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「グローバル正義、ベーシックインカム、言語的正義」

齊藤 拓 20110325「国際研究調査報告 報告5」『生存学』Vol. 3,生活書院,pp. 248-50.

last update:20100311


グローバル正義、ベーシックインカム、言語的正義

ベーシックインカム(BI)論者として有名なベルギーの政治哲学者フィリップ・ヴァン・パレイス(Philippe Van Parijs)教授は世界規模の公正性すなわちグローバル正義(Global Justice)についてどう考えるのか。彼の招聘が決まったので論題は好きに決めろと言い渡された私が教授に論題としてお願いしたのは、彼自身のグローバル正義構想および、それと彼自身の国民経済(national)レベルの正義構想(BI論)との整合的な連関を示してもらうことでした。彼の発表を聞く限り、2000年代初め頃にロールズと往復書簡を交わしていたときの二元的なグローバル正義論から一元論的なそれへと立場を変えたようです。一元的なグローバル正義構想とは、大まかには、人類全体を構成する諸個人それぞれに何らかの平等主義的な最低水準(threshold)を保証するものであり、二元的なそれは――ロールズの『万民の法Law of Peoples』に見られるように――諸個人間の正義の在り方と個人からなる諸社会(peoples)間の正義の在り方とは異なると主張するものです。教授はいまのところ、理想としては、世界規模の持続可能な最高水準の無条件ベーシックインカムを志向すべきだと主張しています。ただし、諸々の先進福祉国家で現在達成されているジェネラスな保証水準がこのグローバル正義の水準にレベリング・ダウンされるべきだということではなく、国民経済レベルの平等基準とグローバルレベルの平等基準は違ってもかまわないとしており、その意味では二元的ですが、要点は、世界のあらゆる個人に一元的に適用されるべき何らかの最低水準は存在するのだとしているわけです。

このグローバル正義構想の実現に際 して、言語学者としても知られる教授は一つの決定的な前提条件として「グローバルなリンガフランカ」を指摘します。それは「正当とするに足るグローバル共同体global justificatory community」を強化する手段であり、それなくしてはグローバルな分配的正義を実現する諸政策の政治的実行可能性は高まらないと考えているようです。リンガフランカ――この世界においては言うまでもなく英語――の形成に対しては、文化的・社会的な保守主義者だけでなく多文化主義者のようなプログレッシブからも掣肘・妨害が試みられていますが、教授も自身の提唱する「言語的正義linguistic justice」の観点からグローバルなリンガフランカの形成には問題があると考えます。彼はリンガフランカの支配による主要な不正義として三つを指摘します。すなわち、(1)英語話者[Anglophones]が非英語話者の英語習得にフリーライドする協業的不正義(co-operative injustice)、(2)母国語に基づく機会不平等としての分配的不正義(distributive injustice)、(3)各言語話者に対する尊厳の不平等(unequal dignity)としての象徴的不正義(symbolic injustice)、です。(1)および(2)はいわば物質的なものですが、教授はこの二つについては、長期的に見ればあるself-correctiveなプロセスが働くから問題がないとしています。つまり、英語話者のフリーライドは、英語話者が提供する膨大な情報を非英語話者が無料ないし低コストで使用できるという事実によって相殺されるし、ネイティブ英語話者の言語に基づく物質的および政治的な優位も知財政策や英語使用機会の増加それ自体の結果として最終的には覆るとされます。よって、教授が問題と考えるのは尊厳の不平等としての不正義です。私にはその物言いを含めて全面的に賛成することができないものの、教授は「正義は人々が平等な尊厳を保証されることを要求する」と考えるようです。ただ、言語学者としての教授は、リンガフランカ形成が、そのミクロメカニズムから言って不可避であるし、上述のようにグローバル正義の観点から望ましいとも考えています。それゆえに、リンガフランカを採用することに内在的に伴う非対称な(つまりネイティブ英語話者とそれ以外との間での負担に不平等が生じる)バイリンガリズムを受け入れつつ、尊厳の平等としての言語的正義を実行する唯一の方法として、各国が「言語領土制Linguistic Territoriality Regimes」を採用することを提唱します。これは一種の領土的な言語統制であり、広義には、ある領土的範囲内においては、教育や公的な場面でのコミュニケーション目的で使用される言語の選択を制約する一連の強制的ルールを適用することを指します。教授はこれによって、リンガフランカ形成の利点――グローバルなコミュニティ(および意思決定機構)の形成可能性の上昇――を享受しつつ、ある程度の言語的多様性の保持、国民経済レベルですでに達成されているジェネラスな福祉水準の維持、などが可能になると考えます。ここでも、世界中で普遍的に通用する共通のルールやツール(言語)がありつつも、各政治的共同体がそれと並行して独自の文化的カラーを反映した個別的なルールやツールを持つことはできる限り許容されるべきだという、広い意味での二元的な構想となっています。

 と、以上のような言語的正義とグローバル正義の構想を持っている教授を招聘してのワークショップ(2010年1月25日於創思館401/402号)でしたが、果たして、これらの点についてあまり議論を深められませんでした。私自身がこの時期は急に〆切をつきつけられた原稿の執筆に追われていたので準備不足だったこと、私以外のコメンテーターたちもこれらの点にあまり関心がなかったようで突っ込んだ質問をしなかったこと、などによります。コメンテーターの教授への質問は彼が主著RealFreedom for All(邦訳『ベーシックインカムの哲学』、勁草書房2009年)で提示した「平等」の基準に関するものが大半でした。当日欠席の立岩教授はその平等基準(のおかしさ)――というよりも厚生経済学的な衡平(equity)や平等の論じ方それ自体のおかしさ――について質問し、同志社の山森亮教授もその平等基準を問うともにそれに関連して当事者運動の重要性について指摘しました。院生の村上慎司君も彼のケイパビリティ擁護論と関連してこの平等基準に焦点を当てていました。その平等基準は厚生経済学に依拠した非優越的多様性(Undominated Diversity)という基準なのですが(詳細は略)、教授はあっさりと現時点ではその平等基準はあまり望ましいと思っていないと明言し、我々は肩透かしを食ったような格好になりました。実のところ、政策科学の観点から言って、厚生経済学で語られるような平等の基準は制度的・政策的インプリケーションにとってあまり意味がないので、私も彼の平等基準をそれほど重視すべきではないと思っていました。そのため、私にとって彼のその発言は「やっぱりな」という感じでした。この論点は、ベーシックインカム論の精神を「最低生活の保証」と捉えるか「最低限の自由の無条件分配」と捉えるか、その思想の違いを明確にします。日本で主流の(左翼的な)BI論は「最低生活の保証」に重点を置き、BIは手段だと考えます。それに対して、私はBIとは自由の無条件な分配と考えるべきであり、BIは目的だと――正確には、BI水準があらゆる公共政策にとって最終的な目的関数であると――考えるのです。私がこのようなBI観を持つようになったのはヴァン・パレイス教授の社会正義論を政策分析者として翻案した結果であり、今回のワークショップであらためて自身の主張が教授にあまりに多く負っていることを感じました。結果、そろそろ彼との相違点を明確にして自身の主張を展開してゆくべきなのかなとの思いも強くなりました。

*作成:齊藤 拓

UP: 20100311 REV:
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