レジュメ「『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』第3章」
櫻井 悟史 20100828 第15回歴史社会学研究会
last update:20101215
■文献情報:石原俊, 2007, 『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』平凡社.
□第3章 移動民の島々の生成と発展(105-136)
●1 無人島から寄港地へ
◆本章の目的:小笠原諸島が寄港地として発展していく過程で、この島々に集まってきた人びとがどのような社会的・経済的実践を展開していったのかを検討する。
◆本章についての先行研究:小笠原諸島における社会的・経済的状況を正面から論じた研究は、大熊良一やダニエル・ロングを除いてほぼ皆無。
◆本章で使用する資料
(1)1876年3月日本アジア協会の総会で行なわれたラッセル・ロバートソンの講演録『小笠原諸島』
(2)イギリス帝国国教会系の海外福音宣教協会(SPG)から日本聖公会に派遣された宣教師ライオネル・チャムリーの『小笠原諸島の歴史――一八二七-一八七六年、そしてナサニエル・セーヴォリー』
(3)1888年にSPGから日本聖公会南東京地方部に派遣された宣教師A・F・キングの記事
(4)1820-60年代に小笠原諸島に寄港した欧米諸帝国の軍艦・商船・捕鯨船などの乗組員が書き残した、航海日誌や報告書
(5)1870年代以降、日本帝国による占領が進展する過程で明治政府の官吏たちが編んだ、小笠原諸島に関する記録集
●2 ボーダーレスな移動民
◆入植者たちの記録からわかること
(1)小笠原諸島の移住者たちが、生存に必要な食品の大部分を鳥とその周辺の海で獲得できていたこと。
(2)移住者たちにとって交易は重要な成形集団のひとつであったが、かれらは基本的食品の自給を達成できていたため、貨幣を媒介とする社会関係には部分的にしか組み込まれていなかったこと。
◆1870年代以前の移住者たちは必ずしも入植目的で移住したわけではない
(1)寄港する船舶の労働過程から離脱した人びと
(2)島に偶然漂着した人びと
(3)掠奪者
●3 ローカルな力の諸相
◆ローカル法
(1)ウミガメ漁に関する「不文の規約」(〜1842or43年頃)
小笠原諸島の人びと全員が使用するだけの油がウミガメから得られなくなる→交易に依存することに→貨幣を媒介とする社会関係へより強く組み込まれる事態に→資源管理のための法
(2)1836年、初の成文法
目的:寄留者や移住者を島に受け入れる一方で、寄留者の衣食住が従来からの移住者の経済活動を圧迫したり、寄留者が共謀して移住者に暴行や掠奪をはたらいたりしないよう、船舶から多人数がいちどに逃亡する機会を与えないことになったと思われる。
◆階級関係
(1)漂流者、逃亡者→島の内部で再びローカルな階級関係の下に組み込まれ、厳しい労働条件に置かれ続ける場合も。
(2)「女」→補助的な労働力、または男性入植者、島に上陸する船乗り等に供される性的身体
◆法と階級についてのまとめ
小笠原諸島におけるローカルな法は、島を拠点とする経済活動が市場の力に対して相対的な自律性を維持するために、一定の役割を果たしていた。同時にこの法は、この島々に寄港する船舶の中の法や階級関係と同様、島の内部において世界市場の力に連動した階級的支配を維持する役割も担っていた。
◆ローカルな法、階級関係、主権的な力
・1827年、ビーチーが小笠原諸島をイギリス領地にすることを宣言
・1830年、イギリス帝国領事チャールトンの援助で入植
チャールトン、法については無関心→マッツァーロ、セーヴォリーを頂点とする法はイギリスの主権的な力には取り込まれず。
日本との関係より中国との関係において小笠原諸島注目
・1842年、イギリス帝国領事アレクサンダー・シンプソンにマッツァーロ接触
→「入植者に対してマッツァーロを小笠原諸島の長headとして受け入れるよう推薦する」という覚書発行。
→小笠原諸島の長、暫定的な地位→イギリス、小笠原諸島を主権的な法の下に組み込もうとはしなかった。
●4 暴力をめぐる状況
・「女」のリクルート
・性的身体をめぐって生じる殺人(未遂)
・船乗りたちによる「女」の掠奪・逃亡
●5「ビーチコーマー」と「カナカ」の島々(3章まとめ)
小笠原諸島に集まってきた移動民は、生計を立てるために、世界市場の前線でしばしば継続的本源的蓄積過程に身を置かざるを得ない人びとであった。他方でかれらは、過酷な労働環境から逃れたり、よりよい労働条件を求めたりする過程で、世界市場の前線からも離脱して生きようとする人びとでもあった。「ビーチコーマー」や「カナカ」と呼ばれたかれらが、流動的でボーダーレスな存在であったのも、自律的な存在であったのも、海と島々における日々の試行錯誤の中で編み出されてきた力によるものなのである。
*作成:櫻井 悟史