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部落解放運動の過去・現在・未来(6)――山内政夫氏(柳原銀行記念資料館)に聞く

インタビュー記録/聞き手:山本 崇記


◇柳原銀行記念資料館
http://suujin.org/yanagihara/

【趣旨】
 これは、現在、柳原銀行記念資料館事務局長を務め、住民運動やまちづくりにかかわり続けてきた山内政夫氏に、今後の部落解放運動の展望がどうあるべきかというテーマについてご本人の関心に沿いながら行ったインタビュー記録の最終回(第6弾)である。

【山内政夫氏・略歴】
 1950年、京都市東九条生まれ。小学5年生の時から丁稚として働き出す。陶化小学校・陶化中学校卒。17歳のときに自主映画『東九条』の制作に監督として参加。その直後に共産党から除名。工場などで働きながら、地域の青年たちと反差別の運動に取りくむ。30代になってから資格を取り鍼灸師として開業。1984年に部落解放同盟に加入。2003年〜2006年まで部落解放同盟京都市協議会議長を務め、辞任。現在は、柳原銀行記念資料館で地域史(部落史)を丹念に掘り起こしながら展示としても広く発信し、さらに、崇仁・東九条でまちづくりに携わっている。


■インタビューの手応えはあったか
<山本>
 このインタビューも6回目となり、「部落解放運動の過去・現在・未来」の最終回ということで、山内さんにインタビューをさせていただきたいというふうに思います。よろしくお願いいたします。これまで5回ほどインタビューをさせていただきまして、振り返ると2007年11月から2008年2月と5月、そして2009年6月、2010年6月というふうに続いてきました。改めてインタビュー読み直してみると、すごく重要な時期を乗り越えたところで、また、次の課題が迫ってきているというタイミングでお話をいただいたのかなというふうに思いました。最初は、現市長の門川氏が立候補された選挙の前にお話をさせていただいて、そのなかでも同和行政と解放運動に対する厳しいご指摘をいただきました。その後、「同和行政終結後の行政の在り方総点検委員会」が門川市長の下に設置され、山内さんも傍聴され、私もできる限り参加しました。その議論の推移と、結果的にどのように同和行政が見直されていくのかという過程を観察し2008年にインタビューをさせていただいたと思います。
 この「ポスト同和行政」という文脈のなかでは、最終的に総点検委員会が同和行政の廃止の方向性で結論を出し、一方で山内さんが携わっている東九条でのまちづくりにおいてこれまでの隣保事業などに新しいテーマと方向性を見出そうとしていく渦中で、インタビューをさせていただきました。さらに、この間には、寺園敦司さんのインタビューをお受けになって、京都市人権文化推進担当部長であった淀野実さんとご一緒に、解放運動に対して、あるいは同和行政に対して厳しいご指摘をされていますね★1。最初にこの寺園氏のインタビューに応じ、また、淀野氏と一緒に公の場で議論を行い、運動・行政に対してメッセージを発しようと思った動機から聞かせていただけますでしょうか。

<山内>
 動機は2つあります。1つは今年3月に行われた京都市人権研究集会(京研)の分科会に参加したときに、解放同盟の役員が水平社の原点に我々は帰っていくと発言していた。多数の人々を中央に集めるという今までの運動ということじゃなくて、地元の住民が地道に頑張ってやるんだということを方針に置くという認識で来ていたけれども、そうではなくてやっぱり水平社の原点に帰るというこの幹部の話がね、やっぱり糾弾を持ってするとかいうことで、よくない方向での運動の原点回帰をしようとしている。それって水平社創立時に徹底して糾弾するということで、多くの間違いをしているということはこれはもう部落史のうえでも明らかで、社会的に許容されない厳しいケースもある。これまで差別、糾弾して社会的に混乱というのも生じていたということもあるしね。
 具体的な例でいうと、大阪の松島の廓の女性が差別発言をしたということで謝罪文をとっている。それって変なことでね。だから置かれている現状から言うと、その当時の部落の人よりも厳しい環境にあったわけで、そういう社会的な状況を全然考えんと糾弾したということがやっぱり糾弾闘争が息づまった原因にある。そこに帰っていくという話が分科会であったわけです。これは全然社会の流れを捉えていない。何もかもあかんと感じたから、やらなあかんと。これが1つ目の動機。もう1つは3月29日に寺園さんからインタビューを受けたんだけど、新しい部落解放同盟京都市協議会の体制ができるというようなことがあったから、これはほんまに出なおすんだったら、ある意味厳しいことも言うといた方がいいのかなということでね。厳しい話は、あんまり今まで知らなかったけど、助言をするということはなんとなくありましたが、今度は厳しく言ったということです。
 6月1日付の解放新聞京都市協版では、「補助金問題、京都市職員不祥事問題を契機とした京都市政の攻撃などに十分な反撃態勢が構築できなかった」と述べている。これは社会全体の反発を買うだろうし、解放同盟は終わりだと思う。

<山本>
 その5回のインタビューはWEB上で公開させて頂いています。寺園さんからのインタビューももちろん公開されているということで、病気といろんな事情があって解放同盟をやめられた直後から地元に帰られて運動されていたと思うんですけれども、インタビューでのメッセージというものが、つまり反響というんですかね。誰でも見れるような状態にずっとしてあって、あえて発信していく必要があるということで、かなり意識的にメッセージを送られてきたのかなというふうに思うんですけども、実際にその反応、反響というのはあまりなく、私がさせていただいたインタビューや寺園さんがされた今回のインタビューで手ごたえというものがなかったということなんでしょうか。

<山内>
 もう既にインターネット上にアップされて前篇・中編・後編と掲載されています。だいたいの人は読んだのではないかと思うけど、読んでないかもわからないね。反応は全然ない。寺園氏に若干抗議めいた電話が1本あったぐらいかな。私の方には誰も来なかったから、実際深く考えていないというか、多分読んでないんだよね。それって社会運動としても致命的なことで、どのように自分たちが見られているかということが全然わかってないわけで、だから結局厳しく見られていることを前提にして、運動を構築するなんていうことが、できるような組織では多分なかったんだろうな。
 行政論ももちろんあるけれども、それだけではなくて社会運動としては本当にものたらない。革命組織というか、中央集権というか、民主集中制をとるというね、立て前の組織なのに全然機能してないし、できていない。多分まだわからんけど反応はないやろう。ただし、今回は一番最後に「このインタビューが終わりではなく始まりや」と言った。寺園氏のインタビューもあれは本当に始まりであって、もっと細かい話、別の話しもたくさんある。運動の中枢にいたわけやから、しかも、客観的にその運動を評価するということをいつも意識していたわけだから、いつかどっかで書いてやるとか、しゃべってやるとかという意識もあったわけで、そういう意味でいうと、限界がはっきりしたんだろうなと思う。

<山本>
 そういう意味では、私からのインタビューも「過去・現在・未来」というシリーズで6回になるわけですけども、山内さんの方から「最終回」という位置付けで打診して下さったこともあり、あまりポジティブなことではないのかもしれませんが、解放運動に対しての提言やメッセージというものは発信するということには、一つ、区切りをつけ、言うべきことを言っておくというような意味合いがあるんでしょうか。その辺はどうでしょうか。

<山内>
 そうやね、やっぱり戦後の部落解放運動というのは大きな欠陥があって、あのような組織の現状で何かを発展させるとかは無理なんだろうなと思いました。戦後の運動を本当に総括しなくてはいけないという感じがますますある。その点から言っても発展性は多分ないだろうし、ドラスティックに何かがあってつぶれるということではなくて、金がなくなって、必要がなくなって、差別が厳しい現状ではなくなって、次第になくなっていくのかなと思う。多分、京都市協でいうと、もう機能していないし、七条支部でも同じことかなと。今残っているのはなんとなくやろうという感じであって、歴史的に総括するとか、解放理論や歴史の検証とか、そういうふうなことはもう自然になくなっていくのかな。それこそ以前からもなかったけどね。少しは考える人がいるんかなと考えて、論争したいなと思ったけども、ついに土俵には上がってこなかった。不戦勝かな。勝ちやね。

<山本>
 一方で行政の方は補助金の問題を受けて厳しい総括に入り始めたというような評価も寺園氏のインタビューのなかで話されていて、滅多にないというか、現役の人権文化推進担当の部長である淀野氏と同席され、議論された。担当行政の淀野氏とあえて同席して、議論を試みたというところの意図というのはどんなところにありますか。

<山内>
 私が解放同盟を批判したことに対して、これにより客観性を出したことと、やっぱり総点検委員会を決断して、行政のなかでも深刻な議論があって、いろんな諸事件があいついでいる中で総括をやりぬくという、門川市長のそういう決意はもちろんあったけども、しかしそういうことを実際やりぬいたという、やっぱり淀野さんという強力な行政マンとしての姿、特に彼は部落差別がなくなっているという話はしていなくて、特別施策というのは意義があったのかと問い、行政のなかで反省するということだよね。そういうことを多分よく知っているし、実践した。一方では寺園さんという解放同盟に対してずっと「市民の目線」ということで厳しい意見を発信してきた人がいる。淀野、山内、寺園、この混乱の時代とは、部落問題の論客が、正面から議論するにはふさわしいと思う。


■コミュニティセンターからいきいき市民活動センターへ
<山本>
 そういったなかで今も話しに出てきましたけど、総点検委員会というのが門川市政になってからの大きな目玉というか、一つの画期だったと思うんですけども、その総点検委員会の報告書が出て以降、崇仁地区では将来ビジョン検討委員会というのが設置され、その報告書も既に出ているわけですね。総点検委員会以降の行政側の総点検のあり方そのものというか、同和行政の見直しの推移というものをどのように評価されていますか。

<山内>
 京都市は何回もこういった目におそらく遭ってきたのだろうから、特に刑事事件に発展する寸前ということもあったわけやから、20年前に起こった公金詐取事件の問題、10年前に起こった同和学習会不正事件、この二つが大きな出来事で、それを経過するなかで本当に行政が差別問題を解決するときにどうあるべきかということで、かなり基本的な方向を変えて、特別施策ということが必ずしも部落にとってよいのかどうかということを行政なりに再検証した。費用対効果、これをきちっと考え、議論をしたということで、しかも淀野さんにいたっては、差別はなくなったわけではないし、行政もすべてが差別問題のプロであるべきだということを中で述べられているのね。そういう意味では行政がきちっと行政らしくふるまったのかな。一方、運動としてはなんかえらそうなことを言ったわりにはしりすぼみで終わったのかな。それは部落差別の歴史に対する抑え方、性格であり、朝田理論しかないという行政闘争の考えでは、それにまわりの人々を説得することができなかったということの結果かなと思う。しかも、わからないことに、山科でね、差別発言事件が起こって、それをまた10年前と同じように差別確認会を行っているということだからますますそういうことが増していくと。
 ますます展望がないところに運動を追いやっていくやろう、そういう懸念があったから、私が解放同盟に違和感があったんやけども、大リーグのベースボールと日本の野球ほど違いがあるということで、ずっと組織のなかにおったけども、やっぱりあんじた通りに推移している。いきいき市民活動センターのことはこれもほんまに何ていうかな、解放同盟の体質が変わっていないということを天下にしらしめた。指定管理になるわけだから、解放運動の成果を強調するのとは全く違うんだから、審査委員会が述べている通り、これまで部落に投じられた資産、公共施設を使って、これからは市民を支えるような、そういう社会的な貢献をしようということで、問題提起されているのね。それが自分たちの運動に行政も税金を使って同和行政に近いようなことを望んでいた。これがわかってないということなんで、それを天下にしらしめた結果やと思う。

<山本>
 淀野氏が次のように言っているのは興味深いですね。「オールロマンス闘争」、あるいは「朝田理論」に影響されて部落問題あるいは同和行政をやらなきゃいけないというのがずっとあって、アクセルを踏み続けてきたのが、総点検委員会以降、ブレーキが一旦かかると途端にやらなくてもいいんだということになりかねないところが行政内部には存在していて、その辺を危惧している点です。部落差別というものに対して、どのような認識を持って、どのような施策で対応していくのかということが、特別施策ではなく、一般行政のなかで「オーディナリー」なものとして実施していくということはいったいどのようなイメージなのかは具体化されていなかった。
 市民活動を支援するという趣旨で、菊浜小跡地の「ひと・まち交流館」のブランチということで、地域のコミュニティセンターだったものを、さらに市民に広げて利用に供するというか、社会的なストックというか、資源を生かしていくようなことが提起されたと思うんですけども、崇仁地区では「下京いきいき市民活動センター」が、4月から始動をしていますね。山内さんは「崇仁まちづくりの会」に関わられているわけですけども、ご自身の関わっておられる地区における転用に関しての評価というのは、どうでしょうか。

<山内>
 去年は11月中旬にかけて指定管理をするということで、部落解放センターを管理している法人が、四つの地区でエントリーしたうちの一つしかとれなかった。地元がとるということはあんまりうまくいってへんのかなと。やっぱり旧の隣保事業の延長上の意識がある。そういうふうにずれていく。これはますますマズイ展開をし、指定管理になってから時間がたっているわけではないけど、現時点でいうとそうではないときの方が活発にやっているという状況で、「よーいどん」というかっこうでスタートしたけれども、地元あるいは解放同盟が出遅れているのかなという感じだね。もちろん他人事じゃないんだけども、やっぱり行政依存の体質が残っている。方向が厳しいのかなということだから、名前とかネーミングとかかっこうは変えても、結局は前と同じような状況なのかなという感想はあるね。議論としてやっぱり変わっていかない。せっかく親心でこういうふうな方向をとったけど、やっぱりちょっと厳しいのかなと。もうしばらく経ってみないとわかんないけどよかった。

<山本>
 4年間の指定管理だと思うんですけど、先日も東三条の旧コミセンに行ったときは、6月の貸館が抽選になっていました。東三条の場合はひと・まち交流館2階の市民活動情報センターを運営しているNPOが指定管理を受けており、部落とは関係のないような市民団体の方が力を発揮しているのかなというふうに考えざるをえないような数字が徐々に出始めている。今回の施設の評価ですね、山内さんはプレゼンテーションにも崇仁の場合は参加されたということだったんですけども、その市民活動という点に関してどういうふうにコミセンをあるいは市民活動センターを活用していくことができるのだろうかという点で、何かご自身が関われている活動との関係から考えておられることはありますでしょうか。

<山内>
 やっぱりNPOなどで、地元が主体的に活動するということを結局わかってないんだなということが、地元自身も含めて、そういう感じがあるね。NPOから会費、会員からの会費、それと一定の財源を確保することがあったうえでの寄附、それから行政の事業、これがバランスよくやられなあかんわけですね。いずれも部落の関係のNPOが危惧したようにやられていない。地元もあんまり協議がなく事務の人たちだけがやるということがあって、同和事業の体質とあんまり変わってへんのかなというふうに感じる。これは単純ではないけど、もうしばらくしたらだいたいの数値が出るから多分今日の段階で予想をすると厳しいのかなと。ただ、これから表に出るからということで、全部しゃべってしまうとさしさわりがあるような話しもあるからね。ちょっとその辺は私の関わりの難しさがあるのかなという感じやね。しょせん今までは周囲の人がさせて、税金の無駄遣いを反省すべきなわけだから、今のメンバーを急に意識変革させるなんてことはちょっと難しいのかなと。

<山本>
 山内さんご自身は崇仁地区では柳原銀行記念資料館の事務局長として22回の特別展、4回の企画展などをされてきました。柳原銀行との連携が、いきセンの審査結果のなかでも指摘されていたと思うんですけれども、資料館からのアクションについてはどのような問題意識をお持ちですか。

<山内>
 15年間ほどずっとボランティアということで関わってきたということだけど、ボランティアという意味では単に資料館の事業を助けるという意味じゃなしに、無休やけども、主体的に関わってやると、そういう意味でボランティアという表現がつくんだけども、そういう成果があり、地域の方にも認知されてきたし、その影ではこれからもそういうことが続くんだと思う。少しでも金銭をもらうということは、地元の役員に対して注がれている視線からすると途端におかしなことをしているという目で見られる訳だから、その辺を強く意識しないと。
 部落問題についてきちっとただしく本当のことを伝えていくということはこれからも続くから、資料館も下京いきいき市民活動センターの1階を使う。それと船鉾保管庫を柳原銀行記念資料館の「別館」ということで、準備している。崇仁全体に対するいきセンの評価は、全体的に言うとかなり厳しかったと思うけども、資料館としては精一杯やれることをやるというふうに考えている。それを現在準備もしているし、進行していることもあるんで、それをうまく遂行するということだね。

<山本>
 2011年の3月から4月にかけて企画展をされたと思うんですけども、そのときに「「性同一性障害」と多様な性のあり方」というテーマを扱われました。そういうようなテーマを通じて新しい発信ということも考えられたというふうな感じだったんでしょうか。

<山内>
 部落問題に関わった資料展示をしている記念館としては、部落問題の本質ということから考えたら、やっぱり差別ゆえに社会的に排除されるということがダメなんだということなんで、部落そのものは別に社会的に歴史の上ではちゃんとした社会参加をしてきて、一定の収入もあってということなんで、そこから標準世帯がどういう目で見るか。その結果として排除されるということがやっぱりよくないというまさに本質をついた問題だと思う。特に在日の問題とか、ハンセン病の問題、今回の「性同一性障害」の問題、差別の本質をわきまえた活動をやるということを証明するものになったということで、しかも非常に幅が広がった。ただ、地元の人はそれをどう見ているか。これはやっぱりなかなかぴんときてない。とにかく差別を見る、そういう反応は昔からのことで、柳原銀行の運動でも説得し、努力してきてやってきたことなんであって、作戦を練って地元の考えを踏まえてということが必要だったんだろう。これからもそういうことは続くので、そのうちの1つとしては非常によかったなというふうには思っています。

<山本>
 寺園さんのインタビューのなかでも、「部落問題をはじめ様々な社会的差別がある」と語られており、「はじめ」という言葉が少し気になっていまして、山内さんが今後扱っていきたいテーマというか、社会問題ですね、そのようなものが既に頭のなかに何かありましたら教えて頂きたいのですが、いかがでしょうか。

<山内>
 やはりこれまでやってきたことを検証するなかでわかったけども、自立していかなあかん。そのためにどうすべきかということであって、寺園さんのインタビューでも触れられているんだけども、私は部落解放運動とは厳しい部落差別の社会にむかって真の姿を情報発信し、時には自分の身さえ投じて、自分の知識を使って、部落解放運動を新しいというわけではないけど、真の姿を見せたということは差別をなくすことにつながっていくんだろうと。これはハンセン病の高齢者の人と交流することがあって、元気に旺盛で、若い時と同じ活動を身を削って啓蒙活動のために世界中を走り回っている。まさにそういうことをやるということなんであって、どこかに頼るという話じゃなくて、やっぱり自立をしようと。しかもその姿で社会的に貢献する。
 同和学習会不正事件について、部落解放同盟の役員会は、行政に対して謝って辞めた。これがなかったら本当に持たなかった。10人の支部長と30何人かの行政の職員も逮捕される可能性があったんで、起訴される可能性もあった。そういうことを言うとやっぱりもうかけねなしに転換するために、謝罪と辞職をするということをやってきた。そういう人間の道徳心のなさ、人間の解放を唱える者の罪が多い。何らかの発展性を出すような展開を考えていくことがずっと頓挫している。いきいき市民活動センターついても崇仁まちづくりの会が68点、同和会関係が63点だったという厳しい現実の下、十分それが許される状況ではないということが悲しいけどはっきりしている。それはここだけの状況じゃなくて、暗い状況が崇仁全体に覆っているのかなというところがある。


■解放運動の<かたち>を模索し続けて
<山本>
 5点差の重みというのを結果が出た後もずっと強調されていたと思うんですけども、暗い影を投げかけながらも去年から取組まれた楽市洛座のお祭りなどは東九条地域の団体なんかも巻き込みながら幅広いネットワークで取り組んでいくような場となっていると思うんですけども、今年も2回目が行われました。その可能性とはどのようなものだと考えておられますか。

<山内>
 5点差と言うのは単に表面上の話しじゃなくて、ちょっと頭をひねったらあるいはもっと大差がつくはずだった。崇仁まちづくり推進委員会そのものが否定されたようなそういう側面があって、つまりこの15年間の自分の努力をちゃんと評価されておらず、あるいはそのことの認識が十分ないということなんでね。ただ、実績ではなくて今後どうするのかという展望、NPOがどうするのかということが十分理解されていない。まだまだ行政依存、行政闘争主義の影が色濃いよね。崇仁まちづくり推進委員会でもそのレベルの人々が多くいることが多分あるよね。せっかくビジョン検討委員会で北の方の地域と連携してまちづくりの新しい組織を作ってという議論をしているにも関わらず、地元中心の側面が強かった。これを考えなあかんね。
 実際に、エリア・マネジメントの視点から言うと崇仁・東九条の連携というのは、これはあるんで、単に東九条改善対策委員会の役員、崇仁のまちづくりの役員が連携するという話だけじゃなくて、しっかり基本的な主体的力量をおさえることができれば、新しい形で、京都駅の東、鴨川よりも西の範囲をつなげられると考えている。それは行政依存ではなくて、エリア・マネジメントをしていく組織として民間活力とどう向かい合うかということになっていくだろう。そういう甲斐性をつけるということなんで、きっかけは第1回、第2回の祭りをするという話じゃなくて、祭りというのは象徴なんであって、より強い連携、しかもお互いの自治連合会レベルの話しに多分なっていけるだろう。そこをおさえられたら、行政依存から脱しきれない人々の最終的な合意がなくても、決定する仕組みに向けて一石を投じることができるのではないか。しかも、それが今度は唯一京都市内の旧同和地区のなかで、事業が残っている崇仁で展開されるという話しなので、やっぱりおもしろい展開になってきたのかなというふうな感じはあるよね。

<山本>
 楽市洛座に関してもその背景にある問題意識や仕掛けという点からすると、積みあげられてきているという感じだと思います。柳原銀行に関しても明石民蔵研究を山内さんご自身はしながらも、いろいろなテーマにも含みこんで差別をなくしていくという基本的な点に立脚しながら、輪を広げていくような取り組みをしながら、今言ったような対象範囲ですね、エリアで運動していくというようなことに関して着々と進めている。
 そういう部分というのは先ほどのインタビューのなかでも東九条であったり、崇仁での楽市洛座が始まる前からも取り組みをやっていこうとメッセージを発していたと思うんですけど、崇仁のみならず東九条も含めたときに、反響はどうだったのかなというのが気になっています。淀野さん自身が書かれた「『オールロマンス』を乗り越えて」という論文がありましたね。そのなかでも東九条の位置づけというものに対して非常に踏み込んだ評価をされていた。東九条における自主的な取り組みであったり、崇仁との関係性の中で自治会とか町内会であるとか、あるいはいろんな諸団体があると思うんですけども、現在の建替えの運動の推移とか水準というものが旧同和地区あるいは崇仁地区と比較したときにどのように評価できるのかについてお聞かせいただけますでしょうか。

<山内>
 北河原の改良住宅の建替えが10月には完成する。これは非常に大きかったね。解放同盟のなかにおったときもあるいは崇仁の活動でもそれぞれの組織の一員として関わって、いろいろやったけども、その辺の経験値がものをいって何の認識もなかった北河原の改良住宅ね、建替えのことは簡単ではなかった。それはやっぱり北河原建替推進委員会は経験がないけども、自分たちでやっていこうというメンバーとの交流の中で10年間かかって完成させた。これって最短なのね。行政に問題提起をして10年目に建替え。約20億ほどのお金がかかっているわけだから、そういう意味でいうと運動のあり方に関しては一石を投じているのではないか。しかも、この北河原建替推進委員会は、建て替えたら一応目的が達成するので解散する。解放同盟が同和行政のなかで限りなく税金の投入を行ってきたことから言うと、全然違う内容である。社会運動というのは社会的にも役割を果たせなければ解散する。そうあるべきだと。
 目的を達成すればそれはもう漫然とだらだらするというのは、何か違う目的があるように思われる。そういうことを示すという意味があって、しかも、今度は東九条の住民全体に寄与すると。今度は地域交流事業をする。プロポーザルの方でいうと、対抗馬がいなかったが、点数は90点だった。これは崇仁や他の旧同和地区のいきいき市民活動センターのエントリーと比べても点数を取っている。ただ、10点の減点となっていることをどう考えるのか。これは行政に確認したわけでないけど、崇仁との連携や東九条全体のまちづくりのこととか、地元(東九条)との関わりに関してあまり明快ではなかったということが減点の対象になったのかなというふうな話が入ってきている。やっぱり住民と周辺の人々の調整というか、それはある程度課題としてはある。社会福祉法人の存在が大きいと思うけども、やっぱり何というのか、運動というか、そういう観点からいうとまだやっぱり依存の体質があるんで、それを10年間の中でかなり思い切って変革したわけだから、今後、新しい住宅の管理の問題、駐車場の管理の問題、さらに東九条の新しい在り様が変わるとして、そういう事業を単なるまちづくりだけじゃなくって、小さい運動だけれども、全体をひっぱっていく起爆剤というか、北河原の若者たちが中心となっていくということになるやろう。それを今、積み上げようとしている状況ですわ。


■改良住宅建替運動以降の展望とは
<山本>
 以前お話を聞いたときに、器のがっちりした組織じゃなくても、部落解放運動は可能だとおっしゃっていたのがすごく印象的でした。そのときに北河原の建替推進委員会のことを具体的には想定されていて、東九条のまちづくりのなかでもあんまり全体のまちづくりに参加することが少なかった北河原市営住宅の町内会であったのが、特に若い人たちを中心に運動が立ち上がり、10年間でものすごい成果をあげられた。目的を終えたということで、いさぎよく解散すべきだと。とはいえ、これからの運動にとっても極めて重要な主体であり得るし、そうならなきゃいけないだろうということがあると思うんですけども、具体的にはどのような住民運動というものを考えていらっしゃるのかなというのを聞かせて下さい。

<山内>
 少なくとも東九条の中心の地、ど真ん中だからそれは象徴的やろうし、単に建て替えることによって地域全体が変わってくる。それまではいわゆる山王自治連合会との関係も含めてわりと改善委員会もそうだけど、それを乗り越えるということができなかった。特に厳しい差別の問題なんかもあったりして住民間でいろんな思想と利害で対立した場合、北河原改良住宅が建て替えられることによって新しい領域に入った。まだ周辺の理解ができてないんだろうと。そういうところとまちづくり全体をちゃんと施策として方向性を定めてね。地域交流事業も来年にもプロポーザルがあってね、もう1回意見を言えるわけだから、しっかりしたことをせなあかんだろう。厳しい視線を意識しながら全体をひっぱっていくとかはないんで、東九条の運動をやっている人が中心になればいいということで、私が手を引いた時もあってね。
 私の感触でいうと手を引いた時期に山王まちづくり協議会の方に主導権が移ったということがあったんで、今回は私もずっと中心になって関わっているんでやっぱり地域を変えていく若い人が中心になってやっていかないとあかんから、組織の形態は変わるけど、そういうものは構築しようと。ただし崇仁のエリア・マネジメントもちゃんとバックアップとして登場するだろうし、それに対して適切なアドバイス、強力な調整を持ってやることは従来できなかったんだけど、多分それは私の仕事かなという自覚はあったんです。それはやっていく。同時に、やっぱり事業としても展開していこうということなんで、経済の自立なくして、真の自立はないわけだから、そういうふうなことをもう一度積み重ねることになるのかな。

<山本>
 この間いろいろなまちづくりの先進事例と言うか非常に興味のある事例に対してアンテナをはられてきて、例えば特定まちづくり会社であるとか、まちづくり全体の一種のアドバイザー的な役割を果たすスーパーバイザーであったりとか、地域の歴史を集積して発信していくような資料館の構想であったりと、住戸を住民自身で管理していくようなハードだけど住民が本当に力をつけていくということが問われているような、いろいろな事業形態というのを研究され、勉強され、いろいろ蓄積されてきたと思います。そういう事業の形態あるいはあり方について、今、力を入れてやっていきたいなというのはおありですか。

<山内>
 最初はやっぱり北河原の住宅と駐車場の管理、そして、福祉事業を通して雇用を生みだす。これは急な話しではなくて、この10年間の議論を通じて一番仕事をしたのはここやろうし、それは多分正当なことだろうし、行政からもそういう方向性を示されているので、専従を一人たてて、もう1人ぐらいをアルバイトとしてね、その辺のことぐらいは多分できるだろう。それを中心にしてつめていき、あとはそれぞれのまちづくり組織を中心にしたエリア・マネジメントの中で、まちづくり会社を立ち上げる。その事務所として、6月には小さい借家を確保したんので、そこに改善対策委員会の事務所も置きながらやっていく。誰かがどっかでそういうことをやってみせなあかんのでね。
 小さいことやけどもその2つのことを自分としては立ちあげようとしている。今まで考えてきたことだから。さらに改良住宅のメンテ、土地の有効活用、人権に関わる事業、この辺は別に大学関連組織に手をつけて、さらに東九条全体の事業としてもね。それが今度はセンターでするのか。北河原の集会所か。最近、市営住宅もいろいろ使いやすくなっている。そこに公的なものをするのか、着々と準備は積み上げてきているから、もう一月、二月で姿が見えてくるだろうし、実際やってみせなあかん。行動あるのみということだね。

<山本>
 将来ビジョン検討委員会でも提起されたエリアをマネージするということに関して、この間ずっとこだわってきたと思うんですけども、東九条でも住民間と行政の間でかなり時間を割いて、『東九条地区住宅市街地総合整備事業の見直し案』というのが作られて、具体的にワークショップなどを通じて公園の整備などに着手しはじめてきているとも思います。これは1つ東九条という地域(主に旧4ヶ町)だと思うんですけども、それぞれのエリアでどういうふうなことをマネージするのかということを考えるためのベースを作られてきたと思うんです。この『見直し案』というのは多文化交流の事業がソフトにあるとすると、こちらはどちらかというとハード面で都市計画部局の担当だったと思うんです。この『見直し案』にいたる過程やその後の経過においても行政が足踏みしていた部分があると思うんですね。どのような評価をエリアマネージとの関係からされているのかなと思って聞いていたのですが、いかがでしょうか。

<山内>
 少なくても行政としては、崇仁と東九条の膨大な空き地をどう使うかということは、金銭的な問題ではなくて、政策的にもやる力がないだろうと。大学などを小学校の跡地に持ってくるのは難しいことではないだろうと。ほとんど空き地に関してはやっぱり地元でまちづくり会社と少し大きなNPOを立ちあげて、いろんな専門家と議論せなしゃあない。それはまずは小さく事業を展開すべき。これは希望の家でいうと、この10年間一緒に議論してきたけれども、やっぱりエリア・マネジメントするということは法人の範囲外であるということだった。
 しかし、一角にはおってもらわないと困る。そういうこともあって、大きくは私の人間関係とか、いろんな人脈、経験、そういうことを通して、大きな枠で団結するということがあって、初めてこの辺の土地が有効活用をされる。経済活動の領域に入ってきたのかなと思う。私は金は持っていないけど、金のある良心的資本と繋がっていこうと思う。過去でいうと本当に金儲けできる機会がいっぱいあったけど、信用がないとうまくいかない。しかし、資本の方でどう考えるかも大事やろ。それは実現可能な方向性を示しているだろうし、無欲な人間もそういう提案をすべきやし、そういう時代だから、小さくてもほどよく展開せなあかんなと。
部落の運動はこれから変わっていくと思うのね。同和会も割れているし、解放同盟も割れていく。物事が大きく変わる。その時に黙って流されたらあかん。あらゆる可能性を秘めて、そういう意味でこの6回のインタビューを通してかなりの突っ込んだ話をしたから、これを是非若い人も参考にしてもらいたい。基本的なスタンスとしては大きく社会貢献するという視点がないとだめやと。厳しいけども仏のこころを持って奥の手を使う。これがわからんようでは運動の将来はない。これは非常に大切なことだと思う。

<山本>
 この6回のインタビューを経て、運動に対しても行政に対しても広く一般の市民の人たちに対してもいろんな形で問題提起やメッセージを発信されてきたと思うんですけ。ご自身がこれから1 、2ヶ月後にはその姿がより明確になってくるとおっしゃっていたような事業であったり、取り組みであったりするものに対してどういうふうな関わりであったり、どういうふうな注目であったりを求めていらっしゃるのか。運動、行政、市民に対してそれぞれどのような期待というか、メッセージを発していただけるのかなというので、このインタビューを締めていきたいというふうに思います。

<山内>
 3月11日の震災の問題があって、世の中がごろっと様変わりしたと思う。やっぱり運動というのは社会貢献すべきやし、これから、東九条や崇仁の方にも提案しようと思っている訳だけど、それぞれの足下を見直すとが、苦手ということもあるからね、多分、民主党政権の総理大臣も変わっていくやろう。京都でも貢献していこうといった動きもあるから、早くそういう手をあげて、具体的には、菊浜や崇仁、東九条など京都駅の東、鴨川の西辺りのまちづくりに関して、被災者にきてもらうということでそういう人が入ってくればまたまちの持っている社会的資源が活用され、住民も変わってくるんじゃないか。貧しい人がいったん入ってきて暮らして人間関係を作ってまた大きく進歩していく。途中の住まいの役割をしていくことが大事なのかなと思う。例えば東九条でいうと市営住宅の空き住戸あるんでこれはもちろん政策的に考えるべきである人口を増やす課題もある。とはいえ、できれば北河原の改良住宅に関して、震災用の住戸にするなど、本当に命からがら逃げてきた人に対して貢献すべきやということです。
 そういう方向性がないともうあかんやろう。一方では地元の住民は自らの問題を先に考えるだろう。一応見えているんだけど、具体的に思っていることはそういうことだけど、していることは京都駅の周辺の東、この広大な土地をどう使うべきか、これは京都のまちづくり全体、あるいはこれから日本社会の変わり目のときに、京都はやっぱり世界中から注目をされているんで、ここにどのようなものを持ってくるかということに関していろいろな人が注目しているだろうし、民間の資本もかなりいろんな人がアプローチしてきているんで、そういうことも考えて一早く地元ができるかどうかにかかっている。そのために地元の合意をとりやすい組織を作っていきたい。それは崇仁のまちづくり推進委員会、東九条のまちづくりのメンバーとの最終的な合意がないとできないという話しでもない。それは先を見つめる人間が早く方向を示すということでやっぱり今までの運動の経験を生かすというチャンスになるのかなと。勝手にそういうことを考えているのね。

<山本>
 そうすると最終的にはひろく市民の人たちに対して東九条であったり、崇仁に注目してもらい、参入してきてほしいというような感じですかね。

<山内>
 テレビで東京のまちづくりの話が取り上げられていて、その評価をめぐって評論家が議論している。例えば銀座と新宿とかを比べて何を持ってくるのかという話しじゃなくて、日本が世界中からどう見られているのか。例えば上海とかね、ニューヨークとかそういうものと比較してどういうふうに持っていくかということは、東京の銀座と比較するような位置に崇仁・東九条があるということね。そういうことをにらんだうえでのまちづくりの構想を練らなあかんだろうね。そこで力を発揮できなかったら将来永遠に悔いを残す。明石民蔵がやったようなことをすることは多分できへん。そこに凝縮されていくだろう。それが問題だね。つまり、崇仁や東九条に精通し、具体的なまちづくりの構想を持ってそれを確実に実行していくという人間が必要だし、さらにプラスすると運動の面でも社会全体にどう貢献していくかが問われる。この間のインタビューでは、部落解放運動の過去、現在、未来ね、そして、歴史、まちづくり事業、運動と、これをずっと提案してきている。しかも、実践が伴っているし、リアルタイムで発言しているから、かなりの人に読んでもらって、何かをつかんでもらえてきたのかなというふうには思っている。

<山本>
 明治から大正にかけて明石民蔵が実践してきたことを乗り越えるといったら不遜なことかもしれませんけど、そことの格闘の中からエッセンスを抽出し、現代に必要な運動をしていくような人物にならなきゃいけない。そういう人たちを育成していかなきゃいけない。そういうことができなければ運動も地域も衰退していかざるをえないという覚悟がおありだということですね。2007年から6回に渡るインタビューにお付き合い下さり、誠にありがとうございました。

<山内>
 いやいやこちらこそ。こうやって意見が言える場をもらえて、ほんまにありがとう。感謝しています。

<山本>
 本当に、ありがとうございました。

【了】

【註】
★1 寺園敦司氏「マリードフットノート」に前・中・後篇と掲載されている。 

【注記】
 本インタビューは、2011年6月9日に行ったものである。ここに記されている内容は山内氏に確認して頂きご了承頂いたうえで、WEBでの公開を行っているものである。また、軽微な字句修正及び補足(括弧)、註は山本が加えた。本インタビューは、2010年度ニッセイ財団高齢社会実践的研究助成の成果の一部である。


*作成:山本 崇記
UP: 20110726 REV:
全文掲載  ◇高齢化する社会的マイノリティ集住地域における福祉の担い手と社会的資源の効果的活用に関するシステム開発
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