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日本の所得保障制度と生活保護

橋口昌治 2010/11/26
第1回障害学国際研究セミナー
主催:韓国障害学研究会・立命館大学生存学研究センター 於:韓国・ソウル市


 今日はまず、日本において貧困問題に関する議論や運動が活発になっていること、そのなかで、所得保障制度が脆弱なため生活保護に大きな負担がかかっていることを紹介します。そして最後に、障害者の所得保障において生活保護が果たしてきた役割についてお話しします。

1.日本における貧困問題の浮上
 2000年代に入る直前に、当時はまだ支配的であった「日本は平等な社会である」という認識に挑戦する2つの見解が表明されました。1つ目は、1999年2月に発表された経済戦略会議の答申「日本経済再生への戦略」での、日本は「頑張っても、頑張らなくても、結果はそれほど変わらない」平等な社会であるという見解です。当時の与党である自民党と財界の主導によって出された答申は、「21世紀の日本経済が活力を取り戻すためには、過度に結果の平等を重視する日本型の社会システムを変革し、個々人が創意工夫やチャレンジ精神を最大限に発揮できるような『健全で創造的な競争社会』に再構築する必要がある」と主張しました。日本社会は実際には、子どもの頃から受験戦争に巻き込まれるなど猛烈な競争社会です。しかし、1970年代から80年代に形成された「中流意識」は、競争しても結果は一緒という認識も生みます。年功序列や終身雇用という大企業を中心に見られる雇用慣行や、公共事業を通した再分配政策に対する人々の倦んだ雰囲気から、「日本は社会主義国だ」という人が現れるほどでした。支配層の平等社会論への挑戦は、こうした人々の感情を利用し、雇用の流動化や公共事業の削減を推進するイデオロギーとして機能します。財界は、それまでの日本的経営礼賛論を90年代半ばに捨て去り、社会主義諸国の崩壊と重ね合わせながら、アメリカ主導のグローバル化に乗り遅れたら日本は衰退するというイメージを広げ、人々を競争に駆り立てたのです。こうした流れは、新自由主義的だと評価されている小泉政権の誕生(2001年4月)を準備しました。
 2つ目は、「もはや日本は平等な社会ではない」という見解です。所得分配と資産分配の不平等化に着目した橘木俊詔は、「日本は平等国家としてユニークな特色をもっている」とは言えない、と「平等神話」の崩壊を論じました。その後、同じ「社会階層と社会移動全国調査」の結果をめぐって、不平等の拡大はなかったとする盛山和夫らと、日本社会が不平等になったとする佐藤俊樹の主張が分かれ、2000年代初頭に格差議論・格差社会論が活発に議論されるようになります。こうした議論は日本社会に格差があることを前提にしており、また格差が拡大していることも多くの論者が共有してきました。論点は、どういう人々の間でどの程度格差が広がっているか、他国と比較して日本は不平等か否か、階層が固定化しているか否か、といった点です。そして、そのいずれの論点に関しても、そうした状態は許容できるかという価値判断が同時に争点になってきました。1990年代末に始まった格差議論は、バブル崩壊後の就職難、中高年のリストラと自殺率の上昇、女性を中心とした非正規労働者の増加、オイルショック以来のマイナス成長(1998年)など、90年代に起こった経済的な困難に対する人々の認識に沿ったものであったと言えます。
 このように、政治における規制緩和路線の推進と格差・雇用問題への人々の認識の広がりが同時に進むという事態が2000年代前半に起こりました。貧困問題の浮上は、この2つの流れが衝突した局面において発生します。小泉政権は社会保障費を毎年2,200億円ずつ削減していく方針などを決定したりしていたため、格差拡大の責任を問われていました。それに対し小泉政権のブレーンであった竹中平蔵が、「格差ではなく貧困の議論を」と述べます。「貧困はこの国にはない」と考えていた彼は、それで議論の収集を図ろうとしたのでした。しかし、東京都内で生活困窮者の相談活動を行ってきた湯浅誠が、すぐさま反論します。彼は「格差ではなく貧困の議論を」という部分には賛同できても「貧困はこの国にはない」という部分には首肯できないとし、すでに深刻な状態にあった貧困の実態と原因について論じました。また同時期に、日本の国営放送であるNHKが、『ワーキングプア〜働いても働いても豊かになれない〜』などの番組を放送したことの影響も大きく、2007年以降、貧困に対する認識が急速に広まっていったのです。

2.貧困議論の盛り上がりと反貧困運動、「年越し派遣村」
 研究者の立場から「格差論から貧困論へ」という主張を行ったものに、岩田正美がいます。格差議論では、「格差があることは許されるのか」という規範的な命題が議論されました。そして「成功者をねたむ風潮、能力のある者の足をひっぱる風潮は厳に慎んでいかないとこの社会の発展はない」という小泉純一郎の首相当時の発言のように、格差があった方が人々は努力をして社会も発展するといった主張を許しました。それに対し岩田は、「貧困は人々のある生活状態を『あってはならない』と社会が価値判断することで『発見』されるものであり、その解決を迫っていくものである」から、貧困こそ問題にして議論すべきだと論じたのでした。
 こうした議論に呼応するように、貧困を明るみにし、社会に問題解決を迫っていく運動が活発化します。その代表格が2007年10月1日に発足した「反貧困ネットワーク」です。これは生活困窮者の支援運動を行ってきた人々と労働運動を行ってきた人々のつながりであり、貧困議論の火付け役の1人である湯浅誠が中心に立って活動しています。彼は『反貧困』において「すべり台社会」という概念を使い、日本社会における労働問題と貧困問題の関係を分かりやすく説明しました。「すべり台社会」とは、本来あるはずの3層のセーフティネット(雇用、社会保険、公的扶助)が機能していないため、失業や病気、離婚などによって一度足をすべらせると一気にどん底の生活にまで追い込まれてしまう状態のことです。2000年代半ばの日本は高度成長期以来の好景気でした。しかし生活保護受給者が増える一方、生活保護を申請させない、または廃止させるという圧力が全国的に強かったのです。その結果、北九州では餓死者が出たほどでした。「好景気」と「生活困窮者の増加」は本来、「〜だが〜」というふうに逆接の関係にあるべきです。しかし「すべり台社会」という概念によって、「〜だから〜」というふうに順接の関係にあることが見えてきます。つまり、好景気の背景には解雇のしやすい労働者、あるいは仕事の選べない労働者が企業に買いたたかれている状況があり、それを雇用の不安定化、雇用保険未加入の多さ、生活保護受給の難しさが後押ししてきたのです。
 2008年秋に起こったリーマンショックは、「すべり台社会」としての日本社会の脆弱さを露呈させました。アメリカの消費需要に合わせて増産していた自動車などの製造業が、一斉に派遣労働者を任期満了による「雇い止め」、あるいは中途解約にしたのです。こうした派遣社員の解雇は、現在「派遣切り」と呼ばれています。日本における派遣労働の合法化は1985年のことであり、当初は同年に成立した男女雇用期間均等法に合わせ、女性事務職の派遣労働者への置き換えを意図していました。その後、アジア諸国との競争が激化した90年代に、製造業においても間接雇用が積極的に活用されるようになりましたが、まだ製造業派遣は禁止されていました。それが2004年から解禁されることになり、製造業に従事する派遣労働者の数は急速に増えていきます。彼らの多くが、求人倍率が日本でも特に低い沖縄や北海道、東北地方の出身であり、工場の多い中部地方などで派遣会社の用意した寮に住み込みながら働いていました。月に20万円ほどの収入(1年間継続して働ければ日本の平均所得の半分が得られる月収)があると求人に書かれてあっても、実際にその額を稼ぐには超人的な作業量を長時間続けなければならず、また賃金からは不当に高い寮の家賃や布団レンタル料、光熱費なども引かれ、手元に残るのは約束されていた額の半分程度だと言われています。2008年6月には、孤独にさいなまれた製造業派遣労働者が、東京の秋葉原で通り魔事件を起こし7名が亡くなるという事件も起きました。こうして製造業派遣の問題に注目が集まっていたところにリーマンショックが起こり、彼らは「派遣切り」に遭って寮から追い出されることになったのです。派遣労働者の労働相談にのってきた労働組合の関係者は、2008年末にかけて多くの人々が家を失い路頭に迷うだろうと危機感を募らせ、東京の日比谷公園で「年越し派遣村」を開くことにします。日比谷公園は厚生労働省の目の前にあり、雇用問題・貧困問題の深刻さをアピールしようという政治的な狙いもありました。報道によると2008年12月31日から2009年1月5日までの期間中に「派遣村」を訪れた失業者は約500人、参加したボランティアは1680人、寄せられた義捐金は2315万円であり、連日の報道によって生まれた世論は2009年8月30日の衆議院選挙における自民党の大敗と民主党政権の誕生につながったとも考えられます。また「派遣村」以後、生活保護の決定基準が緩和され、それまで比べものにならないほど容易に受給できるようになりました。なぜなら、生活保護しか使える制度がなかったからです。

3.日本における生活保護の運用実態
 日本の所得保障制度には、まず社会保険に分類できる国民年金や雇用保険、労働災害保険があります。次に保険料ではなく税を財源とし、一定の条件を満たした人に支給される社会手当は、児童手当や特別障害者手当、障害基礎年金があります。そして税を財源とする公的扶助として生活保護があります。しかし、失業保険の受給要件を満たさない失業者への税を財源とした失業者扶助制度はありません。また、雇用保険の加入条件が非正規労働者の増加に合わせて改善されたなかったので、加入率が低い現状にあります。例えば、リーマンショック直後の2008年11月、非正規雇用者1732万人(2007年)のうち1006万人が雇用保険に入っておらず、未加入率は58%に達するという推計が明らかにされました。当時の基準は、週20時間以上の労働を1年以上続けることが見込まれることでしたが、条件を満たしていても加入できていない人が相当数いたと思われます。それゆえ、急な解雇・雇い止めに対して、雇用保険が十分に機能しなかったのです。
 一方、日本の生活保護法は、最低生活基準以下の状態にある人なら誰でも生活保護を受ける権利があると明記しています。しかし、実際の運用では非常に厳しい基準が設けられ、福祉事務所では違法状態が蔓延してきました。そもそも日本国憲法において、生存権(25条)と同時に「勤労の義務」(27条1項)が制定されたように、労働規範と生存権の関係は根深いものがあります。そして、生活保護を受給することに対する否定的なイメージも根強く、例えばシングルマザーの8割が生活保護を受けずに就労し、最低賃金ラインの仕事を複数掛け持ちすることで家計を支えるようなことが続いてきました。その結果、捕捉率は20%と低い水準のままです。
 それではどのような基準を設けて厳しい運用がなされてきたのでしょうか。「派遣村」の直後に生活保護問題に取り組んできた法律家たちが出した声明を頼りに見ていきます。その声明は、「派遣村」の「入村」者のうちの半分以上の人々の生活保護申請が数日のうちに認められたことが「超法規的な特別扱い」であったとの誤解が広まっていることに対して出されました(2009年1月)。そして福祉事務所において申請者が言われる嘘の対応例を挙げながら、「超法規的」どころか「法律本来の姿」だったことを明らかにしていきます。例えば、「住所」がないと生活保護が利用できないという野宿者に対して頻繁に行われてきた対応について、生活保護法19条1項が、居住地のない者については、その「現在地」を所管する福祉事務所が生活保護の実施責任を負うことを定めていると反論しています。また生活保護法25条1項は、急迫状況にあるときは、すみやかに職権で保護を決定しなければならないとしているとし、「派遣村」村民に対して迅速な保護決定がなされたことは「法の求める本来の姿」であったと強調しました。そして、最低生活基準以下の状態にある人なら仮に収入があっても生活保護が受けられることも指摘しています。働く能力がある者は生活保護を受けさせないという行政の強い意志によって、生活保護を受けられるのは、明らかに「働けない」と証明できる高齢者か障害者などに限られてきました。それに対し「失業者やワーキングプアも生活保護が利用できる」と明記したのです。
 この声明が厚生労働省に正しい法の運用を求めたこともあり、「派遣村」直後から日本全国で生活保護が受給しやすい状況になりました。その結果、2009年度の全国の生活保護受給世帯数は前年度比10.9%増と過去最高の伸び率を記録し、月平均で127万4231世帯となって01年度以降連続で過去最多を更新しています。10年6月時点で、受給者数は190万人を突破しているとのことです。また生活保護の開始理由では「収入の減少・喪失」が31.6%を占め、調査開始以来初めて「収入の減少・喪失」の割合が最も高かったと言います。日本の貧困状態の悪化が進んでいることを伺わせるデータですが、もともと捕捉率が低かった点を考えると、やっと生活保護制度が機能し始めたと評価することもできます。
 一方、保護費の増加は、その半分を負担する地方自治体の財政を圧迫し始めました。例えば日本で最も生活保護受給者の多い大阪市(市民の20人に1人が受給者)では、保護費(2863億円)が10年度予算案一般会計の16.9%を占めるまで増加しています。生活保護が原因による財政破綻もささやかれるようになっており、指定都市市長会は大阪市を中心に生活保護の改革を国に求めることにしました(2010年10月)。その中心には、生活保護受給の年限を定める「有期保護制度」が据えられています。つまり、働くことができる受給者に対しては1年間を目安に集中的な就労支援を行い、自立に向けた努力が足りないと判断した場合は、3から5年ごとに支給の打ち切りも検討するというものです。アメリカやイギリスで、「福祉に依存した人々」を労働市場に参入させるために採られたワークフェア政策に近いものが想定されていると言えます。しかし、アメリカの生活保護受給者の多くがシングルマザーであることや、イギリスの捕捉率が90%を超えることを考えると、日本とは状況が大きく異なることは明らかです。前述したように、日本では生活保護受給が「働けない」と明確に証明できる人に実質的に限定され、その結果、捕捉率が低く抑えられてきました。それに対し「派遣村」以降、稼働能力がありながらも困窮状態にある人々に対しても適切に生活保護が支給されるようになったのです。もし「有期保護制度」の導入によって再び労働市場へと人々が追いやられることになってしまえば、劣悪な労働条件で働かざるを得ない低賃金労働者のプールが保存されることになります。これでは「働く貧困層(ワーキングプア)」問題の解決には至りません。指定都市市長会の提案がなされてすぐに、生活保護問題に取り組んできた法律家や学者のグループが反対の声明を発表しました。所得保障制度が脆弱な日本において、その負担が生活保護に大きくかかっている状況だと言えるでしょう。

4.障害者の所得保障と生活保護
 最後に、障害者に対する所得保障について概観し、生活保護が果たしてきた役割について述べたいと思います。  まず社会保険に分類されるものに、障害基礎年金(国民年金)、障害厚生年金と障害補償年金・障害年金(労災保険)があります。ただし障害基礎年金は、未成年者に対して無拠出で支給されるため、社会手当の要素も持っていると言えます。障害基礎年金と障害厚生年金については次の安田さんが詳しく説明してくれる予定です。後者の障害補償年金は、労働災害、つまり業務上災害を原因とする障害に対して支給されます。前者の障害年金が業務上か業務外かを問わないので、障害の原因と程度によっては両者が併給される場合もあります。その際、現状では前者が2割程度の減額、後者が全額支給というように調整されるようです。
 次に、社会手当に分類されるものとして、特別障害者手当と特別障害給付金があります。障害に伴う特別な出費を補うことを目的として、税を財源に支給されてきました。前者は障害基礎年金制度の導入と同時に設定されたものです。「精神又は身体に著しく重度の障害を有するため、日常生活において常時特別の介護を必要とする状態にある在宅の20歳以上の者」に対して、2002年以降は月額26,440円、毎年2月、5月、8月、11月の4回支払われています。後者は、国民年金に任意加入していなかったことによって障害基礎年金を受給していない「無年金障害者」に対して支給されるもので、2005年に施行されました。2009年度は、障害基礎年金1級相当に該当する人に月額50,700円、2級相当に該当する人に月額40,560円支払われています。
 これらの制度の受給者数は、2007年度において障害補償年金が約10万人、障害基礎年金が約151万人、障害厚生年金が約28万人、特別障害者手当が約11万人、特別障害給付金が約8000人です。年金保険制度が障害者に対する所得保障制度の中心になっていることが分かります。
 しかし家族と同居しない、あるいは施設の外で暮らす「自立生活」を行うには、年金の額は十分なものではありませんでした(障害年金と生活保護を同時に受給している世帯は約85000世帯)。特別障害者手当も、介護費用を補うには不十分です。そこで生活保護と介護加算が大きな役割を果たすことになりました。その経緯を簡単に説明していきます。
 アジア太平洋戦争(第二次世界大戦)に敗戦する以前、日本には傷痍軍人への対策以外、障害者に対する施策はありませんでした。戦後も1949年に身体障害者福祉法が制定されましたが、実質的に傷痍軍人への救済策であり、「更正」可能な軽度者に対象が限られます。職業につく能力がないため法の適用から除外された障害者は、50年に制定された現行の生活保護法に頼ることになりました。また59年の国民年金法成立で障害者福祉年金が設けられたため、障害者に対する所得保障制度が始まります。しかし、対象が重度者に限られ、支給額も少額だったため問題は改善しませんでした。こうしたなか進められた政策は、@職業的な更正(職業を持ち経済的に自活・自立できるようにすること)、A収容施設の拡充生活(職業的な自活が困難で家庭での生活も成り立たない障害者を施設に収容すること)、Bこれらの施策の対象にならないものへの年金の支給や援護策でした。それに対応し障害者側の運動も、雇用の確保や施設の拡充、年金制度の創設(創設後は増額)を求めていました。そこには、設定された枠組の中で不足分を指摘することしかできず、また親主導で障害当事者の意向が抑えられたという限界がありました。そして当事者には、施設に収容されるか、家族に依存するかという2つの道しかなかったのです。
 それに対して60年代から70年代にかけて、当事者から、施設に収容されるのでも親に依存するでもない「自立生活」に向けた動きが生じ始めました。75年度から支給されるようになった生活保護の「他人介護加算」も、このような運動のなかから登場します。施設から出ることを望む人々は、施設入所によって家族との関係を絶たれ福祉制度にもとで生きていくことを余儀なくされたとして、施設を出たあとの生活への公的な支援を求めました。また、施設の管理体制を批判していた彼らは、管理されず主体的に生きていくことを追求します。そして東京都との交渉の結果、73年に重度脳性マヒ者等介護人派遣事業の設立を獲得し、利用者が選んだ介助者に対して自治体の窓口から介助料が支払われることになったのです。同時に都は重度心身障害者手当を創設しますが、厚生省(当時)はそれを収入と見なし、生活保護の支給額を減らすという方針を打ち出しました。生活保護が減額されては手当の意味がなくなるので、反対運動が起き、公的な文書に記載されない他人介護加算が認められることになりました。これが介助を得て暮らしていく上での有力な手段となったのです。さらに1991年度から、原爆者特別措置法の介護手当を引き上げたのに合わせ、支給額が改善されるともに知事の承認による特別基準が新設されました。
 現在、他人介護加算は全国一律で月に約7万円支払われ、その他、1類(食費)、2類(光熱・衣服・雑費)、障害者加算(手帳1・2級)、重度障害者加算、住宅扶助(1.3倍額)などが支給されることで、東京だと約26万円、北海道でも約20万円の収入を得て暮らすことができるようになっています。

*作成:橋口 昌治
UP: 20101203 REV:
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