[西村 2007:139]。このような状況に鑑み、政府は1985年に教育改革に踏み切った。新たな教育カリキュラムでは、実践的なスキルの開発、自営業に積極的に取り組む姿勢の養成、高い失業率や上昇する貧困レベルに耐え得る道徳と倫理の養成が目的とされた[西村 2007:139; Ojimanbo 2009:139]。初等8年、中等4年、大学4年の教育から成る8-4-4制を導入し、初等教育で11科目から13科目、中等教育で23科目から29科目へと教科数を増加させた。追加された教科は主に図工、ビジネス教育、農業といった職業科目であり、初等学校、中等学校卒業後は起業あるいは自営業に就くようカリキュラムがデザインされていた[西村 2007:139]。新しいカリキュラムは、教育改革の方針を反映したものであったが、教員負担の増加、必要な機材や教員訓練の欠如を招き、教育の質を低下させる結果となった。

 その後も構造調整政策の影響は続き、財政難から政府はコスト・シェアリング政策を1989年に導入するに至った。この政策は、教員給与以外の政府の教育支出を最小限に抑えることで生徒一人当たりの費用を最小化し、教育財源の多様化を目指したものである。しかし、結果としてもたらされたのは就学率の低下であった。初等教育総就学率(24)は、1989年の105.4%(男子107.6%、女子105.4%)から1998年には88.8%(男子89.3%、女子88.2%)へ、中等教育総就学率は、1989年の30%(男子35.5%、女子24.3%)から1998年の23.2%(男子24.6%、女子21.7%)へと低下した[西村 2007:140]。この政策の結果、家計の負担が増加したことから、特に貧困層での就学率低下が顕著であった。また、それぞれの地域に属する家庭の経済力がその地域の学校の経済力に直結するため、貧困地域と非貧困地域の間で教育の質の格差も拡大した。

 国際社会でEFAが目標として掲げられ、UPEの達成に向けて世界が動き始めた1990年代、ケニアの初等教育政策においても変化が見られた。1999年、政府は国家貧困撲滅計画を策定し、その中に2015年までに貧困人口の半減に加え、初等教育の完全普及を目指すことを定めたのである。4年後の2003年、ケニアはついにFPEを実施し、初等教育の授業料を無料化した。FPEの導入に際し、それまで学校が行っていた建設費などと称した諸費用の保護者からの徴収も禁止し[Ojimanbo 2009:145]、学校運営経費を生徒一人当たりの額を基準に中央政府から学校に直接供与するようになった。ケニアでは現在、GDPの6.9%(2010年)、政府予算の17.2%(2010年)(25)が教育費に充てられており、他国と比較すると教育部門への予算の割り当ては大きくなっている。FPE導入の結果、2003年から2004年にかけて初等教育の純就学率は22.3ポイントも増加した[Ojimanbo 2009:145]。2009年における初等教育就学率は、総就学率が113.3%(男子114.6%、女子112.0%)、純就学率が82.8%(男子82.3%、女子83.2%)であった。初等教育就学率の上昇に伴い、中等教育の就学率も、総就学率が60.2%(男子63.2%、女子57.1%)、純就学率が50.2%(男子51.7%、女子48.7%)と上昇してきている(26)。しかし、就学率を考えるときに注意しなければならないのは、就学者数は学校に登録している生徒の数であり、実際に学校に通っている生徒の数ではないということである。実際に通っている生徒の割合を示しているのが純出席率であるが、それは2009年の場合、初等学校男子72%、初等学校女子75%、中等学校男子40%、中等学校女子42%であり(27)、実質的学校に通っている子どもの数は就学者よりも少ないのが現状である。

3. ケニアの学校教育制度の問題点

 FPEは初等教育就学率の急激な上昇をもたらし、人々の教育へのアクセスを改善したとも言える。しかし、急激な生徒数の上昇は多くの問題を伴っていた。教材や教室を含め必要な設備の不足、教師の不足、資金の不足などの問題が、最終的には中途退学者を多く生み出した。教材や設備、教師の不足は多くの学校で午前と午後の2部制を導入させることとなり、教師の労働過多を招き、教師の不足を補うために政府が多くの無資格教師を雇ったことで、教育の質が低下した。一人の教師が多くの生徒を担当することとなり、授業についていけない生徒は取り残され、中途退学へとつながっていった。学校としても、諸費用の徴収を禁止されているため教材や設備、教師の不足を補うことができず、学校の状況を改善しようにも多くの困難を伴う状態に陥っている。

 さらに、教育内容に関する問題も存在する。1985年の教育改革以来、8-4-4制を導入し、実践的なスキルの開発、企業や自営業に積極的に取り組む姿勢の養成を目指すカリキュラムを取り入れたシステムを継続しているが、このような教育制度と教育現場における実情との乖離が見られる。初等学校修了時に、児童はKCPEを受験しなければならないが、中等学校に進学するためにはKCPEで一定の成績を修めなければならない。学歴社会が進んでいるため保護者のKCPE対策への要望も強く、KCPEにおける児童の成績が学校の評判に直結する。そのため、学校はKCPEの試験科目である英語、スワヒリ語、算数、理科、社会、宗教に重点を置く傾向がある。KCPEの試験科目ではない科目は軽視され、教師の数が足りない多くの学校では、開講されない場合さえある。しかし、初等学校の教育がKCPE重視であるにもかかわらず、中等学校数は初等教育の急激な拡大に追いつかず絶対数が不足している。先に示した中等教育就学率に表れているように、中等教育への進学者数は限られているのが現状である。そして、たとえ中等教育、高等教育を修了しても、高学歴の労働者を受け入れる労働市場が国内に十分に発展しておらず、若年層の失業を招いているという問題もある。

4. ケニアにおける学校教育普及と格差

 ケニアでは、就学率の上昇と低下を経験しながら徐々に学校教育が普及してきた。学校教育がこのように普及してきた背景には、政府の政策に加え、ケニア社会におけるいくつかの特徴が存在している。その主なものとして、教育と権力や富との間にある相関関係、「ハランベー(harambee)」があげられる。

 ケニアでは、独立以来、教育と権力や富との間に強い相関関係が存在する。これは独立後の新政府や経済を担ったのが、植民地時代に宗主国イギリスへの留学を含む西欧近代教育を受けていた人々であったからである。そのため、経済の状況、労働市場の状況にかかわらず学歴志向はケニア社会に一貫してみられ、学歴による給与格差も存在してきた。学歴志向はホワイトカラー志向につながり、学校教育は民族単位の集団的な社会的地位の上昇のために必要な手段として認識され、多くの保護者が熱を上げる対象となっている。植民地時代、西欧近代教育は異なる地域に居住するすべての民族に等しく与えられたわけではなかったため、独立後に権力と富を握った人々とそうでない人々との間には地域間、民族間の格差が生じていたのである[西村 2007:142]。このような状況において、教育は知識と権力と富を媒介するものとして見られ、保護者からの要望で、初等学校においても盛んに補習が行われているほどである[山田 2009:208]。

 資金不足のため政府による公教育の提供が不十分な中で学校教育の拡大を支えてきたのが、ハランベーと呼ばれる大小様々なコミュニティにおける自助努力運動である。ハランベーは、「みんなで一緒に」という意味を持つスワヒリ語であり、初代大統領のジョモ・ケニヤッタが国づくりを進めていく上で国民に協力を呼びかけるために用いたスローガンでもある。耕作や収穫などの農作業、家屋の建設、公共地の整備の際の相互扶助は、元来それぞれの民族に見られ、ハランベーはケニアの人々にとって、伝統的な慣習であり、人々の暮らしに埋め込まれた行動規範でもある[Chieni 1997]。学校、診療所、教会、水に関する事業など、地域の開発につながる事業に必要な資金や物資、労働力は、地域住民が協力して賄う努力をし、住民自らの力で地域の開発を実行する。ハランベーには、口頭でその開催が伝えられ数時間行われる小規模のものから、新聞に予告が掲載され数日間にわたって開催される大規模なものまである[Chieni 1997]。小規模のハランベーの場合、地域住民を招待し、食事を提供した後、主催者や来賓によるスピーチや出し物が続き、その中で参加者に任意の額の寄付を募る形式で行われる。地域開発の目的に加え、結婚にかかる費用、医療費、学費の捻出のために個人が行うものもあり、公私にわたる広範囲な目的のためにハランベーは実施されている。

 このように国民によって支えられてきたケニアの教育政策であるが、それは「非効率かつ不平等な教育拡大を許容する」[西村 2007:141]ものであるという評価も存在する。

 ハランベーは政府の資金不足を補い、学校教育の拡大を支えてきたが、地域により家庭の経済力に格差があることが常であることから、ハランベーはその経済格差を学校教育に反映する媒体となり得る。ハランベーにより学校建設が行われた後は政府から教員の配置などの手当てが比較的容易に受けられるため、各地に多数の小規模学校が建設された[西村 2007:141]。しかし、その後の学校運営においても必要なコストの多くも親やコミュニティが負担しなければならず、豊かな地域と貧しい地域の間の学校間の資金的格差が拡大していったのである。

 さらに、このような格差の拡大に拍車をかけたのが、1989年に導入されたコスト・シェアリング政策である。構造調整政策からの景気低迷で、政府は資金不足に陥っていたため、教員給与以外の教育費用のほぼすべてを親や地域が負担しなければならなくなった。そのため、学校建設後の設備の老朽化、教科書や教材の不足、教員資格を有した教員の不足などの問題への対処で都市と農村、非貧困地区と貧困地区の間で格差がさらに広まった。1997年の全国調査では、初等教育授業料が、都市部の学校では農村部の学校の約5倍、都市部の非貧困地区の学校では同じく都市部の貧困地区の学校の約4倍、農村部においても非貧困地区の学校は貧困地区の学校の約2.5倍となっていることが明らかにされた[西村 2007:141]。このような学校間の資金格差は、特に2003年にFPEが導入されるまでに、教育の質に関しても著しい格差をもたらした。

 独立以降、ケニアは近代化による国家の発展を目指し、西欧近代教育に追随してきた。1974年と2003年の授業料の無料化政策で就学を推し進めたものの、卒業生の増加にその受け皿となるべき国の経済の発展が追い付かず、高学歴化が進んだものの失業者は増加した。このような状況の中で、実践的なスキルを養成し、自営業に就く人を増やすことで失業者を減らそうと、1985年に教育改革が行われた。しかし、教育現場では中等学校への進学のためのKCPEを意識した授業方針が採られたため、実践的スキルの養成を図る科目を含めKCPEにない科目は軽視される傾向にあり、失業者の減少に効果的であったとは言い難い。また、無料化による就学者数の増加、教育改革による学校への負担の増加に対して、学校設備や教員などの供給が追い付かず、教育の全体的な質の低下ももたらされた。学校教育にかかる費用の多くを保護者や地域が負担しなければならないケニアの教育制度は、地域の経済力が学校教育の質に反映されることを許容し、都市部と農村部、貧困地区と非貧困地区の間における教育の質の格差、さらに経済的格差を拡大させるものであった。


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第3章 マサイの社会と文化

1. マサイの歴史

 現在マサイと呼ばれる人々は、数千年という時間をかけて構成され、現在の居住地域へと移動してきた。その始まりは、数千年前に現在のスーダンにあたる地域に居住していたニローテ(Nilote)の人々であった。彼らは、6〜9世紀にかけて牧畜を生業とするようになり、後に遊牧へと形態を変えていった[Republic of Kenya 1990:39]。遊牧のためにさらに広い範囲の土地を必要とするようになった彼らは、南下を始めたのである。彼らは、現在のケニア、タンザニア、ウガンダにまたがる地域に位置するビクトリア湖周辺まで南下し、そこで自らの社会より発展していたバンツー(Bantu)系の人々の農耕社会に遭遇し、南下をやめ、東へと向かった[Galaty 1993:62-63; Republic of Kenya 1990:39]。一方、ニローテの居住地域の東側、アフリカ北東部のエチオピア高原のあたりには、クシーテ(Cushite)という農耕に従事する人々がおり、彼らもまた南下を始めていた。その結果、ニローテとクシーテの人々は、ビクトリア湖の東にあたる地域で合流することとなり、部族間結婚を通じて、現在マサイと呼ばれる人々の祖先となったのである[Republic of Kenya 1990:39]。そこでは、バンツー系の人々の社会から農作物を得ることができたので、彼らは牧畜に専念するようになった。しかし、長期にわたる旱魃に見舞われたため、17世紀頃までに彼らの一部は再び南下を開始した[Galaty 1993:63-64; Republic of Kenya 1990:39]。ケニア中西部の高原に辿り着くまでの間、マサイの人々は、農耕や狩猟採集に従事する他の民族を征服、追放、吸収しながら領土を拡大していった[Galaty 1993:83-85; Republic of Kenya 1990:39; Tignor 1976:13]。その後も、人口と家畜数の増加により、マサイの人々は、さらに南へと領土の拡大を進め、19世紀末までに現在のマサイランドよりも広大な土地を占領するに至った。マサイの人々は広大な土地を獲得し、一人当たりの家畜の保有量もアフリカの中でも高水準を誇るようになったのである[Saitoti 1986:xxvi; Tignor 1976:37-38]。

 しかし、1890年代初頭に牛疫や感染病、旱魃などが発生し、マサイの人々は弱体化した。この頃には、マサイランドにもヨーロッパからの入植者がやってくるようになっていたが、一連の病疫や旱魃のため、マサイの人々は組織的な抵抗を行うことなく入植者に土地を明け渡すこととなった。最終的には、1895年にイギリスによって設置された保護領政府との間に成立した1904年と1912年の協定により、ケニア国内においては現在のナロック(Narok)県とカジアド県にあたる地域がマサイの人々の居留地とされ、ケニア内のマサイランドの2/3を失った[Campbell 1993:260; Holland 1996:14; サンカン 1989: 192, 198-199; Tignor 1976:33-35, 37]。失われた土地は、ヨーロッパ人によって農業や畜産のために利用され、残りのマサイランドはマサイ出身の役人を介し地方政府の監視下に置かれるようになったのである。このようにしてできたマサイランドは、若干の境界線の変更はあったものの、独立後の現在もケニア国内におけるマサイランドとなっている。ナロック県とカジアド県は、リフトバレー州の南部、首都ナイロビの西から南にかけて広がる大地溝帯に位置し、半乾燥(semi-arid)の草原サバンナ地帯である。ナロック県では牧畜に加えて農業に勤しむようになったマサイもいるが、カジアド県は土地の92%が放牧地であり多くのマサイが牧畜を生業としている[Republic of Kenya 1990:50]。

2. マサイ社会概観

(1) 衣食住

 マサイの人々は布を簡単に縫い合わせた伝統的な衣類を身にまとっている。男性は丈が短く胴体の部分が大きく開いた衣類にシュカーと呼ばれる一枚布をまとい、女性は丈が長く全体的にゆったりとした衣類(写真1)にシュカーをマント状にして着用している。男女共にビーズ製の鮮やかなアクセサリーを多く身につける。エランガタウガス地区において、このような伝統的な装いは既婚者や年配の人々によって日常的に用いられているが、教員など近代的な職に就いている人々は休日や儀式への参加時の着用に限られ、日常的には洋服を着用している。若年層は、学校では制服を着用し、放課後や休日など学校外の時間においては洋服を着用することが多い。彼らは、儀礼の場においても洋服やアフリカン・ドレスを着用している場合が多く、伝統的な装いをする機会はかなり少ない。

 食生活に関しては、マサイの人々の生業が牧畜であることから、家畜の肉、乳と血など、家畜に依存している。肉と血は日常的に消費することはないが、乳は日々の食事に欠かせないものとなっている。外部から穀物や野菜を得ることも以前からあったが、特に1960年代以降、トウモロコシの粉や茶葉が流入するようになり、人々の食生活を多様化した[湖中 2006:40]。東アフリカには、ウガリ(ugali)と呼ばれるトウモロコシの粉を湯がいて作られる料理があり、1980年代に起きた旱魃の救援物資として用いられて以降、急速に広がった[湖中 2006:40]。茶葉は乳を用いてチャイ(chai)というミルクティーにされ、朝晩飲料されるようになり、食生活において重要な位置を占めるようになった[湖中 2006:40]。

 マサイの家庭では、家長を中心とした家族が共同で生活を送っている。その中には、各夫人の家屋であるマニヤッタ(manyata)(写真1)が立ち並び、中央には乳搾り用のウシやヤギの囲いがある。家庭は、主にアカシアの木(28)の枝を組み合わせて作られた2m弱の囲いで円形に囲われ、マニヤッタは木の枝に土と牛糞を混ぜたものを塗り固めた角の丸い四角形の家である。家父長制と一夫多妻制が採用されているマサイ社会において、物事の決定権や相続権などは男性のみに与えられ、家庭は男性家長一人を中心にその夫人または夫人たちと、その子どもたちから構成される。各夫人はそれぞれ独立したマニヤッタにおいて、自らの子どもたちと共に生活し、夫は各夫人のマニヤッタを巡回して寝食する。家庭内においても男女分業が成立しており、男性は家畜の世話、女性は水汲み、薪集め、料理、マニヤッタの作成などの家事を行う。女性は家事をこなしながら、夫の世話をし、子どもをより多く生み育てることを期待されている。

(2) 生業

 マサイの生業は、数千年来、ウシ、ヤギ、ヒツジの遊牧(29)(写真2)であり、中でも人々はウシに価値を見出している。そのため、人々は「牛、家畜に生きる人々」[Saitoti 1986:50; サンカン 1989:205]であると言える。エランガタウガス地区に居住する多くの男性が家畜を誘導するために使用する棒を杖のようにして常時携帯していることには、マサイにとっての家畜の重要性が如実に表れている。マサイの神であるエンガイ(Engai)がマサイの人々にすべてのウシを与えたとされていることから、家畜の中でもウシは特に重要視される。この価値観は、マサイの言語であるマー(Maa)語にウシを指す言葉(30)が多く含まれていること、人々の間でよく聞かれる挨拶が「ウシの調子はどうか」であることにも反映されている[Phillips 2002:140]。「ウシが幸せなときは、人も幸せ(“When cattle were happy, so were people.”)」[Saitoti 1986:50]なのである。

 マサイの人々は、家畜、特にウシを通じて社会や文化を形成しており、このような特質は「ウシ複合文化(cattle complex)(31)」と呼ばれている。湖中によると、このような特質を持つ社会において、家畜は、生計維持の基盤、社会的交換財、象徴的媒体、社会的幸福の実現と多岐にわたる社会的意義をもつ[湖中2009:187, 2006:14, 87, 243-247]。マサイの人々にとって家畜は自給自足の生活を維持するための手段である。日々の乳の消費、家庭や近所の集会などでの定期的な肉の消費など畜産物に依存した食生活を送っており、家畜の皮を加工してベッドの敷物やロープ、衣類、装飾品を作り、さらに牛糞を土と混ぜマニヤッタの壁を塗っている。このようにマサイの人々は、衣食住すべてにおいて家畜とその畜産物を様々な方法で利用することによって生活を成り立たせており、家畜は生計維持の基盤となっている。さらに結婚や賠償の際に社会的交換財として用いられ、社会的紐帯を創り出すはたらきも担っている。礼拝や儀礼を執り行う際には、家畜は神と人間を結ぶ象徴的媒体として用いられ、世界観を創り出す役割を果たしている。そして、家畜の社会的意義として最重要視されるのが、社会的幸福の実現の手段としての利用である。マサイ社会では長年、多くの妻を娶り、多くの子孫を繁栄させ、大きな家族を創り上げていくことが男性にとっての社会的幸福であるとされてきた。姻族に対する婚資が必要となる結婚の際にも、社会的に成熟するために執り行われる多くの通過儀礼に際しても、家畜や畜産物が必要とされる。それゆえ、十分な数の家畜を持たなければ、妻を娶ることもできず、自らの子を一人前にすることもできないのである。他方、扶養力のある男性と結婚し、多くの子どもを産み育てることが社会的幸福であるとされてきた女性にとっても、子どもを一人前に育て上げるために、家畜は必要不可欠である。そのため、家畜を最大化してゆくことがマサイ社会において社会的幸福を実現するための前提となる。

 このようにマサイ社会は、家畜を通じて一定の社会的地位を得ることができる、社会関係が創出される社会であり、家畜を持たない者は諸関係を築くことができず孤立を余儀なくされる。そのため、家畜を保持することはマサイ社会において生きていくために必要不可欠なこととなっている。家畜が不足した場合に他の部族から強奪するという強硬な手段が取られていたことにも、マサイ社会における家畜の重要性が表れている。家畜は、マサイの人々がマサイであり続けるためになくてはならないものである。

(3) 社会構造

 マサイ社会の中で重視される社会制度は、父系の分節出自体系(segmentary descent system)と年齢制度(age system)である。分節出自体系は、血縁に基づいて体系づけられ、半族(moiety)、胞族(phratory)、クラン(clan)、サブ・クラン(cub-clan)、リネージ集団(lineage group)に分節しており、様々な場面で協力関係が築かれている[湖中 2006:37]。他方、牧畜を維持するために生み出された仕組みであり、個人の役割や立場を変化させ、個人の一生において時の流れを創り出すのが、年齢体系(age system)である。年齢体系は年齢階梯(age grade)と年齢組(age set)から成り、男子の場合、約15年ごとに編成される年齢組が、少年期(boyhood)、青年期(moranhood)、長老期(elderhood)の各年齢階梯を移行していく方式がとられている[湖中 2006:38, 2009:177; Spencer 1988:6, 1993:143]。青年期は、下級青年と上級青年に分けられる。男子は、年齢階梯の最初である少年期から青年期への移行を遂げるためのイニシエーションの一環として割礼(32)を10代前半から20歳前に受け、同時期に割礼を受けた者で入社組(age group)を形成し、前後して編成されたもう一つの入社組と共に年齢組に編入される[サンカン 1989:60; Spencer 1988:6; Tignor 1976:74]。割礼を受け青年期へ移行することで、初めて社会で一人前とみなされるようになり、自分だけではなく家族やコミュニティを守ることを要求されるようになる一方、家庭の問題を含む意思決定への関与も許されるようになる[Saitoti 1986:66-67]。青年期に移行するということは、ただ単に身体の成熟を示すだけではなく、責任を負う立場になるということでもある。例えば、青年期は肉体的な活動を中心に行い、長老期には重要な決定を行うなど政治的な活動に携わる[湖中 2009:177; Spencer 1993:146; Tignor 1976:74]。このようにマサイ社会では、年齢階梯に基づいて様々な義務と権利が与えられる。女子に関しては、少女期、既婚女性期の各年齢階梯はあるが、年齢体系自体が男子を基調とする仕組みであるため、独自の年齢組を形成しておらず、結婚後に夫の年齢組の一員とみなされるようになる[湖中 2006:38; Spencer 1993:140]。女子の場合、10代前半を中心に行われる割礼は、大人の女性になるためのイニシエーションとして捉えられ、割礼後は結婚できる身となり、多くの場合割礼後即座に結婚させられる。これが早期結婚である。割礼を含むイニシエーションは、男子にとっては年齢体系への参加へ、女子にとっては結婚へ直結するものとなっており、個人に関わる儀礼の中でも重要視されている。

 マサイの生業である牧畜の管理に関しても、性に加えて年齢階梯による分業体制が採られている。既婚女性は家事や育児、家畜の搾乳などに従事するが、その他、割礼を受ける前の少年少女は日帰りの放牧に従事し、青年は集団での家畜の自衛や旱魃時における家畜の放牧キャンプ(33)への移動に、長老は家畜管理に従事する[湖中 2006:40]。年齢階梯が移行すると個人の社会の中での役割や立場は変化し、年齢階梯を通して個人や家族は変化していく。その変化に伴って行われる儀礼は、個人に変化を自覚させる、周囲に変化を承認してもらうだけではなく、コミュニティの人々が集まり、アイデンティティ、団結や協力、リーダーシップの所在を確認する場となっている[Saitoti 1986:xix]。年齢体系に身を置き、その変化と共に責任や義務を負って生活するというマサイ的な時間に従うことがマサイであることの重要な条件の一つである。

 このような年齢階梯に基づいた権限の付与や分業は、長老が敬われる社会構造を創り出しており[Spencer 1993:141]、それは礼儀にも表れている。例えば、日常的に行われる挨拶においてそれは顕著に表である。マサイの人々の間での挨拶は、相手と自分の年齢に基づいて方法が異なる。割礼前の男女は青年以上の人々に対して、軽く腰を折り曲げ頭を差し出すという挨拶をし、返答として相手は手を差し出された頭の上に置く。男子は割礼を経て青年になると、割礼前の男女、年下の女性に対しては、相手の頭に手を置くかたちでの挨拶をするが、それ以外の場合は、握手で挨拶する。女性の場合は、割礼後も、年上の男性に対しては、頭を差し出すかたちでの挨拶を継続する。その他、父親がマニヤッタに入るとき子どもたちは全員外に出なければならない、父親と娘は同じマニヤッタで眠ってはいけないなどの禁忌もある。このように、年長者、特に男性の年長者に対して尊敬の念をもって接することが求められる社会となっている。

3. マサイの伝統的な教育の仕組み

(1) 日常生活における教育

 教育は「子どもの成長を促し、育てること、子ども自身が主体的に学ぼうとすること、そして、親なり教師なりが、特定の意図をもって、時には強制的に教えること」[山田 2009:85]であり、人が生まれた瞬間から、家族や仲間、コミュニティ、学校がその社会における文化慣習、哲学、価値観を徐々に伝え、個人を社会化する役割も果たす[Kwallah 1992]。このように教育を捉えたとき、他の社会と同様にマサイ社会の中にも伝統的に行われてきた教育の実践が存在する。

 マサイ社会の伝統的な教育は、個人に対してマサイの文化慣習、哲学、価値体系を伝え、個人を社会に統合することによって、団結した社会と牧畜生活を維持することを目標とする[Omolewa 2007:596; Phillips 2002:141]。教育の目標に表れているように、マサイの教育は個人に着目するものではなく、集団としての団結や集団の利益に重きを置くものとなっており、家族や親族、民族にとって何が最も有益であり、どうしたらそれらに貢献できるかに焦点をおいて教育は行われる。口述歴史、民話や歌などの口頭伝承、儀礼、日々の生活を通して、家族や仲間、同じコミュニティに属する人々が、集団を重視するマサイの価値観、部族の団結、年長者への尊敬、民族内の慣例や規則について伝えると共に、家畜の群れをコントロールするための様々な罵声や身体動作、家畜の扱い方や健康管理の方法、特に女子に対して家事など、生活していくための、そして集団に貢献するための知識や実践的スキルも教える[高橋 2003:265; Phillips 2002:141]。例えば、男子による家畜管理に関しては、年齢体系に基づいて各自の役割は決められており、年齢体系の移行と共に与えられる役割は異なり、周囲からの助けを受けながら徐々に学びを進めることができるようになっている。女子に関しては、水汲み、薪集め、家の維持、料理など母親の手伝いが求められており、手伝うことを通じて学習していく。マサイの人々は、自らの親や祖父母を教師とみなし彼らの指導に従うことで、自らのアイデンティティを家族、自らの帰属する親族や民族と結び付けて捉えている。社会における伝統的教育は集団の中の個人としてのアイデンティティ形成に大きな影響を与え、民族の威厳を高める社会的役割を果たしていると言える[Phillips 2002:141]。このように伝統的教育は、人々の生活の仕方と密接に関係するものであり、その社会に属する人々から分離することはできず、社会において重要な位置を占めるものとなっている[Omolewa 2007:594, 596]。

(2) イニシエーションと教育

 マサイの年齢体系では、それぞれの年齢階梯へ移行するときに通過儀礼が行われるが、中でも個人の生活に大きな変化をもたらすのが、10代に行われる割礼を伴うイニシエーション(34)である。男子は、割礼という試練に耐え自らが青年になるに値する人間であることを証明することが、同時期に割礼を受ける入社組の仲間との信頼関係の基礎となるため、地域において公に割礼が行われる[Spencer 1988:76]。割礼後は、近しい親類から家畜を与えられ、傷からの回復のため母親のマニヤッタに運ばれる。女子に対しては、母親のマニヤッタで女性のみが参加して割礼が行われ、傷からの回復後に大人の女性としての振る舞いや結婚に向けて妻としての役割を教えられる。イニシエーションを機に、男子の場合は年齢組への編入、女子の場合は結婚という人生における最初の大きな節目を迎える。

 女子の場合は、10代前半に行われる割礼後すぐに結婚し世帯に戻るが、男子は、数カ月の準備期間の後に、マサイとして生きていくために必要な知識や技術を身につける下級青年期の活動、モラニズム(moranism)(35)に参加する。モラニズムの期間、下級青年は、日々の家畜の世話から解放され、集団で青年村と呼ばれる集落を作り、青年同士での共同生活を営む。このように世帯を離れて青年同士で共同生活を営むようになるのは、青年に対して割礼を受けた女性に見られた肉(36)を食べてはならない、自分以外の青年がいないところでは乳を飲んではいけない、という2つの制限が課されるためである[湖中 2006:39; Saitoti 1986:xix; Spencer 1988:79]。青年は食生活の要である肉と乳を消費するという日々の生活の必要を満たすために、世帯や社会から離れ独自の集落を形成し、集団で生活し行動するようになるのである[Saitoti 1986:xix; Spencer 1988:79]。

 青年に対しては制限が課される一方で、この期間特有の権利も与えられる。男性の身体的強さの最盛期にあたる青年期においては、少年期に許されていなかったことも許されるようになるのである。例えば、侵入者や家畜泥棒から地域を守ること、ライオンを狩ること、一人で茂みの中で動物を屠殺すること、夜間に茂みで騒ぐこと、特定の格好をしたりものを身につけたりすること、踊る中でライオン狩りと関係のある特定の動きをすること、怒りで震えること、割礼前の少女と関係を持つこと、訪問した家庭では必ず乳が与えられることなどが挙げられる[Saitoti 1986:xix; Spencer 1988:68,114]。

 モラニズムは、地域やそこに暮らす人々を外敵から守るために、自衛の戦力をもつ必要に迫られて創り出されたものである[サンカン 1989:52]。外敵の撃退と家畜の略奪は青年たちに与えられた最も重要な役割であり、モラニズムは、外敵の撃退や家畜の略奪に必要なスキルを得るためのトレーニング及び実践の期間となっている[Saitoti 1986:xx; Tignor 1976:74]。このような役割から、青年たちは、「戦士(warrior)」と呼ばれることもある。青年たちは青年村に留まらず、地域内ときには地域外を移動する。地域内外を分散して移動することで、青年たちは地域内の家畜の所在から外敵の侵入や奇襲に関する情報などを入手でき、トラブルの兆候を察知することが可能となる。外敵の侵入や外敵による家畜の略奪に関する知らせは即座に青年の間で伝達され、彼らは地域を守るため、盗まれた家畜を取り返すために集結するのである[Spencer 1988:123-124]。地域を外敵から守る一方で、彼らは他部族から家畜の略奪も行う。略奪を行うことで、親に頼ることなく自給自足の生活を送ることができるようになることで、結婚し家庭を持つこと、長老期へと移行することができるようになると考えられている[Tignor 1976:76]。このように、青年としての責務をこなしながら、青年たちは、ときには遊牧に従事したり森の中で休養目的のオルプル(Olpul、肉宴会)を行ったりする。オルプルは、4〜8人の参加者が数日〜数週間、森の中に滞在し、長老から提供された家畜の肉や薬草を摂取することで体力を回復すると共に、仲間内でそれまでの経験を共有し、団結力を高める機会となっている [Spencer 1988:123-124]。

 モラニズム期間中、青年村を拠点とする仲間との共同生活を通して、青年たちは、仲間で食糧をはじめとする多くのものを共有し共に問題や危機に対処することとなる。これらの経験から、仲間を互いに尊敬し合い信頼関係を築き、規律や集団への忠誠心を身につけ、個人より集団の利益のために行動することを学ぶ。青年たちはマサイ的価値観をそれまで以上に感じ実践することで、マサイとして生きることを学び、マサイであるというアイデンティティを確立させていくのである。

(3) 近代教育制度の捉え方

 日々の生活の中や男子の場合モラニズムを通して、マサイの人々は次世代の教育を行ってきたが、マサイランドにおいても学校教育は植民地時代に導入された。マサイランドにおいて初めて公立の初等学校が開設されたのは、1919年であった[Republic of Kenya 1990:98; Tignor 1976:79, 281-282]。植民地政府は、マサイ出身の地方役人を通して子どもを集め、寄宿制であったこの初等学校に強制的に就学させたのである[Republic of Kenya 1990:98; Tignor 1976:79, 281-282]。しかし、マサイの人々の間では、学校教育は子どもを家庭から奪い伝統的な生活から乖離させる、学校教育を受けると子どもたちは洗脳(37)され故郷を捨ててしまう、学校で学ぶ知識はマサイの生活に役に立たないと考えられており、ほとんどのマサイの人々は子どもを学校へ送ることに消極的であった [Aikman 2011:18; サンカン 1989:203; Tignor 1976:79]。「(1950年頃)最も近い学校は100km以上も先にあった」(70代男性)と言われているように、当時の学校数は現在よりもかなり少なく、初等学校であっても、学校教育を受けるためには寄宿制の学校に在籍せざるを得なかった[Saitoti 1986:xxi]。寄宿制の学校は、幼いうちから子どもをマサイの伝統的慣習を学ぶ家庭やコミュニティから切り離すため、子どもを奪われるという印象が強かったと考えられる。

 しかし、マサイ出身の地方役人を介して、植民地政府、そして後のケニア政府は各家庭から最低一人を学校へ通わせるように強制し、この規則を守らない保護者に対しては罰金が科されたため、人々は末子、障がいをもつ子ども、気に入らない子ども、モラニズムに向いていない子どもなどを一人選び、通学させていたという[Aikman 2011:18; Saitoti 1986:xxi, 24, 35; 内海 2003:72]。学校に送られた子どもの多くは男子であり、筆者のインタビューに答えた20代の男性は、親から伝え聞いた話として、「家長と近い関係にある男子をモラニズムに送り出し、そうでない男子を学校へやっていた」と述べ、40代の男性も「(家長にとって)大切ではないと見なされている者が学校に送られていた」と語っていた。

 このように、学校教育が導入されて以来、独立後にわたっても、学校教育は評価されておらず、むしろ「学校教育はマサイの文化慣習に逆行するもの」(40代女性)、マサイの伝統的な組織体系や知識、ライフスタイルを壊すものであると捉えられていた[Aikman 2011:18]。エランガタウガス地区の人々が述べるように、マサイの人々にとって「学びの場」とは家畜の世話をすること、すなわち牧畜による日々の生活にあったのだ。


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第4章 マサイランドにおける学校教育とその影響

− カジアド県ルードキラニ郡エランガタウガス地区を例にして −

 筆者がフィールドワーク(38)の対象地域としたのは、ケニア南部カジアド県ルードキラニ郡エランガタウガス地区である。ケニアの首都ナイロビから車で約3時間、ナイロビと南側の隣国タンザニアの都市アルーシャ(Arusha)を結ぶ東アフリカの幹線道路沿いにある県都カジアドタウンから西南西へ車で約1時間の距離にある。半乾燥地域に属し、丘や谷、森林地帯も一部見られ、草木がまばらに生えている土地柄である。年間降水量は400〜500mmであり、農業には向かず牧畜や畜産が適切な土地利用方法であるとされている[Republic of Kenya 1990:18-19]。同地区の人口のほとんどは牧畜を生業とするマサイである。電気、ガス、水道のインフラは普及していない。舗装されている道はなく、大部分は人々が歩くことによってできた自然の小道(写真3)である。電気に関してはごく一部の人々がジェネレーターを所有し、水に関しては地中を深く掘って出た湧水が溜まっている貯水池(人々は”River”と呼ぶ)から得ている。いくつかのRiverが一か所にまとまって存在しており、その土地の所有者によって管理されている。人々はRiverの水をタンクに入れ、自ら持つかロバに運ばせるかして自らの家庭まで運び、生活用水として用いると共に、自らの家畜をRiverに連れてきては水を飲ませるというように利用している。地区内には、マイル46(Mile 46)(39)と呼ばれる、商店、学校、住民のほとんどがキリスト教徒(40)であることから、教会などが集まり毎週土曜日に市場が開かれる鉄道路線(41)沿いの一画がある以外は、家庭が点在している。家庭内には伝統的な家屋であるマニヤッタが多く見られるが、一部ではあるがトタン板でできた家屋、便所、さらには人々が「現代風の家(modern house)」と呼ぶ、煉瓦造りの家を見かけることもあり、人々は半定住状態にある。商店ができ、定期的に市場が開かれるようになったことで、外部からそれまでマサイランドになかったものが流入している。近年では、数年前に携帯電話会社の電波塔が建ったことから、携帯電話の使用も一部では可能となった。送電線もカジアドタウンから地区に向かって設置が始まっており、近い将来電力の利用も可能になると言われている。

 このようにエランガタウガス地区では様々な社会的変化が起こっているが、教育、慣習に関しても例外ではない。過去にマサイの人々は、”Culture is Life”と捉え、マサイの伝統文化に従って生きることこそが人生であるとし、その伝統文化と相容れないものと考えられていた学校教育に否定的であった。しかし現在では、地区にある学校の現状にもかかわらず、”Education is key, lifestyle”と考えるようになり、学校教育を肯定的に捉え、さらに、人生において欠かせないものであるとまで見なしており、この変化に伴い社会生活も変化してきている。筆者は、このような人々の意識の変化には、環境の変化、政府のはたらきかけ、外の世界との交流の増加と貨幣経済(資本主義経済)の浸透、ロールモデルの誕生、NGOや学校運営委員会のはたらきかけという5つの要因があると考える。本章では、人々が期待を寄せるようになった学校教育の実情、人々が学校教育を重要視するようになった要因を示した後、地域で起きている社会生活の変容に言及することで、マサイランド、特にエランガタウガス地区で起きている変化を明らかにする。

1. エランガタウガス地区における学校教育の現状

(1) 学校の概要

 エランガタウガス地区にはエランガタウガス初等学校(写真4)とルードキラニ中等学校が設置されている。マイル46から少し離れたところにあるエランガタウガス初等学校の歴史は古く、1960年代に設立された学校である。政府統計によると1988年時点の生徒数は男子153名、女子68名の221名であり[Republic of Kenya 1990:99]、今回筆者が校長を通じて確認した現在の生徒数は、男子250名、女子222名の472名である(表1)。男子の生徒数も大きく増加したが、女子の生徒数の増加は目覚ましく、結果として全校生徒数も飛躍的に増加している。これには後述する要因による人々の意識の変化が関係している。正確な統計は入手できなかったが、エランガタウガス初等学校において12年間教鞭をとる同地区出身の教師によれば、地区の就学率は約80%とのことである。全校生徒のおよそ90%がマサイであるが、教師陣はマサイ3人、ケニア最大の民族であるキクユ3人である。前述した政府統計によると1988年時点の教師数は8名であったのに対し、生徒数が飛躍的に増加したにもかかわらず現在の教師数は6名と減少している。これはFPE後、全国的に初等学校就学者数や初等学校数が増加したため、教員育成が間に合っていないためである。さらに、FPEは在学生の構成にも影響を与えている。FPEにより経済的負担がなくなったことで、就学該当年齢より年上の生徒の増加をもたらしたのである。2011年8月現在、エランガタウガス初等学校で学ぶ生徒の最高年齢は25歳である。実際、筆者がインタビューした生徒の中にも、学年に対して年齢が上の生徒も多く在籍していた。この初等学校の敷地内には図書館がある。その図書館は地区で活動するNGOによって建設されたものであり、一般の人々にも公開されている。海外からの寄付によって集まった海外の本が多い。利用者数はあまり多くはないが、生徒を含め人々が本に触れる機会を提供している。

 これに対し、エランガタウガス初等学校の近くにあるルードキラニ中等学校は、2年前に設立されたばかりのエランガタウガス地区のみならずルードキラニ郡唯一の中等学校である。2年前の設立と同時に第1学年の募集を開始したため、筆者の調査時には第1学年と第2学年の2つの学年から成り、毎年1つずつ学年数が増加していた。設備もそれに伴って建設されていた。4名の教師が、92名(男子68名、女子25名)の生徒に対して教鞭をとっていた。特に農村部においては、たとえ公立中等学校であっても寄宿制の学校が多く見られるが、同中等学校はそのような設備を備えておらず、生徒は自宅からの通学、もしくは近隣に住む親族宅からの通学であった。

(2) 学校の問題

 エランガタウガス初等学校の教員や生徒と、ルードキラニ中等学校の教員や生徒が指摘する学校の問題点は共通している。

 最初に取り上げるのは、学校までの距離の問題である。エランガタウガス初等学校は地域にある数少ない初等学校の一つであり、遠方から通学せざるを得ない子どもがいる。通学にかかる時間の増加、通学の疲れによる勉学への支障、そしてさらに女子の場合通学中の身の危険も高まる。さらに中等学校はルードキラニ郡内で1校だけであるため、初等学校の場合以上に遠方からの通学となる場合もある。そのため、寄宿が可能となるような設備の拡充が求められているが、寄宿設備以前に基本的な学校の設備や備品が不足しているのが現状である。例えば、教室、実験設備、井戸(borehole)など、学校で必要な設備、教材、教科書が不足している。そのため長机に詰めて座る、実験ができず教科書のみで学ぶ、半乾燥地域にあり水の入手が困難であるにもかかわらず水を確保できる設備が学校にないため水を自宅から持参する、教科書を何人かで共有しながら授業を受け宿題をこなす、という状態である。筆者が生徒から聞き取りした内容によると、教科書は初等学校では生徒3人に対して1冊、中等学校では生徒2人に対して1冊しかなく、教科書を家庭に持って帰ることができないため、宿題が出された場合は学校で終わらせなければならないということである。このような状況は特に遠方通学者にとっては帰宅時間がさらに遅くなるという問題につながる。

 学校の設備や備品に加え不足しているのが、教員である。教員対生徒の比率はおよそ1対79であり、生徒数に対して教員数は圧倒的に少なく、当然一人ひとりの生徒に対するケアは低下する。このことは、特に授業についていけない生徒への影響が大きい。教員からのケアの不足により学習の遅れは益々増加し、それに合わせて勉強への意欲を失い、それが中途退学の原因となり得る。教員数のみでなく、教員の民族構成も生徒の学習の遅れを引き起こす要因となっている。ほとんどの生徒がマサイ出身という中で、マサイの教員は教員全体の半数しかいない。エランガタウガス初等学校での授業は、低学年においてはスワヒリ語、高学年においては英語で行われるが、多くの生徒が初等学校入学時に母語の知識しか持っておらず、これらの言語の知識を持ち合わせていない[Kwallah 1992]。それゆえ、特に低学年においては母語による補足的解説も必要である。しかし、教科書はすべて英語であり、母語のマー語で書かれた教科書は存在しない。いずれにしても生徒数の10%が他民族の生徒であるため、母語教育の導入には問題があるが、山田によると母語による教育は、発達心理学の観点からも、低学年において特に重要であるとされている[山田 2009:167]。さらに生徒の保護者のほとんどが就学経験をもたないため、教員と保護者のコミュニケーションにはマー語が必須である。

 実際に学校で教える内容、カリキュラムの妥当性に関しても、問題視している教員は多い。妥当性の判断基準は一概には言えるものではないが、教員たちは、カリキュラムがKCPEを意識したものになっており、学術的な内容が多く、実践的な内容が不足していることは、この地において適当ではないと考えている。現在のケニア社会では、学校教育修了者の増加に見合った経済成長が達成されておらず、初等学校卒業や中等学校卒業では、ホワイトカラーの職業に就ける可能性は非常に低い。マサイ社会では中等学校を含む高等教育へのアクセスが乏しく、最終的にホワイトカラーの職に就ける生徒は極めて限られている。そうでない生徒が将来現金収入を得る手段を得るために、最も就学率が高い初等学校において農業、建築、電気工学、畜産などの実践的なスキルを身につける教育内容の必要性を教員たちは主張しているのである。しかしKwallahは、初等教育段階でのカリキュラムに多様性を出すことは、早い段階で子どもたちの将来の方向性を決めることになってしまうという懸念を示しており[Kwallah 1992]、実践的な内容の導入が一概に評価されるべきものであるかは難しい問題である。さらに、地域文化に対するカリキュラムの妥当性に関して問題視している研究者もいる。Aikmanは、国の教育政策は、学校教育を貧困の解決につなげようと、教育へのアクセス、教育段階の終了、KCPEなどのテストの成績などを重視し、学校教育の内容や方法については注意が払われていない傾向があると述べている[Aikman 2011:18]。ケニア政府は、文化の多様性を認めることで民族間の分裂が進み国家統合が妨げられるとして、学校教育における文化や言語に関してはその権利を認めていない[Aikman 2011:18]。教育政策策定過程やカリキュラムの妥当性の審査にマサイのような牧畜民が参加せず、その地域の社会的・文化的環境、自然環境に関して知識のない人々によって決定されてしまっているため、必然的に地域におけるカリキュラムの妥当性が低下するのである。このように多くの問題をもつカリキュラムであるが、現場での実践においても、教師陣の教育方針は「シラバス第一」となっているのが現状である。シラバスに書かれている教育内容が膨大であり、教育内容に柔軟性がないこと、KCPEでの成績を向上させなければならないことが要因であると考えられる。結果として、シラバスに書かれていることを教えるのが「いい教育」となっているのである。地域住民を学校に招いて伝統文化の話をしてもらうという機会を設けている学校もあるように、学校は地域の伝統的慣習を継承するという機能を果たし得るが、「文化は学校の外で」という教師たちの教育方針に表れているように、エランガタウガス地区では活用されていない。

 国が定めたカリキュラムの妥当性を学校という現場でさらに低下させてしまうのが、該当年齢より年齢が上の生徒の存在である。該当年齢より上の生徒にとって、特に低学年のカリキュラムの中には「子ども過ぎる」、「レベルが低すぎる」などを理由として、興味をそそるものではなくなってしまっている[Kwallah 1992]。さらに、該当年齢の学年より下の学年に在籍していることは、その年齢までに知っておくべきことを知らないということを意味し、特に性教育などの面で影響が出やすい。下記に述べるように中途退学の主要な要因となっている早期妊娠を防ぐことに関しても性教育は有用であるにもかかわらず、学年の遅れによって必要な知識を必要な年齢までに得ることができていないのである。

 学校で学ぶ生徒の年齢のばらつき、特に該当年齢よりも年上の生徒の存在は、カリキュラムの妥当性以外にも、規律の乱れや中途退学につながり得る。規律の乱れに関しては、筆者がインタビューに訪れる少し前に第7学年の男子生徒による制服の着方に関するストライキがあったばかりだと聞いた。男子生徒において初等教育該当年齢以上である場合、割礼を終了した青年であることが多く、それが規律の乱れの一因となり得る。青年という、マサイ社会の中でも特別な社会的地位に組み込まれたことで、特別な扱いを求め、教員に対しても自らに尊敬の念を抱くことを求めるようになる者もいるためである [Saitoti 1986:39; Spencer 1993:150]。教員も、青年である男子生徒の中には教員を尊敬しなくなる者もいると筆者に述べる。このように学校において規律を乱す該当年齢以上の生徒もいれば、エランガタウガス初等学校では2011年にはケースはないが、年齢ゆえに退学していく生徒の存在もある。Kwallahが言及しているように、遅い年齢で学校に通い始めると、さらに留年することもあって、一部の生徒は初等学校終了以前に成熟してしまい、この年齢までに男子は家畜の世話をする労働力として家庭で必要とされるようになり、中途退学を選択する場合もあるのだ[Kwallah 1992]。

 中途退学を免れ卒業に辿り着いたとしても、上級学校へのアクセスは限られている。進学に困難が伴う理由には、経済的困難、教育機関の不足、成績不振がある。中等教育以上は学費を負担しなければならないため、子どもの数が多いマサイの家庭にとって学費負担は家計に重くのしかかる。初等学校8校に対し中等学校1校というルードキラニ郡の現状から、進学のために他地域の教育機関、つまり寄宿制の学校を選択せざるを得ないことも多く、その場合、家計への負担はさらに増し、進学をより困難にする。マサイ社会において男子を優遇する傾向がある中で、特に女子にとってこのような経済的困難は進学を難しくする要因である。ルードキラニ郡に中等学校以上の学校が不足しているのは明らかであるが、ケニア全体においても不足しているのが現状である。そのため、金銭的な余裕に加え、中等学校進学にはKCPE、大学や短大進学のためにはケニア中等教育修了証書(Kenya Certificate of Secondary Education 、以下KCSE)に一定の成績を修めることが求められる。これらの試験に関して教員たちが主張するのは、都市部の学校に通う生徒との成績格差である。都市部の学校には教育設備や教材、教科書の不足という問題はなく、学校の環境からしてマサイランドで学ぶ生徒たちは不利である。学校のみでなく、家庭における学習環境でも都市部との差は明らかである。マサイランドには電力が来ていないため、家庭において日が落ちてからの学習は困難である。両親の多くが学校に通ったことがないため子どもの学習を助けることができず、特に女子生徒に関しては帰宅してからの家事に多くの時間をとられ、学習に充てる時間の確保さえ難しい状況である。ある女子生徒は「兄弟は夕食の席に座るだけ。でも私は働かないといけない」と筆者に漏らした。さらに、経験という面からも都市部と比べ不利な状況にある。ある教員は、「例えば信号機に関する問題が出ても、都市部の生徒は見たことがあり、どういうものかわかる。けれども、ここの子どもたちは信号機というものを見たこともない。このような状況があるにもかかわらず同じように問題に答えよというのはフェアではない」と語っている。教員たちが口をそろえて言っていたのは、ここの子どもたちが試験で好成績をあげられないのは、子どもたちの能力不足が原因ではなく、本当は優秀であるにもかかわらず環境に恵まれていないことが原因であるということであった。

 以上がエランガタウガス地区の教師や生徒が語る「学校の問題」であるが、地区外にある初等学校の校長に対するインタビューにおいても、同様の問題が指摘された。そのことから、これらの問題は多くのマサイランドにある公立学校において共通するものである可能性が高い。

2. 人々の学校教育に対する意識変化の要因

(1) 環境の変化

 マサイの人々を取り巻く環境の変化として、気候の変化、土地利用の変化、富の蓄積方法の変化の3つの変化について述べる。

 気候の変化については、特に旱魃の発生頻度の上昇が顕著である。過去には旱魃は10年に1度の頻度で起きていたが、近年は2000年、2003年、2009年と10年間に3度も発生している。その結果、水不足の深刻化や家畜のえさとなる牧草の減少が起き、家畜の減少、そして飢餓や経済苦へとつながっている。内海によると、マサイランドでの旱魃、さらには牛疫の流行は1980年代から断続的に続いており、家畜の数が減少し続けているという[内海 2003:72]。

 土地利用の変化に最も大きな影響を与えたのは、政府のマライランドへの他民族の入植の解禁と土地の私有化政策である。植民地政府に土地を奪われたマサイであるが、ケニア独立政府が成立した後も、奪われた土地は返還されなかった[Phillips 2002:141]。さらに、独立に伴い居留地が廃止されたため、農耕に従事する他民族が土地を求めて流入するようになり、政府も野生動物や森林の保護区の設置を行った[Campbell 1993:258; Holland 1996:14; Saitoti 1986:xxvi]。また、国家開発を進めるために必要であるとして、独立した1963年に土地登録法(Registered Land Act)が施行され、マサイランドにおいても土地の一部が農地や牧場として私有化されるようになった(42) [Campbell 1993:263; Holland 1996:13]。このように多くの土地を失ったこと、そして失われた土地の大部分が半乾燥地域に分類されるマサイランドの中でも肥沃で水に恵まれた地域であったことから、マサイの人々はこれ以上の土地の喪失に対して危機感を抱くようになった[Campbell 1993:262-263; Tignor 1976:16]。これ以上の土地の喪失を防ぐために、マサイの人々は、政府の方針に沿い徐々に土地を自らの私有地として申請するようになったのである[Campbell 1993:264-265]。このように政府による土地の私有化政策の結果、マサイの人々は、マサイランド内を自由に移動しながら放牧を行うことができなくなり、自分の所有とされた土地内のみでしか放牧を行えなくなった。放牧可能範囲の減少は家畜による牧草の消費地の集中を意味し、牧草が十分育たず家畜の消費可能な牧草の減少を招き、最終的には家畜の減少を引き起こしている。さらに近年では、現金を得るために自らの土地を売却する人も出てきており、益々マサイが牧畜に使用できる土地は減少している。

 牧畜を生業としてきたマサイの人々は、長年、他部族の征服や他部族から家畜を奪うことで富を拡大してきた。しかし、その方法自体が植民地政府によって禁止され、罰金が科されるようになり[Tignor 1976:76]、マサイの人々が富を拡大する方法は限定されるようになった。気候変動や牧畜に使用できる土地の減少によりマサイの生業である牧畜が危機に瀕する状況において、家畜を増加させることでより豊かになることは困難である。従来の富の蓄積方法が有効でなくなるにつれて、その代替としてマサイの人々は子どもに現金収入が得られるような仕事に就いてもらうことを望むようになった。そのために必要となってくるのが、学校教育である。ホワイトカラーの仕事であれば大学卒業、そうでなくても、マサイランドの個人経営の商店やレストラン、牧夫以外として雇用されるためには、スワヒリ語や英語での読み書き計算が無理なくできるレベルまでの能力が必要とされている。

(2) 政府のはたらきかけ

 ケニア政府は国民統合を推し進め国家の発展を達成するための手段として国民に対する教育を一貫して重要視してきた。第2章で言及したように、独立後政府は様々な政策を実施し、就学率の上昇を図ってきた。その中でも特に影響を与えたのが2003年に施行されたFPEであり、マサイランドにおいても就学者の増加をもたらした。FPE施行以前は、各家庭から最低一人は学校に送らなければならないという、すでに効力のない植民地時代の義務を適応し続けている状態であったが、FPE施行後は、地域の役人が各家庭を訪問し、就学していない子どもがいないか確認し、子どもを就学させない保護者は逮捕するという厳しさのもと、すべての親に対して子どもの就学を強制するようになった。「すべての子ども」としたことにより、それまで就学の機会が限られていた女子にも就学の道が開け、女子の就学者が増加した。このような取り締まり、規則の強化だけではなく、人々に対してワークショップを通じたはたらきかけも行っている。月に数回ずつ地元出身の役人が、教育、法や規則、保健衛生や家畜管理などに関するワークショップを行っており、その中で子どもの就学についても取り上げている。子どもを学校に通わせるようになった理由を尋ねたとき、「憲法が子どもを学校へ行かせなければならないと規定しているから」と答えた保護者もおり、政府のはたらきかけが人々の認識に影響を与えていることがわかる。役人が地元出身者であり、さらには現在の成功者としてみなされているため、人々の信頼を得やすいのである。

 FPEのように教育に直接関係した政策以外にも、間接的ではあるが就学率の向上に影響を与えたと考えられるのが、女子割礼の禁止を規定した法の成立である。女子割礼は、マサイが伝統的に行ってきた行為であるが、出産時に死亡する危険の増大や生涯にわたる性交渉時の苦痛を伴うものとされており、健康上そして人権上の問題から、先進国NGOがその禁止を求め政府に対してはたらきかけを続けていた。その結果、18歳以上の女子で本人の意志であれば割礼を行うことを認めるが、それ以外の女子割礼を禁止する法律が成立した。地域の役人によると、エランガタウガス地区では、徐々に割礼される女子の数が減少し、いまだに隠れて行われることはあるが、現在では割礼を受けるのは女子の1/4にまで減少しているという。マサイ社会では、割礼は女子の場合10〜15歳の間に行われ、割礼後は結婚への準備が調った身として見られるので、結果的に早期結婚による途退学が引き起こされていた。女子割礼の減少は女子の中途退学者数の減少をも導いている。

(3) 外部との交流の増加と貨幣経済(資本主義経済)の流入

 他民族のマサイランドへの流入、道路整備や自動車の流入などによる他地域へのアクセスの向上、進学や仕事のための他地域における滞在などにより、マサイの人々の間でもマサイ以外の社会生活を経験する人、マサイ以外の人々との交流を持つ人が増加してきた。過去に首都のナイロビで警備員として働いていた30代の男性は、「(そこでの生活を通して見た学校や教会を含む整備された建物、舗装された道路などから、)マサイランドの発展が遅れていることに気付き、遅れを取り戻すためにも学校教育が重要だと感じた」という。ある女子生徒は、「(地域外の高等教育機関へ進学した人々から、)他地域出身の女子生徒が就学し成功を収めている姿を伝え聞き、女子の就学を進めるべきだと感じた」と語っている。マサイ以外の社会を経験した人々、マサイ以外の人々と交流を持った人々は、自らの経験をマサイランドに持ち帰り様々な人々に伝えることによって、マサイランド以外の世界を経験していない地域の人々にその様子を知らせている。外の世界との交流が増加したことで、マサイの人々は、マサイランドより物質的に豊かな世界を知り、マサイランドを相対化して捉えることで、新たな視点や気付きを得ているのである。

 他方、外の世界との交流は、過去の物々交換ではなく、交換の手段として家畜を含むモノより便利な現金がより頻繁に用いられるようになったという変化をもたらした。国内外で交易が発展したことで、マサイランドにもそれまでにはなかったものが流入するようになった。その状況を顕著に示すのが、毎週土曜日に開かれる市場の様子(写真5)である。市場では、地区外からも人々が訪れ、思い思いの商品を販売している。このような状況において、家畜が貨幣として果たせる役割は現金を比較すると限定的(43)であり、現金の使用が広まったのである。資本主義経済、貨幣経済が進行し、現在、マサイの人々にとって現金は、モノやサービスの購入、学費の支払いなど生活するために必要不可欠なものとなっている。しかし、現金を獲得するために家畜を売ったりするものの、マサイの人々にとってその他の現金獲得手段は著しく限られているのが現状である。

(4) ロールモデルの誕生

 学校教育は「子どもたちを奪うもの」という考えが大多数を占めていた頃にも、初等学校へ通っていた者、さらには進学し高等教育を修了した者も、少数ではあるが存在した。そのような人々は、現在、賃金収入がある職を得て豊かになり、地域における「成功者」のロールモデルとして、人々の憧れを集めている。多くの人が言及したのは、特に旱魃が起こったときの学校教育を受け職に就いている人の「余裕ぶり」であった。旱魃により多くの人々が家畜の減少、飢餓や経済苦にあえぐ中、職に就き収入を得ている人は、減少した分の家畜を買い足し危機をしのいでいたという。旱魃の頻度が増加する中、多くが牧畜以外の仕事をもたない人々であるため、人々の間でこのように余裕をもって危機を乗り切れる人々への憧れは増大したのであろう。

 例えば、エランガタウガス地区出身の40代の男性は、初等学校を卒業後、首都ナイロビにある政府系観光施設にダンサー(44)として就職し、現在は管理職として働く。地区には現代風の家屋を持ち、家畜は牧夫を雇って世話をさせ、子どもは初等学校から寄宿制の学校に通わせており、地区の人々と比較するとかなり経済的に余裕のある生活を送っている。ある20代の男性は、大学を卒業し、進学資金を稼ぐために働き、その後大学院に進学、修士号を得て、カジアド県の大企業であるソーダ灰生産会社に総合職として就職した。卒業を記念し、盛大な地域の人々への感謝パーティーを催したが、これは地域の人々に「学校教育がもたらす将来」を意識させるものであった。

マー語以外の言語を操り、外の世界から新たな知識を得て、現金収入を得ることで豊かに暮らすという「学校教育の果実」を実際に見た人々は、自らもその仲間入りをするため、その手段として学校教育を選択するようになったのである。人間は正しいことだと言われたことを無条件に正しいと理解しない。言われたことの捉え方は、それを主張している人が受け手の人間とどのような関係にあるかということも影響するが、その正しさが何らか成果として、ここでは所得の向上、生活のゆとりという成果として、実際に目にする、感じることができるかということが大きく影響する。ロールモデルと言われる人々の生活状況を知り教育の実益を実感したことは、人々にとって学校教育が所得の向上や生活のゆとりという利益をもたらすものであることが証明されることとなった。それゆえ、ロールモデルの誕生は、人々の学校教育への捉え方を変えた要因として看過できない。

(5) NGOや学校運営委員会のはたらきかけ

 政府以外にも地区で学校教育の推進を後押ししてきた存在として、NGOと学校運営委員会がある。地区では複数のNGOが活動しており、その活動内容は学校への資金援助や設備建設、識字教育、環境教育、保健衛生や家畜管理に関するワークショップなど多岐にわたる。中でも子どもたちの就学促進に直接的な影響を及ぼした活動としては、地域の人々に対する教育を受ける権利などを含む子どもの権利や女子割礼の危険性に関するワークショップ、中等学校を含む高等教育機関への進学のための奨学金支給があげられる。

 NGOという外部組織のみならず、学校自体も学校教育を地域で広めるために活動を行ってきた。その活動を中心的に担ってきたのが、エランガタウガス初等学校の学校運営委員会である。学校運営委員会は、各学年から1人ずつの保護者代表、2人の教育関係の役人、学校に援助をしている協会の代表、校長で構成され、1人を委員長として保護者代表の中から選出する。保護者代表は3年任期であり、選出時には男女比が同等になるように調整される。委員会は学期ごとに3〜4回開かれ、資金面を含めた学校運営、学校の規律や中途退学、早期妊娠、早期結婚などの問題、問題に対する改善状況などを話し合い、委員会での議論の結果は学期ごとに1回開かれる保護者会と各学期の終業式(写真6)で保護者に伝えられる。終業式は生徒に加え保護者も会する場となっており、紙媒体での広報が発達していない社会状況において、保護者に対して学校側から連絡をする、啓発を行う数少ない機会となっている。保護者にはマー語しか理解できない人、マサイではない人もいるため、そのような場ではマー語とスワヒリ語双方が用いられる。すべての出席者に話を理解してもらうことで、保護者の意見を募る、保護者の考えを知ることも保護者会や終業式における委員会側の目的の一つである。

3. 人々の学校教育に対する意識変化

マサイランドでは、学校教育に対しては否定的な捉え方が主流であったが、そのような捉え方は、前節で述べた要因が重なり合い、徐々に変化してきた。エランガタウガス地区においては、筆者がフィールド調査を実施した2011年8月の時点で、インタビューした全ての人々が学校教育に対してプラスのイメージを抱いていた。”Education is key”、「学校教育なしでは何もできない」、「学校教育は子どもの明るい未来のために必要なもの」という意見が聞かれ、人々は学校教育が子どもの人生に肯定的な影響をもたらし得るものと考えている。人々の考える学校教育の肯定的な影響は、ホワイトカラーの職を得ることによる将来の豊かさ、および人生での成功、地域社会の発展という2つに分類できる。

 最も多くの人々が意識しているのが、ホワイトカラーの職を得ることによる将来の豊かさである。マサイの人々を取り巻く環境は伝統的なマサイの暮らしをする人々にとって年々厳しくなっており、このような状況おいてもより豊かな暮らしを送るために人々が必要としているのが現金収入である。そしてそれを得る手段として、ホワイトカラーの職業に対する関心が高い。生徒に、そして生徒の保護者に、子どもの将来に期待することを聞くと、ほぼすべての人が医師、教師、パイロットなどのホワイトカラーの職に就くことと答え、学校教育はそのために必要なものと認識していた。ホワイトカラーの職を得ることが人生の成功であるとは一概には言えないが、この2つを人々がつなげて考えていることは確かである。2.(4)で述べたように、学校教育を受け、仕事を持ち現金収入を得ている人々は地域で「成功者」として認識されており、人々のロールモデルとなっている。保護者の中には、特に自らの不就学や中途退学の経験から子どもには学校教育を受けてほしいと感じている人々もいる。家畜の世話のため親によって第3学年時に中途退学させられ、15歳で結婚し、現在は2児の母親である18歳の女性は、「もし就学を続けていたら今頃働いていた。でも中途退学してしまったから親に頼らなければならない。フェアじゃない」と語っている。12歳で結婚し、2児の母となった25歳の女性は、自らの不就学の経験から子どもを学校に行かせ、必要なものを身につけさせたいと考えており、「子どもを学校へやるためなら何だってやる」と学校教育にかける強い思いを抱いていた。

 学校教育をどのように捉えているか聞くと、多くの地域の人々から上記のような個人に重きを置く答えが返ってきたが、中には地域社会の発展のために必要なものであるとの認識を示す人々もいた。学校教育が浸透していなかったから「自分たちマサイは他民族と比べ遅れている」(30代男性)、「学校教育は必要。そうでないと他の民族に良い仕事をすべて取られてしまう」(20代女性)という懸念を示す意見もあった。ある40代男性は、「(学校教育を通してマサイ社会以外のことを知るようになった)子どもたちには、将来、リーダーシップをとるようになってほしい」と述べており、学校教育を通して、ケニアにおいてマサイがリーダーシップや権力を握るような社会的地位にアクセスできるようになることで、自分たちの生活環境が改善されることを期待する声も聞かれた。さらに、「高等教育を終了したら将来は地元に戻ってきて地域に貢献したい」と語る生徒もいたことから、地域を発展させるためにも学校教育は必要であると考えられていることがわかる。

4. 文化の衰失、変容と継承

(1) 衰失する文化

 近年の社会的・経済的変化や自然環境の変化により、遊牧が継続不可能になるなど、エランガタウガス地区におけるマサイの伝統的慣習の一部は現在衰失(45)へと向かっている。その中でも、マサイ文化と相容れないものであると考えられていた学校教育への傾斜という社会的変化は、地域の伝統文化の在り方に影響を与えている。伝統的な慣習の衰失は、学校教育の実質的な普及という変化のみが要因ではなく様々な要因が重なって起きるものであるが、以下では特に「学校教育の普及」という変化の影響を強く受けてきたモラニズム、女子割礼、早期結婚という伝統的慣習について取り上げる。

 かつて、マサイの伝統的な年齢区分の2番目にあたる「青年」(10代前半〜20歳前の男子)に属するほとんどが、数年間もの間、家族から離れて独自の集落を作り伝統的な生活に欠かせない知識や技術を身につけるモラニズムを実践していた。モラニズムは、その性質から学校教育との両立が不可能であったため、就学者の中途退学を招いてきた。しかし、人々の学校教育に対する捉え方が変化し、今まで選択されてこなかった学校教育が選択されるようになり実質的に普及するにつれて、モラニズムが行われることが少なくなっていった。エランガタウガス地区では、モラニズムは完全にはなくなっていないが、ほとんど見られなくなっている。学校教育を阻害する、他部族からの(への)侵略や家畜の略奪が行われることがなくなった今の時代に合わず、価値観を失っているということから、生徒や保護者など、筆者がインタビューしたすべての人々が「廃止すべきもの」として認識しており、モラニズムは今後消滅に向かう可能性が大きい。

 マサイ社会は伝統的に男子を優遇する社会である。家庭内でも、女子は結婚により他の家庭のものとなるという考えから、男子が優先される。そのため、学校教育が肯定的な影響をもたらすものであると捉えられ、なおかつ経済的に制限がある場合、学校に優先的に送られるのは男子であった。その点でFPEは女子の学校教育へのアクセス向上に貢献したと言える。学校教育の捉え方の変化とアクセスの向上は女子の就学者の増加をもたらし、女子の中途退学を引き起こす大きな要因である早期結婚の慣習をエランガタウガス地区において大きく減少させた。実際、インタビューしたすべての保護者は早婚には反対であり、早期結婚をさせたくないと答えていた。早婚への反対意識が形成されると共に、早期結婚を推し進める伝統的慣習である女子割礼への反対の動きも広まってきた。一般的に女子が割礼を受ける年齢は10〜15歳であり、割礼後あまり時間をおかないで結婚させられるため、女子割礼は早期結婚、そして中途退学につながるのである。女子割礼はケニアの法律で禁止になっていたが、その後も隠れて行われてきた。しかし、学校教育の普及もあり、現在では割礼を受ける女子が全体の1/4にまで減少し、女子割礼に反対する声が多数派の意見である。学校での女子割礼に伴う危険に関する教育もあり、生徒たちの間でも男女に関係なく「反対である」という意見が大多数を占める。しかしその一方で、「私は良いと思う」と発言した10代の女子生徒もいた。若い世代では一部を除き反対の人がほとんどであったが、年配の人々の間では、父祖の代から行ってきた伝統であるから、子どもから大人になる重要な儀礼であるから、という理由で女子割礼に賛成する声も聞かれた。女子割礼に反対する運動を繰り広げた西欧から流入してきたキリスト教の牧師男性も「(伝統であり、)聖書で禁止されていないから、行ってもよい」と発言しており、伝統的慣習の継続への根強い支持も見られた。

(2) 文化の変容と継承

 学校教育は地域の文化を喪失させるのか。筆者が、保護者に「(自らの)子どもは学校に通うことで伝統的文化を失っていると思うか」尋ねたところ、返ってきた答えは、「そう思う」、「そう思わない」の双方に分かれた。「そう思う」と答えた人の間にも、良い意味でそのように答えている人、悪い意味でそう答えている人がいる。良い意味で捉えている人は西欧化により自らの生活にもたらされた好ましい変化について言及し、悪い意味で捉えている人は残したいと思っている伝統的慣習が失われていることに言及していた。「そう思わない」と答えた人は、上述したモラニズムなどのなくすべきものと捉えられている慣習が失われてきていることについては、悲観的に捉えていないようである。「失われるべき慣習が失われており、残すべき慣習が残っている」という肯定的な意味合いが強く、「子どもが家庭にいるときに親が慣習を教えれば失わないし、失わないように親は教えなければならない」と、子どもに学校教育を受けさせながらも慣習の継続が可能であると述べる保護者もいた。

 では、実際に伝統的慣習を継承していく若い世代はどう思っているのであろうか。「伝統文化は、マサイをマサイであり続けさせるものである」などの理由から、ほぼすべての人がマサイの伝統的慣習が好きであると答えた。しかし、すべての伝統的慣習を継承したいと答えたのは極めて少数であり、大多数は、伝統的慣習は継承したいものの、モラニズムなど一部の慣習の変更を望んでいた。

 エランガタウガス地区の人々が継承すべき、継承したいと思っている伝統的慣習は、より多くの人が言及した順に、規律、家畜の保有、親族や年齢組を通じた仲間とのつながり、言語であった。学校教育の普及し、子どもたちが家庭やコミュニティで過ごす時間が減少したことや、学校で新たな知識を得るようになったことにより、変容している、失われていると一部の人々が感じている部分もある。しかし、これらの伝統的慣習は、マサイとしてのアイデンティティに深く関連するものであり、マサイの人々がマサイであり続けるために重要な役割を現在も果たしている。その中でも特に重要視されているのは、家畜の保有である。貨幣経済の流入により家畜が貨幣としての役割を果たすことが少なったこと、牧畜に加え何らかの仕事を得たいと思っている人が多いことから、所有したいと思う家畜数の規模は、彼らの親の世代と比較すると、全体的に少ないものの、若い世代の多くは仕事を得てもいくらかの家畜は所有したいと思っている。実際に、給与労働をしているが、人を雇うことで家畜を所有しているという人もいた。家畜の保有にこだわる理由を尋ねると、人々から返ってきた答えは「マサイだから」であった。マサイ社会では、通過儀礼や結婚などの儀式で家畜が必要であり、社会的な地位を得るにあたっても社会関係を築くにあたっても、ウシをはじめとする家畜が必要とされる。マサイであるために家畜を所有していなければならない、所有していたいという価値観は、大人たちにも、そして将来を担う若い世代の間でも共有されている。学校教育が普及したことで失われつつある伝統的慣習がある一方で、このように、程度は異なれど、変わらずに脈々と受け継がれる価値体系も存在するのである。

 しかし、子どもたちが多くの時間を学校教育に割かなければならない中で、残したいと考える伝統的慣習を継承するためにかけられる時間は限られるようになった。例えば、学校教育が普及するまでは、各家庭において子どもたちが家畜の世話を担っていたが、学校教育が普及した現在、学期中の日中は、父母がその役割を担うようになっている。学校においてもマサイの伝統的な歌を歌ったりする機会はあるが、教員たちが述べていたように、慣習は学校ではなく家庭内で教えることが基本である。子どもたちは帰宅後や週末に、さらには長期休暇の間に、伝統的な歌や踊りを楽しみ、男子であれば家畜の世話(写真7)、女子であれば家畜の世話に加え洗濯や料理、水汲み、薪拾いなど家庭内での自分の仕事をこなす。中でも寄宿制の学校に通っている子どもたちは、学期中は家庭を完全に離れるため伝統的慣習に触れる機会がさらに少なくなるが、長期休暇を利用してマサイ社会で生きていくための伝統的に必要とされる知識やスキルを学ぶ。実際、筆者が滞在していた家庭においても、長期休暇で寄宿制の学校から規制してきた子どもたちが、それぞれの家庭内での仕事をこなしていた。学校教育が普及し、学校教育を重要なものと捉える人が増加したことで、男子の割礼、モラニズムは行われていないが下級青年期の「卒業」の儀礼であるエウノト(eunoto)、結婚式などの儀礼は最も人が集まり、学校に通っている子どもたちが出席できる長期休暇に合わせて実施されるようになった。長期休暇中にはまた、伝統的慣習を伝える場となるオルプルが催される。オルプルとは、モラニズムにも取り入れられていた森の中での休養のためのキャンプである。地域で希望者を募り、茂みの中で数日〜数週間過ごし、肉や薬草を摂取することで体力をつけ、疲れから回復することができる、そして自然界の中で生きる方法を学ぶことができる「合宿」である。休養、体力強化、交流などを目的に、青年期に属する男子を含む10代の男子の間で広く行われており、伝統的慣習に触れる機会を提供している。このようにマサイ社会においてその構成員が残したいと思っている文化慣習は、過去のように学校教育と衝突するのではなく、学校教育の普及という変化に対応することで継承されている。「マサイの伝統文化は失ってほしくないが、そればかりになってほしくもない」、「伝統文化と学校教育の間でバランスをとることが必要である」という保護者の願いが実践されている例であろう。

 「学校教育を受けながら伝統文化を継承した人が実践しているのは『リアルな』文化ではなく、『異なる』文化である」という意見もある。自分の9人の子ども全員を学校へ通わせた70代の男性は、母語のマー語に加え、学校教育を通じて習得したスワヒリ語と英語を話し、外部の世界との交流が可能となった彼の子どもたちが継承している伝統的慣習は、自分が内面化している慣習、父祖の代から受け継がれてきた「リアルな」文化ではなく、外部からの影響を受けた「異なる」文化であると語っていた。文化や伝統とは時の流れと共に変容していくものであり、彼の言う父祖の代からの伝統である「リアルな」文化も、全く変わらずに受け継がれてきたのではない。実際に、彼の父親から彼の代にかけて、未婚の妊娠が増加したため、男女ともに割礼年齢の前倒し、そして早期結婚の導入という変化が起きている[Spencer 1988:116]。ただ、近年の文化の変容は大きいため、「異なる」文化であるとまで感じているのである。しかし、彼はこの変化を否定的に捉えているわけではない。過去のマサイ社会においては、学校教育が引き起こすこのような事態は、社会に対する学校教育の悪影響であると捉えられていた。しかし現在では、「子どもが家庭で家畜の世話をしている、家事をしているのを見ると安心する」(40代男性)と変化に戸惑う人もいるが、そのような人々も含め、学校教育は人々に新たな知識や自らが属する世界のみでなく外の世界についての情報を与えることで、マサイの伝統文化をより良くしているものとして捉える人が多くなった。ゆえに彼等は、「(伝統文化は)ベストに近づいている(”Going to the best”)」と語るのである。


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第5章 結論

 本稿では、ケニアの学校教育政策の変遷、マサイ社会と文化、マサイ社会の中でも特にエランガタウガス地区における学校教育の現状、人々の学校教育の捉え方の変化とその要因、それに伴う伝統的慣習の変化を議論してきた。これらの議論を踏まえて、最後にエランガタウガス地区に住むマサイにとって学校教育がもつ意味を明らかにする。

 マサイの人々は牧畜に依存した生活を送ってきており、元来、外界との交流は自らが生産しない穀物などを入手するために行われてきた。政府の国民統合を目指した政策によるはたらきかけや、他民族の流入、進学や就職などは、外の世界との交流を増加させ、近年では、経済的変化、旱魃の頻発などに見られる自然環境の変化により家畜に依存するだけの生活では厳しく、外界との交流は生活を支えるために必要不可欠なものとなっている。外界との交流の増加は、マサイ社会の中にケニアの国家としての規律や貨幣経済を持ちこんできた。このような一連の環境の変化は、マサイの人々の意識にも影響している。植民地時代においても、独立後においても、マサイの人々には、国家に属しているという意識がなく(46)、マサイ社会とケニアという国家は個々に独立したものと捉える傾向があった。しかし、一連の環境変化の結果、現在では、国家の存在を無視することはできなくなり、人々は、マサイ社会をケニアという国家に包摂された、国家の一部となった社会として捉えており、その中に自らが存在していると感じている。これは、筆者が子どもを学校に送る理由を尋ねたときに、ある女性が「憲法が子どもを学校へ行かせなければならないと規定しているから」と答えたことにも反映されている。厳しさを増すマサイランドの環境と共に生き抜くための手段として人々が選択したものが、学校教育である。過去には、学校教育という選択肢はあったものの、それに対する否定的な考えから人々は選択してこなかった。FPEなどの政府の政策はマサイの子どもたちの就学を促進させたが、マサイの人々が積極的に学校教育を選択する理由にはなってこなかった。人々が、自らの置かれた状況に鑑み、その状況の中で最良の選択として学校教育を選択したのである。学校に子どもを通わせる多くの親は不就学であり、非識字者であるため、学校が何を教えるかということを詳しくは知らない。保護者が子どもに学校教育を受けて現金収入を得られる仕事に就くことを期待していることからわかるように、学校教育は人々にとって「今の生活での行き詰まりを打破してくれる新しい道、現金収入を得られる、もっといい生活につながる何か」[山田2009:181]なのである。筆者のインタビューにおいても、子どもを学校に通わせた結果、「職を得て家族を経済的に支えてくれるようになり助かっている」という意見が聞かれた。実際は、高学歴の労働者を受け入れる国内の労働市場の発展が追い付いておらず、高等教育を修了したからといって必ずしも就職できるわけではない。しかし、それでも人々は学校教育を就職と結び付けて捉えているのが現状である。

 このように学校教育は、将来現金収入を得られるような仕事に就くために必要なものであると捉えられており、その内容よりも「学校を卒業した」という資格の方が重視される傾向がある。しかし実際には、学校教育の内容自体もマサイの人々に肯定的な影響を与えている。学校では、3Rsと言われる読み・書き・計算を含めた多様な科目が教えられる。数学や英語、スワヒリ語といった実践的なものから、地理や歴史といった世界に関する社会的知識まで学習することができ、学校教育を受けることで人々は伝統社会の中では教わることのなかったことを知ることができる。エランガタウガス初等学校の校長が「ほぼすべての家庭で最低一人は読み書きができるようになっている」と述べたスワヒリ語または英語の識字に関しては、「子どもが手紙やSMSを読むのを手伝ってくれる」、「医師とのコミュニケーションを助けてくれる」、「子どもが話しているのを聞いて、スワヒリ語が少しわかるようになった」などの意見が保護者から聞かれ、生徒も「新聞やラジオの内容を理解できるから親に伝えることができる」と筆者に語っていた。政府関係機関の標識や書類は英語とスワヒリ語のみであるので、ケニアという国家の中で生きていくにあたり、識字力はコミュニケーションや情報収集の手段の拡大を可能にし、保護者を含め家庭に一定の利益をもたらしていると言える。識字以外にも学校教育で得る様々な知識は、人々の日々の生活の向上に役立っている。「学校に行くようになってから、清潔さが向上した」と、初等学校低学年の子を持つ母親が証言しているように、学校で学ぶ衛生や栄養に関する知識は日常生活で活かすことができる。このように、社会や物事の仕組みを理解できるようになることで、問題やトラブルをより良い方法で解決できる、日常の何気ない行為をより良い方法で行えるようになったという声が、教員や保護者から聞かれた。たとえ中途退学をしてしまっても、中等教育を含む高等教育へ進学ができなかったとしても、学校教育を受けることで、程度は異なるが、このような学校教育によってもたらされる利益は得ることができる。中途退学を実際に経験した人々は、最低限の読み書きができるので、日々の生活において「できない」場合と比べて様々な面で便利であると感じている。学校教育は新しい知識を得ることができる場所、知らない世界を知ることができる場所であり、自らの行動範囲や選択肢を広げてくれるものである。不就学であった女性は「学校に行けなかったから、私はこの地区しか知らない(スワヒリ語も英語もできないため外の世界に行くことができない)」と、ある男性は「もし学業をおさめていたら、今頃大統領だって夢じゃなかった(将来の選択肢が大きく広がっていた)」と語っている。学校教育は、人々に伝統的なマサイの教育から学ぶことができなかったことを学ぶ機会を与え、外界との交流や現金収入獲得のチャンスを拡大するなど、現代社会を生き抜いていくための、より豊かな生活を手に入れるための術を獲得させてくれるのである。

 他方、エランガタウガス地区において、学校教育がもたらした否定的な影響について言及した人々は、極めて少数であった。彼らは、4.(2)で言及したように継承したい伝統的慣習の一部が失われていることを否定的に捉えていた。しかし、その変化を一部の人は肯定的に、また他の人は変化もしていないと捉えていた。このように地区内においても、伝統的慣習の変容に関する捉え方には多様性がある。しかし、学校教育の否定的な影響について言及している人々も、そうでない人々と同様に、子どもの将来に期待することはホワイトカラーの仕事に就くことであり、学校教育が肯定的な影響をもたらすことに言及していたのも事実である。

 内海は、学校で教える「近代的知の普遍性」は伝統的生活においても必要な知であると述べている[内海 2003:9]。しかし、学校教育が重要であるからと言って、人々はマサイの文化慣習を完全に切り捨てていくわけではない。2001年にAmani Early Childhood Care and Development(47)によって行われた調査では、マサイの親たちは子どもたちに「ペンと棒(48)を持つ(”hold the pen and the stick”)」こと、つまり「学校教育と伝統的慣習を両立すること」を望んでいるという結果が出たという[Ailman 2011:19]。この両立の過程で、マサイのモラニズムなどの伝統的慣習は衰失してきているが、家畜保有の重要性など伝統的な価値体系は、程度は異なるものの、変容しながら継承されていることも事実である。学校教育は、かつては、文化と相容れないものと捉えられていたが、現在では、厳しさを増す環境で生き残るために「近代への参入」や「近代を生き抜く術の獲得」をもたらすもの、新たな情報や知識をもたらし、マサイの伝統文化を新たな視点から捉え直す機会を与えることで、伝統文化を「ベストに近づける」ものと捉えられている。エランガタウガス地区のマサイの人々は、学校教育を通して、自らの生活と伝統的慣習双方を「ベストに近づける」ことで、近代と伝統文化を独自に接合させる「マサイ的近代化」を実現しようとしているのである。


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(1) 追加的な教育年数の増加に対する賃金の増加割合を示す[黒田・横関 2005:69]。> 本文へ

(2) 初等教育を中心とする公的な学校教育に加え、就学前教育、職業教育、成人識字教育などを含む教育。> 本文へ

(3) 1970年代、従来の援助が必ずしも貧困層の生活改善に役立っていないという認識が生まれ、衣食住など人間が生活する上で必要最低限のものや衛生、保健、教育などの人間の基礎的なニーズを指す言葉として誕生した。 > 本文へ

(4) 初等教育とは、学校教育における最初の段階であり、概ね5〜7歳から11〜12歳までの児童を対象として行われる「将来の社会生活を送る上で、共通にもっていることを社会から期待される基礎的な知識・技能および態度を養うために行われる教育」[黒田・横関2005:83]を指す。> 本文へ

(5) マサイの人々が身にまとっている一枚布を指す。 > 本文へ

(6) 男性が垂直方向に1メートルほど飛び跳ねるマサイの伝統的なダンス。 > 本文へ

(7) マサイの人々が多く居住する地域を指す。 > 本文へ

(8) 牧草と水を求め、広大な土地で家畜を移動させながら飼育することを指す。遊牧は牧畜の類義語であり、牧畜の移動性に焦点をあてた言葉である。 > 本文へ

(9) 初等学校を終了した生徒に授与される証書であり、最終学年の11月に試験を受けることで授与される。試験の結果が進学を左右する。 > 本文へ

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(10) 本論文では、25歳以下の中途退学者を指すこととする。 > 本文へ

(11) Encyclopedia of Nationsウェブサイトhttp://www.nationsencyclopedia.com/geography/Indonesia-to-Mongolia/Kenya.html(2012/1/7参照)より。 > 本文へ

(12) 北は紅海から南はジンバブエに至る、主にアフリカ大陸を横断する谷で、プレートの境界[Republic of Kenya 1990:5]。 > 本文へ

(13) CIA Factbookウェブサイトhttps://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ke.html(2012/1/7参照)より。 > 本文へ

(14) 諸説により異なる。 > 本文へ

(15) CIA Factbookウェブサイトhttps://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ke.html(2012/1/7参照)より。国民の大部分キリスト教徒であるが、イスラム教、伝統宗教に区分される人口の割合は、数値に大きな広がりがある。例えば、ケニア国家統計局(Kenya National Bureau of Statistics)の2009年のセンサス(Kenya Census 2009)によると、キリスト教83%、イスラム教11.2%、伝統宗教1.7%であるとされている(Kenya National Bureau of Statistics http://www.knbs.or.ke/censusreligion.php(2012/1/7参照)より)。 > 本文へ

(16) 世界銀行(The World Bank)のウェブサイト http://data.worldbank.org/country/kenya(2012/1/8参照)より。 一人当たりGDPは、777米ドル(2010年)。 > 本文へ

(17) CIA Factbookウェブサイトhttps://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ke.html(2012/1/7参照)、外務省のウェブサイト http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kenya/data.html(2012/1/7参照)より。> 本文へ

(18) 外務省ウェブサイト http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kenya/data.htmlより(2012/1/7参照)。> 本文へ

(19) 外務省ウェブサイト http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/kenya/data.html(2012/1/7参照)より。> 本文へ

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(20) アフリカの人々の教育へアクセスの向上を提案。 > 本文へ

(21) アフリカの人々に学術的な教育を提供することや実践的な教育を提供することを通して、アフリカにおける教育の量と質双方の改善を図ることを提案。 > 本文へ

(22) 主に、すでにイギリスの植民地であったインド人であった。 > 本文へ

(23) 債務が増加の一途をたどっていた途上国に対して、援助国が援助継続の条件として事業の民営化などを進め緊縮財政を敷くように求めた政策。> 本文へ

(24) 総就学率とは、就学該当年齢児童数を分母、実際の就学児童数を分子として計算した、就学該当年齢児童数に対する就学児童数の割合である。対として用いられる指標には純就学率があり、就学該当年齢児童数を分母、該当年齢児童のうち就学している児童数を分子として計算した、就学該当年齢児童数に対する該当年齢就学児童数の割合である。 > 本文へ

(25) UNESCO Institute for Statisticsウェブサイトhttp://stats.uis.unesco.org/unesco/TableViewer/document.aspx?ReportId=121&IF_Language=eng&BR_Country=4040&BR_Region=40540(2012/1/8参照)より。 > 本文へ

(26) UNdataウェブサイト http://data.un.org/Default.aspx(2012/1/8参照)より。 > 本文へ

(27) UNICEFウェブサイトhttp://www.unicef.org/infobycountry/kenya_statistics.html#77(2012/1/8参照)より。 > 本文へ

(28) アカシアは、マメ科のアカシア属の総称であり、オーストラリアおよびアフリカを中心とする熱帯地方に数百種が知られ、常緑または落葉高木が多い。堅く耐久性があり、多くの棘を伴う。(ブリタニカ・オンライン・ジャパン http://japan.eb.com/rg/article-00075700(2012/1/15参照)より。) > 本文へ

(29) ロバは荷物を背中に乗せて運搬するために用いられる駄獣として副次的に遊牧され、まれにラクダも遊牧される[湖中 2006:37]。> 本文へ

(30) ウシの成長段階によってそれぞれウシを指す言葉があり、異なる形をしたウシの角を指す単語は9つもある[Phillips 2002:140]。 > 本文へ

(31) M・J・ハースコヴィッツにより提唱された東アフリカ牧畜社会にみられる現象。 > 本文へ

(32) 性器に施される一種の手術であり、多くの場合、男子は陰茎の包皮の一部を切除して亀頭を露出させ、女子は陰核を切除する。宗教的儀礼として、またはイニシエーションに際して行われる。(ブリタニカ・オンライン・ジャパン http://japan.eb.com/rg/article-02204600(2012/1/15参照)より。) > 本文へ

(33) 旱魃の際に、水と牧草がある場所に一時的にキャンプを作り、そこで家畜を飼育する。> 本文へ

(34) 本論文では、少年から成人への通過儀礼、社会的に一人前の成人として認知、編入されるための一連の手続きを指す。 > 本文へ

(35)  モラニズム(moranism)は、直接的に訳すと青年(モラン)主義となるが、エランガタウガス地区の人々は、本項で言及する「青年期における活動」のことを指す言葉として用いていた。本論文でも、現地の人々の使用方法に則り、モラニズムは、「青年期における活動」を指す言葉として用いる。> 本文へ

(36) 弱さを連想させるため。 > 本文へ

(37) 人々の言う「洗脳」は、西欧近代知による洗脳、キリスト教という宗教による洗脳の2つのパターンで捉えられる。 > 本文へ

(38) 同じマサイであっても、環境の違いによって生活形態や慣習が全く同じであることはなく、短い滞在時間の中でもそれを実感した。ただし、筆者の滞在時間がフィールドワークとしては短期間であったことから、インタビュー人数の少なさや対象者の偏り、統計データや情報の不足、詳細さの欠如、裏付けの欠如などの問題が残った。マサイの人々の言語であるマー語を習得していないため、対象者の母語ではない英語、または現地出身のガイドによる英語通訳を介してのインタビューをとなったため、英語による表現の困難や通訳者というフィルターが存在したということに、あらかじめ言及しておきたい。 > 本文へ

(39)  カジアドタウンから46マイルの距離にあることから付けられた名称。 > 本文へ

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(40)  キリスト教がマサイランドに流入してきたのは1903年であった[Republic of Kenya 1990:115]。 > 本文へ

(41) カジアド県内では、鉄道はカジアドタウンの東北東に位置する隣接県との県境コンザ(Konza)から、カジアドタウンを通り、カジアドタウンの西南西にあるマガリ(Magadi)まで通る。乗客よりもマガリ湖(Lake Magadi)から生産されるソーダ灰の輸送が主な用途である。> 本文へ

(42)  マサイランドにおいては、個人が土地に対する所有権を保持していることはなく、土地は人々の間で共有のものとされていた。 > 本文へ

(43) 家畜の貨幣として利用の限界として、湖中は、交換対象の限定性、分割不可能性、非恒常性、非均質性に言及している[湖中 2006:240-242]。> 本文へ

(44) ケニアの各民族の伝統的なダンスを踊る。ナイロビ、しかも政府機関での就職ということになるので、ダンサーであっても、一定のレベルのスワヒリ語と英語の識字や一般的な知識が必要である。 > 本文へ

(45) 文化は変化し続けるものであり、あるときに消滅したように見えた文化が、一定の期間の後に再び現れることもある。本稿では、文化の衰失は、将来的に再び現れるかもしれないが、現在はなくなる方向に向かっている状態を指すこととする。 > 本文へ

(46) 植民地から独立したとき、それを知ったマサイは「自分たちは誰かにに支配されていたか(自分たちは誰にも支配されていない)」と語った。ケニアはイギリスにより植民地支配をされていたが、マサイである地方役人を通じて支配していたため、マサイの人々は、自分たちは自分たちのリーダーの指揮下におり誰にも支配されていないと感じていた[Saitoti 1986:41]。 > 本文へ

(47) 就学前教育を含む、子どもの成長に関わる活動を行っているタンザニアのNGO。 > 本文へ

(48) 「棒」とは、家畜を誘導する際に使用されるものをここでは指す。> 本文へ


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サンカン、S.S.
 1989 『我ら、マサイ族』佐藤俊訳、どうぶつ社。(S.S.Ole Sankan, 1971, The Maasai. Nairobi: East African Literature Bureau.)

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 2007 A Preliminary Note on Kenya Primary School Enrolment Trends over Four Decades. Brighton: University of Sussex Center for International Education.

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 1988 The Maasai of Matapato: A Study of Rituals of Rebellion. Bloomington and Indianapolis: Indiana University Press.
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高橋真央
 2003 「ケニア−伝統的社会における近代的学校教育の意味−」澤村信英編『アフリカの開発と教育−人間の安全保障をめざす国際教育協力』pp.265-288、明石書店。

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 1999 Education Sector Strategy.

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鶴田義男
 2008 『アフリカの初等・中等教育』近代文芸社。

内海成治
 2003 「国際教育協力における調査手法−ケニアでの調査を例にして−」澤村信英編『アフリカの開発と教育−人間の安全保障をめざす国際教育協力』pp.59-81、明石書店。

山田肖子
 2009 『国際協力と学校− アフリカにおけるまなびの現場−』創成社。


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English Summary: Traditional Society and Modern Education: The Case of a Maasai Community

All over the world, it has been taken for granted that “Modern education is good.” It has been said that modern education, or school education, is the mean to develop a nation through achieving modernization. Based on these ideas, many aid organizations and government of developing countries have set goals and implemented policies to accomplish Universal Primary Education, UPE. Though school enrolment rate has been increased to some extent in many countries, school education provided by the government in an integrated fashion has not worked in every community of a nation since many of developing countries have various ethnic groups with different culture and lifestyle due to the division made by imperial countries. In some cases, people oppose to accept school education, regarding it as not suiting their culture and lifestyle. The question is “does school education have positive influence over people in any society?” This paper provides an analysis about the meaning of school education in a traditional community, the Maasai community in Elangata-Wuas, Loodokilani constituency, Kajiado District, Kenya, based on the field work conducted by the author from July 25th to August 12th in 2011.

Maasai people are mostly pastoralists with the “age system,” the system defines social roles of the member of the society based on his age. Each member, including children of the society engages in their own chores from management of livestock to housework based on sex and the age system. In this system, those in their 10’s, during school age, go through the initiation, including circumcision, and move into the new social status. Boys become “young man (moran)” and a member of an “age set,” which is formed every 15 years. After some time, they start “moranism,” their way of life during the young man period, which constrains them to stay out of households and have them establish their own village. There, they train themselves to protect their community, learn and embody Maasai values. On the other hand, girls mostly in their early 10’s get into the status where they are ready for marriage and often get married soon after their initiation. Due to these social customs, Maasai people had opposed school education, which could not go along with their social system. In their own words, it was said “Culture is life.”

However, Maasai people in Elangata-Wuas gradually started sending their children to school and came to think that “Education is key.” This change has been caused by 5 backgrounds: change of circumstances, work of government, increase of interaction with other societies and introduction of cash economy, emergence of role model, and work of the school management committee and NGOs. Maasai people have experienced their environment getting more severe, have been losing their property, knowing about the wider world, and receiving various programs. School education actually has brought some positive changes to people in the society and better life. At the same time, school education has brought changes in traditional customs; such changes, which had been mostly seen negative in the past, have been regarded as positive. Through school education, the Maasai people in Elangata-Wuas try to realize “Maasai modernization” by achieving the art to survive modern society and making their culture better.


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謝辞

 この論文を書き上げるにあたり、指導教官である筑波大学国際総合学類人文社会科学研究科の関根久雄教授には、論文のテーマの練る段階から、フィールドワークの計画、論文の作成に至るまで、大変お世話になった。お忙しい中で快く相談にのっていただき、何かしら壁にぶつかっている私に対して、教授は常に的確なアドバイスを下さった。先生のお話からは、人類学に携わる者としての視点のもち方に関してたくさんのヒントをいただいた。先生には多大な感謝の意を示したい。

 今回のフィールドワークは、中々現地へのコネクションを見つけられなかった私に、その方法を手ほどき下さった(特活)アフリカ日本協議会の斉藤龍一郎さん、実際に現地の方を紹介して下さった筑波大学大学院人文社会科学研究科修士課程の松木省吾さんのお力添えがなければ実現できなかった。改めて感謝の意を示したい。

 調査地、ケニアにおいても多くの人々に支えていただいた。ナイロビでは、友人のDorcas Mwandemboさんが母親のように私を見守ってくれ、彼女とその家族のみなさんはケニアにおける「実家」であるかのような居心地の良さを私に与えてくれた。土地勘もなく言葉もできない私をエランガタウガスでガイドしてくれたIsaac Sumareさん、その友人Joshua Moileさんは、フィールドワークをするにあたって欠かせない存在であった。一日中広大なマサイランドを共に歩きまわり、私のインタビュー調査に付き合って下さったことは忘れられない。マサイランドにおいて「帰る場所」を提供し、私を家族の一員として迎え入れてくれたMoile一家のみなさんには、マサイ文化について多くを教えていただいた。そして、エランガタウガス地区の方々にも、多くをお教えいただいた。私の尽きないインタビューにお付き合いくださり、私に新たな発見をもたらしてくれた。フィールドワークを実施するにあたって、こんなにも多くの人々に支えていただいた。一人ひとりに心から感謝したい。

 フィールドワークを終え、論文の執筆にあたり、様々な視点から意見をくれた関根ゼミ生、私のまとまらない考えの整理にお付き合いくださりアドバイスを下さった筑波大学大学院人文社会科学研究科博士課程の秋保さやかさんにも感謝の意を示したい。大学の5年間、共に学び、つらいときには支え合ってきた国際総合学類25期のみんなの存在は、執筆にあたり心の大きな支えとなった。みんなと一緒に3K棟で幾晩も過ごしたことは忘れない。ありがとう。

 自由奔放にやり迷惑をかけてきた私を、見捨てず、心配してくれる両親と家族には感謝の気持ちでいっぱいである。私を気にかけ、つくばいるときも異国の地にいるときも電話をくれ、実家に帰るといつもあたたかく迎え、安らぎを与えてくれた。最後に、私の一番の支えである両親と家族に言葉では言い表わせないほどの感謝の意を示し、この論文の終わりとしたい。

UP:2012 REV:
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