19世紀の大問題は、周知のごとく、貧困と悲惨の問題だった。なぜ、富の生産が、富の生産に直接かかわる人間の貧困を招くのかという問題が、つまり、富と貧困が並列して生み出されていく現象が多くの思想家や哲学者の関心をひいていた。〔もちろん、富と貧困に関わる問題は解決されたとは言い難いが〕現代において、この問題は、もう一つの問題に裏打ちされているのだ。つまり、権力の過剰の問題がそれであり、現代において人々を不安に陥れ、あるいは公然たる反抗を呼ぶのは、ファシズムやスターリニズムが非常にグロテスクな形であからさまにした権力の生産過剰という問題にほかならない。したがって、19世紀の経済学がちょうど富の生産と分配について分析を行ったように、むしろ現代における経済学〔価値や力の生産や配分、循環のシステムの研究〕は、その分析の対象を権力におかなければならない。(Foucault 1994g=2000:124)
あなたが“さあご覧ください、こっちがプロレタリアートで、あっちが周縁的存在ですよ”というような言い方をする時、もはやついて行けなくなる。あなたがたは、この周縁的存在という総称のもとに(中略)、囚人、精神病患者、犯罪者などをまとめていた。しかし、精神病患者、犯罪者、囚人、その他のリストによって、プロレタリアートではない、プロレタリアート化されていない下層民を定義づけることができるのだろうか?(中略)つまり、プロレタリアートがあって、しかるのちにこれこれの周縁的存在がいる、と言ってはならないのであって、下層民全体の集合のなかに、プロレタリアートとプロレタリアート化されていない下層民を分け隔てる断絶がある、と言うべきではないかということです。そして、警察、司法、刑法体系といった諸制度は、資本主義が必要としているこの断絶を絶えず深く刻んでいくために用いられる一連の手段のごく一部ではないか、と思うのです。(Foucault 1994d=1999: 295)
〔ソ連でもフランスでもその他の地域でも見られる〕世論と犯罪者の断絶は、刑務所システムと、その歴史的起源を同じくしています。あるいは、むしろ、この断絶は、権力が刑務所システムから引き出した幾つもの重要な利点の一つなのです。実際のところ、18世紀までは(中略)犯罪者と分厚い民衆層の間には、今日存在している敵意に満ちた関係はありませんでした。金持ちと貧乏人の断絶が深いのであり、その間の敵意も大きなものであったので、盗人――富の流れを変える者――は、貧困層においては、歓迎される人物なのです。……しかし、人々が産業に従事し、都市生活を送る中で、日常的な窃盗や、かっぱらい、詐欺が、あまりに高くつくものになった時、民衆によって容認されてきたこの非合法行為は、結局、深刻な危険として現れることになったのです。そして、新しい経済的規律が社会のあらゆる階級に課されるようになりました。したがって、一方では富をより効率よく保護せねばならなくなり、他方、民衆は非合法行為をきっぱりと否定するという態度をとらねばならなくなりました。こうして権力は――そしてこれには監獄も大きく貢献しているのですが――分厚い民衆層とは実際には何のコミュニケーションも持たない犯罪者達の中核を、民衆には耐え切れぬものとして産み出させたのです。そしてまた、このような犯罪者の孤立化故に、警察が民衆を見渡すことが容易となり、民衆は、19世紀にその形成が見られる「社会階層」というイデオロギーを発展させることができたのです。(Foucault 1994f=2000: 80-81/ルビ原文)
老人たちはソレックス〔原動機付き自転車〕欲しさに彼らの最後の蓄えを盗みにくる輩、つまり不良少年に対しては、これっぽっちの同情心を持ち合わせていない。しかし、その少年がソレックスを買うための金を持っていないということについて、また、第二に、少年がそれほどまでにソレックスを買いたがるということについて、責任は一体誰にあるのか? 19世紀は、プロレタリアートの抑圧にかけては独特の手法を実践していました。集会の自由、組合の権利など、さまざまな政治的権利が認められたのは確かだが、それと引き換えにブルジョワジーはプロレタリアートから政治的な品行方正の確約とおおっぴらな謀反の放棄を取り付けたのです。一般民衆は、支配階級のゲームの規則に屈するかたちでしか、そのささやかな諸権利を行使することができなかった。その挙げ句、プロレタリアートはブルジョワ・イデオロギーのある部分を内化するにいたった。(Foucault 1994d=1999: 249-250)
マルクス主義はナチズムとファシズムに、「ブルジョワジーの最も反動的な部分による公開のテロリズム的独裁」という定義を与えてきました。これは、何の内容もなければ判然としたところもない定義です。とりわけこの定義には、大衆の内部に、抑圧や制御や保安といった国家的機能の一部を担う、かなりの割合を占める部分が存在しうるのでなければナチズムやファシズムは可能ではない、ということが欠けています。ここにこそナチズムの重要な現象があると私は思います。すなわち、大衆の内部にナチズムが深く浸透すること、そして、権力の一部が大衆の一部に実際に委任されるということです。だから、「独裁」という語は一般的には真であり相対的には偽なのです。ナチ体制にあって一個人が、単にSSであるとか党員であるとかいうことで持ちえた権力のことを考えればよいわけです! 隣人を殺し、その妻を我がものにし、その家を自分のものにするということが実際に可能だったのです!(中略)独裁といって普段考えるのは、一人の権力ということですが、事実は反対で、こうした体制にあっては、権力の最も嫌らしい部分、いや、ある意味では最もうっとりする部分でもあるのですが、その部分が、相当数の人々に与えられる、と言えるでしょう。SSとは、殺す権力、強姦する権力を与えられた者でした……。(Foucault 1994e=2000: 228)
ソーシャルワークが一つの巨大な機能の内部に組み込まれ、この機能が数世紀来たえず新しい広がりを示し続けている、ということでしょう。この機能こそ、監視=矯正機能です。個々人を監視し、矯正(corriger)すること。ここで矯正という言葉には、罰する(punir)か、さもなくば教育化(pedagogiser)か、という意味の二つがあるのですが。この監視=矯正機能は、いまだ19世紀においては、種々の制度によって維持されていた。なかんずく教会、そしてのちには小学校教員によってです。よく、ソーシャルワーカーは結核や性病の根絶運動という無報酬の援助活動から出発した、と言われますが、わたしは、その起源が、むしろ教育者の機能、いわば本来の意味における「小学校教員」(instituteur)の機能にあるのではないか、と思っています。……共和国は小学校教員と司祭との対立を通じて発展してきたのです。19世紀には、こうした監視=矯正機能が政治権力に対して相対的自律を保っていた。政治権力は、教員と司祭の対立、抗争、そしてそれぞれの自律をうまく利用してきたのです。……〔しかしながら、現在は〕一方では教会が、他方で知識人たちが権力の手を逃れつつあるだけに、なお一層厳密な仕方でそれを手中に収めている。ブルジョワ国家に対する知識人の大いなる裏切りに対しては、小学校教員、中学校教員、知識人らがいつのまにか果たさなくなった役割をソーシャルワーカーに演じさせるという事態をもって制裁が加えられるわけです。逆説は、そうしたソーシャルワーカーがまさにその知識人らによって養成されるという点にあるのですが……。ソーシャルワーカーが、自ら譲り受けた機能を裏切れずにいられないといった事態も、実はそこから生じているのです。(Foucault 1994d=1999: 291-292/傍点原文)
イギリス下院の〔1972年以降20年かけて全ての精神病院をなくすという〕決議は、たしかに注目に値するものです。むしろ、驚愕に値するといってもいい。その行き着く先が彼らにちゃんと見えているのかどうか、私は疑問に思う。……資本主義社会が、そして目下のところ、非=資本主義社会を自称する社会もまた同様に、とにもかくにも収監する社会として存在しているからです。……資本主義社会が収監型の社会であるということ、これは証明済みの事実のようでいて、いざ説明するとなると実に難しい。実際、労働力の売買が行われる場としてあったはずの社会が、なぜ収監する社会にならねばならないのか? 無為、放浪、あるいはよりよい賃金を他所に求めていく人々の移住、すべてそうしたものは、この大衆という碁盤目状組織を押し流し、大衆を雇用市場に引き留める可能性をも運び去ってしまう。そうしたことがすべて収監の実践そのもののなかに書き込まれているのです。だから、ある社会が――イギリス社会のように資本主義的な社会までもが――、収監制度は少なくとも狂人たちにとってはもはや存在しない、などと謳い上げても、わたしは次のように自問せずにはいられない。それは収監制度の残り半分を丸々占めている刑務所が消滅するということだろうか、それとも逆に、精神病院が明け渡した場所を、今後、刑務所が占めてゆくということなのだろうか。英国は、ソ連がやっているのと正反対のことをしているだけではないか。ソ連は精神科病院を普遍化し、それに刑務所の役割を果たさせようとしている。英国は、たとえそれが見事なまでの改善を経た施設であるとしても、刑務所自体の機能を拡張する方向に導かれるのではないか。(Foucault 1994d=1999:274-275)
仮説はこうである。危機が開かれた。シャルコが自分の叙述するヒステリーの発作を実際は自分で生産していたのではないかという、時を経ずに確信に変わる疑念が生じた時、反精神医学の時代、今も依然としてほとんど素描されていない反精神医学の時代が始まる。ここには、自分が相手取って闘うものであるはずの疾病を医師が自分で伝播させていた、というパストゥールの発見に等しい何かがある。いずれにせよ、19世紀末から精神医学を揺るがしてきた大衝撃はすべて、医師の権力を本質的に問いただしてきたように思われる。医師の権力と、これが病人に対して生産する効果とが、医師の知や、医師が疾病について語ることの真理よりも問いただされてきたのだ。もっと正確に言えば、ベルネームからレインあるいはバザリアに至るまで、問題に立ってきたのは、医師の権力が医師の言うことの真理のうちにいかにして含みこまれてきたのか、そしてその逆に、医師の言うことの真理が医師の権力によっていかにして作りあげられ巻き込まれてきたかということである。クーパーは言う。「暴力は我々の問題の中核にある。」バザリアは言う。「こうした制度〔学校、工場、病院〕の特徴は、権力を保持している者たちと保持していない者たちとの間をきっぱりと分離しているということである。」精神医学の実践のあらゆる大改革、のみならず精神医学の思考のあらゆる大改革が、この権力関係を取り巻いている。こうした大改革は、この権力関係をずらし隠し根絶し停止させるためのかくも数多い試みを構成している。近代精神医学の総体はつまるところ反精神医学によって横断されている。反精神医学というのが、疾患の真理を病院空間で生産するという、かつて精神科医が担っていた役割を問いなおすことすべてであるとすれば、そうである。したがって、近代精神医学の歴史を貫いてきた、複数の精神医学について語ることができるだろう。だがおそらくは、歴史的、認識論的、政治的な見地から完全に判別される二つの過程を慎重に区別したほうがよいだろう。まず、「脱精神医学化」の運動があった。シャルコの後すでに現れたのはこれである。これは、医師の権力を停止させるものではなく、これを、より正確な知の名においてずらし、これにまた別の適用、新たな尺度の見地をもたらそうとするものである。……脱精神医学化の最初の形式はババンスキとともにはじまる。脱精神医学化の決定的英雄がここに現れる。疾病の真理を演劇的に生産しようとするよりも、これをその最低限の現実へと縮減するほうがよい、というのである。……もう一つの脱精神医学化の形式は、この形式とちょうど正反対の形式である。そこで問題なのは、狂気本来の真理における狂気の生産をできるだけ強化することであるが、それにあたっては、医師と病人との間の権力関係がこの狂気の生産においてちょうど備給され、権力関係がこの生産に対して適正を保ち、権力関係がこの生産の枠を出ず、この生産がその制御を保つことができるようにするのである。……精神分析は、歴史的には、シャルコという名の外傷によって惹き起こされた脱精神医学化の第二の大形式として解読することができるだろう。精神病院という空間から引き籠り、精神医学の過剰権力のもつ逆説的な諸効果を抹消しようというのである。しかしそれは、真理の生産者としての医学の権力を新たにしつらえた空間で再構成し、それによってこの真理の生産が相変わらずこの権力に対して適正を保つようにすることである。(中略)この、脱精神医学化の二大形式は、いずれも権力を保存するものである。というのも、一方は真理の生産を停止させるし、他方は真理の生産と医学の権力を互いに適正なものにしようとするからである。これらの脱精神医学化に対して、反精神医学が立てられる。精神病院という空間から引き籠るのではなく、その空間を内的な作業によって体系的に破壊することが問題となる。自分の狂気とその真理とを生産する権力をゼロに縮減するのではなく、この権力を病人自身に移すということである。ここから発すれば、反精神医学に賭けられているものを理解することできると思われる。それは、認識(つまり診断の正確さないし治療の有効性)という意味での精神医学の真理の価値などではまったくない。反精神医学の中核には、制度を用いた、制度のうちでの、制度に反しての闘争がある。19世紀初頭に精神病院の大構造が設置された時、それは社会秩序の要請――狂人たちの混乱から身を護ることを要求するもの――と治療上の必要性――病人を隔離することを要求するもの――とのなす驚異的な調和によって正当化されていた。(Foucault 1994e=2000:265-269/傍点引用者)
様々な形をとっている反精神医学は、こうした制度的権力の働きに対して立てる戦略に応じて位置づけることができるように思われる。病院と医師双方による自由な同意に基づく一対一の契約という形式によって制度的権力から逃れること(サース)、制度が再構成されるとこれを宙吊りにし追跡すべきものとする特権的な場を整備すること(キングスリー・ホール)、制度を一つずつ標定し、古典的なタイプの制度の内部で漸進的にこれを破壊すること(21号棟のクーパー)、制度を、既に精神病院の外部で個人の精神疾患の病人として隔離を規程しえてきた他の権力関係と結びつけること(ゴリツィア)。精神医学の実践のア・プリオリを構成してきた権力関係は、精神病院という制度が機能するのを条件づけ、諸個人間の諸関係を精神病院において分配し、医学的介入の諸形式を支配してきた。反精神医学ならではの逆転は、その権力関係を逆に問題の領域の中心に位置させ、本源的な仕方で問いただす、というところにある。(Foucault 1994e=2000: 269-270)
重要なのは――著作家の政治行動にとって――全ての人から理解されるということというよりも、むしろ問題にしている人達から理解されることです。もし『狂気の歴史』が精神科医や心理学者、看護人、精神病患者に読まれうるのなら、そして彼らにとってあの本が何らかの意義あるもので、彼らに衝撃を与えるのであれば、本質は達せられるわけです。労働者があの本を理解しなくても、深刻なことではありません。フランスの労働者の状況について述べた本なら、深刻でしょうが。(Foucault 1994e=2000: 74)