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水俣公害被害者 障害者とを分かつもの

森下直紀 2010/11/27
第1回障害学国際研究セミナー
主催:韓国障害学研究会・立命館大学生存学研究センター 於:韓国・ソウル市

 水俣において後に水俣病として知られる奇病が発生してから約60年の歳月が経とうとしている。水俣病史は、奇病の確認からその原因物質である有機水銀のチッソによる排出の停止までの期間と、その後の被害者認定と被害補償をめぐる闘争期に分けることができる。
 2010年3月水俣の患者組織は和解案を受け入れた。この和解案を不服とする人たちも少なからずあるが、被害認定を求める人たちが高齢となっていることから、この判断が取られた。今後は、高齢化した被害者たちへの福祉問題が焦点となっていくと思われる。
 同時に、慢性化した水俣病被害者や母体内で被害を受け、胎児性水俣病となった被害者たちの生活を支援しながら、水俣病の全容解明に取り組んでいかねばならない。有機水銀の第2世代、第3世代への影響はまだ未解明の部分が多いのである。
 水俣病被害者は、障害者としての観点からみれば、身体・知的障害者である。しかし、チッソによる有機水銀排出の史的経緯とその対策、そしてその後の表象の結果、水俣病被害者の中には障害者としての自らを受容することを拒むものが少なくない。

公害被害と行政・加害企業の無策

水俣病の発生

 1950年代初頭、不知火海沿岸の住民に四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、振戦(手足の震え)等の障害を持つ患者が現れた。その中でも症状が重篤な者は、狂騒状態から意識不明に陥ったり、さらには死亡したりする場合もあった。
 1956年5月1日にチッソ(1964年まで新日本窒素株式会社/新日窒)水俣工場付属病院の細川一院長が、相次いで搬送されてきた二人の女子の症状から「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と、水俣保健所に報告した。そして、公衆衛生行政によって、水俣において原因不明の疾患の発生が確認された。したがって、この日が水俣病の正式発見の日とされている。

有害食品の確認と行政の無策

 水俣病患者の発見直後の1956年5月に発足した水俣医師会、保健所、チッソ付属病院、市立病院、市役所の五者による奇病対策委員会による患者の掘り起こしとともに、8月から熊本大学医学部が疾患の原因の解明のための研究を開始している。そして、その年の10月には、この疾患が伝染病ではないとする中間報告が出されている。さらに、疾患の原因は何らかの中毒によるものであるとの見方が強まり、海中生物の毒性が強いことが明らかとなった。それは、水俣における水俣病患者の発見から1年足らずのことであった。この時点で食品衛生法の適応により、魚貝類の採取の禁止をすれば被害の拡大を防ぐことが出来たにもかかわらず、熊本県および厚生省(現厚生労働省)はこれをおこなわなかった(津田2004:46‐71)。

魚貝類の汚染源――チッソ

 1957年1月25日、東京の国立公衆衛生院で開かれた、厚生省科学研究班(実質は熊大水俣病研究班に国立公衆衛生院が加わったもの)の会議で、「水俣病の原因は重金属にあって、新日窒の排水に関係あり」という結論を出した。 (原田 1972: 33-4)

官民共同の偽装解決――排水浄化装置(サイクレーター)の完成

 1960年1月サイクレーター(排水浄化装置)の完成、社長はそのろ過水(実は水道水)をコップで飲む。もう大丈夫とメディアは書き立てた。通産省とチッソはそのサイクレーターがどんな機能しか果たせないかを、そもそも有機水銀排水路がつながれていないことを知っていた。当時の技術水準は色と沈殿を取るだけで、有機水銀や重金属を取る技術はまったくなく、サイクレーターを受注した荏原インフィルコは当然そのような発注は受けていないと後に主張した。(最首2007:10‐11)

公害被害者が受けた差別・地位回復運動としての裁判闘争

 日本の敗戦によって、海外資産をすべて失い、GHQの財閥解体がそれに追い討ちをかけた。チッソが保有する工場は水俣工場だけとなった。朝鮮半島から引き上げてきた技術者たちや経営幹部がかつての繁栄を取り戻そうと、工場の生産能力を拡大していった先に水俣病事件はおこった。
 さらに、水俣病の原因物質がチッソ水俣工場から排出されているとの濃厚な疑いがありながら、政府(特に通産省)のチッソ保護の方針により、水俣病とチッソの関係をあいまいにする動きがあった。
 初期の水俣病患者の多くは漁民であり、そうした漁師の多くが天草地方から渡ってきた人たちであった。「天草流れ」という言葉もある。
 重篤な水俣病患者が1950年代に確認されたころ、この病は伝染病との疑いがもたれたため、水俣病患者や患者を家族に持つ家庭に対する差別がおこった。
 官民共同の偽装解決によって、漁民たちには漁業補償がおこなわれなかったが、風評によって水俣湾で揚がった魚は売れなかった。生業を失った漁民たちは、その日を食いつなぐために毒かもしれない魚を食べ続け、水俣病となった。重篤な水俣病患者は漁民たちに集中し、「よそ者」=「貧乏人」=水俣病という差別の構造が形成された。
 ようやく、1968年に水俣病が公害として政府に認められて以降、国やチッソの責任と補償を求めての裁判や個別交渉が次々に開始された。これらは、公害の被害を確認しながらも対策を怠った、国やチッソの無作為の結果責任のみを問うのではなく、公害被害を故意に拡大させた加害責任までも求めていく。それは同時に、公害により病者や障害者とされた人たちが受けてきた差別からの地位回復運動でもあった。

人文・社会科学研究の開始とその影響

 公害被害者差別からの地位回復運動と同調するように、水俣病の原因物質を特定するべく初期からの医学研究に平行して1970年代から人文・社会科学の研究が本格的に開始された。そして、近代社会の負の遺産としての公害被害者像を描き出した。
 最初期に水俣において調査をおこなった「不知火海総合学術調査団」は、人文・社会科学分野の専門化からなる初の調査団であった。しかし、この調査団の母体は「近代化論再検討研究会」であり、この調査は反近代的色彩の強いものとなった。
 こうした近代社会批判によって、水俣病運動の中心的人物の一人であった被害者が、自分もチッソを擁する近代社会の一員であるという認識から、被害者認定の申請を自ら取り下げるという出来事を引き起こした。

障害者と水俣病被害者の認識上の差異

 障害者を「あってはならない存在」とする社会のあり方や健常者への意識への告発として、そしてオルタナティブな思想や価値、社会のあり方の提起として障害者運動は展開されてきた。
 一方、水俣病の運動の中では、母体が摂取した毒物の影響によって生まれながらの水俣病である胎児性患者が「悲劇の象徴」として描かれてきた。「もとの体に返せ」という主張、近代社会の犠牲者であるという「認定」、そしてそれに見合った補償、を求めてきた水俣公害被害者たち。障害者としての自分たちを受容する前提はまだ満たされていない。

略年表

1908年日本窒素肥料株式会社、石灰窒素生産開始。日本最初の窒素肥料。
1912年水俣村、水俣町になる。
日本最大の肥料工場となる
1926年水俣工場、水俣漁業組合に1,500万円を寄付、漁業被害に苦情を申し出ないという証書を取り交す。
1930年朝鮮興南工場硫安製造開始
1932年水俣工場でアセトアルデヒド酢酸製造開始。触媒に水銀を使用、このころから有機水銀が含まれた排水が水俣湾に流出しはじめる。
1941年塩化ビニール製造開始。
1943年水俣工場、被害漁場を15万2,500円で買い上げ、漁業組合に事業への協力を約させる。
1945年水俣工場、爆撃により生産停止、日膣海外資産を失う。
1946年水俣工場、アセトアルデヒド酢酸生産再開。
1949年水俣市制施行。
1950年新日本窒素肥料株式会社発足
1951年水俣工場、漁協に50万円貸し付け、水俣湾への工場廃液の排出に関する覚書を結ぶ。
1952年漁場破壊進む。猫の奇病が目立ちはじめる。
1953年のちに水俣病認定患者第一号となる人物が発症。
1954年水俣工場と漁協、毎年40万円の補償金で排水・廃棄物の排出を認める契約を締結。
水俣病患者次々に発生、病名は不明とされる。
1956年5月チッソ付属病院・細川一が水俣保健所に、原因不明の神経疾患児続発を報告する。水俣病公式発見。
1956年5月水俣市奇病対策委員会発足(のちに奇病研究委員会と改称)。
1956年8月熊本大学奇病研究班発足。
1956年9月熊本県、厚生省に奇病発生を報告。
1956年11月熊本大学研究班中間報告。奇病は水俣産魚貝類による重金属中毒、その由来は工場排水。マンガンを疑う。
1956年11月厚生科学研究班現地調査、工場排水を疑う。熊本県蟻田重雄衛生部長、工場排水が原因と知事に報告
1957年1月水俣漁協、工場に排水放流の停止を申し入れ。
1957年2月熊本大学研究班、水俣湾に関して漁獲禁止か食品衛生法適用が必要と確認。。
1957年3月熊本県奇病対策連絡会、原因不明なので法適用はせず漁自粛の方針をきめ、奇病と水俣工場とは無関係ということで臨む、と申し合わせる。
1957年7月熊本県水俣奇病対策連絡会、水俣湾への食品衛生法適用をきめる。
1957年9月厚生省公衆衛生局、水俣湾への食品衛生法適用はできないと回答。
1959年7月水俣工場、排出浄化装置(サイクレーター)の着工を決定。
1959年8月水俣市漁協、水俣工場の正門突破、要求書を手渡す。
1959年11月水俣病患者家庭互助会、補償を求めて水俣工場正面前に座り込む。
1959年11月サイクレーター竣工。
1959年12月会社と患者互助会、見舞金契約に調印。
1960年チッソと水俣市漁協、補償契約締結。会社と熊本県、漁協に33万m2の漁場の埋立て権を1,000万円で譲渡させる。
水俣工場のアセトアルデヒド生産量が最大となる。
1965年1月新日本窒素肥料株式会社、チッソ株式会社となる。
1965年1月新潟市で、水俣病の疑い。
新潟水俣病の発生。
1967年新潟水俣病「被災者の会」昭和電工に損害賠償を求めて提訴。
1968年5月水俣工場、アセトアルデヒド製造設備廃止。
1968年9月日本政府、水俣病に関する見解発表、公害と認定。

参考文献

原田正純『水俣病』岩波書店,1972年.
色川大吉編『水俣の啓示 不知火海総合学術調査報告 上・下』筑摩書房,1983年.
小林直毅『「水俣」の言説と表象』藤原書店,2007年.
森下直紀「水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置――人文・社会科学研究の「共同行為」について――」『生存学研究センター報告14 「異なり」の力学――マイノリ    ティをめぐる研究と方法の実践的課題』,pp.312-341,2010年.
最首悟・丹波博紀編『水俣五〇年 ひろがる「水俣」の思い』作品社,2007年.
田尻雅美「胎児性水俣病患者の表象」『部落開放研究くまもと』54:74-97,2007.
津田敏秀『医学者は公害事件で何をしてきたのか』岩波書店,2004年.


*作成:森下直紀
UP: 20101206 REV:
全文掲載  ◇グローバルCOE「生存学」創成拠点 国際プログラム(2010年秋期)  ◇水俣・水俣病  ◇環境・環境倫理学・環境思想 
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