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「対人援助のコミュニケーションについて考える   −対等性、固有性、アドボカシー」 対等性から考える「良い支援」とは?」

三野 宏治 20101106
対人援助学会第2回大会 発表原稿 於:立命館大学

last update:20110125


三野 宏治 2010/11/06
「対人援助のコミュニケーションについて考える −対等性、固有性、アドボカシー」 対等性から考える「良い支援」とは?

【精神保健福祉士としての経験から】

 私は1995年から10年余りを精神障害者共同作業所の職員として過ごしました。作業所における職員の主な仕事は、作業を中心とした様々な活動を利用者とともに行うことと作業の準備や業者とのやり取りであり、私が作業所に関しても当てはまり、共同作業所の1つの型はないでしょうか。
 一方で他障害の作業所職員の仕事ではあまりみられないものに相談業務というものがあります。長い時間を彼らとすごすことによって生活上のアドバイスをすることは他障害の作業所などと同じですが、加えて彼らの生活を観察し相談(個人面談)を受けることが精神障害者共同作業所の職員に求められました。
そんな中で、個人の経済状況や医療機関との連絡を想定した個人面談が面談室で行われます。 個人面談で話されることはさまざまであり、一概に困ったことを相談するというだけにはとどまりません。
では、その一概に困ったことを相談するというだけにはとどまらないこととはどういうことかについて、お話します。

【主訴をどう捉えるのか】

 私が受けた相談事には、個人面談として行われるべき相談と、専門家の私から見てその必要がないものに線が引きにくいという特徴がある。
当初は作業時間中に話されその会話で解決していったたぐいの話が利用者の求めによって個人面談へ移行していくことが多々ありました。生活上で困り事、例えば夕食のメニューは何にしましょうか?とか風呂の掃除をしたくないのですが。とか「何となく不安だ」とか「彼が嫌いだから作業所を辞めさせてくれ。そうしないと具合が悪くなる。辞めさせてくれ」という訴えなどがその例です。風呂の掃除をしたくないのですがどうしましょうか?という相談に私は、その人のその訴えの後ろに隠れている主訴を探そうとしましたが、要領を得ない。また、気が向くときにしたらどうですかや、やりやすい方法を一緒に考えませんか?いう返事でもさほど気乗りしないようす。ただ、この種の相談は特段個人面談という形を取る必要はなく、相談相手も職員である必要は本来ないように思います。「何となく不安である」という相談も話を聞くことはできるが面談をしたからといって解決するような事柄ではなく、面談をしたからといって劇的に気分が晴れたり状況が一変したりしないでしょう。
第2に本来、利用所自身で決めることを職員に決定してもらいたいというものである。夕食のメニューが決められないから何を食べたらいいか言ってくれという相談には、昨日食べた物を尋ね野菜不足を指摘し冷蔵庫の中身を確認してメニューを提案する。彼が嫌いだから作業所を辞めさせてくれ。そうしないと具合が悪くなる」といった人間関係に関するものも同様であり、その人の何処が嫌いか何をされたかを聞き良いところを説き作業所のあり方を話す。この種の相談は相談室では解決ができない以前にもはや相談ではないようにおもえます。
 ただ、これらの相談内容をそのまま捕らえ主訴としてよいかというと、やはりそうではないだろうと思います。

【そのままでよいのか】

 さて、この種の訴えを受けたとき専門家はどのような態度でいるのでしょうか。先に述べた「一応の対応」で済ましてしまう人や場合もあるでしょうし、私もそうしたことは多い。しかし、多くの場合はその語られた相談内容の裏にある問題点に注目するのではないだろうか。
 その際に専門家の仕事にとって有益なのは日々の生活を共にし、彼らの相談室以外での様子や会話を聞き、専門家として以前に同じ人として接する際のさまざまな面を見ることであるとされますし、それは私が行った調査でも語られたことです。

【なにが専門家の仕事なのか】

 私は2009-10年、精神障害者地域活動支援センターの精神保健福祉士と当事者へのグループインタビュー調査を行いました(*1)。 その調査においてセンター利用者に「地域活動支援センターの職員に求める事柄」と質問をしました。その結果、「協働や食事、談話室での会話などの生活場面を共にした結果をもって専門的なアドバイスがほしい」という内容が多く寄せられました。同じ調査においてミーティングに気をつけていることとしてスタッフが述べた意見で「できるだけ話さないようにしている。それは自分が意見を述べるとそれが決定となってしまうかもしれないし、今までの議論が覆る恐れもある。話す時間を与えることが支援者の役割だと思っていた」というものがありました。
 専門家は生活場面と相談室での相談場面を分けて考えることはできなでしょう。相談室での相談事を頭におきながら生活場面を共にし、生活場面での会話から介入も含めた支援策を講じる。確かに、生活場面と相談場面が不可分であることで介入を含んだ支援が効果的な場合がありえて、専門家が自分自身を含めた当事者との関係を正確に捉え、彼らの行動をどのように考え専門職としての行動にどのように結び付けていくかが福祉・支援職者の専門性ではないか。というのがひとつの結論ではある。しかしその結論だけでは危険があることを次に述べたいと思います。

【文脈で理解することの重要さと危険性】

 先ほど、その人の文脈を理解したうえでその人の発言の裏にある問題をつかみ解決することが専門家の仕事のやり方であると述べました。これは実際に行っているソーシャルワーカーは多いことでしょう。
 ただ、ここで考えておきたいのは、文脈で理解するその過程(つまり協働や食事、談話室での会話)において専門家の発言力や権力性が構築されてはいないかというという疑念を、私は感じています。
日々の活動によって構築された関係は作業所においても見いだせます。そして専門家はそれら利用者との関係を意識的にあるいは無意識のうち利用し、会や作業の円滑な運営に利用することがあります。例えば当事者の2人がいがみ合い言い争う。一旦は別の部屋に別れるなどして距離を取るがいつ殴り合いになってもおかしくない状況。このような場合、私なら一方の当事者へ「タバコでも吸わないか」話しかけます。たばこを吸いながら昨日のテレビの話や趣味の話をする。
これら一連の行いは当事者の怒りを和らげることが目的ではありません。たばこを吸いながら一時的であっても、その当事者と良好な関係を急速に強く築くことを目的としています。そしていざ殴り合い寸前のところで、煙草をともにした当事者に向かって「私からお願いします。堪えてはくれないか。」と言うのです。そして両者を分かち時間をつくる。つくった時間で煙草の彼には自分が、一方の当事者には別の専門家を配置し話を聞き調整をする。
 短時間で強く良好な関係を築き利用することは可能であり、その関係性は無自覚のうちに専門家の行動を増幅させる可能性でしょうし、それは福祉や医療での治療関係では珍しいものではないでしょう。
 
【自身の仕事について考える】

 先ほど述べた調査での専門家の発言、「できるだけ話さないようにしている。それは自分が意見を述べるとそれが決定となってしまうかもしれないし、今までの議論が覆る恐れもある。話す時間を与えることが支援者の役割だと思っていた」は、その方法の良し悪しを別とすれば、専門家の発言力や権力性を十分に理解しているともいえそうです。専門家の仕事には強制や誘導という側面があるようにかんがえています。
 例えば、当事者の意見が専門家からみて明らかに不利益をもたらす恐れがある、あるいは自他にとってか外的な行為があったとする。そういう場合専門家は「そうですか」といえるのか。あるいは、そのような不利益や加害的な行為があったとして「それでも良い」と当事者が言った場合どうするのか。その当事者との議論が十分になされていて、それでもなお専門家の私からみて、不都合である(時には生命の危険がある)と思えることでも「それでよい」という意見を述べたらどうするのか。 仮に議論を重ねて「わかった、三野さんの意見を受け入れるよ」といわれても、それはその人の主訴を反映したことになるのでしょうか。

【自身の専門性について考える】

対人支援専門職と当事者は非対称な存在であるといわれますが、どの部分に関して非対称であるのでしょうか。
稲沢 公一は、非対称な点は多くあるだろうと前置きしたうえで、当事者が抱える「苦しみ・困難さ」に対して、その人達は「逃げることが出来ない」存在であり、専門職者は「逃げることが出来る」存在である点において非対象であるとしています(*2)。続けて、専門職者=「逃げることが出来る」を認識することで、「逃げない(という態度でいること)」存在に転化することも可能であると述べています。
その私は稲沢の指摘と同意見ですし、自身の専門性を考える重要性を言い当てたものだと考えています。
 福祉とくに対人支援の場面はそれぞれ個別性を有するでしょう。また、精神保健福祉領域の対人支援場面では「良い・悪い」という以前に強制や誘導、あるいは身体の拘束までされています。一方で「当事者と対するときは上下関係にならぬよう対等な関係」が強調されてもいます。高圧的な内容の仕事をしてきるとき、専門家はどれほど自覚的であるのか。また、対等を意識しているとき自身の専門性は強制・誘導を含むものであると意識しているのでしょうか。
ここで指摘したいのは、どのような態度や行為が良く、あるいは悪いと断定してしまうのはむしろ危険だということです。断定にはその行為がどのような経過と関係性でなされ、自身がどう感じ今後どうしていくのかという「点検」をしていく猶予がとても少なくなるからです。
仮に良いとされた行為が後年「悪い」とされた場合、結果的にそれはその行為がもつ加害性以上に、加害的なこととであろうと考えます。そして、その様なことを防ぐためにも、まずは、自身の仕事や専門性に関して点検をしていくことが必要でしょうし、自身の仕事は強制や誘導をしてしまう事を認識することが重要だと考えています。自分自身のその仕事が「良い・悪い」と断定してしまうのではなく、常に「如何にすべきであったか」を振り返り、議論し、その自身に問う必要があると考えています。

注)
*1:2009年度 財団法人大同生命厚生事業団 地域保健福祉研究助成
*2:古川 孝順・岩崎 晋也・稲沢 公一・児島 亜紀子 200206 『援助するということ――社会福祉実践を支える価値規範を問う 価値規範の再構築』有斐閣.

*作成:三野 宏治
UP:20110125 REV:
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