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2011/10/01


話するんだけども、僕は、何でこの死刑の問題と精神障害の問題が切り離せないかと思っているかと説明すると。はい。精神会が死刑をできる、執行をできる状態に死刑囚がなるかをどうかを精神医学的な状態な健康チェックをするんですよね。執行する前に。なんでそんなに健康状態良いんですかね。皆さんは?心身喪失するときは、皆、健康状態良くなったり、入院する時はいきなり悪くなったりという、精神会の匙加減で、被害を受けているっていう意味では、僕は、そんなに大きい差はないんじゃないかというふうには考えているんです。それだけです。それだけでねぇ、うちは皆、そんな今日つぶやいたら。そのあなたの生まれたことを文書に書けばいい。分かりました。僕のじゃあ考え・・・・。すいません。突然。いえいえ。政夫さん政夫さん政夫さんここでおいでなさい。いい。先生もご飯ちゃんと食べてるの?えぇ、食べながら。
あ、ありがとうございます。ワーワーワー。
O:ありがとうございます。あのねぇ、政夫さん★にとってねぇ何も面白くないの。面白くない人ってねぇ。がんしゃさん▲は何処にいるのかな?今はちょっと下の方に僕のことで連絡しに行ってくれているんで。じゃぁちょっと待ってみましょうね。大丈夫です。これは手拭きです。どうぞ。これは僕のです。あれ、これは立岩先生の?そうですね。そうですね。コップありますから。
「病」者集団★、74年でしたか?
O:74年です。
74年ですよね。
はい。そもそもっていうよりもどのぐらいのこと?
O:そもそもって言うよりもなんというのかな? まず具体式でのことを言うわね。文書にはならないけど、それを聞いて下さると話が分かりやすいと思いますけども。話が分かりやすい、分かった。はい、分かりました。で、ごめんね。つまーんない人だよね。昭和の11年の生まれで。昭和11年と言うよりも私はね36歳に始めました運動を。今75ですから、36歳。約40年前です。 O:約40年前? 36歳に再発したんです。はい。その前になんというのかな24歳の時に、24、初めて精神病院に御厄介になったんです。で、それをやったけれども、すべての物を失いました。精神障害と言うことで。
その時は自分で入院したということですか?
O:私は入れられたこと一度もないです。自分で。とにかく強制力ほったら一度もないです。24歳の時は、本を読み過ぎて母親にそんな本を読んだらね頭おかしくなるよって。何を言ってるのと思ったのよね。確かにね、三ヵ月後、それは言われたの三ヵ月後にななかんめだから、今で言うと、どのぐらいですか? ななみょうじ?体▲の。あかんです。ドラキュラじゃないですよ。細く細く細くなちゃって。それで、不眠になって。自分で受診したら、すぐ入院って言われたの。入院した方がいいって言われて。それが24歳。24歳でもちろんフィアンセもありました。あら。でも、まあ、鬱状態なものですからね。精神病の私が、相手に迷惑をかけることをね、愛とは何かと考え過ぎたんだよね。愛するんだったら、愛する人を望むことを愛する人を不幸にできないから私が引くべきだと思って引いちゃったわけ。婚約をね。
 そういうのがあって。で、まあそんなのはどっちでもいいんすけどね。要するに精神病者っていうのはオールナワッシングだと思ったわけ。健康ももちろんない、仕事も休まなくてはならない、それからフィアンセとも別れなくてはならない、人間の信用もない、名誉もない、何もかもないということが私の認識だったわけです。だから36歳に発病した時に何にもない人がやることっていうのはね、病者の介護とかね、それからやっぱり自分自身や精神科医にやられた不当のことね、それを告発することしかない。
24歳から36歳の間に何回か入院をして?
O:いーえ全然していません。1回入院して出て来て。それから自分で自力で治しました。
それから自宅で?
O:自宅じゃなくて西医学▲です。ん。真理ちゃんがやっとる西医学。西医学というのは。西医学。東西南北の西。そちらの栄養して精神病院のような医者の訳の分からん所へねぇ一切近付かなかったです。だけども苦しいしね、何もかも失って自殺未遂を何回もやってますわね。
24歳の時についた診断名って何なんだったんですか。
O:心因反応なんですよ。
ん?
O:心因反応。今考えると完全分裂病。で抜き取られましたから。
抜き取られ?
O:違うの老齢感▲っていう奴。それは分かります先生は?
実感としては分かんないです。私は神経症的ではあるんだけれども。
O:違う違う。病理学的には、病理学的には分かりますか。あなた病理学的分かりますか。分かんないですかって聞くのですからね。
分かりません。
O:分かった。後で説明します。心因反応ってノイローゼなんですね。そういう思いシーン▲が私に挙げられるんですけどね。だけど、今考えると抜き取られって言うのは違う、老齢感って言うの。私が考えてること非難されてる、そういう感じなの。それが老齢感って言うの。それがあるのに死因反応▲があるの。死因反応って何でもぶちこめられるの。何だか分かるんじゃないの。
 今だったらやっぱり統合失調症って診断される状況でしょうね。まったく口聞けないって言うの。私こんなおしゃべりでしょ。おしゃべりなのね私最も無口な人だったの。私それを聞いたことない。そのぐらいの人が急にしゃべったのは精神混同の運をやる時だったのよね。それでさぁ、36歳で再発したの。その時は。24歳に、24歳にもう少し住めますよ。なにもないと自殺未遂も繰り返してね、なんか思い出しに薬飲んでいた訳ですね。そういう人が総括して毎日日記を書いて、で、もう集合▲をなにもオールナワッシングだと思ったの人間として。
 そして、ある日助けてくれたのは犬でしたわ。犬?。オールナワッシングしていたの私。その時に子供が生まれたの。ワンワンちゃんの。いるのお子さん。あっ。そしたら、おっぱいをねぇここを抑えながらギュッギュッと抑えてねえ四匹飲んでいるんじゃない。だから、私、その時に日記を覚えているけれども、命が息づいてる、自然が息づいてるまだ私は母になれるのではないか。全否定していても女は、メスは否定出来てなかったということで生き残れたの。精神科医はあんま助けてくれたんじゃないの。ワンワンちゃんが私を助けてくれたの。それは再発した後の後の後の。再発じゃないです。24歳の時に。
 24歳のときにそうやって、そういうことがあって初めて。私は生きてはいけないと。メスとはいうことは否定できないからね。メスが残っているんだわ。オスではなくてね。だから、犬が教えてくれたことによって決意したの。日記はそうだったよ。自然が波打ってる命に息づいているまだ私は母になれるのだということを書いたわけ。だから、犬を見て助けてくれたの。それから決意したのね。あそこ行って図書館行って見なさいよ。丸善
にね。山ほどあるからね。
 人生の中であるの何倍か何分の1か読んでという気持ちになったの。相当決意でしょ。そういう形だったけども。本を読んでては具合悪くなるけれどね。私、一人に息づいて。よきたってない。全部本。本を読んで。んと最初はねドストエフスキーの小説なんかを読んでね発病したの。反応起こしたの。で、今度はね、ぇ小林遼『金閣寺』という精神障害者悪人だと書いてあるあれを読んで自殺未遂やったの。
 そういうことがあって私ね人間から傷ついてねぇ悩むということはねぇ別れた亭主のことぐらいしかないんです。実はいうと。全部本なんです。だけどその時は、文字がなんか文字っていうか言葉っていうか過剰に入ってくるっていうか、そういう感じなんですかね。違う。自分がコンプレックスがあって、しばらくにであっていないから▲、中学試験に出ないから。あの本を読まなきゃいけないとかコンプレックスがあるんじゃないの。物知りになりたいというわけではないの。要するに私は私らしさであることの哲学をかためたかったの。それは分かるんですけど。哲学的ななりたかったの。そうして読むじゃないですか。でも読むことによってかえって調子悪くなるっていうか。24歳の時にそういう感じになったんですよね。だから、その後何もないオールナワッシングで読むわけでしょ?読む時は選択するわよいくら何でも丸善とかワーとかによってね。そうじゃないですよね。何を読んだらいいか、決めました。で、哲学的な所では私は素朴な自分では素朴な先生では思っていますよ。
 で、それが36歳で再発してね。ワーと話をやったんですよ。精神科医の中で言ったら。精神科医が泣いちゃった。ちょっと、再発、再発、再発した時に入院したの。36歳ね今度ね。じゅうにじえん▲で入院したの。入院したの? 自殺未遂また。自分で申し出て。全部自分でやって。で、途中で先生が入院した方がいいんじゃないかって言われて。話になって。明治時代▲入院してたよ。名古屋市立大学。
名古屋市立?
O:はいはいはい。それで私は本を読むことはどういうことかって、自分の哲学が欲しかったです。生き方がね、だってオールナワッシングだからね、もういっぺん最高直線▲だなとだから本を読みましたよ。自分自身で哲学ではっきりしているんだけども。哲学というのは再発した36歳にインタビューで受けた時に精神会が泣いちゃった。やめてくれぇってあなたはねぇ自尊信哲学の否定乱を飲ませそうといることを言ってるぐらいすごい哲学者なの私。その時は。病院での話ではないですか。そうそうそう。
で、名古屋市立の時。だけどそのことは。それってだいたい36歳って言うと何年だ。40年前。昭和11年。1911年っていうのは。72年です。
72年か。72年に再入院する。74年が病者集団の結成じゃないですか。その間に2年ありますよね。その72年から74年。会う時間が。
O:はいはい分かりましたよ。精神科医が泣いちゃったりっていうことなんです。それで私は何にもないのね。やれることは病者の介護。お付き合いですね。精神会は泣いたことはどっちでもいいわ。健康状態もどっちでもいいわ。問題はねえ何もなくて自分で頃愛として裏でも哲学をぐいっとひっくり返して人の為に結婚のことも関係ないわ。人の為のことになると病院の中から介護するの。その時の話を一つ話しておきますけど、今10冊ノート送ってます。全部。日誌も作っていました。専門書も読んでいました。
 だけども、問題は、退院する時ね、彼らが大野さん出てってまで困るって皆が私を引きとめちゃったの。36人。なんでかと言うとね、大野さんが退院したら看護にいじめられるって皆泣いたんだわ。私が出てこうと思って、皆が出してくれなかったわ。そういうことがあって。入院している間にすでに仲間達を弁護するっていうかそういう今で言えば嫌いな英語で言えばアドボカシーって言うか。そんな難しいことは分からん。まあいいや。弁護するっていうか、助けるっていうか。違う。支援です。支援でね、支援っていいんですね。準備がいいんです。学校には行かなくていいんだよ学校。新しいこと、学校に行かなくていいんだ。そうだ。そうだ。てか、支援をしたの。だけども、支援をしているとか、人のためにやってあげるとか、そういう気持ちはないんですよ。
 そこで一番象徴的なのは医者のあまりのひどさに私、保護室を占拠したんです★。
え?
O:保護室を占拠したの。
読んだことがあるそういえば。具体的にどういうことなんですか、保護室を占拠した、保護室に閉じ込められたということ?
O:それは後でね。今日時間がないから。またゆっくりと病者集団の彼のエッセイをあげるわ。それで、病院の中で、そうやって、医者を撃退して、患者を全部抱え込んだの。それでやって、考えてみれば、その時に始まったよということ。もう始まっていたの。もう始まっていたっていうことですよね。自分の生きがいとして、或は自分の哲学として何もやることないんだよ。私、再発したら、オールナワッシング。だったら、病者の支援をすることが自分のすることやという風に思った。私のしゃべらんことに皆育てたことだよ。皆大野ちゃん助けてって来るんだよ。
どのぐらい入院してたか覚えていらっしゃいます?
O:4ヶ月。
4ヶ月?
O:はい。1972年の10月20日からそのあくる年の2月20日まで。かぜん無視してまで処方▲しても占拠しても私ダブルやっちゃったわ。先生全然何も怒らなかったわ、私に。そうすると4ヶ月の中で。10冊。ノート代。それって後で公開したり。出来ない気持ちはない。それはない。さすがにない。私文書なってないと思う。勇気がでない。殴り書きみたいな感じ。殴り書きみたいな感じ。皆にこんな入院しててもなんか退屈だから目的なことでも何でも資料でもやりませんかと言ったの。私は文学のことでやるっていうことで、詩を作りましょうと言って。塀の中で。詩の講座の理解者だと思って私作っちゃったの。詩まで作ったんですよ私。だから詩を作ってたの。先生が見てねこれあんたの詩かい。そうですよと言ったら。どのぐらいの時間で作ったんだ。これは30分ですね。そのぐらい頭きれました。今はねえ。そういうのがあって。皆で詩を作ったりとかまあなんか。看護にいじめられたら物が無くなったら全部大野ちゃーんなんですわ。
その時って72年じゃないですか。精神医療のナット▲で学会改革が始まった時期じゃないですか。
そうなんです。69年ですから。そうなんですよね。金沢学会が69年ですよね。
その時の名古屋市大ってのはどんな感じなんですか? 精神科病棟って?
O:どう言ったらいいのかな? 木村敏★がその時が教授か。助教授が誰だったのかな? 大橋とか言ってたかな。大橋先生。教授が、んで助教授が木村敏。木村敏が助教授。木村敏は或は医療の公序書いてるけれども、非常に家族やってる私たちを傷づけているの。それで抗議してね。あんたのために263頁▲胃が痛むんですよ。それは後の話でしょ。出て来てから。まぁいいや出て来てからの話でしょ。その時のね名古屋市大の、奈良時代の。明治時代ね。
連中っていうのは、東京だったら、例えば東大だったら東大で赤レンガ病棟の占拠していたりもうしていた時期じゃないですか。京大なら京大でいろいろあったわけじゃないですか。その時の名古屋ってどんな感じだったんですか。
O:名古屋で愛保連っていうのがあったんです。これは保安処分に関係してくるよね。「愛知県保安処分連絡会議」っていうのがあって、その中のキャップが精神科医だったの。O:山口君、山口利之君★って言うのね。
字、覚えていますか。
O:知っていますわよ。思いのほか、自由。あのー記録録ってあるので。愛保連のニュースも。あります。補導されてちょっと。利益の利で、利之君。すぐそこでやっているわよ。今の会議を。しんやさん★とかまだ愛保連の人達死んいない人達がいるので。死んでいない人。
★山口利之 1974 「精神外科について」,『精神医療』3(4):28-34 特集:精神外科の実態
http://nttbj.itp.ne.jp/0522626161/index.html
 知らなかったの、その時はね。だけど、その明治時代▲に山口利之先生という人と会って、愛保連を作り出したの。それと私が合体してんだね。一緒に住み着いているし、保安処分の始まりがそこなんですよ。
入院していた時?入院していた後?
O:知らない、知らない。入院していた時に知らんかった。入院していた時に医者連中が騒いでいるという話全然分からなかった。要するに。知ったわよ。病院の中で。私はものすごく医者に不満を持っていた。これは自分が悪化させられているからよく分かっているんだけれど。それについて我慢ならなかったの。オールナワッシングで。
 ある新聞見とったら、新聞に石川清★という人が台〔弘〕★の実験のことを告発したのをちょっこと載ったんだんわ、名古屋で。石川清という名前は覚えたのね。こんなひどいことをやっている精神病院のことをいっぺん精神科医に言ったろかなと思って東京まで行ったのよ。入院して退院した後ね。入院退院した後、なんか新聞でとにかく石川清が台を糾弾したということを新聞で見たの。
知ったわけですね。石川に会いに行ったのね。
O:会いに行ったの。ふじびゅう▲病院だったのね石川先生。
 そうしたら石川先生自身がね白★だったの。私診断相談できるから。石川先生ってそんな感じの人。うん、白だわ。相手が主治医に言ったの。東京に行って石川先生に会って来て台のことを聞きに行ったけど。台のこと聞きに行ったけど、あの人統合失調症、分裂病だわねと言ったのね。俺は普通だと思うと主治医が言ったから、違うって言ってきたの、あんた診断間違ってると、統合失調症だと言ったのね。その時は論争にならなかったけど、統合失調症なの私から見ると。ああいう普通のタイプがいないから。
石川先生って面白いんですよ。ちょっと前まではかなり旧体制というか、台の前の大の教授というか、退官記念論文集みたいなのを編集とかしていてその翼賛的な物なんですよ。それがガラッと。
O:それは金沢学会からだわ。
そうなんだけど。その変わり方っていうのは、なんていうかな平凡じゃないなんていうのかな、どっかこう。
O:それはあなたの売れない▲雰囲気だからだよ。点にっている▲感じのそれはうけますよね。雰囲気としては。それは会いに行った話をして下さい。台さんのことは台さんのことを聞きに行って下さい。
 それは深夜に行ったんだわ。そしたらねあんた名古屋の人かね。はいって言ったらね。僕はね吉良幸之助の家老の末裔だって、石川さんが。あんた名古屋までその話ばかりでね、何も聞いてくれないんだもん。ほんであんたねここまで来たんだけれども、三重県のかたちあい▲病院に山口先生★とおっしゃって言っていたのかな。その院長。三重県のかたちあい病院に。三重県の県立病院です。そこに山なんとか★という先生が居るからその人に相談してみなさいと言ったの。私そこへ電話かけたらその方が今度は名古屋の東海学会か名古屋学会という、東海学会、精神学会の東海学会があるからその会場に来てみませんかと言われたの。
精神神経学会ですよね。
O:そうです。そこへ行ったのね私。いろんな勘定をやりながらそれが74年ですよね。そうです。あ、74年じゃないか。72年、3年。3年。73年か。それが病地学会★の名古屋学会だったの。病地学会の東海学会、名古屋学会。名古屋学会が73年ですか。その先生もいらして、で、私も呼ばれたの。
 そしたら敵とする医者が山ほどいっぱいいるわけでしょ。そんで私自身はこういう状態だけどどうなって占拠をしたか誰も答えないのね。だけどものすごく説得力あったんだって。自分でも記憶ないけど、びっくりしたの皆が。あれは一度じゃないと言っていたけどね。で、がーんと言ってその時のお医者さん達の反応って。答えれん、全然答えれん、沈黙って感じですか。沈黙じゃない。答えれんことを聞いてる。なんかこう誰かなんか言われました。言われたの、学会員になってくだだったの。そこで私ができたのは明確にすると患者運動と医学会の設定が出来たということです。
 私は会員になりたくなかったけど、なんでならなきゃいけないの思ったけども、虎穴に入らずんば虎子を得ずことあるから、あいつらのやっている裏っていう感じですよね。入った。入った。
でもまあ言ってみればそん時は大野さん1人ですよね?
O:うん。1人だね。仲間で集団で運動しているわけじゃないですよね。集団で運動している的感じじゃないですよね。むしろお医者さんの運動の中に入ってて。入ったんだけども、入ってって。まぁ真面目じゃないわね。それで、それが「病」者集団っていういわば精神障害者だけの集団っていうもの、集団的っていうものにはまだなってはいないね。まだなっていないんですよね。その時はまだ聞いてなかったのは、それがだんだんそういうものができていくっていう。その前に聞いてもらわないといけないのは病地学会★のあれに入ったでしょ。であの二回私委員やっているんだけど、その米倉先生★なんてとてもいい先生にも出会えたけども、そこでたぶん居たのは山口利之先生だったの。山口利先生だった。愛保連の、愛保連の。利先生だと思うのね。その先生が。さっきの利之さんが。
 はいはいはい。たぶんいらしていたかも私のことは知っていらしゃったんじゃない。保護室占拠したりね学会なんかしていたりしていたから。そんなの見たことないもんね皆。それで誘われたのが愛保連だったんです。で愛保連に入って。前後しているけどね1974年っていうのは私にとって非常に印象的で、実は5月29日に法制審議会が刑法解約保安処分新設の投票した日なんですよ。はいはいはい。よろしいですか。その時にどっちが前後しているかよく分からないけれど、山口利先生が、私に東京に行かないって言って東京のお茶の水で降りてその投票▲会館がありますでしょ。うん。あそこ行ったんですよ。それで幹事が初めてしゃべりかけたんですよ、それ私という人間に、保安処分のことを。保安処分なんか何も分からんですよ私には、その時。違法と言われた時に行ったけども。
 東京行った時に行った集会っていうのは保安処分の反対の集会。「百人委員会」★主催の。だからお会いしたことないけど判事ごろう▲とか偉い森山公夫★とか何とか何とかお付き合いしていっぱいして百人委員会を作るという話だったんでしょ。で私はそんな感じで内容で幹事だったの。愛保連という所に入ってそこに連れられて75年の5月にそれが出てそれに対して。74年の5月に出たんですよね。その前だったんだと思います。だから。東京に行ったよりその前だったと思います。たぶん政府はそういうの出すだろうということで。期間の中で。百人委員会が主催した。百人委員会のその患者の1人も出てこないからね、だから私を代表幹事に入れたんだね。それから代表幹事やっているから、議論的にも研究できるし集会にも参加したし、全国出歩いたし。でなぜだか知ってる。
知っているわけじゃないですか。なんでぇー。保安処分なんて分かるわけないよ。
ちょっとは知ってる。ちょっとは。つまり各全国の八つの検察庁にあるよね。貢献。だから高松に向いたら北海道だったら札幌、広島、大阪、名古屋、東京、仙台、九州かな博多かな。そこのだけで七つで。そこのところ全部貢献があるところ。そこで意見交換会があるもんで全部出席して旗振っといていたの。
 名古屋では保安処分反対で、社会党が車を借りてそこで叫んとっていたの。罪も犯していないのに罪を犯していない人達をあのなんとかね牢獄をねその後の保安処分をね厚生省幹部唱えたらね。法務省関係だから。そんなことあるのかってねそういう馬鹿なことあるのかって言いたい放題でねバチバチ街宣やっていたの。
 で全然10年ぐらい飛びますけど、81年かな、名古屋でやった保安処分のパネル、粉砕闘争には行きました。科学▲には。行きました。行った。おった。東京から。私前日行ったんだけど。
行ったんですか。
行きました。占拠に行きました。弁護士をパアッと大野さん何をやってくれるの。ガイドじゅせん▲にも行ったじゃないですか一発。あれは香川さん★。5分ぐらいで終わっちゃったじゃないですか。
 香川さん。まあいいやその話をおいといて。話は10年ぐらい前なんで。そうですよね。そういうことがあって、その前日があったでしょ。その答えは私の。そういうことをやって保安処分に手をかけたと。保安処分に論議をかけたと。ということはここできちっと言いたいことはそこなんですわ。保安処分てどういう条文だと思います? 簡単なんですよ96条から何条か知らないけどね、古い法律で落ち着いちゃったんだけど、精神障害者で禁錮以上の刑を犯した人でなおかつ将来犯罪行為を犯す人は保安施設にぶち込みますよということなんです。そうですよね。四つぐらいなの。それは罪刑法定主義での刑ではないの。今後やるおそれがある人。やっていないんだね。やっていない人をぶち込むことが保安処分なんですよ。
僕はそこなんですよ。僕はその場合にやっていないんじゃなくて禁錮以上のことをやった後をやる可能性がやる人を。
O:違う違う。禁錮以上のその人をやって、将来のなおかつ禁錮以上の刑を犯すおそれのある人、恐れられて入れられる人。まずはいっぺんやったことなんですよね。だから実行犯だけれども将来やるかも知れないということ。やるっていうことは罪記だからおかしいでしょ方程式おかしいでしょ。そういうのおかしいでしょ。だからああいう文書で書いてるんですよ。
 そういうのがあって名古屋ではガンガン街宣やったわよ。録音しておいてね。そうすると言うたら医者やら知識人というか反体制派というかそういう運動があってその中に大野さん入ってて。入れられた。ある意味ね。でそれとさぁさっきからあれだけどその病者集団という病者の集まりっていう出来るのってちょっと距離あるじゃないですか。それは大野さん今の話大野さんの。入れてない。個人の。まだ個人だから。それが病者集団っていう集団になっていく辺りのこと、すごい興味あるんですけど。
O:そこなんです重要なのは。そこから監査が出て来るんですよね。その前にあなたに言っておきたいけど保安処分というのはそんな単純なことなんですよ。だけど法の問題としては私はそこの評論文書いたんだけど、またどっかいっちゃったんだけどね。
 評論文書いた時、法とは何かってねいかに医学で本望で法律知らんしね、何も知らない民法を知らない私がね。必死になって考えたことはねだから私は必死に考えたことはね法とは何かということだったんですよ。保安処分というよりも。法とはもともと立法意思があるんですわ。応用実態があるんですよ。違う法律解釈があるんですよ。だから初々じたがですよ、その三点を考えた時に保安処分の反対する論理が吉と見えたのと言うことなんです。立法意思って言うことは精神障害者が危険だということでしょう。立法意思さ。保安処分。危険かね。私危険だからね。それから応用解釈って言ったら今めちゃくちゃ人入れられているでしょ医療観察法。応用実態とかが解釈っていう精神障害者舐められている月以降誰も込められているってことですよ。そうでしょう。だからそのために言いたいのは運用実態ですね。運用実態というのは皆知っているわけですわ私。
 その時にああいうことを問題にしたのは青木さん★とかそういう60年代末からボツボツそういうのが精神科医達の中に出てきて、法律なんかも入って学生運動入ってやってて僕らはそれの末裔みたいな世代なんですけども、そうやって反保安処分でいくとそれに関してはもうなんていうのかなそこで出された議論に大野さんとしてはそれはそのとおりだと。反対の理由っていうか。
O:だけど私はあの人達に東大の人に教えてもらっていない。自分で書いた。自分で書いて言っていた。自分でまぁ。いくら分裂病でも考えることは言います。分かります。
まぁその結果として百人委員会が百人委員会として主張していることと大野さんが自分で考えていた結論というのはほぼ同じだったという感じ?
O:私の方が深い割と。
分かりました。
O:言っときますけどもそんな感じだったと思いますよ和解▲。そうだと思いますよ本当に。だから87年になって結局百人委員会が開催された時に他の精神科医が体制側についたんですよ。だから信用できないけれどその中でそこまでお分かりですか。保安処分はまず法律は何かと素朴なことを分からん人が考えていたわけ。だけども立法書士と法律の解釈とを使う評論文を書いた。だとしたらなんでやってもいない人をね、予防医学的ではないわ予防医学だって予防拘禁としてやらなくてはいけないの。そんな馬鹿な話はどこにもないの。医療観察法どころじゃないの。で皆は医療観察法を保安処分だと言っちゃうすぐ言っちゃう段落的に。だけど保安処分のことをじっくりと考えてみて。こういう言ったことないでしょ皆さん。
 保安処分だということはね本当にね粗末なもんだけどもね。出来たのは明治41年ですよ。前のね憲法全文憲法じゃないけどね旧憲法ね帝国憲法の中でどうのこうの清三郎★が作った保安処分というのはそういう問題なんですよ。それをすぐ保安処分、医療観察法を保安処分だと言っちゃうから皆がふぁーとしか分からなくなっちゃう。人間を無断拘禁するのは憲法違反ですよ。そういうことをきちっと分かった上で医療観察法に反対して欲しいんですよ。今で言うと若い人にね。それから今度私そこまで行ったでしょ。やっと行った。組織化する時はねまた山口先生が出て来るんだわ。違う違う。で山口先生が出て来るんじゃない。この石川先生があのかたちあい病院で私がギャーと怒鳴った時名古屋むえ大で。その時にいらして学会に誘われたし今度かたちあい病院でね大阪の患者さん達とか家族等が集まるからおいでになりませんかと誘われたわ。かたちあい病院で。ほんで行ったのね、そこで初めて大阪の仲間と会ったわけ。会ったのね。あんたも病院に行く。私も病にいるんだけど。その頃は谷口さん★とかいっぱいいらして。けっこう家族会の力があったのね。
谷さんって大阪の方なんですか。
O:いや東京の人。東京なんですね。あの人ポイする人だからね。でそこで初めてお会いしたんですよ、そこで私の方で。
何人ぐらいいらしゃったんですか、記憶あります?
O:分かんない。だいぶ。何十人っていう数。何十人っていう数。数があったけどね。主に大野さんが。だけどその頃に絶対に1つ忘れていけないのはその谷さん達が出ていらした慣例で言うと『髪の花』を書いた小林みよ子★が出てきたの。あの人音楽▲新人賞だったの。
O:小林みよ子の『髪の花』読まれた?
読んでいません。
O:ものすごくナイーブなのがお読みになった方がいいんですよ。『髪の花』★。『髪の花』。髪の毛の花。自殺しちゃったけども。あれは皆自殺させちゃったんだね。あんまり出掛けちゃったんだけどね。そういうことがあったんだけども、谷雄二さん★谷さゆりさん★達は小林みよ子さんご存じだったの。私はお会いしたことなくて本だけ読んだんだけれども新人賞でしたの。その中で集まったのは何十人ということで医者の誰なんだか患者の誰なのかあんまりよく覚えていませんわ。
★ この本書庫にあり。
 私も悩む発言してみたかったけど大阪の仲間が優しくって、あんたのふわふわということで、大阪ではしゃっべって泊まる会をやっているから来ないって言われたの。しゃっべって泊まる会。ここはね六畳二間ぐらいと。泊まるっというぐらい、泊まるとまさに泊まる。ということは考えようがあるでしょ。我々には孤独感という亀裂があるでしょ。私はこれを愛の気がかりと言ってますけどね。そういうものがあって、夜になって子供とか自殺する人出て来るわけじゃないですか時にはね。その人達の阻止とそれから生きる望みをかけたのは患者会の自ら患者の患者の闘いがないかなと医者の思惑があったの。
 それが全共闘のね、「プシ共闘」★の連中達のはかりごとだったの。それはねぇ、ものすごく優しい人達でね、それでね私名古屋から通っとったの。泊まってしゃべる会とプシ共闘とかあのあたりというのはたぶんつながっているんですよねやっぱり。つながっていますよ。
そういう泊まる場所あったんですか。
O:あったんです。どっちかと言うと医者の方が準備したの。
御膳立てして作ったという色彩あるんですかね。
O:医者が金を出して作ったの。
場所だったんですか。
O:あったんです。そこの泊まる場所。医者が準備したの。
そういう泊まる場所があったんですか。
O:そこに泊まる場所があったんです。そこに出掛けて行って、名古屋から大阪まで。食べる物なんにもなくてねそれで。
アパートみたいな所ですか。
O:アパートです。マンション。マンションは今はちょっと忘れましたけどね。出てよくしていただいてね。あんた寒いからあのね一番場所あたえていただいてね優しいんだわ。
いっぺん何人も泊まる場所なんですか?
O:泊まれんほど人が来たの。
何畳ぐらいなんですか?
O:六畳二間と四畳半ぐらい。六畳二間と四畳半。ずいぶん本当はほんま寝れんよ。みんなこうやって立っててべーとしゃべって寝るぐらい。
へぇー何人ぐらい来たんですか? 何人も来た? 10人ぐらい超えちゃう?
O:ああもちろんもちろん。一辺に10人なりって。皆をしきっていたのは石山君★なんだわ。石山君。デカちゃん★に刺された人。大阪の光愛病院の中に患者会があって「ともしび会」★というのがあるんです。それが1970年に出来た大阪の一番古い患者会と言われているんです。その人がその代表者ですわ。1970年。その人が皆見てくれたの。ただ皆こんなんじゃなかったよ。皆こうだったよ。それも優しさがあれだし皆がねボロボロになっちゃっているわけでしょ。孤独で家族の相手してもらう所しゃべる所じゃないですか。
 私がねそんなに来ると思わないからそうめんを二玉で持って行ったらね、一口も入らないわけ。一本。その頃コンビニなんかあったか分からないからね。すぐ金をだして行って来てもらおうじゃないけど来て面倒見てくれたは石山君★だったんです。それをやっているうちに中でこの医者の世話になりたくないって言ってね皆で造反してくる人達が出てきて、それで4人のグループが1つの所に泊まっていたの。自力で作った患者の宿があったの。
O:それは何?
しゃべって泊まる会と別に患者4人がそこから独立して自分達で運営する場所を作ろうと。自分達でやろうと。下にやろうと決意したわけ。
 そこでデカちゃんが状態悪くて。デカちゃんと私も仲が良かったの。デカちゃんというのは鈴木国男。その時も鈴木さんとはお知り合い。うん、しゃっべって泊まる会に来たもん。鈴木さんもそこに来ていた。私自身がその中に鈴木国男君も入っていたの。西山君と。
西山さんと鈴木さんと大野さんと。
O:私はその中に入っていない。私は名古屋にいたから。4人のメンバーがそこにいて、患者が自立しだしたのね。患者の自立。ところがそこで刃物事件があって西山さんがデカちゃんにここに刺されたの。
その時の話ですか?
O:そうです。それが。それは何、アパートみたいな一室でみたいなところで。警察がすぐ入っるからね。殺人未遂ぐらいで入ってくるからねひどい。西山さん死にかけたもんね。刃物で。それでそういうことがあって医師が全部片付けちゃったの。お金も何もかもね。アパート一挙ね。患者の借りたアパートを一挙に解体していったたわけ。一緒に闘って鈴木さん逮捕されて、西山さん病院だわね。
 私は広島公園にいとって。京都で電話かけたら、医者がえれーこと起きたぞと言うもんで、私が何ですかって聞いたらね、西山君、デカちゃんが刺したんだって言うんだね。私その時大阪より向こうだったからね。広島公園に行っとったから。私途中で降りてね、やっぱりなんか手伝わなきゃいけないと思ったけどね、まあまてよ今だったらケース▲でいっぱい持ってね、とても行ったらね病者集団難しくなるでしょ。
 私もうしゃべってもんかいと思ったし。デカちゃんのとこに行ってはね、デカちゃん私にはものすごく強かったの。姉さん姉さん姉さんと言って腹減ったら秋口に食べへいと言ってね。全部ばとったわ私。その場所というのは撤去っていうかなくなちゃった。なしになった。でやらなくてはならないというか。ことは逆に4人の会を支援をというか。出来ません。
支援をしている医者っていうのは知っていたんですか?
O:違う。医者はそういうこと知っていたけども事件を知ったでしょ。西山君の問題で。だから権力ボーイ▲を駄目に解体していちゃったんだわ。デカちゃん捕まったし。
 デカちゃんそのまま2.1事件と言うんだけどね。2.1事件のために大阪拘置所に入れられたの。彼らは17回目の便りかな今の気になることだよね。デカちゃんはその者はとんでもないことを捕まっていたわけ。決して暴力的な人ではないわけ。むしろ思想的な人だったのね。でデカちゃんのお父さんはフィリピンで戦死なさったんだけどね。そのお父さんが亡くなったということは日本人が非常にフィリピンの人達をいじめたのかな差別していじめたから負い目があってね。彼は頭の良い人だよ。それで彼がフィリピンの船が来ると謝りに行くんだよね。
 それともまた捕まってそういうことがあって17回だけど。鈴木国男君のことを1つ言っておかなきゃいけないことは赤堀闘争ができて私が全国講演しまくってね作ってきて戦う団体。その時に関東赤堀さんと共に闘う会が出来た時にその集会決議案を私と鈴木君で書きました。
それはいつ頃ですか。
O:だから1976年だね。76。76年前です。中闘委の結成、関東赤堀の結成。関東赤堀の結成ね。でデカちゃんは優しい人だから、私と一緒に東京に行ってねその介護だけじゃなくてねすごい気遣ってくれてね姉さん少し疲れるだろうからちょっと少し休んで行こうかと言ってね、東京に行ってね座らせてね、いろいろ介護してくれる人だったの。本人が2人でね若杉晋作がいたんだけどねその時にねちゅうたい小説の。あの人高杉晋吾★ね。で彼を殴ったりして彼は撤退していくんだけど。皆、デカちゃんに殴られたわ。
高杉さん殴られているんですか? そうですか。
O:殴られているわよ。でたぶんね病理的にはまだきちっとしていなくてね今の病理的にはきちっとしていないけど。
4人でそういうことがあってその場所を解体っていうかたたんだということですよね

O:私は大阪から通って帰ってくるんだけども。
その時は近付かなかったんですか。
O:近付かなかったの。
そこまでは分かりました。
O:情報分析やらなくてはいけないと思ってね。でやることは西山君の安否ね、怪我しているからそりゃぁ医者の方がやるけどね。鈴木君については救援連絡センター(たぶん)
★初めてだったんです。その時相談されてね、健常者に。で病者の方を見たの。愛知県の人だったけど。その人高校の先生だったかな。下関に行ってね。その人と私とそれと大阪の健常者で、獄中の人と接近したことないんだよね。普通の人間だからね私。どうしたらいいのかと相談されたから。とにかくあんた逮捕されとるから知っとるという明確にすればいいもんだと思ったの。あんた鈴木君が逮捕知っているよということ。手紙はねあると全然ペンネームでなんとかもいもいしたの。そうすると誰が覚えているか向こうが直感がいいから全部分かるはず。医療観察法やってやるかという感じ。
 そうやってね分かるようにしてやったらね覚醒したの。覚醒。覚醒しちゃったのデカちゃんが。糾弾状態にやっとるわけでしょ。逮捕後ね。覚醒していったの。一旦覚醒したということは知っているのね。ところが実際にデカちゃんはあの届いた時に覚醒したらしいんですけども、病状が落ち着かないもんだから、保護室に。保護房だわね刑務所、大阪拘置所だから。保護房にたたき込まれて、医者が診察したんだけども、保護房の所からこうやってちょっと覗いただけで死別(一瞥?)しただけで、精神分裂病という判断をしちゃったの。
 ところがデカちゃんは否定系だったんですよ。否定系精神病だったの。それをですね死別▲した臼井という医者がね死別しながら本当に50人伸ばしたの▲。私はその頃よう知らないけども。
身体障害者系の運動の歴史はだいたい何年の何々とだいたい頭に入っているんですけども精神の方は分からないんです。鈴木さんが殺された事件は何年?
O:76年だよね。1976年の2月16日。216。
て事は病者集団その者はその前に出来ているわけじゃないですか?
O:違います。その前かな。75年じゃない。病者集団。74年。一応、だ。74年は法制と審議会があったからその後に出来たと思う。第1回精神障害者交流集会。「0の会」★は19人出ました。京都へ。
京都でしたっけ。東京じゃなかったんでしったっけ。
O:京都。東京は頼りならない京都です。
京都の方が第1回でしたっけ。
O:大阪から京都の方が近いでしょ。
その74年か。ごめんなさい。74年の時のその集団の結成というのはどういうこういきさつっていうか経緯だったんですか。
O:その大阪で泊まる場所作る住む場所を作るそういうことがありますよね。その流れの中でどうしてその集会をということになったかは私は明確ではないけれども、たぶんねその4人の侍ね一緒に住んでいたデカちゃんの事件があった所ね。あそこで提案されたと思うのね。提起されたと思う。で名古屋からは19人。組織化ということじゃないけれども19人連れて行ったのは新幹線だから泊まり代まで全部カンパで集めました。街頭カンパ。街頭カンパをやっていることをラジオで放送させてそこでしゃべらせてね、私は後ろでさくらだわね。一応お金で縛らせてね。そうやって19人座らせてね。一銭も使わずに。前愛保連にいた塩谷さん★って分かりますか。精神異常の労働者なんですけども、塩谷さん曰く病地学会が病院精神学会の時の交流会のいっかくを全国精神病者集団の第一回交流集会をしたと彼発言しているんですけども。その辺だとちょっとあれなんだわ。局▲違う。ただね、今日泊まる所は京都のお寺だと思う。なんか学会の大会に合わせてというかそれと次にできたというような事を書いてある所はありますけど。そうそうそう。そうかも知れん。
 第一回はね、私も記憶ないんだけれども、問題は何を決議したのかということなんです。通信面会の自由でした。通信面会の自由と言うのは今だからこそその言葉の自由。通信面会の自由強制自由。ないです。その頃は。ということは科目と同じようにほら手紙が切られるとそれと面会できないと中から電話もかけれんと、つまり拘置所の壁と同じ物が精神病院にあったから、それに対して穴開けようかみたいなことで通信面会の自由を高らかにあげて、で我々の意思として証明しながら医者が今度は高飛車▲がいっぱいおるからそちらの連帯しながら精神病院の構造をガラッと書いたの。
 それが精神保健今で言うと精神保健及び福祉法ね。それの20条になると思います。私カレンダーだと思う。自分自身で。何か結成集会という奴にね大体例えば何人体だったのか何十人体だったのかとどういうこう。何十人ですよ、もちろんです。その時にね決議にも笑顔▲。多くてその時何、名古屋の部分は行ったら大野さんが束ねてというかカンパなんかして。
 あ、1回目は違う。違う。赤堀さん提案して。第2回だ。19人いたの。19人いたの第2回。その時はね私とほな★と若干だったと思う。一番最初に第1回。たぶんそうだと思う。で第2回の時に赤堀さん提案したんだね。で提案したのはなんでかというとなるけども、そうすると誰かに話したんだよね。今ゆいさんに話したんだけど、とにかく何だかとにかくその後36歳だからもう少し見てくれないかと話したんだよね。美女だね。それであるでしょ。なんて言うんですか医者の間ではいつでも糾弾しているでしょ私。すごいだったでしょ。だったと過去形。要するに百人委員会の幹事だったわけでしょ。保安処分のことやってて、保安処分の何だか元気なおばさんが言うみたいなつうのことを知ってたわけだ。
 そしてある日夏だったね。プシ共闘って御存じですよね。えぇ。プシ共闘から手紙が来たの。ここに来てちょうだいって言われたから行ったんだわさ。いろいろあるけれどもね、構想▲がね、ちょっときつかったわ。来てちょうだいって言っていたからその時行ってみたのよ。そしたら赤堀さんの本体である島田対策評議会があるんだけども、今でもあるけど、島対協から1人お医者さんがいてね、整形外科医が。
 その方の中で話が出たのは、石川青年のこと★は部落の人が期待していると。赤堀さんは精神障害者だから精神障害者本体でやるのが筋じゃないかという意見があって、そうしましょうということになったんだわ。でその医者がそのじゃあ何処に患者がおるのかいとそうはさせんわねここに。そのことで相談したんだよねプシ共闘の方に。そしたらプシ共闘の方では、あさかやまのあさかやま病院★のね。大阪、堺市のあさかやま病院。。堺市のあさかやま病院の。あさかやま病院の先生と島対協の外科医が同級生だったの。だから精神科医に聞けば、精神障害者に会えると思ったわけ。
 私がたまたまある意味目立っちゃったわけね。で私に手紙よこしたわけ、プシ共闘が。行ってみたら島対協プシ共闘というふうに連絡が回って来たっていう。そうそうそう。で私はそんなこと知らんと言ったら、実はこうやって死刑囚で冤罪の赤堀政夫さんっていう人がいて、その犯行当時とね3月10日がこと件の日だったんだけど。その日の裁判記録持って来て支援してまいりますかって言われたの。
 あんた断わる? あんた。私ねすごい言っているけどねもう無学のねものすごく自慢しているわけね。私法律を知らんのだわ。自分で考えて。それでね赤堀さんのことやってくれと言われても冤罪死刑囚ね。冤罪はね名古屋でも経験があるんですよ。新聞上では、吉田石松王っていう岩窟王ってあるのね。冤罪はこの国いっぱいやっていることすぐ分かるんだけども。
 じゃぁ獄中面会行くとかね獄中何だか悪い人とかね面会の人いるとかね。それから最新王とかね。何もしないじゃないですか。だから私何も出来ませんって言ったの。だけど、10秒間位頭がカンカンカンと鳴った時にね排外主義の保安処分反対しながら最も排外されている赤堀さんを出来ませんと言うのは自己矛盾ですわ。内矛盾だから、何が出来るか分かりませんと言って、やること引き受けてから今日までここにいるんだわ。ずっとお母ちゃんお母ちゃんって。
ちょっと待って、それはええと病者集団の成立というのと今の話はと言うと。
O:それは後です。それより後ですよね。で病者集団そのものの集結って言うんですか誰かが仕掛けないとやっぱり集団って。大阪の方だ。大阪の方。だから私2本立てですよっと言ったの。
4人と関係があるんですかね?
O:まぁ皆相談したんだわね。採掘▲運動やっていた人があるもんだから。集会をしなきゃいけないと言う。どっちかと言うと関西。関西です本場は。私より早かったの医者が。医者は金沢学会の、プシ共闘辺りでしょう。小澤勲とかあの辺が患者連中のある部分とちょっとつるんでまぁ。患者連中つるんでいない。それってさぁある意味こうけしかけてさぁ。けしかけて上手に持っていったんですよ。
 そしてじゃあやって作ったらみたいなそういう流れで出来たのかなぁ。大変胸糞悪い時にそれは否定できない事実だと思うんだけども、あえてその事実を削りたいんだけどもやっぱり削っちゃ駄目ですよ。そんなもん医者が手をかけたんですよ。私は全然手をかけられていない言っておきますけども。あえて事実を無くしたいんだけど。
 でもありますよ僕のケースの中で敵の中で出来て殺残▲のカウンセリングで近付いた。医者のやることはね皆あんたがやることだわ。無視しないとできない。俺別にやっていないですよ。患者のやることなんて論理的素朴なのガーガー難しい文書書いておりませんわ。大阪の吉田おさみさん★なんか反対のテレビに出たよ。あれ反対なのか。あの人反対の何の勉強していたんですかねあれ。何していたかって、聞いてないもん。私ねよかったしょっちゅうそういってね一度も何もなかった。大学院まで行って。彼はまずインテリですよ。彼は中間まで行ったのかな。彼が好きなのは大学を出ているってことよりも彼は紳士なんです。下ネタの中でよかねウンウン言っているけども本当に紳士でした。文書書くのも非常に簡潔ですね。簡潔素朴ですね。でまきたさんって言う人が居てねまた。まきた、まきた。まきたさん。
 この人は岩倉病院ね京都の。あそこにいた人です。岩倉患者自治会。はい。今でもありますそう牧田さん★やっていますから。実は今回ね山本さんだったら昔のことはまだ分からないから全然。たぶんその人紹介してもらったんですよ。だけどかなりガードなんか堅くて。ちょっとかなり無理そう。まきたさんかな、松井さん★じゃないかな。あ、松井さん。松井さんは違う。岩倉じゃないと思う。あの人は岩倉じゃないです。あの人は岩倉じゃないです。ユーザー京都の。ユーザーです。
 あ、そうだ。松井さんの方だ。でもあの人病者集団のプルグ▲だから。うん、プルグだから。それであの。でもそれ岩倉の何だっけ。まきたさん。まきたさんも病者集団の。の集中していましたよ。それで、そこからが問題。一緒になったわけね。で集会もやったわけね。集会もだけどその母体のなるたまり場ですね。それが解体されていくわけでしょ。あのちょっと今の大事なんですけど。あの4人が作ったその自分達の自立で作った自立して作ったたまり場ですよね大阪の。それが解体されていくんだわ。あのデカちゃんの刃物事件でね。医者が解体していったんだけど。
 そうするともう集める場所がなくなるじゃない、私達。だから名古屋になったの。そこは撤収せざるを得なくなって。それで名古屋でゆうたら撤収、病者集団の事務所と言うの。私の常務、占拠されていたの。大野さんの家が。そうそう。病者集団の事務所やることになったわけ。
 96年って結局プシ共闘のカンパ集めたりもしていたんですよ。全国再建センター再建ってやっていたんだけども。結局大野さんがやって終わって。78年ぐらいからみんなの家をやってね私はもう名古屋でやるのがいきさつですわ。事務局会議をやることないもんだから。
そういうことがあって名古屋にきたと?
O:そうそうそう。
その時のメンバーというのは?
O:でまあまきたさんであり、吉田さんであり。まあとにかくどっちかで言ったら大阪で。関西ですよ。関西、関西。それから京都。だから東京、関東の人ほとんどないです。それは「友の会」★ぐらいじゃないですか。友の会の菅原さん★なんか多くいらっしゃらないね。あの人は。文書書くだけだな。
実際動いていないんですか。
O:うん、動いていない。
それは何、例えば皆でこう集まるみたいな。
O:うーん、会議ですよ、あれは毎月の。
毎月やってたみたいな感じですか?
O:内容的決めてね。毎月。毎月一回ぐらい。で私はおかっぴき▲おばさん。それは自分家で作って。大野さんの家に皆で食べたの。
どのぐらいの人が来たんですか?
O:その時によって違うけれども最低でも4〜5人ぐらいいたんじゃないんですかね。多い時は。
多い時は何人ぐらい?
O:多い時は0の会の人も来ていたからね。どうなんだろう。とにかく布団の数が知れているからね、皆一泊泊まりに来るから。
79年の第4回の名古屋の病者集団大会あったじゃないですか?。第4回大会。
O:第4回もやったんだっけね。いつもやれるようにとしたんですよ。あのテープ残っているのでね。誰か盗聴していたものがあるのでね。許せないんだけれども。それが今となれば正しい。健常者の人が盗聴していたんよそれも。まあそれはいいや。それはその人に聞きなさい。その人に。天皇の弾圧していた時に最後の会議の時はわりと人数多かったですよね。そうですね。天皇というのは、毎年ね国体と海の日とそれから植樹祭は天皇が行くんですよ。でたまたま1970、あれ6年だったけね。
79年です。
O:9年か。79年に天皇が来たの。植樹祭に。
どこに?
O:愛知に。
愛知に。
O:で私はほとんど弾圧されたの。
けっこう有名な話ですよね。
O:そんなの負けて▲いるわよ警察が。その頃はけっこう多くて、その頃は赤堀中闘委やっていたから委員長の私をつぶせばね何とかなると思ったんでしょ。権力が。ところが駄目だわなぁ。私にやられたの、愛知県警が。名古屋に呼ばれたんだよ。愛知県警一人で。ちょっとその辺はね弾圧のイメージがねいろんな人から聞くと弾圧されてもうなんかひどいあったみたいなこう伝え方を。ひどい目に遭ったけれども。全然むしろ負けていなくて相手をむしろ弾圧した。逆だ。すごいよ。
 日弁連の中で最後法律の委員会ができた。そうなの。全く機能しなかった。あのね、その話はね全てではないけれども日弁連の中に人権擁護例集っていうのがあるの。二冊あって。Zの会として出てくるわ。それを読めば分かるし。私は腹立ったからね。なかしゃんあそこの所で筑波大学のある所あるでしょ。あそこで外国人の人達出席して世界大会あった時にその話を全部書いて全世界に暴露したの。ざまぁーみろって。全能性と精神障害者ですね。そうだね。だから文書書けないけどね。大体分かったでしょ。具合悪いけど書くんだわ私。その何、今言ったキャラさん言った、一年に一辺の大会みたいなことやってた。一年に一回じゃないけども74年、74。76年、77年、79年っていうふうにやってその後一気に2009年に流れついた。
というふうにはそれはいわゆる全国大会みたいなのはそんな感じで。
O:あのね全国大会でやるというのよりも全国精神病者は赤堀さんの問題に集中していたの。
そうですね。
いわゆる精神医療法とか精福法とか関係の通す法とかまた別なんですか。
O:別なんです。
議論的には議論で言うと排外主義と闘っている私達が赤堀さんを慕って我々の明日はないという結論観をたててやっていたのね。で赤堀さんというのは息が抜けないんですわ。これはやった者しか分からないんだけど、赤堀さんの手紙がね。というより手紙で勝った人です、この人は。獄中の方で発信通封が5通。5通あった。それは絶対に権利を自分で持ってね、毎日同じことを書き続けたの、皆にね。で送る方は誰でもよかったの。私達がまだ当時入った頃は。
 ところがだんだんこれを権利を取っていくんだけどね。外部者の私達の権利を。取られていくんだけど。赤堀さんは物をけんじしたと言うの。そういう人で。手紙が多かったけども赤堀闘争は1日もやめれんぐらい忙しかったのよ。休みがないの私の何十年40年の間、休みがないぐらい大変だったけどね。赤堀さんが手紙を出してくるもんだから返事を書かなくちゃいけない。もらっても返事を書かなくちゃ人間もいっぱいいたんだよね。ね、赤堀さん。僕をねこう言ったわ。赤堀さん。僕をね檻に入れられた猿をね動物園の猿だと思って面会に来てもそのまま返事を残さずに来ない人間がいっぱいおったって。そうなんだ。だから傷ついたのは赤堀さん。闘争する意思がないんじゃん。ないのに死刑囚面会出来るのに行ってやろうか。と言う東北大の人が言ったわけ。当時死刑囚を見てみたかった。見てみたかった。だから、赤堀さんがねどういう人なのかって行ってみたら、皆優しいって言ってたし皆と面会している人だし赤堀さん自身評価ものすごく鮮明だし、でもとにかく私が入れてくれた1977年ぐらいかな、75年ぐらいかな。第4次再審請求1977年3.11切られたよね。切られたね。ほんでもうその時機動隊とやりあっていたかな私。ものすごく指導が小さいね。その意味ではその全国大会やってデマかけて何ちゃらかんちゃらというよりは月に一辺小ちゃい規模で集まって保護連の赤堀闘争をどうやっていくか。まあ公園に行かな全国へ。公園に居てね団体作っていこうかな私。そんな時間ない。鉄道部隊というか。私その時寝そべっていたの。半日でも寝そべっていたの。電々公社ですよね。電々公社。
そういえば電々公社の解雇ですか? 労働組合との共闘の話っていうのは。
O:敵視された私。うん、その話は。最初はこの私にこの依頼しておいて結局あんたその言い方をするからって人格の問題として切られた。それ個人的にはすごいなんていうの重要な気がしていて。0の運動として。いや一番ね一番きびしかってね一番頭を使わなくて使って生き残った時の一番のポイントは公社の中にありましたね。会社からの排外主義がありましたわ。ものすごい戦いだったよ私。
いつまで勤められたんですか?
O:えーと49歳8ヶ月。49歳の12月まで。15から働いているから38年。34年8ヶ月。それからずっと入院とか別にすれば、ずっと電々公社の。赤堀さんも34年8ヶ月ね。奥さんに祝杯されたから。同期なんです。
なるほど。
O:ほれでこの人に年金がないとおかしいと思ったのね。私は電々公社の当然年金もらったもんね障害年金を。赤堀さん大したもんでおかしいと思ったから私が一生懸命やってねとうとう検察庁のね検察庁の持っている赤堀さんの精神鑑定書ね。制約の奴ね。あれを抑えて。抑えてって言うか名古屋市の精神科医に取らせてね。ほんでそれを持ってどうなんだと年金会に訴えて赤堀さんだけ死刑囚として年金取って。免田さんでも裁判を起こしてやろうとしているのはね私1人で出来なかった。赤堀さん障害者だから出来た。だから向こうが切り上げてね制約だと言ったこの文書を持って重大発言しちゃったの。基礎年金取られるの。
 こうだからその事件って言うか赤堀さんの支援に集中していた時期がけっこうあった。当百人委員会ですね。百人委員会そのためにあるもんじゃないですか。病者集団そのものがわりとそこんところに近頃
そのがあかん時期っていうのは長かったんですか?
O:長かったですよ。逮捕されるまで。逮捕されません。私はね1975年に。例えばその何て言ったら、基本的に今と個人、かめ。個人かめ。個人団体のかめですよ。両方あり。だからすこく樂だわね。赤堀さん余裕でしたね。個人もあり団体もありですか。
で後、ちょっと聞きたいんですけど何処までこう語られるかあると思うんですけど、僕はどっちかと言うと身体の方はある程度知っているんですよ。身体障害者の運動の中でも色々こういう内側みたいなのはあるんですわ。あることあるんですけどまぁたかが知れているかまぁこんなもんかな。なまりさえ合わない。だけど、精神障害になるとやっぱけっこう、衝突と言うか分かれると言うか。
ない。そういうすぐ激しい感じですか。ないですよ。
ないですかそういうの? 例えばね、僕、聞いた話では赤堀闘争でなぜ国賠まで行かなかったのかという事でなんか疑問を持っている人がいて、それがなんかの原因だと聞いたんですよ。例えば、例えばですよ。そういうのを聞いたことあるんですけど。その辺はどうなんですか。
国賠ってどんな国賠?
国家に賠償を求めるあれですね。家族でしょ。家族にですよ。いや、本人が。本人なんて賠償してくれたじゃん。1億2千万円貰ったじゃん。俺が聞いた場所間違ってた。家族が家族に。家族にだよ。国家賠償求めることが出来たという人に対してそれが家族に決めることだしね。
 そこまでじゃなくて皆ボロボロだったの。赤堀闘争関係。お兄さんとか妹とか。それを言ってね訳分からんこと言っているからそれは家族が決めるべきだし、私達がそれをやったって勝てないって言ったの。何故で言うと前例があるんですよ。弘前ってあるでしょ。弘前協議事件殺し★。これは冤罪だったんですね。そうです。なっさ。だけどあそこの炊事直系でね自分のことの高菜をね自分で売ってでもね君を生きとったの。自分の家族で。歴史の残る宝物があった奴を全部売ってなっさんみたいなことをやってきたでしょう。だから国家賠償を請求したの。
 いい、本当だったら国家賠償に勝たなくてはならないわけ。ところがそれで負けているわけだから。そういうことが分からずに家族が決めるべきことをそうやってしゃしゃり出て中闘委やりません。だからそれをやっては駄目って言ったの私が。なっさんの事件もよく知りもしないでね何でも高いというわけじゃないのよ。呼んだら指示があるの。家族の賠償は家族会で決着をつければいいし、相談役は島田対策協議会があります。それを中闘委がそのせいでバーンとしちゃう。それは筋が違う。なっさんの字が知らないことです。
 そういう噂、噂に流れるから困っているのね。アウガではそれを僕に言った人と信じちゃうわけよ。だから信じちゃったら噂になった人私に聞いてくれなの。例えば消防署、その病者集団の中にいたっていうのかななんていったらいいのかな言った部分が抜けていくっていうか分かれていく。
 ちょっといい、補足すると多分立岩さんが言っているのは反全精連★主張して決別主張していた人達。あ、京都の人達ね。94年頃から6年にかけて。はっきり言ってそう意味で真理さんも抜けた1人だと僕、思っているんだけども。何処から。病者集団から。事務局を辞める。事務局員を辞めるという。違う。あの人精神的に案内していたんですよ上に。辞めるんじゃなくて窓口側になるって言ったのは真理ちゃんに集中的に集まった非難が集まったの。その精神大野会。精神大野会っていうのは実を言うと御存じ四国の「ごかい」★。ごかいと仲良いんだわね。で私がいっとう最初、ごかいの先生に呼ばれたの。基本的に迎えに来てね、大野さん、五億円位のお金持っとるでしょ。私関係ないんだよ。五億円のお金持ってるなんて。私そんなことに誘惑をされることの人間でもないし、払っててもできっこないですって言って。力ですからね。それで、嫌と思ったけど、向こうに呼ばれたもんで、一緒にごかいの人達とねお食事もしたんだけどね、向こうの患者さんはね偉そうです。患者さんが偉そう。患者さんが偉そうです。どうなんて言う時に。どういう風に。どこまでもああいうの。人口説ああいうの。私にいろいろ抗議していた。レクチャー、抗議って。教えるって意味。お前はどこの何者だってね。すごく失礼な人達です。医者も失礼です。
 五億円もあれば十億円もあれば、お金1人の人が浮気ないんだわ▲私が。そういうこといっちゃ人差しん▲にね強情迎えに来てねあれでしょ、名前何だっけ。龍さん★。龍さん。私はそのことはその者は不愉快だからね。そういう奴とつるんちゃったのが京都なの。あれをね私やるって言ったわけじゃないよ。五億円ぐらいはあるわよ。あるからものすごくセンスの良い藤原さん★という女性がいるの。ごかいに。あの方はねものすごく名文家ね、私のファンだけどもあの人と寝てみたり医者が、奥さんに離婚迫られたりとかそういう問題の医者なの。私最適の人だよね。全く今の盗犯的▲な人じゃないかなと思うけど。で私はごかいとがゆうさんが生きているうちはいいよ。拭き掃除やっているからだから。病院とかクリニックというの合併している形だね。中で食事作ってて私が行った時呼ばれた来たわ。お食事をね。だけど偉そうなの。お前はどっかから来たとかね。お客さんに対して。御無礼な人達。
そういうイメージっていうか。
O:うん。それで、そこと結託したのはいわゆる新左翼系のように糾弾闘争がやらんとされば思想が軟弱だと思っている人達です。誤解です。私ね、あの人達木下恭子★ですよ。きちっと保安処分から始まった運動ですから。うん。それを勝手にそうやって噂聞いたりとか自分達捏造して真理ちゃんが1番やり玉に挙がったわ。で今山本深雪★から私から加藤真紀子★まで全部塩分つくけどね、そいつら皆悪者になっているの。まぁでも皆さん高齢化していて。
高齢化関係ないでしょ?
O:いやいやいや、その高齢化というと失礼ですけれどもなんて言うのかしら、なんかもう龍さんも結局自立支援法使ってもうそれで何とか食えるように感じ。会計士とかね。でもね五億円あるって言ったことにはびっくりしましたしね。あそこのいいですか、患者さんっていうのはね仲居さん★の話を呼んでみるとねはっきり分かるけれども、ものすごくデリケートなんですわ。したらねまず家族が座布団でも出さなきゃいけないのに人足▲家庭訪問するんですよね。座布団の出す患者さんなんですよ。ほとんど。そのぐらいね来た人にはないもんでね。先生が来たらもっとものすごいだけどね。ほとんど出すんだけど。あそこの患者さんは他人に対してねデリカシーがないの。疲れただろうかとかね名古屋から見たら。そんなの一切ないの悪いけど。あるのはあの方ぐらい、私のファンだけどね、藤原さん。藤原りえ子こさんぐらいかな。あの人すこい人ですよ。だから何て言うのかな東京から行ったら礼儀知らずのことになっちゃうかな。それはそれとして他人のやることはいいけれども私にサイコンドー▲やるって言うのなら赤堀闘争出来るかねやってみろ、今いくらでもと思うけどね。そのぐらいの気持ちはあります。
 で私何を書かれたのか知らないけれども、噂みたいにかって飛んでいるから私気にしないけども、それよりもそれに対して我がマインカンプ★という思いを知らないけれどもドイツ語でマインカンプを私が書くべきだとエッセイとしてはまず赤堀さんの奴を記憶残さなきゃいけないからと言ってもう本を二冊分ぐらい書いたんですよ。
けっこうあるんですか?
O:ありますよ。新聞社がそれを利用している。
それをどうかする気がないですか?
O:ありますよ。手伝って下さいますか?
手伝います。今ね議題が少し入っているんですよ。あのねなんか突然商売の相談になりますけど、一般の出版社ね要するに本屋さんから売れる本にするというやり方もあるじゃないですか。それからある種自費出版の形もあるじゃないですか。
O:自費出版も金もありません。
ありますよねでまあ金どっかから持って来るか別ですよね。それも読んでいだたなきゃ。私自主章だから。大野さん自身はあまりパソコンとか使わなくても。これ全部パソコンで書いたんだよ。これからの人はパソコンとかで読めるっ感じじゃないですか。そしたら本って要するに何かあれば何だけど紙に印刷して運んで本屋に売る。ということはないよね。それに金になるわけですよね。ただとにかく読んでもらいたいということであれば、電子媒体っていうかそういうのを使って。
O:考えるわね今の人は。そういう考え方もあるんですけど。だけどね貴方ね私の愚問聞いてよ私ね分散がないのね。分散がないのね。それで分散がないって言うことは中学校三年生に分かったの。仮にそうだとして。違うの聞いてだいたいねその知能テストっていうのはあんた知らないわけ。やられたの。知能テストね。そしたら170あるんだねその。だけどね30がね文学的才能全部出来たんだわ。で書くことに対して苦手だし、文法も分からない私なのね。その人は赤堀さんが生きているうちにっていうか赤堀さんの記憶がどんなことがあっても私の体験したことを書こうという気持ちあったわけね。もう二冊分ぐらいあるんですよ。どのぐらいの字数っていうか。字数っていうのはね。原稿用紙っていうか何でもいいんですけど。だからA4のねあれで見ると2枚とか2枚半ぐらいで一つのテーマになっていると。でそれに対して分散がないと思うでしよ。自分でそれをコンプレックスなの。だからまずねじらいだを付けたんです私。じらいだ。
誰、誰。
O:うん。それは佐々島の大西君って言ってね。はいはいはい。院長やっているんだわね。その方が京都大学をドイツ語で受けたぐらいの人で、その後ね出版社に勤めとったのね。今では院長やっとるけども。あんたちょっとやっていったらいいよと皆。1時間1000円でどうって言ったらいいよと言われたの。媒体しとったの。それはまぁある意味出来たの。出来上がったもんなんですか。出来た。半分ぐらいしか出来ていないの以外とね。それで大西君に聞いたの。私がこれをね世間に恥さらすようなことで文書を書くわけでしょ。どうだった地雷でやってみてどうだったって言ったら。けっこう面白いわねって言われたの。へーそんなもんかなと思ったの。だけど駄目なの。コンプレックスするわけにはいかないの。なんかでも出しません。なんか出しましょうよ大岩先生。金儲けしよう。同窓会考えると作ったるわ。金儲けになるとは僕は思えないんですけど。電子媒体でやるとやっぱり我々の仲間が読めない人がやっぱ出て来るのでただし媒体ということでやっぱり出来るだけ条件にして。やっちゃって下さい。
 そんなのがあってね知能テストやられた為によくないのね。知能テスト、あれ不愉快ですよね。ふん。あれ不愉快でしたよね、あれ僕大っ嫌いだったんだけども。知能テスト知らなかったの。あれもともと軍隊で徴兵の時においた指揮官にとかにああいう風にくらい作った。あれ全部満点なのに、文学的にペケペケペケだったの。始めは分からなかったの。でIQ高いんだよ私。だけどもペケペケペケ。あれじゃないですか維持ですよ権力ですよペケペケペケを付けるの。それを中学校の時にやられて後日前年校舎に入った時に色んな何とかテストって随分あるんだわ。前年校舎のね。そこでやった時にIQテストと言うことはやらなかったけども、あぁあれがIQテストかと分かったの。なんかね色々と。だから私にその何と言うかコンブレックスをとってくれる人が出てこないかなぁと思ったの。
 でもまあ一応ね。あの小島の。兄弟、佐瀬須磨の大西君に頼んたら面白いよと言われたの。面白いよと言われたけども文書を上手だと言ってくれないの。いや、本当に大野さんの文書面白いと思います。面白い。でね私はね自分の為にね金を稼ごうとか歴史という赤堀さんの歴史をきっと残すのが委員長の役目だと思ってやってきたの。でね論文も書けんぐらいそんなことないけども論文誰も読まないからだからエッセイを書いてきたの。で、真理ちゃんにニュース貴方お引き受けになった時にね真理ちゃんに載せてもらえないですかと聞いたら真理ちゃんがあんたと赤堀さんのは私のパソコンの中にホームページの中に出ているからニュースは貸し出しませんと言われたのがそういう言い方がニュースは遠慮する、遠慮さしてくれとか何とかそういうこと断られちゃったの。
 ほんで私の文書載せてないんだよ。病者集団のニュースに。そこは大きいんですよ。パソコンの普及度って日本全体が韓国より低いし全然それぐらいレベルだしましてや精神障害者のパソコンの何だろう。まぁ力だし読み書き、使える能力というのは。赤堀さん寝ちゃった静かになった。そんなの知らん。まぁ要するにパソコン使えるので支持率一緒ですよ。字が読めるから。赤堀さん支持率って分かる。うん。字が読めるか。文盲じゃないかみたいな感じ。
 話戻すと90年代のその話だと思うんですけど結局決別宣言って言うのが多田さんと高見さんと誰かな。白組さんだ皆。白組から出たんですよ早い話が。何組。要は中核派とい
うことです。白ヘル★。で、そっから要するに訣別宣言って出されるという。噂は噂なの。なんでも噂。そう、だから実際知っている人だと違うんだよ。うーん。
白ヘルが出たついでに聞きますけど、やっぱ身体障害の方のね運動でも党派との関係って常に問われてきたんですよ。実際、介護派とか中核派とか全障連とかあの辺に入ったり出たり、てゆうかまぁはっきりと入ってた。それをまぁある程度出したというか出しながらやってきたということなんですけど。精神障害の場合は、そのセクトとの絡み方っていうかどう?
O:事務局員はねそのセクトの人もいますよ。中核派でも党派でもなくてね。だけどその病者集団、私のやっている頃にはセクトの人いましたよ。白組さんが。
病者の中でってこと。
O:うん。私の声事務所やっていた時も中核派いましたよ。
 だけども一番困ったのは赤堀闘争旗揚げした時にどっと行って入ってきたのはどーと党派が入ってきたのは例の保安処分ね。保安処分の時に各そのなんていうのかな検察庁ね高松以外の所ね。そこ行って糾弾闘争やったわけですよ。広島とくに中核派強いじゃないですか。だけどあそこへ青メット被った人も赤メット被った人も来たもんでね、上から見とっていたら、あぁフランスの国旗と一緒だ。そうだと思ったのね。そう思ったぐらい来たの。だけど病者である事の宣言していた人が発言していた人がいるでしょ。それでその時にその病者にラジオ飛ばした人がおるんだわ。病者さんがえらい飛ばしたって言いたかったけどもその人に断らずに言えんけどもそうやって病院がひどい目に遭っているのそこで広島でも。だけとその後で記者会見やった時に白組さんと青組さんが後で大喧嘩しとったけども記者会見やったのは白組さんだったの。いつもと争いがそうなの。単純なこと
なの。
 そういうのが嫌になっていたけども、そこで病者と付き合ってもらったんだね。弱い党派が。一応百人委員会とか付き合ってくれたんだわ、私と付き合ってあげたんだね。向こうが付き合ってもらったんだ、病者にね。それでそういうおかしな所があって腹が立つことがいっぱい党派にあったけれども、赤堀中闘委やった時にその流れの中で赤堀さん保安処分だと言うことで赤も青も白もでーて入って来たの中闘委ね。まぁそのとりあえず色々ごちゃごちゃ揉めつつもまあ党派の別に排除季節っていうか入りながらまぁやれるとこまではやるとこまではやってきたというやっていたというか。
 結局87年ですよね何もかも全部。一番ネックになっているのは。87年。だって僕は読めるんですけども今は僕はそういう事情全く知らない資料読む限りはやっぱりその例えば百人、名古屋のパネル粉砕の時だってフランスの国旗プラス黒が入っていた訳ですよね。そうそうそう。俺見たんだけどなぁ。黒が、黒じゃない違う、赤が街宣選挙やったの。赤がやったの。で、私達病者集団は選挙しないと方針だったの。だけど病者あがちゃったわけでしょ赤が。赤の系列。香川さん亡くなった。それで中山先生★が止めたんだけどね。病者集団がそのターゲットになってねあんたらはなんたらなるから良いんだけども俺たち500万円集めて集会やったんだけどもどうしてくれるんだと言われてね私怒られるんだけども私は何て言ったのかあの当選でね。ちょっと素人のこと、87年のことちょっと教えて。今のはちょっと83年かな82年かな。どのぐらい実際見たのは81年か82年かぐらいですよ。名古屋にいらしたそうです。僕は学部の3年生だったと覚えているんですけど。だからね私はチラッと弁護士会に言った。その後のその87年ってその何なの。その愛保連とかそういうので何と言うのかな中闘委もその全障連、病者集団その最悪みたいな感じ。
 うまい事そのまとまっていたのがその百人委員会がその精神解体、精神衛生法改正でごにょごにょして結局分裂するような形になって、それをまぁ日弁連要綱案であの人、あの医者。中山。野田★だ。野田か。野田があの。かー、彼を考えると頭が。野田最近死刑廃止までいっているんだよね。でそれでさあまあいいや。香川さんでもいい。あの人は相手にしなくてもいい。
御存じだったらでいいんですけど、その野田★、木田っていうその精医研★グループ★というのとプシ共闘って略称されている部分というのがぶつかったという話がぼつぼつ出て来るんだけど、それについて何か。
O:私は知らないの。知らないこととは知らない方がいいですけど。私、襲撃されたことは知らないけどね。連れ込み校舎に泊まったことあるんだよある時。岩倉病院が集センターを襲撃された。亡くなった香川さんが知っていてなんかね日共政権革マル日共政権とか言ってね全部自分的なりに言っといて私そんなこと言っても分からんと言ったのね。党派でもないし。そしたらあんた院長だろう、だから覚えなきゃいかんと言って来てね強制されたのね。私はね党派も何も右翼でもね赤堀闘争やったら全部抱え込むわ。バージニアだと思うけどね。その時革マル日共革マル政権出て来て政権っていったん通そうと言ったのね。何なんだろ政権って何なんだろう。そしたら唯てんかんということを野田がやったんだって。
 今文化人類学者でしょ。だけども。唯てんかん▲。文化人類学者。曰くそうですよね。医療者ってむしろ文化人類学者みたいな振舞い。だけど彼が彼についてはそれじゃ私が無感動なこと知らないっていうことになるととんでもないことよ。冗談じゃない。今度ねあの死んでいたでしょ。それからずっと分析しても国会に対してもものすごく咳しているでしょ。障害者問題でね私ね。たいぶ成功したけどそれは。だけど真理ちゃん1人で挨拶状書けんって当り前のことなんだけどね。何これっと思ったけども。私は裏でやったんですよ。色んなことを。うん。やったことは本人になるぐらいね。結局大野さんに尻叩かれてやりましたよ彼女。やったでしょ永遠にやれるんだわ。喜ぶ必要があるんだわ。代々何もしないでね何で友達なんだ、なあ。ちょっと俺話分かんないんです。
 震災の関係で真理さんだけが東京にいたっていう話です。私逃げたという話です。ちょっとごめんなさい精医研の話に戻ると。その野田が。精医研って何かのセクトとは関係ないの。ちょっとは無いはずがない。そのときに唯てんかん▲って言葉知ってる。
 香川さんが言うにはね死んだ香川さんが言うにはね野田が唯てんかんをしたというの。唯てんかんってどういうことって私理解が出来ないのね。そのことがあって、で話に聞いたのはね自分の子分ね。政権の連中ね野田の配下の人間を。配下の子分って何。ちょっと録音しているから話は後で説明します。はい、分かった。その時の子分達が足を折られたりとかね歯をぶち込まれたりとかねやられたらしいわ。そういう噂は聞いたの。
 だから子分達はバラバラになって自分は文化人類学者になったわけだけども、本土の阪神大震災のことはね東日本ねあの時ね新聞に広告出て来るとI先生の方をオウムとして出てくるの野田正孝先生はどうなのか。それから何だっけ、新しい先生方。書いてあるからこいつら典型しているのはうち皆に見せたろか、馬鹿な事やってあいつら。ちょっと蛇足するんだけども橋本知事に対してテレビでねこの人は人格障害だから昔掃除をさぼっていたというふうに教員から聞いたとかって野田が言ってる。野田が。大阪府知事を。さぼったっていいじゃない。別に。だからさぼったから人格障害だと診断することを根元している。馬鹿だ。野田の言うこと信用しない方がいいんだけども。信用というよりも殺したいわ後で。殺したいね。だけどうちはねなんかあった時には深くやっているだろう。やばい録音されているよ。殺したいって言っちゃったよ。
 いいよ。別に実行犯じゃないし未遂でもないもん。全然殺したくないですね。あまり対象にはならないわ。私はね黙っているけどね集めているの。なかい先生の集めているの。家に来たら。絶対あげるわ。阪神大震災誰がどう言っているか全部。阪神じゃなくて東日本の震災。自分でも黙っとらんよ。色々なことやって来たよ。
 もう例えば一番最初にはボーダブルトイレ強いしゅうふれん▲後悔してしまったし。NHK飛ばして。それから計画停電があった時、計画停電何事か人を殺すつもりかって言ったんだよね。筋ジストロフィー、あれです。自発呼吸出来ないでしょ。あれ。殺すつもりかーいって言ったら3時間もかさっばさ▲センター作ったりNHKに流れた。
 私ね半分自発呼吸出来ない人ね。だからつい先週もその関係の集会京都でやったんですよ。私は全部やってきたよ。一応震災については。全部やらさせて頂きました。身体障害も。だって昔委員長だって身体障害の人も両方のねやっぱりね不利益って言うのか命にかかわることはやるのが筋だと思うからやってきたと思います。けっこう死にましたね。やったやったと言わない私。貸してもらえないから。黙ってた。その記録家にありますから。どうぞ。資料が山ほどありますから。僕は載せる人なので。さっきはトイレに行く前の話。要するに撤廃。
 赤堀さんの例えば島田事件って今、本屋さんで新聞で買える本ってないんじゃないの。なんかありますかね。あの家にいらっしゃったらあれがありますけどね。赤堀さんさっき大きく出たから新聞に。あ、中日新聞ですか。新聞に。いやいや本として。本としてはねもう体罰版としかおすすめできない。後はないですよね。無い。色んな人に使用する人とか色々書いているけど。内容が全く違う。買えないですよね。駄目。だから無いじゃないですかそれで。図書館にありますよ。どういう形であるにせよね。がいいかは後にして考えるとして。それはまぁ色々十分ではない思いにあるとしてもある意味きりがないじゃないですか。どっかでけりつけて出せると前半だけでも出しておくとかね後半は後半できたから。だから先生ね意外とやってもいいから意外と大西に。その後見て下さい。見方せしめる。ミブシーで見れる。
 桐原さん来ることあるんでちょっとその辺ねどういう媒体がいいかは別としてちょっと本当にちゃんと残しておく。残しておりますよ。なんかの形で交換と言うか公開というか。やりたいですね。
O:しましょうよ。それは。是非。なんでお母さんって呼ばれているか知ってる。お母さんにされちゃったんじゃないですか。されちゃったんだけど。真理ちゃんのパソコンの中に出ているよね。出ていますよね。あれ、お母さん出ているんですわ。そういう話とかね例えばお正月のね仙台から再審開始になってきたでしょ。静岡をね。静岡にいらした時から私は家を借りて毎日面会していたんですよ。防衛の為にね。身体的にも。精神的にも。赤堀さん防衛しなくてはならないから。面会していたでしょ。その時にある時お正月明けね3日間面会出来ないから4日目に行ったんです。面会室ね。いきなり言われたことは何だったのか、それを当てたらすごい。
 お母さんそのこと言っちゃ悪いけどねお正月だけはこういう所いいねって言ったのよ。何だか分かる。つまりおせち料理なんか環境なんか関係ない人なの。昭和29年というと。おせち料理は獄中に出るからね。お正月だけはここだけがいいねって言ってきたの。お正月になるとね。あー。それがパッと分かるのが私の世代迄。おせち料理が出るんですって。獄中でね。だから。それは聞いたことがあります私も。正月はちょっと料理が。お酒は出ない。出ない出ない。ぱくしゃり、ばくしゃり。ばくしゃりって、今20%なんだよね。死刑囚食べる物とか違うんだよね。ほんでねそれを言われてね全部からかわれてるの。正月来るとね。赤堀さんお正月食べてもっと。何言っているの。お口に入る。いいと言うからね。お母さんのおせち料理おいしいでしょと言ったわ。赤堀さん、お母さんいいねと言うから。私びっくりするよ。
 依然と大切だとその通りだと思うんですよ。だけどそある種の報告書みたいな何ていうかなスタイルってかるかけみたいな紙媒体みたいな物を作ることを不可能じゃない。何十万とかいう金だったらね。とにかくね。作っているんじゃないですか。こう言う風に考えて下さい。作っているんじゃないですよ。例えばあのー。パソコンの使えない人も読めることが重要なのね。そうそうそうそれが大事なんですよ。赤堀闘争やってきた人達はいったい裏で何があったのか知りたいと思うの。何故私が書いているかと言うことはね、その文学的才能が無い私が書いているのは私が委員長だったわけね。その人が総括もせずにこの世から消えるのは卑怯だと思うから。だから物事もね。もしねよろしかったら。発端はそこだったんです。先生見に来て。急ぎませんけど。私の家に来て下さい。京都すぐそこだから。じゃあ行きましょう。行きましょう2人で。指導教員なので。指導教員じゃない、指導せなあかん。それですいませんけどね私は八本出会えていないけども。100万円ぐらい収めているんで。あ、はい。それね先生、あれを見て下さい。大西君面白いわね言っといたけれども。新聞社には非常に赤堀さんとこ疎通性が悪いもんで新聞社になると。だから私がフォローの為にそういうエッセイをね渡しているんですよ。そのかわり絶対私の事書かないようにということをね。そのことから引用しないようにと言うのかな。それを見せて取材させるんですよ。この間授業で使ったけどね。中日新聞は。アルバイトの為に。ということはその発行して残さなきゃいけない、残して発行しなくちゃいけないという意識があるから新聞社には書かせないということですよ。私が書いたものですもの。私の記憶だもの。だから私は委員長を辞めたと思っているんだけどもその委員長であるそのことを書いた時に委員長を辞めさせていただきますと言えると思うのよね。最後の謎かけみたいなもの。それが筋だと思うから書けたの。かなり数があります。そういう面白い話は、お母さんお正月だけこういう時はいいねって言ってた。その辺の自宅の話はぼつぼつとさせていただくと言うことで。それは先生がもう少し考えて私のご覧になってこれなら文書、本にしたら面白いたろうと皆に読んでいただきたいの。ということは精神障害者の差別の歴史ですからね。そうですね。それはやっぱり残さなきゃいけないし、私の筋が通らないです。それをやらないと。それはそれでいいです。ね。はい。私、ちょっと今日夕方その一つ司会しなきゃいけなくてそろそろ震災関係の。
O:忙しいですね。
今ちょっと打ち合わせ一旦私下に下がりますんで、後、桐原さんなんかその病者集団とかこのあたりの細かな話とかでもしあれだったらやっていただければ思いますんで。今日はどうも突然のことだったんで。いえ。真にありがとうございました。
いえ、私の方こそものすごく気にしていまして、今日まで御無礼致しました。ありがとうございます。ありがとうございます。立岩先生の名前は。本当にありがとうございます。どうも。どうもお気をつけて。本当にうれしくございます。どうも、よろしくお願いいたします。はい。どうも御苦労さまです。それじゃぁちょっと私は。またお電話お借り下さい。分かりました。よろしくお願いします。失礼します。あ、ワンちゃんのこれ貰ってきたの。会場ちょっと見て見ます。色々また古い

UP: 201205 REV:
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