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「障害がある人もない人も共に安心して暮らし・働ける南相馬市めざして
障害のある人への訪問調査 報告書&発言集」

JDF被災地障害者支援センターふくしま 20111113

last update:20111211

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  障害がある人もない人も共に安心して暮らし・働ける南相馬市めざして
  障害のある人への訪問調査 報告書&発言集

○緊急避難時における要援護者調査から
○障害のある当事者・家族の声
○障害のある人への支援関係者からの声
○全国から支援に入っていただいた方からの声

  つながり映画祭inふくしま
  2011年11月13日 南相馬市朝日座にて

  JDF被災地障害者支援センターふくしま
実施事務局:NPO法人さぽーとセンターぴあ(デイサポートセンターぴーなっつ)


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  みなさん、お元気でしょうか。
  JDF被災地障がい者支援センター ふくしま 代表  白石 清春

 南相馬での在宅障がい者訪問調査活動は、JDF(日本障害フォーラム)の支援活動の一環として全国各地からたくさんの方々が調査員として協力いただきました。 
 地元では、ぴーなっつのスタッフをはじめ、多くの関係者が自ら被災しつつ困難な生活をかかえながらも、原発事故で避難騒ぎのさなか、戻ってきた障がい者の支援に取り組んできました。
 たくさんの方々の並々ならぬ努力と思いによって、さらに連帯感と団結力でもって、訪問調査活動を終えることができ、報告集として完成することができました。
 福島県は、地震、津波、それに原発の事故によってまだまだ復興のめどさえ立たない状況にあります。福島県内に降り注いでいる放射性物質の恐怖によって、心が押しつぶされ、どうしようもない無力感にさいなまれることもあります。
 しかし、放射性物質の重圧に負けることなく、福島県を新しく生まれ変わらせていくという気持ちで未来に立ち向かっていかなければならないと強く感じています。
 放射性物質に負けない健康な身体を作るには、毎日楽しく笑って過ごして、免疫力をアップしていかなければなりません。
 皆さんと、大いに笑って、新しい福島県を創造していきましょう。


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  ■■■障害者が安心して暮らし・働ける南相馬市をめざして〜緊急避難時における要援護者調査から〜■■■

  1,はじめに・・・南相馬市の英断

 3月11日の東北大震災は福島県南相馬市で663名(8月25日付)の死者・行方不明者を出す大惨事となりました。さらに、福島第一原子力発電所の爆発事故は、市民に不安と恐怖に陥れ、平穏な生活をも奪い去りました。震災前は7万人あった人口が緊急避難で一旦1万人まで減り、街は人影がなくなりました。しかし、4月に入り避難生活の困難さから「避難準備地域」の南相馬市に住民が戻り始めました。障害のある人やその家族も例外ではありませんでした。
 災害の甚大さから、市民全体の被災、避難の実態が掌握できない南相馬市は4月中旬大きな英断をしたのです。「個人情報保護」の立場で他県、他市ではできなかった障害者手帳交付者名簿の公開です。
@障害のある人やその家族の生活の実態を把握する。
A緊急避難時の要支援の内容等を明らかにして要支援者名簿作成と要援護者避難計画の見直しを行う。
Bその調査を市内原町区の障害者支援事業所「NPO法人ぴあ ぴーなっつ」へ依頼する。
というものでした。
 協力要請を受けたぴーなっつは、JDF(日本障害者フォーラム)被災地障がい者支援センターふくしま(以下、JDF支援センター)に協力要請を呼びかけ、ぴーなっつとJDF支援センターが共同して調査活動に取り組むこととなりました。本格的な調査活動が始まったのは、震災から一ヶ月半経過した4月30日でした。
 あの時の南相馬市の英断は、同市だけではなく、福島県、被災地域全体の災害支援活動のあり方に大きな波紋を投げかけることになりました。

  2,調査の内容

  <対象者>
原町区/鹿島区の65歳未満の身体障害者手帳、療育手帳所持者1,139人を対象としました。(小高区すべてと、精神保健福祉手帳交付者は対象としていません)

  <調査員>
 JDF(日本障害フォーラム)構成団体の全国の障害関係の事業所・施設で働く職員。主に一定の職務経験のある現場職員があたりました。(期間中延べ 618人が参加)
 調査の方法は、2〜3人が1組になり、個別家庭訪し聞き取り方式で行いました。

  <調査日程>
 第1次調査 4月30日から5月6日までの   計7日間 障害の重い人たち対象
 第2次調査 5月23日から6月10日までの  計19日間 中・軽度の障害のある人たち対象
 第3次調査 6月12日から9月頃         第1次・第2次で不在だった所

  3,調査結果からみえてきたこと

 今回の調査の中で様々な実態が明らかになってきました。これらは今後の要支援者避難計画策定に重要な提起となるでしょう。

  <全体の状況>
○調査対象者1,139人のうち調査時点(4月〜5月)では492人で43.2%の人が南相馬に在住していました。(原町区在住者388人78.9%、鹿島区103人20.9%であり、障害種別では身体障害者手帳所持者343名(69.7%)療育手帳所持者が147名(29.9%)。震災1〜2ヶ月で手帳保持者半数以上の人が市内で生活していることになります。

  <避難時の実態>
 70%の人は、避難。しかし、そのうち半数は避難所を避ける。
○調査時点で南相馬に在住している492名の内、70%にあたる346人が避難を経験しています。(50%以上が県外避難、他はほぼ県内)
○そのうち約半数の169人が避難所を避難場所とし、その他は親族や知人その他です。
○避難の際に移動や搬送、介助等の支援が必要な人は約40%です。移動手段、介助・医療の確保、バリアフリーの設備、情報提供、コミュにテーション不足等に支援内容は様々です。


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 <避難後の実態>
 7割の人は、避難後にも支援必要。一方で、避難できなかった人も2割。
○注目すべきは、避難日数について回答の得られた329人(避難経験者492人)の平均日数は26.4日でした。「原町の避難所に1泊したが、とてもここにいられないと自宅に戻った」人や車中で1泊した人、南相馬市内の馬小屋で数日を過ごした人など厳しい実態が聞かれました。半数以上の人はおよそ3週間以内に南相馬に戻ってきたことになります。
○さらに注目すべきことがありました。避難しなかった、あるいは避難できなかった人が全体の22%にあたる108人存在したということです。知的障害の人が多く避難しなかった、あるいはできなかった割合が高いのが特徴です。
○避難場所での支援や配慮が必要な人は69.1%というのも注目すべき点です。

 <継続的支援の必要な人>
 在住者の1/3以上の人に緊急生活支援が必要。
○緊急避難時の支援や避難場所での支援・配慮だけでなく、市内で在宅生活している人の内、168人(34.15%)が、緊急生活支援や継続的な支援を求めていることも明らかになりました。障害種別で見ると知的障害のある人が身体障害の人より倍近くが継続的支援が必要という調査結果です。

  4,南相馬市の教訓を「誰もを大切にする」まちづくりに生かして

 先般放送されたNHK震災報道番組で、東日本大震災被災地障害者の死亡率は、障害の無い人に比べ2倍だったというのです。災害が発生した瞬間に障害のある人はすでに命の危険を伴う状態に置かれる度合いは高いと言えます。平時から「緊急の事態が起きる」ことを想定した特別の手立てが必要なのです。
 同時に、避難時、避難後の生活の実態があまりにも過酷で、無計画的すぎるといえます。自然災害が発する度に「災害弱者」の言葉が飛び交い、その対応に反省と改善策が強調されます。
 障害のある人たちはその障害の特性から障害のない人と同レベルの生活や社会参加の営みを送っていくことに困難を抱えているといわざるをえません。この度の南相馬市被災障害者の調査活動で、災害発生時、避難時、避難後の実態が詳らかになりました。この実態はおそらく南相馬市だけの内容ではなく、多くの被災地に共通する実態だと推察します。市民の10%近くを占める障害者、高齢者を含めると約30%を占める要支援者と言われる市民が地域の中で生活していることを前提にした物的、人的な「要支援」の具体的な内容を整えておかなくてはなりません。
 避難計画は、単なる「避難マニュアル」ではありません。「誰も分け隔てなく認め合い、守りあう共生の地域づくり」が日常の市民生活のなかで計画が息づき浸透する中でこそ、真の復興計画が生きてくるものでしょう。今回の調査結果はそれを示していると思います。
 全国的にも、過去の災害史上でも類を見ない「障害者手帳交付者名簿の公開」と民間組織と共同調査に踏み切った南相馬市の教訓が「すべての市民の命と財産を守る、真に安全で安心な地域づくり計画」として形になって実践され、原発事故も含めた震災からの復興した南相馬のたくましい姿として蘇ることとなるでしょう。


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  ■■■【障害がある当事者・家族の声】■■■
  ◇伏見さん 60代女性 身体障害・その他(左半身麻庫)

  1.大地震で家族と自宅から脱出

 15時いつものお茶の時間に地震が起きた。地震で、初めて仏壇がずれ落ち、いつもの地震の揺れとは違うと思った。その時、家には娘と孫がいた。娘は落ち着いていて、2階にいる孫を抱きかかえ、私には「お母さん先にいくから」と声をかけて、家から出た。家の前の道にはご近所の人が、不安そうに集まっていた。

  2.治療困難な避難所での生活
 震災後、すぐに息子の会社へ2日間は避難し、その後、クリーニング組合の所に1日避難し、その後、市内にあるあづま体育館に2週間避難した。
 あづま体育館は、全体では2,200人が避難する大規模避難所だった。病気と障害を配慮してもらい、8畳の個室に他の家族と利用させてもらった。避難所では、赤十字の方や自衛隊の方が入れ替わり処置をしていただき励まされた。
 避難時、抗がん剤を自宅から持ってこず、最初の一週間は飲まずに過ごした。しかし、このままではいけないと思い、自宅にある残り一週間分の抗がん剤を夫にとりに戻ってもらった。薬が無くなっても避難所の医者から、抗がん剤を処方してもらえなかった。腹部は、毎日消毒とガーゼ交換が必要だったが、2週間の避難所生活では入浴は1回だけだったので、感染症にならないか怖かった。

  3.自宅でも続く困難な生活

 「住み慣れた家に帰りたい」との思いから、3月下旬に自宅へ夫と二人で戻ったが、娘と孫は、原発を恐れ、他の町へ避難した。
 自宅に戻り、まずは抗がん剤の確保と腹部をきれいにしなければと思った。抗がん剤は南相馬市の市立病院へ行くが休診しており、市内の産婦人科医を紹介され、そこで抗がん剤を入手した。その産婦人科は、外科、内科などの治療も行っており、男の人がたくさん居たので不思議な光景だった。
 お風呂は、避難生活と癌により褥瘡ができているため、入ることができず、かけ湯で腹部を清潔にした。自宅にシャワーがなく、7月に福祉施設でシャワーを浴びさせてもらうまで、3ヶ月間お風呂に入ることができなかった。現在は、福祉施設で週2回お風呂に入らせてもらっている。
 食料は入手が困難だったため、千葉県や神奈川県の兄弟・親戚が車で物資を運んでくれた。配給が開始された後も、夫が2時間以上並んで物資を受け取っていた。
 仕事のクリーニング業は、固定客がいるおかげで営業できている。夫は仕事を頑張っているので、炊事洗濯は自分がやらなければならないと思った。

  4.今振り返って思うこと

 原発が水素爆発を起こしたとき、非常に恐かった。3年前から癌になり、その間、さまざまな治療を受け、被ばくする恐さを十二分に知っている。避難生活も自宅に戻ってからも、どこに行っても、癌があり、半身麻揮だった事でみんなに優しくしていただいた。
 生きているだけで「感謝」と「幸せ」の毎日。ただ原発はいらない。


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  ◇古小高 さん 60代 男性 身体障害 全盲
  ◇妻     60代 女性 身体障害 弱視 

  1.原発事故で状況は一変

 地震はかなり長い時間、家がぐらぐらと揺れ、立つことができない状態だった。津波も、自宅が高台にあり、被害を受けることなく、ライフライン(電気・水道・プロパンガス)もつながっており、食料の買い置きもあったことから、最初は自宅に留まることに不安を感じなかった。
 しかし、原発が水素爆発を起こしてからは、状況が一変した。爆発を起こした時、近所で爆発音や熱風を感じた知り合いもいたが、情報はラジオ・テレビのみで得ており、当初は避難区域が狭く、身近に迫る危機感は無かった。しかしその後、避難区域が3キロ・5キロ・10キロ・20キロと、状況が分からないまま徐々に拡大し、不安な気持ちが広がっていった。
 みぞれが降る寒い天候の中、南相馬市でも避難説明会が開かれ、翌朝に避難するかしないかの決断を、その場で求められた。周囲には避難を決断した人もいたが、薬が入手できるのか、どんな避難所に行くのか、わからない事ばかりの中、視覚障害者の自分たちは、40年以上住み慣れた土地を選択した。

  2.食料、薬が欠乏する生活
 3週間もすると買い置きの食料が尽きようとしてきた。救援物資は、道路が遮断され、ドライバーが放射能を恐れたため、ほとんど地域に届かなかった。その時、仙台の息子が自転車で60キロを5時間かけて、物資(食料等)を運んでくれ救われた。
 その後、物資が町に届くようになり配給が始まったが、原発の影響で、エアコンも換気扇も使えず自宅の窓を閉めきっていたため、配給についての防災無線が聞こえなかった。配給について知ることができても、タクシーはなく、誰かにお願いをして車で取りに行ってもらわなければならなかったため、2ヶ月間の配給期間を通じて、4-5回しか受け取ることが出来なかった。
 多くの人たちが避難してしまったため、5月の連休までは、銀行・病院・郵便局等も機能しなくなってしまった。妻の糖尿病の薬をもらうために、親戚に車でとなりの相馬市の病院まで送り迎えをしてもらった。
 行政へ何度電話しても繋がらず、行政が訪問し、説明やアドバイスをしてくれることもなく、わずかに自衛隊の人が様子を聞きに来てくれただけであった。
仕事はマッサージをしているが、3月〜4月は多くの人が避難したためお客はほとんど無く、生活保護を受けることも考えた。

  3.今振り返って思うこと
 半年経った今、お客も徐々にも戻ってきているが、収入は原発事故前のようやく半分程度で、生活は苦しい状況が続いている。
 普段から近所付き合いもしていたが、今回の震災で避難し、残った人も皆な自分の事で精一杯だったように思われ、視覚障害者の自分達は、孤立してしまった。
 町の状況が大きく変わり、問題がこれほど長期化するとは、当初は考えていなかったため、今でも自宅に残って正しかったのか、誤りだったのか分からない。
 仙台に住む息子が、数年後に南相馬市に戻ってきて、仕事を開業(柔整士)しようと考えてくれていることが、今の希望となっている。


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  ◇大和田 さん 40代 女性 身体障害(上肢) 子ども3人 発達障害あり

  1.震災と原発事故発生にともなう決断

 長女の中学卒業式の日、長女の友人の家を卒業祝いで訪問していた時に地震が起きた。帰宅すると、窓は全開で、家具は散乱していた。
 次女は小学校に通っており、三女はデイサービスを利用していたため、無事だった。長女の友達には、家族全員が津波にあって死亡した家族もあった。自分も、普段通っている海岸沿いのお風呂に行っていたら死んでいた。
 原発事故が起きた後、3月17日避難の災害説明会を聞きに行くが、体育館での避難所生活は、集団生活に適応できず強いストレスを受ける子どもの状態を考えて難しいと思い、自宅での生活を選んだ。

  2.追い込まれたその後の生活
 多くの人が避難したため、南相馬市の人口7万人が1万人まで減少した。放射線を恐れ、トラックも町に入ってこなくなり、食料・ガソリンが底をついて、餓死しそうになった。配給は、社協、小学校や道の駅で行われたが、子どもたちを自宅で待たせ、何時間も列にならんだ。当初配給は少なく、長女が一日一個の配給のおにぎりを、お腹をすかしている妹に分け与えていた。そんな状況を救ってくれたのは、親戚や友人、ボランティアが届けてくれた食料や物資だった。
 病院が機能しなくなり、薬が無くなってしまうと不安が出て、1日の薬の量を半分にして、長期間服薬が途切れないように調整した。
 屋内退避から、4月中旬に避難準備区域に変更され、徐々に住民が戻ってき、ようやく孤独や食料不安から解放されることができた。
 現在は南相馬市以外の学校が再開したことから、5時半に起き弁当を作り、電車が運転してないため6時半に高校に通学する長女を最寄りのバス停へ送り、7時に次女を隣町の小学校まで送り、9時半に三女をデイサービスへ送るという生活を送っている。
自分も、福島市の専門病院の診療が再開したため、子供たちがいない間に、週一回福島市へ通院する忙しい生活を送っている。

  3.被ばくの不安
 子供が5分間でも安心して遊べるように、自宅の周りを除染するために、三輪車を何度も洗浄したり、草むしりをしていている。夏休みには、次女、三女に屋外でのびのびと遊べるよう、大阪のボランティア団体がキャンプに招待してくれた。内部被ばくの検査のため、ホールボディ検査や尿検査を始めている。これらの検査を定期的に数十年続けなければならず、県外に避難する事よりも、住み慣れた自宅に留まる事を選択したことで、子どもたちに体内・外被ばくをさせた事についてお詫びのしようがない。
 食べ物について、自分は福島産のモノを食べても良いが、安全の基準や情報がわからず、子どもには県外のモノを与えたいと思っている。行政は、混乱をさけるために、正しい情報を迅速に流してくれなかったことが悲しい。

  4.今振り返って思うこと
 福祉の人・ボランティアの人に物資を助けられ、精神的にも救われた。支援活動をぜひ続けてほしいと願っている。自分も時間がない中でも、看護師として仮設住宅でボランティアをやりたい。長女もお母さんのように看護師になりたいと言ってくれている。
 原発は日常あたり前のことがあたり前でなくなる。たくさん取材を受け、良いことも悪いこともあったが、自分が感じた震災の現実を伝える事が大切だと思っている。
 震災の思いを色あせないように、3月11日のドライフラワーを今でも飾っている。


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  ■■■【障害のある人への支援関係者からの声】■■■
  ◇「障がい者の命と安心」
  NPO法人さぽーとセンターぴあ ぴーなつつ 所長 郡信子 

 あの3月11日から、こよなく愛する南相馬市の海は荒れ狂い浜辺は壊滅し、田畑は作物が作れず雑草で荒れ放題、緊急時避難準備区域が解除となった今も、子どもや働き手の若い世代は姿が消えてしまったままの状態が続く地域となってしまっています。忘れられないあの「ゴーストタウン」と呼ばれた時、ここに残っていた時を思うと、非現実的な現実に、身震いのする恐怖に襲われていました。そのような中、まず救援物資として、食料とガソリンを届けていただいたこと、「これで、生きられる」という安堵感。次には、利用者さんや職員の状況が気になり、自ずと活動し始める活力となりました。代表とI職員と私と3人だけでした。家庭訪問を続ける中で、震災による初めての異常事態をずっと我慢している本人と家族の姿に限界を感じ、何とかしなくてはいけないという緊迫状況時のJDFの助けでした。「いいのかな?いいのかな?」と自問自答しながらも半年以上継続していただいています。
 当法人の利用者さんのみならず、障がいのある方々の悲惨な状態が如実になった状況の中で、市の個人情報の開示によりJDFの訪問活動が始まりました。1、139人もの訪問調査を完了し、報告書にまとめ上げたJDFの訪問活動の力にただただ敬服でした。
 障害の重い人たちを対象とした一次調査で報告されたケースの問題の深刻さ。医療の崩壊による命の危険性、食べ物が無い、お金がない、どこに避難してよいのかわからない、高齢者が障がい者のお世話をしている、利用していたサービスが途切れて使えない、家族の負担と疲弊、広報が聞こえず不安、度重なる移動によるイライラやパニック、近所がいなくなり子つり状態、死んでもいい……と。何をどうしてよいのか。一人ふたりならず、ほとんどの方が何らかの困難さを抱えている状況。今思い返しても一次調査は、戦場のようでした。
 時間の経過とともに中・軽度の障害の重さをもつ人を対象とした二次調査では、困難さに変化があり、日常を取り戻そうと、日中活動や働く場を必要とする方々が多く、また、夏休みと重なり、障害がある子供の居場所にも課題が出てきました。人としてしあわせや生きがいを感じるのは、働くことや行くところがあること、誰かと何かをやること、そんなことが必要でしょう。でも原発問題が明らかになるにつれ、生きにくさが増大する傾向が出てきたように思います。その中で、諦めないように繋がることが目標に関わってきました。
 浜辺が壊滅的と言っても、そこにいた障がい者はどこに行ったのか、お会いできない障がい者はどこでどのように生活しているのかとJDFの追求は手を緩めませんでした。最後のひとりまでという人の命と安心を確認するまで、そのような対応を終始とっていただいたことに福祉の原点を感じました。
 災害規模も例にない中、一事業所や個人でできることでなく、全国から延べ1、000人超というJDFの方々の貢献に「助けられた。救われた」という強い思いがあります。この活動なしに南相馬市の障がい者はどうなっていたのでしょう。このような大災害においては、障がいがあろうがなかろうが、困難なことは同じ、そしてその渦中の者の力には限界があるということをしみじみ味わいました。新たな課題に、まだまだ支援や関わりが必要です。トンネルの出口を抜けた気分ですが、この先どの方向に進めば明るい安心できる道か、まだまだ模索しながらも前進していきたいと思う日々です。 


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  ◇「相談支援の現場から」
  福島県障がい児者地域療育等支援事業 相双圏域 相馬方部担当 相談支援アドバイザー 四條拓哉

 東日本大震災当初は、年度替わりという事もあり安否確認と避難先での進路、地域の状況伺い、家族状況の変化(親の就労等、養育者の不在)と主に電話相談ではありましたが、多問題を抱えたご家族の相談が多い状況でした。
 地域に残られている方では、来所相談も増え、新規で来られる方も増えました。子どもも不安により行動の変化があったり、ご家族が悩まれうつ病を患ったりするかたも複数相談に来られました。安否確認も県内では治まらず、県外の避難先からの相談ということも多々ありました。地域が混乱し、支援体制も混乱した中で、県外の避難先での支援についてスムーズな対応が出来なかった記憶があります。
 当時は情報が錯綜し、自治体機能も混乱していました。一般の避難所での生活が難しいため、自力で県内外に避難したご家族が多く逆に、重度の障がいを抱えている避難のできないご家族もあり、さらに輪をかけて放射線の影響により物資が自治体に入ってこない現状でした。燃料が無い、食べ物も無い、薬も無い、情報が入ってこない・・・目の前の生活に多大な不安を抱えていました。長期にわたる避難生活も限界になり、震災から2ヶ月が経過する頃には徐々に地域に戻り始めました。避難生活で生活環境が大きく変化しストレスを抱えて地域に戻られました。
 仮設住宅なども、発達障がいや身体障がいをもつお子さん、ご家族にとっては入居が難しかったり、医療の必要な児童にとっても、身近な地域で医療が受けられない状況です。仮設住宅については、障害者数(発達障がい含めて)のデータがあったにも関わらずそれを目安として、当初から福祉的な仮設住宅へ有効活用できなかった葛藤はありました。縦割りでではなく、横の連携の重要性を改めて感じました。
 療育が必要な児童の資源として、児童デイサービス事業所も震災前には南相馬市に3ヶ所、相馬市に2ヶ所あったものが、南相馬市では、1箇所が警戒区域内、さらに1箇所が線量が高いため休止を余儀なくされました。
 現在は、児童デイサービスが南相馬市に1ヶ所、相馬市に2ヶ所、またボランティアサークルとして活動の始まった資源があります。現在は、養育する親の不安からの相談(仕事と居住など)、子どもへのそういった影響や今まで気張ってこられた支援者側のケアが必要になってきています。
 地域状況と家庭状況も大きく変化し、相談が激増したなかで相談支援専門員も被災し、相談支援体制が脆弱化した現状があります。住み慣れた状況から一変し、生活のし辛さが浮き彫りとなりました。その状況に対応できるマンパワー不足が顕著です。放射線の影響等で地域に定住される方が減少し、福祉のみならず、医療、就労、交通なども見据えた課題が地域にはあります。
 障がい福祉の相談窓口として新たな地域の仕組みづくりが必要と感じています。各相談支援事業所が少数の専門員の配置では対応できない現状でもあり、複数の相談支援事業所を統合したセンター化を図り、マンパワーの安定と相談する窓口を一本化し、ワンストップの相談しやすい地域づくり、また情報を集約するのにスムーズな体制を検討する必要があると思われます。情報共有の場、地域の仕組みづくりについて地域自立支援協議会も有効活用し、一歩一歩前進していきたいと思っています。


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  ◇「ほっと悠の震災後の状況と今」
  特定非営利活動法人ほっと悠 精神保健福祉士 工藤慎吾

 3.11の東日本大震災によって、南相馬市は20キロ圏内の警戒区域と30キロ圏内の緊急時避難準備区域と30キロ圏外と大きく分けて3つに分けられた。それによって今まで経験したことがないことばかりで、心身ともに疲弊していった。
 震災後、南相馬市の人口が半分以下になり、今も子供たちや若者たちが県内外に避難している状況である。病院や作業所等も人手が少ない中でも再開をしているが、以前のようにはできないことが多い。また、そのような状況でも作業所に通う利用者たちはどんどん増えてきている。そんな中、JDFの方々が南相馬市に応援に来ていただき、事業所の支援に携わってくれた。神奈川、京都、兵庫、和歌山など遠方から現地支援に来てくれて大変お世話になった。みんないい人たちばかりで、利用者たちも大変喜んでいたのを思い出す。
 週替わりで支援員が代わってしまうため、みんなが慣れたころに支援が終了となってしまうことがあり、とても残念な気持ちだった。しかし、いろんな支援員の方々と知り合いになることができ、このご縁で先日は横浜から支援に来ていただいた方の事業所に足を運ぶことも出来た。
 ほっと悠は、震災後事業所を休止しなければならない状況となった。地震や津波の影響はほとんどなかったが、原発事故の影響で一部警戒区域となり、また屋内退避の指示が出たため外での作業が制限された。避難する人たちも多く、家庭の事情等で南相馬市に帰ってくる人がほとんどいなかった。徐々に利用者たちが戻り始めてくる一方、スタッフたちは戻れない人たちが多く、事業所再開はほぼ不可能に近かった。しかし、利用者一人ひとりの安否確認をしていくうちに事業所再開を望む声が多かったため、5月10日にほっと悠を居場所として再開した。開所したときは15名弱の利用者が来所した。
 再開後も徐々に利用者が増え始め、以前のように働きたいという想いの利用者が多かった。その当時は南相馬市内の事業所では鹿島区は通常通り機能していたが、原町区では再開している事業所は1〜2か所のみだった。緊急時避難準備区域であることから事業所再開することに賛否両論あったが、利用者の居場所がないことが課題としてあった。利用者たちは行くところがないため自宅で閉じこもり、一日中家の中で過ごしていた。そのような状況が続くことに違和感を感じたこと、そして震災前のように戻ってみんなが楽しくすごせるような街にしていきたいという希望があったので事業所再開をすることに決めた。
 現在はほっと悠を利用する人は30名を越え仕事も徐々に増えてきた。震災前とは違ってスタッフがいろんな業務を兼務しながら対応している。新たなスタッフも懸命に頑張っているが、慣れない仕事に四苦八苦してなんとか維持できている状況である。利用者たちの顔つきも変わり始め、自分から率先して仕事に取り組もうとする意欲が出てきた。自分が与えられている仕事にやりがいを感じるようになり、さらに利用者同士の結束が生まれ、人に喜ばれるような仕事をしていきたいと思って仕事をしている。これからも出来ることから少しずつ取り組んで、地域の人たちに喜ばれるほっと悠にしていきたいと願う。


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  ■■■【全国から支援の入っていただいた方からの声】■■■

  加藤美砂緒 ( 兵庫 かがやき神戸 ) 
 福島入りしたのは5月中旬、地震から3ヶ月経った初夏の始まりの頃であった。町に着いてまず感じた事は「ここは(南相馬)なんて住みやすいところだったのだろう」ということだった。田や畑、山の緑が豊で、生活の為の医療や買物の施設もほどよくある。住居は大きく日当たりが良い。また、どの家にも雨戸がないことをみると、この地域の治安の良さと穏やかな気候がうかがい知れた。
 この頃のJDFは、第一次訪問調査(障害程度の重度の方々を対象とした訪問)を終え、第一次調査(中〜軽度の方々)と、第一次調査でお会いできなかった方々への訪問を開始していた。大地震から3ヶ月が過ぎ、住民は避難所から自宅へ戻りつつあった。この訪問において、私たちがしっかりと聞き取ろうとした点は三つ、@避難したか否か、しなかったのなら、その理由は何か、A避難された方々においては、避難所の生活はどうであったか、B何ゆえに避難所から自宅へ戻ろうと決めたのか。ほとんどの方から返ってきた応えは、異口同音に「避難所生活はできない」という言葉であった。避難所にはベッドがない、障害者用トイレがない、スロープがない。避難所では障害ゆえの要求をわがままとみなされる。周りの人からは「こんな非常時なのだからそれぐらい我慢しろ」。だから、放射能の事はとても心配だが自宅へ帰ってきたと言われる。
 障害者自立支援方では生きていくための支援がサービスであると解釈された。このことと、避難所での障害者に対する見方はとても似ている。目に見えない放射能がとても危険なように、障害に対する人々の偏見もとても怖いと感じた。原発事故をきっかけに放射能の専門家がその怖さを訴え始めた。私たちにとっても今が、この調査から知りえた貴重な災害時の障害者の実態を、福祉の専門家として世間に訴えるチャンスであると感じた。

  吉田貴子 ( 神奈川 花みずき )
  ◎南相馬市での調査活動、支援に関わって。
   私は9月11日から19日までの一週間のボランティア活動を行いました。ちょうど、震災が発生してから半年が経ったときで、南相馬の街はだいぶ改善されているのではないかと思いながらやってきました。しかし、市内にはまだまだ倒壊した家屋や、陸にあがったままの舟が点在しており、驚きました。
 月曜日から3日間は現場支援のお手伝いをしました。何をして良いかわからず様子を見ている事しかできない私にメンバーさんも職員さんも暖かく接してくれ、その笑顔のおかげで少し緊張が和らぎました。もっともっと時間があればという思いで現場支援が終わってしまいました。木曜日からは訪問調査を行い、実際にそこで生活している方たちと出会い、話をする事ができ、みんなが今抱える、多くの不安や、困っていること、震災の時の状況や今の生活状況に直接触れる事ができました。病院が少なく、現時点での医療の限界、目に見えない放射能への恐怖や、なかなか復興しない街への不安などを抱えながらも、それでも南相馬で仕事がしたいと話していた方が多く、みんなこの街が大好きなのだと思い、一日も早く今までと同じような生活が出来る様になることをただ祈る事しかできませんでした。また、鹿島のほうは津波の被害が激しく、住所を訪ねても家はなく、車のナビの指し示す場所には道もなく、ここに沢山の家があったのかと思うと、言葉も出ず、胸が詰まりました。
 たった一週間の活動はこれからの長い道のりから考えたら、とても些細なことかも知れません。でも小さな力の積み重ねが大きな力になることを感じる事が出来ました。南相馬で私が見たこと、感じた事を一人でも多くの人に伝え、もっともっと大きな力となるように、そして、横浜に戻っても被災地が一日でも早く復興できるように活動を続けたいと思っています。

  牛嶌輝彦 ( 長崎 ドリームパーク ) 
  ◎南相馬での支援活動にかかわって
 今回の支援活動を通し、現地に実際に足を運んで見ないとわからない事がたくさんあるということを、心から実感する事ができました。8月の夏休みの期間中なのに、まだ緊急時避難地域という事もあり、子どもたちの姿がほとんど見られないということにとても衝撃を受けました。子どもを持つ親の立場として、自分ならどうしたのかという事も考えました。そのような環境の中、「ぴーなっつ」が事業をいち早く再開し、障害のある人はもちろん、そこで生活する人たちの心の拠り所になったことは間違いありません。ここに集まってくる障害のある人たちや、その人たちを少ない人数で懸命に支援する職員の皆さん方に、こちらが逆に勇気と力をいただいたように思います。このことを1人でも多くの人に現地に足を運んでもらって感じてもらえたらと思います。
 66年前の8月9日、長崎には原子爆弾が投下され、たくさんの人が亡くなり、多くの人が今でも苦しんでいます。長崎に住む私たちは、この長崎が最後の被爆地となることを願い続けてきました。最後の被爆地であったはずの長崎から、新たな被爆地となった福島に支援活動に入ることになった現状に、長崎県民としてとても悔しく思います。今、長崎で生活している私が、一瞬にしてその前後ですべてが変わってしまったこの現実のすべてを理解する事は難しいのかもしれません。しかし、ここでの経験をもとに、いつもと変わらない風景やそこで生活する人たちの笑顔がいかに素晴らしいものか、そしてその素晴らしい風景と笑顔が一日でも早く戻るよう、いろいろな場所で訴え続けていきたいと思います。本当にありがとうございました。

  引野充朗 ( 京都 みやづ作業所 )
  ◎支援活動を通して感じたこと
1番印象に残ったのは、現地でお世話になった事業所で働いている職員の方々の温かさやバイタリティー、そしてなにより素敵な笑顔です。支援に行ったはずの私たちが逆に元気をいただきました。日々の生活や職場の中でも見習わないといけないと思いました。
 活動内容は南相馬市に住む中軽度の障がい者の、緊急的避難時における要支援者の調査です。殆どの方は地震による原発事故、放射能汚染のため避難されていて、生活感があまり感じられない状況でしたが、数人の方にお会いし話を聞く事ができました。障がいがあるため、ご本人や家族の方々も避難できなかったり、様々な情報が得られずストレスから体調を崩されたり、仕事も失い経済的にも生活が困難な状況である事が肌で感じられました。
 聴覚障がいの方の家を訪問した時の話です。地震発生時、停電でテレビやFAXが使えず、携帯のメールも通じない状況で情報が入って来ず、本当に不安な状態で過ごされたと涙ながらに話してくださいました。自分がその方の状況になったらと考えるだけで、とてつもない不安や恐怖を感じました。そんな中、訪問活動を通して話を聞いてもらえたこと、支援センターや「でいさぽーとぴーなっつ」の事を知り、情報をいただけたこと、相談に乗っていただける場所があることがわかり、人とのつながりを持てたことで、不安な気持ちが和らいだとお聞きし、私たちの支援活動が少しでも役に立ち、意義あるものだったと感じる事ができました。
 また、各地から支援に来ている方々と力を合わせ支援活動を取り組み、とても良い交流もでき、貴重な体験をさせていただき、たくさんのことを学ぶことができました。
 支援はこれからもまだまだ必要です。私たちみんなつながりを持って力を合わせて復興に協力していく事が大切だと思います。
 さらに、原発事故や放射能汚染が改善され、安心で安全な街になり、避難した人たちが戻って生活してほしいと強く思いました。


*作成:青木 千帆子
UP: 20111113 REV: 更新した日を全て
全文掲載  ◇災害と障害者・病者:東日本大震災 被災地障がい者支援センターふくしま 

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