最初に結論を述べれば、「ADAは障害者・健常者間の賃金格差と障害者雇用に関して少なくともプラスの影響を与えなかった」ということが数々の計量分析によって報告されている(3)(DeLeire 2000; Schumacher and Baldwin 2000; Acemoglu and Angrist 2001; Beegle and Stock 2003; Kruse and Schur 2003; Jolls and Prescott 2004)。ADAの経済効果を巡る初期の分析では「障害者雇用や障害者・健常者間の賃金格差の悪化はADA制定によって説明される可能性がある」という結果(4)が得られてきたが、後継研究ではADA自体による雇用悪化の影響は無視できる程度の水準にあると考えられている(ただし、賃金格差については依然としてADA制定による悪化の可能性がある)。このような事態が生じていることには幾つかの理由が考えられるが、以下では、ADA制定後に起こった障害者の雇用悪化と賃金格差増大の主要因について簡単に考察することにしよう(5)。
1990年にADAが制定されて以降、アメリカにおける障害者雇用は悪化の一途をたどることになる。この雇用悪化の要因には、○190年代初頭の景気後退、○2ADA制定による障害者雇用費用の増大に伴う障害労働者への需要低下、という二つのものが関係していると考えられている(6)。とくに、2番目の要因については、様々な要因をコントロールした諸研究において、障害者労働への需要低下は合理的配慮(7)に伴う費用負担によって引き起こされたという結果が得られている(Cf. Jolls and Prescott 2004)。
次に、障害者・健常者間の賃金格差についてはADA制定による改善効果は少なくとも期待できないと考えられている。障害者・健常者間の賃金格差をめぐっては労働経済学の分野で多くの実証分析がこれまでに蓄積されてきたが、教育や就業年数、資格の有無などによっても説明できない賃金格差の中に、障害者差別に伴うものがどのくらい含まれているのかが最大の焦点となってきた(8)。障害者差別による賃金格差の存在が大きく推定された初期の研究(Johnson and Lambrinos 1985)では賃金格差の30〜40%もの水準が差別によるものだと報告されたが、その後のより信頼できる研究成果では差別による賃金格差の影響は全体の高々5〜8%にすぎないと報告されている(DeLeire 2001)(9)。また、Gunderson and Hyatt(1996)の興味深い分析では、障害者の賃金の低さの背景に障害者雇用に係る追加的費用が障害労働者の賃金に一部転嫁されている可能性のあることが指摘されている。ADAによる合理的配慮の義務化が障害者雇用に係る費用を上昇させたことは明らかであるが、そのことが障害労働者への需要低下を招いたのみならず、費用負担の転嫁という形態を通じて障害労働者の賃金水準の伸びを抑制した可能性もある(10)。
長瀬氏がADA制定以降の障害者雇用の悪化に言及することは興味深いことではあるが、しかしながら、彼の提案は経済学的な知見に基づいているものではないことに留意されたい。
(3)イギリス障害者差別禁止法が障害者労働にもたらした効果についてもADAと同様の結果が報告されている。しかし、障害者・健常者間の賃金格差については縮小したとする結果も報告されている。詳細はJones(2006)を見よ。
(4)雇用悪化については、DeLeire(2000), Acemoglu and Angrist(2001), Kruse and Schur(2003)を見よ。賃金格差や賃金水準への影響については、DeLeire(2000), Schumacher and Baldwin(2000), Acemoglu and Angrist(2001), Beegle and Stock(2003), Kruse and Schur(2003), Jolls and Prescott(2004)を見よ。
(5)よく知られているように、改正前のADAを巡っての訴訟について、最大の争点となったのはADAの適用対象となる障害者の定義の問題である。しかしながら、本稿の議論にADAの適用対象の問題が大きく関係することはないため、割愛することとする。
(6)この他、障害者給付の充実が障害者の労働意欲を阻害しているという結果も報告されている。この点については藤井(2011)による良質な展望論文を参照せよ。
(7)本稿では「reasonable accommodation」という英語について、先行研究で定訳になっている「合理的配慮」という訳語を用いているが、この言葉が訳語として相応しいものであるか否かについては検討の余地があるように思われる。
(8)詳細はJones(2008)を見よ。
(9)Madden(2004)やJones, et al.(2006)もイギリスにおいて障害者差別が賃金格差に与える影響はほとんどないという結果を報告している。
(10) ADAの制定が障害者労働に悪影響ばかりをもたらしたわけでは必ずしもない。たとえば、障害者の健康状態の悪さが賃金所得にもたらす負の影響についてはADA制定後に改善されたという研究報告もある(DeLeire 2000)。ただし、この改善は、○1合理的配慮義務化に伴う障害労働者の生産性向上もしくは、○2技術進歩に伴う労働生産性の向上のどちらかの要因によるものか判別できないことに留意せよ。
(11)社会全体で合理的配慮に係る費用を負担するのであれば、国民の理解は必要不可欠であろう。単純に納付金を引き上げることによって全体の費用をカバーするというやり方も考えられないわけではないが、この方式では企業の収益率を引き下げることにつながり労働需要全体に負の影響が出る可能性もある。
(12)手話通訳事業に関する現状と今後の課題については、坂本・佐藤・渡邉(2009)を見よ。
(13)教育体制の充実には、科学的根拠に基づいた教育法の開発のみならず、高等教育における情報保障の問題も含まれよう。
(14)ただし、財源をどのように調達するべきかの議論を巡っては、単純に「お金持ちが負担すればよいから、法人税や所得税を上げればよい」という話にはならない。これらの税はそもそも景気循環に対して脆弱であるし、経済学の数々の実証分析が示しているように、法人税率の引き上げは資本逃避を促すことになる。所得税についても、労働の弾力性値と脱税・節税による歪みの費用がどの程度の水準になるのか慎重に分析した上で、検討しなければならない。
(15)松井(2010)を見よ。諸外国の障害者福祉予算の対GDP比平均が2.3%であるのに対し、日本は0.7%と三分の一以下の水準にある。
(16)この点について、執筆者は文部科学省科学研究費補助金若手(B)「聴覚障害教育および障害者雇用政策に関する理論・実証分析」(平成22-25年度)の研究代表者として、障害者雇用に関する計量分析を行なう予定である。
(17)障害者を扱った主な公的資料は5年ごとに行なわれている「身体障害児・者実態調査」と「障害者雇用実態調査」に限られる。
(18)Kymlicka(2002)を見よ。また、平等の最善の解釈を巡って影響力の大きい議論としてRawls(1971), Dworkin(2000), Sen(1985; 1992; 1997; 1999; 2009) を見よ。もっとも有望視されているSen教授の潜在能力アプローチの近年の発展は、Basu and Kanbur(2008a; 2008b)にまとめられている。
[参考文献]
Acemoglu, D. and Angrist, J. D. (2001) “Consequence of Employment Protection? The Case of the Americans with Disabilities Act,” Journal of Political Economy, Vol. 119, pp. 915-950.
Basu, K. and Kanbur, R. (2008a) Arguments for a Better World: Essays in Honor of Amartya Sen, Volume 1: Ethics, Welfare, and Measurement, Oxford: Oxford University Press.
Basu, K. and Kanbur, R. (2008b) Arguments for a Better World: Essays in Honor of Amartya Sen, Volume 2: Society, Institutions, and Development, Oxford: Oxford University Press.
Beegle, K. and Stock, A. (2003) “The Labour Market Effects of Disability Discrimination Laws,” Journal of Human Resources, Vol. 38, pp. 806-859.
DeLeire, T. (2000) “The Wage and Employment Effects of the Americans with Disabilities Act,” Journal of Human Resources, Vol. 35, pp. 693-715.
DeLeire, T. (2001) “Changes in Wage Discrimination against People with Disabilities: 1948-93,” Journal of Human Resources, Vol. 36, pp. 144-158.
Dworkin, R. (2000) Sovereign Virtue: The Theory and Practice of Equality, Cambridge, MA: Harvard University Press.(小林公, 大江洋, 高橋秀治, 高橋文彦訳『平等とは何か』, 木鐸社, 2002年).
Gunderson, M. and Hyatt, D. (1996) “Do Injured Workers Pay for Reasonable Accommodation?,” Industrial and Labor Relations Review, Vol. 50, pp. 92-104.
Johnson, W. G. and Lambrinos, J. (1985) “Wage Discrimination Against Handicapped Men and Women,” Journal of Human Resources, Vol. 20, pp. 264-277.
Jolls, C. and Prescott, J. J. (2004) “Disaggregating Employment Protection: The Case of Disability Discrimination,” NBER Working Paper 10740.
Jones, M. K. (2006) “Is There Employment Discrimination Against the Disabled?,” Economics Letters, Vol. 92, pp. 32-37.
Jones, M. K. (2008) “Disability and the Labour Market: A Review of the Empirical Evidence,” Journal of Economic Studies, Vol. 35, pp. 405-424.
Jones, M. K., Latreille, P. L. and Sloane, P. J. (2006) “Disability, Gender, and the British Labour Market,” Oxford Economic Papers, Vol. 58, pp. 407-449.
Kruse, D. and Schur, L. (2003) “Employment of People with Disabilities Following the ADA,” Industrial Relations, Vol. 42, pp. 31-64.
Kymlicka, W. (2002) Contemporary Political Philosophy: An Introduction, 2nd Ed., Oxford: Oxford University Press.(千葉眞, 岡崎晴輝訳『新版 現代政治理論』, 日本経済新聞社, 2005年).
Madden, D. (2004) “Labour Market Discrimination on the Basis of Health: An Application to UK Data,” Applied Economics, Vol. 36, pp. 421-442.
Rawls, J. (1971) A Theory of Justice, Cambridge, MA.: Harvard University Press.(矢島鈞次監訳『正義論』, 紀伊国屋書店, 1979年).
Schumacher, E. J. and Baldwin, M. L. (2000) “The Americans with Disabilities Act and the Labor Market Experience of Workers with Disabilities: Evidence from the SIPP,” Working Paper 0013, East Carolina University, Department of Economics.
Sen, A. K. (1985) Commodities and Capabilities, Amsterdam; New York: North-Holland.(鈴村興太郎訳『福祉の経済学:財と潜在能力』, 岩波書店, 1989年).
Sen, A. K. (1992) Inequality Reexamined, Oxford: Clarendon Press.(池本幸生, 野上裕生, 佐藤仁訳『不平等の再検討:潜在能力と自由』, 岩波書店, 1999年).
Sen, A. K. (1997) On Economic Inequality: Expanded Edition with a Substantial Annexe by James E. Foster and Amartya Sen, Oxford: Clarendon Press. (鈴村興太郎, 須賀晃一訳『不平等の経済学:ジェームズ・フォスター,アマルティア・センによる補論「四半世紀後の『不平等の経済学』」を含む拡大版』, 東洋経済新報社, 2000年).
Sen, A. K. (1999) Development as Freedom, New York: Alfred A. Knopf. (石塚雅彦訳『自由と経済開発』, 日本経済新聞社, 2000年).
Sen, A. K. (2009) The Idea of Justice, Cambridge, MA.: Harvard University Press.
坂本徳仁, 佐藤浩子, 渡邉あい子(2009)「聴覚障害者の情報保障と手話通訳制度に関する考察:3つの自治体の実態調査から」, 障害学会第6回大会報告論文, 立命館大学.
藤井麻由(2011)「アメリカにおける障がい者政策:実証分析のサーベイ」, 本書第5章所収論文.
松井彰彦(2010)「『ふつう』の人の国の福祉制度とスティグマ」,公開講座「〈障害〉の視点から考える政策的課題――障害学と経済学のコラボレーションに向けて」報告論文, 東京大学.