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「〈病い〉に刻印された隔離と終わりなき差別
──「黒川温泉宿泊拒否事件」と「調査者」の関係性を事例に」

吉田 幸恵 20101120
山本 崇記・高橋 慎一 編 20101120 『「異なり」の力学――マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題』
生存学研究センター報告14,408p. pp.88-113【第1部第2章】

last update: 20120119

1. はじめに──〈私〉という存在「調査者・被調査者関係」

 2004年、〈私〉★01はあるひとと会うために見知らぬ土地の港に立っていた。そのひとは元ハンセン病患者★02(以下元患者)で、社会生活支援一時金制度と退所者給与金制度を利用し、国立のハンセン病療養所を出て「社会」★03で暮らしていた男性である。当時の〈私〉は、隔離医療政策に興味をもっていた。国家がひとを、ひとがひとを隔離あるいは排斥することに正当性はなく、〈私〉にとっては、元患者たちこそが、このような不合理な隔離にさらされた「かわいそうな」人々であると思えた。元患者が隔離され続けた理由として、「自分(「普通」)とは違うものへの違和感」が考えられる。しかし、このような理由による隔離が正当化されるのであれば、マジョリティに理解されにくいあらゆる社会的マイノリティ集団の隔離がまかり通ってしまう。
 また、「普通とは違うものへの違和感」というときの「普通」とは一体どのようなものをさしているのか。そこで〈私〉は物理的・精神的に隔離されていた元患者の生活が知りたいと考え、現地に赴いた。
 九州地方には国立ハンセン病療養所が5ヶ所存在している★04。九州出身の〈私〉は他の地方のひとよりもハンセン病療養所はどういった場所かを知っているつもりだった。そして、上述した自らの単純な疑問を解くために、丸1日かけ療養所がある島にやってきたのだ。長年隔離され続けていた元患者は「社会」での生活の術を知らない。「社会」での生活しか知らない〈私〉は自分との考えと元患者の考えとの差異に大いに戸惑った。
 当時〈私〉は地方公立大学の人類学研究室に所属していた。周囲の学生はほぼ全員が自分のフィールドを持っており、その地域・ひとびとの生活を知るにはまずそのコミュニティに飛び込むこと、と教えられていた。「自分はフィールドワーカー(調査者)である」というある種の驕りだけを持ち、予備知識がほとんどない状態で飛び込んだ〈私〉は何がなんだかわからないまま、療養所で過ごすことになった。
 とある島の国立療養所に到着した〈私〉はコーディネイトをしてくれた男性の妻の家に滞在することになった★05。丸1日船に乗り、疲弊し、空腹だった〈私〉は、彼女が用意しておいてくれた食事を口にした。食事が終わると彼女はこう言った。「ハンセン病だった私が作った食事をあなたは普通に食べるのね」。そして涙を流した。〈私〉にはその意味がわからなかった。
 また滞在数日後、私は元患者男性の聞き取りのため、療養所の自治会事務室に出向いた。そこでお茶を出されたのだが、満腹だった〈私〉はそのお茶に口をつける程度でそのままにしておいた。聞き取りが終わり、席を立とうとしたとき、彼は「ハンセン病患者だった俺が淹れたお茶は飲めないのか」と声を荒らげた。〈私〉はただ満腹で飲めなかっただけで、彼がそこまで憤る理由がわからなかった。その理由について、ハンセン病療養所でフィールドワークをおこなっている社会学者の蘭由岐子は次のように説明している。

 「入所者の入れた〔ママ〕お茶をのむ」というささいな行為は、入所者にとっては大きな意味をもっている。……病気の感染を相手が気にしているかどうか、そして/または生理的嫌悪感をもっているのかどうかという根本のところで自分との距離をはかる「リトマス試験紙」が一杯のお茶なのである(蘭 2000: 87)

 これは40年ほど前から言われている、療養所を訪問する人間のセオリーである。当時の〈私〉はそれすらも知らず、「空腹だったら食べる」「満腹だったら食べない」という生理的欲求のままに行動していた。そのため、涙を流されたり、怒られたりしたわけだが、〈私〉は意味がわからず、ますます混乱していったのだった。数ヶ月、元患者たちと生活するなかで、ときには共感し、ときには衝突し、ある程度のラポールを築くことができたと思った矢先、〈私〉はある争いに巻き込まれることになった。
 〈私〉が療養所でフィールドワークを開始した2004年は療養所を出て「社会」で自立していくひとのために社会生活支援一時金制度と退所者給与金制度が始まった年である。これは2001年に結審した「ハンセン病違憲国賠訴訟(通称:熊本判決)」を受けてのものである。小泉純一郎首相(当時)は控訴を見送り、原告の全面勝訴となったが、ハンセン病問題はこれで終わったわけではない。それからも元患者たちは「社会」と闘っていた。そしてある元患者は〈私〉に「お前はどちらの味方なのか。元患者たちのスタンスに立つのか、それとも国側のスタンスに立つのか」と問うた。ハンセン病について調査をしにきたのなら、当然元患者側に立つのだろう、だったらこの裁判について論文を書いて欲しい、いかにハンセン病を患ったひとが、国から人間扱いされなかったかを記して欲しいと、元患者からの要求があった。〈私〉は生活史の聞き取りのなかから、現在そして過去の元患者の生活戦略を記述したいと考えており、「一方的」な要求を受け、彼らの思いと自分の思うような調査を遂行する「調査者」でいたい、という思いの間で揺れ動いた。結局元患者たちの要求に沿うような論文は書くことが出来ず、その地を離れた。それから約6年が経過した。
 「フィールドワークは、調査者自らが長期に渡って対象社会の中に身を置くという独特の手法をとる。とりわけ、かなりの時間をかけて現地の人々とのあいだに信頼関係(ラポール)を築き、そのなかで調査をすすめるのがのぞましいとされている」(亀井・武田 2009: 2)。初めて会う元患者たちは〈私〉に真摯に向きあってくれた。それはまるで若い研究者が自分たちを救うために来てくれていると言わんばかりだった。だからこそ、過去の辛い経験も進んで話してくれるひともいた。そこで〈私〉はある程度の自信ももつようになっていった。すなわち「ある程度の信頼関係が築けている」と。しかし、〈私〉は「自分とは違う」ひとたちの言動を不思議に感じることもあり、その違和感は拭えなかった。その違和感は何からくるものなのかを論文にしたのだが、結局は「調査者」である〈私〉も差別問題の当事者であったと、論をすすめるうちに結論づけることになった★06。要するに〈私〉も、「普通のひと」と「普通ではないひと」の壁を作っている張本人だったという結論に至ったのだが、果たしてこの結論は正解だったのだろうか。違和感は通常〈私〉たちが生活するなかで、当然起こりうる現象であるにもかかわらず、このときの〈私〉は違和感を抱いてはいけないと感じていた。それは自分は調査者である、つまり客観的な立場にいる人間であると思っていたからであろう。「普通のひと」と「普通でないひと」の壁を作っているのは〈私〉だった、という結論は性急だったかもしれないが、〈私〉がこう感じた現象を本章ではある事件を事例にして考察していきたい。
 〈私〉が元患者たちと生活し、聞いた話のなかで一番衝撃的だったエピソードが2003年に起こった「黒川温泉宿泊拒否事件」(以下黒川事件)だった。「自分(「普通」)とは違うものへの違和感」とは何か、違うものから防衛される「普通」とは何か。〈私〉の疑問はまだ解けていない。本章ではこの黒川事件で「何が起こったのか」を整理し、先行文献を分析し、〈私〉なりの問題提起を行うことを目的としたい。よって本章の目的は黒川事件の全容を解明することにあるのではない。黒川事件にインパクトを受けて関わろうとした社会学者の文章から、差別事件を論じる方法、研究者の立場を分析したい。差別論の文脈に広げるならば、これは「知と差別」との関係に対する考察であるとも言える。

2. ハンセン病と差別の論理

 2.1 日本におけるハンセン病史
 「ハンセン病(Hansen’s disease)」とは、抗酸菌の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症である。旧称は「らい病」 である。ハンセン病という疾患名は、1873年にらい菌を発見し、病気の原因を突き止めたノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン(Gerhard Henrik Armauer Hansen)に因んでおり、「ハンセン氏病」と表記されることもあった(国立感染症研究所 2001: 10)。らい菌の毒力は極めて弱く、人の体内にらい菌が侵入し、感染が生じたとしても、発病することは極めて稀だが、なかにはこの菌に対して特異な免疫反応を示す場合があり、ハンセン病として発病する(藤野 2004: 6)。 また、集団レベルでハンセン病の発症率をみた場合、疫学的には、社会経済状態の向上に伴い減少することが証明されている。先進諸国においては、ハンセン病は既に終息しているかまたは終焉に向かっている(厚生省 1996: 10)。
 日本では、1907年に「癩予防ニ関スル件」が公布された。これは主に放浪するハンセン病患者を隔離収容するためのもので、1909年から全国の療養所で隔離がはじまった。その後の1931年に「癩予防法」は改正され、1953年に「らい予防法」と改称された。この法には強制入所や、外出制限、秩序維持のための所長の権限などが強く規定され、療養所中心型の医療提供を行うものだった。実際、診察時に感染拡大のおそれがあると医師から診断された患者は、そのまま療養所入所となり、そこで生涯を終えることが多かった(山本 2006: 40)。
 1931年、第59回帝国会議で「癩予防ニ関スル件」は「改正」され「癩予防法」となり、すべてのハンセン病患者への生涯隔離=絶対隔離が開始された(藤野 2006: 8)。対外的には西欧列強に「先進国家日本」を示すため、また対内的には国民の身体管理を行うため、政府は一方的にハンセン病患者を負の象徴として排除し、絶対隔離していった(藤野 2001a: 61)。
 1930年頃から警察により、患者たちは強制的に隔離されていった。身体的な特徴があらわれるハンセン病は、迷信・因習から「遺伝病」だとされ、人々の社会的偏見を煽りながら、強制隔離が正当化されていったのである。絶対隔離を推進した医師の光田健輔は、積極的に療養所を作り、ハンセン病を患ったひとだけが住む島を作る事を発案し、実際に岡山県の孤島に長島愛生園を作り、初代園長に就任した。患者を絶対隔離状況におくことは、当時あくまでも「人助け」だと考えられていた。
 1947年、厚生省(現厚生労働省)の東龍太郎医務局長(当時)は軽快者の対処を認める発言をした。しかし、光田は強硬に反発、法案撤廃に強く反対した。この反対の背景には戦後政治が深く関わっている。光田は1950年の第7回衆議院厚生委員会においてこう発言している。

 近来療養所の8300人の日本人は、おかげさまでおちついてはおりますが、人を殺すことを何とも考えないような朝鮮の癩患者を引き受けなければならぬという危険千万な状態にありまして、患者の安寧秩序が乱され、また職員も毎日戦々兢々としてこれらの対策に悩んでおるような状態でございます(藤野 2003g: 67 重引)

 これは、1950年1月に起きた栗生楽泉園で起きた、患者間の殺人事件で加害者が朝鮮人であったこと、そして同年6月に朝鮮戦争が勃発し、朝鮮半島から日本に密入国するハンセン病患者が増加することを予測したうえでの発言であった★07。光田にとって、隔離政策の強化、そして患者の徹底管理こそが日本にとって正しい道であり、東の言うような「軽快者の対処」などはおよそ考えも及ばないものだったのである。
 ハンセン病施策に絶対的な力を持っていた光田の動きにより、隔離政策がさらに強硬にすすめられるのはこの時期からである。そして、強制入所や、外出制限、秩序維持のための所長の権限などが強く規定された「らい予防法」は1953年に改正された。
「らい予防法」が改正された1953年までには、ハンセン病が極めて感染力の弱い病いであると知られていたにもかかわらず、強制隔離、強制消毒、外出禁止の条文はそのまま継続された。1940年代になると欧米諸国では特効薬プロミンが普及し、開放外来治療(通院治療)へと移行していた。日本でも1948年にプロミンの効果が日本らい学会にて確認されているが、その効果を示す論文は軽視された。反対に、治療を受けられずに放浪していたいわゆる「浮浪らい」を一掃する為、隔離を優先させていったのである。このように1950年代はハンセン病患者にとっては重く暗い時代であった。
 1960年、世界保健機構(WHO)は、ハンセン病患者への差別的な法律の撤廃と外来治療の実施を提唱した。日本のらい予防法は国際的にも批判の対象となった。また施設で暮らす入所者たちの運動の力が激しさを増し(有薗 2004他)、1980年代のマスコミは、隔離されたなかで人権回復に立ち向かう入所者の姿を報道するようになった。1995年、ようやく厚生省は「らい予防法見直し検討会」を設置し、法の廃止に踏み出した。この際、隔離政策による人権侵害に対して国家の謝罪と賠償をすべきだとの声も挙がったが、結局は法の廃止だけが決定され、1996年にらい予防法が廃止された(山本 2006: 318)。同年、熊本地方裁判所に対して、鹿児島県星塚敬愛園に入所していた元患者たちが国家賠償請求訴訟を提訴、同裁判所は2001年厚生大臣の施策と国会議員の立法の不作為を違法とし、原告らに慰謝料の支払いを命じる判決を下した。その後、2004年4月、療養所を出て社会で自立していくひとのために社会生活支援一時金制度と退所者給与金制度が始まった。この制度を利用して退所するひとも増えたが、元患者はすでに高齢者が多く、退所したいがひとりでの生活が困難であるひとがたくさんいた。
 日本で生活するおおよその人にとって、ハンセン病者は「隔離されて当然である」と思われてきた。それが、らい予防法廃止以降の流れで、元患者を前にして単に「かわいそうだ」と表明し、いともたやすく身をひるがえす「社会」は、〈私〉にはどこかで、各人が担うべき責任や加害者性から距離をおいたもののようにも思える。それでは、その「関係のないもの」が自分たちにとって「関係あるもの」になろうとするとき、「普通」を防衛するひとたちはどのような挙動に出るのだろうか。本章で扱う黒川事件の前にも、ハンセン病を患った人たちをめぐる差別事件がある。この差別事件を確認することで、黒川事件の特殊な位置付けについて述べたい。

 2.2 ハンセン病差別事件──ふたつの事件史から考える
 藤本事件
 1951年8月1日、熊本県菊池郡水源村(現菊池市)の村役場職員、藤本算(はかる)方にダイナマイトが投げ込まれ、同じ村に住む藤本松夫(当時29歳)が逮捕された。この時期は患者の一斉摘発が行われていた。藤本松夫はハンセン病患者の疑いが強いとして、国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(以下、恵楓園)への隔離収容を求められていた。警察は、自分の病気を衛生課に通報したのが、村役場職員だった藤本算だと逆恨みした結果、犯行に及んだと推測した。藤本松夫は事件当日は自宅で家族と寝ていたとの主張をおこなったが認められず、恵楓園内に設置された熊本刑務所菊池拘置所(旧監禁室)に拘束され、熊本地裁の出張裁判により、1952年6月9日、懲役10年の判決が下された(藤野 2003f: 1)。
 藤本松夫は福岡高裁に控訴するが、その直後の同年6月16日、菊池拘置所を脱走した。その3週間後の7月7日、水源村の山道で藤本算の惨殺死体が発見された。7月12日、山林に潜んでいた藤本松夫は単純逃走罪と殺人罪の容疑で逮捕された。藤本松夫は、藤本算を殺してはいないと主張するも、そのまま起訴され、1953年8月29日、熊本地裁は出張裁判で死刑判決を下した(福岡高裁1954年12月13日、控訴棄却。最高裁に上告、1957年8月23日、上告棄却)(藤野 2003f: 2)。
 全国ハンセン病患者協議会(全患協)は、一審判決後から公正裁判を求めて藤本松夫の支援に乗り出した。全患協は、この死刑判決を「検察ファッショや、司法弾圧」の一環と位置づけた(藤野 20003f: 2)。そうした周囲の努力も虚しく、1962年9月14日、藤本松夫の死刑は執行された。
 この事件で注目すべき点は親族の態度である。親族たちは皆アリバイ証明に非協力的で、藤本松夫の藤本算への殺害動機ともとれる証言をおこなった親族も存在した。以下はある親族の言葉である。

 新聞やラジオで放送されると、あの家はライすじと云うから縁談にも障ります。(藤本)松夫の事件以来いつも心配しています。まだ二人も娘が居りますから、松夫が生きて居る間は心配です。私たちには大変迷惑です。しやくにさわつて仕方がありません。あのような奴は早く死んだ方がいいのです(藤野 2003f: 103 重引)

 竜田寮児童通学問題
 恵楓園付属の児童養護施設「竜田寮」に入寮していた、ハンセン病患者の親を持ち、自身は感染していない子どもたちいわゆる「未感染児童」が地域の黒髪小学校への登校を拒否された、という事件である。1953年、それまで寮内に設置された黒髪小学校分教場で学んでいた子どもたちを、教育基本法に明記された教育の機会均等の理念に反するとして、熊本市教育委員会は黒髪小学校への通学を決定した。熊本地方法務局・熊本市教育委員会・恵楓園との間で黒髪小学校本校への未感染児童の通学が合意されていた。
 しかし、これに反対するひとびとは市内デモや機関誌の発行を行うなどの反対運動を展開した。様々な交渉の果てに、納得しない反対派が熊本市教育委員会の玄関でハンストを行った。最終的には、熊本商科大学(現・熊本学園大学)の高橋守雄学長(当時)が竜田寮の新1年生全員を大学の施設に引き取り、そこから通学させるという妥協案を提示し、ようやく事態は収拾に向かった(藤野 2003e: 3)。

 ハンセン病差別問題として、取り上げられることの多いこの「藤本事件」と「竜田寮児童通学問題」は1950年代に起きた事件である。2.1に記したように「癩予防法」から「らい予防法」に改正されていく(1953年)なかで、「ライは恐ろしいものである」とまだ考えられていた時代であった。そして、このふたつの事件では、直接の利害関係にある集団(「藤本事件」では藤本松夫の親戚、「竜田寮問題」では、反対運動をおこなった、黒髪小学校に通学している児童の親)が大きく関わっている。
 これに対して、黒川事件の発生は2003年であり、「らい予防法」は廃止されているどころか、熊本判決も結審し、「政治的解決」も済んだあとである。特に熊本県では啓発活動も活発に行われており、1950年代当時とはまったく異なった環境であるといえる。さらに、黒川事件の重要な集団である「一般市民」は、ハンセン病患者と直接の利害関係にあったわけではない。それにも関わらず、彼らが第三者という位置から差別の加害者になったことに疑問と違和感を覚えた。

3. 黒川温泉宿泊拒否事件

 誰かの言動を徹底的に批判する。そのとき批判するひとはどのような知識・論理を持ってそれを批判もしくは否定するのだろうか。そしてなぜ批判・否定しなければならないのだろうか。彼らは、自分の生活世界を脅かす可能性が極めて低いであろう準拠他者であるにもかかわらず、元患者たちを徹底的に批判し、排除する。その感覚と論理はどのように構築されているのか。
 2.1では元患者たちを取り巻いてきた排除の歴史を概観した。これから扱うのは、2003年に起きた黒川事件である。かつて「らい予防法」によって故郷を追われた人々に「故郷に触れてもらいたい」と、都道府県が実施する「ふるさと訪問事業(里帰り事業)」の一環として、熊本県有数の温泉地である黒川温泉のホテルに宿泊予約を入れていた、恵楓園の入所者たちが、ハンセン病の元患者であるという理由で宿泊を拒否されたことが発端となった。これは「宿泊したい」、しかし「元患者だから宿泊させられない」といった、簡単な話ではなく、マスメディアや第三者である一般市民も加わり複雑な話になっていく。ふるさと訪問事業を実施する熊本県は、ホテルを刑事告訴し、最終的に宿泊を拒否したホテルは廃業、そして廃業に追い込んだとして恵楓園は「一般市民」から非難を浴びた。恵楓園には大量の投書が届き、そのほとんどが匿名もしくは実在しない団体名を語ったものであった。

 3.1 事件経過
 2003年11月18日、潮谷義子熊本県知事(当時)は定例記者会見の場で、黒川温泉のホテルが恵楓園の入所者たちの宿泊を拒否していたことを明らかにした。入所者は熊本県が主催する「ふるさと訪問事業」の参加者だった。熊本県が同年9月にホテルに予約を入れ、11月に入り再度宿泊の確認をした際に、宿泊客がハンセン病元患者であることがわかり、それを理由にホテル側は宿泊を拒否した。熊本県は宿泊拒否が「人権侵害」にあたるとしてこの事実を公表し、潮谷県知事は記者会見のときにはすでにホテルの本社(東京)に抗議文書を提出しており、熊本地方法務局に概要を報告、そして旅館業法違反の疑いもあるとして今後の調査に着手することを決めていた。これは熊本県内だけでなく、全国でも報道され、同ホテルが加盟している黒川温泉旅館協同組合には抗議の電話やファックスが殺到したという(熊本日日新聞2003年11月19日付)。
 しかし同年11月20日に事態は一変する。この日、ホテルの総支配人は謝罪のために恵楓園を訪れた。そこで「私の無知と認識不足から恵楓園の皆様に不愉快な思いと迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします」と用意してきた文書を読み上げた。対面していた恵楓園自治会の役員はこの謝罪を受け取らず、総支配人に激しく詰め寄った★08。このときの様子は地方TV局のニュースで生放送され、その録画は夜のNHKニュースでも流された。この報道の日から施設や自治会に対して多数の非難と中傷の電話が入り、はがきや封書、ファックスでの抗議文書も届くようになった。
 なぜ、自治会は総支配人の謝罪を拒否したのか。総支配人が恵楓園を訪れた前日、つまり11月19日にホテル側はホテル内で会見していた。その前々日である17日には県知事がホテルに出向き、宿泊拒否の理由を質していた。そのときに説明した理由と、19日および20日の「謝罪」場面で説明した理由が異なっていたのである。20日の「謝罪」時に総支配人が文書を読み上げたのも「17日から心境が変わった経緯と何を謝るのか文書に明記してほしい」と自治会長が要求したためである(朝日新聞2003年11月20日付)。これは19日の時点でホテル側の説明が17日のものと異なっていたことに自治会が気づいたからである。
 17日には会社全体の意見として、ハンセン病患者は受け入れられない、という見解だったが、20日には、会社として関係なくあくまでホテルの総支配人が無知で認識不足だったので、個人の責任において拒否した、という説明になっている。恵楓園側はこの説明の違いを重く見て、20日の会社による謝罪を拒否したのである。
 自治会の謝罪受け入れ拒否により、市民からの電話や封書が殺到し、自治会は12月1日にホテル側の「宿泊拒否は当然である。直前まで元患者であることを明かさなかった県に責任がある」とする文面を一旦は、「今後の啓発に影響がでる」として受けとることを決める。しかし、その後も「人権侵害したとは思っていない」と主張するホテル側に、ハンセン病違憲国家賠償訴訟全国原告団協議会(全原協)や全国ハンセン病療養所入所者協議会(全療協)が抗議した。ホテル側は12月19日に自社ホームページにおいて「拒否を当然としていたこれまでの見解を訂正し謝罪する」とする、新たな見解を示した。翌20日に本社社長が恵楓園を訪れ、全面謝罪、一応の和解をみたかと思われた。
 ところが、県が旅館業法に基づいてホテルに営業停止処分を出す方針であることが報道されたのとほぼ同時期の翌年2月16日、ホテル経営本社はホテルの廃業を表明した。一般市民は恵楓園入所者が廃業に追い込んだと考え、沈静化しつつあった自治会への電話や封書送付などの抗議活動が再び活発となった。3月29日、熊本地検が旅館業法違反の容疑で、本社の前社長、ホテルの総支配人、取締役の3人と同社を熊本県宮地簡易裁判所に略式起訴し、5月の連休明けの廃業、引き続くホテル建物解体をもってこの事件は終結した。
 以上が、この事件の報道された限りの全容である。注目すべき点は、直接的な差別・被差別の経験を継承していない人々が関係したハンセン病差別事件である、ということだ。

 3.2 黒川事件における差別の類型
 黒川事件を扱った研究としては、元患者にインタビュー調査をしてきた社会学者の蘭由岐子の「『宿泊拒否事件』にみるハンセン病者排除の論理」(2005a)、好井裕明の「差別を語るということ」「ハンセン病者を嫌がり、嫌い、恐れるということ」(2004, 2006)がある。まず、好井の「差別を語るということ」(2004)は、差別の日常的な語り方を分析する事例として黒川事件の「差別文書綴り」を取り上げている★09。ここでの好井の分析は、蘭(2005a)でも踏襲されている。好井は、差別文書の宛名に注目して、書き手の側にある「匿名性という問題と被差別対象の空洞化という問題」を読み取る。

 「熊本市」「東大阪市」「善良な一国民より」「東京都麻布市一人の市民拝」「横浜市」「福岡市に住む一老人」「高知県」「納税者より」「長崎市の一老人より」「女性代表」「東京都」「一民間人」……「北九州市」「日本ハンセン病患者を消す会会員一同」「大分県民代表,大分県男」(好井 2004: 318)

 好井・蘭は、これらの差別文書は、匿名性を高めることで社会全体の代表としての位置どりを得ようとしている。それは2つの方向をもち、被差別の属性をもつ人には社会全体から排除されているという位置を与え、被差別の属性をもたない人には発言者と同じ立場に同化を迫るものである(好井 2004: 319,蘭 2005a: 184)。
上記のように好井と蘭が感受した黒川事件の差別性は、具体的にいかなる方法で元患者を排除していったのだろうか。好井(2006)・蘭(2005a)の「差別文書綴り」分析の目的は以下のようなものである。

 書き手〔非難の手紙を書いた人〕たちによる、ハンセン病者「差別」を成立させる解釈手続きはどのような日常的分類やエスノグラフィックな詳細を用いて生み出されているのだろうか。……この差別文書の全体の内容を分析することにより、ハンセン病者への排除のありようをさぐっていくことにする。(蘭 2005a: 182)

 今回の事件で噴出したハンセン病者に対する誹謗、中傷の言説の背後には生活者である私たちがもっているどのような論理や情緒が息づいているのだろうか。(好井 2006: 104)

 こうして好井と蘭は、差別的な投書を行ってきた人々の「排除の方法」を分析し、ハンセン病者を排除する論理を分類する。蘭によると、「書き手によるハンセン病者カテゴリーの構築」は4つ(T「乏しい『知識の源泉』にもとづく構築」U「病気の知識とハンセン病患者像」、V「温泉ホテルという場とハンセン病患者像」W「税金によって生活している者)に分類される。好井もまた、「療養所に殺到した手紙のなかで生きている『人々の論理』」を4つ(@「病の論理」A「納税者の論理」B「福祉の論理」C「人権の論理」)に分類している。好井論文は蘭論文への応答として書かれており、蘭論文の分類を踏まえた包括的なものになっている。蘭T、U、Vは好井@に対応しており、蘭Wは好井A、B、Cに対応している。

(1)知識・違和感・排除
 書き手たちには「T乏しい『知識の源泉』にもとづく構築」がある。これはたんなる無知ではなく、「元ハンセン病患者」についての知識を自分たちはすでに得ているという前提のもとでのカテゴリー構築である。蘭は、元患者たちを攻撃する投書の書き手たちの文章を分析し、「ハンセン病者が生きてきた歴史に対する理解を示すものもある」(蘭 2005a: 186-187)と記す一方で、次のように述べている。

 しかし、それはあくまでも上辺の表現(言うならば社交辞令的な記述)にとどまり、自分たちがハンセン病者たちの人生をどのようなものと認識し、どのように共感しているのか、具体的な内容についてはまったく書かれていない。そして、共感したというフレーズのあとには「が」「しかし」といった接続詞が続く(蘭 2005a: 187)。

 熊本県には全国で最大規模の国立療養所があり、以前より啓発活動が盛んに行われている土地である。そこで起きたこの事件は、ハンセン病問題に取り組む関係者に衝撃を与えた。「なぜこのような差別事件が熊本県で起きたのか」と。しかし、逆に言えば、以前から啓発活動によって「なんとなく知っている、聞いたことがある」という市民が大勢この土地には住んでいる。蘭によると、その「上辺の」知識はハンセン病者の差別を正当化する書き手のカテゴリー構築のひとつなのである。
またこの知識の内実として、「U病気の知識とハンセン病者像」によるカテゴリー構築がある。これは近代日本においてハンセン病がもった意味づけを再生産するものである。

 年齢層の高い書き手たちはかつて身につけた「むかしの知識」を参照したものがある。……「治らない」「恐ろしい」「隔離によって感染が免れる」「感染する」病気であり、そのハンセン病のエージェントとしてハンセン病者があると考える。……日本の誤ったハンセン病予防政策の根幹が踏襲されている。たとえ「ハンセン病は完治する」「伝染性がない」という「正しい知識」が補填されていたとしても、以下の推論から宿泊拒否が正当化される。すなわち、「正しい知識」の補填によって生じた認知的不協和は次のように定言されるのである。……「正しい知識」を教わったとしても、長年のあいだに培った知識の訂正や偏見の解消は一朝一夕にはできないという考え方である(蘭 2005a: 187-190)

 この指摘は好井の@「病の論理」に対応している。手紙の執筆者にはハンセン病に関する知識を一定もちながらも、感染と隔離を基礎づけた近代日本におけるハンセン病差別の表現を踏襲し、合理化するものがある。

 自ら進んで難病であることを自覚し、世間を甘く見ないで控えめにしてこそ、多少同情も集まると云うもの……部落解放問題も口先では差別するなと云っていますが実際に自分の身に降りかかってくれば、みんな差別するのが実状です。ライ病のような恐ろしい伝染病の患者をそう簡単に平等扱いする人は絶対にいないことをあなた方は自覚してください。(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 76-77)

 これに対して好井は、このような偏見を不合理であると断じて済ますことをしない。手紙の書き手は「ハンセン病をめぐる医学的科学的知識」は認めるかもしれないが、その知識をもって自らのもつ「嫌悪・忌避、恐怖の観念」を取り除くことはできないだろう。したがって、「本人が生きている生活世界のなかで生きている常識的知識に由来する知」であると好井は考える。これはハンセン病を日常生活に立ち入らせないための合理的な実践なのである(好井 2006: 107-108)。
 蘭のV「温泉ホテルという場とハンセン病患者像」にもあるように、ハンセン病者を自分たちの日常生活に立ち入らせない根本には、「異形性、外見への違和感」が存在している(外見に後遺症が残っているような人たちのことはいい気持ちがしない(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 173))。だが、好井は異常と正常の間にあるその線引きは恣意的であるとする。手紙の書き手たちは、国に差別の責任を負わせる所作によって、異形性に違和感を表明する語りを、差別ではないものとし(勿論、言われなき偏見、差別〜と言うよりも、人間として、人間らしく生きることを否定されて来たその人達には、国が償っても償っても、なお償いきれない事でしょう(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 164))、無防備な体が温泉で恐怖にさらされるという違和感の表明を行い続けている(貴殿が「温泉は人の心と体をいやす場所と言うように、もしあなた達が一緒にお風呂に入ったり廊下ですれちがいざまに会うとぞっとします、ゴメンナサイ(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 44))(好井 2006: 110-114)。好井によると、「ふつう」の基準が客観的に存在して、その基準から逸脱する元患者たちが排除されるのではなく、逆に、元患者たちを逸脱者として排除する振る舞いを通じて「ふつう」の基準が確定されるというのである。

(2)納税者・福祉・排除
 蘭のW「税金によって生活している者」によると、書き手たちは、自分たちが「ふつう」であるという基準として納税を行う労働者と、税金で生活する福祉受給者の間で線引きをおこなっている。

 お願いです。現実を考えて行動して下さい。もしあなた達のような方々が、お風呂に入ってきたら正直おどろきをかくしきれません。みっともない行動はやめて下さい。あなた方は、税金で運営される施設で生活していますね。差別(区別)されて当然です。(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 32)

 ここで療養所入所者は「非納税者」として類型化されている。「税金で生活している人」そして「税金から給料をもらっている人(役人)」は「特権階級」であるとされるのである(蘭 2005a)。好井はさらに詳細に、A「納税者の論理」B「福祉の論理」C「人権の論理」という形で分析を進める。

 〔ハンセン病者を自らの生活世界から締め出すためには〕ハンセン病者が、自分たちがあたりまえに暮らしている社会のメンバーではないことを明瞭にする必要がある。そのために駆使されているのが納税者の論理である。……この論理には……〔納税している〕自分たちのほうが優れているという思想が見え隠れするのである。(好井 2006: 115-117)

 納税者になることができない同情や哀れみの対象である福祉給付受給者は、権利主張を行うことによって、メンバーシップを奪われる。

 かわいそうな人だから同情してたけど、もう助ける気持ちも起こりません。(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 106)

 納税者の論理と福祉の論理は補完的で、納税者としての義務を果たしていることがメンバーシップの証となり、非納税者で福祉の対象になる人々は「かわいそうな」ひととして振る舞い続けるかぎりにおいて福祉の恩恵を受けている。しかし、非納税者が権利として福祉を要求し、不正を訴え、納税者の権利を制限するとしたら、非納税者はメンバーシップをもつ資格がないというのである。
 そしてC「人権の論理」は、非納税者である元患者たちが、逆に納税者に対して人権侵害を犯しているというかたちをとり、元患者への排除や攻撃を強く正当化する言葉となる。

 ハンセン病にかかったこと不幸ですか。生活が安定し幸ではないですか。もっともっと苦しんでいる人、たくさんいますよ。黒川温泉に強く強く同情する一人です。失礼ですが、宿泊者にも人権があるのです。(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 150)

 好井は、問う。「冷静に考えたら『ハンセン病者の抗議=従業員の人権を侵害する』という理屈は通らない。わたしたちはいろいろな存在や現実に対して、嫌がったり、避けたりすることは確かだ。その意味である現実を排除してしまったり、そこから距離をとろうとすることは、いくらでも起こりうるものだろう」。そして、「そうした営みを『自由』や『権利』『人権』という言葉が保障するものではない」と結論付けるのである(好井 2006: 126)。

4.「国策としての差別・偏見」──ハンセン病差別の地平

 3では、好井と蘭の黒川事件に関する分析を整理した。両者は差別の類型分析においては重なっている。しかしながら、同じ社会学者であるが、問題設定と結論においては異なっているように見える。それはなぜだろうか。そこには「調査者」がいかに差別の現場にかかわるのかという立場の違いが存在しているからであろう。ここで再度、多少長くなるが「差別文書綴り」から引用し、その投書に対する2人の「調査者」の立場の違いを検討したい。

 私は七三才の男性です。誠に失礼なことを申しますが、これは私個人だけの意見ではなく、日本中に私と同じ考への人が多数いると思います[#「日本中に〜思います」に傍点]。……私は温泉が拒否するのは当然だと思います。ここ数年来、ライ病のことをハンセン病等と体裁の良い病名で呼んでいますが、ライ病は完全に治る病気ではないと思います。如何に医学が進歩したと云え、この大病が全滅するとか、絶対治るとは考へられません。過去最大の伝染病として特別に扱われ法律に依って島流し同然に隔離されて何百年。
 このライ病がわずかの期間に伝染病でないと保証される証拠は全くありません。差別問題だけを取り上げて、このようにライ病患者を野放しにするのは今後の日本にとって危険極まるものです。一般人の中に入って来て知らず知らずの間に結婚し、次々と遺伝していってはそれこそ大変なことです。
 温泉等に入られては誠に迷惑です。貴方達がもし温泉に入られたと知ったらその温泉には一生涯入りません。それくらい恐ろしい病気なのです。
 それが証拠に貴方達の顔、手、身体は普通の人間とは全く違います[#「貴方達の〜違います」に傍点]。テレビで見てもはっきり判ります。貴方たちも自分でTVを見て、何とも思わないのですか?……自分から進んで難病であることを自覚し、世間を甘く見ないで控え目にしてこそ、多少同情も集まると云うものです[#「世間を〜ものです」に傍点]。きつい云い方ですが、私と同じ考へをもつ人は、政治家、医者、学者の中にも大勢いる筈です。ただ世間の手前、云へないだけです。それをよくわきまえて下さい。
 親、兄弟にも見離され、離れ小島に隔離され、何百年もの間、人間扱いされなかったライ患者が、如何に世の中変われど、その病原菌がなくなる筈はありません。法務省や県が拒否したホテルを処罰しようとしているのは、只々世間に対する表面的な考へだけで本当は迷惑していると思います。
 部落解放問題等も口先では差別するなと云っていますが実際に自分の身に振りかかって来れば、皆んな差別しているのが実状です[#「実際に〜実状です」に傍点]
 ライ病のような恐ろしい伝染病の患者をそう簡単に平等扱いする人は絶対にいないことをあなた方は自覚してください[#「平等〜ください」に傍点]
 この手紙マスコミに公開して下さい。そして世間の人に問いかけてください。恐らくあなた方にはできないでしょう。(菊池恵楓園入所者自治会 2004: 75-77 傍点筆者)

 これは実在しない「京都市ハンセン病を考へる会」を名乗る人からの明らかな差別文書である。この長い手紙のなかには、蘭と好井が分類したカテゴリーに属することが可能な文章が含まれている。この書き手は一程度の知識は持ち合わせていると推察できるが、従来のハンセン病差別のパターンを踏襲している。あらゆる啓発活動をし、情報は刷新されていっているにもかかわらず、差別的な発言を繰り返し、挙句の果ては「皆そう思っている」と言い切っている。こういった書き手の偏見、差別について蘭は無知がゆえ、差別を生み出すと言い(蘭 2005a)、一方で好井は「無知がゆえに差別を生みだしたという結論では納得がいかない」と言う(好井 2006: 129)。
 蘭はハンセン病差別を総括した「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」(以下最終報告書)と同様に、啓蒙によって差別をなくさせるその方針を示唆していた。最終報告書には以下のようにある。

 ハンセン病についての差別・偏見の特性を次のようにまとめることが許されようか。国策によって作出、助長、維持された差別・偏見だということが第1である。第2は、この「国策としての差別・偏見」の作出、助長、維持に、医療者、宗教者、法律家、マスメディア、その他、各界の専門家が作為または不作為という形で大きく関わっているということである。……第4はこの「国策としての差別・偏見」が長年にわたって維持され、いわば日常化された結果、差別・偏見という「異常事態」に対して市民の側に感覚麻痺が見られるということである。……第6はこの「国策としての差別・偏見」は、同情論と表裏一体のものと作出、助長、維持された結果、無数の「差別意識のない差別・偏見」、「加害者意識のない差別・偏見」が生みだされているということである(財団法人日弁連法務研究財団 2005: 757)★10

 確かに強制隔離政策は国策であった。しかし、それが原因で一般市民に「差別意識のない差別・偏見」が生まれたという見解は、問題の本質を置き去りにしているように思える。対処として「まずは療養所に行き、そこで生活しているひとたちと触れ合ってみるとよい。しかし実際には文書の書き手たちに療養所に足を踏み入れさせることはむずかしいだろう」と蘭は言う(蘭 2005a: 207)。その意見を否定はしないが、それだけで問題が解決するわけではない★11。

 検討会議の最終報告書では、こうした手紙群に表明された内容を、国が起こした隔離収容という差別・偏見が「日常化された結果」、市民の側に「感覚麻痺」が起こり、その結果生じた「差別意識のない差別・偏見」……と読んでいるが、はたしてこのように整理することで、こうした手紙を入所者に対して書くという“人びとの実践”の意味を捉えることができているのだろうか。……今回の事件で噴出したハンセン病者に対する誹謗、中傷の言説の背後には生活者である私たちがもっているどのような論理や情緒が息づいているのだろうか。(好井 2006: 104)

 好井は「無知がゆえにこの差別が生まれた」という結論に難色を示している。誤った知識と結びついた日常生活のリアリティがあるからこそ、差別は生まれるのである。最終報告書にある「差別意識のない差別・偏見」「市民の側」の「感覚麻痺」という理解の仕方では、差別現象は論じきれない。好井によると、単なる「感覚麻痺」などではなく、〈私〉たちが歪められたカテゴリーに意味を見出し、それをなんらかの形で受容しているからこそ、抗議の手紙を書かれたのである。したがって、その営みを「差別・偏見」だとして批判するだけでなく、その差別行動がいかに〈私〉たちの日常で息づいているのかをより多層的に把握する必要がある。
 最終報告書や蘭が、異なるものへの違和感は無知に由来するのであるから、知によって乗り越えられるという一方で、好井は知/無知という図式ではなく、そのひとの日常生活にとって、差別がどのようなリアリティをもつのかを分析することを課題とする。そして、差別を無知の産物として遠ざけるのではなく、「調査者」も含めて誰もが差別・被差別の磁場にいるとだという前提で、自らが差別についてどのような意味を与えているのかを積極的に話しあう、「差別を語るということ」を新たなトピックとして差別の社会学の中心にすえようと提案するのである(好井 2004: 327)。

5. 考察

 〈私〉は元患者たちと出会ったあとに以下の文章を記した。

 知ったつもりでいる無関心さも問題である。与えられただけの情報を鵜呑みにし、それを知識として吸収し知ったつもりになってしまう。知ったあと、疑うという行為には出ずに「知っているから大丈夫」という妙な安心感を覚えるのだ。真実を知ろうとすること、疑うことをやめた人間たちは、その問題の本質をそれ以上追求しなくなる。これは無関心であることと同じである(吉田 2007: 32)

 熊本県のように盛んに啓発活動を行っている地方では、「全く知らない」というひとよりも「ある程度知っている」というひとのほうが多い。無知は異なるものへの違和感を排除に結びつけ正当化するが、だからといって必ずしも知が異なるものへの違和感を緩和させるわけではないことも、黒川事件を語る蘭や好井の見解をみても明らかである。
 かつて元患者たちの差別を語ろうとしたとき、〈私〉は「調査者」としてその問題の外にいようとした。それはまるで自分とは関係のない出来事であるかのように。2004年の〈私〉はあくまで「調査者」であり、第三者目線で物事を捉えていると表明こそしないまでも、そのように振舞った。「調査者」は正しい知識をもち、差別者とは異なる、差別を記述する者であるという想定がそこにはあったからだ。しかし、そのような価値中立的な振る舞いはどこかで自らを差別の磁場から自由な存在とするものである。好井が言うように、知は差別をなくすための条件であったとしても、それだけで差別をなくすものではない。「調査者」として中立的立場にある人間さえ差別者になりうる。黒川事件に対する最終報告書、蘭の解決策はかつての〈私〉の距離感と似たものがある。好井の論文の眼目は、知をもって差別から自らを遠ざける者たちを、「調査者」を差別の磁場におくことにある。それが「差別について語ること」なのである。〈私〉は自分を「調査者」であると位置づけ、その磁場から遠ざかっていた。
 かつて「調査者」として振舞っていた〈私〉は、だからこそ元患者との衝突を前に困惑した。そこは「差別について語ること」の磁場だったのだ。元患者から過去あった重く苦しい話を聞き取る、そして投げかけられる。「お前はこの話をどう聞くのか、そしてどう返すのか」と。〈私〉はフィールドワークをおこなうなかで、たびたび元患者と衝突した。1でも記したように、先方が望むような論文を書くことが出来なかった〈私〉は自分が「調査者」であるがゆえに調査のイニシアチブを握るのは自分でないといけない、と感じていた。そして、コミュニケーションが難しくなりその場から立ち去った。〈私〉はあの時どうするべきだったのか。好井の言うように「差別について語ること」、その前に「一度は先方のニーズに応える」という可能性もあったかもしれない。そのうえでその磁場にとどまり、調査者/被調査者の関係を築きあげることもできたはずである。かつて〈私〉が下した「『普通のひと』と『普通でないひと』の壁を作っている張本人だった」という結論は性急ではあった。これはどのような差別現場にもあてはまる出来事である。
 本章は直接に黒川事件の分析を行うものではなかったが、今後の課題を以下に記しておきたい。差別を解消する方法を模索するという本報告書の視点からすると、蘭や好井らが採用しているエスノメソドロジーの方法は、日常生活のリアリティやそこで作動する差別の構造を明らかにすることはできたとしても、社会構造や社会政策にまでには言及していない。〈私〉はたとえ困難であるとしても、社会構造、法制度、さらに当事者たちの動きの分析を行い、差別事件の構造把握をしなければならないと考える。差別事件は、それが道徳的・社会的に甚大な被害をもたらす事件である以上、刑罰を伴う規制などの強制的手段も必要とする。ときにそれは好井らが提案する対話的な差別是正の方法に反する場合もあるかもしれない。しかし、エスノメソドロジーを用いる社会学だけでは、差別を是正するまでには辿りつかないだろう。調査者が差別事件に関わり、被差別者と出会う在り方について考察した末に、再び差別事件と社会構造との関係を解読する、といった単純ではあるが見過ごすことの出来ない分析がこれからも必要であると付言しておきたい。


[注]
1)本章では一人称をあえて用いて記述を行っていく。〈私〉という括弧付きの表記は、執筆者がフィールドに訪れたときに、「調査者」という位置取りをしていたことを強調したいがためである。
2)ハンセン病自体は現在治癒可能な病いであるので、ハンセン病を過去患ったひとのことを本章ではこう記す。しかし、引用などについてはそのまま表記することとする。
3)元患者たちは、療養所の外のことをこう呼ぶ。すなわち〈私〉は「社会のひと」と呼ばれていた。一方、自分たちのことは「中(内)のひと」と呼んでいた。この呼称から「自分たちは社会の一員ではない(なかった)」という思いがわかる。
4)国立ハンセン病療養所は全国に13ヶ所存在し、九州地方はそのうち菊池恵楓園(熊本県)、星塚敬愛園(鹿児島県)、奄美和光園(鹿児島県)、沖縄愛楽園(沖縄県)、宮古南静園(沖縄県)の5ヶ所を有している。
5)療養所内にはひとりひとり(一家族)に部屋というよりも家が与えられており、壁さえなければひとつの集落のようになっている。〈私〉が滞在していた家はひとり暮らしで3DKの広さだった。
6)詳細については拙稿を参照されたい。「見えない壁を叩き続ける・隔離はいつ終わるのか──国立ハンセン病療養所でのフィールドワークを通して」http://www.arsvi.com/w/ys13.htm
7)栗生楽泉園殺人事件──1950年1月16日、国立療養所栗生楽泉園において、患者同志の反目から3人の患者が殺されるという事件が発生した。そのうちの1人が朝鮮人だった(山本 1993: 225)。
8)この総支配人は女性であり、報道では男性元患者たちがこの女性に激しく詰め寄る姿が映し出された。それも「一般市民」の感情を煽る要因になったのではないかと考えられる。
9)黒川温泉宿泊拒否事件が起こった際に殺到したさまざまな種類の中傷の手紙を恵楓園自治会が差別と偏見を解消するねらいのもと、冊子にまとめたものが「差別文書綴り」である。ホテル側が略式起訴されるまでに届けられた文書は総計120通で、そのうちの107通を一部伏字にして肉筆のまま掲載している。
10)日弁連のこの見解については、『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』18所収の「アイスターホテル宿泊拒否事件」を参照のこと。http://www.jlf.or.jp/work/hansen_report.shtml#saisyu
11)また蘭の解釈によると、「攻撃する相手は誰だってよかった」ということになる。元患者に差別文書を送った人間は、他の集団にも差別文書を送っていた、という事実を踏まえての結論である。だから、あらゆる差別は同じ地平に存在する、という構図である。しかし、それだけで片付く問題なのだろうか。この事件が熊本判決以降に起きたこと、制度を利用し少しずつ退所者が出始めた2003年に起きたこと、なによりも啓発活動を盛んに行っていた熊本県で起きたこと。これらの要素を考慮すれば、そのような単純な理解にはならないはずである。ハンセン病差別は他の差別と同じ地平にはない。というよりもあらゆる差別は其々複雑かつ偶発的な構造を要しており、決して同じ地平にあるとは言うことはできないのではないか。これについては別稿に譲る。


[文献]
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全国ハンセン病療養所入所者協議会編,2001,『復権への日月──ハンセン病患者の闘いの記録』 光陽出版社.


*作成:村上 潔
UP: 20110321 REV: 20120119
『「異なり」の力学――マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題』(生存学研究センター報告14)  ◇全文掲載  ◇地域社会におけるマイノリティの生活/実践の動態と政策的介入の力学に関する社会学研究

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