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「たんに生きることだけをまずは肯定する社会へ」


野崎 泰伸 2011/11/24
障害学研究会・第6回研究会報告 於:立命館大学


■事前配付資料(レジュメ)

1.本書の目的と構成

 拙著『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』は、「障害者が生きる」ということに定位しながら、そこから普遍的な社会原理の探求を行ったものである。そこにはもちろん言うまでもなく、何らかの障害がある人が、障害があることだけ――医学モデル的にはその障害が「重度」であればあるほど――で現在の社会においては生きづらい状態に捨て置かれているという事実に対する憤りがある。そして、こうした「生きづらい状態に捨て置かれている」生は、障害者だけではない。本書は、ひとまずは障害者に焦点をしぼって議論を進めるが、同様なことは、障害者と同じく生を蹂躙されている存在に対しても言えるはずである。従って本書は、障害者問題を特殊な問題である――無論、個別に解決すべき問題は山ほどあり、本書でも触れることになるが――と考えず、むしろ障害者の問題を考えることによって、そこから照射される社会の正しさの問題を考えようとするのが、本書の目的である。
 そのため、まずは障害学、とりわけ日本の障害者運動の軌跡をたどりながら、医学モデルと社会モデルとの相違、優生思想への対峙について述べられる。次に、生きていくためには財が必要であるが、働くことができない障害者にとっては、労働の対価の賃金によって暮らすことを前提とする社会において生きることは不可能である。これについて現代倫理学は、功利主義やリベラリズムなど、さまざまに分配的正義について論じてきた。それらの議論は障害者が生きることを肯定しているのかについて検討した。次いで、現代倫理学においてもっとも卓越した議論を展開しているように思われるセンの議論を紹介しその議論を考察した。そして、現代の福祉哲学や社会政策においてホットな話題を提供しているベーシック・インカムという仕掛けについて、その仕掛けで最重度の障害者が生きていけるのかどうかについて検討した。さらに、現代の生命倫理学において障害者の生を結果的に否定するような議論を展開しているシンガーの議論について、動物解放の論拠が障害者差別を生じさせてしまっていること、そして、「グローバルな倫理」をシンガーが提起するときに陥っている罠があることを指摘した。その結果、シンガーらが拠って立つ倫理学には根本的な欠陥があることを示し、別の観点から社会の正しさは考えられなければならないということを本書は主張している。

2.障害学について

 障害から社会の基本的な原理や規範を考えていこうとする場合、どうしても障害学の知見が欠かせない。本書は、長瀬修による説明を引用したあと、次のように叙述する。

 「つまり、障害学とは、多くの障害者が考えるような発想、すなわち障害はなおしたり、克服すべきものだという視点を基本的にはもたない。そうした視点は、障害を「異常なもの」と考える発想であり、この社会で生活したければ、健常者のように「正常」になるように努力しなさい、という結論を導きやすい。なぜならば、この社会が健常者中心で回っているからである。これに対して、障害学の視点とは、まず「この社会で障害者が〈人間らしく〉生きていくためには、(障害者のほうではなく)社会はどのようにあるべきか」を考えるのである」(p.19)

 それに続いて、本書では医学モデルに対置される社会モデルが主張されることになる。本書における医学モデルと社会モデルとの有意な差は、障害者の(障害があることに起因する)〈生きづらさ〉を解消する責任主体の問題にあると考えており(p.26)、この点については立岩真也による理解と同じである。また、身体に付着する〈生きづらさ〉という点において類似する論理展開として、フェミニズムの潮流を引き合いに出している。
 本書は、日本の障害者本人による運動の特徴を、かならずしも「障害者本人が訴えたこと」とせず、その論理構成にあるとしている。彼らは障害者解放を「障害からの解放ではなく、(障害によってこうむる)差別からの解放」であると考えた、とした(p.37)。そして、その転換こそが、「「医学モデルから社会モデルへ」というパラダイムシフト」(p.37)と合致していると主張する。さらに、そうした主張は、健常者社会における生命の価値序列――障害があるなら生きるに値しないとする価値観――をも厳しく問うものであった。そうした優生思想は、過去のものとは言えず、現在を生きる私たちにも潜んでいるのではないか、と本書は指摘する。そのほか、障害者予防論と現存する障害者に対する福祉の充実とは両立するかというダブルスタンダード問題、反戦平和思想や反原発運動のなかに現れる優生思想の問題も扱われている。リベラル優生学とエンハンスメントの問題については、問題の所在について示しているだけで、この問題をいかに考えるかについては今後の課題となっている。

3.障害者と分配的正義

 社会政策や社会保障制度について考える際、「何をどこから徴収し、どこへ強制的に移転させるか」という分配の基本的な原理に関する考察を避けては通れない。生きることが否定されないとするならば、働いて賃金を得ることができない/をしない人の生をどのように保障するのか、これは障害者問題を考える上で焦点のひとつとなる。
 本書では、現代倫理学が問題にしてきた自由や平等という概念を整理し、それらは果たして障害者が生きることを肯定するのかという視点から議論を展開する。最初に、功利主義とリベラリズムが取り上げられる。功利主義については、ベンサム、J.S.ミル、R.M.ヘアの思想についてそれぞれ紹介しているが(注1)、それらについての批判は第3章のP.シンガー論に譲り、ここでは「功利主義が効用という行為の帰結のひとつの要素のみに注目するあまり、社会的な分かち合い、すなわち公正(fairness)という視点が欠けている」(p.75)というよくある批判だけで終わっている。リベラリズムの論者としては、J.ロールズを中心に紹介した。そして、ロールズの理論については、「個人同士が理性的な合意に基づいてなされる社会契約を正しいとするならば、やはりそこでは合意することができる理性をもつ個人を前提にすることになってしまう」(p.79)と批判している。つまり、最初の入り口で不正義があったとしても、その内部での正しさの議論に終始する限り――そのような議論も必要であるが――、入り口におけるメンバーシップの画定に関する正義については問えない構造になっているということである。
 ロールズのリベラリズムを大きく修正した理論を提唱した人として、A.センを紹介し、ケイパビリティ論、開発経済学における功績、共同体主義批判、数理経済学におけるアローの不可能性定理をめぐる議論を取り上げた。センの議論には、「人間存在には差異や多様性が存在する」というしごく当たり前のことが前提とされているがゆえに、センがそれほど間違ったことを主張していると私は思わない。ただやはり、センが民主主義や権利が大切だというときに、その理由がもうひとつクリアに述べられているとは私は思わなかった。それについては形而上学的議論が必要ではないかと考え、J.デリダの正義論を敷衍しつつ、あとで論じている。
 近年注目を集めるベーシック・インカムについても本書では言及している。本書が問題にするのは次の点である。すなわち、ベーシック・インカムが謳う無条件一律給付は、受給する者のニーズに即したものとは言えない、だから私は、ニーズを測ったうえでそれに即して支給する社会政策がより望ましいものである、そのように述べた。ここで危惧されるのが、生活保護が行うミーンズテストのように、ニーズテストが受給者のスティグマを醸成する可能性である。しかし、ニーズテストをスティグマ化してしまう社会のほうがそもそもおかしいのであって、そのような社会は間違っているということを主張した。

4.倫理の問い方(1)――シンガー批判の射程

 先ほども書いたが、本書の目玉のひとつが、P.シンガー批判である。シンガーの倫理学は、師であるヘアを継承し、二層理論による選好功利主義に拠って立つものである。シンガーによれば、選好を表明できるということが、倫理的な配慮を受ける権利を有するメンバーの資格なのである。「要するに、シンガーの倫理学が目指すものとは、(中略)選好や利害関心を倫理的な中核概念とした意識中心主義へと転換することなのである」(p.126)。こうして、意識を中心としたシンガーの「倫理的に配慮すべき序列」が形成される。本書では、そのようなシンガーの倫理学に対し、適応的選好の問題と、選好形成と選好を形成できる主体が倫理的主体になるということとはまた別のことであるという問題をまず指摘した。次いで、シンガーが意識による序列を用いた規範によって「標準」を形成しようとするとき、そうした「標準」の設定もまた恣意的であり、それは「標準」とみなされる者によって形成されてきたことを、フーコーを援用しながら指摘している。
 次に、シンガーが示すグローバリゼーション論を検討している。そこで問われているのは、シンガーが倫理というものをいかに考えているのかについてである。「シンガーは喫緊の事態に何らかの指針を出すものが倫理であると考えている」(p.146)。そして、私たちの多くがともすればそのように考えたくもなるだろう。しかしこの種の「救命ボート問題」は真の倫理問題ではない。喫緊の事態であれば、何を選んでも、選んだように見えても、それは制限された状況においての最善に思える行為にすぎないだろう。本書は、「救命ボート問題」は真の倫理問題ではなく、誰かを救命ボート問題と同じ構図に追いやり、生きづらくさせていることこそが真に倫理学が考えるべき問いであると主張する。こうして、英米圏で主流の倫理学の問いの立て方とは別様の問いの立て方、倫理に関する考え方を提唱するに至る。

5.倫理の問い方(2)――他者と正義の倫理

 本書は、現代倫理学の倫理の問い方――とりわけロールズとシンガー――に照準を合わせ、彼らの議論の前提にある「ある成員資格のもとでのメンバーのなかだけで、その成員の行為の善悪やその成員たちだけに当てはまるような社会原理――とりわけ、喫緊の状態における「究極の選択」としての行為の善悪――を問うことこそが、倫理について考えるということである」とする暗黙の了解をあぶり出し、それを批判した。それでは、そうではない倫理を考える筋道は、いかにして可能なのか。
 そもそも私たちの世界は、事実として「ある条件のもとにある存在だけが生きている」ことはない。私たちは、ときとして私たちが了解することのなかった何者かに出会う。そして、そのことが私たちの世界をよくも悪くも開いてくれる。私たちはそのように世界を感受し、経験してきたはずだ。このことは、成員と成員外とを決定づける境界線が、その境界内に入るであろう存在によって恣意的に引かれるということを意味する。そうした境界線に正当性はない。しかしながら、現実的に、私たちは法という境界線を引かねばならず、またそれは、境界内部の存在が生きていくために必要とされるものでもある。だとしても、そこからこぼれ落ちる者は必ず存在する。法を決定するということのアポリアは、ここに存在する。
 本書では、J.デリダの正義論を援用しながら、こうしたアポリアに向き合っていこうとする。そのために、法の外に捨て置かれた存在をも歓待すること、そのような生を無条件かつ無根拠に肯定するということが提唱される。そしてそれが正義だと主張するのである。こうした構想こそが、法による分断によって生成される権力の非対称性に抗うことのできる正義の姿であると論じている。「生の無条件の肯定」こそが、正義なのである。



注1 この取り上げ方や順番に疑問を抱く方もおられるであろう。本書はもともと、学生の講義用に作られたレジュメをもとにしており、そこではヘアはシンガーの直前に紹介していた。単行本化に当たり、編集段階においてこの場所で3人の思想を紹介することにした。(→Back

■cf.

◆ 哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学
◆ Sen, Amartya K. (アマルティア・セン)
◆ Rawls, John (ジョン・ロールズ)
◆ Singer, Peter (ピーター・シンガー)
◆ Derrida, Jacques (ジャック・デリダ)



UP:20111106 
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