水俣において後に水俣病として知られる奇病が発生してから約60年の歳月が経とうとしている。水俣病史は、奇病の確認からその原因物質である有機水銀のチッソによる排出の停止までの期間と、その後の被害者認定と被害補償をめぐる闘争期に分けることができる。
2010年3月水俣の患者組織は和解案を受け入れた。この和解案を不服とする人たちも少なからずあるが、被害認定を求める人たちが高齢となっていることから、この判断が取られた。今後は、高齢化した被害者たちへの福祉問題が焦点となっていくと思われる。
同時に、慢性化した水俣病被害者や母体内で被害を受け、胎児性水俣病となった被害者たちの生活を支援しながら、水俣病の全容解明に取り組んでいかねばならない。有機水銀の第2世代、第3世代への影響はまだ未解明の部分が多いのである。
水俣病被害者は、障害者としての観点からみれば、身体・知的障害者である。しかし、チッソによる有機水銀排出の史的経緯とその対策、そしてその後の表象の結果、水俣病被害者の中には障害者としての自らを受容することを拒むものが少なくない。
1908年 | 日本窒素肥料株式会社、石灰窒素生産開始。日本最初の窒素肥料。 | |
1912年 | 水俣村、水俣町になる。 | |
日本最大の肥料工場となる | ||
1926年 | 水俣工場、水俣漁業組合に1,500万円を寄付、漁業被害に苦情を申し出ないという証書を取り交す。 | |
1930年 | 朝鮮興南工場硫安製造開始 | |
1932年 | 水俣工場でアセトアルデヒド酢酸製造開始。触媒に水銀を使用、このころから有機水銀が含まれた排水が水俣湾に流出しはじめる。 | |
1941年 | 塩化ビニール製造開始。 | |
1943年 | 水俣工場、被害漁場を15万2,500円で買い上げ、漁業組合に事業への協力を約させる。 | |
1945年 | 水俣工場、爆撃により生産停止、日膣海外資産を失う。 | |
1946年 | 水俣工場、アセトアルデヒド酢酸生産再開。 | |
1949年 | 水俣市制施行。 | |
1950年 | 新日本窒素肥料株式会社発足 | |
1951年 | 水俣工場、漁協に50万円貸し付け、水俣湾への工場廃液の排出に関する覚書を結ぶ。 | |
1952年 | 漁場破壊進む。猫の奇病が目立ちはじめる。 | |
1953年 | のちに水俣病認定患者第一号となる人物が発症。 | |
1954年 | 水俣工場と漁協、毎年40万円の補償金で排水・廃棄物の排出を認める契約を締結。 | |
水俣病患者次々に発生、病名は不明とされる。 | ||
1956年 | 5月 | チッソ付属病院・細川一が水俣保健所に、原因不明の神経疾患児続発を報告する。水俣病公式発見。 |
1956年 | 5月 | 水俣市奇病対策委員会発足(のちに奇病研究委員会と改称)。 |
1956年 | 8月 | 熊本大学奇病研究班発足。 |
1956年 | 9月 | 熊本県、厚生省に奇病発生を報告。 |
1956年 | 11月 | 熊本大学研究班中間報告。奇病は水俣産魚貝類による重金属中毒、その由来は工場排水。マンガンを疑う。 |
1956年 | 11月 | 厚生科学研究班現地調査、工場排水を疑う。熊本県蟻田重雄衛生部長、工場排水が原因と知事に報告 |
1957年 | 1月 | 水俣漁協、工場に排水放流の停止を申し入れ。 |
1957年 | 2月 | 熊本大学研究班、水俣湾に関して漁獲禁止か食品衛生法適用が必要と確認。。 |
1957年 | 3月 | 熊本県奇病対策連絡会、原因不明なので法適用はせず漁自粛の方針をきめ、奇病と水俣工場とは無関係ということで臨む、と申し合わせる。 |
1957年 | 7月 | 熊本県水俣奇病対策連絡会、水俣湾への食品衛生法適用をきめる。 |
1957年 | 9月 | 厚生省公衆衛生局、水俣湾への食品衛生法適用はできないと回答。 |
1959年 | 7月 | 水俣工場、排出浄化装置(サイクレーター)の着工を決定。 |
1959年 | 8月 | 水俣市漁協、水俣工場の正門突破、要求書を手渡す。 |
1959年 | 11月 | 水俣病患者家庭互助会、補償を求めて水俣工場正面前に座り込む。 |
1959年 | 11月 | サイクレーター竣工。 |
1959年 | 12月 | 会社と患者互助会、見舞金契約に調印。 |
1960年 | チッソと水俣市漁協、補償契約締結。会社と熊本県、漁協に33万m2の漁場の埋立て権を1,000万円で譲渡させる。 | |
水俣工場のアセトアルデヒド生産量が最大となる。 | ||
1965年 | 1月 | 新日本窒素肥料株式会社、チッソ株式会社となる。 |
1965年 | 1月 | 新潟市で、水俣病の疑い。 |
新潟水俣病の発生。 | ||
1967年 | 新潟水俣病「被災者の会」昭和電工に損害賠償を求めて提訴。 | |
1968年 | 5月 | 水俣工場、アセトアルデヒド製造設備廃止。 |
1968年 | 9月 | 日本政府、水俣病に関する見解発表、公害と認定。 |