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対談「『医療的ケア』が繋ぐもの」――バクバクの会のこれまでの活動について

人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会>
2010/10/01


■この文章への言及

◆立岩 真也 2017/03/01 「(脱)施設化/(脱)病院化 生の現代のために・19 連載・131」,『現代思想』45-(2017-3):-

人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会> 2010/10/01 「対談「『医療的ケア』が繋ぐもの」――バクバクの会のこれまでの活動について」

 『現代思想』2010年3月号(特集:医療現場への問い――医療・福祉の転換点で)に掲載された、立岩真也さんと杉本健郎さんの対談記事「『医療的ケア』が繋ぐもの」を拝見いたしました。
 平素の立岩先生、杉本先生のご活動には心より敬意を表しております。ただ、この対談の中のバクバクの会について言及がある部分(注3)には、誤解と思われる箇所が多々あり、バクバクの会が20年間一貫して取り組んできた「子どもの命と思いを大切に」という活動理念にも関わると思われますので、改めてご説明させていただきます。
 まず、初期のバクバクの会で、親が無理矢理"巨大なレスピレーター"を持って帰ると主張したという事実はありませんし、そのことによって子どもたちが次々死んでいったという事実も聞いたことがありません(注2)。むしろ、当時は、人工呼吸器をつけての在宅移行は事例がほとんどなかったことから、子どもの命を守る安全確保対策を最重要課題として、医者と看護師と親が何度も話し合い、試行錯誤を重ねたうえで、在宅に踏み切っていたことをぜひ知っていただきたいと存じます。
 さらに、初期のバクバクの子どもたちの在宅移行に対して杉本先生が戒めのお言葉を寄せて下さったように説明されていましたが、学会等で何か発言されたのかもしれませんが、杉本先生から、直接、バクバクの会に対して、そうしたご意見をいただいたことはなかったかと思います。
 また、教育の場での医療的ケアへの対応に関しても、先進的な方々が声を上げ始められた頃、その主張の内容は、残念なことに、医療的ケアへの対応が謳われながら、養護学校しか対象に考えられていませんでしたし、医療的ケアの中でも「呼吸器だけは別」とされているものがほとんどでした。バクバクの会は、人工呼吸器をつけた子どもたちが増えている中でそのように線引きすることは差別だと考えていましたし、実際に地域の学校での取り組みを通して、子どもは子どもの中で育つこと、医療的ケアも含めた支援を行うことで教師と子どもとの信頼関係がより深まることなどを確信していましたから、集会や会報などで、それらの線引きはおかしいという意見表明はしていました。ただ、当時、同じ場で討論されていたわけではなく、残念ながら、医療や教育の専門家の方々には、バクバクの主張など、相手にもしてもらえない状況がありました。
 このような事情から、バクバクの会が、特に杉本先生と「喧嘩状態」だったとか、「和解した」とかという認識はなかったということをご説明申し上げたいと思います。
 ほかにも、杉本先生とバクバクの会との具体的なやりとり(会話)が紹介されていましたが、これらは先生が個人的に扱われた事例なのでしょうか。少なくとも、バクバクの会としては、これまで一貫して、親の視点ではなく子どもの視点で考えようということ、いのちと思いを大切にということを主張してきましたし、安易な在宅移行に対しては警鐘を鳴らし続けてきたということをご理解いただきたいと思います。
 バクバクの会は、今年で創立20周年になりますが、この度、これまでの歩みとこれからの取り組みについて「20周年活動方針前文」(注1)としてまとめておりますので、みなさまには、一度、ご覧いただければと思います。
 いのちの問題についても、医療的ケアの問題についても、今が正念場だと思っております。「20周年活動方針前文」の締めくくりにも記しておりますが、子どもたちを取り巻く状況は、現在大変厳しいと言わざるを得ませんが、これを問題提起のチャンスと捉え、これからも、立岩先生、杉本先生をはじめ、たくさんのみなさまとつながりながら、どんな障害があっても地域での当たり前のくらしが送れるような社会をめざして、ともに闘っていきたいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


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【注1】
人工呼吸器をつけた子の親の会<バクバクの会> 2010年度20周年活動方針前文

◆子どもたちの"命と思い"に寄り添って(バクバクの歩み)
 「人工呼吸器をつけた子が外出・外泊できる!当初は思いもよらなかった事でした。」
 これは、1989 年、『バクバク』創刊号(1989 年5月21 日)の冒頭で、当時、3才で淀川キリスト教病院に長期入院中だった平本歩さんのお父さん(バクバクの会初代会長・弘冨美さん)が記した一行です。
 当時、人工呼吸器と言えば、病院据え置き型のもので、人工呼吸器が欠かせない子どもたちは、病院で天井を見ながら一生を終えるしかないと考えられていました。そのような中、子どもたちの生活を少しでも豊かにするために子どもたちを戸外へ、家族のもとへ連れ出すことはできないかと考えた医師たちの提案がきっかけとなり、子どもたちのくらしを広げる試みが始まりました。
 その後、ポータブルの人工呼吸器の開発とともに、少しでも子どもらしい生活をさせてあげたいという一致した思いの下、医療スタッフと家族がともに努力や創意工夫を重ねた結果、やがて、子どもたちは、家族と一緒に病院からの外出や外泊ができるようになりました。
 これらの取り組みを通して、親として学んだこと、多くの課題や、悩みを共有し、「全国の同じような境遇にいる親にとっての励ましと、人工呼吸器をつけた子どもたちが生きていく上でのより良い環境づくりの一助になれば」と、1989 年、 「バクバクの会」は小さな院内グループとしてスタートしたのです。とはいえ、当時は、「ひとりの子ども」として当たり前に、家族揃って家で暮らすとか、保育園や学校へ通うことまでは、思いもよらないことでした。全国的にみると、養護学校のベッドサイド授業でさえ、拒否されることのあった時代でした。
 けれども、外出・外泊の取り組みを通して、親が子ども自身と向き合い、子どもと共に社会の壁や差別にさらされる中で、子どもを「患児」ととらえ彼らの人生を「病院の枠」の中だけで考えるのではなく、「ひとりの子ども・ひとりの人間」として当たり前に「地域で生きること」を考えていかなければならないのではないかという思いが生まれました。しかし、人工呼吸器の在宅使用が健康保険で認められていない、在宅支援制度もない、バクバクっ子が使えるような車椅子も補装具の想定外、何より社会に人工呼吸器をつけた子どもが地域で暮らすという発想さえない、ないない尽くしの状況でした。それでも、日々精一杯生き抜き、成長する子どもたちが、親たちを突き動かしました。
 バクバクの会で最初に在宅生活への移行を踏み切った平本歩さんのケースでは、「おうちに帰りたい」という歩さんの思いをかなえるために、両親は非常な努力と創意工夫を重ねました。大型ごみの日に自転車の車輪を拾って来て手作りでストレッチャーを作るところから始まり、700 万円以上という人工呼吸器などの必要な機器や物品の購入費用を捻出するために、自宅マンションを売り払いました。両親は共働きでしたが、介護内容に力仕事が多いことを考慮して、お父さんが介護に専念するために退職をしました。夜中は、両親2交代でケアに当たることで、事故や急変に備えました。それだけでは介護体制が不十分で、安全で、子どもらしい生活は保障できないと考えた両親は、ホームドクターを引き受けてくれる診療所を探しました。また、知人・友人、地域の人たちに協力を呼びかけ、「人工呼吸器をつけた子の在宅を支える会」が結成されました。地域で同世代の子ども同士で育ちあえる環境を求めて、歩さんを受け入れてくれる保育園探しにも奔走しました。
 子どもの命と思いを支えようと、病院とも十分に連携をとりながら経験を積み、これだけの準備を重ねての取り組みであったにもかかわらず、小児医療の学会で発表されると「無謀だ」と叩かれたといいます。けれども、報道で歩さんの在宅を知った全国各地の人工呼吸器をつけた子どもの親たちからの問い合わせが相次ぎました。これをきっかけに、子どもたちのよりよい環境づくりを求めて社会に働きかけていこうと、「バクバクの会」は全国組織となります。
 それと相前後して「在宅人工換気療法」が健康保険で認められ、各地で、人工呼吸器をつけた子どもたちの在宅移行の事例報告が少しずつ増えてきます。歩さんと、次に在宅へ移行した吉岡しほりさんは、地域での保育園生活を経て、当たり前の思いとして、地域の小学校への入学を希望します。両親は教育委員会や学校との話し合いを重ね、ふたりは地域の小学校へと入学します。ふたりの喜びとは裏腹に、報道で全国に紹介された後の風当たりは強く、週刊誌では「美談と偽善の境目」などと叩かれ、無言電話をはじめとする嫌がらせが繰り返されました。統合教育に批判的な教育の研究会でも、これまでの道のりも知らない、ふたりに会ったこともない"専門家"が、医師の立場から"親のエゴ"だと、ふたりの事例を徹底的に批判していました。それでも現場では、親、教育委員会、学校が話し合いを重ねながら、ともに学ぶ取り組みが続けられ、全国各地で、地域の保育園や幼稚園、小学校へと進むバクバクっ子たちが続いていきました。養護学校のベッドサイド授業さえ断られていた地域でも、親たちは、子どものために、ベッドサイド授業や通学を勝ち取って行きました。学校のほかにも、公共交通機関を利用したり、旅行をしたり、スキー、海水浴、プール、登山に挑戦するなど、子どもたちのくらしは広がっていきました。
 一方、この頃から、胎内診断の問題や重度障害の赤ちゃんの積極的治療見送りの問題が明らかにされるようになり、バクバクの会の"いのちの問題"への取り組みも始まりました。また、人工呼吸器をつけての在宅移行事例の急増に伴い、十分な退院指導をしない、家庭の状況も本人の状態も考慮に入れない、地域への橋渡しをしないままの、病院都合による"安易な在宅"移行の事例も目立つようになり、バクバクの会は、警鐘を鳴らし、問題提起するようになりました。さらに、在宅医療が進んできたかのようにみえても、人工呼吸器をつけている場合は、サービスの利用を断られるなど、家族だけがぎりぎりの状態で介護を続ける状況は変わりませんでした。教育の面でも、養護学校などでは、熱心な先生や医療関係者によって"医療的ケア"を必要とする子どもたちの教育についての取り組みが報告されるようになっていましたが、あくまで"人工呼吸器をつけた子ども"は除外されており、養護学校、地域の学校に限らず、親の付き添い問題は続いていました。それでも、親たちは、どんな重度の障害があろうと外から与えられた枠の中に人生を押し込められるべきではなく、子どもの視点にたったくらしを選びながら生きていけるような社会を目指して、幾重にも立ちはだかる壁に立ち向かい、子どもたちとともに道を切り拓いて、ひとびとに情報を発信してきました。

◆20年の節目に(新しいスタートとして)
 20 年を経て、在宅医療の現場で、人工呼吸器使用者は、もはや珍しい存在ではなくなっています。在宅で暮らす人工呼吸器をつけた子どもの数は、1,000 人以上とも2,000 人以上とも言われています。20 年前のように、わざわざ行政や地域の人たちへ働きかけなくても、それなりに落ち着いた生活を送ることができるようになりました。訪問看護やヘルパー制度も使えるようになりました。特別支援学校には、医療的ケアに対応するための看護師が配置されるようになりました。地域の小・中学校にも看護師を配置する例も出てきています。いろいろな人に聞いて回らなくても、インターネットで簡単に情報が得られるようにもなりました。このように、家族の立場からすれば、バクバクっ子を取り巻く環境は、飛躍的に向上したかのように思えます。しかし、バクバクっ子たちの視点に立つとき、果たして、今の状況は、彼らにとって、夢をあきらめずに自分らしく安心して生きていける状況と言えるのでしょうか。
 いくら介護支援制度が充実してきたとはいえ、依然、家族介護が前提となっており、子どもや重度障害者の場合は、当たり前にヘルパー制度を利用することができません。医療的ケアや人工呼吸器が必要となればなおさらです。訪問看護にも地域格差があり、利用したいときに利用できなかったり、親の立会いが条件にされたり、何より、居宅内の限られた時間しか利用できません。結局のところ、親が昼夜関係なくほとんどのケアを担わなければならない状況は変わっておらず、親の疲労困憊は安全性の低下に直結し、親が介護できない状況に陥っても、受け入れ先はありません。綱渡り状態の支援体制であることに変わりないのです。さらに、これらの状況は、子どもたちの生活が常に家族の都合や介護力で左右されてしまうこと、自立の機会を奪われることを意味します。小児医療現場の危機的状況は、ベッドの回転率を上げるために、安易な在宅移行をさらに増やし、医療費抑制のかけ声のもとに、在宅療養にあたって、本来なら支給されるべき医療材料、衛生材料を自費購入させられるようになって、経済的にも大きな圧力がかかっています。教育の面でも、地域の保育園や学校に行きたくても、厳しい闘いが必要である状況は変わらず、特別支援学校でさえ、通学や行事に親の付き添いや送迎を求められたり、本人の希望が無視され訪問教育を強要されたりする状況があります。私たちは、このような状況を "しかたない"状況だと子どもたちに説明するので しょうか。私たち自身が、親として、サポーターとして、一歩踏み出すことで生じるかもしれない社会との摩擦をおそれ、重度障害のある我が子を危険にさらし、自立や社会参加の可能性を奪ってはいないかということを、自分たちに問いかけてみる必要があります。
 さらに、忘れてはならないことが、"生きる権利"の問題です。私たちは、どんな命も大切にされる社会を目指そうと訴えてきました。けれども、社会の流れは、臓器移植法の改定や呼吸器外しを法的に認めようという動きをはじめとして、確実に、生きる価値のある命と生きる価値のない命を線引きしていく方向に進んでいます。子どもの最善の利益を看板に掲げる「看取りの医療」や「選択的医療(選択的治療停止)」にも、優生思想や効率主義の意図が透けて見えます。欧米の例を見れば、命の線引きの基準がどんどん緩められ、重度障害者の命の切り捨てが拡大しています。もはや、ただ、息をひそめて嵐の通り過ぎるのを待っているだけでは、子どもたちの命を守れない時代に突入したと言って過言ではないでしょう。これまで以上にわたしたちひとりひとりがつながって、生きる価値のない命など決してないこと、子どもの命は子ども自身のものであり、精一杯生き抜く命を支えるために知恵を振り絞ることこそが大人の、社会の役割であることを、粘り強く社会に向けて発信していかなければなりません。
 このように、20 年の節目を迎えてもなお、本当の意味ではバクバクっ子たちが地域で当たり前に暮らせる状況になっていないどころか、社会的に命を脅かされる状況に追い込まれていることが分かります。これは、非常に危機的な状況といえます、しかし、危機的な状況は、ある意味、問題提起のチャンスともいえます。
 現在、国連・障害者権利条約批准に向けて、内閣府・障がい者制度改革推進本部において、障害者に関する制度の抜本的な見直しが行われています。国連・障害者権利条約が制定される過程で「私たち抜きに私たちのことを決めないで(Nothing about us without us)」という合言葉が繰り返されました。これは、障害者が、社会から何もできない存在、誰かにコントロールされなければならない存在として扱われ続け、自分自身の人生であるにもかかわらず、自ら選び、自ら決める機会を奪われてきたことに対するアンチテーゼでした。現在、内閣府・障がい者制度改革推進本部でも、このスローガンの下に、多くの障害当事者委員が参加し、全国の当事者の声を反映させながら、新しい制度の創設に向けて動き始めています。私たちも、日々のバクバクっ子とのくらしを大事にするとともに、今一度、バクバクの原点に立ち返って、"ひとりの人間・ひとりの子ども"として、バクバクっ子の"命と思い"を大切にしているかと、自らに問いかけながら、真の意味で、バクバクっ子たちが、安心して、自分らしく生きていけるような社会を目指して、新しいスタートを切りましょう。それが、全てのひとびとのいのちの未来と時代を切り開く確かな道筋だからです。


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【注2】
 バクバクの会に"前身組織"というものはございません。「20 周年活動方針前文」(注1参照)にもありますように、バクバクの会は、1989年5月に当時淀川キリスト病院に入院中の子どもの家族による院内自主グループとして発足しました。全国組織となったのは、1年後の1990年5月です。また、バクバクの会で、初めて、24時間人工呼吸器を必要とする子どもが在宅へ移行したのは、1990年4月に退院した平本歩さんの事例です。


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【注3】
対談「『医療的ケア』が繋ぐもの」バクバクついて言及がある部分

p64・3段目・後ろから2行〜
○杉本 僕らがやっていく中で見えていたのは、親が学校についていって、ずっと控えていてまた連れて帰るという中で、母親が犠牲になっていくという現実を見据えながら、パーソナル・ヘルプの1対1の関係があったということです。それを周りの支援者がやり出したのは、「人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)」です。バクバクの主張は人工呼吸器が動かせるようになって、少しコンパクトになってきたあたりから現実味を帯びてきましたが、最初のフロンティアの人たちはほんの一握りの大阪近辺の人たちでした。それはそれでありましたが、僕らには見えてなかったし、その時点でそれは凄い冒険でした。

P66・1段目・9行目〜
○杉本 そうですね。ただ今でも見えないのですね。ALSの人たちとか、その他一部の難病の人たちまで含めて、僕たちに見えるのはせいぜいバクバクの人たちまでです。お母さんたちも、小児科医もそうですが、ALSの世界を知らないんです。筋ジスに関しても筋ジス病棟に入った後のことは知らないんです。神経内科にバトンタッチしてしまうから。

P72・2段目・うしろから6行目
親・医師の思い
○立岩 話は飛びますが、先ほどバクバクの話をなさっていましたね。僕も名前は前から知っていて、この間の子ども系の流れの中では、確かにあの人たちは、全体の中では数は少ないのでしょうが、目立つところがあります。社会の方に向かって何か言うということもしている。私は面白いと思っていて、機関誌を読ませていただいたり、幾人かの方とは集会等で少し話をしたり。この夏には講演などさせていただくことになったり、わずかに知っていることはあるのですが。杉本さんはどう見られていましたか。

○杉本 僕はかつてその運動を否定していました。それは彼/彼女らが僕を敵視していたのと同じです。80年代、バクバクやその前身の組織も含めて、彼/彼女らは子どもにレスピレーターをつけて連れて帰ると言いましたよ。当時レスピレーターはとても巨大だった。みんな死んでいきましたよ。だから僕は言ったんです、「あなた方は『地域へ』『地域へ』と綺麗なことを言うけれど、機械をいじくってこの子を本当に生かしきれるのか」と。病院まで救急車で走っても1時間以上かかるところへ帰ると言うのですから。「それなら病院の横のアパートへ引っ越してこい」と言いました。その辺からバクバクとは喧嘩状態で、どこにも呼んでくれない(笑)。和解したのはそれこそ数年前です。僕らが医療的ケアのNPOをやり出して、話をし出してからです。びわこ学園の中にもバクバクの人がいて、話をしていくうちに滋賀県のほうから「今は杉本の話と変わらないよ」ということで大阪での総会のシンポに呼んでくれたのが3年前でしたか。
○立岩 バクバク系の人たちはとにかく子どもを家に戻したいという思いが強烈にあり、こっちはこっちで医者の見立てとして非常にリスクが大きすぎるし死んでしまうと。だから悪いけど戻すわけにはいかない、いや戻す、というところでぶつかっていたということですね。
○杉本 80年代から90年代にかけてはそうでしたね。本当にその子の目線で地域につれて帰ろうということを考えて、先ほどのALSの人たちのように、ボランティアを集めて、子どもを大きくしていこうというわけですよね。ところが、1人減り、2人減る。子どものレスピレーターは動かし方の問題もあるし重い人にやることが多いから、トラブルが凄く多い。トレーニングをして教えて何回も練習して、というのが今はあるかもしれないけれど、「すぐにでもレスピレーターをつけて帰ります」なんていう話で、「それはないやろ」、「死ぬで」、「それやったらまだ病院にいたほうがええんちゃうん」、「病院のそばに引っ越すなりなんなりしたほうがええやん」、「もっとサポートの形を考えたうえで帰るなら帰ると言ったらどうや」、「それは親のエゴやで」とまで言い切って話をしたんです。
○立岩 そこで当然ぶつかる。
○杉本 クソっと言う感じがあったみたい。
○立岩 どっちの思いももっともで、これで殺すわけにもいかんというのもあれば、帰らせたいというのもある。もっともだけど、対立していた時期があり、それが数年前から寄れる人はよってNPOみたいな形でやっている。その経過と変化は何だったのでしょう。
○杉本 わからないけど、1つあるのは在宅医療の進歩でしょう。機械がコンパクトになって簡単に使えるようになったし、栄養剤を含めて理屈がとても通りやすくなったし、ぞんざいにしなくなった。シェアが広がったのが大きいでしょう。レスピレーターも24時間態勢で技術者がバックアップするし、設備も整えてくれるし、もう何もかもが変わってきて、支援事業費が安いながらも一定動き出した。90年代以降、そして2000年以降、在宅医療は数段快適になった。
余分な話かもしれませんが、子どもにとっての胃ろうの歴史は結構新しいんです。腹に穴を開けて栄養を入れるなんていうことはとてもできないというのが本人の思いとは別に親の思いとしてある。どうしても食べさせたいというところに最後まで固執するんです。それに穴を開けていく、それも快適な穴を開けていくということをやり出したのが大阪近辺、阪大グループで、それが広がった。それがちょうど2003、4年頃からです。そのときにちょうど文科省の医療的ケアの三項目にGOサインが出た。それに経管栄養が入っていました。経管栄養には出す直前まで胃ろうは入っていなかったんです。それはおかしいということで、当時小児神経学会の社会活動委員会を中心として300例くらいをまとめてインターネットで集めて、トラブルが起こらないということのデータを文科省に担当官に見せたんです。(1例だけ胃がパンクした事例がありましたが)。そうしたら出てきたときに「胃ろうも含む」と入ったんです。そんな歴史的な経緯がありました。ALSのときは経管栄養が入っていなかったんですね。そのときは呼吸の管理にしか頭になくて、経管栄養は交渉の外に置かれていたのでしょうね。そこからなかなか入らない。でも一方では当たり前のように胃ろうまで入っている。胃ろうもここ5、6年来の進歩です。その後に喉頭気管分離術(気管切開上部の気管を手術で閉鎖し、気管内への誤嚥をなくす)がここ4、5年来で脚光を浴びたというか、声は失うけれど楽でよいということになってきて、また死ななくなった。それによって親がまともに寝られるようになったし、夜中の吸引がなくなった。
○立岩 ということは、先ほどの話に戻すと、戻したいという親が一方におり、戻ったら生命的に危ないと言う医師がおり、その間に対立があったけれど、いわゆる在宅医療の進歩によって、在宅でも死なないというか、そこそこ快適にやっていける部分が増えてきた。そのことによって医師サイドもどうしても帰せないと言わざるを得ない状況が減ってきた。そこで一定の歩み寄りというか、一緒にやれる部分は一緒にやる。
○杉本 僕とバクバクの話の流れではそうです。とにかくやりようによっては機械のコンパクトさと操作性のよさと安全性を確保できるような状況ができたのが大きい。今でも討論しているのですが、びわこ学園に入園してまだ帰せない都市部の人がいます。それはもう極めて重症で無呼吸の遷延性意識障害状態なのですが、親はとにかく連れて帰ると。でも連れて帰るといっても周りのサポート態勢がほとんどないのです。そしていまだに綱引き状態にある。そこはかなり進んでいる地域なのですが、家に兄弟もいることだし、福祉が入っても家族だけでやっていけるだろうか、そこへその子を帰すというのは命を短くするのではないか、それがわかった状態ではちょっと自宅へ帰せないのではないか、こういう討論がまだ続いています。喉頭気管分離をやりましたから吸引が凄く減りましたし、気管内出血も減りましたが、そこまで行ってもまだしんどいなというのがある。
 とにかく僕は施設をもっと開放してうまく使っていこうと呼び掛けています。「施設は要らない、解体しよう」ではありません。それをうまく使って家やケアホームとも行き来できるようなシステムを作ろうと、ずっと呼び掛けているのです。入ったら死ぬまでそのままという形ではなくて。「在宅なら在宅だけでもしんどい部分もあるよね」ということとか、ショートステイの問題もあわせてあるので、そういう発言と医療的ケアのところでバクバクのほうは僕のことを認知しようという思いはあったのでしょうね。


UP:20101001 REV:20170212
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