「東日本大震災を経験して」
吉田 茂士 20111105
『第60回全日本手をつなぐ育成会全国大会〔東京大会〕〔本人大会〕実施要項』
last update:20120302
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第一セッション 本人
東日本大震災を経験して
福島県富岡町 吉田 茂士(本人の会「ピース」)
プロフィール
本人の会「ピース」会長。富岡町に暮らす前は宮城・石巻で24年間、カキの養殖の仕事をしていた。昨年の全国大会・本人大会で実行委員、第5分科会(友達)では司会をつとめ た。趣味はCDを聞いたり、カラオケで歌うこと。「なでしこジャパン」がはやる前から、 女子サッカーの観戦が趣味。
震災の日
東日本大鍵災は、今まで経験した地震の中で、一生きおくにのこることだとおもいます。その日は、午後にしごとからグループホームにもどっていました。震災が生きる前は、ふろ場で掃除をしていました。もしもふろ場じゃなくて、自分の部屋にいたらどうなっていたかと思うとぞっとしてしまいます。きっとタンスが前にたおれてきたとおもいます。台所の方はとだなからお皿やコップがおちてこなごなにわれ、ろうかの方にさんらんしていました。テレビをみたりしてみんなで食事をするくつろぐ部屋もめちゃくちゃになっていました。外の方は、道ろのコンクリートがはがれおちたりしていました。屋根は、かわらが下のほうにくずれおちていました。地面は、ひびわれがはげしく、水道もだんすいしていました。
富岡町の海のほうは、つなみでかいめつてきなじょうたいでした。道ろはあちこちでかんぼつがみられました。商てんがいの方は、ほとんどがガラスやしょうひんがこわれ、道ろに散乱していました。
3月11日の夜は、支援者がみんなをむかえに来てくれたので、法人の入所しせつに集合してすごしました。グループホームはもうとてもすめるじょうたいではありませんでした。
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避難所での生活
次の日、「原発がきけんです」と言われ、みんなでひなんしました。そして、三春町の自然観察ステーションでしばらくおおぜいでくらしました。自分のものはなにももってこないでひなんしたのです。着がえも何もありませんでした。だけど、三春町の人や全国の人から支援ぶっしがたくさんとどいてとてもうれしかったです。だけど、どうして地元に帰れないのでしょうか。それは、原発がばくはつして、放射能がきけんだからです。
そのあと、4月15日に大がたバスで群馬県の「のぞみの園」という大きなしせつにまたひなんしました。やっとふとんにねられるようになりました。
だけど、自分が25年前、しせつに入所していたころにタイムスリップしたようです。グループホームでは、自由に買い物に行ったり、本人の会のイベントをやったり、外食したり、仕事に行ったりしていたのに、今はとてもかなしくなります。つらいです。
震災前、グループホームでどういう生活をしていたかというと、月曜日から木曜日までは、朝おきてから身じたくをして、せんたく物とか、夜にあらったいるいを干したりします。それから、朝食をとって、7時前のばすにのって、たいひをつくる工場に仕事に行っていました。
いま、会社ではたらいていた人たちはどうしているのかわかりません。みんなひなんしていてわかりません。もう会社もやっていません。せっかくなれたのに残念です。
親子について
大きな地震がおきると、親も生きるのでせいいっぱいだし、子どもも自分の生活でせいいっぱいで、でも子どもだから親よりも長生きしたいし、おやこうこうしたいという気持ちが心にはあります。それは重い障害があって自分の言葉で話せない人でも、その気持ちはあると思います。差べつまではいかないけど、自分ができたり、やりたいのに、そこで「なんでもだめ」というのは自分からやりたいという気持ちをなくしてしまうと思います。少しは大目にみてもらうところは見てもらい、自分のできるところはやらせてほしいとこじんてきには思います。重くても、軽くても、
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自分でやりたい気持ちはあるはずです。
これからの目標
これからの目標は、一日でも早く、福島にもどりたいです。そしてかせつじゅうたくに住みながら支援者に仕事をみつけてもらってはたらきたいです。毎日思っています。さいしゅうてきには、グループホームを出て、一人ぐらしをするのが一番の目標です。
さいごに、本人の会の全国の仲間からたくさんのはげましの声をいただきました。とてもうれしかったです。ぼくたちはくるしいこともありますが、みなさんとのきずながありますので、ぜったいに負けません。
*作成:青木 千帆子