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防災とバリアフリーを経済コストで測るな――被災障害者の危機は人災だ

福島 智 2011/04/28 『毎日新聞』2011-4-28朝刊:10,「これが言いたい」
http://mainichi.jp/select/opinion/iitai/news/20110428ddm004070030000c.html


 空気ボンベを背負い海に潜るスキューバダイビングは、よく知られている。では、地上で暮らしながら、常に「目に見えない海水」に潜った状態で生活している人たちのことをご存知だろうか。重い病のために、酸素吸入器や人工呼吸器を常時使用している人たちのことだ。
 仙台市太白区の土屋雅史さんもその一人で、4年前、全身の筋力が徐々に衰える筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症した。人工呼吸器やたんの吸引器が命綱だ。
 53歳の今、全身で動くのは眼球だけだ。その目の動きでパソコンを操作し、一文字ずつ言葉を刻み、この度の震災体験をつづった。
 「突然大きな横揺れ、すぐ停電。呼吸器の非常アラームがビーッと鳴った」
 土屋さんが普段「潜水」を続けていられるのは、電気によって人工呼吸器などが動いているからだ。しかし停電になれば、頼りはバッテリーだけとなる。いわばバッテリーの残量が、「潜水時」の空気ボンベの残量だ。
 「いきなり吸引器が止まった。40分のバッテリーだ」
 幸い、土屋さんは周囲の人の綱渡りのようながんばりで助かった。他にもきわどい例は多く、今月初めには停電の影響で亡くなった人もいた。
 これらの人たちが経験した生命の危機は、天災ではなく人災に属する。つまり、地震による長期の停電を、現行の福祉・医療施策が想定していなかったからである。
 ところで今、防災や原発の関係者の口から、「想定外」という言葉がよく出される。それを聞きながら、私は「防災とバリアフリー」の共通点を考えた。
 たとえば、障害を持つことは多くの人にとって想定外の出来事だろう。しかし、個人にとって想定外であっても、ある社会の中でどういう障害がどの程度の頻度で発生するのか、その全体的傾向は想定できる。その想定に従い、どんな人が人生のどの時期にどのように特殊な障害を持っても、きちんと生活できるように、最善の社会的取り組みを目指すのが、バリアフリーの基本理念である。
 一方、地震や津波など自然災害も、いつどこでどんな災害が発生するか、正確には想定できない。しかし、歴史的・地理的観点で、どんな規
模の災害が発生するか、その全体的傾向は想定できるはずだ。いつどこでどのようにまれな災害が発生しても、最善の社会的取り組みを目指すのが、防災の目標だろう。

 両者には、さらに二つの共通点がある。第一は、防災もバリアフリーも安全と安心、言い換えれば、人の命や夢や希望を守る営みだということであり、第ニは、いずれも経済的コストがこれらの取り組みへの制約要因になる点だ。つまり、発生頻度の低い障害や災害であればあるほど、それらへの取り組みは「コスト的に現実的ではない」とされてしまうということである。
 しかし、これはおかしな発想だ。本来命や夢や希望は、コストを計測できない価値である。それを経済的コストとてんびんにかける発想自体、根本的に誤っていないか。
 この度の大震災を経験した日本は、従来の物質的な豊かさとしての経済成長を目指すのではなく、人の命と生活の真の豊かさに力点を置いた、社会・経済・科学技術の発展を目指すべきである。
 3・11を人間中心の社会に向かう新たな日本のルネサンスの契機とすることこそ、生を断ち切られた人々の魂に報いる道なのだと思う。

 ふくしま・さとし(東京大先端科学技術研究センター教授) 9歳で失明、18歳で聴力も失い、盲ろう者となる。専攻は障害学、バリアフリー論。博士(学術)。


UP: 20110505 REV:
災害と障害者・病者:東日本大震災  ◇福島 智  ◇全文掲載 
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