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「顔の異形(いけい)は「障害」である――障害差別禁止法の制定に向けて」

西倉 実季 2011/06/23
松井 彰彦・川島 聡長瀬 修 編 20110623 『障害を問い直す』,東洋経済新報社,25-54. 

last update:20111221
■構成
1 「異形」を理由にした差別
2 障害差別禁止法と「障害の社会モデル」
3 アメリカとイギリスの障害差別禁止法
4 「障害者」という名付けにともなう問題
5 日本での差別禁止法制定に向けて

1 「異形」を理由にした差別

「生まれつき顔にあざのある人、交通事故に遭って顔にけがを負った人、やけどによって容貌が変化した人、顔や喉のがん手術のため傷痕が残った人。……疾患や外傷のために顔に特徴をもつ人たちが日本にはおよそ一〇〇万人いると推計できる。」(p.26)

「異形の人々が直面している困難のうち、セルフヘルプ・グループの集まりで頻繁に話題にのぼるなど、大きな問題として認識されているのは雇用差別である。」(p.27)

「異形差別を法的に禁止しようとするとき、二つの方法が考えられる。第一に、異形を含めた「見た目」にもとづく差別を禁止する独自の法律を制定するという方法である。アメリカでは従来、「見た目」差別は男女差別や人種差別などの他の理由による差別との絡みで問題にされてきたが、一九九〇年代以降、独自の差別類型として登場しつつある。連邦法レベルではないが、サンタ・クルス市条例、ワシントンDC法、サンフランシスコ市条例など、身体的特徴や体型などにもとづく差別を禁止する法律が制定されている(森戸 二〇〇八)。
 第二に、異形を「障害」と捉え、障害差別禁止法の枠内で対応していくという方法である。異形が「障害」? では、顔にあざや傷のある人が「障害者」になるの? 意外に思われる読者も少なくないかもしれないが、諸外国で実際に採用され、一定の成果を上げているのは、このやり方なのである。本章が支持するのも、異形を含めた「見た目」を独自の差別類型として設定するのではなく、異形を「障害」と捉えるという方法である。その理由は、差別事由の外延を広げて「見た目」差別を立法政策の俎上に載せていくよりも、すでに立法化の動きがある障害差別禁止法の適用範囲を広げていく方がはるかに現実的だからである。」(p.28-9)

「……本章で展開するのは、日本で障害差別禁止法を制定する際には異形の人々をその保護対象にするべきだという主張である。たしかに障害差別禁止法は必要だけど、異形の人たちはその対象に含まれるべきなの? 機能制約があるわけじゃなくて、ただの見た目の問題なのに? そんな声が聞こえてきそうである。本章では、こうした疑問を念頭に置きながら、異形差別の問題を検討することは障害差別禁止法の本質やその理念的支柱である「障害の社会モデル」の意義を改めて確認することにつながるということを示したい。」(p.29-30)

2 障害差別禁止法と「障害の社会モデル」

「社会モデルの「因果関係の側面」に注目するとはどういうことなのか、もう少し詳しくみていこう。やや図式的に整理すれば、医学モデルは「インペアメント」と「ディスアビリティ」という二つの要素からのみ構成され、前者と後者とを等号で結ぶか、または前者が後者を生じさせるという因果関係を説明する。これに対して社会モデルは、「社会的障壁」という三つめの要素を追加し、これがインペアメントをもつ人にディスアビリティを生じさせるという因果関係を説明するのである。社会モデルにしたがえば、障害者が被る不利益を解消するには、それが生じる根本原因である社会的障壁を除去しなければならない。これを障害差別の文脈に当てはめると、障害者が被る不利益を解消するには、差別行為を法的に禁止しなければならないという主張が導かれる。医学モデルを採用している限り、こうした主張が引き出されることはけっしてない。つまり、障害差別禁止法の「障害」の定義に医学モデルではなく社会モデルを採用する意義は、インペアメントそれ自体が個人に与える影響からインペアメントへの不適切な反応が個人に与える影響へと、争点を移行させるところにある(Degener 2004)。このとき、法的保護の対象に含まれるべきなのは、インペアメントにもとづく差別を受けている人々ということになる。こうした意味で、社会モデルにもとづいて「障害」を定義するとは、従来の「障害」の定義を拡張する試みであり、障害差別を被る人すべてを法的保護の対象にしていこうとする企てなのである(川島 二〇〇八)。(p.32)

3 アメリカとイギリスの障害差別禁止法

3.1 アメリカの障害差別禁止法における異形

 「一九九〇年に制定され二〇〇八年に改正された「障害をもつアメリカ人法(Americans with Disabilities Act: ADA)」における「障害=ディスアビリティ」とは、「その人の一つ以上の主要な生活活動を実質的に制約する身体的・精神的インペアメント」であると定義されている。加えて、「過去にそうしたインペアメントをもっていた経歴があること」および「そうしたインペアメントをもっていると見なされていること」も「障害」であると認められている(三条二項)。この定義から明らかなように、ADAにおいては、インペアメントは「障害」とイコールではなく、「主要な生活活動を実質的に制約する」という条件を満たして初めて「障害」と認定される。
 雇用機会均等委員会(Equal Employment Opportunity Commission: EEOC)が発行するADA施行規則によると、ここでの「身体的インペアメント」とは、生理学上の不調や解剖学上の欠損、そして「容姿の異形(cosmetic disfigurement)」を意味する。インペアメントに異形が含まれるとき、とりわけ重要になるのは、「障害」の三つめの定義、いわゆる「見なし規定」である。見なし規定は、「一つ以上の主要な生活活動を実質的に制約する身体的・精神的インペアメントをもっていると見なされている人」を保護する。この定義の意義は、インペアメントにより生活活動を実質的に制約されたり職務遂行上の能力が低下したりするわけではないが、インペアメントに対する他者の否定的な反応により、実際には制約を受ける場合にも保護対象となる点にある(長谷川 二〇〇八a)。異形それ自体は、生活活動を制約するインペアメントではないかもしれない。しかし、周囲が異形の人に対して否定的に反応することで、結果としてその人の生活活動が制約されてしまうことは十分ありうる。」(p.33-4)

3.2 イギリスの障害差別禁止法における異形

「イギリスで一九九五年に制定され二〇〇五年に改正された障害差別禁止法(Disability Discrimination Act: DDA)における「障害=ディスアビリティ」とは、「通常の日常生活を遂行する能力に実質的、かつ長期の不利な影響を及ぼす身体的・精神的インペアメントをもつ場合」であるとされている(一条一項)。ただし、一部の規定は、過去にそうしたインペアメントをもっていた経歴のある人にも適用される(二条)。
 付則では、第一条の補足として「重度の異形(severe disfigurement)を要素とするインペアメントは、通常の日常生活を遂行する能力に実質的、かつ長期の不利な影響を及ぼすものとして取り扱われるべきである」と述べられている(付則一の三条)。DDAの所管大臣が発行する指針によると、「重度の異形」の例としては、傷痕、あざ、手足や体位の変形、皮膚病などが含まれる。重度であるかどうかを決定するのはおもに異形の程度であるが、それが身体のどこにあるのか─たとえば、顔にあるのか背中にあるのか─を考慮に入れることが必要であるとされている。」(p.36)

3.3 ADAとDDAから学ぶこと

「もし障害差別禁止法の保護対象を身体・知的・精神障害という障害者手帳を保持している人だけに限定するとするならば、現に差別を受けているにもかかわらず、彼らは法律から取りこぼされてしまう。そうしたことが起きないよう、インペアメントの範囲を広げ、「障害」の定義を拡張していく必要があるというわけである。また、現在は「障害」をもっていなくとも、過去にもっていたという理由で差別行為を受ける場合がある。さらに、実際には「障害」をもっていないのに他者からもっていると思われれば、障害差別は生じうる。もし障害差別禁止法の保護対象を現在進行形でインペアメントをもっている人だけに限定するならば、現に差別を受けているにもかかわらず、法的救済の対象にならない人が出てきてしまう。そうした事態を避けるため、「過去のインペアメント」と「他者から見なされたインペアメント」を追加し、「障害」の定義を拡張していく必要があるというわけである。」(p.41)

4 「障害者」という名付けにともなう問題

「異形の人々を障害差別禁止法の保護対象に含めるべきだという主張に対し、さまざまな立場からの批判がある。雇用の分野をはじめ、これほどの不利益を被っているにもかかわらず、なぜ法的保護の対象にならないのか。日本で障害差別禁止法を制定する際にはその保護対象に含めてほしいという異形の人がいる一方、「障害」という言葉を冠した法律のお世話になどなりたくないという人もいる。」(p.42)

「このことを確認したうえで、三つの論点を検討していこう。まず、第一のパイの奪い合いに対する危機感は、明らかな誤解にもとづいており、杞憂にすぎないことがわかるだろう。差別禁止法の保護対象を拡大することは、ある種の特別待遇を受ける法的資格を与えられる人々の範囲を拡張することではない。よって、障害差別禁止法における「障害者」の定義をどれほど広げようとも、金銭やサービスの争奪戦などけっして起こりえない。同じように、第二の福祉制度の対象となる人々へのスティグマ付与への懸念も、単純な誤解から生じている。福祉制度がもっぱら特殊なニーズをもつ人への「お情け」と考えられている側面は否定できないとしても、障害差別禁止法は金銭やサービスの受給とはそもそも無関係であるから、心配されているような受給者へのスティグマ付与は当てはまらない。障害を理由にした差別を被る者を法的に保護することは、ミーンズテストによる「障害者」の選別とは異なる。
 もっとも難しいのが、第三の当事者のアイデンティティ問題である。
……では、「アイデンティティが傷つく」という言葉が異形の人々自身から発せられるときはどうだろうか。……本章が代わりに提案したいのは、次の二つの方法である。
……つまり社会モデルは、障害者が経験している活動の制限や数え切れない不利益を、個人の身体それ自体ではなく社会的障壁や周囲の不適切な反応の結果と考えることで、社会のせいにする可能性を開いたのである(Thomas 2002b, Shakespeare 2006)。問題の所在が自己の身体から社会へと外在化されることで、障害者は自己を恥じたり責めたりする必要はなくなる。なぜなら、彼らは社会のせいで「障害=ディスアビリティ」を負わせられている存在なのだから。非難されるべきは、社会であって障害者ではない。このとき、「障害者」とはスティグマを必然的にともなう名付けではなく、みずからを無力化させる社会を告発するための名乗りとなりうる。
……しかし、自分にとって顔のあざや傷痕には「そこにそれがある」という以上の意味はないのであるから─すなわち、まったく「ふつう」なのであるから─「障害=インペアメント」をもっている者とされること自体にアイデンティティが傷つくのだ、という人々もいるかもしれない。この場合、「障害=ディスアビリティ」の意味をいかに転換しようとも、名付けにともなう問題は回避できない。ここで必要となるのが、「障害=インペアメント」をより普遍的なものと捉える視点である(Bickenbach et al. 1999)。身体の機能や姿・形に関する「正常/異常」の線引き、つまり何がインペアメントかはそれを浮かび上がらせる社会的・政治的文脈のなかで初めて分節化されるのであり、アプリオリに存在するのではない(Hughes and Paterson 1997)。インペアメントが可変的で文脈依存的だとするならば、「障害」はもはや一部の人々の望ましくない属性ではなく、可能性としては誰もがもちうるという意味で人間の普遍的状態である。このとき、インペアメントをもっていることはむしろ「ふつう」となり、そこから「異常」や「特殊」といった否定的意味は取り除かれる。
 先に示したのが、「障害=ディスアビリティ」の意味を転換させる「ディスアビリティの社会モデル」の普及だとするならば、こちらの方法は、「障害=インペアメント」の意味を転換させる「インペアメントの社会モデル」の普及である。」(p.44-7)

5 日本での差別禁止法制定に向けて

「大きな課題が残されているとはいえ、ADAやDDAにおいてなぜ異形の人々がその保護対象とされたかといえば、彼らが現にインペアメントを理由とする差別を被っており、法的救済が必要とされたからである。私たちはこれらの具体例から、社会モデルにもとづき、インペアメントの範囲を拡大するというやり方を学ぶことができる。障害者制度を社会モデルの観点で見直すとは、このモデルから導かれる「社会的障壁の除去」─差別禁止法の文脈では「差別行為の禁止」─という課題に取り組むことであり、そのためにはまず、法的保護からこぼれ落ちる人が出てこないように「障害」の範囲を拡大していくことが求められる。」(p.49)

■言及

障害学研究会での堀 智久のコメント

@労働の場に限定して言うと、なんらかの属性X(たとえば、肌の色、出身地など、この場合には顔の異形)が、その労働の場で求められる能力と無関係であることを主張する場合、属性Xが何であるかを特定する必要はあるか。つまり、本論文の場合、顔の異形は障害である、とまでいう必要はあるか。

A機能の障害と姿・形の問題を区別するにあたって、他人によって代替可能か、あるいは社会によって解消可能か、という点は、やはり重要な論点ではないか。たとえば、介助によって障害が解消されることがある一方で、姿・形の問題は、その人にまとわりついて離れないものとしてある(ように感じられる)。障害が社会的につくられた、という言い方が実践的に支持されるのは、本来であれば、それは社会的に解消可能なはずだ、というメッセージをともなうからである。たとえば、@で指摘したように、顔の異形を理由に就労させないことは解消可能だが、それは本来、その属性Xがなんであってもよいはずである。その人にまとわりついて離れないものとしてある姿・形の問題それ自体を解消するというよりは、それが労働の場で求められる能力と関係がないことを問題にし、解消を目指すものである。

Bとすると、顔に異形のある人の側から、顔の異形を障害として捉えることのためらいが発せられるのは、顔の異形は「ふつう」だと言いたいから、というだけではないのではないか。むしろ、顔に異形のある人にとって、それは自分にまとわりついて離れないものであるからこそ、またそう慣れるものでもないからこそ、普段は気にしないように努めているものである。なるべく気にしないようにやり過ごす、という消極的にも見える処世術を軽視できない。

Cもちろん、顔の異形が「異常」となるのは、人々の価値観によるものだろう。その意味で、つくられたものである。だが、悠長にいつ到来するかわからない、人の姿・形に価値を与えない社会を待つこともできない。これは途方もないものを相手にするように思える。だから、まずは労働の場に限定して、という西倉のスタンスは支持できる。だが、戦略的な観点を別にすれば、@の理由から「顔の異形は障害である」と言う必要は必ずしもないし、また障害差別禁止法の対象に顔の異形が含まれたとしても、実際に労働の場で有効に機能するかは別問題である。


*作成:堀 智久
UP: 20111221 REV: 
障害学 ◇障害学研究会   

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