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「エッセイ リハビリテーションとQOL−−主観/客観の裂け目から見える地平」

田島 明子 201103** 『支援』1,150-155p.

last update:20110801

1.はじめに
 おそらく、この「支援」という雑誌のなかには、介護に関する魅力的な話が様々に展開されているのではないかと思うが、私は作業療法士としてずっと働いてきたので、このエッセイでも、リハビリテーションをめぐる最近の問題関心について紹介をさせて頂こうと思う。
 リハビリテーションは、対象者の機能を回復したり、生活を再建したりすることが目的となる。介護ではその方の出来ない事を手助けするのだと思うが、リハビリテーションは対象者自身の生活能力を高めていくことに主眼が置かれている。概ねそうは言えるのだが、リハビリテーション学の歴史を良く眺めると、その支援の目的も、色々な影響を受けながら形を変えている。まずは、リハビリテーションの支援の目的がどのように変化してきたのかを簡単に振り返ることにしたい。

2.リハビリテーションの目的の変化
 リハビリテーションは、ADL(Activities of daily living:日常生活動作)能力の向上や生活自立を目指すものであるというふうに多くの皆さんは理解されていると思う。そもそもこのADLという考え方は、1945年にニューヨークのInstitute for the Crippled and Disabled でDeaverという医師とBrownという理学療法士によって生み出され、その後Lawtonという理学療法士などによって引き継がれて、リハビリテーションの目的として発展していったものである。
 しかし1970年代後半頃には、今度はQOL(Quality of Life:生活の質)という考え方が注目されるようになる。それには、1970年代のアメリカの障害当事者によるIL(Independent Living:自立生活)運動の思想からの影響があった。その思想的影響力としてリハビリテーション医師の上田敏は次の2点を挙げる1)。「自立概念の再考の促し」と「自己決定権の重要性」である。「自立概念の再考の促し」というのは、これまでリハビリテーション学が構成していた日常生活動作が自立してはじめて職業的・社会的自立があるといった順序に対する批判である。「自己決定権の重要性」は、たとえ職業的・社会的役割を担うことが困難な重度の障害を持っていたとしても、あらゆる重要な決定は本人によってなされることが大切であり、それが自立であるという考え方である。それは「ADLからQOLへ」というスローガンのようにもなった2)。
 「ADLからQOLへ」という動きは、1980年代に生じた様々な社会的出来事とも違和感を生じる考え方ではなかったため、当時浸透しやすかったのではないかと思う。特に1980年代前半には、世界保健機関が国際障害分類試案(ICIDH:International Classification of Impairments, Disabilities, and Handicaps)を公表したり、1981年は、国際連合が国際障害者年と定め、テーマを「完全参加と平等」としたりした年である。一方で、1982年には、三郷中央病院に見る悪徳老人病院の存在の指摘や、1984年には、宇都宮精神病院で患者が看護者の暴力で死亡するという痛ましい事件もあった。
 ところが1990年代になると、「QOL向上のためのADLレベル向上」が強調されるようになる。何故かと言えば、「ADLからQOLへ」というスローガンが、ADLはもはや重要でなく、ADLを抜きにしてもQOLの向上はありうると誤解される危険を察知してのことである。それは当時注目され始めた高齢者の廃用症候群へのアプローチの推進と無関係ではなかったはずだ。というのも、そのフレーズは、高齢者の活動性を向上させ、廃用を予防し、ADLの自立を一層向上させるという好循環が、結果的に高齢者のQOLにも繋がるという話と接続してもいるからである。
 2000年以降は、医療のアウトカムとしてのQOLを明確にするために、介入範囲や評価法の基準が示されるようになった。それは健康に関連したQOLとして健康関連QOLと呼ばれる。健康関連QOLが注目されるようになった背景には、疾患分布の変化、患者中心の医療化、健康に関するパラダイムシフト、医療資源の有限性に対する認識などがあげられるが、特に4つめについては、医療費の費用対効果を分析するための効用値(主観的選好を数値化したもの)として健康関連QOLが用いられていることを指摘できる。

3.QOLをめぐる主観/客観の裂け目
 確かに、専門家によって問題を発見されて、自分の気持ちを無視されて、この事がこれだけできるようになったのでよかったですね、と言われても、別にそんなことができるようになりたかったわけではないし、もっとこっちができるようになりたかったのに、と思うこともあるのだから、「本人の思い(選択や選好)」を大切にするQOLの考え方は重要な視点を提示していると言えるだろう。
 しかしQOLについては、これまでにも色々な人たちが色々な機会にその問題を指摘している。それらは大きく括れば、「主観」と「客観」の問題に分けられる。「主観」の問題としては、「本人の思い」が周囲の状況などに左右される可能性があげられるだろう。つまり、世の中には贅沢なAさんもいれば、慎ましいBさんもいる。AさんもBさんも電動車いすがあれば自由に外出できるが、Bさんは慎ましいので、高価な電動車いすは私にはもったいないとして拒否する。その差をどのように考えるかである。「客観」の問題は、主観的な「本人の思い」を客観的に捉えるとして、主観というのは本来、個別的で多様なものなのだから、そもそもそれをリスト化(客観化)できるのかということである。
 こうしたQOLをめぐる主観/客観の問題は、そのままリハビリテーション学におけるQOLの問題として移し変えることができる。例えば「主観」の問題は、そもそもリハビリテーションにQOLという考え方が取り入れられた時点ですでに抱え持ってしまった難問とみなすことができるだろう。「客観」の問題としては、例えば、1990年代・2000年代の動きを見ると、QOLの尺度化や数値化をしていこうとする動向として受け取れるので、これは「客観」の問題とみなすことができるだろう。
そうするとリハビリテーションは、QOLを支援の目的として位置づけたがために、かえって自らの足場を不安定なものとしてしまったと言えるのかも知れない。

4.IL運動の真意――「存在の肯定」
 しかしスタートラインに立ち返るなら、QOLはリハビリテーションと障害当事者の(リハビリテーションに対する批判的)思想との接点として始まったはずのものでもあった。それならQOLを支援の目的として展開してきたリハビリテーションは、障害当事者の思想との安定・調和した足場を作り上げたことにはなるだろうか。
 そのような視点でQOLをめぐる上述した歴史的変容を眺めるなら、当初「ADLの自立ばかりが自立ではない」という障害当事者の思想に賛同をしてその大切さを認めたQOLだったが、1990年代に入ると今度はQOLにADLを結び付けて、再びADLの重要性を強調し始めたのである。これでは障害当事者の思想との邂逅も結局のところ物別れに終わったとすら言えるのではないか。
 そもそも「自己決定権の重要性」や「自立概念の再考の促し」を主張した障害当事者によるIL運動の真意はどこにあったのか。「ADL自立」を目的とするリハビリテーション過程が自らの身体や行為、行動様式の不備と欠損を認識させられる過程と同じであることを肌身通して体感していた障害当事者は、QOLという新しい自立観を示すことで、自らの身体や行為、行動様式への否定観に抗議していたのだ3)。このようにQOLの出発点には「存在の肯定」という重要な意図が織り込まれていたのである。
 リハビリテーションにおけるQOLには、結局その肝心な意図が根付くことはなかった。逆に言うなら、その重要な意図が根付かなかったがために、その後に見るようなQOLの展開が生じたのかも知れない。

5.主観/客観の裂け目から見える地平――「存在の肯定」へ立ち戻ること
 そして、QOLの主観/客観の裂け目の中心地にいるのが、他ならぬ「本人の思い」なのではあるまいか。その裂け目は、「本人の思い」を支援の第一原則とすることの陥穽(落とし穴)を示しているのではないだろうか。「主観」「客観」の両面からその陥穽を確認していくことにしよう。
 まずは「主観」からである。ある事例を紹介しよう。
 老健施設入所中の男性Aさんは訓練をどうにかしてサボることばかりを考えている。「本人の思い」を支援の第一原則とするなら、本人が希望しないのなら訓練は中止と結論づけることも可能である。しかしAさんの脳卒中後の麻痺手はまだ回復途中で、このまま放置すれば、麻痺手は関節拘縮を起こしてしまい、良くなるはずの機能回復すら期待できなくなってしまうだろうと推測される。Aさんにそのことを説明しても、Aさんには認知症もあり、説明したときには「わかった」と言ってくれるが、翌日になるとやはり訓練を拒否する。
 多少加工しているが、私が作業療法士として経験した事例である。認知症高齢者の支援の場ではこのような事は割合良く生じるので、支援を経験した方なら「あるある!」思われたのではないだろうか。
この場合に「本人の思い」を支援の第一原則とするなら私は悶々としてしまう。なぜなら「麻痺手を放置したくない」という思いと葛藤が生じるからである。しかしそれは「本人の思い」を大切に思う支援態度と反立する支援態度があるからというわけでは必ずしもない。むしろAさんの身体を大切に思うからこそ、「本人の思い」を支援の第一原則とすることを手放しで称揚できないといった状況である。つまり「存在の肯定」(存在を大切に思う)という、さらに上位の支援原則を見立てた方が支援者の実感にもよりしっくりくるのではないかと思われる状況である。
 次に「客観」について考えてみよう。特に2000年代以降に見られるQOLの尺度化や数値化は「客観」について考えるための材料を提供してくれる。
 2000年以降、医療費の費用対効果を分析するための効用値として健康関連QOLが用いられていると紹介をしたが、この健康関連QOLのQOL観が、健康な多くの人たちのQOL観に偏重しているきらいがあることがすでに指摘されている4)。それを数値化した効用値で病者や障害者のQOL状況を測定したところで、多数派のQOL観から見た病者や障害者のQOL状況を測定したことにしかならないというのである。病や障害を得た人のQOLの数値は、多数派の能力主義的なQOL観が基準となって低い値となりやすい傾向があると指摘して間違いはないだろう。恐ろしいことに、この数値が医療費の費用対効果の分析に用いられ、医療費の分配を左右するのである。QOLが低いと見做された<生>は、多数派のQOL観からだけでなく、医療からもその生存が否定されることになるのだ。
 QOLは、本来、創発的であるとともに、多様性や多元性に溢れたものなのではないだろうか。確かに自力で出来た事による満足もあるかも知れないが、介護者Bさんの支援はいつも心地良いし、手際の良さに見惚れてもいるので、そっちの方が良いと思うかも知れない。しかし上述のような尺度化・数値化では、QOLの創発性・多様性・多元性の可能性は逆に摘まれていくことになるだろう。
 結論を言うなら、QOLは重要な支援の目的であることは間違いないだろう。しかしQOLが支援の第一原則になるなら、「主観」を見るだけでは支援実感としても十分な支援にはならないだろうし、「客観」を見るなら、病者や障害者の生存を否定する方向に働く危険が常に付きまとい、QOLの本来的な姿を思い浮かべても、創発性や多様性、多元性が見失われてしまうことに大きな問題があると考える。むしろ、QOLの本来的姿を取り戻す意味でも、「存在の肯定」(存在を大切に思う)を上位の規範的な支援原則として据えるべきではないだろうか。それはQOLのスタートラインへ遡り、障害当事者によるIL運動の真意に立ち戻ることでもある。

1)上田敏 1984「ADLからQOLへ――リハビリテーションにおける目標の転換(特集・クオリティオブライフ(QOL))」『総合リハ』12(4): 216-266.
2)同上
3)田中耕一郎 2005『障害者運動と価値形成――日英の比較から』現代書館.
4)サトウタツヤ 2010「QOL,再考(死より悪いQOL値を補助線として)」『生存学』2: 171-191.





*作成:大谷 通高
UP: 20110801 REV: 更新した日を全て
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