私達が、このようなことをやることになった、そもそもの発端は、昨年〔1972年──引用者注〕の埼玉での全国大会の折り、宿屋で一夜を共にしたことにある。……私達は今年〔1973年──引用者注〕東京にて行なわれた全国大会(=全国理事会)に出席し、そこである種の根底的な絶望感と言い様のない焦燥感を抱かないわけにはいかなかった。……全国の血友病の若者に呼びかけて、新聞あるいはパンフレットをつくり、活発な交流をはかろうと考えた。また、全国的規模での若者達の話し合いも大切だろうと思っている。
とりあえず、私達は、私達の個々の思いをつづった呼びかけ文を発送する。血友病の若者と血友病患者に関わりのある若き心を持った人々の反応を心待ちにしている。
最後に確認事項として以下にまとめる。……現状を見るに、今、私達を含め血友病患者家族は今までの運動ではとらえきれない多大な問題を抱えこんでいる。私達は少なくともそういった立場に立つ人の意見を聞きたい。そして、共に具体的にその問題に対処していきたい。そのような人々との交流を私達は望んでいる。
……それ故、発行を予定している新聞あるいはパンプ〔ママ〕には投稿のすべてを一切ありのまま掲載する。「四畳半襖の下張」に類する作品でもノーカットで掲載する決意である。決して、新聞あるいはパンプは、あの全国会機関紙〔ママ〕「全友」の如く正座して読ませていただく様なものにはしたくない。
……私達は、私達のやろうとしている事に対する、あなたの意見、ひとつの具体的な手段として私達が考えている新聞またはパンフの発行についてのあなたの意見、さらに今後取り上げていこうとする課題についてのあなたの意見、等々を待ち望んでいます。原稿用紙に書くも良し、ノートの切れ端に書くも良し、トイレットペーパーに書くも良し、書式は一切問わない。とにかく、生身のコトバが欲しい。
今何時? ハァーイ、新しい運動ドキョ(寺井英一 1973)。
医療給付の問題、AHG★06確保などの医療体制の問題等、今までの運動を私は素晴らしいと思うし、今後も重要な課題に違いないとは思うけれども、その視点はどうも親の側の論理によるものの様な気がする。そして、就学、就職、結婚、様々な地点での人間関係、等々今ある数多くの問題は、精神的、社会的色彩が強く親の側の論理では決して理解、解決できないと言える。……もっとも、これらの問題は……今までの親の側の論理に立った運動があったからこそ顕在化したものに違いなく、私は決して今までの運動を非難するつもりはない。
しかし、今、運動が転期〔ママ〕にあることには間違いなく、現在の種々の問題を解決するには、まず親の側の論理から子供(=患者、姉妹)の側の論理への発想の転換が肝要であろう。
……若者同士の話し合いが望まれる。私達の未来を親の側にあずけることはできない。私は、自らの手で、未来を、運動を切り開きたい。
親の心が子供にわからないのと同じ程度に、子供の心は親には決してわかりはしないのだ(坂田 1973)。
青年患者の有志5人が、「若者よ集まれ!」というパンフレットを作り、各自の思いを載せて各地区会の青年に向けて送りました。……そこで訴えたかった二つの具体的なこと、一つは、自分の話しことばで、リラックスして何でも書けるパンフレットを継続的に発行したいこと、二つは、全国の青年が集まって現在かかえている問題を討論する場を持とうということでした。
さいわい、49年〔1974年──引用者注〕に京都で全国大会が開かれるのでその前日にでも「青年の集い」を持つよう取り組んだわけです。
……参加した人数は、患者や両親など含めて、全国から50名近くになりました。宿泊は、36名でした。
第一回目の集まりなので、何が話し合われるかわからないし、率直な意見交流をし、青年らしい明るい集まりにしたい、と考えていました。
各地区会の紹介、会の活動状況、悩み、がんばっていることなどを伝え合うことから始まりました。
東北では、青年部ができかかっていること、ベッドスクール★07のこと。
山口県では、患者の発見に苦労しておられること、患者同志〔ママ〕の団結を訴えておられたこと。
東京では、以前から青年の活動をやっていて、旅行会をしたこと。医療・結婚問題・将来の社会生活のことなど話し合っていること。
「友の会」活動も、青年が行なえる活動をしなければならず、青年の集いへの提案(青年の交流とテーマを決めての討論)や障害者と教育問題(大西君と岩下君の問題)について報告されました。
奈良の青年は、青年同志の横のつながりを強くしていきたいこと、近畿圏内での青年の集まりを作っていきたいこと。AHF★08をどこでもすぐに打ってもらえるようにしたい、と訴えていました。
……青年のかかえる、教育問題、進路の悩み、与えられた仕事をコンスタントに片づけるのがむずかしい、という職場での苦労話、さらには、失恋の話、恋愛経験談もとび出し、率直に意見を交換し、励まし合いました。
患者自身が自立することの大切さ、恋人に病気を含めた全人間性を理解してもらう大切さなどが強調され、熱気を感じるふんい気でした。……今後の方向など話し合いました。
大西赤人君に代表されるような教育問題、青年の集いの事務局、会誌の発行など意見が出ましたが、具体的には決定できませんでした。
希望として『全友』に青年の声を反映させてほしいこと、青年に関わる問題をとり上げてほしいことが出されました。
10時閉会。
その後、宿泊者20名くらいで、夜遅くまで青年の集いの活動、組織的なこと、会誌の発行と交換など、意見の交流をしました(全国ヘモフィリア友の会 1975: 37-38)。
台風6号の中、全国各地より患者、父兄、医師の方々など54名の参加を得、仙台市榴ヶ岡の仙台郵便貯金会館において全国大会前夜祭「仙台で会おう」─青年の集い─を開催いたしました。
この青年の集いは前回の開催地京都において、関西の若い人々が集まり、全国に呼びかけを行ない有意義な討論を行なったのを受け、ぜひ東北の地仙台においても行なってほしいと要請があり、又我々東北ヘモフィリア友の会の青年達もやってみたいし、やってやれないことではない、これからは我々が大いに活躍しなくてはならない時期が来ているのではないかとの話がまとまり約6ヶ月前より毎週準備会を持ち、討論内容について、受入態勢について、会場設定についてなど活動を始めた。
今回、テーマとして「教育と就職」ときめ、アドバイザーに西多賀養護学校の半沢健先生、国立療養所西多賀病院酒井秀章先生をおねがいし、5時より会食をはさみ、8時30分まで、時間の短かさを感じながら話が迫中〔ママ〕した。
4つのグループにわかれ、それぞれの中のリーダーを中心に自分の体験や考えなどがもれなく各人から出、熱中して声高くなるもの、涙ながす人なども中にはおった。学校入学時の差別、先生によって大きな違いのあるもの自らの気持により教育をあきらめたもの、体育においての点のつけ方のあまりに違いによるおどろきなど…又これまでの出血状態や友人のたすけ、家族の苦労、就職時の差別の多さに私も又悩みを深めた。各人の仕事先のあまりにも限定されている現実をじかに感ずることが出来た。しかしながら一方では大学へ行く者が多く、健康人とかわりなく勉学に励んでいる力強い話も多く、それぞれの症状において違いはあれ、効果著しいAHF、PPSB★10などをうまく使いこなすことによって何にの〔ママ〕不安もなく通学でき、中学、高校、大学へと進学出来そうである。
各グループでの話を報告していただき、その話を聞いての感想を両先生より話していただいた、その中で、「やはりよい薬が出来た現在、受身で生活するのではなく、……社会の一員として安心して独立生活するように社会へ向かって働きかけをしなければならないのではないでしょうか」との言葉をいただいた。……教育を身につけ、社会の中で生きるよう努力が必要だと力説する。
この討論の余波は夜中まで続き我々東北ヘモフィリア友の会青年部有志の室に関西の仲間達がおとずれ、諸々の活動について話は迫中〔ママ〕し、帰室したのは午前2時をすぎたころであった。その後の腹ごしらえ、入浴、総括などして、東北ヘモフィリア8人衆はついに一すいもすることなくまぶしい太陽の昇る朝を向かえた。
全国からかけつけていただいた皆様方には心から感謝申し上げ、……心の隅にこの仙台での大会がすこしでも有意義であったと思っていただければありがたいと思います。お礼を申し上げ、これからますます全国の若い者が手を取りあって活躍、発展するよう希望します(全国ヘモフィリア友の会 1976: 45)。
病院などで知りあった人達と何回か会い、又、時には、先生と一緒に話しあい、一人でもその仲間をと呼びかけている内に、京都の全国会大会で、青年の集いがあることを知りました。そして、その京都でのきっかけに知りあった仲間の熱が日々に高まりました。その後、今日まで何もなかった訳ではありませんが、体調をくずしたり、少し意見のくいちがいなどで、休止したりはしましたが、地道に活動し、年令、職業、性格や、それぞれをとりまく環境のちがいを、同じ血友病患者であるということを共通のものとして、何度となく、話し合って、ついに本年7月27日(昨年、この日に青年の集いが開催)、正式にYHC(ヤング・ヘモフィリアック・クラブ)として発足しました(YHC 1975b: 4)。
かねてより「YHC」の重要な使命として「YHC」の機関誌の発行を考えてきました。
今現在、ヘモフィリア患者自身のための適当なコミュニケーションの場があまりにも少なすぎるのです。全国会は年に一度あるかなしで、……地区友の会は理想的なのですが残念なことに、近畿では会の運営に直接たずさわっている方々のご尽力にもかかわらず、もうひとつ盛会を欠いており、これもまたコミュニケーションの場として不十分です。
……最も悩み多き世代の青年層のヘモフィリア患者が、ヘモフィリアによる諸問題(教育・就職・結婚etc.)のために、一人で悶々とした日々をすごし、その問題を解消するすべを知らないままに放置されているのが現状ではないでしょうか。
そこで、昨年の全国会の“青年の集い”を契機として、ヘモフィリア患者青年が中心となり、ヘモフィリア患者のコミュニケーションの場を作って、ヘモフィリア患者に立ちはだかる諸問題を解決していこうと結成したのが、機関誌編集・発行元の「YHC」なのです。
「YHC」は、コミュニケーションの場として、地区友の会のワクにとらわれず、定例会、月例会等を開いてまいりました。そして、もうひとつ、コミュニケーションの場として、機関誌の発行を参画しました。これなら、すべてのヘモフィリア患者が、距り的・時間的・身体的な都合で参加できないことはないと思います。
ヘモフィリア患者どうしが、この機関誌上で、お互いの悩みから、体験やらをはなしあったり、また熱心に討論したりして、相互の精神的交流が深まればと思います。
また、ヘモフィリアによる諸問題は、患者自身にとっても重大ですが、その家族(特に幼児のご両親については)にとっても重大である問題です。そんな患者と共有する問題についても、機関誌でとりあげてみようと思います(YHC 1975a: 2)。
私のこのような活動に心を動かしたのは、重傷の交通事故により、6年5ヶ月に及ぶ長期の入院生活で得た事が一番の理由です。……特に、血友病の子供達は、私と同じ苦しみを持っているのに私の心を知っているかのようにほがらかに全てを忘れさすように、私には映りました。それは何よりもまさる励ましであり、心の治療でした。……もの心つく頃から出血のくり返しでなかなか他の子供達と同じように出来ない。少しでも調子のよいとき、少しでも遊びたい自由になりたいそれが無意識ながらもそうさすのではないだろうか。と私なりに思いはじめました。……手術が成功し社会復帰することができれば、私のこの経験が、これから成長し、あとにつづく血友病の子供たちや、その家族に、役にたてるのではないかと、思うようになってきていました(YHC 1975b: 3-4)。
1972年、私がアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた第8回のWFH会議に出席しますと、その1週間前にブラジルのサンパウロで開かれた国際血液学会議で、それの第16回会議が日本で開かれることが決りましたため、1976年これと同じ時に一連の血液関連会議としてWFH会議を開くことを満場一致で要請されました。私は帰国して吉田先生はじめ諸先生に相談した上で正式に返事をするということで帰りまして、皆さんにはかりましたところご同意が頂けましたので、それから約3年間の準備を重ね、皆さんの多大のご援助によりこの度の会議を極めて有意義に終ることができました(全国ヘモフィリア友の会 1977: iv)。
血友病における関節内出血、あるいは筋肉内出血等の治療のポイントは早期治療にある。
“Home Infusion”はその理念において血友病治療の第一選択である。
我々血友病患者はHome Infusionの実施を心から願っている。
実施に至る諸問題の解決を厚生省はじめ関係各機関に強く要望すると共に理解ある医師の方々の暖かい御援助をお願いするしだいです(YHC 1977a: 14)。
色々なプログラムや他国の人々とロビーでの交流で最も感じた事は、日本における“ホーム・インフュージョン”の認識の遅れです。
“ホーム・インフュージョン”という言葉は耳新しいものでしょうが、要するに家庭において患者自身、あるいはその家族が欠乏因子を注入する事です。……利点のみを考えると、もし我々の手で欠乏因子を注入できていれば早期の治療が……主な臨床問題となっている関節の変形を究極的に減らす事ができるように思われます。……まだまだ多くの問題が残っています。しかし、デートリッヒ博士★12の報告では、“ホーム・インフュージョン”で早く処置される事によって、行なっている患者は行なっていない患者に比べて、学校や職場を休むことが少なくなったことをハッキリ証明してくれました。
しかし、“ホーム・インフュージョン”の利点はそのように数字で表われるものだけではないと思います。自分の体を今まで以上、広範囲にコントロールでき、生産的生活が十分に可能であるという意識、そして精神的な独立心が少しでも生じるという点が大きいでしょう。……“ホーム・インフュージョン”にとって、理解ある医師(医療機関)との密接な連携は絶対に必要なものです。……
私たち、“YHC”は8月の「青年の集い」で、“ホーム・インフュージョン”の問題を2日間にわたって話し合いました。“ホーム・インフュージョン”を欧米諸国のように進める上で困難な問題がいくつか挙げられましたが、心は皆が「オレもやってみたい!」と、いうことだったと思います。
“ホーム・インフュージョン”の長所がそれほどにまで魅力あるものだから、色々な困難も私たちの力できっと取り除くことが可能であると確信します(YHC 1977a: 15-18)。
会員構成を新たに「ヘモフィリア患者青年層」に限定し、地区会とは別個の活動を通じて、ヘモフィリア患者に有益なる事業を、青年患者自身の手により遂行して行くということです。……YHCは、青年の会として独立して、活動を為し、その成果を地区会と分かち合うのが、よいと思うのです。青年患者と幼児患者の家族との交流は、やはり地区会で為すべきであり、幼児患者の家族同志の交流は、何よりまして、地区会で為すべきだと思うのです(YHC 1978a: 1-2)。
私達大阪友の会も、昨年5月開催された総会に於て、年に3回か4回程、懇談会を開いてはとの提案があり、8月28日に第1回の懇談会を持ちましたが、其の席で、いつかし会★14や文園会★15、洛友会★16の方達にも呼びかけ、次回には参加していただき、共に話をしようという事になりまして、第2回の懇談会を11月3日に市立労働会館で開きました。……これからもYHCの方達と共に「家庭医療」「医療費公費負担の年令制限廃止」「救急病院に血液製剤の常備」等々種々の問題を解決していかねばなりませんので、よろしくお願いします(YHC 1978a: 5-6)。
役員、運営にたずさわる者一人一人が抱いていた不安が、現実のものとなり、YHCの活動ができなくなったのです。
……今迄あまり触れなかった問題であり、余りに突然で、皆さんおどろかれたことと思います。しかし私達にとってYHCとは何か、どんな形であるべきものなのか、根本から考えなおす時期に、きているのではないでしょうか。
YHCの今後について、この記事をお読みになり、これをたたき台として、YHCの今後の姿を、見つけ出したいと考えています(YHC 1978a: 6)。
YHCは、ヘモフィリア患者が、社会的な自立を獲得し、社会に貢献できうるヘモフィリア患者となれるような状況を確立する為に存在すべきだと思います。それが、患者本人にとってはもちろんのこと、その家族にとっても最大の幸福ではないかと確信するものです(YHC 1978a: 2)。
今度の合宿は、おそらく僕にとって一生忘れることの出来ない素晴らしい思い出になることだろう。
皆と一緒に海で戯れたことも、また野球をしたこともそうだが、それよりももっと嬉しかったのは、僕が家族の同伴もなく一人で旅行に参加出来たことだ。これは、家族の者も喜んでくれていた。
というのは、車イスに乗っている僕は、今まで何処へ出かけるにも母と一緒だった。……そんな気の弱い僕が生まれて初めて親と離れて、一人で旅行したのだ、たとえ皆と一緒だったとはいえ、僕にとっては大変勇気のいる事だった。……皆に負けないように出来るだけ自分の事は自分でやっていこうと思っている(YHC 1978b: 4-5)。
遊んだ遊んだ。思い切り力一杯遊んだ。必殺遊び人、遊びの鬼でした。
「本当に皆ヘモフィリア?」と首をかしげたくなるような元気のよさ!
……もっともAHFも乱れとんでおりましたが……。□□□□★17ブラックジャック先生の活躍ご苦労様でした。……己れ〔ママ〕の殻をつき破り“未知との遭遇”は一応成功したように思います。
……自分の位置と状況を把握し、他人との関係をうまく維持することは本当にむつかしいことだと思います。
他人に依存しがちな自分をどうコントロールすればより緊張のある生活を展開できるか? 難かしい〔ママ〕ことです。しかし、難かしい〔ママ〕からこそおもしろいと言えるのかもしれません。
同じ血の牢獄にぶち込まれた者同志〔ママ〕、互いに壁と壁を叩きあって、情報を交換し、励ましあっていざ「大脱走」……冗談はさておき、己れ〔ママ〕の殻をどんどん突破してゆくのは大変なことです。頑張りましょう(YHC 1978b: 10-11)。
ア〜ア、疲れたぜ。用意したAHF91本のうち、85本のAHFを使って、そのほとんどが初心者で、いちいち私が指導したのだからな。……今回気づいた点をあげると、まず研究不足の者が少なからずいたことだ。医者に打たれる時にじっくり観察研究していかないと、自分では打てないな。次に冷静に判断できないとダメだな。……さらに血管をキタエていないやつも多かったな。自分で打とうというからには、しばれば浮き上がってくるようにキタエていないとダメダ。
……初心者は医師又は適切な指導者がいっしょにいないとだめだな。いっしょにいてもあぶなっかしいのだから。
まぁ今回は事故もなく(私がいたから当然だが)終ってほっとした(YHC 1978b: 21-22)。
今回気ずいた〔ママ〕点は、やはり血友病は集団行動がニガ手ですな。これは学校の出席日数と関係があるのではないか。それから最后までいつ来ていつかえるのかわからんやつがおった。……人が寝ようと思っているのに消灯以后さわいで酒飲んでいるやつもおったな。……この自己中心型め。……今回はみなさん初めてのことやから、無事帰ってきただけでO.Kとしようやないの。来年以后(あるかどうか知らんけど)をたのしみにしましょ(YHC 1978b: 6-7)。
自分自身もっと動けたのではないかと、たとえばお茶、ジュースを飲んだ後のコップ湯のみ茶わんあきかんとかをかたづけるとか、朝食などは当番制にしてみんなでできたのではないか。(YHC 1978b: 12)
〜〜〜合宿について〜〜〜……YHCは今まで、「何とかなるやろ」という発想法でやってきた。外部からは極めていい加減な体質と映るかもしれない。しかし、とにかく、やってきた。
依存するというのは血友病患者の特質かも知れない。しかし甘えもいいところではないか。
みんなもっと出来ることがあるのではないだろうか。症状の差はあるだろうが、飲んだ湯のみ、あるいは空カンの処理、誰にでもできやしなかったか。
〜〜〜今後のYHC〜〜〜YHCは、青年患者相互の親睦を当初考えていた。そして、親睦は、いちおうの成果をみた。
次に考えねばならないのは、青年患者の社会的自立である。
今回の合宿で、いみじくも露見されたのは、血友病患者の社会性の希少さである。幹事報告にもあったように、集団行動が下手である。それは、患者を疎外してきた社会にも問題はあるだろう。しかし、居直ってもしかたがない。社会に、疎外せぬよううったえると共に、社会に適応する自身の人格を形成しなければならない。
……YHCは、ひとつの社会、小さな社会。そのルールを破るものに、社会的自立はおとづれない〔ママ〕(YHC 1978c: 2-4)。