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「障害受容」から考えるリハビリテーションでの セラピスト−クライエントの関係

2010/11/26 田島 明子 韓日障害学フォーラム 於:イルムセンター(韓国・ソウル)報告原稿
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last update:20101220

「障害受容」から考えるリハビリテーションでの セラピスト−クライエントの関係
田島 明子

1.はじめに――自己紹介

 このたびは、韓国障害学研究会で報告させて頂ける事を大変光栄に思っております。どうかよろしくお願いいたします。さて今日は、私がこれまで行ってきた研究の中核となるような部分についてお話させて頂きたいと思っております。
 私は、ずっと、リハビリテーションの仕事をしてきました。作業療法士というのですけれども、もちろん韓国にも作業療法士という職業はあるのではないかと思いますが、いかがでしょうか。質疑応答の際にでもぜひ韓国での様子を教えて頂ければ有り難いです。
 少なくとも日本では、これまでリハビリテーションと障害学は、端的に言えば反目するような関係にあったと言えると思います。特に障害学のなかではリハビリテーションは批判の的になってきたわけです。
 しかし、私はセラピストとして働いてきましたが、働いているなかで、セラピストとして振る舞いに違和感を覚えたことがあったのです。その違和感について言語化してくれたといいますか、答えを教えてくれたのが、障害学だったと感じております。
今日はそのことについて、私のこれまで行ってきた研究とも深く関係しますので、お話をさせていただきたいと思っております。
 昨年、三輪書店という出版社から『障害受容再考――『障害受容』から「障害との自由」へ』という本を出版して頂いたのですが、今日お話させて頂くことはその本の中核となる内容ということにもなります。


2.問題意識

まず『障害受容』という言葉ですが、韓国にも存在していると鄭喜慶さんからは伺っておりますけれども、これからお話させて頂くことは、リハビリテーションの臨床場面で、この『障害受容』という言葉がどんな風にセラピストによって用いられているか、また、その用いられ方によって、セラピストと対象者の関係性にどのようなみえざる力学が存在しているかということを明らかにしたという内容になっています。
拙著の章立てで言いますと、第5章、第6章あたりの話をさせて頂きたいと思います(表1→当該書籍ページ[こちら]に記載されている)。

 そもそも、なぜ私がこの「障害受容」という言葉に疑問を持ったかということですけれども、私は作業療法士の養成校を卒業しまして、ある福祉施設で勤め始めたのですが、そこでは障害を持っている方の就労支援なども行っていました。障害を持つご本人が一般就労をしたいというと、「障害受容」できていない、と言われてしまうわけです。その先の言葉としては、「障害を受容」して、一般就労するという希望は持たないで福祉的就労をしましょう、という含みがあるわけですね。「障害受容」という言葉や、その言葉の使われ方を聞いたときに、私は障害を持つ方の希望を叶えようとすることが支援のはずなのにもかかわらず、これを支援というのかと思いました。そのような理由から、「障害受容」という言葉にずっと引っかかりを持っていたわけです。
 それでは、内容についてご紹介していきたいと思います。拙著でいいますと、第5章のところに該当します。

3.臨床現場では「障害受容」はどのように用いられているのか

 まず、これまでにも、リハビリテーションや障害児教育などの分野において「障害受容」という言葉の使用に対する批判はすでに存在していたということを確認しておきたいと思います。例えば、南雲直二先生や上農正剛先生が書かれた本(注1)などがあります。
 それらの本では、「障害受容」という言葉の使用が、「専制的」であるとか「押し付け的」である、というような批判がなれていました。
 ただ私自身は作業療法士として臨床現場を経験してまいりましたので、臨床家としての視点もありまして、臨床場面での「障害受容」という言葉の使用には反省すれば改善するというような問題ではない、反省的態度のみでは終わらないような、なにか「仕掛け」があるのではないかと感じてきました。
そこで、本研究では、そうした「仕掛け」についての考察を行うことを目的としまして、「障害受容」という言葉の、臨床での使用状況について臨床で働く作業療法士の方にインタビューを行いました。

1)インタビュー対象者

インタビュー対象者ですけれども、臨床で作業療法士として働く7名です。 選出方法ですけれども、無作為に選出はせず、学会で知りあったり、友人や友人を介したりして、選出をしました。なぜ無作為に選出しなかったかですが、この研究の問題設定として、臨床実践についての批判的な検討を含み持っていましたので、無作為に選出したところでインタビューに応じてもらえない可能性が考えられたこと、また、できるだけ正直に現状や心情を語ってほしかったことがあります。 というわけで、人数、選出方法等を鑑みまして、この研究の結果が必ずしも実際の臨床を一般化はできてはいないと捉えております。今後の課題と考えております。

2)インタビュー対象者の内訳

インタビュー対象者の内訳は表2のとおりです。
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表2 インタビュー対象者の内訳
対象者内訳
事例No氏名経験年数性別インタビュー日時インタビュー時間
1Sさん8年女性平成17年6月25日45分
2Oさん5年女性平成17年10月16日1時間20分
3Iさん10年女性平成17年10月29日55分
4Mさん24年男性平成17年10月29日54分
5MIさん3年女性平成17年11月5日1時間32分
6OKさん2年女性平成17年11月6日1時間6分
7Yさん12年女性平成17年11月12日57分
1)経験年数が●年■か月のとき、■か月は省略している。つまり、丸何年か、の表記である

また、対象者の仕事内容につきましては、資料1にありますので、ご確認いただければと思います。

インタビュー方法

あらかじめ作成した調査票を元に半構造的に実施しました。質問項目については、次のとおりです。
(1)一般情報
@現在、過去の仕事内容
A勤務年数
(2)「障害受容」に関して
@職場での使用頻度
A誰がどのように使用するのか
Bその言葉による変化
C障害告知について
D「障害受容」についてどのように習ったか
4)分析方法
手順1:逐語録より、「障害受容」に関して述べられているものをすべて抜き取り、カード化した。
手順2:事例ごとに内容が類似するカードを集め、それぞれにカード番号と見出しをつけた。
手順3:重複する内容のカードは省略したが、各事例のカードから得られたすべての結果を反映できるよう、文章を組み立てた。

5)結果

(1)職場での使用頻度(表3)

表3 職場での使用の頻度
事例No氏名使用の有無
1Sさんときどき用いられる
2Oさん同上
5MIさん用いられない
6OKさん同上
7Yさん同上

   表3は、職場での「障害受容」という言葉の使用頻度ですが、4件法で(しばしば用いる、ときどき用いる、ほとんど用いない、まったく用いない)答えていただいた結果です。
 ここに書かれていないMさんは、入職後3年ぐらいは用いていたのだけれども「今は用いていない」ということで、Iさんについては、病院と更正施設両方を経験されているので使用の差異について重点的に伺っておりますので、表3の結果にはお名前はありません。

(2)職場での使用状況(表4)

表4 職場での使用状況
SさんOさん
使われる場・人 ・会議などで,同職種,あるいは,他職種と担当患者の情報交換を行う際に用いられる.
・対象者本人には用いない.
どのような事象に用いるか 「機能回復への固執」の強さを「障害受容」と表現するが,一方,「訓練がスムーズに進行しない」とき,あるいは(訓練がスムーズに進行しないがための)セラピスト側の主観的な苦労度を障害受容という言葉で表現している.「機能回復への固執」に対して適用. 「代償アプローチ」の受け入れはよくても「機能回復への固執」があればそれに対して用いる.
セラピストの苦労と共感 「機能回復への固執」は,セラピストのプランや意図を阻害するものという位置におかれる.そして,プランや意図するものへの到達へ向けての阻害感が苦労度と表現されるものである.また,会議などにおける「障害受容」の使用は,会議に居合わせた各人にその苦労が想起されやすく,了解や共感を得られやすい言葉である.
障害受容できている人・状態 「機能回復への固執」があったとしても,生活に目を向けることができ,セラピストと目標を共有でき,フットワークが軽い.「障害受容」は長期的な経過を必要とするものである.たとえ生活ができていたとしても,その人の有する能力とかけ離れた目標を持っている場合には「障害受容」できているとは言えない 対象者がたとえ生活に目を向けられたとしても「機能回復への固執」があれば「障害受容」という言葉を用いる.


 表4は、「障害受容」を職場で「ときどき用いている」というSさん、Oさんの職場での使用状況ですが、細かいところは各自ご覧いただくとしまして、いくつか注目していただきたいところがあります。
 まず注目されるのが、Sさん、Oさんとも、「回復期のリハビリテーション」を行っているところだということです。
 ここで「回復期のリハビリテーション」について、補足的に説明をします。
 韓国でもリハビリテーションに、発症時期からの期間で分け方があるのかどうかはわからないのですが、日本で主流な分け方として「急性期」、「回復期」、「維持期」というふうな分け方をします。「回復期」というのは、「急性期」を抜けて、回復が期待できる段階というような位置づけです。逆に言いますと、機能回復ができるか、できないかの分かれ目といいますか、それが見えてくるのが「回復期」ということにもなります。
 もう1つ、リハビリテーションには、日本では、アプローチ方法が大きくみて2つあります。1つが「回復アプローチ」、2つめが「代償アプローチ」ですけれども、その違いは、「回復アプローチ」は、機能を正常に戻す、近づけるための訓練で、「代償アプローチ」は、機能が回復難しかった場合に、機能を補うような方法を考えるアプローチです。具体的には、脳卒中になって右片麻痺になったときに、その麻痺手の機能を改善しようとする働きかけが「回復アプローチ」、これまで右手で使用していた食事用具を、左手で行えるようにするといった働きかけが「代償アプローチ」です。
 話を戻しますが、「回復期のリハビリテーション」というのは、その機能から見ても、「回復アプローチ」「代償アプローチ」の両方を、クライエントの回復の具合によって使い分けることが求められるわけですが、こうした「回復アプローチ」「代償アプローチ」の移行に立ち会う機能をもっている臨床の場で、「障害受容」という言葉が用いられる傾向があるということが指摘できると思います。もう1つは、「どのような事象に用いるか」というところですが、「機能回復への固執」ということが1つと、セラピストの主観に着目するなら、セラピストの意図やプランの到達へ向けての阻害感があることがわかりました。

(3)「障害受容」の使用をめぐる図式(表5 PDFデータをご参照ください)

 以上の結果から、「障害受容」という言葉の臨床での使用について、表5のような図式が描けると考えます。まず、クライエントとセラピストの間に「能力認識のズレ感」があるということです。それが、セラピストの「訓練の進行が妨げられている」という主観的な「苦労感」を引き出したときに、障害受容(ができていない)という言葉が用いられるということになります。
 こうした図式から導きだされるいくつかの問題点を指摘したいと思います。
 まず、「能力認識のズレ感」が引き金になっているということで、リハビリテーションにおけるアプローチ法との関連で、本来であれば多様性に満ちた障害観(感)というものが、能力に着目した障害観(感)へ収束していかざるを得ない部分があるということが1つあげられます。それと同時に、「目的遂行の阻害感」というのは、別の言葉で表現するなら専門性の肯定化や、専門性の予定調和的遂行への期待感が発生するということになります。
 つまり「障害受容」という言葉の使用によって、「障害観(感)」「専門性」の押し付けが、発生するということではないかと考えます。
 また、「仕掛け」について考えますと、アプローチ法の円滑な遂行ということを巡って、「障害観」「専門性」の対象者への押し付けということを背景として「障害受容」という言葉が用いられるという一連のプロセスが明らかになったのではないかと考えます。

4.「障害受容」の使用を避けるセラピストたち

 次に、3−5)−(1)の結果において、「「障害受容」という言葉を用いない」というセラピストの人たちも少なくなかったということも、1つ着目すべきことだと思いますので、そのようなセラピストに、「障害受容」という言葉を用いない理由、「障害受容」という言葉のイメージなどについて伺いましたので、そちらを見ていきたいと思います。これからご説明する内容は、拙著の第6章に該当します。

(1)「障害受容」を使用しない理由(表6)

表6 「障害受容」を使用しない理由
職場で使用していない3名
YさんOKさんMIさん
使わない理由 ・この言葉の使用にためらいを持ったのは,最初の患者を担当したときから.
・「発想の転換」はそう簡単にできるはずのものではない.「障害受容」は時間をかけ,納得したり,憤ったりして行われていくものである.
・進行性の疾患を持つ人たちと関わるなかで,その人が思いをぶつけてくればそれを受け止めるし,その人が望むことのためにやれることをする/したいという思いを持ってきた.
・人の気持ちの中のことまでは分からない.その人は「しょうがない」と言うかも知れない.しかしそれが本心かどうかもわからない.だからなおさら「障害受容」という言葉は適用しずらい.
・進行が進み,呼吸すら苦しい状態の人に対しては,その人が苦しい状態を受容したからといって楽になるわけでもなく,「障害受容」という言葉は不適切である.
「障害受容」という言葉には馴染みずらい印象を持っており,それがあえてこの言葉を使わない理由.「障害受容」という言葉は,「ありふれてない」「堅い」印象があり,かりにこの言葉を対象者に用いたとして,はたして伝わるだろうかという疑念がある.また,現実にある事象のなかに,受容している/していない,とはっきりと分けられる状況はそうはないが,それに対して「障害受容」という言葉は「完璧すぎる」イメージがあり,自分が表現したい言葉ではない. ・対象者はケースバイケースであり,「受容の過程」には当てはめづらいと感じる.「受容」というときちっと枠が決められてしまう感じがするが,「枠の外で話したい」という思いがある.受容自体が難しいものであるし,それが必要なのか.たとえ受容していなくても,自分なりの生活が営めればよいのでがないか.
・昨今の,障害受容に対して批判的な言説は,「受容の過程にあてはめなくてもいいんだ」「それで間違っていないんだ」という安心感を生起させるものである


「障害受容」を使用しない3名のその理由は、表6のとおりです。一人ずつ見ていきましょう。
 まずYさんの場合、「専門性」と「クライエントの気持ち」が対立的な位置関係になく、Yさんのなかでは「クライエントの気持ち」を基点として「専門性」が構築されていることがわかります。だからといって、すべての支援過程で「クライエントの気持ち」が優先されるということではありません。時には、専門的見地からクライエントにとって不利益と判断される行動には、専門性が活かされます。そういう場面は、「障害受容(できていない)」と表されるような場面でもありますが、Yさんの場合は「専門性の予定調和的遂行への期待感」がなく、むしろ、Yさんはそうした状況に直面したときに、「再三働きかけるしかない。訓練をやり過ぎることもマイナスだからってことは、何回でも、横にくっ付いて疲労しないようにずっと「その辺でもうやめませんか」と言うしかない」と言います。
 次にOKさんです。OKさんは、受容している/していない、とはっきりと分けられるものではないのに、「障害受容」という言葉は「完璧すぎる」イメージがあると言います。
 例えば「障害個性」論という考え方があります。これは「リハビリテーション」「治療」において、障害が「治すべき」対象として位置づけられ、障害/健常と二分化されてしまうことへのアンチテーゼであり、障害を肯定する意図が含まれています。障害カテゴリー自体が社会文化的な構築物で、障害/健常の線引きは、普遍なものではありません。「受容」にしても、障害と障害のある人との1つの関係を表す言葉にすぎません。しかも「受容」という言葉には「どのように」が抜け落ちています。「個性」として「受容」するのか、あるいは「受容」しなくてもいい、というあり方を望む人もいるかも知れません。そもそもこの言葉は障害当事者「の」ことを言っているのだから、その人が決めればいいと言えます。そのように考えると、「障害受容」という言葉そのものに、押しつけ的な意味内容が含まれていて、しかもそれは障害を持つ当事者に対して、「リハビリテーション」「治療」の求める理想的で完璧な像にすぎないと言えると思います。
 MIさんは、「障害受容」の状態へクライエントを持っていこうとする志向性そのものに対して懐疑的でした。それには、「障害受容」=「あきらめ」という印象が影響しているかもしれません。「あきらめ」とは、「できる/できない」の設定が他者によってなされて、その評定を動かし難い事実として本人が「受容」したときに生じる心境だととらえるなら、こうした障害観の押し付けは、セラピストのクライエントへの能力評定という作業を通じてなされることになります。MIさんは、「障害受容(できてない)」とするときの、こうした一連の能力をめぐる障害価値の押し付けに対して否定的イメージを持っていると考えます。

(2)目的としての「障害受容」(表7)


表7 目的としての「障害受容」
YさんOKさんMIさん
目的としての障害受容 受容するしないは個人の選択だが,寝てもさめても,「おれの手が,おれの手が」,飯食ってても「おれの手が」,テレビ見てて本当なら笑える話なのに「でも,おれの手が」って言ってたら,本人だってしんどい.そのこと(障害)を毎日毎日1分1秒考えて,いらいらしていて,ほかのことすべてを否定してしまうっていう状況にはならないでくれればと思う.少しでもつらくない状態になるために役に立てたならうれしい.それは結果としてこうなればというものではなく,対象者のつらい気持ち・こうしたいという思いに応えたいという思いが先にあって,こちらは問題解決のための働きかけをする. 障害受容に代わる言葉として「折り合いをつける」という言葉がしっくりくる.「折り合い」という言葉は「自分の障害に対しても気持ちの「折り合い」がつけられ,周囲からもある程度自分の思いが受け入れられ「折り合いがつき」,「楽に生きている姿」を想定できる.「障害受容」というと,こっちかこっち,どちらかに比重がかかるイメージがあるが,「折り合い」というと,どちらにも比重がかからず,微妙な均衡が保てているというイメージがある. 障害にとらわれ,頑張れる人もいるので,障害にとらわれること自体が否定されるものではないが,それでも「投げやりにならずに自分なりの生活を送ることができること」「障害を意識せずにいられる時間を持ち気持ち的に楽になれること」は重要である.


 Yさん、MIさん、OKさんとも、「障害受容」に対して否定的な見方をしつつも、「障害受容」は支援の目的であるとも語っていました。その結果をまとめたものが表7です。その目的とは「楽にいられる」ことです。つまり、障害にとらわれ、つらい気持ちになるのなら、障害へのとらわれから自由になって、「楽な気持ち」になれることがよいと思っているわけです。それが(最終的な)支援の目的とも言っていました。 ここで確認しておきたいことは、「障害との自由(楽にいられる)」は、「障害受容」とイコールなのかどうかです。 私は、次の2つの理由から、それは一緒ではないのでないかと考えました。

●「志向性」
 「障害受容」は「社会適応」へと志向する概念であって、そのため、社会が持っている「能力主義」的な価値観と共鳴していると言えると思います。障害を持つ人を「社会適応」する方向にリハビリテーションが働きかけるときに、「障害受容」という言葉は、障害を持つ人に対して、能力主義的障害観、障害の否定性を内在化させようとする圧力になるのではないかと考えます。
 一方で、「障害との自由」は、障害へのとらわれから自由になる、とらわれる必要がなくなること、とも言えると思います。多様な障害観(感)が展開される自由とも言えると思います。そういう意味では、能力主義的な障害観、障害の否定性から自由になること、とも言えるのではないかと考えます。能力主義的な障害観からの自由というのは、障害価値の肯定のために、あるいは、とらわれからの自由のために確保されるべき自由ではないかと思います。逆に言えば、「障害との自由(な関係)」のために、能力主義的な障害観は否定されるべきではないかと思います。

●「他性に対する(肯定的)感覚」  セラピストが、すでにリハビリテーション文化のなかにある「障害受容」という言葉を、自らの感覚を便りに拒絶する感覚と地続きなのが、「楽にいられる」、『障害との自由』ということではないかと考えます。それがもう1つの異なりではないでしょうか。つまり、それが、「私」の感覚から生じているということです。その感覚は「障害の否定」を肯定しませんでした。なぜなら「障害の否定」の肯定が「私」を不快にさせるからです。「障害」を「制御できないもの(他者)」とするなら、その感覚は、「他性」に対する感覚だと言えるのではないでしょうか。『障害との自由(な関係)』ということのなかには、他性に対する肯定的な感覚が前提にあるような感じがします。

5.まとめ


 まず、本研究において、「障害受容」という言葉そのもの、用い方の志向性に、障害の否定性が含まれてしまっていることの違和感とか不快感とか、といったものを、実はセラピスト側でも感じる人が結構いたということが明らかになりました。
 また、「障害受容」という言葉の臨床での使用法として、専門性の遂行がまず重要な位置にあって、能力的な観点から障害を見るという、障害を否定する見方を対象者に内在化させようとする圧力があることも確認しました。
 さらに、「障害受容」がリハビリテーションで大切であり、支援の目的だというセラピストは多いにも関わらず、「障害受容」のための支援方法が明確ではないし、回復アプローチ、代償アプローチなどのリハのアプローチ法と「障害受容」の支援法との関係も明確ではないという問題状況も、本研究において改めて浮き彫りになった重要な問題です。
 最後になりますが、これまでの日本のリハビリテーション学の成り立ちをみますと、「障害の価値」という重要な観点が抜け落ちていたと感じております。そのことに気づかせてくれたのは、障害学であり、立岩先生の著書だったりしたわけですけれども、今後は、私自身は、障害学を基盤として、障害・存在を肯定できることを前提とした、リハビリテーション学、あるいは、作業療法学の再構成・再構築といったことをやっていきたいと思っております。

[注]
1)南雲[1998]、上農[2003]など。
[文献]
南雲直二,1998,『障害受容――意味論からの問い』,荘道社.
上農正剛,2003,『たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識』,ポット出版.


*作成:田島 明子
UP: 20101220  REV:
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