字を知っとる者は、なかなかツブケじゃ。ツブケじゃ言ういうがのう(というのは)、気が馬鹿じゃ(だということだ)。何も考えちゃおらん(考えてはいない)。……皆さっさっさっさっ書こうが(書くだろう)。書くけえ、それより他のことを覚えんのじゃ、物事を(小川 2006: 77-78)。
例えば、鳥が鳴いているとします。あなたは本で名前を知っていますが、はたしてその鳥自身は自分がそんな名前だと知っているでしょうか。ひょっとすると別の名前があるのかもしれません。名前や分類を知ると鳥や草花のことを、「自然」を知ったような気になります。しかしそれは人間のいいように「自然」をつくりかえているだけなのです。「石は重力で落ちた。」なんて生活には何の関わりもないことです。落ちたいから落ちるのです。
もちろん、勉強することは悪いことではありません。
しかし、最近は、教科の内容が高度になり、教科と教科の溝が深まったような気がします。ところが生活は総合的で、「自然」を基本としています。さらに教科と「自然」は遠ざかっています。ですから、「将来のためだ。勉強しろ。」と言われても、ピンと来ません(中山 1993: 42)。
論文に書くのはいいけれど、こういう団体生活は、外から見るだけじゃわからないよ。それより、一カ月でもいいから、一緒に生活して、同じもんを食べて、街風呂へでも一緒に行ったら、団体生活のよさも、また悪さもわかる。役者さんの世界というのは、ほんとうに人情味のあるあたたかい世界。もし私が病気で入院でもしたら、それこそ全国から見舞いに来てくれるような世界よ。それに実際に触れてみて、見たこと、聞いたこと、感じたことを記録にでもつけながら、やってみたらいいと思うよ。(鵜飼 1994: 7-8)
遺伝にしても世界経済にしても、血友病者をめぐる各論点が「痛み」という鍵概念でつながっていることを示唆した。世界経済と直結した身体を持つ血友病者は、今後ますます産業社会との関係に鋭敏になっておく必要がある。しかし、血液製剤が普及してもなお、身体から切り離して置き換えられない「痛み」は、血友病者にとって思考の重要な基点となる(北村 2009b: 133)。
ぼくのつくるものなんか、ほんとうは歌じゃないと思っています。いわば歌の型を借りた生活綴り方で、歌人の歌とは断絶したところにあるものです。ぼくは、自分が文芸をやっているのだとは思っていません。ただ、日々の生活記を歌や文の形で残そうとしているのみです。ぼくにとっていちばん大切なのは、日々の現実生活そのものです。それを充実する手段として記録に励むのです(松下 1969=1983: 182)。
自由という能書きが もてはやされた頃があったな
その前は 思想というのもあった
平和というのもあった
明るいというのが はやった頃もあったな
それから個性というのもあった
ゆとりというのが 取り沙汰された頃もあったな
自分らしいというのもあった
遊びだよ
ないものを言い当てる遊びだ
結局どれも ないものねだりだ
実際に人間がやることは なんの変わりもありはせんな(中島 2001: 46)
中長期的に将来への教訓とする場合、「薬害エイズ」という呼称を問い直す時期に来ていると思われる。それは「薬害エイズ」という呼称が、その事象の構造を何ひとつ表していないこと[#「事象の〜こと」に傍点]が最大の理由である。……「薬害エイズ」がどういう事象だったのかを明確に認識しなければ、将来への教訓を引き出すことはできない。……「薬害エイズ」は、血友病者本人、家族、医療専門職、製薬企業、行政という、少なくとも五つのファクターが複雑に絡み合っている事象である。……これを「産官医の癒着」などという薄っぺらな一言で片付けてはならない(北村 2005: 69-70)。
父はまったくおのれのことを語らない。そのことでは仰天させられたことがある。……私が仰天したのは、父が思いもかけず隻眼であったという事実にではなく、そのことをついに一度も洩らすことがなかったという父の徹底した沈黙に対してだった。おそらく、亡くなった母にすら語っていなかったと思われるのだ。もし母が知っていれば、母は必ず私には告げたはずだという確信を抱くだけの理由が私にはある。……片眼しか見えないことを妻にすら打ち明けなかった父の沈黙を、どう考えればいいのだろう。別に恥じて隠したのだとも思えない。ただ単に、おのれのことを語らないという父の習性によっているとしか思えないのだ。……無理に書いてもらった父の鉛筆書きの略年譜に眼をとおして、唖然としてしまった。〈明治三十九年二月九日に生まれる〉に始まる年譜はわずかに十項目しかなく、そのうちの六項目が〈長女陽子生まれる〉〈長男竜一生まれる〉といった六人の子供の出生記録で占められていたのだ(松下 1994: 57-58)。
学会や研究会で如何に関係者の理解が得られようと、一般社会の方々にその声〔産科医師が直面している困難――引用者注〕を届けるのは難しいことでした。社会の理解が得られなければ厚生労働省も動けないのではないかと考えていたところに前述の余韻〔産婦人科の医局説明会で口惜しさから学生の前で号泣したこと――引用者注〕が重なり、小説を書こうと思い至ったのです(岡井 2007: 434)。
思考を論理的に組み立てて、自分の考えや気持ちを表す、つまり他者に伝えるというこの基本姿勢は、家庭においても小さい時から日常的態度としてしっかり育んでもらいたい事柄です。その際、重要なことはそれが音声言語で表されているのか、手話言語で表されているのかという言語の種類(モダリティ)なのではありません。本質的問題はその表された思考が論理的に組み立てられているかどうかという「中身」の問題です。そして、論理的に組み立てられているという意味において、他者との言語的コミュニケーションに向けて開かれたものになっているかどうかということです。論理という骨組みがなければその思考を他者に伝えることは出来ません。つまり、重要な点は言語コミュニケーションの「種類」ではなく、思考の「中身」(論理性=組み立てられ方)なのです(上農 2003: 223)。
口語ではない、難しい言葉を使うと、「ごまかす」ことになるからでしょうね。ごまかすのと権威主義的になるからだと思うんです。先日、たまたま谷川俊太郎さんと対談したんです。……「平仮名で書くと当たり前のことだけど、漢字を使わない。それは漢語を使わないということで、漢字や漢語を使った瞬間に何か自分を権威づけたり、それがわかる人とわからない人を区別したり、そういう作用が働くからだ」と。それをやめることでしょうね。……言葉を「開いていく」というのは非常に重要なことで、基本的には、私たちはどんなに難しいことでもそれを相手と共有する努力をしなくてはいけないんです。……偉そうにすることをやめるということだと思います(平田 2003: 36-37)。
自分がそのことを本当に知っていないと、わかりやすく説明できないのです。……出来事の全体像が理解できていれば、それぞれの要素の価値が評価できますから、大胆に切り落とすことも可能になるのです。……イラク政治の専門家である酒井啓子さん(当時はアジア経済研究所の所属、現在は東京外国語大学大学院教授)に、「こどもニュース」のゲストとして解説していただいたときのことです。
酒井さんは、イスラム教やイラクという国について、本当にざっくりと説明してくださいます。……「え、そんな説明でいいの?」と思うぐらい、子どもにもわかりやすい説明でした。/本当に理解している人は……大胆に省略できるからです。……よく理解していれば、わかりやすく説明できる。わかりやすく説明しようと努力すれば、よく理解できる(池上 2009: 78)。
漁師たちが自分の腕や勘をたよりに漁を行い、しかも、そのことを通じて一人前として「食えるようになる」には、「一〇年」前後といわれるような、親、船頭、ジュウセンを手本として、徐々に種々な技能を身につけていくだけの期間を要したのであり、しかも、船具・漁具などの仕掛けの修理、加工、製作を行う手は、出漁中以外にも片時も休められることはなかったのである。そして、前述した、終始無言のまま遂行される漁行為のその沈黙の背景に、こうした「時間」の堆積の認められることについて、私たちは思いをいたすべきであろう。もちろん、ここでみられたような漁行為にかかわる種々な作業が「できるようにな」ろうとする「前向き」な気構えや行い、あるいは、終始、手先や体を動かしながらの生活リズムなどは、一人前になったあとも、むしろ「何十年かかっても、それで満足というのはない」といわれるように、終生保ちつづけられたことであろうが、こうした着実な営みのなかで、……漁師としての自信が培われていくことも、無視されてはなるまい(小川 2006: 36-39)。
「一〇年」という期間は、およその目安としてシオ・ヤマ・網代をみることができ、自分の腕や勘をよりどころに、一人前として一家を構えて「食えるようになる」にはなかなか難しいという含意があるのであろうが、一〇年というと、ほぼこれまでみてきた親の船、他家の船で漁を行う期間に該当する。……ヤマ・シオ・網代の見方や道具のつくり方、あつかい方などの技能の習得とは、上達した腕の者を手本として、「同じように」自分の体を動かしながら「やる」ことのなかで身につけられていく性格を有していることがわかる(小川 2006: 35-36)。
魂の渇望型の文学は読者の向こうに独立していると共に、読者に向かって何らかの放射的なものを投げかけている。……渇望型の文学というものは自分の中から、ある目に見えない放射を放っていて、同じような魂の渇望をもったひとにまた同じようなことを考えつづけさせることを強制しているわけです。……ある触発性をもっていて、それに触れるものに向かってある精神のリレーの競争者になることを強要する。そして、その魂の渇望が強ければ強いほど、精神のリレー競走の場へひきこんで、ある意味では永遠に離さなくなってしまう。……リレーする時渡されるバトンをよく見ますと、そのバトンには「より深く考えること」と刻り込まれている。そんなふうに「より深く考えろ」といわれても、ドフトエフスキイ以上により深く考えろということなど大変なことであります。とうていできないことであります。けれども、リレーのバトンには「より深く考えること」、と刻まれている以上、仕方がないから、より深く考えようとする姿勢だけはもって、リレーに走り出さなければならない(埴谷 1976: 15-17)。
構成された「時間」「土地」「シオ」に、実際にうまく自らの船、漁具、体を「合わせ」られるか否かが、漁の善し悪しを決定するということであろう。だから、この一連の行為を「抜け」なく行えることは、そのまま一人前の船頭としての自立をも意味することになる。……漁行為全般にわたっても、「自分の腕」というような個々人の技能・技量がことさらに強調される傾向も認められる(小川 2006: 15-19)。
沖で行動をともにする集団(船団)、および、それを構成する個(船)を表す。本拠地を同じくする者の間のみならず、たまたま沖で漁をともにすることになる者についても、この名で呼称される。関係のあり方としては、(1)「張り合う」(漁のさい)、(2)「助け合う」(事故、故障、病気、出産、死亡、餌の購入、魚介の販売のさい)、(3)「付き合う」(出漁、共食、寄合などのさい)、(4)「固まる」「いっしょにやる」(漁その他)などがいわれる(小川 2006: 41-42)。
記憶 ― 認識を成立させる二つの仕組みが対比されて説明されている。一つは、道具で遊びながら、また、道具をこの石に引っ掛けたりして、「現場」で仕事をしながら、この山にはあの石があるということを覚え、再び道具を手にしてみることによって記憶が呼び戻される、「腹」と「分かる」・「知れる」という言葉で言い表わされる仕組みであり、もう一つは「口」で話したり聞いたりすることによって、「図面」として書き込まれ(読まれ)ることによって、成立する仕組みである。そして、漁労を基本的なところで成立させているのは前者なのであると(小川 2006: 52)。
「書くこと」や「書かれたもの」の影響は、私たちのものの見方、感じ方、考え方、あるいは生活のすみずみの様々な事物にまで浸透しているわけだし、漁師や漁商のおじさん、おばさんたちにしてもこうした動きから逃れられているわけではない。問題は、このようにあまりに「書くこと」や「書かれたもの」を読むこと、あるいはそれらを通じて形成される社会の仕組み自体が自明化されてしまっているためにそれらをしっかりと把握できず、しかも、そのことによって知らず知らずのうちに本稿でも触れたような様々な「無理解」を起こすことになっている、ということではないか。それ故、課題となるのは、このような問題をしっかりと認識しようとしたり、認識していくためにはどのようにすればよいのかを考えていくことであり、「書くこと」や「書かれたもの」の単純な否定では、自分の日々行なっていることからの横着な責任逃れにしかならないであろう。そして、このような課題と取り組むことによってのみ、「身に染みる」分かり方や道具を介した「知り方」、あるいは「現場の知」についても問題にしていくことができるように思われる(小川 2006: 80)。
最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め(Sutta-nipata 1-3-68)。
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め(Sutta-nipata 1-3-71)★21。
読書感想文/この感動を どう言葉にすればいいのだろう?12)管見では「語り」や「ナラティヴ」を無自覚に称揚する研究が見られる。アーサー・フランクの批判を行なった論文に、山口(2009)がある。
初恋をして/このときめきを どう言葉にすればいいのだろう?
社会の矛盾/この憤りを どう言葉にすればいいのだろう?
大人たちは いつも/はっきりしなさいと迫る。
でも/すぐに言葉にできないことだってある。
微妙な 繊細な この気持ちを/大切に心の中で温めておこう。
そしていつか/言葉を選り抜いて この思いを伝えよう。
けれど この思いが/半分でも伝わるだろうか?
言葉はとても曖昧だから。
それでも人は/気持ちを伝えようとするのだろう。
声と 手と 顔と……。/すべての言葉を使って。
たった一つの細胞が18)「名乗ること」と「引き受けること」は異なる。含意は各自で考えてほしい。
生きものすべてのはじまり
自然界に手ぬきはない
ものみな 一つの細胞から
生まれたいのち 尊いいのち(中村・山崎・堀 2007: 50)