〔不知火海総合学術〕調査団というのは一体どういうものなんだと。ここ〔「市井−最首論争」〕で論じられたようなことをこそ結成の段階、あるいはその過程ですでに解決しておるべき問題ではないかと。つまりそれをのりこえて調査を実施するということこそ、実は調査団のあり方としてあるべきではないかと。そういう批判が出るのではないかと思う (色川 1983b: 498)
政府を代表して、かつて公害防止の責任を十分に果たすことができず、水俣病の被害の拡大を防止できなかった責任を認め、改めて衷心よりおわび申し上げます。国として、責任を持って被害者の方々への償いを全うしなければならないと、再度認識をいたしました。 (朝日新聞2010年5月1日付)
1959年11月12日は歴史的な日になりました。厚生省の食品衛生調査会の水俣食中毒特別部会が日比谷の松本楼で開かれ、水俣病の原因は湾周辺の魚介類に取り込まれたある種の有機水銀化合物[#「有機水銀化合物」に傍点]という中間答申をする。そしてこの部会は即日解散。……翌11月13日、閣議で池田勇人通産大臣が有機水銀の出所については軽々に発言してはならない、と釘を刺す。……1960年1月サイクレーター〔排水浄化装置〕の完成、社長はそのろ過水(実は水道水)をコップで飲む。もう大丈夫とメディアは書き立てた。幕引きの最後の儀式です。通産省と新日窒(現チッソ)はそのサイクレーターがどんな機能しか果たせないかを、そもそも有機水銀排水路がつながれていないことを知っていた。明白な犯罪です。……当時の技術水準は色と沈殿を取るだけで、有機水銀や重金属を取る技術はまったくなく、〔サイクレーターを受注した荏原インフィルコは〕当然そのような発注は受けていないと言う。それほどまでして水俣病は終わらせなければ[#「終わらせなければ」に傍点]いけなかった。(最首 2007: 10-11)
水俣市や市議会の動きは二つに集約できる。県議会で見え始めた、操業停止を命じる県条例制定の動きを牽制すること、食品衛生調査会の答申が操業停止につながらないように働きかけること、だった。あれほど原因究明を急げと言い続けていた水俣市が、百八十度姿勢をかえた[#「あれほど〜かえた」に傍点]のである。その動きに反対を表明したのは、被害者たち・水俣病患者家庭互助会だけだった。(宮澤 1997: 25 傍点筆者)
不治疾のゆふやけ抱けば母たちの海ねむることなくしづけし(石牟礼 2004: 26)
不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、取り出しうる限りの復元図を、目に見える形でのこしておかねばならぬ……せめてここ百年間をさかのぼり、生きていた地域の姿をまるまるそっくり、海の底のひだの奥から、山々の心音のひとつひとつにいたるまで、微生物から無生物といわれるものまで、前近代から近代まで、この沿岸一帯から抽出されうる、生物学、社会学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、政治経済学、文化人類学、あらゆる学問の網の目にかけて[#「あらゆる〜かけて」に傍点]おかねばならない(石牟礼 2004: 174-5 傍点筆者)
そのような状態を表現するには学問でなくとも、ひょっとして文学、あるいは深い芸術が生まれうるならば……、より望ましいのであるが。(石牟礼 2004: 176)
〔あらゆる学問の〕網の目にかけるということは、逆にまた、現地にひとびとの目の網[#「現地に〜目の網」に傍点]に、学術調査なるものがかかるということでもあります。(石牟礼 2004: 174-5 傍点筆者)
第一期のメド十年間。死ぬときは代わりの人を見つけて死んで下さい。(色川 1983a: 11)
調査費用については、第一年目と第五年目はまったくの個人負担でおこない、中間の三年間はトヨタ財団から自然環境部門の研究助成をうけることができた。その助成額は総額で1007万円である。(色川 1983a: 14)★06
不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、とり出しうる限りの復元図を……生物学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、歴史経済学、文化人類学等、あらゆる学問の網目にかけておかねばならぬ……出来上がった立体的なサンプルは、わが列島のどの部分をも計れる目盛りになるでしょう……不知火海沿岸一帯そのものが、まだやきつけの仕上がらない、わが近代の陰画総体であり……幾層にも幾色にも、多面的にも原理的にも、この中にある内部の声を聞くことが出来れば、それが尺度になりうるのではあるまいか。(石牟礼 2004: 174-5)
そのようなことは私たちにはとうていできない。どんなにすぐれた学問をもってしても、旅人の目や一時滞在者の目で捉え得るものには限度がある。その土地の、その民の、最深の心意現象は、定住者にしか感得することはできない。水俣にとって私たちは、風のような一介の旅人、たかだか比較の目を持つ来訪者にすぎず、それも大きなドラマが終焉したあとの、落ち穂拾い屋に似た調査者にすぎないとか、「それには文学による表現こそが最もふさわしい」と反論したりした(色川 1983a: 11-2)
一定地域の急速な都市化・工業化が周辺の地域社会に決定的な変化を与え、自然環境や人命にも致命的な影響を与えるという事態が20世紀後半に至って世界各地に現れるようになった。不知火海と水俣に現れた現象は、そのもっとも悲惨な問題であり、人類の未来に対して警告的な極限状態を示したものと言える。
本研究は、この状態を生み出した社会的な背景の調査と、それが及ぼした海中生物・周辺沿岸生物の生態系の変化、及び沿岸住民の再生産構造、地域生活環境、伝統的文化や民俗慣行、人間関係、住民意識に与えた影響についての調査を総合的におこない、記録にとどめ、後世に残そうとするものである。
水俣の問題に関しては、医学的・生物学的側面についての部分的な解明や、マスコミ報道による社会的理解がなされつつあるものの、不知火海汚染をもたらした社会的要因や、それのもたらす社会的インパクトの実態に関する総合的な調査は未だおこなわれていないのが実情である。(トヨタ財団:http://www.toyotafound.or.jp/)
哲学は次の三条の道に従って把握される場合、現代の社会においても生きた意味をもつことが出来る。第一に思索の方法の綜合的批判として把握される場合、第二に個人生活及び社会生活の指導原理探求として把握される場合、第三に人々の世界への同情として把握される場合、即ちこれである(川本 2008: 278 重引)
最初の「思想の方法の綜合的批判」は論理学・記号論やコミュニケーション理論として展開され、最後の「人々の世界への同情」は「庶民列伝」や『現代人の生態』のような調査、大衆芸術や「転向」の共同研究として結実している。この二方面の成果を評価するのに、私はやぶさかでない。だが二番目の「生活の指導原理探求」については、『ひとびとの哲学叢書』や「身の上相談の論理」という方向で個人レベルの究明はなされたものの、「社会生活の指導原理」(=社会倫理)の探求はほとんど手つかずのまま終わっている。(川本 2008: 278)
“不条理な苦痛”と一括された「苦しみ」だが、この集計概念をもういちど個々のケース(=苦しみが発生した〈現場〉)に即してバラしてみる作業(「脱集計化」(disaggregation)(峯 1999)を欠かしてはなるまい。市井はこれをしないで「苦痛」をひとかたまりで捉えるものだから、自らが否定しようとする優生学的発想に足もとをすくわれたのではなかろうか。(川本 2008: 287)★07
淘汰とは、セレクションすなわち選別、選択の訳語である……生物進化論的に適者生存という意味をこめて使われることももちろん多い。ただこの場合、適者とは、人間が生物の歴史をふりかえり、結果として生き残った種や個体をさしているにすぎず、そして何故生き残ったかの特徴を部分的には指摘できるけれども、現在のどの生物、どの個体が未来において適者かは決していえない、ということが閑却されがちなのは残念なことである。(最首 1983a: 418)
人間淘汰となると様相は一変する。もともとダーウィンは人為淘汰から自然淘汰の着想を得たとはいえ、人為淘汰は人間の目的が介在することによって、自然淘汰とは全く異なる。……たとえば生き残ってきた生物をみて、卵を多く産むという属性があったからという説明はできても、その逆の、卵を多く産むからこの生物(種)は存続反映するだろうとは決していえないのである。進化の歴史は、少数仔、少数卵への移行の歴史でもあるからである……この若干の説明で、「人間淘汰」という概念がなぜショッキングか、わかってもらえると思う。人間という生物に及ぼしている自然の淘汰圧の影響を、その進行形において人間は測ることができないので、その意味するところは、人為淘汰による「人間淘汰」以外はないからである。(最首 1983a: 418-419)
いっきょに成員数が減少するか否か、また天災であるかを問わず、人間が自然死にいたるサイクル以外の理由で、滅んでゆくことを、ここで人間淘汰と呼ぶ(市井 1983: 392)
ここでは、それぞれの時代・地域において、統計的平均寿命あたりで死亡するのを、「自然死」と呼ぶ(市井 1983: 411)
人間社会の成員はすべて、自らの責任を問われる必要のないことから、多大の苦痛を蒙っている。その種の苦痛(これをわたしは、不条理の苦痛[#「不条理の苦痛」に傍点]と呼ぶ)は減らさねばならないと。……第一に、わたしの価値理念の定式化には、「責任を問われる必要のない」といった表現がある。その場合の“責任”とは何なのか、という問題である。わたしがそこでいう“責任”とは、科学的因果関係において、原因連鎖の決定的一環をなすかなさないか、という事実認定の意味に限っている。たとえば水俣病という公害発生においては、水俣湾沿岸の人々が従来どおりその湾の魚類を喰った、という事実よりも、当の魚類に従来はなかった有機水銀が(一般に知らされることなく)著増した、という事実が原因連鎖の決定的一環をなすわけである。したがって水俣病にかかった人々は、まさに自らの「責任を問われる必要のない」不条理な苦痛を負わされたことになる。(市井 1974: 46 傍点筆者)
わたしはいろんな方の〔両論文が掲載された上巻の〕反応を聞いているのですけど、大変不思議な本の読み方がなされているということに気がついたのです。それはこの本の最後の論文(最首さんの論文)だけ読んで、この本がどういう本であるかということを判断するということです。わたくしにとっては非常に不幸だと考える読み方がされているということを聞きました。(色川 1983b: 499)
わたしは市井論文がああいうふうな〔否定的な〕反応をひきおこしたというのは、(淘汰ということばを使う必要があったかどうか、そこは一つ問題ですが)やはり現代の文明が進行していく中で、一番弱いものが切り棄てられるという問題があるということ、そういう問題だと思うんです。……それが近代工業文明だと思うんです。一番弱いところが最も強い犠牲を強いられる。(色川 1983b: 500)
被調査者の調査者への先のような質問や疑念や不信は、調査技法によるラポート関係や客観的調査を行おうとする調査主体の客体へのみせかけの人間関係[#「みせかけの人間関係」に傍点](調査者−被調査者関係)への鋭い問題提起なのである。(似田貝 1974: 2)
こうした社会調査の集積によって整理された社会科学の知識体型の専門性とは一体何なのか。……人々の、〈専門性〉や〈共同行為〉への疑念や不満は、より根源的には、今日の社会科学における問いのたて方、実証の仕方、あるいは、社会科学者の存在の仕方についての根本的な反省と結びつかざるをえないだろう。(似田貝 1974: 2)
人々は専門研究者が、科学と政治過程(政策)との間で、二重状況に置かれていることを周知している。つまり、研究者が科学のもつ客観的自立性そのものへ自己撞着するか、あるいは、住民の側のリアリティを抄うことによって既存知識体系そのものへの対抗者になるか、さらには、科学的調査が〔ママ〕政策そのものになんらかの意味で適合化させていくか、それとも、リアリティを抄うことによって政策の「非合理性」への対抗者となりうるか、という二重状況である。(似田貝 1974: 5)
調査地区の住民たちに、もし我々が「共同行為」などという言葉を使ったとしたら──、もし、市役所の人々に対して「彼ら」と呼び、その住民たちと我々調査者が、あたかも共に歩む者でもあるかのように「我々は」などと呼びかけたとすれば、彼ら公害地区住民は我々をはねつけたろう。甘ったれるな。あるいは丁重にこう言ったかもしれない。思い上がらないで下さい、と。(中野 1975: 5)
人々は、私達が専門の研究者であることを十分に承知しており、しかも、当面、調査−被調査という関係の枠組みそのものを取り払うことを要求しているのでもない。(似田貝 1974: 2)
学会の動向は、現実を言説分析として把握することに関心が集中し、現実問題の構造やその解決へ向けての経験的で実践的な専門家を育てることを明らかに怠ってきた。(似田貝 1996: 52)
私たちの仕事は力不足で、未完のものでした。しかし、私はこうも思い直すのです。専門や立場を異にしたこれほど多様な研究者が、ほぼ一つの志をもって、七年という長い間、苦労してきたことは決して無駄ではなかった。今まで光をあてられたことのない水俣のいくつかの深い部分に光があてられ、一つの地域が、一つの事件が、細やかに全体的に、その姿を描き出された。水俣の「啓示」はそれぞれに汲みとられた、そういう意味で、この仕事は歴史に残るものになろう、と。(色川 1983: 502-503)