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「補論 手話通訳制度の改善に向けて」

坂本 徳仁 2011/07/22
坂本 徳仁櫻井 悟史 編 20110722 『聴覚障害者情報保障論―─コミュニケーションを巡る技術・制度・思想の課題』,生存学研究センター報告16,254p. ISSN 1882-6539 pp. 171-178

last update:20110728


第二部

第7章 補論 手話通訳制度の改善に向けて(*)


坂本徳仁(†)



 本補論では、前章で挙げた手話通訳事業に関わる諸問題のうち、○1手話通訳者の合格率の低さと人材不足、○2講座時間数や修了基準等の地域間格差、といった問題の背景にある制度的難点を検討した上で、改善に向けて必要とされる諸施策を考察する。
 最初に、手話通訳者の成り手がいないこと(手話通訳を専業とする人材の不足や手話通訳者の合格率の低さ)や手話通訳者の低賃金の背景には、手話通訳市場における価格統制策の問題がある。日本では、手話通訳の利用項目に制限を加えてはいるものの、基本的には手話通訳を無料で提供している。手話通訳者に支払われる賃金は各自治体の裁量で決定され、その賃金水準は現状では手話通訳者が自立できる水準にはない。したがって、図1にあるように、手話通訳者の公定賃金がWPの水準にあるため十分な通訳者を確保できず、手話通訳価格も無料に設定されているために、D(0)−S(WP) だけの超過需要が発生してしまうことになる。また、一般の労働市場で成立する賃金から得られる所得に比べて、手話通訳の公定賃金から得られる所得は極めて低い水準にあるために、手話通訳者を目指す者は低い公定賃金のもとで働いても構わないと思う副業者か主婦層に限られてしまい、専業で働く人材の不足という問題が発生する(1)。さらに、手話通訳者の低所得と通訳価格の無料という2つの事態が需給を一致させず超過需要を招いてしまうために、手話通訳者の多くが研修や学習活動に専念する暇もないような環境の下で働かざるをえなくなるものと思われる(2)。

図1 手話通訳市場の需要と供給[省略]

 続いて、養成事業・利用状況における地域間格差、手話サークルへの依存といった問題の背景には、自治体間の財政格差の問題がある。手話通訳事業は地域生活支援事業に位置付けられ、各自治体の裁量に委ねられているために、事実上、地域間格差が容認されている状況にある。聴覚障害者の情報保障問題を人権問題として捉えるのであれば、手話通訳事業を自治体の裁量に委ねることなく、全国水準で均質化することが本来の道であろう。手話通訳事業の財源は国が出し、実施主体としての市町村には今まで以上の水準で手話通訳事業を展開させる必要があるように思われる。
 上述のような価格統制および自治体間の財政格差に起因する問題を改善し、手話通訳制度における構造的問題(○1手話通訳者の低賃金・人材不足、○2手話通訳制度の地域間格差)を是正するためには、以下の三つの施策が必要だと考えられる。
 第一に、手話通訳者の過少供給状態を改善するために、手話通訳者のインセンティブを高める施策が必要である。たとえば、留保賃金水準にまで手話通訳の公定賃金を引き上げたり(3)、手話通訳の専門職化・細分化によって賃金水準を決定する方式に変更したり、手話通訳価格を供給者に設定させることなどの対応によって、手話通訳者の需給の不一致問題を解消することができるようになるだろう。手話通訳の専門職化・細分化といった施策については、○1手話通訳者の認定基準を全国で統一化し、手話通訳の評価手法を確立、○2通訳資格を教育職・司法職・医療職などの専門職に細分化し、1〜3級といったように通訳者の技能水準に応じて等級化すること(4)、○3各資格・等級に応じて通訳者の賃金を変更すること、といった対応が考えられる(5)。だたし、資格化・等級化には情報の非対称性による逆選択の問題を緩和できるという長所がある反面、モラルハザード(本稿では、いったん資格を取った者が通訳技術を磨くことを怠ってしまう結果として生じる非効率性の問題)やレントシーキングの問題(本稿では、有資格者が高い超過利潤を保持するために、資格取得や昇進を抑制することで生じる非効率性の問題)があることに留意しなければならない。もちろん、モラルハザードの問題は資格取得後も数年おきに手話通訳技術の検定を義務付けるなどすることで対処が可能であるが(6)、レントシーキングの問題については通訳の適切な供給が保証されるように、手話通訳技術の客観的な評価手法の確立と適正な賃金の体系が求められる(7)。この他、公定賃金がそれほど高くない状態で、いたずらに通訳資格の水準を高めて供給制限を行なえば、超過需要の問題は悪化するだけなので注意が必要である。また、これらの施策を行なうための財源が別途必要になるため、増税もしくは手話通訳料金の見直しなどが要求される(8)。
 第二に、大学や労働現場における手話通訳の公的な保障の必要性が挙げられる。現状では「医療」や「学校」、「集会」といった形でしか手話通訳を無償で用いることはできないが、今後はろう者の権利保障のために大学や労働現場での手話通訳の公的な保障が必要不可欠になる。手話通訳の活用幅を広くすることには「ろう者の人権・言語権の保障」といった主目的の達成の他に、○1手話通訳の需要増加に伴う通訳者の所得上昇の可能性(9)、○2ろう者の雇用や学習にかかる企業・自己の費用負担の低下に伴う社会参加の促進、といった副次的効果も期待される。とくに、ろう者全体の進学率や就業率が芳しくない現状(10)にあっては、手話通訳の公的保障を通じたろう者の社会参加促進によって、今までにかかっていた諸々の費用(ろう者の生活保護費や各種障害年金など)を抑制できるかもしれないのである(11)。
 最後に、養成事業や利用状況における自治体間の格差をなくしていくために、再分配や人権に関わる諸政策は国の財源をベースとした方がよいだろう。養成事業については手話サークルとの連携自体は問題ではないが、どの自治体でも十分な手話講習会を受けられるように講師研修を充実する必要があるかもしれない。この他、手話通訳者・士が十分に食べていける環境が整った場合には、手話通訳養成事業を有料化して受講者の学習するインセンティブとプロ意識を高めてもよいかもしれない(12)。


[注]
(*) 本稿は、坂本(2010) および坂本・佐藤・渡邉(2011)の一部をもとに執筆されている。本研究に当たって、執筆者は日本学術振興会科学研究費補助金「ろう教育の有効性:聴覚障害者の基礎学力向上と真の社会参加を目指して」(研究代表者:坂本徳仁、課題番号20830119)およびみずほ福祉助成財団から研究費の助成を受けている。記して謝意を表したい。
(†)国立障害者リハビリテーションセンター研究所障害福祉研究部流動研究員、立命館大学衣笠総合研究機構客員研究員。
(1) 手話講習会の受講者の多くが手話通訳資格の取得を目指していないことや、資格取得を目指しているとしても本業にする気はないことについては坂本・佐藤(2010)を見よ。また、本稿では手話通訳者の技術水準が均質であることを前提として話を進めているが、通訳者の技術水準を理論モデルに内生化した場合には、モラルハザードの問題や質の異なる通訳市場の問題を分析する必要が出てくる。
(2)手話通訳者を対象にしたアンケート調査(全通研2002; 2006)によれば、仕事に関する困りごとや不安・悩みについて「手話通訳技術の向上が進まないこと」を挙げた通訳者が2000年時点で全体の57.0%(2002年時点では54.2%)、「研修や学習活動に参加できないこと」を挙げた手話通訳者は2000年、2002年で各々20.9%、22.4%の水準にあった。介護市場でも同様の問題が発生しており、価格統制によるサービス販売価格とサービス購入価格の乖離はサービス提供者に超過需要に対応するための激務と低賃金を押し付けてしまうことにつながりやすい。
(3)近年の道徳的動機づけに関する数理モデルの研究(Francois 2000)では、留保賃金以下の賃金水準であっても、一定の高さが保証されれば、作業に必要とされる努力水準を引き出せる場合もあることが示されている。詳細は、道徳的動機づけの理論モデルの観点から福祉分野の人材問題について展望した林・奥島・山田・吉原(2011)を見よ。
(4)通訳資格を細分化したとしても、業務独占資格にする必要はないし、業務独占に伴うレントシーキングの弊害を十分に考慮する必要があろう。重要なことは、手話通訳者に技術を高める誘因を与えることと、手話通訳を自立した職業として成立させることである。余談であるが、関連団体(全日ろう連 2006; 2008)が主張しているような、ろう者の生活相談業務に対応するための専門資格は必要ないかもしれない。行政手続き・福祉制度・カウンセリングに通じた手話のできるソーシャルワーカーの育成費用・資格化の費用が高くつくようであれば、わざわざ新しい専門資格を作らずとも、従来のソーシャルワーカーとの連携を強化するだけで十分であろう。現状では資格化の話よりも先に、行政手続きや福祉関係の専門用語について分かりやすい手話表現を教える研究会の実施や、通訳者とソーシャルワーカーの連携における諸課題を話し合う交流会の開催といった形でソーシャルワーカーとの連携強化を図ることが費用対効果に優れているように思われる。
(5)全日ろう連や全通研では、手話通訳研修の充実化を主張している(全日ろう連 2006; 全通研1997; 2004; 2006)。しかしながら、単純に研修を充実化するだけでは、手話通訳者の善意に頼っただけの改革になってしまい、手話通訳の質と量を十分に保証することは困難であるし、依然として通訳者が通訳業だけで食べていくのは難しいと言わざるをえない。資格化や等級化には長所と短所があるのだが、それに関連する経済学的分析としてLaffont and Tirole (1993)を見よ。
(6)アメリカでは、手話通訳の資格取得後も定期的な研修を義務付けている。詳細は手話通訳者登録協会(Registry of Interpreters for the Deaf)のホームページ(http://www.rid.org/)を見よ。
(7)なお、全日ろう連および全通研が長年主張してきた手話通訳者の正職員化の要求(全日ろう連・全通研1992; 全通研1997; 2004; 2006; 2008b; 全日ろう連2006; 2008)は人材不足問題を本質的には解決するものではない。現状では、手話通訳者間の技術格差が大きく、さらに、通訳者の技術を評価する確立された方法も、通訳の技術水準や内容に応じて賃金を変えるという仕組みもない状況にある。このような状況の下で単純に「手話通訳者の正職員化」を進めれば、質の悪い通訳者であっても正職員になれる可能性が出てきてしまい、手話通訳者になることの期待利得が高まって質の低い通訳者の供給の増大を招く可能性が存在する。正職員化については、○1公定賃金を引き上げて、手話通訳の需給の不一致を解消するように努めること、○2手話通訳技術を正当に評価する方法を確立すること、○3技術や通訳内容に応じて賃金を変更する枠組みを設けることで手話通訳への需要喚起や通訳技術向上のインセンティブをもたせた上で検討する必要があろう。
(8)増税によって手話通訳者の公定賃金を高める場合には、公定販売価格と公定購入価格の乖離が増大するため、死荷重もその分だけ大きくなる。それに対して、料金体系の見直しは死荷重を小さくできる可能性があるものの、聴覚障害者の言語的権利を侵すことになり、人権の観点から問題がある。聴覚障害者への所得の一括移転は効率的であるものの、一般の了解は得られない施策であろう。この他、合理的配慮として企業や大学に情報保障の費用負担を求めれば、その費用が当事者に転嫁されたり、最初から当事者を排除するといった形で聴覚障害者に負担が一方的に押し付けられてしまう可能性がある。この点について、詳細は本書第8章の議論(坂本 2011b)を見よ。
(9)言うまでもなく、現行の公定賃金のままで需要が増大すれば、超過需要の問題は悪化するだけである。公定賃金を高くするか、市場に連動させるような賃金体系に移行することで、手話通訳者の所得は十分な水準に落ち着き、質・量ともに十分な通訳者を育成できるようになるだろう。
(10)年度によってばらつきがあるものの、平成16〜21年度の文科省「学校基本調査」によれば、聾学校高等部から大学・短大への進学率は11〜18%と低い数値である。また、問題の多い指標ではあるものの、厚労省「平成18年障害児・者実態調査」によれば、聴覚障害者全体での就労率は2割程度にすぎない。聴覚障害者の進学・就労状況についての詳細は本書第1章の議論(坂本 2011a)を見よ。
(11)無論、「費用」という論点だけで人権に関わる問題を論じることに正当性はない。しかし、今回のケースでは、ろう者の社会参加の促進が福祉費用も低くできるかもしれないという意味で行政を説得する材料にはなるだろう。付言しておけば、どんな場合においても費用と便益の関係を完全に無視して議論をすることは現実的ではないし有害ですらあるだろう。
(12)手話通訳者が専門職として認知され、手話通訳のみで生活ができる環境が整っているときには公的な養成事業はほとんど必要なくなるだろう。手話通訳で生活できるようになれば、福祉系の大学や専門学校が自発的に手話通訳の専門講座を開設するようになると考えられるためである。実際に、アメリカでは手話通訳者が経済的に自立できることから複数の大学に手話通訳者の養成課程が設立されている。アメリカの手話通訳者の賃金水準や営業・雇用形態について論じているものとしては、Fischer(1998)およびHumphreys(2007)を見よ。


[参考文献]
Fischer, T.J. (1998) Establishing a Freelance Interpretation Business: Professional Guidance for Sign Language Interpreters, 2nd ed. , Hillsboro, OR.: Butte Publications.
Francois, P. (2000) “Public Service Motivation as an Argument for Government Provision,” Journal of Public Economics, Vol. 78(3), pp. 275-299.
Humphreys, L. (2007) The Professional Sign Language Interpreter’s Handbook: The Complete, Practical Manual for the Interpreting Profession, 3rd ed., W. Van Nuys, CA.: Sign Language Interpreting Media.
Laffont, J.-J. and J. Tirole (1993) A Theory of Incentives in Procurement and Regulation, Cambridge, Mass.: MIT Press.
坂本徳仁(2010)「手話通訳制度の経済分析」,聴覚障害者の情報保障研究会[編]『財団法人みずほ福祉財団研究助成「効率的かつ持続可能な手話通訳制度の構築可能性に関する研究」研究報告書』, 聴覚障害者の情報保障研究会.
坂本徳仁(2011a)「聴覚障害者の進学と就労:現状と課題」, 本書第1章所収論文.
坂本徳仁(2011b)「障害者差別禁止法の経済効果」, 本書第8章所収論文.
坂本徳仁, 佐藤浩子(2010)「手話講習会受講者の属性と動機づけについての調査研究」, 聴覚障害者の情報保障研究会[編]『財団法人みずほ福祉財団研究助成「効率的かつ持続可能な手話通訳制度の構築可能性に関する研究」研究報告書』, 聴覚障害者の情報保障研究会.
坂本徳仁, 佐藤浩子, 渡邉あい子(2011)「手話通訳事業の構造的課題に関する考察――金沢市・京都市・中野区の実態調査から」, 『コアエシックス』, Vol. 7, pp. 131-140.
全通研(1997)『手話通訳者の実態と健康についての全国調査報告書――1996年2月調査』, 全通研.
全通研(2001)『手話通訳がわかる“本”』, 中央法規.
全通研(2002)『社会的健康あっての人間らしい労働とくらし――手話通訳者の労働と健康実態調査の報告』, 全通研.
全通研(2004)『登録されている手話通訳者の健康と労働についての抽出調査報告書――2003年11月調査』, 全通研.
全通研(2006)『2005年度手話通訳者の労働と健康についての実態調査報告――手話通訳者が健康でよりよい仕事をするために』, 全通研.
全通研(2008)『登録されている手話通訳者の健康と労働についての抽出調査報告書――2007年10月調査』, 全通研.
全日ろう連(2006)『手話通訳事業の発展を願って――聴覚障害者のコミュニケーション支援の現状把握及び再構築検討事業平成17年度報告書』, 全日ろう連.
全日ろう連(2008)『聴覚障害者の相談の資格・認定に関する調査研究及び聴覚障害者相談支援へのケアマネジメント等の研修事業報告書』, 全日ろう連.
全日ろう連, 全通研(1992)『日本の手話通訳者の実態と健康について――全国調査の概要』, 全日ろう連, 全通研.
林行成, 奥島真一郎, 山田玲良, 吉原直毅(2011)「公共的活動におけるモラル・モチベーション」, 『経済研究』, Vol. 62(1), pp. 1-19.



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