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ベーシックインカムは生存権の手段ではない
―『ベーシックインカムで大転換』へのコメント―

齊藤 拓 20110201
『プランB』、31号,pp. 64-6.
[Korean]

last update:20100606


・〈雇用税〉について

 村岡[2010]の記述だけでは制度運用上の詳細が不十分であるが、印象として、雇用主が被用者を雇用するに当たって「固定費」が生じるような税制は避けるべき。被用者一人あたりにつき固定的費用が生じる場合、雇用主には新規雇用を控えて既存労働者をモトをとるまで――さらにはそれ以上に――酷使する誘因が生じる。


・「生存権」について

 「権利には義務が伴う」とは、この国では「保守派」(と自称しているが実際には近代国家の枠組みを理解できていない人たち)がよく口にする言葉だが、リバタリアンは彼等とは違う意味でこれを肯定する。例えば、憲法に表現の自由を「権利」として規定することはそれを妨げない消極的「義務」を国家(権力の行使者である公務員)に課すことを意味する。では、「生存権」を規定するとは、誰に、どのような義務を課すことなのか。

日本国憲法二五条一項における「生存権」規定の法的性格をめぐっては、通常、プログラム規定説、抽象的権利説、具体的権利説の三説の対立関係として説明されてきた。生存権規定は具体的権利を規定する程に明確に記述されていると考えるのが具体的権利説、他の人権ほどの具体的内容を規定してはいないが行政の恣意的解釈防止のため生存権に権利性を認めておこうと考えるのが抽象的権利説、生存権は個々の国民に具体的権利を付与するものではなく立法の指針や法律解釈の基準として存在するのであって裁判上請求することができないとするのがプログラム規定説である。長らく通説的見解および最高裁判例の立場とされてきたプログラム規定説に対する裁判闘争や学説展開の結果、そのような学説上の対立はほぼ決着し抽象的権利説が最有力説となっている。その結果、今日においては、生存権が一定の範囲で裁判規範性を有することはもはや前提であり、その先に、いかなる訴訟類型においてかついかなる違憲審査基準によって生存権に裁判規範性を認めるかという問題の究明に 移っている。

そのような生存権の内容の論じ方を 問題とする法専門家の議論とは別に、生存権の内実そのものを巡って、 社会保障分野で必要とされる生存権の政策論あるいは制度論レベルの権利論や「生存権」の根拠をより深く探求する試みがなされている。そんな流れの中で、左派の人々がベーシックインカム(BI)を生存権規定に具体的内実を与えるものと考えるのは自然であるし、「生存権所得」を提唱する村岡氏もそうなのだろう。リバタリアンとしての私はもとより生存権思想に現代的な意義を認めておらず、ゆえにBIを生存権に依拠して論じることに反対である。その私をしても、ベーシックインカムというかたちで「生存権」に具体的な制度的・政策的実態を与えることに左翼の人々から反発があるだろうなと――余計なお節介かもしれないが――懸念する。

一般に、「生存権」によって誰に何が――義務として――要求されるのか曖昧である。リバタリアンはこれを生存権の難点と考えるが、これに利点を見出す人がいても不思議はない。現に、この国では「生存権」は自称・他称の「弱者」たちが国家に具体的救済を求める際に拠り所とする「弱者の権利」――弱者が弱者であることを資格として主張する権利――であり続けてきた。つまり、生存権の曖昧さは、不確実性の支配するこの世界で困難に直面した具体的諸個人に対して国家が事後的に施策を講じるよう迫る理屈として機能してきた。それは議論の余地なく悪いことではないし、生存権思想にはもともとそのような側面がある。

社会保障法学の有力学説では、社会保障法の背景にある基本原理を社会連帯思想と生存権思想に求める。典型的には社会保険として体現される社会連帯思想は、共同体内部での相互扶助の仕組みが国民連帯の考えにまで発展する中で形成されてきたものであり、ギブ・アンド・テイクの相互性として国民対国民の対称的関係を述べるものである。それに対して社会扶助に体現される生存権思想は、国家に生存の保障を一方的に請求する権利の根拠となる一種の自然法的な思想を基盤とし、国民対国家の非対称的関係を述べる。ゆえに、「生存を保障する国家の義務」といった物言いがなされる。だが、リバタリアンに言わせれば「国家の義務」など存在しなし、誰が考えてもそんなものは終局的には存在しない。「国家の義務」と言っても具体的な作為・不作為の義務を負うのは自然人としての諸個人であり、公務員であれば人権にまつわる消極的義務や公務員としての業務遂行義務、市民であれば憲法規定を具体化する法律に服する義務である。これが権利の相互行為的解釈であり、各権利に対してそれに対応する何らかの直接的義務をマッチさせる。ここで先述の問いに戻る。すなわち、「生存権」を規定するとは、誰に、どのような義務を課すことなのか?

権利の相互行為的解釈にも理念的には両極端の立場がある。「人権にはどのような義務が伴うのか」というよく知られた論争の背後には、この解釈のうちでもどの立場を採るかの問題があった。一方(最小限)の極であるリバタリアンは、そういった義務は消極的な義務(問題となっている権利を侵害するのを控えること)のみであると主張する。他方(最大限)の極はあらゆる人権が消極的義務と積極的義務(保護することおよび援助すること)の両方を含むとする。リバタリアンからすれば、後者の立場は際限ない積極的義務を課してくるのである。つまり、「弱者」たちは何かことがあるごとに「生存権」を持ち出して自分以外の人々に積極的な義務――たとえば納税――を生じさせることになるだろう、と懸念するわけだ。それゆえ、リバタリアンはいわゆる社会・経済的な人権――生存権はその典型である――の存在を認めないのである。

ここでリバタリアンを自任しない人々や左寄りであると自任している人たちはよく考えるべきだ。本当に、ベーシックインカムというかたちで「生存権」に明確なかたちを与えてしまってよいのか、と。たとえばネオリベ的BI論者の典型とされる東浩紀[2010:49]の「僕たちの社会ではいま、どこまでぶら下がるとどこまで甘い汁がすえるのかがよくわかりません。BIのアイデアが良いのは、ここまでしかぶら下がれない、ここから先は何もしない、とはっきり線を引くことです」という発言に対して、曖昧な生存権を好むBI批判派の左翼は「これがBIの危険性だ」と喚く。それに対する左翼のBI論者の対応は、BIは諸他の制度や現物給付プログラムと並存した所得保障プログラムだ、といったものになる。財政難の現状においてこの返答はいかにも苦しく、BIとそれ以外のプログラムの間で予算配分が問題になる。そして、「BIによって現在の所得保障制度の大半を置き換えるというのならば、その置き換えによって新たな困窮者が生じないよう、BIを補足する諸制度とセットにした検討が必要なはずであり、むしろ、そうした検討とその結果の提示こそが、BI論の本論――注記ではなく――をなさなければおかしいのではないか」(後藤[2010:32])との反論がまっている。実は、私はBIを政策プログラムとして解する場合にはこのようなBI批判者たちに同意なのである。もっと言えば、左翼のBI論者たちは勘違いをしているとさえ思っている。それはBIを「生存の保証」のための手段だとみなしている点である。手段的合理性を論じる場合、特定の目的(ここでは生存保証)に照らして当該手段が諸他の手段より効率的かどうかが比較考量される。そして、「生存の保証」を目的とした場合――この目的がどのような経験的指標によって表されるかは議論の余地があるが――、BIが最も効率的な手段であると断言することはまず無理である(齊藤[2009])。 これに対して、私は「BIは目的である」と主張している。より正確に言えば、BI水準とは諸個人にとっての「自由」の代理指標であり、いくつかの条件の下でBIを最大化するべきだ、と主張した(齊藤[2010])。つまり、私がBIに見ているのは――そして他の人々も見るべきなのは――「生存の保証」や生存権ではなく、「自由」であり、それも純粋な個人的自由である。

 生存権には自由権的側面もあるという学説も踏まえれば、生存権をもってBIを語ることはBIを自由の近似と見なす私の見解と矛盾しないのかもしれない。それでも、私が左翼のBI論者たちに言っておきたいのは、BIで生存保証や生存権を仮託するのは上策ではないしミスリーディングですよ、ということだ。これはリバタリアンとしての私見ではなく政策科学者としてのかなり中立な見解のつもりである。


・〈労働評価制度〉について

 BIに対する政治的・倫理的な反発を緩和する案としてA・アトキンソンの「参加所得」が論じられることが多い。村岡氏の〈労働評価制度〉はこれに近く、ゆえに参加所得に対して指摘された難点も共有している。「労働」と認定されるべき活動とは何かの判断を誰が下せるというのか、行政コストの問題、行政の私的領域監視によるプライバシー問題、「労働」の偽装およびそれを支援するビジネスが発生する懸念、等々を考えれば、この種の「参加」や「労働」を評価する制度は無くてよい。そもそも市場外活動を行政が積極的に支援する必要はなく、各人に任せるべきだ。それに対して、多くの個人が市場労働から撤退して家事労働やコミュニティ活動に勤しめば、個人所得税収の減少からBI水準低下につながるだけであり、市場労働はどうあっても重視せねばならない。これが北大の宮本太郎教授などが労働・社会保障政策の方向性としてはアクティベーションしかありえないと言っている意味である。そしてプログラム(手段)レベルの議論としては、私もそれに完全に同意する。


文献

村岡到[2010]『ベーシックインカムで大転換』、ロゴス社.

東浩紀[2010]「情報公開型のBIで誰もがチェックできる生存保障を」、『POSSE』、vol. 8: 42-51.

後藤道夫[2010]「「必要」判定排除の危険――ベーシックインカムについてのメモ」、『POSSE』、vol.8: 27-41.

齊藤拓[2009] 「ベーシックインカム(BI)論者はなぜBIにコミットするのか? : 手段的なBI論と原理的なBI論について」、『コア・エシックス』、5: 149-159.

齊藤拓[2010]『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』、青土社(立岩との共 著).

 

齊藤拓(立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師)




本稿に対しては村岡氏より『プランB』32号で反論をいただいた。再反論を同誌に寄稿するよりも、ここに書く方が簡便なのでそうさせていただく。

 まず、「〈雇用税〉について」をめぐる拙稿の論述については、「村岡[2010]の記述では行政運営上の詳細が不明であるが」と書いているように、本来なら、当方で村岡氏にこの制度の行政運営上の細目を確認すべきであったのだが、拙稿の主張の主眼ではなかったことと時間の都合でそれを怠ったために、結果として、氏の主張を曲解し見当違いの批判したかたちになってしまった。この点については率直にお詫びし、31号での私の批判点は取り下げる。その上でなお、この制度に賛成しない旨を述べておく。
 
 氏の提唱する雇用税は、生存権所得の主要財源として、月毎に生存権所得相当額(一〇万円)に被用者数を乗じた額を雇用主に支払わせる、というものである。各人は、生存権所得を受け取ったうえで、月給がこの額を超える被用者はその超過分を雇用主から受け取る。逆に言えば、月給が生存権所得に達していない被用者の生存権所得は国庫から一部が補填されているわけである。雇用主は今まで被用者に支払っていたものの一部を国庫に支払うことになるだけで企業側に新たな負担を生じるものではない、というのは氏の主張するとおりである。ただ、私が前回氏に質すべきであった行政運営上の問題がいくつかある。
 
 そもそも、なぜわざわざ雇用主を納税者とする新制度を創るのか。現行の所得税システムのままで一〇万円までの給与所得は100%源泉徴収するほうが合理的ではないだろうか。例えば、第一に、村岡案では複数の勤め先がある被用者をどう扱うつもりなのだろうか? 月給八万円の仕事を二つ掛け持ちしている被用者がいる場合、彼の雇用主はそれぞれ給与の全額を国庫に納付することになるはずで、彼の受け取りは生存権所得の一〇万円のみである。彼が受け取るはずだった残り六万円はどのように還付されるのだろうか。第二に、この案で雇用主の新たな負担は生じさせないかもしれないが、逆にそれまでの負担を免れる誘因を生じさせる。おそらく月給を一〇万円未満に設定する雇用主が急増するだろう。BI反対の論拠として挙げられるスピーナムランド制の顛末である。村岡氏は個人単位の取り扱いに拘るならこれを懸念しなければならない。かりに、当該企業の人件費総額と被用者の数に比例した徴税をするということも考えられるが、その場合には、これまで給与として現金支給されていたものをいわゆるフリンジベネフィットのかたちで事実上の現物支給に切り替える、という対応がなされるだろう――その場合には被用者側に雇用主と結託する誘因さえ生じる。
 
 つまるところ、氏の雇用税提案に対する私の反対は、雇用主や企業は終局的な担税の主体ではありえない、という判断による。法人とは擬制なのか実在なのかという論点とは無関係に――制度的に実在と規定すれば実在する――、現代のマクロ経済を矛盾なく解釈するには、税の最終的な「帰着」先は、つまり税を終局的に「負担」する主体は、諸個人でしかありえないのだ。そのなかで、課税対象を包括所得と消費のいずれにすべきかが争われているにすぎない。ヴェルナーも指摘しているように、企業や法人なるものが税金を「負担」することは決してない。一部は企業の従業員(給与低下や労働条件の悪化によって)と株主(配当や株価の低下によって)が負担をかぶるが、大半は製品価格の実質的上昇(名目価格の上昇および/または商品の品質低下)によって消費者が負担することになる。いずれにせよ「負担」するのは法人ではなく自然人としての諸個人でしかありえない。
 
 それでもなお法人に対する課税の根拠を強いて挙げるとするなら、歳入の確保のため、あるいは、個人所得や個人消費に対する課税だけではどうしても不公平感の払拭に至らないから、このいずれかであり、いずれもがアド・ホックな議論にすぎないだろう。そして、一人当たり何万円のBIには総額いくら必要で、その財源はこうすればよい、といった類のアド・ホックな議論をBIの財源論と呼ぶのであれば、「齊藤氏は財源論には興味がないようである」という村岡氏の感想はその通りである。

 次に、「なぜ何の前提もなく「効率的」を判断基準にしなくてはいけないのか」とのことだが、「手段的合理性を論じる場合、特定の目的(ここでは生存保証)に照らして当該手段が諸他の手段より効率的かどうかが比較考量される」とはっきり前提をのべている。効率性というのは一般的な概念である。それは、所与の主体がどれだけ少ないインプット(手段)でどれだけ多くのアウトプット(目的)を算出したかという比率の問題でしかない。アウトプットのところに市場 での付加価値を置くことが効率性を重視するということではない。そして小さな政府論を嫌いな人たちが理解せねばならないのは、ある政策手段に公的資源を投入することを正当化する際には最上の効率性が要求される、ということだ。その政策の目的とされているものをより効率的に達成する手段がほかにあるのであればそちらが採用されなければならない。少なくとも、その政策は実行可能な代案よりも効率的であると説明する責任を公的機関は負う。こと「効率性」に関して言うなら、私的な組織はある程度の市場的な効率性――他の組織に潰されないですむだけの利益を上げること――を要求されるに過ぎないのに対して、公的機関は与えられた目的に関してだけは最も「効率的」であることが要求されるのである。公共事業で一般競争入札が要求されるのはそれを端的に物語っている――民間が行う事業はすべて随意契約である。それと同じまなざしを生活保護や諸種の社会政策にも向けないのは一貫性を欠く。

 最後に、村岡氏の拙稿に対する上記以外の諸々の批判は拙稿の誤読によると思われるので、ここで論評するまでもないと判断する。再読を勧める。

*作成:齊藤拓
UP:20100311 REV:20110603
ベーシック・インカム  ◇全文掲載 
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